石橋山合戦 圧倒的な戦力差で頼朝軍敗走 

 
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石橋山 左:石橋山合戦の周辺地図       画像をクリック→拡大表示へ
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韮山から土肥郷までの距離は約30km。8月20日、頼朝 率いる軍勢は函南から本街道(熱海旧街道・日金道)に入り平井郷から軽井沢を経由して 日金山東光寺 へ、ここで武運を祈ってから土肥郷(現在の湯河原)に下った。土肥實平 一族の守護神社である五所神社 の社伝は頼朝勢は社殿の前で戦勝を祈って陣容を整え(石橋山に向って)出陣したと記録している。土肥郷から石橋山までは山越えの道を約15km。
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旧暦の8月20日は太陽暦の9月18日、主力と頼む三浦勢は悪天候のため軍船が使えず、陸路で集結地の土肥郷を目指していた。このため頼朝軍との合流予定が大巾に遅れ、頼朝は伊豆で集めた手勢だけで戦わざるを得ない状況になった。兵力は10倍以上、300騎しか動員できなかった頼朝にとって大きな誤算である。
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  ※悪天候: 韮山で兼隆邸を襲う計画は17日早暁だったが、幸か不幸か相模国渋谷荘からの佐々木兄弟到着が洪水で遅れたため
一日順延となった。伊豆・相模周辺は15日から雨天が続いており、三浦軍が陸路を選んだ事や石橋山合戦が豪雨の中だったのを考え併せると、台風の接近または余波の影響だったと推定できる。
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一方で 大庭三郎景親 の率いる平家軍3000騎は小田原の早川口から現在の 秀吉一夜城跡(参考サイト)付近を経由して石橋山に到着、玉川が流れる狭い谷を隔てて頼朝軍と対峙した。石橋山古戦場はJR東海道線の早川駅と根府川駅のちょうど中間でバス便も少ないため公共交通機関での訪問は厳しい。
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山裾を縫う旧道の周囲にはミカン畑が続き、近在の集落には「すけどの」や「ねじりばた」など合戦の名残を伝える地名が残っている。 佐奈田与一義忠 を祀った佐奈田霊社の神主さんは代々が石橋地区の出身で郷土史にも詳しい。相模湾の展望も素晴らしいし、話を伺えれば楽しい時間を過ごせるだろう。
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【 吾妻鏡 治承四年(1180) 8月23日 】
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寅の刻(朝4時前後)、頼朝北條時政 親子 ・ 安達盛長工藤(狩野)茂光土肥實平 ら300騎を率いて相模国石橋山に布陣。以仁王 が発行した令旨を旗の横上に付けて中四郎惟重が掲げ、毛利(源)頼隆が矢に白布を付け頼朝の後に控えた。
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一方で相模国の住人 大庭景親 が率いる平家軍は 俣野景久河村義秀渋谷重国 ・糟屋盛久(糟屋有季 の子) ・海老名季員・曽我助信(祐信)瀧口経俊 ・ 毛利景行・長尾為宗と為宗と定景 ・原景房と義行 ・ 熊谷直實 など3000余騎の精兵も同じく石橋山と谷を挟んで北側に布陣した。頼朝に志を通じる飯田五郎家義も(頼朝勢に)馳せ参じようとしたが館が景親軍の進軍ルートにあり、不本意ながら景親軍に加わっていた。伊東祐親 法師は300余騎を率いて頼朝軍の背後に布陣した。
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  ※飯田家義: 渋谷重国の五男で鎌倉郡飯田郷(地図)を本拠にした。頼朝軍に加わる予定だったが館の南を俣野景久に、南西を大庭景親に阻まれ、やむを得ず大庭勢に
加わっていた。その後は富士川合戦などの功績により飯田郷を安堵され、更に正治二年(1200)には鎌倉から駿河まで落ち延びた 梶原景時 一族討伐に加わり大岡荘(沼津市北西部)地頭職に任じられている。

