筑波山南麓 三村山清冷院極楽廃寺 

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鳥瞰図
右:三村山清冷院 極楽廃寺周辺の鳥瞰図  画像をクリック→拡大表示
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建保五年(1217)に大和国(奈良県)で生まれた 忍性 は幼くして仏門に入り、16歳の天福元年(1233)には 東大寺 の戒壇院で受戒。
後に真言律宗総本山の 西大寺(共に公式サイト)再建に尽力していた 叡尊 (wiki) に私淑して弟子となり、西大寺に入って叡尊が率いていた律宗の布教と貧民救済運動に従事した。
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建長四年(1252)、35歳の忍性は東国に布教するためまず常陸に下り、鎌倉幕府の御家人 八田知家(宇都宮氏二代当主 宗綱の四男)の庇護を受けた。知家所領の常陸国小田郷に三村寺を建てて布教の拠点とし、常陸国内陸部の水運を利用して布教を続けた。弘長元年(1261)に北條氏の帰依を受けて鎌倉に入るまでの9年間をこの地で過ごし、壮大な堂塔群を整備した、と伝わっている。
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小田氏の祖 八田知家が常陸守護に任じた文治元年(1185)に構えた小田城の北東、筑波山系の東南端にある宝筐山(別名を小田山、461m)の山裾(地図)である。JR常磐線土浦駅と水戸線下館駅のちょうど中間にあり公共交通の便が悪いため、車を利用しないと行動がかなり制約を受ける。
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室町時代を過ぎて戦国時代に至ると小田氏の没落と共に三村山極楽寺も衰退して廃寺となった。地蔵菩薩像や巨大な五輪塔が辛うじて往時の堂塔群を思わせるのみだが、山頂に残る宝篋印塔(片道2時間ほどのハイキングが必要)や、小田城址周辺に見られる石造物の残欠を見学することはできる。
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廃寺跡に続く小道を歩きながら、布教と貧民救済に生涯を捧げた忍性と、彼に従って土木・建設・医療などに従事した専門家集団の生き様に思いを馳せて一日を過ごし、現世の垢を少し落としてみるのも面白い。極楽寺坂の合戦(別窓)に載せた忍性の事跡や 箱根精進池の石仏群(別窓)も参照されたし。


     

              上: 山裾に沿った細道を歩いて極楽廃寺跡を目指す。宝筐山はハイキングコースとしても人気があり、駐車場や休憩所なども良く整備されている。
強いて言えばトイレには少々難があるから、出発点の休憩施設を利用してから歩き始めよう。


     

              左: 農道は里山に沿って左にカーブし、スタート直後に分岐した「通行ご遠慮...」の立札があった道と合流、その角に地蔵菩薩の仏龕がある。
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              中: 駐車場から廃寺跡に続く参道は山を挟んだ両側に二本あり、左側には「通行をご遠慮云々」の立て札があるため敬遠して右側の小道を進んだ。
山を迂回した地点で左から来た小道と合流、その角に地蔵菩薩像がある。高さ約220cm×70cm角の花崗岩に像高約160cmの地蔵菩薩が
浮き彫りされ、その背面がそのまま石囲いの奥壁(仏龕)になっている。左右の壁は厚さ16cm×奥行60cmの花崗岩で、蓋石の上には露盤と
相輪を載せている。相輪の一部が欠損している他は全て、創建当時のままらしい。(画像をクリック→全身の拡大)
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奥壁の右側に「右為法界衆生平等利益也 檀那左衛門尉」、左側に「正応二年(1289)十一月造立 勧進佛子阿浄」の銘文がある。左衛門尉は
小田氏四代棟梁時知または五代棟梁宗知(藤原道兼―兼隆―兼房―八田宗円―八田宗綱―八田知家(宇都宮朝綱の弟)―八田(小田)知重
―小田泰知―時知―宗知 と続く)、佛子阿浄の名が「西大寺有恩過去帳」に載っていることから、忍性に従って東国布教に任じた律宗の僧らしい。
忍性が鎌倉に入った弘長元年(1261)から既に28年が過ぎており、阿浄は常陸国における律宗の中核を担った人物なのだろうか。
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              右: 地蔵堂の近くから宝筐山頂上の電波塔が見える(左上隅)。傾斜の緩い5km弱の行程だから時間があれば山頂の宝篋印塔を目指しても良い。


     

              左&中: 地蔵菩薩を過ぎると山裾に極楽廃寺の東屋が見えてくる。2010年頃には周辺の整備中で、現在では小さな歴史公園になっているだろう。
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              右: 東屋で休憩してから(ここに簡易トイレあり)更に左折して五輪塔のある平場を目指す。直進すると宝筐山頂へのハイキングコースとなる。


     

              左: 忍性がこの地に入った建長四年(1252)、八田知家は後の極楽寺の基礎となる堂宇を寄進した。画像の鐘楼跡にあった鐘は土浦市の 等覚寺
(参考サイト) に現存する。忍性は正嘉二年(1257)に全ての堂塔を建立して極楽寺の整備を終え、更なる布教を目指して鎌倉に向かう。
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              中: 廃寺跡の先を左に折れて小道を辿り、五輪塔のある奥の院跡の平場に向かう。
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              右: 極楽寺敷地の200mほど奥側に残る巨大な五輪塔。刻印がなく素性も不明だが地蔵菩薩と同じ時代、鎌倉時代後期(1280年頃か)の作と推定
されている。花崗岩製で本体の高さは276.5cmだが基台部分を含めると320.5cmになり、鎌倉極楽寺に残る忍性五輪塔(同、357cm)や
奈良西大寺奥院の叡尊五輪塔(同、335cm)と近い。忍性に従って東国に下った西大寺系石工の作だろう。

この頁は2022年 9月 11日に更新しました。