六浦道(金沢街道)と二階堂大路が交差する岐れ道周辺の風景 

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              左: 六浦道(金沢街道)の岐れ道周辺地図。大御堂橋を渡ると文覚 邸跡、更に奥は勝長寿院跡の谷戸に続いている。岐れ道北東は鎌倉宮を経て二階堂永福寺跡に
続く。突然の病に倒れた二代将軍頼家 が奇跡的に癒えた建仁三年(1203)9月2日、比企能員の処遇に就いて 大江廣元 との相談を済ませて十二所の
廣元邸から名越邸に帰る北條時政は荏柄天神社の前で馬を停めた。やや考えてから 天野遠景 らに比企能員謀殺を命じたと吾妻鏡が書いたのはこの辺りか。
また、執権就任前の 義時 の屋敷もこの付近にあったと伝わっている。
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              中&右: 小田原北条氏三代当主の北条氏康が商人や荏柄天神の参詣者から通行税を徴収した関取場の碑。二階堂大路の突き当たりにあって観光客を集めている
鎌倉宮(公式サイト)はまだ建っていない。建武二年(1335)に二階堂に近い東光寺で殺された護良親王(後醍醐天皇の皇子)の功績を讃えて
明治六年(1873)に創建された神社である。小学生の時に連れて行かれた記憶はあるのだが、たかが創建百年と少々の社なのに拝観料300円は
不愉快なので私は立ち寄らない。そもそも鎌倉で拝観を有料にしている神社は実に珍しい。


     

              左&中: 荏柄(えがら)天神社の創建は長治元年(1104)、全国に点在する菅原神社の一つである。菅原道真は優れた政治家として第五十九代宇多天皇に
重用された。続く六十代醍醐天皇にも寵愛を受け右大臣まで昇進したが、政敵の左大臣藤原時平による讒訴を受けて昌泰四年(901)に大宰府に
左遷され、延喜元年(903)に没して 太宰府天満宮(公式サイト)に葬られた。左遷と同時に四人の子息も連座して同様の措置を受けたが、彼らは
道真没後に公職復帰している。直接の契機は時平の讒訴だが、背後には上皇となって院政を司った宇多上皇と六十代醍醐天皇の確執があったためとも
言われる。下向の際に詠んだ「東風(こち)吹かば 匂ひをこせよ 梅の花 主(あるじ)なしとて 春な忘れそ」は名高い。
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道真の死後は長い間天変地異が続き、清涼殿に落雷して死傷者を出す騒ぎに発展した。これを道真の怨霊として恐れた朝廷は彼の冤罪を取り消して
官位を遺贈し「祟り神」として恐れ敬うようになった。鎌倉時代には怨霊の意味合いが薄れて慈悲または守護神となり、頼朝 は大倉御所の鬼門(北東)
を守る神として崇め庇護を与えた。代々の将軍もこれを踏襲した、と伝わる。
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大江廣元 邸を出た 北條時政 が馬を停め比企氏の処遇を考えた件や通行税の件を併せると鎌倉時代には六浦道のランドマークだったらしい。
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              右: 本殿は二階堂大路から100mほど北の高台にあり、大御堂橋方向の眺望が開けている。境内には樹齢900年前後の大銀杏があり、既に倒れて枯死した
鶴岡八幡宮の大銀杏にも匹敵する巨木である。

この頁は2022年 9月 13日に更新しました。