三郎祐泰の館跡と伝わる河津八幡神社 

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河津三郎祐泰 の年齢は推測するしかない。1172年産まれの長男 一萬 (後の祐成) が五歳の時に死んだのだから、当時の常識から考えれば享年は27才前後か。
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祐継の死を契機に 祐親 が伊東に入って支配権を確立したのが1160年、この時の嫡子祐泰は既に元服して河津三郎を名乗っているから15歳だったと仮定すると
久安五年 (1149) 生まれ。最初の子が生まれた年齢にしては遅いが、奥野の巻き狩りの帰り道に赤沢の椎の木三本で遠矢を受けて横死した安元二年 (1176)
には29歳となる。27歳〜29歳、従って 頼朝 とほぼ同じ世代だ。
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平治物語に拠れば、伊豆大島に流された 為朝 が乱暴狼藉の末に討伐されたのが嘉応二年(1170)の春。 狩野茂光 が勅許を得て伊豆の武者500騎以上を従え、
軍船20艘以上で押し寄せた。この時には伊藤(伊東)・北條・宇佐美・加藤・新田・天野など伊豆の武士が加わっているから、推定で当時23歳の河津三郎祐泰も
同行していたと思う。ちなみに、この時に自害した為朝の首を獲ったのが14歳前後の 加藤景廉。為朝は自慢の強弓一矢で軍船を沈没させてから自害している。
源平盛衰記の記述だから、どこまで信用して良いか判らないけれど。
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いずれにしても河津祐泰に関する史料はごく少ないため、格闘技の巧者で力が強かったまでは曽我物語に従うとしても、その他のプロフィルを描くのはむずかしい。
河津の伝承では「戦乱で夫を失った寡婦らのために幾つもの尼寺を創建した心優しい領主」としているが、祐泰が河津を支配した永暦元年 (1160) 〜安元二年
(1176) の伊豆には大きな戦役は記録されていない。地元の郷土史家による贔屓の引き倒し、か。河津八幡神社の地図はこちらで。


   

           左: 河津は花の町。早春の桜、初夏のバラ、天城の石楠花などが名高い。特に2月の寒桜の頃、河津川の土手は酷い混雑に悩まされる。河津川土手の
桜は老木になっても河川管理の制約があって植え替えができず、桜に頼った町の活性化が見込めないのは辛い。
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22億円を費やして2001年に開園した 河津バガテル公園 は客数の不足で深刻な赤字、2019年6月に運営管理会社を募集して外部委託に
切り替える計画だ。2017年には過大な箱物行政による財政悪化で町長のリコールが成立、小さな町が借金に苦しんでいる。
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           中: 河津三郎館跡に建つ河津八幡神社は深い山を背にし、すぐ前には河津川が流れる。元々は伊東祐親が祖父祐隆から継承し本領とした地域だ。
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           右: 公民館を併設し短時間なら数台の駐車が可能。小字名は館跡、隣の峰地区には砦跡・小土倉(米蔵)・どんばね(馬場)などの地名が残る。


   

           左: 境内には祐泰や家臣が鍛練に使った石が並ぶ。他にもあった大小数10ヶの石は昭和13年の神社裏の山崩れで境内に埋没したと伝わる。
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           中: 「祐泰の手玉石」は約320kg。かつて巡業で河津を訪れた横綱男女川と大関前田山でさえ胸の高さまで持ち上げるのがやっとだったとか。
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           右: 神社の祭神は河津三郎と曽我兄弟の十郎祐成と五郎時致。手玉石を持ち上げている銅像は河津町出身の彫刻家・後藤白童の作。
三郎祐泰は赤沢で横死、伊東祐親は寿永元年(1182)自刃、遺児は17年後の仇討ちで死没。戦乱の世とはいえ不幸な一族だった。


 

           左: 河津駅前にあった兄弟の像は2005年10月に境内に移設され、晴れて親子が同じ境内で対面している。二人は母の再婚先の曽我で
育ったが、仇討ちでは「曽我にあらず、河津の子」と名乗った、と伝わる。母と養父を気遣ったか、河津一族のプライドか。
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           右: 神社の横に建つ祐泰夫妻の慰霊墓。祐泰の墓は伊東の東林寺、妻満劫の墓は曽我の法蓮寺に残る自然石が本来のものと推測される。