坂ノ下埋立地から見た霊山山の要害と稲村古道のルート 


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              左: 稲村ヶ崎から稲瀬川までの地図に撮影地点を落とし込んだ。中央2枚は埋立地顕彰碑の前から、右は画像Aからの撮影。
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              中: 当時と地形は当時から変わっているが、顕彰碑の背後に見える鞍部の付近から稲村路が斜面を下っていたと推定される。
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                【斉藤養之助氏顕徳碑】  昭和三十年十月一日 鎌倉市長 磯部利右衛門     内容は下記の通り。
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この霊仙崎埋立地は昭和十年当時の有志により計画造成せられ、その後斉藤氏の所有になったが、昭和二十四年九月十七日に斉藤氏は本市の進展は
文化観光諸施設の充実にあるとの信念から、この埋立地の内一万坪を将来の都市計画用地として無償供与せられたのである。
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この土地は由比ヶ浜および三浦半島を一望に納め得る景勝の地であり、特に由比ヶ浜に隣接した位置にあるので、その観光的価値は至上のものと
言わなければならない。市は斉藤氏の志を受け、昭和三十年ここに東洋一を誇る市営プールを建設した。
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その完成と同時に天皇皇后両陛下並びに皇太子殿下と高松宮妃殿下のご臨席を仰ぎ、第十回国民体育大会夏季大会水泳競技が挙行されたのである。
これを機に本市は市議会の賛成を得てその義挙を記し、市民と共に永く斉藤氏の徳を称えんとするものである。
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                宮城県の斉藤家は戦前まで全国第二位の大地主だった。収蔵していた多くの文書史料は東北大学に寄贈され、付属図書館で公開している。
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              右: 画像Aから撮影したもの。突き当たりが老人ホーム、右上隅の樹木が2段に茂っている辺りが仏法寺跡付近か。鎌倉時代は崖の下まで
海が迫っており、稲村古道は白いガードレールが見える下り坂付近から波打ち際近くに下っていたらしい。
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太平記が義貞の最前線視察として書いている一節は稲村ヶ崎ではなく、まさに海沿いの稲村道の風景だったに違いない。
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  「南の稲村崎は海沿いの道が狭く、波打ち際に逆茂木を並べ4〜5町(約500m)沖には矢倉を設けた軍船を置いて横矢を射る体勢である。」
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当時の海面が現在よりも高かった事を考えれば、稲村ヶ崎に「波打ち際に逆茂木を並べる」ような浜辺が存在しなかったのは容易に想像できる。
次回はもう少し右側を撮影して、斜面を下る道を歩いてみようと思う。

この頁は2022年 9月 12日に更新しました。