遠矢を受けて横死した河津三郎の血塚 

 
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河津三郎血塚 右:河津三郎血塚と、刺客が遠矢を放った椎の木三本    画像をクリック→拡大表示
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奥野の巻き狩りが終わった直後の安元二年(1176)10月、久須美荘南端の赤沢の谷を抜け河津に向う 伊東祐親 の一行を刺客が狙った。工藤祐経 の郎党で弓の名手 大見小藤太成家 と八幡三郎行氏は河津へ向かう街道を見下ろす「椎の木三本」から遠矢を射掛け、八幡三郎の放った矢が同行していた祐親の嫡男 河津三郎祐泰 の命を奪った。曽我物語に拠れば、三郎は刺客の姿を祐親に伝え 妻子の行く末を案じつつ息を引き取ったという。
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今では浮山の別荘地となった旧街道沿いには塚が築かれ、河津三郎血塚として今に至っている。刺客が遠矢を射た「椎の木三本」は直線距離で約90mほど上の斜面(高低差は40m弱程度)にあり、三本の椎の木も既に枯死している。すぐ前に道路が拓かれたため往時の面影は薄れてしまったが雰囲気を味わう事はできる(周辺の広域地図)。
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【曽我物語 河津が打たれし事】
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(二人の刺客は) 「狩場は警戒が厳しいから帰り道を狙おう」と決めて先回りし、奥野から通じる赤沢山の麓で八幡山との境にある難所に隠れた。椎の木三本を楯にして一の矢は大見小藤太・二の矢は八幡三郎と決め待ち構えた所へ最初に来たのは波多野右馬允義景、二番目は大庭三郎景親、三番目は海老名源八弘綱、四番目は土肥二郎實平、間を置いて流人兵衛佐殿(頼朝)が通り過ぎた。
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彼らは目指す敵ではないから遣り過ごし、その次に来たのは 伊東祐親 の嫡子 河津三郎 。(〜河津三郎の装束説明は省略〜)名馬に跨る馬の名手なので倒木や悪路を物ともせず大見小藤太の視界を横切った。二の矢を番えた八幡三郎は元より冷静な男なので 「天の与えを見逃したら咎めを受ける」 と考え、少し遣り過ごしてから矢を放った。矢は河津三郎の鞍の後ろを削り腰の近くを前まで射通した。

河津三郎血塚 左:歌川広重が描いた遠矢の場面 曽我物語図絵   画像をクリック→拡大表示
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河津も優れた武者、弓を取り直して矢を番え馬を返して周囲を確認したが深手のため次第に意識が薄れ真逆様に落馬した。後方の伊東祐親はこの様子を知らず、馬を早めて通るのを狙って大見小藤太が放った矢は祐親を外し少し前の木の根に突き立った。祐親も歴戦の強者、二の矢を避けて右の鐙に寄り掛かり馬を楯に 「山賊あり、先陣は引き返せ、後陣は進め」 と叫んだが難所のため思い通りに動けず、二人の敵は大見庄を目指して逃走した。
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祐親は河津三郎が倒れた場所に駆け寄り「傷はどうか」と声を掛けたが返事がない。抱き起こして矢を抜き 「自分が射られれば良かった、いかに定めとは言え一本の矢で物も言わず死ぬ奴があるか」 と三郎の頭を膝に抱えて嘆くと三郎は苦しい息の下で 「そう仰るのはどなたであろうか」 と言った。
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土肥實平は「そなたが枕にしているのは父祐親の膝よ、話し掛けているのも祐親殿で、私は土肥實平だ。敵が誰か判ったか。」三郎は目を開いて 「もう親を見ることもできない、名残惜しい」 と祐親の手を握った。祐親が 「情けない事を言うな、敵を見たのか」 と言うと 「意趣を持つのは工藤一郎、それに大見と八幡の姿が見えたのは祐経の策に違いない、父親が狙われているのが気に掛かる。面々にお願いする、幼い者のことも...」 と言い終らず奥野の露と消えたのは無惨である。
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祐親は余りの悲しさに顔を抱きしめて 「河津よ聞け、頼る者もいない祐親を捨てて何処へ行く、私も連れて行け。子供や母親を誰に預けて行くのだ」 と嘆くのも哀れ。土肥實平も河津の手を取って 「私も子と頼むのは遠平だけだ。お前を頼もしく思っていたのに」 と嘆き悲しみ、同行の人々も集まって涙を流した。 (河津の)館に帰ると妻女を始め卑しい身分の男女に至るまで悲しみの声が満ちた。
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話に水を差す様だが、念のため申し添えると 祐泰の一行は伊東奥野から赤沢山を経て河津を目指しているのだから「椎の木三本」を右側に見て馬を進めている筈で、この浮世絵で馬首が手前に向いているのは明らかに逆、これでは河津から戻るルートになってしまう。また曽我物語の記述に 「祐親も歴戦の強者、二の矢を受けぬように右側の鐙に寄り掛かって馬を楯にした」 とあるのも、方向を逆に描いた故の間違い。河津に向かっている場合は左の鐙に重心を移さなければ馬は盾にならず、全身を晒して標的になってしまう。
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伊東館に戻った祐親は剃髪して嫡男の菩提を弔い、次男の 祐清に80騎を与えて報復を命じた。祐清は奥野道(現在の中伊豆バイパスに近いルート)を越えて追討の兵を進め、激しい戦いの後に大見小藤太と八幡三郎を討ち取って首を持ち帰った。   歌舞伎や浮世絵に描かれた「曽我の仇討ち」のスタートである。


