千鶴丸の後生を願って、寶珠山最誓寺(旧・西成寺) 

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右:若き日の頼朝伝説が残る最誓寺・音無神社・日暮神社   画像をクリック→拡大表示
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山門のすぐ横に伊東家の墓石が並んでいる。葛見神社(別窓)近くの伊東祐親の墓(別窓)や東林寺(別窓)に残る河津三郎祐泰の墓に似た古式の五輪塔群で平安末期の様式だが、最誓寺は伊東家の菩提寺ではない。伊東一族の墓石は菩提寺(東光寺→ 東林寺)の廃寺に伴い二度の移転を余儀なくされている。
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平安時代末期からの菩提寺だった東光寺は江戸時代の伊東家移封 (日向、宮崎県へ) により最大の檀家を失って衰退し廃寺となった。この移封は伊東の管理権を失ったという事実を伴う。祐経末裔の日向伊東家は参勤交代のたびに東光寺に金品を贈り援助したと伝わっているが、それも途切れたのだろうか。この移封の経緯はいつか確認してみたい。
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更に東光寺から墓石や位牌を引き取った東林寺も神仏分離など明治初期の混乱の中で廃寺 (その後に再建) となり、同じ伊東一族に繋がる縁で最誓寺が主な墓石を引き取って散逸を防いだという。
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東林寺は祐親の嫡男河津三郎祐泰の菩提寺であり、最誓寺(当初の西成寺)は伊東祐親の娘で河津三郎の妹に当る 八重姫頼朝 との間に産まれた 千鶴丸 の菩提を弔って建立した寺である。二度の廃寺に伴って移動を余儀なくされた五輪塔は本来の姿を失い、専門家によれば組合せに年代的なバラつきが見られる、という。
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創建当初の最誓寺の宗派は真言宗、慶長元年(1595)に至って曹洞宗に改めている。東光廃寺の伝承地は最誓寺の東南500mという至近距離にあり、当時は一族の聖域として伊東家菩提寺の東光寺と河津三郎菩提寺の東林寺がごく近い距離に並立していたのだろう。


     

            左: 人家の密集した町中ではあるが境内は広く、本堂の左奥が墓地。本来は「西成寺」だが、宗派の変更とともに「最誓寺」に改称されている。
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            中: 伊東家本来の菩提寺・東光寺は廃寺となり墓石は東林寺へ。更に明治初期に東林寺も廃寺(後に復興)となり、最誓寺が引き取った。
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            右: 山門のすぐ左に伊東家累代の墓所が設けられている。墓石の形状はいずれも鎌倉時代初期までの建造と推測できる。


     

           左: 五輪塔の各部分の組み合わせには相当のバラつきが見られる、らしい。2度にわたって移転を余儀なくされた結果だろうか。
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           中: 残された墓石は約10組で、平安末期から江戸末期までの累代の墓所としては少なすぎる。残念ながら散逸してしまったと推測される。
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           右: 本来なら伊東を拓いた狩野祐隆・早世した嫡男祐家(祐親の父)・その弟で同じく早世した祐継(工藤祐経 の父)の墓石もあった筈だが...
東国では五輪塔も宝篋印塔も一般化していない時代、墓標にした自然石が移転と共に失われてしまった可能性もある。

この頁は2022年 7月15日に更新しました。