三浦半島先端の剣崎から猟島までの距離はわずか12km、頼朝上陸碑のある現在の竜島漁港からは三浦半島が手に取るように眺められる。房総半島の南部は三浦一族の勢力範囲で
分家の
和田義盛 は外房エリア(現在の和田浦周辺)に所領を持っていたし、下総の
千葉常胤 ・上総の
上総廣常・安房の安西景益と丸信俊など源氏と縁のある豪族も多かった。
頼朝 主従が土肥から安房へ向ったのは苦し紛れの逃亡ではなく、緒戦に敗れた場合の選択肢でもあった。
.
特に千葉常胤は相馬地区の領有権を巡って常陸の佐竹氏(平家方)と抗争を続けており、頼朝とは利害が一致する立場にあった。
頼朝が鎌倉に入った後に佐竹氏棟梁を継いでいた秀義は金砂城で討伐され、所領は頼朝挙兵当初からの御家人・八田知家に与えられている。
.
竜島地区に残る伝承に拠れば、頼朝一行は旗立山を目印にして漕ぎ寄せた、と伝わる。碑の北側に広がる砂浜の200m沖には干潮になると姿を見せる飯島は
北條時政 らが食事の
準備をして頼朝の小舟を待ち受けた場所らしい。頼朝は旗立山の麓にある神明の森の薬師堂に一泊し、堂守は房総の各地(左右)から軍勢が加わるように祈願したことから左右加
(そうか) の姓を与えられた。これは「安房一国(粟一石)の伝説」と食い違うけどね。
.
その他、頼朝が与えた近隣住民に乱発した姓名の柴本・中山・生貝・鰭崎・菊間・松山・久保田は「竜島七姓」として今に残る。更に、飯島は頼朝にエイを献上した名残だとか、
いや時政が食事を準備して頼朝を迎えた場所だとか、馬賀は駿馬生月を献上した家だとか、磯遊びをした頼朝がサザエを踏んで怒って以来この磯のサザエには角がないだとか、
珍しい貝を献上した家の屋号が生貝だとか、後世の落語家が考えたような逸話も多い。