源義清は常陸武田郷から甲斐市河荘へ 

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右:甲斐市河荘関連の史跡マップ   画像をクリック→ 拡大表示
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市河荘は京都 仁和寺(公式サイト)の子院で白河天皇が建立した法勝院領、甲斐国では最も古い10世紀に成立し、八代・山梨・巨麻の三郡に跨る広大な面積を領有していた。甲斐国史に拠れば天平勝宝七年(755)に 行基 が開いた法相宗の平塩山寺白雲寺(既に廃寺)があり、周辺は門前町として繁栄していたという。
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甲斐源氏館の旧跡は平塩寺東側の小高い岡に熊野神社と並んで、石柵に囲まれた銅碑が建っている(平塩館周辺の詳細地図)。ギャラリーなどがメインの市川三郷町営の公共施設 ひらしお源氏の館(甲斐源氏とは無関係、正式名称は「文化と武道の館」)の駐車場が利用できる。館跡まで約500mをなだらかに下る、ちょうど良い散歩コースだ。
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平塩寺の西塔院だった宝壽院は更に200m先で、東塔院の福壽院は更にその800m先、歩けない距離ではないが急な下り坂があるので別ルートを考えるほうが良い。どちらも参拝用の駐車場を備えている。
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白雲寺は延暦年間(810~824)に法相宗から天台宗の白雲山平塩寺に改め、甲斐布教の拠点となった。1120年前後には 源義光 の末子・覚義 (義清 の末弟)が総本山の三井寺から派遣され、市河別当として平塩寺を管理していた。
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常陸を追われこの地に土着した当初の義清が(流人にも拘らず)市河荘と青島荘(現在の浅利地区)の下司職を務められ、1135年頃には甲斐国の目代に任じたのは義光と
覚義の縁故をフルに利用したからだろう。ちなみに、覚義の子孫も武田家臣団の市川(市河)氏として甲斐の歴史に名を残している。
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※東西の塔院: 平塩寺は天正十年(1582)の武田家滅亡と共に信長の兵火で焼けて廃寺となり、塔頭の一部が丘陵を離れて北側に移転した。
これが東塔院の福壽院(かつての本尊は阿弥陀如来)が西にあり、西塔院の宝壽院(かつての本尊は薬師如来)が東にある理由で、この時点で東西が逆に
なったらしい。福壽院も宝壽院も現在の本尊は虚空菩薩、信長の兵火で焼けた後に移転して再建し、真言宗に改めている。


     

           左: 南側山地からの鳥瞰画像。平塩寺は天正年間に廃寺となり、寺域の堂塔と門前町は丘陵地帯を離れて北側の笛吹川近くに移転した。
東塔院だった福壽院は1kmほど北西の平地へ、西塔院だった宝壽院は400m北西(市川大門駅南側)に移転している。
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その他にも塔頭(敷地内にあった子院)の幾つかが移転して今に伝わっているようで、例えば法壽院東側の花園院(開山は慈恵)もその一つ。
ここには平塩寺当時の過去帳も伝わっているらしい。
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           中: 大門碑林公園ひらしお源氏の館 前の駐車場から源氏館跡の方向(中央に見える森)を。館の跡から笛吹川までの標高差は約40m。
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           右: 館跡の高台から北西の甲府盆地南部を眺める。後に義清の子 清光 が進出して行く逸見荘(北杜市)や、清光の子 (武田) 信義が館を構えて
武田氏の祖となった聖地・武田の郷(韮崎市)などがこの方向にある。


     

           左: 東西200m×南北50mほどの丘が義清の館跡と伝わる。義清の歌碑・・いととしく 埴生の小屋のいぶせきに 千鳥なくなり 市河の森
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           中: 石垣に囲まれた甲斐源氏旧跡の銅碑。明治十八年(1885)に公爵三條實美が揮毫し、当時の郡長・依田孝氏らの尽力で建立された。
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           右: 石碑西側の熊野神社。義清が平塩周辺の地の神を集め甲斐源氏の守護神として祀ったのが創建と伝わる。社殿は江戸時代末期の建築らしいが、
詳細は不明。源氏の系統は八幡神社だけかと思ったら熊野神社を氏神として祀るケースもある、らしい。

寛治元年(1087)、新羅三郎義光は後三年の役で苦戦を続けた兄 八幡太郎義家 の陣に加わって功績を挙げ、甲斐守に任じられた。
義光の三男義清は天永年間(1110~1113)に常陸から甲斐に下向し、峡南市河庄青島庄々司として平塩に館を築き甲斐源氏勃興の基を開いた。
平塩の丘から望む八ヶ岳の山麓は広大な逸見庄で牧草が密生した放牧の最適地で、義清は嫡男清光と共にこの地に移って馬の飼育に精進した。
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やがて甲斐の黒駒と呼ぶ名馬の産地となり優れた馬を朝廷に献上していたが、義清は久安五年(1149)7月23日に市河庄平塩の館で病没、享年75。
嫡子清光は逸見庄に本拠を移して逸見冠者・黒源太とも呼ばれ、近隣に名を轟かす勇猛な武将となった。


     