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右:Google Map による石橋山の鳥瞰       画像をクリック→拡大表示へ
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【 吾妻鏡 治承四年(1180) 8月23日の続き 】
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夕刻が迫り、三浦勢は丸子河(酒匂川)で宿営して大庭景親に与する者の館を焼き払った。その煙を見て三浦勢の接近を知った景親らは「明日になれば三浦の衆が加わって面倒だ、既に黄昏だが合戦を遂げてしまおう」と決め頼朝陣に攻め込んだ。
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兵力に劣る頼朝軍も死を恐れずに戦ったが、佐奈田義忠三浦義明 の末弟 岡崎義実(平塚の北・岡崎郷の領主)の子)と武藤三郎、郎従の豊三家康らが討ち取られた。六騎を従えた飯田家義が頼朝の側に加わり、勢いに乗って攻めかかる景親軍を食い止め、その間に頼朝は暴風雨をついて土肥椙山を目指して逃げ延びた。
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  ※大庭の味方: 酒匂川東岸で三浦勢に焼かれたのは大庭軍の曽我祐信邸か。石橋山から約12km、煙は
遠望できる。13年後に勃発した「曽我の仇討ち」の主人公・曽我兄弟の養父の所領である。
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平安末期の合戦には作法があって、これを守らないと武士の恥となる「卑怯の謗り」を受けた。本当かね。
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@ まず牒(軍使)を交換して開戦の時間と場所を相互に確認する。
A 定刻に双方の軍が相対し代表者が出て口上を述べる。血統や過去の武勲などを自慢し自軍の正当性と敵の不正義を主張し合う。
B 双方が鏑矢を放って開戦となる。続いて50〜100mの距離を隔てた矢戦となる。
C 矢が尽きたら騎馬武者の矢戦、騎馬武者一人に数人の部下が従う。勝敗の帰趨が決まった時点で勝者側が兵を引き勝ちどきを挙げ戦闘終了。
D その他にも幾つか面白い決め事が伝わっている。馬を射てはダメ、非戦闘員を攻撃してはダメ、騎馬武者は徒歩の敵を攻撃してはダメ、など。
  でも徒歩の兵が騎馬武者を攻撃するのはOKだから、この場合は下馬して戦うか逃げるしか道はない、らしい。変なの!
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ただし、どの時代にも「勝つためには何でもあり」と考える連中がいる。必ずしもルール通りに進まなかったケースも多かった。
石橋山の場合は豪雨の夕暮れだから軍記物のように華々しい展開ではなく、雨中で遭遇した先鋒か偵察部隊同士が突然の白兵戦を展開したと推定される。勝敗の帰趨は間もなく明らかになったがそれで終戦とはならず、敗走する頼朝軍を追って大庭軍による執拗な掃討戦が続いた。
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頼朝軍は退却して陣容の立て直しを図ったが湯河原の堀口合戦でも敵を食い止められず更に退却、頼朝と近臣は土肥實平の先導で箱根に続く山に逃げ込んだ。
北條時政 と二男 義時 は甲斐源氏 武田信義 らの応援を得るべく甲斐を目指し、狩野茂光北條宗時 らは日金山から本領の伊豆を目指して函南へ。
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そして石橋山合戦の10年後、覇権を握った頼朝は再び石橋山を訪れている。
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【 吾妻鏡 建久元年(1190) 1月20日 】
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頼朝は二所詣を終えて鎌倉に戻った。今後の参詣は三嶋大社と筥根(箱根)権現を経て伊豆山権現に向うルートに変更と定めた。従来は伊豆山が最初だったが、頼朝は途中の石橋山で治承合戦の際に死んだ佐奈田与一と豊三の墓を見て落涙した。彼ら両人が敵に討ち取られた悲しみを思い出して涙を流すのは不吉であり、参詣の行事には憚られるため順路を改めたものである。
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二所詣とは鎌倉から相模路を通って伊豆山権現へ、さらに日金山を経由して三島明神から箱根権現へ参詣する恒例行事。いずれも頼朝に崇敬され庇護寄進を受けていた神社で、頼朝は4回・政子は2回・実朝は8回実施している。ニ所は筥根権現と伊豆山権現、実質的には三嶋大社を含む三所である。
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【 曽我物語が描いたニ所詣の姿 】
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御供の人々は和田、畠山、川越、高坂、江戸、豊島、玉の井、小山、宇都宮、山名、里見の人々をはじめとして350余騎、花を織り紅葉を重ね、装束は綺羅天を輝かし陣頭に雲をおほひ、水干・浄衣・白直垂・布衣、権勢あたりを払い行粧目をおどろかす。およそ、中間、雑色にいたるまで景色に色をつくす。後陣の警護の武士甲冑をよろひ、弓箭を帯する隋兵上下につがひ、左右の帯刀二行にならび、御調度懸の人、左手右手にあひならぶ...
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【 ニ所詣のルート・その他について 】
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最初のニ所詣は文治四年(1188)の1月、 義経 捜索を契機にして全国に守護地頭を配し、鎌倉幕府の地盤が固まり始めた時期である。前年の12月27日には同行する御家人を選んで潔斎を命じ、頼朝自身も16日には精進を始めている。18日には甲斐・伊豆・駿河の御家人に参詣ルートの警備を指示し、1月20日には 石和信光上総廣常加賀美次郎(小笠原長清)小山七郎(結城朝光) 以下の隋兵300騎を従えて出発、三浦義澄 が差配して相模川に浮橋を設けた。鎌倉帰着は26日で、以後は6日間の行程が基本となった。
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前記した建久元年の「頼朝の涙事件」以降の順路は小田原の酒匂川沿いを遡って箱根権現→ 西へ下って三嶋大社→ 日金山を越えて走湯権現→ 酒匂川から六本松峠を越え二宮を経て鎌倉へ戻るルートとなり、三代将軍実朝以後の時代まで継承された。


