秩父吉田の重綱館 (
地図) から20km東の荒川右岸 (
地図) に移住した秩父重弘が初めて「畠山」の姓を名乗った館跡で、摘孫の
重忠 も長寛ニ年 (1164) にここで生まれた。
重忠の父は
重能、母は
三浦義明 の娘である。
※右画像: 秩父氏発祥の地・中村郷から利根川付近まで点在する史跡群。 クリック→ 拡大表示
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系図は、
葛原親王 (
桓武天皇 の子) →
高見王 (子孫に
将門・
清盛・
北條時政 ら) →
平良文 (武蔵守に任じて村岡(神奈川県藤沢市村岡) を開墾、村岡五郎を名乗る)→忠頼 (武蔵押領使
※兼陸奥守) → 将常 (武蔵権守となり秩父郡大宮郷に住み秩父氏を称す) → 武基 (秩父牧 別当・朝廷牧の管理) → 武綱 (後三年の役に参戦、義家から白旗を授かる) → 重綱 (秩父出羽権守・武蔵留守所総検校職) → 重弘 (畠山郷に移り畠山氏を称す) → 重能→次男 (異説あり) で嫡男となった重忠 (後に菅谷館に移る) → 嫡子重保。
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畠山重能の父・重弘は重綱の長男だったが、秩父氏の家督は弟の
重隆(後妻の子?)が継承した。本来なら家督を継ぐ血筋だった重能は重綱の所領の一部である畠山郷を分与されたが、秩父氏棟梁となった弟の重隆とは相容れない関係になった、と思われる。
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重隆は源氏の棟梁
為義 の次男で帯刀先生
※に任じていた
義賢 に娘を嫁がせた。義賢は相模国に勢力を持つ異母兄の
義朝 に対抗して比企郡大蔵の重隆館に住み、秩父氏の後ろ盾を得て北関東に地盤を築きつつあった。為義は長男義朝と仲が悪く、義朝を牽制するために義賢を北関東に送ったとも言われている。
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※押領使: 指定地域の治安維持・反乱の鎮圧などを任務にした実働部隊の指揮官。
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※帯刀先生:(たてはき(の)せんじょう)は宝亀七年(776)に設けられた官職で皇太子の武双護衛官が帯刀、その指揮官が先生。
この時点の義賢は勤務上の失策があり、公職を解任されて父 為義の指示に従っている。
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そして久寿二年(1155)に父の命を受けた義朝の長男
義平 は鎌倉から兵を率いて
大蔵館 を襲撃し、義賢とともに秩父重隆を討ち取った。この合戦には重能も義平の部下として重隆を殺す側に加わっている。大蔵館を制圧した義平は重能に義賢の次男・駒王丸(後の
木曽義仲・当時2歳)の殺害を命じたが、重能は
斎藤實盛 の手を借りて駒王丸と生母の小枝御前を木曽へ逃がし、乳母夫の
中原兼遠 に養育を委ねた。木曽義仲にとっては実盛と並ぶ命の恩人である。
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大蔵合戦を契機にして重能は近在に勢力を広げ秩父氏の棟梁となったが、なぜか嫡流の官職である武蔵国留守所総検校職は継承しておらず、殺された重隆の孫である
河越重頼 が着任している。平治の乱(平治元年・1159年12月)で義朝が敗死した後の重能は弟の
小山田有重と協力し、永暦元年(1160)に武蔵国の国守となった
平知盛 に仕えて現地での管理権を維持し続けた。頼朝が挙兵した治承四年(1180)には隠居して以後の惣領権を嫡子重忠に譲った。厳しい表現をするなら、平家に与力した責任を背負って引責辞任し、重忠に「平家の与党」という負の遺産が及ぶ危険を避けたのだろう。
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※武蔵国留守所総検校職: 当時の国守「守」は任地に下向しない 遙任 が多く、実際の管理業務は国衙(国府)で実務を担当する在庁官人(「介」以下の役人)に委ねられて
いた。当初の留守所総検校職は徴兵の権限まで任されていたが、この時代は殆ど名誉職になっている。
義経 に連座して追討された重頼の次の総検校職は重忠が就任し、重忠が討伐された後は重頼の三男重員が着任したが、実権は武蔵守に任じた
北條泰時 が掌握していた。
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治承四年(1180)の頼朝挙兵の際には、畠山重能と弟の小山田有重は大番役(京都守護の兵役)で在京しており、
平宗盛の命を受け北陸で木曽義仲と戦い敗れている。
義仲にとって重能は父の義賢を殺した仇であると同時に自分の命を救った恩人という複雑な関係で、更にもう一人の恩人
斎藤実盛 も平家軍という因縁の深い戦いだった。
倶利伽羅峠 に続く加賀篠原の合戦には平家の武者として
伊東祐清(祐親二男) や
俣野景久(
大庭景親の弟)らと共に斎藤実盛も戦死している。
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平家物語に拠れば、平家の都落ちに際して東国の武士であるという理由で拘束されていた重能と有重と
宇都宮朝綱 は殺される筈だったが、
平知盛の配慮によって東国へ戻ることになる場面が描かれている。重能らは20年以上に亘って平家に仕えたが時代の流れは平家から源氏へと移り、当初は平家の武将として源氏と戦った嫡男・重忠も義父の
三浦義明 を衣笠で滅ぼした後は頼朝に従った。その後の重能は史料に現れず、畠山一族にも世代交代が訪れたらしい。