曽我祐信館跡、城前寺とその周辺  

 
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右:曽我祐信館跡周辺の鳥瞰図  頼朝挙兵当時の祐信の行動記録   画像をクリック→拡大表示
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【 吾妻鏡 治承四年(1180) 8月23日 】   石橋山合戦の条、概略
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早暁に 頼朝 は北條親子 ( 時政宗時義時)・狩野茂光安達盛長土肥實平 ら300騎を率いて相模国石橋山に布陣した。
一方 相模国の住人 大庭三郎景親俣野五郎景久河村三郎義秀渋谷庄司重国・糟屋権守盛久・海老名源三季員・曽我太郎助信 祐信の誤記)・瀧口三郎経俊・毛利太郎景行・長尾新五為宗、新六定景・原宗三郎景房、四郎義行・熊谷次郎直實 ら平家に与する者たちは三千余騎の精兵を従え、石橋山の谷を隔てて陣を構えた。
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【 吾妻鏡 治承四年(1180) 10月18日 】
 
頼朝は24日の富士川合戦に備え (20万騎を率いて) 黄瀬河 (沼津 黄瀬川) に到着。(甲斐源氏 武田信義 から) 駿河目代橘遠茂との合戦や波志田山での俣野景久との合戦に関する経緯を聞いた。また荻野五郎俊重・曽我太郎祐信らが降伏して出頭した。
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【 吾妻鏡 治承四年(1180) 11月17日 】
 
頼朝は(常陸の佐竹を討伐して)鎌倉に戻った。今日、曽我太郎祐信 が(石橋山での敵対を)恩赦された。また 和田義盛 が侍所別当に任命された。
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伊東氏と曽我氏との具体的な関係は不明だが、伊東の通字である「祐」を曽我家でも使っており、既に嫡子の祐綱がいるにも拘わらず二人の男児を連れた 河津三郎祐泰の後家で
出産直後の 満江 を後妻として受け入れた (安元二年・1176年) 事を考えると、ある程度以上の関わりがあったのだろう。
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満江が曽我に再嫁した時に連れていた二人の子の兄 一万 (後の十郎祐成) は五歳で弟の筥王 (後の 五郎時致) は三歳。曽我の嫡子 小太郎祐綱の年齢は不明だが寿永三年 (1184)
2月の一の谷合戦には祐信が従軍していること、翌・文治元年 (1185) 10月の勝長寿院落慶供養には祐綱が随兵として参加している事などから、承安二年 (1172) 生まれ
の十郎祐成よりも少し年長と推定できる。
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  ※曽我祐綱: 吾妻鏡の建久二年 (1191) 2月4日、頼朝ニ所詣の行列に従う後陣随兵の名簿に曽我小太郎の名が見える。曽我兄弟の仇討ちは2年後の建久四年 (1193)
5月。祐綱は嫡子として頼朝御家人に列したが、後妻の連れ子 十郎と五郎の暮しは不遇で、何らかの方法で自活の道を探す必要があったのは間違いない。