     

           左&中: 頼朝が布陣した石橋山側から谷を隔てた大庭景親軍の方向を。直下に東海道線と新幹線、海側の崖下に真鶴道路が見える。
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           右: 海に沿って小田原市街から続く西湘バイパス、背景の山並みに関東百名山の一つ・大山(1252m)が浮かんでいる。


     

           左: 中央に見える緑の銅屋根が佐奈田霊社(公式サイト)。激しい風雨を衝いて平家軍が攻め寄せ、この斜面一帯が最初の戦場となった。
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           中: 境内の隅に残る与一塚(右側の碑)。左の碑には「御神木の杉は家臣豊三家安が与一の亡骸を埋葬し傍らに植えた」と彫ってある。
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           右: 石碑は佐奈田飴本舗の剱持真作氏の寄進による、と彫ってある。あれ?豊三家安(家康)は共に討死した筈だけど同姓異人なのかな。
俣野景久 と組み合った時に痰が喉に絡んで味方を呼べなかった。与一の霊はこの地に残り喉の病気に苦しむ人を救っている、という。
霊社に祈れば喘息など喉の病気に効能あり、更に佐奈田飴を舐めればモア・ベターですよってか。これは大正七年の建立。


     

           左: 佐奈田霊社の本殿。300mほど南は崖になって海に落ち込んでおり、本殿の周囲から裏山にかけての一帯が石橋山合戦場跡である。
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           中: 以前訪問した時には見当たらなかった「佐奈田義忠の手附石」。なんでこんな馬鹿馬鹿しいものを造るのか理解に苦しむねぇ...。
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           右: 本殿前にはコンクリート製の化粧板が敷き詰められている。なかなかに豪勢だが、雨天などには滑りやすくなるのが難点だ。


     

           左: 崖沿いの道を神社の下に向う。与一と組んだ俣野景久(大庭景親弟)は名の知れたな強者だが、伊東奥野の巻狩りでは河津三郎祐泰 に三連敗した。
三敗めは相撲の決まり手にもなった「かわづ掛け」で、背中を打った景久は暫く立てなかった、と曽我物語は伝えている。
石橋山でも討ち取られる寸前とは...豪勇で知られた俣野さん、噂より弱かったのかも知れない。もちろん軍記物だから嘘八百かも。
後に大庭景親は投降して斬首、俣野景久は平家の恩義を忘れず北陸篠原で木曽義仲 軍と戦い、斎藤實盛や伊東祐清と共に戦死している。
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           中: 先陣の佐奈田与一義忠が敵の先陣 俣野五郎景久(景親の弟)と戦い討死した。源平盛衰記に拠れば与一は景久を組み伏せ首を掻こうとしたが
血糊のために固まった刀が抜けず、駈け付けた郎党文三と共に景久の従兄弟 長尾新六定景 に討たれた。
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長尾定景は頼朝の鎌倉入り後に降伏、身柄を預かった義忠の父 岡崎義實 が遺恨を晴らす筈だったが、毎日法華経を唱える定景を見た義實は
息子を失った恨みに耐えて助命を願い、以後の定景は岡崎氏の本家である三浦の郎党として仕えた。39年後の建保七年(1219)、公暁
八幡宮で三代将軍 実朝 を殺した直後、既に老齢ながら 三浦義村 の命令を受け公暁を討ったのが定景である。
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           右:与一と俣野は組み合って転げ回り、畑の作物が捩れた。以後この「ねじり畑」の作物は全て捩れるという。実際には捩れてなかったけど、ね。


     

           左: 文三堂(吾妻鏡では豊三)の石段下から「ねじり畑」越しに霊社に登る参道方向を。ミカンの樹が少々と、残りは雑草の繁る荒地のまま。 <
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           中&右: 霊社から石段を下り「ねじり畑」反対側の高台に建つ文三堂。間口2間×奥行3間ほどの小さな社が覆堂として墓石を保護している。


     

           左: 文三堂を右側から撮影。建物自体は築後3〜40年程度で、それほど古いものではない。墓石を保護するため後年に設けられたのだろう。
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           中&右: 堂の内部の文三の墓標。刻まれた文字が微かに読めるが風化しているため内容が判らないし、そもそも石塔の由来も判らない。
果たして吾妻鏡に書いてある「於路次石橋山。覽佐奈田与一。豊三等墳墓。御落涙及數行。」の墳墓なのかどうか、調べる必要はある。
「墳墓」が土葬した墳丘を意味するのか墓石を意味するのかも判りかねるし、後世に建てた可能性も高いし。

この頁は2022年 8月 1日に更新しました。