宇都宮一族の廟所 益子上大羽の地蔵院  

 
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宇都宮一族の本拠は市役所がある本丸町の宇都宮城で築城は平安時代、藤原宗円(宇都宮氏初代)とされている。宗円は源頼義八幡太郎義家 に従って前九年の役に従軍、
その功績によって宇都宮大明神(二荒山神社)の座主と鬼怒川(古名は毛野川)領域の支配権を得た。前九年の役が終結したのは康平五年(1062年)の春で、第22代の
国綱が秀吉に改易され所領を失ったのは慶長二年(1597)秋。宗円から国綱まで22代・実に530年以上も宇都宮に本拠を置いた。
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  ※宇都宮城: 別称は唐糸城・亀岡城・亀井城など。関東七名城(川越城・忍城・前橋城・金山城・唐沢山城・宇都宮城・多気城)の一つ。

右:現在の宇都宮城址公園 見取り図    表示板から転載 画像をクリック→拡大表示
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正式に宇都宮を名乗った最初の人物は宗円−宗綱に続く三代目の 朝綱。鎌倉幕府の御家人として転戦し所領を安堵された実質的な初代である。軍功により各地に所領を得たが、建久三年(1192)に嫡男業綱が夭逝したため益子の上大羽にあった一村山尾羽寺を整備して阿弥陀堂を建立し大羽山地蔵院とした。ここで業綱の菩提を弔うと共に引退後に自らが隠棲する地と定めた。
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宇都宮を名乗った朝綱の次弟が常に小田 (現在のつくば市小田 (地図) に本拠を置いた 八田知家、奥州合戦の際は 千葉常胤 と共に東海道 (福島の浜通り) の指揮官として功績を挙げ、嫡男の 知重 は布教のため東国に下った真言律宗の僧 忍性 を庇護し、小田郷に 三村山清冷院極楽寺 を建立した事でも知られている。
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宇都宮城からこの地蔵院までは通常のルートで約27km離れている。元々の藤原宗円と嫡子の宗綱は常陸国八田(下館)を基盤にして真岡の芳賀氏を従え、毛野川(鬼怒川・田川)沿いに北上して宇都宮に本拠を置いた。朝綱が廟地に益子を選んだのは宇都宮と八田の中間に近かった事と、源平合戦当初に京都で命を救ってくれた 平貞能 が後に朝綱を頼って訪れ、約7km北の 安善寺(別窓)に隠棲(1186年前後)し、その後に死去(異説あり)した事も影響したと考えられる。
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ともあれ朝綱は地蔵院を建立した3年後の建久五年(1194)に公田の横領事件によって土佐に流され、建久七年(1196)に許されて本領に戻ってからは地蔵院近くに
土佐の賀茂明神を勧請して綱神社とし、尾羽入道を名乗ってここで余生を送った。
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朝綱は地蔵院を建てた後に初代宗円と二代宗綱と自らの五輪塔を造ってこの地を宇都宮家の廟所と定め、更に代々の当主は家臣を定住させ墓域の管理に当たらせた。
墓所の周囲には浄土庭園の一部である鶴亀の池、頼朝 寄進の阿弥陀堂(現在の地蔵院本堂)、頼朝寄進の多宝塔、綱神社、地蔵院の旧跡などが点在し、鎌倉時代には多くの堂塔
が建ち並んでいたと推定されている(周辺地図)。現地の案内板から転載した周辺の見取り図はこちらで。
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本拠地の宇都宮から離れているのが影響したのか、第二十二代当主の満綱は応永十二年(1405)に宇都宮城の南に長楽寺(時宗一向派)を建立して一族の菩提寺とした。
元和五年(1619)には城の改修に伴って更に南(城から1kmほど)に移転し、明治二年(1869)には廃寺になった(前年に発布の神仏判然令の影響か)。
本尊の銅造阿弥陀如来坐像は七代当主泰綱開基の一向寺に遷されて客仏となった。汗かき阿弥陀(外部リンク・国の重文)の名で知られている。
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慶長二年 (1597) の太閤検地の申告に不正があったとして宇都宮氏22代国綱の時に改易、娘婿の備前・宇喜多秀家に預けられた。秀吉の朝鮮出兵の際に「功績があれば
旧領を安堵する」とされて必死に戦い功績を挙げたが秀吉が死没したため約束は果たされず、国綱は慶長12年 (1607) に失意のまま病死した。
嫡男の義綱は水戸藩の家臣となり、子孫も明治維新まで水戸藩に仕えたという。33代も続くと通字が不足するのか、朝綱と正綱がダブってるね(笑)。

  初代宗円−2代宗綱−3代朝綱−4代業綱−5代頼綱−6代泰綱−7代景綱−8代貞綱−9代公綱−10代氏綱−11代基綱−12代満綱−13代持綱−
  14代等綱−15代明綱−16代正綱−17代成綱−18代忠綱−19代興綱−20代尚綱−21代広綱−22代国綱−23代義綱−24代隆綱−25代宏綱−
  26代寿綱−27代征綱−28代喜綱−29代秀綱−30代朝綱−31代憲綱−32代信綱−33代正綱


     

           左: 地蔵院周辺の鳥瞰図。宇都宮氏の繁栄期には更に壮大な堂塔が立ち並び多くの僧坊が点在していたと推測される。
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           中: 山門の前から参道入口を見る。右手の小道を入った右側が鶴亀の池、直進した突き当りに宇都宮氏の墓所がある。
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           右: 山門を経て本堂の方向を。味わいの深かった茅葺きの屋根は改修されて銅板葺きになった。これも時の流れでやむを得ない。


