狩野川の修善寺駅側(下流に向って右岸)から見ると、山並みに挟まれた
修禅寺(別窓)の周辺から外界に出るための開口部は桂川の流れ込み部分だけなのが判る。
古刹修禅寺の更に西(上流)は急峻な山並みが続き、西伊豆の戸田へ抜ける現在の県道18号でさえ厳しい峠越えドライブを強いられる。鎌倉時代の修禅寺を脱出
するには桂川沿いに狩野川合流点に下るしか道はないから、
頼家 や
範頼 の幽閉場所として選ばれたのは当然のことなのだろう。
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横瀬八幡の東側にあった月見ヶ丘は昭和36年の国道拡幅工事で開削されて姿を変えたが、昔はここから北東約300mの旧道分岐点近く (
この辺か? ) に修禅寺の
横瀬惣門があり、現在は
指月殿(別窓)を経て修禅寺山門に新設した袖に収蔵されている二体の金剛力士像に守られていた。
旧136号国道は月見ヶ丘で修禅寺への道と別れ湯川橋で桂川を渡って南下、城山(884m)の東を迂回して新道に合流している。
横瀬八幡宮の祭神は品陀和氣命(ほんだわけのみこと・第15代応神天皇)、相殿は鎌倉幕府二代将軍
頼家、総本社は日向(大分)の宇佐八幡宮。
昔は200mほど東の月見ヶ丘(国道拡幅工事で半ば失われた)にあった旧修善寺村氏神の古い祠で、時代は不明だがその祠をこの地に遷して社殿を建て、
束帯姿の頼家木像を祀り相殿とした、と伝わる。同じ月見ヶ丘から更に北200mには修禅寺の横瀬総門があって二体の金剛力士像がこれを守っていた。
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江戸時代になって総門が損壊したため取り敢えず横瀬の八幡宮に運んで安置した。ある夜、近くに住む老婆の夢に金剛力士が現れて「修禅寺に帰りたい」と
訴えたため頼家ゆかりの指月殿に遷し、更に修善寺山門に遷して現在に至っている。この金剛力士像は本尊の釈迦如来像より更に古い平安時代後期期の作と
推定されている。
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本殿右側の粗末な社には「孔門石(玉門石とも)」が祀られている。よくある陰陽石ではあるが、もっともらしい由縁が付け加えられているのが面白い。
尼将軍
政子 は修禅寺を訪れた時に奥殿(女性性器)の病に罹ったため鎌倉から医者を呼び寄せた。しかし侍女を介して「見るな、触るな」と命じられ、
困り果てた医者は糸の端を自分が持ち他の端を政子に持たせ、その動きによって患部を診断したという、尤もらしいヨタ話が伝わっている。
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更に八幡宮の神主が持参した陰石に丹(べに)と粉(おしろい)と鉄(おはぐろ)の三色を塗り、政子には三色に分けた薬を調合して手渡した。これにより
見事病気が平癒、この時以来横瀬八幡社を信仰すれば女性の病気や子宝開運に霊験あらたか、だそうな。もちろん信用しない方が良いと思う。
笠冠地蔵(別名を愛童将軍地蔵)は既に失われた月見ヶ丘の最も近くにあり、元々の場所は国道の向かい側にある商店の裏手辺りと推測される。
子煩悩な
頼家 は修禅寺幽閉後も鎌倉に残した我が子を想っては里の童たちを可愛がり童も頼家に懐き従っていたが、元久四年(1204)の7月8日に
北條時政 が向けた討手に暗殺された(実行者は不明だが経歴や土地勘を考えると天野遠景あたりが怪しい)。
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愚管抄には
「修禅寺で頼家入道が殺された。抵抗が激しかったが紐で首を締め急所(ふぐり)を抑えて刺し殺したそうだ。勇猛な人でも力の及ばぬことで
ある」 と書かれているが、吾妻鏡には簡略に事実だけ、
「伊豆国から飛脚が到着、左金吾禅閤(頼家)が修禅寺で薨じたと報告した。」 と記録している。
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斬り刻まれた哀れな姿だったと聞いた里人は浄財を集めてを所縁の深い月見ヶ丘に石地蔵を建て、ここを通る人や子供の幸せを願って愛童将軍地蔵尊と
名付けた、と伝わる。月見ヶ丘は昭和36年の国道拡幅工事で削られ、その際に修善寺橋西端の現地に移設された。
右:踊り子の兄が裏山に定住したと伝わる法林寺と、踊り子と川端康成が歩いた道
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狩野川との合流点に近い桂川に川端康成著の小説・伊豆の踊り子に書かれた湯川橋が架っている。20歳の一高生「私」が自分を見つめなおそうとした伊豆への旅で旅芸人の踊り子一行に出会い、人との触れ合いと淡い恋心を美しく描いた作品である。その一場面に出てくるのが湯川橋、若い日の川端康成自身が伊豆の旅で体験した一部始終をベースにしているという。
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私はこれまでにこの踊り子たちを、二度見ているのだった。最初は私が湯ヶ島に来る途中修善寺へ行く彼女たちと湯川橋の近くで出会った。その時は若い女が三人だったが、踊り子は太鼓を提げていた。私は振り返り振り返り眺めて旅情が自分の身についたと思った。
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蛇足だが、湯川橋から1kmほど南の
法林寺 の裏山には小説のモデルになった踊り子の兄が住んでいたらしい。ずっと以前(昭和の末か)まで小屋の痕跡が残っていたと聞いたが詳細は不明、旅芸人を引退した後に百姓をしながら村の若者たちに芝居を教えていた、それは厳しい指導だった、と伝わっている。
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川端康成の実体験は大正七年(1918)前後、踊り子が13歳で一座を引率していた兄が25歳と仮定して...55歳で引退し住み着いたとすれば昭和23年(1948)頃に村の若者を指導していたことになるから川端康成との再会も可能で、踊り子のその後を聞けたかも知れないね、康成さん。
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一説に、踊り子の一座を率いていたのは信州小倉村(安曇野市)生れの岡本文太夫(本名は松沢要)で当時40歳。25歳の後妻ふく、千代子(前妻の娘らしい)、たみ(踊り子のモデル)、養女の薫を連れていた。一行は伊豆〜下田〜足尾〜修善寺と転居を繰り返し、「たみ」の消息は足尾で絶えている。
文太夫は昭和25年に修善寺で死去(72歳)、妻の「ふく」は昭和40年に死去した。ただし、彼らが「伊豆の踊り子」に描かれた旅芸人のモデルだった確証はない。

左: 湯川橋の上から狩野川への流れ込み方向を見る。桂川も狩野川と同様に雨が続くと極端に水量が増えて暴れ川の様相を呈する。
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中: 橋を渡って天城へ向う旧136号国道。市役所を過ぎ、約2km先で国道414号と合流し、5km先の船原温泉近くまで重複区間となる。
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右: 桂川の上流方向。かなり古い石造りの湯川橋は伊豆の踊り子が渡った当時のままだろうか。もしそうならば90年以上、狩野川台風の濁流にも
この頁は2022年 8月 16日に更新しました。