左:城前寺近くの梅林から冠雪の富士山を。    画像をクリック→拡大表示
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弟の筥王元服の際には曽我祐信の経済的援助が受けられず、縁戚の 北條時政 (兄弟の父河津三郎の姉が時政の亡妻 ) が援助をして
烏帽子親となった (この経緯から仇討ち=時政主導のクーデター説が発生)。兄弟の貧しさが祐信の薄情によるのか、実際に祐信
が貧しかったのか、箱根権現で出家する筈の筥王が仇討ちを目指して元服したので祐信夫妻の配慮を得られなかったか。いずれに
しろ貧しさと将来に希望のない境遇が仇討ちの背景にあったのは事実だろう。実際に曽我庄を歩いて見ると館跡を囲む土塁は一辺
200m以上、館の跡地も100m四方ほど。仇討ち後に祐信が語った所領も狭く元服費用を捻出できなかった云々」は、嘘だ。
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【 曽我物語 巻一 御房が生まるる事 】
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河津三郎四十九日の翌日、妻の満江は無事に男子を出産した。「何と運のない子だろう、私も尼になり夫の菩提を弔うから
共には暮らせない、怨まないでおくれ」と捨てようとしたが、これを聞いた河津三郎の弟 九郎祐清 が妻 (比企の尼 の娘)を
寄越して「何と言う事を。亡き人の形見は我らが育てて片身にします」と申し出た。「私がこの有様なので思いもよらず
有り難いこと、そう仰るのであれば」と赤子を渡した。祐清は信頼できる乳母をつけ、御房と名付けた。
【 曽我物語 巻一 女房、曽我へ移る事 】
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河津三郎が没して80日、子が産まれて30日が過ぎた。百か日になったら出家するつもりで袈裟など調えたのを祐親が伝え聞き、人を介して申し出たには「誰が子供を
育てるのか、老いて衰えた祖父母も頼りにはならぬ。三郎が死んでも形見として幼い子が残っているのを考えよ。祐親に縁のある相模国の曽我太郎という人物が先般妻を
亡くし嘆いていると聞く、そこへ再嫁して心を安んじるが良い。祐親の縁だから大事にしてくれるだろう。」と細かく言い付け、人を付けて監視したため尼になることも
できない。祐親は曽我太郎祐信に委細を書き送り、祐信は大いに喜んで伊東へ出向き、子供らを共に迎えて曽我に帰った。
このようにして満江は辛く悲しい事と怨みながらも月日を過ごしたのである。
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そして建久四年 (1193) 5月28日深夜、曽我兄弟が富士の巻き狩りで仇討ちを決行 (詳細は別項で) 。曽我祐信は兄弟が御家人を殺した罪への連座を酷く恐れたが共謀した
事実はないと判断されて罪には問われなかった。事後処置は次の通り。
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【 吾妻鏡 建久四年(1193) 5月30日 】
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夕刻、頼朝の飛脚高三郎高綱が富士野から鎌倉に参着した。祐成兄弟の事件を御台所政子に伝えるためである。また祐成と時致の最期の様子などを母の許に送って返答を
求めると、幼い頃から父の敵を討とうとした事などを細かく書いた返書を提出した。頼朝は涙を拭いながら読み、長く文箱に保管した。
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【 吾妻鏡 建久四年(1193) 6月7日 】
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頼朝が (巻き狩りの) 駿河国から鎌倉に戻った。曽我太郎祐信には暇を与え曽我庄の年貢を免除して兄弟の菩提を弔えと命じた。彼らの勇敢さに感銘した結果である。
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駿河国平澤寺の住職で兄弟の叔父にあたる宇佐美禅師は富士裾野の現場に出向いて遺骨を受け取り、6月3日に曽我庄に埋葬した。禅師が祐信館の南西に庵を建て兄弟の菩提を
弔ったのが城前寺の起源とされる。実際に館の推定位置は城前寺北東の丘である。
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【 吾妻鏡 建久五年(1194) 12月15日 】   祐信に関する最後の記載
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大御堂法要導師が到着する旨の使者があり、出迎えの御家人派遣や馬を手配した。三浦介義澄 が5頭、和田左衛門尉義盛 が4頭、梶原平三景時 が2頭、中村庄司 (景平?)
が5頭、小早河彌太郎 (土肥實平 の子 遠平) が5頭、渋谷庄司武重が5頭、曽我太郎祐信 が2頭、原宗三郎景房が1頭。
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【 吾妻鏡 建暦三年(1213) 1月2日 】   祐信嫡男・祐綱に関する最後の記載
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執権 北條義時 が椀飯を献じた。役人は次の通り。御剣は武蔵守、御調度は左近大夫康俊...五の御馬は南條七郎と曽我小太郎(祐綱)
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  ※布袋山自在院平澤寺: 和銅年間(708〜714)に行基が地蔵菩薩を刻んで安置、養老二年(718)にも七体の観音を刻んで一体を納めた。
寿永年間(1182〜1183)に堂宇を焼失したが本尊の千手観音と延命地蔵尊は火災を免れた。公式サイトは こちら


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           左: 城前寺門前から約200m、道なりに歩くと約400m東に曽我祐信館跡と伝わる丘がある。平成元年実施の発掘調査では館の遺構は確認できず、
新編相模国風土記稿(天保十二年(1841)編纂)に「曽我祐信屋敷跡は曽我谷津村の南・城前寺の後で、四方を道で囲んだ一辺が2〜300m程の
四辺形。外側を囲む土塁と、更に2.5m前後の土塁で囲む内郭(一辺約100m)が中央に残っている」
とある。
外側土塁跡の西端が城前寺本堂裏の曽我兄弟と祐信夫妻の慰霊墓部分と推定される。地図はこちら、周辺の鳥瞰図はこちらで。
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           中: 祐信館跡の一族郎党の供養堂。永禄二年(1559)に後北条氏に叛いて氏康に攻められ城主信正と共に360余人が自決したと伝わる。
後北条氏は弘治三年(1557)頃から永禄十一年(1569)まで上杉謙信と戦い続けており、その余波を受けたのだろう。
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           右: 祐信館跡の一帯からは弥生時代〜室町時代に至る住居跡も発掘され、古墳(物見塚古墳)からは鉄の鏃や金環も発掘されている。


     

           左: 南に傾斜する丘が曽我祐信館跡と城前寺のある丘。JR御殿場線の下曽我駅から300m、県道72号の山側に参拝者用の駐車場あり。
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           中: 兄弟の菩提寺・城前寺。保育園を併設し、更に1km東の別所公民館には下屋敷の跡、南側の法蓮寺には満江御前の墓が残っている。
正直言って、この寺は好きになれない。住職は傲慢で礼儀に欠けるし、園児がいる時間帯には境内が閉鎖され、参拝に入る事もできない。
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           右: 城前寺は保育園を併設。毎年5月28日には兄弟を偲ぶ傘焼き祭が行われる。貧しくて松明を購う金がなく傘を燃して代用した由来による。


      

