小山四郎政光の四男。異腹(父政光の先妻)の長兄が小山小四郎朝政、同じく次兄が長沼五郎宗政、妾腹の兄が吉見氏を継いだ三郎朝信。
朝光(幼名 一万丸)が吾妻鏡に初めて現れたのは治承四年(1180)10月2日に伊豆で挙兵した頼朝が千葉常胤以下の軍勢(公称三万余騎)を率いて太井川(現在の江戸川)と墨田川を渡り武蔵国に渡った時点である。吾妻鏡は次のように書いている。
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今日武衛御乳女故八田武者宗綱息女小山下野大掾政光妻号寒河尼相具鍾愛末子参向隅田宿 則召御前令談往時給以彼子息可令致昵近奉公之由望申仍
召出之自加首服給取御烏帽子授之給號小山七郎宗朝(後改朝光) 今年十四歳也云々.
口語 概略今日、
頼朝の乳母を務めた中の一人、故
八田宗綱の息女で
小山政光の室・
寒河尼が寵愛する息子を伴って隅田の軍陣を訪れた。昔日の思い出を語り合い、この息子を家臣に加えて欲しいとの望みを申し出た。頼朝は自ら元服させ、烏帽子親として小山七郎宗朝(後に朝光と改名)の名を与えた。当年14歳である。
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朝光二度目の登場は治承五年(1181)閏2月27日、鶴岡八幡宮で野木宮合戦の勝利を予告するシーン、同じく吾妻鏡の記録。
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武衛奉幣若宮給今日所満七箇日也 而跪寶前三郎先生蜂起如何之由獨被仰出干時 小山七郎朝光持御劔候御供承此 御頷言先生己為朝政被攻落訖歟云々 武衛顧面白少冠口状者偏非心之所発也尤可用神託若如思於令屬無為者可被行優賞者 朝光今年十五歳也 御奉幣事終還向給之處行平朝光著義廣逃亡之由申之 及晩朝政使者参上相具先生伴党頚之由言上 仍仰三浦介義澄比企四郎能員等被遣彼首於腰越被梟之云々.
口語 概略
頼朝が鶴岡八幡宮に参拝。願を掛けて7日目、満願の日である。
志太義廣が
「(鎌倉に対して)蜂起した件はどうなっただろう」と独り言を漏らすと、太刀持ちとして従っていた
小山(結城)七郎朝光が
「既に朝政に攻め滅ぼされたでしょう」 と答えた。
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頼朝は振り返って
「若者の言葉は心の思いつきではなく神託だろう。もしその通りならば褒賞をあたえなくてはならぬ」と言った。朝光は今年15歳である。
参拝が終わり御所に戻ると
下河邊行平と
小山朝政の使者が到着、義廣が敗北し逃走した旨を報告した。夜になって朝政の使者も到着し、義廣方の武士の首を持参したと報告、頼朝は
三浦介義澄と
比企能員に命じて首を腰越の獄門に晒させた。
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その後は範頼と義経の軍勢に従って元暦元年(1184)1月に
木曽義仲を滅ぼし、翌・元暦二年3月には壇ノ浦合戦で平家を滅ぼし、鎌倉に凱旋後の元暦二年(1185)5月15日には頼朝の使者として義経の鎌倉入りを禁止。正確な時期は不明だが頼朝の深い信頼を受け下総国結城郡の地頭職に任じて結城七郎朝光を名乗っている。
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廷尉使者景光參着 相具前内府父子令參向云々 去七日出京今夜欲着酒匂驛明日可入鎌倉之由申之 北條殿爲御使令向酒匂宿給是爲迎取前内府也 被相具武者所宗親工藤小次郎行光等云々 於廷尉者無左右不可參鎌倉暫逗留其邊可随召之由被仰遣云々 小山七郎朝光爲使節云々
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口語 概略
廷尉(
義経)の使者
工藤景光が鎌倉に到着。前内府の
平宗盛父子を連行し去る7日に京を出発、今夜酒匂驛
※に着き、明日鎌倉に入ると報告。
北條時政が宗盛らを受け取るため牧宗親・
工藤行光※と共に酒匂に向った。
頼朝は
小山(結城)朝光を使者として派遣し、義経は鎌倉に入らず暫く酒匂付近に留まって呼ばれるのを待て、と指示した。
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文治三年(1187)11月、伊勢国沼田御厨で畠山重忠の代官による不正が原因で梶原景時が「重忠が謀叛の噂」と讒言し、頼朝が御家人を集めて対処の意見を求めた。朝光は正論を述べて頼朝を諫めた。
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去夜梶原平三景時内々申云 畠山次郎重忠不犯重科之處被召禁之條稱似被弃捐大功 引篭武藏國菅谷舘欲發反逆之由風聞 而折節一族悉以在國縡已符合爭不被廻賢慮乎云々 依之今朝召集朝政 行平 朝光 義澄 義盛等勇士遣御使可被問子細歟 將又直可遣討手歟兩條可計申旨被仰含之 朝光申云重忠天性禀廉直尤弁道理敢不存謀計者也然者 今度御氣色依代官所犯之由令雌伏畢 其上殊怖畏神宮照鑒之間更不存怨恨歟 謀叛條定爲僻事歟 被遣專使可被聞食其意者自餘衆令一同云々 爰行平者弓馬友也早行向可尋問所存。无異心者可召具參之旨被仰出 行平不能辞退明曉可揚鞭云々.
