湯の庄司
佐藤基治 は現在の飯坂温泉街西の舘山 (たてのやま・230m)山頂の大鳥城に本拠地を構えていた。南に小川、東に摺上川 (すりかみかわ)、北に赤川が流れて天然の堀を
形成する、周囲との高低差約100mの山城である。案内図では急峻だが頂上の本丸跡まで車で登れるから特に難攻不落と言うほどではなく、濠や土塁の跡も基治時代か後世の物か
は判然としない。今回は駆け足旅行だったため疲労困憊の状態で、ロクに記録を残せなかったのが悔やまれる。遺構の詳細は「大鳥城」で検索すると複数のサイトがヒットする。
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佐藤基治は東山道(奥州街道)を攻め上って来る鎌倉軍を迎え撃つため摺上川に架かる十綱橋
※を切り落として退路を断ち、15km南に進んで布陣した。
奥州藤原氏滅亡が決定的になった
阿津賀志山防塁 攻防の前哨戦
石那坂(いしなざか)の合戦(共に別窓)である。衆寡敵せず、基治軍はすぐに敗れ大鳥城も落城した。
ただし、現在では石那坂の合戦は実際には存在せず、大鳥城(実際には防御の柵というべきか)の攻防を取り違えて記録したのだろう考える説が主流になっている、らしい。
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※十綱橋:昔は10本の蔦を編んで渡した上に板を敷いた、と伝わる。現在はライトアップされ飯坂温泉のシンボル的存在になっている。
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奥州藤原氏の四代当主
泰衡 は大鳥城のある湯野(飯坂)から16km北の阿津賀志山(現在の厚樫山)南麓と阿武隈川を結ぶラインを防衛線とし、1年以上を費やして
2〜4重の土塁と濠を構築した。つまり奥州藤原氏は阿津賀志山以南(基治の本領)を放棄したため、佐藤一族は阿津賀志山で徹底抗戦する意欲を失っていた、可能性もある。
本気で戦わずに投降し、奥州藤原氏滅亡後に赦免されて大鳥城に戻り暫くして伊勢に移封されたのではないか、と。
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伊勢佐藤氏系図にある「基治の嫡子隆治が信夫荘を安堵されて鎌倉御家人になった」事から考えると、一族が必ずしも決死の覚悟で石那坂合戦に臨んだのではない、らしい。 伝・石那坂合戦場、大鳥城、阿津賀志山防塁の位置図は
こちらで。