牛若丸は元服して名を
義経 と改め、烏帽子の礼として刀を与えた。五郎太夫は見事な刀を受け取って喜ぶが、その刀を見た五郎太夫の妻は驚いて涙を流す。彼女は牛若丸の父義朝と共に野間で死んだ鎌田正清の妹で、五郎太夫が受け取ったのは牛若丸が産まれた時に主人の使いで母の常盤に届けた守り刀であった。
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夫婦は急いで白木屋に駆けつけて刀を返し、主従の名乗りを交わした。長く続いていた五郎太夫の家系も既に廃絶して民家の裏に荒地が残っているのみ、でも烏帽子一つを誂えるのに父から伝わった守り刀を与える話は合理的じゃない。
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吾妻鏡の建久五年(1194)10月25日には
「頼朝 が 鎌田正清 の子供を探すように命じ、男子はいなかったが娘を探し出して尾張国の志濃幾庄と丹波国の田名部庄の地頭職を与えて旧恩に報いた」と書かれている。
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牛若丸は烏帽子親もなしに「鏡の池」の湧き水で自ら前髪を落とし九郎義経を名乗った。「曽祖父の
義家 は八幡大菩薩、その弟
義光 は新羅大明神の神前で元服した。自分は太刀を鞍馬の毘沙門天、小刀を八幡大菩薩と思って烏帽子親にしよう。」と考え、鏡神社に参詣して武運長久を祈った。
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※金売り吉次: 当時は奥州で産出した金や特産物を都に運んで取り引きした商人が実在しており、吉次がその類の人物だった可能性はある。平泉の北に隣接する奥州市の
衣川沿いにある「吉次屋敷」と呼ばれていた史跡は、近年になって
長者ヶ原廃寺跡(
地図)と確認されたため、吉次の存在とは無関係と確認された。
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強盗に殺され白河の関近くの墓(
地図)に葬られたなど、裏付け史料のない伝承が多い。栃木県壬生町の
道の駅みぶ から約2km西のセブン・イレブン横の畑にあった
吉次の墓 には
「義経に従って奥州街道を平泉へ逃れる途中で没した」と書いてあった (
地図) 。
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※深栖光重: 摂津源氏
頼光 流。堀頼重は源仲政(
頼政 の父)の養子なので頼政とは義理の兄弟の関係になる。国司として東国に赴任
※する仲政に同行し下総(又は下野)に
得た所領に義経を招いて、奥州へ落ちる前の短期間だけ匿ったらしい。頼政の系累は養子が多い。
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※東国に赴任: 下総か下野か確認できないし、現地に行かない遙任(代官を派遣して管理を委ねる)だった可能性もある。父の頼綱と同じく著名な歌人であり、
長期間都を離れたとは考え難いが...。
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※元服の場所:「義経記」では奥州へ向う途中の尾張国で元服、としている。源氏の通字の「義」と経基王の「経」を取り入れた、と。
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※烏帽子: 八幡太郎義家の着用に倣って源氏は左折れ(源平盛衰記)とか、平家は右折れを使うとか、上皇だけが右折れでその他は左折れとか...。
いろいろ書いてあるけれど、実際には特に厳しい決め事はなかったようだ。