           左: 曽我祐信の墓と刻まれた石碑。本堂裏手の土塁には兄弟と祐信夫妻の墓(供養墓?)があり、これは単なる記念碑と考えるべきか?
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           中: 境内には定番の幼い兄弟の像。個人的には恣意的に涙を誘うような演出は嫌いなんだけど、富士宮の曽我八幡宮にもあったっけ。
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           右: 本堂の裏手、広場突き当たりに陵墓が設けられている。館の土塁跡と言われるが、敷地最南端の土塁跡と思われる。


      

           左: 以前は扉を開いて参拝が可能だったが現在は施錠され土塁に登るのは不可。たぶん見物客のマナーに起因するのだろう。
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           中: 墓石は左から弟の五郎時致と兄の十郎祐成、少し離れて満江と曽我祐信。満江の墓は法蓮寺の自然石が本物だろうし、兄弟の墓は多すぎて本物と
供養墓の見極めができない。富士宮の曽我寺(別窓)の古い墓石が本物だろうと思うのだが...。少なくとも富士宮の井出にあるのは後世の
慰霊墓だし、箱根明神池近くの巨大な五輪塔(別窓)は全くの別物、他も殆ど全てが慰霊墓と思われる。
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             後記...四基の墓石は江戸時代の歌舞伎役者が建立寄進したもの。曽我物初演は延宝四年(1676)、江戸中村座の「寿曽我対面」だから、
資金提供は勘三郎の先祖あたりだろう。
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           右: 土塁に登って裏側から撮影。兄弟の死と祐信夫妻の死には7年の隔たりがあるにも拘らず四基の五輪塔の様式は共通しているため同じ石工の手に
よる造刻と推定できる。やはり、慰霊墓と考えるべきだろう。


      

           上: 寺域左側、道路の石垣に残る「五郎の沓石」は足を病んだ五郎時致が回復を確認するため踏ん張った跡、もちろん勝手な捏造である。
そう言えば石橋山の 佐奈田霊社(別窓)には「佐奈田義忠 の手附石」があったなぁ...なんでこんな低レベルな捏造をするんだろうね。


      

           左: 城前寺左手には宗我神社に向う一の鳥居。横にあるのは尾崎一雄の文学碑で、祖父の代まで曽我郷の総鎮守・宗我神社神官を務めた関係から顕彰
したもの。神社の手前には旧宅の跡が残っているという。
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           中: 大和王権の蝦夷討伐に従った蘇我氏の一部が土着して祠を建て、長元元年 (1028) に大和橿原の宗我都比古神社 参考サイトの神官宗我保慶が
先祖の宗我都古命を勧請し祀ったのを起源としている。神仏習合時代には北東200mにある法輪寺に所属していた神社で、本地仏(神の本来の姿)
として薬師如来を祀っていた。法輪寺との中間には元の薬師堂跡が残っている。
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           右: 主祭神は宗我都比古之命と夫人の宗我都比古女之命、他に応神天皇・桓武天皇・小沢大明神(土着の神)・熊野速玉神・仁徳天皇を祀る。


      

           左: 盤谷山法輪寺(臨済宗)の創建は延文三年(1358)、臨済宗建長寺派。鎌倉建長寺三十五世の了道素安(本覚禅師)が開山である。
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           中: 本尊の地蔵菩薩(伝・運慶 作)は天保二年(1831)に焼失し、隠居寺にあった室町時代作の釈迦如来坐像を本尊としている。この東側に
曽我祐信の菩提寺だった祐信山崇泉寺(廃寺)があったが、確認は次回に。位牌・崇泉寺殿智嶽祐信大居士は法輪寺に安置されている。
裏側に刻まれた没年は頼朝死去の翌・正治二年(1200)。
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           右: 本堂左にある薬師堂(瑠璃光殿)は谷津公民館建築に伴い大門(旧薬師堂)を大正三年(1914)に移築した。本地仏として祀っていた
薬師三尊像と十二神将(共に平安時代)も移された。土着神の祠・小沢明神(小沢山神宮寺)本尊の薬師如来で、法輪寺が別当寺だった。


      

           左: 散策ルートにある諸法山大光院実相寺(天台宗園城寺派)。文明十八年(1486)の創建で当初は小田原の玉滝坊に属する本山修験宗
明治の神仏分離令の際に天台宗に改めた。同名の実相寺(實相寺)は鎌倉にもあり、こちらは工藤祐経の屋敷跡。開山の日昭は日蓮の筆頭弟子で
工藤祐経 の孫にあたる。奇しき縁とでも言おうか。
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  ※ 本山修験宗 は修験道の総本山聖護院(公式サイト)に属する末寺。昭和32年(1957)天台宗から離れて改宗した。
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           中: 城前寺東100mほどの空き地に、空輪(トップ)が一部欠損した大きな五輪塔が見えた。ここが雄山荘(実業家加来金升の別荘)の跡で、
昭和22年 (1947) に太宰治はここに疎開していた愛人の太田静子を訪ね、日記の提供を受けて「斜陽」を書いた。建物は平成21年に焼失した。
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           右: 城前寺の門前からは冠雪の富士山が眺められる。左側の突起は箱根外輪山の金時山(1213m)だと思う。