口語 概略
昨夜
梶原平三景時が内々に言上した。
「重罪を犯してもいないのに拘禁されたのは功績を破棄されたと同様だと称して、畠山重忠が武蔵国菅谷館に引き籠もり謀反を企んでいるとの噂がある。今は一族が全て武蔵国に帰っているのも噂を裏付けている。これは警戒するべきだと思う。」.
このため、今朝は
小山朝政・
下川邊行平・
結城朝光・
三浦義澄・
和田義盛らを招集し、使者を派遣して仔細を問うべきか或いは直ちに討手を送るべきかを質問した。朝光がそれに答えて、
「重忠は昔から廉直で道理を弁え謀計など考えない武士である。今回の事件も代官の罪を伊勢神宮に詫びる意味での謹慎で遺恨など抱いておらず、謀反などは論外。従って使者を送って考えを聞くべきである。」と。
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同席の御家人らはこの考えに賛意を示した。頼朝は下川邊行平に
「菅谷へ出向き重忠の考えを尋ねよ。異心なくば共に鎌倉に参上せよ」と命じた。元より行平に辞退の理由はなく、明朝出発すると答えた。
後記...行平と重忠は共に鎌倉に赴き頼朝の疑念も瓦解した。朝光の真摯な言動が結実した、というお話。念のために書いておくが、元久二年(1205)6月22日の
二俣川合戦で畠山重忠主従135人を完全武装の大軍で皆殺しにした、その軍勢の中に結城朝光(当時37歳)も加わっていたのだから、常に理非を弁えていた人物、とも言えない。
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文治五年(1189)8月に始まった奥州合戦では初戦の阿津賀志山で敵将の一人金剛別当秀綱を討ち取り、恩賞として奥州白河の三郡を獲得、翌年の大河兼任の乱の鎮定にも参戦して功績を挙げている。
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建久六年(1195)には東大寺の再建供養に参列した頼朝上洛の隋兵に加わり、3月12日の落慶供養で頼朝が大仏殿の前に着座した際に見物の衆徒と警護の隋兵の間で起きた紛争を見事に収束させた。
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令着座堂前庇給之後 見聞衆徒等群入門内之刻 對警固隨兵有數々事 景時爲鎭之行向聊現無礼衆徒甚相叱之 互發狼藉之詞弥爲蜂起之基也 于時將軍家召朝光 々々起座參進御前之時者懸手於大床端乍立奉可相鎭之將命 向衆徒之時者跪其前敬屈稱前右大將家使者 衆徒感其礼先自止嗷々之儀 朝光傳嚴旨云當寺爲平相國回祿空殘礎石悉爲灰燼 衆徒尤可悲歎事歟 源氏適爲大檀越自造營之始至供養之今 勵微功成合力 剩断魔障爲遂佛事凌數百里行程詣大伽藍縁邊 衆徒豈不喜歡哉無慙武士猶思結縁嘉洪基之一遇 有智僧侶何好違乱妨吾寺之再興哉 造意頗不當也可承存歟者 衆徒忽耻先非各及後悔 數千許輩一同靜謐 就中使者勇士容貌美好口弁分明 匪啻達軍陣之武略已得存靈塲之礼節 何家誰人哉之由同音感之 爲後欲聞姓名可名謁之旨頻盡詞 朝光不稱小山号結城七郎訖歸參云々.