  

           左: 昭和初期撮影の河津三郎血塚。前の道は平安末期には既に通じていた東浦道、江戸時代に下田街道として整備された旧々道である。
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           右: 大見小藤太成家と八幡三郎行氏が祐親を遠矢で狙った「椎の木三本」の写真(昭和初期)。昭和30年頃に枯死したと伝わっている。
画像の左隅に人の姿が写っている。昭和初期までは八幡野に三郎行氏の館跡や墓があったとの噂も残っているが八幡三郎の館は中伊豆の来宮神社
だと考える説もあり、どちらが史実かは判らない。


     

           左: 浮山の別荘地を抜けて石畳の道が血塚へ続く。新道が開通した昭和初期に廃道となって土砂に埋もれ、昭和の末に掘り起こして保存された。
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           中: 斜面の70mほど右上の「椎の木三本」の直下に新道が完成し、その後は更に現在の国道135号が開通したため無用となった東浦道である。
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           右: 石を積み上げた塚の上に一基の宝篋印塔が据えられている。積み石の形状が昭和初期の写真と明らかに異なるのが気にかかるが...


     

           左: 塚が築かれた年代は不明確らしい。祐泰の死は安元二年(1176)、墓所は菩提寺の伊東・東林寺なのでここは慰霊の塚だろう。
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           中: 頂上の宝篋印塔は南北朝時代の形状で伊東家の子孫が寄進したもの。伊東荘は祐経嫡子の祐時→ 嫡子祐光が継承し、祐光玄孫の祐煕は
足利高氏(尊氏)に味方して祐親の旧領だった久須美・河津を安堵されたと伝わっている。その頃の建造だろうか。
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           右: 旧々道は更に南へ、浮山別荘地の森に消えて行く。巻き狩りの開催地奥野から15km、祐泰の所領河津までは約25kmの距離がある。
治承四年10月、駿河に進んだ平維盛軍に合流を試みて伊豆鯉名(南伊豆の小稲)で捕縛された伊東祐親もこの道を通ったのだろうか。
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           左: 旧々道から旧道に戻って、「椎の木三本」跡へ登る小道。椎の木の枯死は昭和30年代と伝わるから樹齢は800年以上だった計算になる。
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           中: この画像が、多分昭和初期の写真に近い角度だと思う。「椎の木三本」っぽい痕跡は右側のやや高くなった崖の上に、微かに見られる。
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           右: 20mほど登った平坦地に立つ朽ちかけた標識柱に「この上が椎の木三本」と書かれている。手を使わないと登れない傾斜地だ。


     

           左: 標識柱の位置から旧道を見下ろす。旧国道は昭和初期に「椎の木三本」から血塚に続く急傾斜の崖を開削して開通させたルートだ。
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           中: 旧道の横から。すぐ下の血塚に続く急傾斜の先は浮山別荘地の森、その向う側は直線1kmほど先で伊豆東海岸に至る抜け道になる。
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           右: 血塚から約70m上の「椎の木三本」直下の旧道から旧々道の血塚の方向を撮影。大見小藤太成家と八幡三郎行氏も見た風景だ。