十国峠に近い 日金山東光寺 

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峠の頂上から十ヶ国(伊豆・相模・駿河・遠江・甲斐・武蔵・常陸・安房・上総・下総)が見えるから十国峠。鎌倉の六国峠や多摩丘陵の七国峠など、見晴らしの良い古道の峠は多いが、一ヶ所から10以上の国を見渡せるのはここだけだと言う。空気の澄んだ冬の快晴なら、今でも八ヶ国ぐらいは確認できるかも知れない。遠江国(静岡県の大井川以西)は何とか見えるにしても、常陸国(最南端は霞ヶ浦あたりか)はちょっと無理だろうな。富士山頂ならもっと見えるだろうけど、あそこは峠じゃないからね。

十国峠 右:十国峠(日金山)周辺の鳥瞰図     画像をクリック→拡大表示
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日金道とも呼ばれた峠道は古来から交通の要で韮山や三島と湯河原や小田原を結ぶ幹線道路であり、箱根権現伊豆山走湯権現につながる山岳宗教のメッカでもある。箱根権現や三嶋大社(各、別窓)に参詣した鎌倉幕府三代将軍源実朝が鎌倉への帰路に日金峠で詠んだ和歌が金槐和歌集に載っている。
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     箱根路を わが越えくれば 伊豆の海や 沖の小島に 波のよるみゆ
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  ※金槐和歌集: 実朝の私撰和歌集。金は鎌倉を、槐(えんじゅ)は中国古典で大臣の家柄である槐門を意味する。
全体では「鎌倉右大臣の和歌集」を意味する。
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十国峠に立って打ち寄せる白波が囲む初島を眺め、孤立して実権のない自分の姿になぞらえて嘆いた歌(実朝最期の和歌)と言われるが、私にはただ風景を描写しただけの駄作に見える。金槐和歌集の幾つかには心を打つニュアンスがあり、個人的には 箱根路を・・・よりも優れている、と思う。
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     大海の 磯もとどろに 寄する波 われて砕けて 裂けて散るかも     山は裂け 海はあせなむ 世なりとも 君にふた心 わがあらめやも
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閑話じゃないけど取り敢えず休題...応神天皇四年 (西暦273) に日金の聖地を開いたと伝わるのが松葉仙人、その事跡を木生仙人と金地仙人と蘭脱仙人が継承し、文武天皇三年 (699) に至って伊豆大島に流された役小角(役の行者)が空を飛んで走湯山で修行を重ね、超能力に磨きをかけた。この頃に日金の修験道が定着したらしい。
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戦国時代の末期、徳川家康の使者として韮山の北条氏規の元へ向かった朝比奈弥太郎は、真夜中の日金山で見上げるような大男に声を掛けられた。「ここに向かってくる娘を見なかったか?」...この大男は死者を迎える鬼だった、と伝わっている。
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境内には三途の川や賽の河原を模して造られた一角があり、水子地蔵も祀られているため一種独特の雰囲気があるが、南側の明るい斜面には自然を生かした姫の沢公園が広がっている。十国峠のケーブル駅に続く芝生広場からは富士山や三島〜沼津の街並みや駿河湾も眺められ、空気の澄んだ季節なら「十国」を見渡すのも夢ではない、かも。
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周辺の遊歩道も良く整備されており、奥湯河原から登るハイキングコース「石仏の道」も熟年層に人気が高い。1丁(109m)ごとに石仏が配されて四十二丁目まで続き、「ここは地獄の一丁目...」の台詞を髣髴とさせる。昼間なら何とか我慢できるが、夜は絶対に嫌だ。
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日金山が広く信仰されていた昔日の参拝は湯河原や伊豆山神社からではなく、函南の平井(JR東海道線の函南駅近く)から登る旧街道が定番コースだった。ほぼ現在の県道11号(旧道の熱海街道)を縫うように古道の跡が残っているルート、代々の鎌倉将軍が「二所詣」で 三嶋大社(別窓)から伊豆山権現を目差した道である。下記は日金山の御詠歌で江戸時代から継承されたものらしいが、現在も使われている地名が含まれている。

    日金山 一の木戸が下平井  久保子童子大権現  金山童子大権現  桜童子大権現  薬師阿弥陀堂の前  さて赤坂を乗り越えて
    法の山路の清水洞  辻観音のびんの沢  ここに延命地蔵尊  麦巳の方名の清水  みの鬼久保とぬかずいて  日金へあげる茶湯坂
    念仏六字のおし車  つくりし罪は軽井沢  いつか峠の地蔵尊  見下す海や舟ヶ久保  来光坂の道すがら  登りかねたる人心
    萩の錦の草結び  賽の河原の参詣橋  さてこれからが日金山  聞いて尋ねて来てみれば  いつも絶えせぬ旅人の声  六道の辻の地蔵尊
    みちびきたまえ弥陀の浄土へ  ふもとよりはるかに拝む地蔵尊  絶えずたなびく紫の雲...