           左: 源氏館跡に相対した丘に白雲山平塩寺(平塩山白雲寺とも)の跡が残る。天平七年(735)に行基が直辨を開山和尚として建立したのが起源。
建立当初は法相宗、東塔院は阿弥陀如来・西塔院は薬師如来を本尊とした。
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           中: 常陸から甲斐に流罪となった源義清が市河荘下司職に就いたのは弟の覚義阿闍梨が市河荘にいて平塩寺を隆盛させていた関係らしい。
覚義は大蔵館に住んで 源義賢義朝の弟)に与した人物で、義賢が 悪源太義平 に殺された後に市河に落ち延びて定住し、御崎明神(現在の
市川三郷町の表門神社)に入り市河氏の祖となった。覚義の子・覚光と孫の行房が平塩寺別当職を継承している。
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           右: 平塩寺は延暦年間(782~802)に天台宗に改め平安末期から寺領を広げて繁栄した。臨済宗の名僧 夢窓疎石 (wiki) も平塩寺で得度した。
夢窓疎石は鎌倉の 瑞泉寺(公式サイト)に異形の庭園を造った事でも知られている(共に別窓)。


     

           左: 1000坪を越す敷地の隅にポツンと正木稲荷社が建っている。桜の名所としても知られているが、神社の起源など詳細は不明。
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           中: 社の裏手に古い石碑と建物の礎石が並ぶ一角がある。平塩寺が廃寺となったのは天正十年(1582)の武田家滅亡の直後らしい。
石碑は歴代和尚の墓だから、平塩寺の礎石と共に残っていた可能性もある。次回はしっかりと見届けよう。
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           右: 若草町の 法善寺(別窓)の大般若経(建長六年・1254年銘)や大月の 花井寺(外部リンク)大般若経(安貞二年・1228年銘)は
いずれも平塩寺で書写したもので、鎌倉時代には甲斐国全域に勢力を有した巨刹だったらしい。


     

           左&中: 白雲山平塩寺の塔頭(東塔院)だった高学山福壽院。白壁の妙な造りで庫裡は右手にある。左には正徳五年(1716)建立の地蔵堂が
ある筈だが、メモしたにも拘らず確認するのを完全に忘れてしまった。本尊は 行基作と伝わる毘沙門天像。
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           右: 左側には参拝者用の駐車場がある。花期には樹齢100年の枝垂れ桜が見事と言われる。混雑するだろうけどね。


     

           左&中: 街中の小さな福壽院と違って広大な霊園と夢窓国師が手掛けた庭園も見事な金剛山宝壽寺、平塩寺西塔院にあたる。
本尊は虚空蔵菩薩像、夢窓国師(疎石・臨済宗の禅僧・1275~1351)が植えた桜の六代目と伝わる樹齢200年のしだれ桜が見事。
夢窓国師は九歳の時にこの寺で出家し、十八歳まで修行している。周辺道路が狭いうえに台地の北隅に建っているのでアプローチは面倒だが、
東西に広い駐車場を備えている。
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           右: 本堂に架かる寳壽院の扁額は「高野山管長 大...」までは読めるが、その続きは判らない。公式サイトはこちら


     

           左: 表門と書いて「うわと《または「うわど」と読むのは古い時代に上戸村だった経緯らしい。義清の末弟・覚義阿闍梨が圓城寺(三井寺)から
義賢の大蔵館を経て市河荘に土着し、御崎明神(現在の表門神社)の婿となって平塩寺の隆盛に寄与した、と伝わる。覚義に続いて嫡子覚光と
孫の行房が平塩寺別当職に任じ、戦国時代には謙信の武将として活躍し、越後→会津→北海道と本拠を移した市河氏へと続く。
市河氏の始祖は覚義だが、三代目の行房は義清と市河氏の娘の間に生まれた子、と伝わっている。
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           中&右: 朱塗りの神門の両袖には弓矢を持った武者像を配しているが、この由来は判らない。左袖は老齢・右袖は若い武者姿だから義清と清光の像か、
上記した行房を模しているのかも知れない。行房は治承四年(1180)8月25日の波志太山合戦に甲斐源氏の一員として記載がある。


     

           左: こちらは若い武者の像。神門の両袖に老若の武者像を配しているのを見たのは、浅利与一義成を祀った 諏訪神社の中段と、那須与一を祀った
栃木の那須神社(共に別窓)に続いて確か三回目、まだ他にもあるのだろう。
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           中: 祭神は天照大御神・倉稻魂命(稲荷神)・瓊瓊杵尊(ニニギノミコト・天孫降臨神話の主役)の三柱。社伝に拠る創建は永保元年(1081)だから
新羅三郎義光(1045~1127)の時代に該当する。白河天皇が病床にあったとき在京していた神主の祈祷により治癒した功績で市河荘を得た、
とされる。覚義は甲斐守だった父・義光の縁を利用して婿に入り、更に義清・清光土着と勢力拡大が始まっていく。
本殿の建造は元禄八年(1695)、既に320年が過ぎている。
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           右: 神楽殿も本殿と同時期の造営。ちょっと変った日程の例大祭(二月の第一日曜)には記紀神話に基づいた「太太神楽」を演じる。

この頁は2022年 8月 5日に更新しました。