【 吾妻鏡 治承四年(1180) 8月23日の続き 】.
夕刻が迫り、三浦勢は丸子河(酒匂川)で宿営して大庭景親に与する者の館※を焼き払った。その煙を見て三浦勢の接近を知った景親らは「明日になれば三浦の衆が加わって面倒だ、既に黄昏だが合戦を遂げてしまおう」と決め頼朝陣に攻め込んだ。
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兵力に劣る頼朝軍も死を恐れずに戦ったが、佐奈田義忠(三浦義明 の末弟 岡崎義実(平塚の北・岡崎郷の領主)の子)と武藤三郎、郎従の豊三家康らが討ち取られた。六騎を従えた飯田家義が頼朝の側に加わり、勢いに乗って攻めかかる景親軍を食い止め、その間に頼朝は暴風雨をついて土肥椙山を目指して逃げ延びた。
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※大庭の味方: 酒匂川東岸で三浦勢に焼かれたのは大庭軍の曽我祐信邸か。石橋山から約12km、煙は
遠望できる。13年後に勃発した「曽我の仇討ち」の主人公・曽我兄弟の養父の所領である。
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平安末期の合戦には作法があって、これを守らないと武士の恥となる「卑怯の謗り」を受けた。本当かね。
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@ まず牒(軍使)を交換して開戦の時間と場所を相互に確認する。
A 定刻に双方の軍が相対し代表者が出て口上を述べる。血統や過去の武勲などを自慢し自軍の正当性と敵の不正義を主張し合う。
B 双方が鏑矢を放って開戦となる。続いて50〜100mの距離を隔てた矢戦となる。
C 矢が尽きたら騎馬武者の矢戦、騎馬武者一人に数人の部下が従う。勝敗の帰趨が決まった時点で勝者側が兵を引き勝ちどきを挙げ戦闘終了。
D その他にも幾つか面白い決め事が伝わっている。馬を射てはダメ、非戦闘員を攻撃してはダメ、騎馬武者は徒歩の敵を攻撃してはダメ、など。
でも徒歩の兵が騎馬武者を攻撃するのはOKだから、この場合は下馬して戦うか逃げるしか道はない、らしい。変なの!
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ただし、どの時代にも「勝つためには何でもあり」と考える連中がいる。必ずしもルール通りに進まなかったケースも多かった。
石橋山の場合は豪雨の夕暮れだから軍記物のように華々しい展開ではなく、雨中で遭遇した先鋒か偵察部隊同士が突然の白兵戦を展開したと推定される。勝敗の帰趨は間もなく明らかになったがそれで終戦とはならず、敗走する頼朝軍を追って大庭軍による執拗な掃討戦が続いた。
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頼朝軍は退却して陣容の立て直しを図ったが湯河原の堀口合戦でも敵を食い止められず更に退却、頼朝と近臣は土肥實平の先導で箱根に続く山に逃げ込んだ。
北條時政 と二男
義時 は甲斐源氏
武田信義 らの応援を得るべく甲斐を目指し、
狩野茂光 と
北條宗時 らは日金山から本領の伊豆を目指して函南へ。
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そして石橋山合戦の10年後、覇権を握った頼朝は再び石橋山を訪れている。
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【 吾妻鏡 建久元年(1190) 1月20日 】.
頼朝は二所詣を終えて鎌倉に戻った。今後の参詣は三嶋大社と筥根(箱根)権現を経て伊豆山権現に向うルートに変更と定めた。従来は伊豆山が最初だったが、頼朝は途中の石橋山で治承合戦の際に死んだ佐奈田与一と豊三の墓を見て落涙した。彼ら両人が敵に討ち取られた悲しみを思い出して涙を流すのは不吉であり、参詣の行事には憚られるため順路を改めたものである。
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二所詣とは鎌倉から相模路を通って伊豆山権現へ、さらに日金山を経由して三島明神から箱根権現へ参詣する恒例行事。いずれも頼朝に崇敬され庇護寄進を受けていた神社で、頼朝は4回・政子は2回・実朝は8回実施している。ニ所は筥根権現と伊豆山権現、実質的には三嶋大社を含む三所である。
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【 曽我物語が描いたニ所詣の姿 】.
御供の人々は和田、畠山、川越、高坂、江戸、豊島、玉の井、小山、宇都宮、山名、里見の人々をはじめとして350余騎、花を織り紅葉を重ね、装束は綺羅天を輝かし陣頭に雲をおほひ、水干・浄衣・白直垂・布衣、権勢あたりを払い行粧目をおどろかす。およそ、中間、雑色にいたるまで景色に色をつくす。後陣の警護の武士甲冑をよろひ、弓箭を帯する隋兵上下につがひ、左右の帯刀二行にならび、御調度懸の人、左手右手にあひならぶ...
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【 ニ所詣のルート・その他について 】.
最初のニ所詣は文治四年(1188)の1月、
義経 捜索を契機にして全国に守護地頭を配し、鎌倉幕府の地盤が固まり始めた時期である。前年の12月27日には同行する御家人を選んで潔斎を命じ、頼朝自身も16日には精進を始めている。18日には甲斐・伊豆・駿河の御家人に参詣ルートの警備を指示し、1月20日には
石和信光 ・
上総廣常 ・
加賀美次郎(小笠原長清) ・
小山七郎(結城朝光) 以下の隋兵300騎を従えて出発、
三浦義澄 が差配して相模川に浮橋を設けた。鎌倉帰着は26日で、以後は6日間の行程が基本となった。
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前記した建久元年の「頼朝の涙事件」以降の順路は小田原の酒匂川沿いを遡って箱根権現→ 西へ下って三嶋大社→ 日金山を越えて走湯権現→ 酒匂川から六本松峠を越え二宮を経て鎌倉へ戻るルートとなり、三代将軍実朝以後の時代まで継承された。