河内源氏発祥の地 羽曳野の通法寺 

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右:羽曳野 壺井八幡宮と源氏三代の廟所    画像をクリック→拡大表示
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通法廃寺の跡は石川の東にある平地が丘陵に接する通称「山の谷」の入り口にある。北側には壺井八幡宮に続く丘陵、更に南側には 義家頼信の墳墓が点在する「御廟谷」の起伏が広がっている(地図)。摂津国多田(兵庫県川西市多田)を本拠とした父 満仲 の元を離れて河内守に着任し、石川郡に壺井荘を拓いて土着した三男頼信の本領である。
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頼信は現在の壺井八幡宮南に香炉峰の館を設けて土着し、頼義→義家→と続く河内源氏の始祖となった。この後は頼朝に続く嫡流の他に新田源氏・足利源氏・石川源氏・毛利氏などが出ている。
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通法寺の創建は長久四年(1043)、頼信の嫡子 頼義 が香炉峰の館の南側に観音堂を建てて通法寺と名づけたのが最初と伝わるが、詳細な年代は確認できない。源氏の隆盛と衰微に伴なって興廃を繰り返しつつ鎌倉時代の中期まで存続し、南北朝時代が始まる1330年代には深刻な衰微が始まっていたらしい。
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更に天正年間(1573〜1592年・織田信長の頃)には兵火で焼け落ちたまま放置された。この後100年強の間は通法寺にとって長い空白の時間となる。
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元禄十三年(1700)に至って河内源氏の子孫を称する多田義直(満仲→ 頼光→ 頼国→ 頼綱と続く多田源氏の庶流らしいが詳細は不詳)が再興を上奏し五代将軍綱吉の決裁を得て再建、11月に落慶供養が行われ寺領200石を給されたが、一難去ってまた一難、明治維新の廃仏毀釈運動によって山門と鐘楼を除く全てが破却され現在に至っている。
いずれは歴史公園として整備され公開されるのかも知れない。周辺は飛鳥時代から続く官道・竹内街道が東西に走り、天皇陵や聖徳太子の史跡が点在する歴史の宝庫でもある。



     

           左: 門前に架る周辺絵地図。東の山と西の石川に挟まれた要害の地で、1km南に飛鳥京と難波を結ぶ竹内(たけのうち)街道が東西に走る。
推古天皇二十一年(613)に整備された日本最古の官道である。大阪府発行の 歴史街道マップ を参照。
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           中: 同じく門前の河内名所図会(享和元年・1801年刊行)から転載した全盛時代の境内図。今も残っているのは中央の鐘楼と山門だけで、
本堂建っていた場所は頼義の廟所になっており、周辺には礎石が点在している。
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           右: 山門と鐘楼以外の堂宇は明治六年(1873)の廃仏毀釈運動で全て破却された。今更ながら、何という性急な改革の愚かさだろう。


     

           左: 山門の「源氏祖郷」板額。製作年代は判らないが、再興を上奏した子孫の多田義直あるいは源氏の子孫を僭称した徳川氏が掲げたかも。
通法寺を中興した五代将軍綱吉の可能性もある。征夷大将軍の称号は源氏一門に繋がる系譜に依拠するのが通例だったらしい。
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           中: 石段を登った正面が本堂の跡で、頼義は当初はその地下に埋葬されたが後に改葬。現在は左手奥が廟所で、国史跡に指定されている。
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           右: 廟所前の両側に建つ石灯籠は徳川綱吉の命を受けて通法寺再建の任に当った柳沢吉保が寄進したもの。


     

           左: 頼義の廟所。相模・常陸・武蔵・下野の国守を歴任した頼義は前九年の役から凱旋した後の承保二年(1075)7月に88歳で死没し、
遺言に従って通法寺本堂の地下に葬られた。この廟所は後世になって改葬した際に造営したもので、築造年代は確認していない。
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           中: 訪問した2007年の境内跡は特に荒れておらず、散策に支障があるほどではない。いずれ整備して史跡公園にする予定があると聞いた。
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           右: 石畳の先に梵鐘が失われた鐘楼がポツンと残る。綱吉の建立ならば既に300年を経ており、山門と共に保存する努力が必要だろう。


     

           左: 円墳の姿で残る義家墓所。恵まれない晩年を送り、嘉承元年(1106)七月に京で没してここに葬られた。義家に関する伝承は数多くあるのだが
殆んどは鎌倉時代以後に捏造されたもので、信頼に値しない。ただし並外れて戦闘の技術と勇敢さに長じていたのは確かで、陸奥話記には
「清原武則の求めに応じて樹の枝に懸けた三領の鎧を射抜いて見せた」や、「頼義の長男義家の騎射は神の如し、白刃の囲みを突破して敵の
横に回り指揮官を射れば外すことがなく必ず殺す。雷の如く走り風の如く飛び、鬼神のようだ」
の記述がある。
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また武士の習いではあるが、古事談にあるように「父の頼義も前九年の役で1万8千の首を斬ったが晩年には悔い改めたため成仏できた。
しかし義家は悔いる事がなかったため、無限地獄に堕ちた」と書かれるような残忍な側面もあった、らしい。
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           中: 円墳頂の石柵が埋葬当時の物か後世に追加された物かは判らない。渡来した石工により五輪塔などが一般化するのは1160年代以降
なので、源氏三代を含めてこの時代の武人の墓は「塚」や「墳」が主流だったのだろう。
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           右: いちおう墳頂まで登って見た。石柵の内側には太い樹木の根元に枯葉が積もっているだけで墓石の類は置かれていない。
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   ※陸奥話記: 永承六年(1051)〜康平五年(1062)まで続いた前九年の役の顛末を描いたドキュメンタリータッチの異色軍記物語。
平安時代末期の成立と考えられているが作者は不明、中身は非常に面白い。 こちら からダウンロードして感謝しつつ閲覧しよう。
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   ※古事談: 村上源氏の後裔で刑部卿の源顕兼が編纂した説話集で、貴族社会や宗教界の内幕を露骨に描いた、週刊文春の元祖的な存在だ。


     

           左: 頼信の円墳。河内守に任じて本拠を壺井八幡宮の地に置き、戦乱に明け暮れた余生過ごした。永承三年(1048年)死没、遺言に従って
香炉峰麓の館から巽(南東)の丘に葬られた。没したのは前九年の役が始まる3年前で、壺井八幡宮も通法寺も未だ創建されていない。
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           中: 頼信は兄の頼光と同様に摂政関白の藤原道兼に仕え、その死後は藤原道真に仕えた。上野介→常陸介→石見守→伊勢守→甲斐守→
美濃守→相模守→河内守を歴任、甲斐守在任の長元元年(1028)に房総で勃発した平忠常の乱を平定して関東進出の地盤を築いた。
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           右: 頼信墳墓の横に通法寺歴代住僧の墓が十数基並んでいる。その一角に徳川五代将軍綱吉の生母桂昌院の寵愛を受けて綱吉護持僧を
務めた隆光大僧正の墓がある。柳沢吉保と共に通法寺再建に尽力したが、綱吉の死後は失脚して通法寺住職に左遷され壺井で没した。
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隆光は「生類憐みの令」の発案者とも言われるが、これは信頼性に乏しい。但し荒廃した関西の諸寺再建を綱吉に進言して幕府の財政悪化を
招いた責任は重いと考えられている。

この頁は2022年 8月 4日に更新しました。