源氏山中腹に建つ弥勅堂は弘仁年間 (810〜824年) に伊豆を布教して歩いた空海が開き、等身大の弥勒菩薩石像を刻んで本尊とした、と伝わる。菖蒲の前は
菖蒲の前はこの像を深く信仰していた。空海は承和二年 (835) の入寂だから年代は合致するが、唐から帰国 した延暦25年 (806) 以後は高野山・東大寺・東寺
などで後世に残る宗教活動を行なっている。とても伊豆まで足を伸ばす余裕はないが、弘法大師伝説は史実と無関係の世界なのだ。信仰は事実よりも強い (笑)。
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弥勅菩薩は釈迦の入滅後56億7千万年を経て高野山奥の院に出現し人々を救済する仏。弥勒菩薩に従って空海も現実世界に来生する、という真言密教の世界。
その来生に立ち会うため人々は奥の院参道に墓地を設け、或いは分身の小石を参道に置く。806年〜835年の間に空海が創り上げた壮大な現実と空想の融合だ。
昭和五年 (1930) の北伊豆地震 (М7.3) で堂や周辺の建物が悉く倒壊した時も、弘法大師の刻んだと伝わる弥勒菩薩像は微動だにしなかったんだと!
北伊豆地震が丹那盆地に残した現実世界の痕跡は
こちら(別窓)で紹介してある。
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弥勒堂から石段を下った平場が剃髪した菖蒲の前が西妙を名乗って頼政の菩提を弔った草庵の場所で、近在の住人は「菖蒲屋敷」と呼んでいたという。
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菖蒲の前に関係する場所は西伊豆の西浦にもあり、かなり山奥に入った
禅長寺 (別窓・臨済宗円覚寺派) に住んで余生を過ごしたとも伝わる。元禄十一年 (1698)
に至り、頼政の子孫を称する松平輝貞 (徳川綱吉と吉宗の側近で上野国高崎藩主) が資金を提供して頼政堂を新築し、頼政と菖蒲の前の木像を安置した。
菖蒲の前は折りに触れ弥勒堂のある源氏山の温泉を訪れたとの伝承もあるが、禅長寺と源氏山は約10km離れており、額面通りに信用できない部分も残る。