寿永二年(1183)4月、越中(富山県)を制圧した
木曾義仲 追討のため
平宗盛 は追討軍を組織する。
大将軍を
平維盛、次将
※を
平通盛 とした軍兵10万騎が北陸道へ進み、越前国燧城(現在の福井県南越前町今庄・
地図)の合戦で
国人(土着の武士団)が主体の反乱軍に勝利し越中国(富山県)に敗走させた。5月に入って維盛は主力の7万騎を率いて義仲軍と戦うべく越中へ、平通盛と平知度は3万騎を率いて能登の反乱軍鎮圧に進出した。
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※大将軍と次将: 大将軍は象徴としての指揮官、次将は軍事作戦の指揮官という任務分担。維盛は後の富士川合戦でも大将軍に
任じて戦う前に敗走している。才能がないんだね。
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※平家の兵力: 遠征途中で半強制的に徴用した者が大部分なので最初から戦闘意欲は高くない。
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維盛は寒原の険(現在の親不知・
地図)で義仲軍を迎撃する作戦を立て、地理に明るい平盛俊
※に 5,000の兵を与えて派遣した。
越後国府直江津に近い上越市国府一丁目(
地図 に比定)に布陣していた義仲は平家軍が加賀を制圧し越中へ進もうとしているのを知り5月9日に
今井兼平 率いる 6,000騎の先遣隊を送った。機動力の優れた今井兼平軍は平家軍を迎撃するために越中の御服山(西富山駅そばの呉羽山・
地図)まで進出した。
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※平盛俊: 平清盛 と
宗盛 に仕えた古参の侍大将。忠節と強力で知られたが、一ノ谷合戦で源氏方の猪俣範綱と組み合い、騙し討ち同然に討ち取られた。
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一方の平家軍は加賀から倶利伽羅峠(
地図)から越中を目指そうと計画、越中磐若野(富山県高岡市南部に着いた先陣の平盛俊は今井軍の進出を知り、取り敢えず「弓の清水」一帯 (
地図)で兵を休めた。それを確認した今井兼平軍は9日の早暁に奇襲をかけた。盛俊軍は善戦したが徐々に敗色が濃くなり、午後になって退却し倶利伽羅峠の本隊に合流した。
平家軍は兵力を二手に分けた。通盛と知度の率いる3万騎が能登国の反乱軍を鎮圧するため志雄山(現在の石川県羽咋市南部(
地図)に布陣、維盛と行盛と忠度の率いる主力7万騎が加賀と越中の国境である倶利伽羅峠の東500mの栃波山(
地図)に布陣した。
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越後国府から出撃していた義仲軍の主力は9日には六動寺(小矢部川河口、般若野の10km北・
地図)に入り、翌10日には盤若野を制圧した今井兼平隊に合流した。11日に義仲は
行家 と
楯親忠 に兵を与え志雄山に接近させて通盛・知度の動きを封じた。
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この日の義仲本隊は特に合戦を挑まず、砺波山近くまで進んで
樋口兼光 軍を平家軍の背後に廻り込ませた。
そして11日の夜更けに義仲軍主力は数隊に分かれて総攻撃を開始、砺波山から倶利伽羅峠に向う退路を樋口軍に塞がれ、挟み撃ちを受ける体勢になった平家軍は総崩れとなり、敵のいない南の地獄谷に殺到し転落して主力10万の大半を失った、と伝わる。
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6月1日、京に向って北陸道を退却した平家の残存部隊は態勢を立て直し、加賀篠原で義仲軍との決戦を試みたが惨敗した。ここでは
斎藤實盛 ・
伊東祐清 ・
俣野景久 ら東国の高名な武士も戦死している。篠原には實盛塚(
地図)や實盛の首洗い池(
地図)があり、池の畔には實盛の首を囲む義仲と
手塚光盛 と
樋口兼光 の銅像が建っている。
玉葉(
九條兼実の日記)には大将軍維盛と三人の侍大将(盛俊・景家・忠経)が作戦を主張し合い指揮系統が乱れた、と記録している。しかし...倶利伽羅峠から加賀篠原までは65km弱、重装備の軍勢でも数日の距離なのに、決戦まで20日間も要した理由は何だろう?
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實盛着用の兜・大袖・脛当などは義仲が實盛供養と戦勝祈願の願状を添えて
太多神社(公式サイト・兜の画像あり)に奉納した。
元禄二年(1689)7月15日、「奥の細道」の途上で太多神社を訪れた芭蕉は有名な一句を詠んでいる
「むざんやな 甲の下のきりぎりす」.
大将軍の平維盛は辛うじて京に逃げ帰ったが、既に平家には迫り来る義仲軍を阻む兵力も気力もなく、都で最後の決戦をと主張した知盛・重衝らの意見は容れられなかった。進軍ルートの延暦寺を説き伏せた義仲軍が京都に入る二日前の7月25日には平家一門が
安徳天皇 を擁して都から落ち延び、平家が同行させる予定だった
後白河法皇 はその直前(未明)に京を脱出して比叡山に逃げ込んだ。法皇を確保できず賊軍の汚名を受けたのは平家にとって痛恨のミスとなった。