大見との境界に残る田代信綱の砦跡と墓所 

 
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田代信綱は韮山挙兵後も 源頼朝 の代官として義経と共に平家追討の戦いに加わり、一ノ谷や屋島を転戦した。元暦二年(1185)3月24日に壇ノ浦で平家一門が滅亡した直後には頼朝から「安易に義経に従ってはならない」旨の書状が送られている。この時点の頼朝には既に義経排除の計画があったのだろう。
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【吾妻鏡 元暦二年(1185) 4月29日】
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雑色の吉枝が使者として頼朝の手紙を携え田代冠者信綱に遣わされた。「廷尉(義経)は関東の意を受けて御家人と共に西国に派遣されたにも拘らず勝手な振る舞いが見受けられる。関東の事を大事に考える者は安易に義経に従って行動しないよう、内々に伝えるように。」と。
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平家追討から凱旋した後は改めて狩野荘田代郷の所領を安堵された。現在の伊豆市田代に残る五輪塔と石塔は信綱とその一族の墓と伝わる。同時に函南の平井から日金山に通じる主要道の傍らにも領地を得て拠点を構えている。ここも地名は田代(函南町)、最初の築城者は信綱だが、現在見られる遺構は南北朝時代から戦国時代のものと推定されている。
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信綱はその後の承久の乱でも功績を挙げ、和泉国大鳥郷(現在の大堺区鳳北町・中町、地図)の地頭にも補せられた。田代砦跡に近い叢林寺(地図・ここ、未訪問)には田代観音堂があり、信綱の守本尊である千手観音が祀られている。
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信綱は観音菩薩を深く信仰し、画像を鎧に入れて出陣するのを常とした。歴戦を生き延びた加護の恩に報いるため、建久三年(1192)に尊乗上人を開山として鎌倉比企ヶ谷に白花山田代寺を創建、後に田代寺は数回の合併と移転を経て現在は鎌倉大町の祇園山安養院田代寺(別窓)となっている。
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  ※比企ヶ谷: この地名が意味する範囲が判らない。頼朝の乳母で庇護者でもあった比企尼が所有したのは現在の妙本寺エリア(地図)だが比企ヶ谷は妙本寺の
ある高台と滑川に挟まれた範囲を指している、みたいな気がする。
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合併の経緯は複雑で...まず 北條政子 が嘉禄元年 (1225) に頼朝の菩提を弔うため笹目ヶ谷(概略地図)に願行上人を開山として祇園山長楽寺を建立。しかし直後の7月に政子が没したため長楽寺には政子を祀った。その後元弘三年(1333)の幕府滅亡の合戦により長楽寺の伽藍が兵火で焼失、同様に焼失した名越の善導寺跡に移転し、合併して安養院と称した。この安養院も延宝八年 (1680) に火災で焼失、比企ヶ谷にあった田代寺を焼け跡に移築して現在の「安養院」に改めた...と伝わっている。


     

           左: 大見川の東側から見た砦跡と200m東南(左)の叢林寺(信綱菩提寺)付近で大見川と山並みが更に狭まり大見との境界となる。
曾我物語に 伊東祐清 の手勢は激戦の末に八幡三郎を討ち取った。心卑しい 大見小藤太 は逃げ出したが、狩野境に追い詰めて首を刎ねた。」とあるのはこの辺だと思う。右上の狩野川本流に沿った赤丸が柿木へ移る前の狩野氏の本拠(別窓)だった日向館の旧蹟。
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           中: 県道から民家の敷地を抜けて登った斜面が砦跡。少し北の農地には「殿のお城」などと呼ばれる水田もあり、信綱の館跡と思われている。
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           右: 砦跡の斜面に残る墓石。土塁や空壕の痕跡もあるらしいが、台風による崩落や倒木のため荒廃している。現在は復旧したか。

この頁は2022年 7月18日に更新しました。