日金道とも呼ばれた峠道は古来から交通の要で韮山や三島と湯河原や小田原を結ぶ幹線道路であり、
箱根権現や
伊豆山走湯権現につながる山岳宗教のメッカでもある。箱根権現や
三嶋大社(各、別窓)に参詣した鎌倉幕府三代将軍
源実朝が鎌倉への帰路に日金峠で詠んだ和歌が金槐和歌集
※に載っている。
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箱根路を わが越えくれば 伊豆の海や 沖の小島に 波のよるみゆ.
※金槐和歌集: 実朝の私撰和歌集。金は鎌倉を、槐(えんじゅ)は中国古典で大臣の家柄である槐門を意味する。
全体では「鎌倉右大臣の和歌集」を意味する。
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十国峠に立って打ち寄せる白波が囲む初島を眺め、孤立して実権のない自分の姿になぞらえて嘆いた歌(実朝最期の和歌)と言われるが、私にはただ風景を描写しただけの駄作に見える。金槐和歌集の幾つかには心を打つニュアンスがあり、個人的には
箱根路を・・・よりも優れている、と思う。
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大海の 磯もとどろに 寄する波 われて砕けて 裂けて散るかも 山は裂け 海はあせなむ 世なりとも 君にふた心 わがあらめやも
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閑話じゃないけど取り敢えず休題...応神天皇四年 (西暦273) に日金の聖地を開いたと伝わるのが
松葉仙人、その事跡を木生仙人と金地仙人と蘭脱仙人が継承し、文武天皇三年 (699) に至って伊豆大島に流された
役小角(役の行者)が空を飛んで走湯山で修行を重ね、超能力に磨きをかけた。この頃に日金の修験道が定着したらしい。
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戦国時代の末期、徳川家康の使者として韮山の北条氏規の元へ向かった朝比奈弥太郎は、真夜中の日金山で見上げるような大男に声を掛けられた。「ここに向かってくる娘を見なかったか?」...この大男は死者を迎える鬼だった、と伝わっている。
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境内には三途の川や賽の河原を模して造られた一角があり、水子地蔵も祀られているため一種独特の雰囲気があるが、南側の明るい斜面には自然を生かした姫の沢公園が広がっている。十国峠のケーブル駅に続く芝生広場からは富士山や三島〜沼津の街並みや駿河湾も眺められ、空気の澄んだ季節なら「十国」を見渡すのも夢ではない、かも。
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周辺の遊歩道も良く整備されており、奥湯河原から登るハイキングコース「石仏の道」も熟年層に人気が高い。1丁(109m)ごとに石仏が配されて四十二丁目まで続き、「ここは地獄の一丁目...」の台詞を髣髴とさせる。昼間なら何とか我慢できるが、夜は絶対に嫌だ。
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日金山が広く信仰されていた昔日の参拝は湯河原や伊豆山神社からではなく、函南の平井(JR東海道線の函南駅近く)から登る旧街道が定番コースだった。ほぼ現在の県道11号(旧道の熱海街道)を縫うように古道の跡が残っているルート、代々の鎌倉将軍が「二所詣」で
三嶋大社(別窓)から伊豆山権現を目差した道である。下記は日金山の御詠歌で江戸時代から継承されたものらしいが、現在も使われている地名が含まれている。
日金山 一の木戸が下平井 久保子童子大権現 金山童子大権現 桜童子大権現 薬師阿弥陀堂の前 さて赤坂を乗り越えて
法の山路の清水洞 辻観音のびんの沢 ここに延命地蔵尊 麦巳の方名の清水 みの鬼久保とぬかずいて 日金へあげる茶湯坂
念仏六字のおし車 つくりし罪は軽井沢 いつか峠の地蔵尊 見下す海や舟ヶ久保 来光坂の道すがら 登りかねたる人心
萩の錦の草結び 賽の河原の参詣橋 さてこれからが日金山 聞いて尋ねて来てみれば いつも絶えせぬ旅人の声 六道の辻の地蔵尊
みちびきたまえ弥陀の浄土へ ふもとよりはるかに拝む地蔵尊 絶えずたなびく紫の雲...