     

           左: 日金山東光寺(真言宗)の本堂。開基は松葉仙人と伝えられ、江戸時代末期まで箱根に連なる伊豆山岳信仰の拠点として崇められた。
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           中: 本尊は黄銅製延命地蔵菩薩像。当初の本尊だった筈の頼朝寄進の地蔵菩薩像は行方不明、現在は寛文十一年(1671)に脇仏の嘗善童子・
嘗悪童子像と共に鋳造されたと刻銘のある像が祀ってある。本尊は324cm・脇童子は91cmと93cm、かなり大きい。
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           右: 境内には水子供養や無縁仏の墓標が累々と並び、霊魂が集まるミニ恐山の雰囲気を呈している。暗くなったら怖いだろうなぁ!


           

           左2枚: 本堂の手前左には裁きを行う閻魔王、右には奪衣婆(三途の川の渡し賃を持たない亡者の衣服を剥ぎ取る役目)が死者を待ち受ける。
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           右3枚: 裏山の宝篋印塔は左から金地・開祖松葉・木生の三仙人。松葉の基壇に建武三年 (1335) 、裏に文化十年(1813)の刻印がある。
走湯山(伊豆山権現)縁起に拠れば、応神天皇二年(271)4月に相模国唐浜(大磯)の海上に直径三尺(1m弱)の円い鏡が現れた。
その際に異国の風体で松葉を常食していた30歳ほどの人物・松葉仙人がその鏡を高麗山に祀った、それが伊豆山権現の発祥である。
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そして仁徳天皇の七十一年 (383) になって巨樹の洞から蘭脱仙人(木生仙人)が出現し、富士山の噴火や疫病の流行を鎮めて伊豆半島を
一周する遍路(修行の道)を拓いた。伊豆山権現の祭神像はこの時に造られた、と伝わる。
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敏達天皇四年 (575) 、大地震と共に金地仙人が出現した。その頃に高麗から鳥の羽に書かれた国書が届き、誰も読めなかったものを人の姿で
現れた権現が読み解いたため朝廷から神領が贈られた。
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金地仙人は孝徳天皇九年 (653) に入定し、この時に三仙人の霊廟が並列して設けられたと伝わる。
現存する三仙人の石塔は文化十年 (1813) 前後に般若院別当の周道上人が古い石塔を組み合わせて造ったもの。


     

           左: 東光寺側(日金霊園側)から展望台方向へ登ると芝生広場の隅に三代将軍実朝の歌碑がある。晴天なら実朝も眺めた初島が手に取るようだ。
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           中: 歌碑から山頂のケーブル駅まで芝生広場が続いている。犬を遊ばせるには絶好のスポットだったが、今は遠く過ぎ去った思い出になった。
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           右: 展望台からズームで撮影すると富士山頂は目の前に見える。直線距離では約25km、静岡県側から見る姿は均整が取れて実に美しい。


     

           左: 十国峠展望台から芝生広場を振り返る。突き当たりの熊笹が切れている場所が東光寺へ下る小道、ハイキングコースとしても人気が高い。
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           中: 南側は天城連山に向って山並みが続く。十国峠の麓を基点にして玄岳(799m)の中腹を南へ向う伊豆スカイラインが微かに見える。
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           右: 熱海峠から東海道の箱根峠へ向って山並みを縫う県道20号が見える。右手の奥に見えるのは箱根のシンボル。駒ヶ岳(1356m)。


     

           左: 展望台の東側から湯河原の市街地が一望できる。右側の山の向こうが伊豆山神社、正面には真鶴半島の先端にある三つ石まで見える。
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           中: 広い草地のすぐ下は市営の日金霊園として整備され、霊園の中央を抜けると三仙人の宝篋印塔を経て日金山東光寺への抜け道がある。
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           右: 山頂からケーブル駅のドライブ・インを見下ろす。県道を左へ下るとすぐに熱海峠、右へ進むと約6kmで東海道の箱根峠に至る。