     

           上: 地蔵院本堂は建久四年(1193)に頼朝が寄進した旧・阿弥陀堂の材料を再利用して室町時代に改築したもの。屋根を銅板に換える
など数回の補修を経ている。 内部には当時の装飾が残り、本尊の阿弥陀三尊像と地蔵院時代の本尊・地蔵菩薩像が納められている。
共に鎌倉時代の作だが、今回はデジカメのトラブルで本堂内部の高解像度撮影ができなかった。いつか改めて訪問したい。


     

           左: 本堂左手の観音堂。頼朝が寄進した阿弥陀堂を現在の本堂に改築した際に残った木材で建てたと伝わっていたが、昭和五十八年(1983)の
解体修理で本堂の木材との共通性は否定された。建立の時期は不明、十一面観世音菩薩を本尊とする。
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           中&右: 地蔵院参道の左手(北側)に綱神社の鳥居が立ち、深い樹林の中に参道が伸びる。参拝客は少ないが境内は良く整備されている。


     

           左&中: 150mほど続く参道は二の鳥居から細い石段に続き社殿の建つ平場に登る。右手の細道を辿ると地蔵院に抜けられる。
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           右: 綱神社本殿は国の重文に指定されている(以前は国宝だったらしい)。公田横領の罪で土佐流罪となった朝綱が現地の加茂明神に
祈った後に罪を許されたため帰国後に勧請した。社殿は室町期の建造で共に萱葺きだが綱神社の屋根は台風による倒木で破損し、半年ほど
ブルーシートで覆われた痛々しい姿だった。主~は賀茂建角身命、配神は玉依媛命と賀茂別雷命。ともに山城の賀茂氏の始祖で下鴨神社の
祭神として知られている。


     

           上: 石段を登りつめた平場の綱神社(手前)。奥の大倉神社(中央画像)は摂社で、元々は北の愛宕山にあった土地の神を遷座したもの。
大同二年(807)の創建で、社殿は大永七年(1527)再建と推定されている。かなり昔に大羽小学校近く(現在の700m北西)に遷し、
更に昭和25年に綱神社境内に遷座した、らしい。祭神は大国主命、綱神社や宇都宮氏と直接の関係は確認できない。


     

           上: 綱神社参道の鳥居左手に浄土庭園の痕跡があり、鶴亀の池の一部が確認できる。足利義兼が隠居所とした樺崎寺(別窓)と同様に、
奥州藤原氏追討のため遠征した平泉で感銘を受けた中尊寺大長寿院を模したと考えられる。もちろん鎌倉二階堂の永福寺ほどの
規模ではないが、鎌倉時代初期には鶴亀の池を中心にして地蔵院・多宝塔・尾羽寺が建ち、周辺には僧坊が点在していた。


     

           左: 鶴亀の池の奥から。宇都宮一族の廟所は右手人家の裏手、綱神社と大倉神社は左斜面の上にある。池の奥側に多宝塔の跡、画像右側の
民家手前が尾羽寺の跡、廟所の更に右手(北側)が旧地蔵院跡だ。
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           中: 廟所は巾10m×奥行20mほどの平場に設けられている。一番奥の中央にある小さな五輪塔が初代宗円の墓標と伝わっている。
平安時代の初代宗円から大正時代の33代義綱まで、歴代の当主の墓がこれだけ揃って残されているのはかなり珍しいらしい。
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           右: 廟所の奥から。南(左)側から13基の五輪塔と2基の板碑・7基の五輪塔・4基の五輪塔と2基の板碑・3基の五輪塔、そして正面に
2基(宗円と朝綱・右の画像)の五輪塔が並ぶ。配置図などはないが名札が置かれているため判りやすい。


     

           左: 廟所の最も奥を背にして右側部分を。南側(左)から、15基・7基・2基の五輪塔や板碑が並んでいる。
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           中: 四代業綱の横から撮影。一つ目から初代宗円(兼綱)、三代朝綱、二代宗綱の墓石が続く。宗円の五輪塔は最も小さい。
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           右: 初代・藤原宗円(兼綱)の墓。長久四年(1043)〜天永に年(1111)、出自には諸説あり。詳細はwikiで。


     

           左: 二代宗綱の墓  応徳三年(1086)〜応保二年(1162) 名乗りは八田とも。父は初代宗円・母は益子正隆女。
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           中: 三代朝綱の墓  保安三年(1122)〜元久元年(1204) 父は二代宗綱・母は平棟幹女。
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           右: 四代業綱の墓  保元元年(1156)〜建久三年(1192) 名乗りは成綱とも。父は三代朝綱・母は醍醐局。


     

五代 頼綱の墓                六代 泰綱の墓                七代 景綱の墓


     

八代 貞綱の墓                 九代 公綱の墓                十代 氏綱の墓


     

十一代 基綱の墓               十二代 満綱の墓                十三代 持綱の墓


     

十四代 等綱の墓              十五代 明綱の墓                十六代 正綱の墓


     

十七代 成綱の墓              十八代 忠綱の墓                十九代 興綱の墓


     

二十代 尚綱の墓              二十一代 広綱の墓                二十二代 国綱の墓


     

二十三代 義綱の墓             二十四代 隆綱の墓               二十五代 宏綱の墓


     

二十六代 寿綱の墓             二十七代 征綱の墓               二十八代 喜綱の墓


     

二十九代 秀綱の墓             三十代 朝綱の墓               三十一代 憲綱の墓


この頁は2022年 8月 8日に更新しました。