口語 概略
将軍家が大仏殿の前に着座されてから見物の衆徒らが集団で門内に入ろうとして警護の随兵と紛争が起きた。
梶原景時が鎮圧するために強圧的な命令を発し、双方が興奮して一触即発の状態になった。将軍家は
結城朝光を呼んで鎮圧を命じ、朝光は回廊の縁に手を懸けて立ったまま命令を承った。
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朝光は衆徒の前に進み跪いて(片膝をついて、か)
「前右大将の使者である」と名乗り、衆徒は礼節を取り戻して騒ぐのをやめた。朝光は言葉を続ける。
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「東大寺は平清盛に焼かれ、礎石だけ残して灰燼に帰した。衆徒として最も悲しむべき事だが、源氏が復興の大檀那として着工から供養の時に至るまで力を尽くした。この仏事を遂げるために数百里の道を辿ってここに至ったのを喜ばない衆徒があるだろうか。殺生に明け暮れる武士でさえも仏との結縁を願って供養の一端を担っている。知恵に富んだ僧侶が騒乱を好み、自分の寺の再興を妨げるのは実に不当であるが、その理由があるのなら承ろう。」
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朝光の言葉を聞いた衆徒はすぐに自分たちの行為を恥じて後悔し、全員が鎮まった。使者を務めた武士は容貌も美しくて弁舌は爽やか、武者としての勇気のみならず寺社での礼節も弁えている。感動した衆徒は後々のため姓名を名乗るよう求め、朝光は小山を称さずに結城七郎を名乗って席に戻った。
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承久三年(1221)に勃発した承久の乱では東山道を進む軍勢の侍大将として参戦、寛喜元年には上野介就任し嘉禎元年(1235)以後は評定衆として幕政に参加、北條氏独裁の中で過不足なく任務を果たしている。これは親しく交わっていた畠山重忠を二俣川合戦で失った以後は控えめな姿勢を保ち率先した行動から距離を置いた姿勢が同僚の御家人や北條一族との円満な関係を保った理由と考えられる。
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ただし、その中でも誇りと自尊心を保ち、宝治元年(1247)に友人の三浦義村を継いだ泰村一族が滅亡した際には79歳の老体を励ました鎌倉に入って6月29日に執権時頼と面会、深い嘆きの言葉を述べている。
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上野入道日阿自下総國參着 是駿河前司義村若狹前司泰村二代知音也 而今日謁申左親衛以其次且拭懷舊之涙且吐述懷之詞 剩日阿於令在鎌倉者若狹前司輙不可遇誅伐耻之由申之 左親衛還令愛其無我給云々.
口語 概略
上野入道日阿(
結城朝光)が下総国
※から鎌倉に入った。駿河前司
三浦義村と若狭前司
泰村は二代に亘る知音(親しい友)である。
北條時頼に面会した際に涙を拭って、「私が鎌倉に居たら泰村を討伐の恥辱に会わせなかったのに」と懐旧の言葉を述べた。時頼は自分の立場など考えない無我の心情に心を打たれた。
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宝治二年(1248)、
足利義氏(法名 政義) から届いた格下扱いの書簡に激怒した
結城朝光(法名 日阿)は、義氏を格下扱いにした返書を送り返して紛糾、義氏は無礼を咎める訴状を政所に提出した。宝治二年12月28日の吾妻鏡に、連署の
北條重時から「結城朝光に理あり」の裁定を得ている。
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足利左馬頭入道政義与結城上野入道日阿相論書札礼事 被宥仰兩方被閣之 此事去比就雜人事自足利遣結城状云結城上野入道殿足利政所云々 日阿得此状投返事云 足利左馬頭入道殿御返事結城政所云々 僕卿禪門甚憤之訴申子細云 吾是右大將家御氏族也 日阿仕彼時于今現存者也 相互未及子孫忽忘往事現奇恠 爭無誡沙汰哉云々 仍被下彼状於日阿之時日阿稱不能費紙筆而献覽一通文書 是則右大將家御時注爲宗之家子侍交名 被載御判之御書也 彼禪門嚴閣総州与日阿〔于時結城七郎〕可爲同等礼之由分明也 右京兆〔于時江間小四郎〕爲家子專一也 相州披覽之 召留件正文於箱底染自筆書案文被授日阿 剩被副送同御自筆消息状 其詞云 右大將家御書正文一通給置候訖 被載曩祖潤色之間爲家規摸之故也 但御用之時者宜随命 且爲後日以自筆所書進案文候也 云々 日阿還施面目云々.
