新田義重夫妻の墓 

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義重 (永久2年〜建仁2年・1114〜1202) は新田氏の祖とされる。父の 義国 は自ら開いた足利荘を次男 (嫡男) の 義康 に譲り、長男 義重と共に天永元年 (1108) の
浅間山噴火で荒廃し耕作放棄地が広がっていた広大なエリアの再生に取り掛かった。保元二年 (1157) には平家に近い公卿の藤原忠雅を領家として正式な荘園となったが、
この地は利根川を隔てて義賢の本拠地・大蔵や秩父平氏の領域に接していたため頻繁に武力衝突を起こし、義国と義重は衝突に勝ち抜いて北関東での勢力を確立した。
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早くから 頼朝 の旗揚げに加わった足利一族と違って参加が遅れたため頼朝の不興を買ったが、これは源氏本流としてのプライド・平家と縁が深かった事・北関東で築いた
大きな実力などが影響していた、とされる。また娘(義平 の寡婦)を頼朝の妾とするのを拒むなどもあり、鎌倉とは良好な関係を保てなかった。これが足利と新田の処遇の差と
なって尾を引き、最終的には 新田義貞 による幕府打倒の遠因になった、とも言える。
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義重は次男(四男とも)の 義季 を特に可愛がり、得川・女塚・押切・世良田・平塚・三ツ木など新田荘南部の広大な地域を継承させて晩年は正室(頼光 の弟 頼親 の二男である
頼房の二男・源親弘の娘)と共にこの地に移り、死後は邸内に葬られた。墓石の高さは約140cm、割れた天蓋部分は切断面を整えられ鉄の帯(天保八年・1838年銘) で
補修されている。昭和45年の墓地整備の時に3基の礎石下から火葬骨の入った灰釉陶器の骨壷が出土した。遺骨は元通りに埋葬され骨壷のみ近くの 満徳寺 に収蔵されている。
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義季は徳川家の遠祖とされているが、これは欺瞞である。得川氏は正式には世良田の地頭であり、吾妻鏡に記載のある「徳河義秀」とは別人であること、などによる。
クールな見方をすれば、徳川幕府による意図的な清和源氏の血統偽装だと判断される。


     

              左: 徳川郷主だった正田義長が寛永年間に勧進した東照宮の裏手、見事なネギ畑を背景にして農地の中に参道が造られている。
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              中: 覆屋で保護されているが、3基とも劣化が進んでいる。むしろ5kmほど西にある義国(義重の父)の墓石の方が保存状態は良い。
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              右: 墓所の一帯は徳川幕府による手厚い保護を受けてきたという。凝灰岩で造られた墓石の天頂部はすでに失われている。

この頁は2022年 9月 3日に更新しました。