史料に拠れば、元々は甲斐駒ケ岳の東麓・大坊(現在の北杜市白州町大坊(
地図)にあった
法相宗 (wiki) の永禅寺が後に真言宗に改宗して山寺村(現在の櫛形町)に移転、
建久年間(1190〜99)に至って
加賀美遠光 が加賀美郷に再興し、武田の郷の
武田八幡宮(別窓)の別当寺とした、と伝わる。遠光の父
清光が甲斐全域に勢力を拡大
した時の本拠が逸見荘(釜無川を隔てた対岸が大坊)だから、永禅寺の再興にも何がしかの接点があったと考えられる。
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晩年の遠光は深く仏に帰依したらしく、約2km北東には遠光が祈願所と定めた長遠寺(
地図)など、所縁の寺院も多い。時間があれば歩き回ってみるのも趣がありそうだ。
かなり膨大なレポートが必要になる、けれども。
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法善寺の寺伝に拠れば、承元ニ年(1208)に遠光の嫡孫・遠経(遠光の嫡子となった四男光経の息子)が遠光の館跡に永禅寺を移して再興したと伝わるが、遠光の生涯は
康治二年(1143)〜寛喜二年(1230)、建保二年(1214)には
遠光寺(別窓)を建立しているから、その6年も前に「館跡に寺を移した」とは納得しかねる。
ただし史料では承久三年(1221)に高野山から覚応和尚を招いて法善寺を中興しているので、何らかの理由があったのだろう。
帝釈天に仕える四天王であり、増長天は東・持国天は南で仏法を守護する。他に西を護る広目天・北を護る多門天(毘沙門天)がある。
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仁王門の両袖には金剛力士、ニ天門には四天王を配するのが原則的な差異らしいが宗派の差もあるらしい。とりあえず鎧姿が二天門で、
半裸形の阿吽像が仁王門と考える事にした。持国天と広目天を祀り裏側に風神・雷神を配する
日光輪王寺のニ天門 (wiki 画像) が知られている。