同年9月16日、政子と
大姫 から多くの引出物を与えられた静は母親の磯禅師と共に鎌倉を離れ京に向うが、以後の消息は不明。栃尾の伝承は平泉の義経を追って奥州を目指し、没したと伝えている。
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鎌倉の指示で警戒が厳重になっていた奥州街道と太平洋側を避け、静主従は京都から北陸道を辿り越後を経由して会津に向かおうとした。栃尾(現在の長岡)から六十里越えの峠を越えれば藤原氏の勢力範囲、会津へ下り、平泉へ北上するルートである。現在の八十里越えは国道289→290号だが全通はかなり先になる。墓所の残る栃堀は八十里越えのルートから少し北にズレているのが気に入らない、けれど。
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そして八十里越えに合流する峠の手前・栃堀まで辿り着いた静は長旅の疲労が重なって病となり、療養もむなしく建久元年(1190)4月28日に病没した。従者たちは里人の手を借りて丘の中腹に静を埋葬し、そのふもとに庵を建てて静の後生を弔った。これが高徳寺の起源である、と。現在の墓石は後の世に墓の存在を知った北條一族所縁の者が建て替えたという。
この辺が少し創作っぽいのも気に入らない。
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明治の末、静の伝承に心惹かれた小向村(現在の新潟市小須戸町)のセイという娘が墓を再建するため機織り仕事の手間賃を蓄え続け、2年後に18歳で急死した。
父の長右衛門がその志を継ぎ、村人の協力を得て静とセイを供養する石塔を建立した。これが静御前の墓と並んで建つ石塔の由縁である。
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また義経に従った二人の息子
佐藤継信 と
忠信 を失った母の乙和御前(
佐藤庄司基治 の室)は息子の菩提を弔うため仏門に入った。妙照尼として信夫山(福島)で読経に
明け暮れていた頃の夢に羽黒大権現が現われ「越後に霊場がある。そこへ行って国土を守り諸人の願望を叶えよ」と告げられた。その地が栃尾の小貫であり、尼は出羽国から
羽黒大権現を勧請して今日の羽黒神社を建てた、とされている。
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更に栃尾の伝承によれば...源平合戦の後に那須一族の惣領となった与一は
梶原景時 の讒言によって謹慎となり、越後下田郷
※の五十嵐小文治家に蟄居となった。
小文治は与一を栃尾の赤谷の古戸城に住まわせた、と伝えられている。古戸城は刈谷田川と来伝川に挟まれた栃尾市赤谷の高台であり、城址からは静の墓が東に眺められる。
与一は自分と同様に景時の讒言が遠因で死んだ義経の愛妾静御前の墓を守った、とされている。
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先を急ぐ旅ではなかったが、那須与一や乙和御前の伝承まで現地調査するのは敬遠した。すぐ近くにある道の駅
R290とちお(別窓)も参考に。
栃尾には立ち寄り温泉がなかったため20kmも北の
いい湯らてい(外部サイト)まで移動を余儀なくされていた。栃尾付近は地下に湯脈がなかったらしいが、平成24年
の初夏に高徳寺の近くに温泉施設が完成、詳細は
紹介サイト で。新潟の旅が一段と楽しくなるね。
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※越後下田郷:上記した「いい湯らてい」のある三条市森町字下田一帯で、12代垂仁天皇の第八皇子・五十日足彦が開拓した、と伝わる。
全国の五十嵐氏のルーツがこの地で、清流五十嵐川が流れ、こちらにもローカルな道の駅
漢学の里しただ(別窓)がある。