口語 概略
足利入道政義が結城上野入道日阿に送った書状の件で紛争があり、双方を宥めて不問とした。政義が格下に宛てた形式の書状を日阿宛に送った事を怒った日阿が同様の形式の返状を送ったのが発端になって政義が訴え出た。政義の主張は次の通り。
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「自分は源氏の門葉で右大将(頼朝)に仕えた立場である。子孫であれば兎も角、現在も双方の立場は変わっておらず、許し難い行動である。」.
対する日阿は訴状など紙の無駄だとして一通の文書を提出した。袖に頼朝の花押があり、
「足利と結城の姓を含む御家人を列挙し同等の礼を取れる」と明記してあり、更に「
右京兆 義時(当時は江間小四郎)を
「家臣の筆頭」 として書き入れてある。連署の重時はその原本を箱に納め、自筆の写しを日阿に渡した。
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「右大将の御書一通を預かり保存する。先祖の功績が明記され北條家の家格を証する貴重な文書である。ただし必要な場合は返却の求めに応じる。
後日の証としてこの書類を渡す。」 これによって日阿は自らの面目を保つ結果を得た。
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結城朝光が若いころから念仏(
浄土宗、Wiki)の信者だったことは広く知られている。当初は
法然 に傾倒し、後には
親鸞 に帰依して出家すると共に結城の一角に新居山称名寺を建立(開山和尚は親鸞の弟子・真仏)、建長六年(1254)2月に87歳の生涯を閉じた。
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親鸞は建保二年(1214)からの約20年間を東国の拠点(現在の笠間市・下妻市・城里町など)で布教活動を続けており、朝光との仏縁もこの頃と推定される。結城の城址公園近くには親鸞の妻の一人・玉日姫(
九条兼実の娘?)の墓所(伝)もある。もう一人の妻が広く知られている
恵信尼 である。
右:結城市中心部の鳥瞰図 画像をクリック→拡大表示
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恩賞として結城郡の地頭職を得た朝光が最初に館を構えた跡が城の内遺跡(右画像の左下部)とされる。東西約178m×南北約128m、濠と土塁によって長方形に区画された中世の武家屋敷跡である。
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中世の武士は日ごろは農村で生活しており、その領主の住む屋敷を館(やかた)と呼び周囲に濠を巡らしたことから「堀の内」と呼ばれたり土塁で囲まれたことから「土居」とも呼ばれ、「城の内」の地名も中世の館の意味をよく伝えている。
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平成八年度に屋敷跡の北西隅部の堀と土塁の発掘調査が行われ、濠の大きさは上巾が約5mで底巾が0.4m、深さが1.8mの、断面がV字型の薬研堀なのが判明した。また残されている土塁の巾は約4mで高さは1.3m。
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この屋敷跡は鎌倉時代の初期に結城氏初代の朝光によって構築され、後に現在の本町に新しく結城城が築かれる(正確な時代は不明)まで結城氏の館として維持されたと考えられる。
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結城氏は鎌倉幕府の滅亡が近づいた元弘元年(1331)9月、北條高時の命令(当時の執権は北條(赤橋)守時(Wiki)だが実権は高時)を受けて討伐軍に加わり、後醍醐天皇と楠木正成(Wiki)らの朝廷軍を鎮圧した。
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しかし元弘三年(1333)に後醍醐天皇から討幕の綸旨を受けると当主の結城宗広は一転して新田義貞の軍勢に加わり、討幕に大きな功績を挙げている。
南北朝時代には南朝の忠臣として転戦、初代の朝光が恩賞に得た白河に本拠を置き、白河結城氏として伊達氏を越えるほどの勢力を築き上げた。
後に足利氏に従い北朝側に転じて繁栄したが、この時代には本家は既に結城を離れていたと考えられる。
左: 結城を拝領した朝光が最初に館を構えた城の内遺跡。東西約178m×南北約128m、濠と土塁によって長方形に区画された中世の武家屋敷跡である。
中: 周辺は南に向けて僅かに低くなる平坦に近い地域で、竹垣の内側に土塁の痕跡がある。頼朝の東国支配がほぼ確立した時代、所領管理の拠点だろう。
右: JR水戸線の結城駅から真っ直ぐ南に伸びて国道50号を過ぎた左側が館跡の入口で、道路沿いに駐車スペース。何の変哲もない空地の雰囲気だ。
左&中: 草地の中を抜けて林の中に遊歩道が続いている。奥の左側が竹林で、地元と思われる数人がタケノコを探していた。持ち帰りフリーらしい。
