相模国平塚 土屋宗遠の館跡 

.
左フレームの表示&「鎌倉時代を歩く 弐」 の記載ヶ所へ      「索引」 へ  「旅と犬と史跡巡りと」のトップページへ

.
和田の乱に加わって一族の主な者を失った土屋一族だったが、実朝 の金槐和歌集に 三郎宗遠の鎌倉来訪が載っているから全員が連座に処されたのではないらしい。
所領の土屋郷が公収されたか安堵されたかの詳細は不明、鎮圧後の5月7日に行われた勲功に拠れば、相模国山内庄と菖蒲は義時、大井庄は山城判官、懐島は山城四郎兵衛尉、岡崎は近藤左衛門尉、渋谷庄は因幡局に与えられている。首謀者の一人 土屋義清 の所領も、それに準じて扱われたのだろう。
老齢の宗遠は僅かな扶持を与えられて息子らの菩提を弔いつつ惨めっぽい余生を送った、と考えるべきか。
.
和田の乱で 義盛 らを討伐した背景には 頼朝 古参の御家人たちを排除する目的と共に、相模国から中村党の勢力を排除する目的があったのも否めない。その意味では元久二年(1205)に謀反の冤罪で 畠山重忠 が追討され、更に追討した北條側に加わった稲毛重成榛谷重朝 が討伐された事件と同様で、この時も武蔵国の支配権は秩父平氏一族から没収され北條氏の手に落ちている。
北條時政 の描いた夢は彼の死没後に実を結びつつあり、具体的な対抗策を講じることもできず、同じ轍を踏み続けて滅亡した古参御家人の無策も指摘されるべき、だろう。
.
現在の土屋地区には土屋姓が見られず、宗遠の子孫らは本領を離れ甲斐(山梨)や上総(千葉)や常陸(茨城)に所領を得て定住したらしい。350年後の甲斐国天目山で武田勝頼が没した時に奮戦した土屋惣蔵も宗遠の子孫と伝わっている。この詳細は武田氏滅亡の地(別窓)で。
.
宗遠を継いだ義清のみは鎌倉の 壽福寺(別窓)に葬られた。治承四年(1180)に鎌倉入りした頼朝が居館を建てようと考えた源氏山東麓には既に 岡崎義實 が義朝を祀った堂があり、頼朝は山裾を避けて大倉を御所の地とした。義實から二男の 土屋義清 に継承された山裾の地は頼朝没後の正治二年(1200)閏2月に 政子 の夢に基づいて壽福寺建立となり、義清は若宮大路近くに転居させられた。和田義盛 と共に決起して死んだ義清はこの縁によって壽福寺に葬られ、その年の暮れには義盛一党の法事が営まれている。
義盛の素朴さを愛しつつ、北條氏の傀儡として見捨てざるを得なかった実朝の、せめてもの配慮か。
.
【吾妻鏡 建暦三年(1213) 5月2日】
.
(夕刻が近づいた頃)大学助義清が甘縄から亀谷に入り、窟堂前の道(窟小路)を通って(実朝のいる)仮御所 に向ったが、八幡宮赤橋の近くで流れ矢を受け没した。矢は北から飛んできたため神の意思と思われた。従者が義清の首を切って壽福寺に葬った。義清は壽福寺の本願主である。彼は 岡崎四郎義實 の二男、母は 中村庄司宗平 の娘。法勝寺九重塔造営の功績により、建暦二年(1213)12月30日に大学権助に任じられていた。
.
  ※窟堂:地図)、すぐ東の松原寺に属した堂で本尊は不動明王。松原寺は伊豆の 日金山東光寺(別窓)の地蔵菩薩を模した像を本尊としていた。
明治維新に共に廃寺となり、本尊の菩薩像は長谷寺などを経て横須賀市武の松得山東漸寺(地図)に置かれている。
.
  ※仮御所: 和田義盛 が大蔵御所を包囲し火を放ったため、北條義時 は実朝を 頼朝法華堂(別窓)に避難させた。
もちろん将軍を手元に確保して官軍の名目を守り、御家人の離反を防いで義盛一党を賊徒とする意味合いがある。
.
  ※壽福寺の本願主: 前述した通り、壽福寺の地には元々岡崎義實が義朝を祀って建てた堂があり、二男義清がこれを継承していた。頼朝没後の正治二年
(1200)閏2月、夢のお告げを受けた政子が壽福寺を建立するため義清は若宮大路近くに転居させられた、この経緯による。
.
  ※法勝寺九重塔: 京都白河にあった六勝寺(法勝寺・尊勝寺・最勝寺・円勝寺・成勝寺・延勝寺)の一つで白河天皇が建立した経緯から、「国王の氏寺」と
呼ばれて代々天皇の崇敬を受けた。金堂の落慶は承暦元年(1077)、義清が造営に関わった八角九重塔(伝・高さ80m)は永保三年(1083)に完成している。南北朝時以後は焼失・衰退を繰り返し、天正年間(秀吉最盛期の頃)に廃寺となった。
.
【吾妻鏡 建暦三年(1213) 12月3日】   将軍実朝は死亡した和田義盛ら将兵を弔う仏事を行うため壽福寺に入った。


     

           左: 北を流れる金目川の5kmほど上流(北西)は実朝の首塚が残る波多野氏の所領となる。南には座禅川、館跡と伝わる丘陵には土塁や空濠の痕跡も
見られるが殆どは南北朝時代以後の遺構で、土屋宗遠が生きた頃を偲ばせる物は見られない。
.
           中: 館の跡に建つ大乗院は天台宗延暦寺派、正式には星光山大乗院弘宣寺を称する。創建の時代は不明だが室町時代初期の応永年代に中興の記録が残る
らしいから、鎌倉時代末期の開創かもしれない。現在は相模国三十三観音霊場の二十九番札所である。
.
           右: 天保十二年(1842)編纂の新編相模国風土記稿には「古碑一基あり 土屋彌三郎宗遠の墓碑と伝わる」とあるが既に行方は判らない。江戸時代
末期には廃寺に近い状態で、明治の初期に再興された、らしい。


     

           左: 墓所に向う山道から見える畑を拓く際に見付かった五輪塔が墓所を設ける端緒になったらしい。周辺には土塁や空濠状の痕跡も見える。
.
           中: 土屋一族の墓所は星光山大乗院から細道を約300m南に下った谷沿いの斜面にある。昭和十年(1935)、周辺に散乱していた墓石を
地元の有志が集めて祀ったもので五輪塔の素性は判らない。保存状態も良く、室町時代の応永二十三年(1416)に土屋氏遠・景遠親子が
上杉禅秀(氏憲)に与して足利持氏に敗れ、相模を追われた時代の墓石かも知れない。並んでいる墓石のどれが宗遠なのかは不明。
.
           右: 土屋氏の廟所ではなく墓石の寄せ集めに過ぎないのが残念だ。比較的自然が残る地域だが、800年前の遺構を見るのは既に無理か。

この頁は2022年 8月 1日に更新しました。