相模国総社 六所神社 

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大磯鳥瞰図 左:大磯プリンス上空から見た国府一帯      画像をクリック→拡大
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藤原京(飛鳥京(明日香村)の西北、現在の橿原市、地図)にあった都が平城京に遷る前後(和銅の頃・西暦710年前後)
から諸国の行政区分を再編成する作業が進み、新たに領国に赴任した国司はまず周辺の有力な神社を巡拝して安寧を祈願する
習慣が定着したという。
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やや時代が下った頃、巡拝の費用と手間などを省くため国府に近い一ヶ所の神社に有力神社の分霊を勧請して祀り祈願所と
定めるようになった。相模国の国府が平塚市四之宮に定められたのは天平年間(729〜749年)、国府が四之宮から
大磯に移った正確な時代は不明だが、僅かな史料に依拠すれば平安時代末期の1100年代初頭よりも前、と推定されている。
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相模国では一之宮寒川神社二之宮川匂神社三之宮比々多神社四之宮前鳥神社平塚八幡宮 の五社を柳田 (大磯の古名)
大神に合祀して総社としたのが六所神社、と伝わる(川匂神社は W iki、他は公式サイト)。
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これは代表格とか順位がトップとかを表す意味ではなく、一ヶ所に纏めたから「総社」の意味らしい。
従って六所神社を総社に定めたのは、国府を平塚市四之宮から大磯に遷したのと同じ時代だった可能性が高い、と思う。
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【吾妻鏡 治承四年(1180) 10月16日】
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頼朝は鶴岡八幡宮で勤行を行い相模国桑原郷を御供料とし、また今日駿河国に向け出発した。平氏の大将軍惟盛が数万騎を率いて去る13日に駿河国手越に到着した
との連絡があったためである。また今夜 相模国府六所宮に到着し、相模国早河庄を箱根権現に寄進する旨の指示書を発行した。
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相模国府の庁舎が現在の六所神社の位置にあったと確認できる出土品や発掘資料はないが、富士川合戦から鎌倉に戻る頼朝が論功行賞を行った国府が現在の「国府本郷」
エリア内だったのは間違いない。吾妻鏡の記載をそのまま信じて、国府庁舎と六所神社が隣接していたとするべきか。
六所神社の地図は こちら、国道1号の鳥居から入ると判りやすいが道が狭いので対向車に要注意、境内入口に数台の駐車スペースがある。


     

           左: 東海道に面した一の鳥居から社頭まで約200m、参道の両側に住宅が密集している上に途中で東海道線のガードを潜るため雰囲気は
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           中: 神池の間を通って拝殿へ。特に目を惹くものはないが、収蔵している二体の神像(公式サイト参照)と、同じ大磯の高来神社の神像及び
伊豆山権現の神像(詳細ページ)との関連を調べるのも面白いかも。いずれも平安時代末期前後に彫られたと推定される木像である。
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           右: 掲載は拝殿の画像のみだが、奥に続いている本殿は五つの扉を設けた総社独特の構造で、これには一見の価値がある。


     

六所神社から1kmほど北東の神揃山(かみそろいやま)の大矢場祭場に六ヶ所の神々が集まって勧請の打ち合わせをし、更には相模一之宮を決めるために
ために寒川神社の神と川匂神社の神が論争した、その伝承を再現する相模国府祭(こくふさい・こうのまち)が毎年5月5日に行われる。
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祭事のメインが「座問答」で、一ノ宮神官と二ノ宮神官が虎の敷皮(神座を意味する)を薦め合う無言の神事があり、三ノ宮神官の「いずれ明年まで」の
言葉で終わるのは、国司が相模の有力神社を一ヶ所に勧請した事を象徴している。祭事の内容は「相模国府祭」で検索すると動画や詳細を確認できる。
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一部にはこの神揃山が当時の国府だったと主張する説もある。神揃山の地図はこちら、住宅街の狭い道を抜けていくので判りにくい。
桜の季節や祭事の前後はとても無理だが、通常の日ならぱ参道横に数台の駐車スペースがある。南麓の馬場公園横にも何とか路駐できる。
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           左: 西側の参道(こちら側は駐車スペースなし)から大矢場方向を見上げる。右側に昭和十七年(1942)建立の大きな「神揃山碑」が建つ。
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           中: 神事の際に五社の神と総社(六所神社の神)が鎮座する神体石(石柱根元の石)。ここに各社の神官が鉾・榊・御幣を奉拝する。
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           右: 5月5日には五社の神輿がそれぞれ数百人の氏子を従えて定刻に着座し、まず各社の祭事が行われるという。すごい混雑になるらしい。

この頁は2022年 8月 4日に更新しました。