鎌倉宮(公式サイト)はまだ建っていない。建武二年(1335)に二階堂に近い東光寺で殺された護良親王(
後醍醐天皇の皇子)の功績を讃えて
明治六年(1873)に創建された神社である。小学生の時に連れて行かれた記憶はあるのだが、たかが創建百年と少々の社なのに拝観料300円は
不愉快なので私は立ち寄らない。そもそも鎌倉で拝観を有料にしている神社は実に珍しい。
重用された。続く六十代醍醐天皇にも寵愛を受け右大臣まで昇進したが、政敵の左大臣藤原時平による讒訴を受けて昌泰四年(901)に大宰府に
左遷され、延喜元年(903)に没して
太宰府天満宮(公式サイト)に葬られた。左遷と同時に四人の子息も連座して同様の措置を受けたが、彼らは
道真没後に公職復帰している。直接の契機は時平の讒訴だが、背後には上皇となって院政を司った宇多上皇と六十代醍醐天皇の確執があったためとも
言われる。下向の際に詠んだ
「東風(こち)吹かば 匂ひをこせよ 梅の花 主(あるじ)なしとて 春な忘れそ」は名高い。
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道真の死後は長い間天変地異が続き、清涼殿に落雷して死傷者を出す騒ぎに発展した。これを道真の怨霊として恐れた朝廷は彼の冤罪を取り消して
官位を遺贈し「祟り神」として恐れ敬うようになった。鎌倉時代には怨霊の意味合いが薄れて慈悲または守護神となり、
頼朝 は大倉御所の鬼門(北東)
を守る神として崇め庇護を与えた。代々の将軍もこれを踏襲した、と伝わる。
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大江廣元 邸を出た
北條時政 が馬を停め比企氏の処遇を考えた件や通行税の件を併せると鎌倉時代には六浦道のランドマークだったらしい。