右: 更に進んで南側の小道に抜けて石柱奥の神社(立木之地蔵尊)敷地を振り返る。いま通ってきた参道の奥に小さな神社と石碑が建っている。
左: 半ば腐って瓦も落ちかけている立木之地蔵尊。参道入口の石柱には「栗橋家鎮守」と彫ってあるがそれ以上は判らない。
中: 石柱の前から西側・駐車場の南側まで、辛うじて車が通れる巾の小道が続く。右側(敷地の南端)には1m弱の土塁が残っている。
右: 敷地の東側も同様に、北東の隅まで土塁が残っている。敷地の北側は道路ではなく私有地なので判然としないが、土塁らしい。
右:結城城址(現在は城跡歴史公園)の鳥瞰図 画像をクリック→拡大表示
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結城城は鎌倉時代の初期に結城朝光が築いたと伝わるが、むしろ南北朝動乱期の築城と考えるべきだろう。
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その後の結城氏は室町時代に関東八家の一つとして勢力を振るい、戦国時代には宇都宮・佐竹氏らに伍して生き残り、天正十九年(1591)に徳川家康の二男秀康を十七代晴朝の養子にもらい受け、慶長六年(1601)の越前福井への国替えまで関東の雄として繁栄した。
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結城氏の国替え後に結城城は廃城となったが、元禄十三年(1700)の水野勝長(一万八千石)の入部によって再興され、明治に至るまで水野家の居城となった。
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結城の名を不朽にしたのは永享十二年(1440)の結城合戦である。関東公方足利持氏が将軍義教と争って滅ぶと、結城家十一代氏朝は持氏の遺児春王丸と安王丸を奉じて兵を挙げた。幕府は諸将に氏朝らの討伐を命じたが結城落城まで一年余りの歳月を費やし、結城の名を天下に轟かしたと伝わる。
左: 敷地左に隣接する聰敏神社だが結城氏とは無関係。江戸時代に大和郡山六万石や備後福山十万石を領有した水野氏が元禄年間に男子が絶えたため
廃絶となり、数年後に家康の生母との縁故を頼って下総結城藩一万八千石に再封された。
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中: その福山藩の領主を祭神に祀っていた水野聰敏神社を結城に分霊勧請した社。結城氏嫡流は南北朝時代に奥州白河に移り、既に結城とは無縁だった。
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右: 城跡歴史公園は大手門を模した雰囲気だが敷地は完全に普通の公園で、面白みには欠ける。僅かに敷地北側の斜面が防衛拠点の姿を残している。
左: 北西から北側は15mほどの高低差があり、辛うじて防衛施設の姿を残している。下の道路に降りて約500m西に玉日姫の墓所(伝承)がある。
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中: 玉日姫の墓所。彼女は九條兼実の娘で親鸞の妻の一人。墓所に関しては異説もあり、兼実関連で載せただけで親鸞にも深入りする程の興味はない。
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右: 東側は水が入る前の田んぼが広がる。北西から東側まで弧を描いて流れる田川(5kmほど南で鬼怒川に合流する)が天然の防衛線を構成する。
左&中: 全般に城跡っぽさに欠ける平凡な公園であまり面白くない。桜がまぁまぁ立派なのと、少し広めの芝生だけが取り柄と言えば言えるかもしれない。
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右: 城跡から少し南に歩くと掘割らしい窪地に雰囲気の良い石橋が架かっている。その先の左角に中古の売家があったので暇つぶしに見学してみた。
築35年の敷地も建坪も余裕たっぷりの
和風豪邸(売主(カチタス)サイト)、見るのは楽しいが維持管理に手間が掛かるし、築年の割に高すぎる。
転居先を探しているときにはこの会社のリフォーム物件も数ヶ所を見たが、総じて多少の手抜きが目立つ印象が記憶に残っている。
右:菩提寺 新居山称名寺の鳥瞰図 画像をクリック→拡大表示
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一説に、朝光の出生に関しては称名寺文書系図または結城氏16代政勝自筆の結城家譜には朝光は頼朝の子で伊豆配流の折に懐妊、平家による追討を避けるため小山で出生させ政光の四男とした、と伝わっている。これは裏付けとなる資料が皆無である事から良くある「実は隠し子だった」のヨタ話だろう。
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正治元年(1199)の頼朝死後に二代将軍頼家の弓馬の師を務め、鎌倉幕府の中枢に任じていたが部門政変の無常を感じ、熊谷直実や宇都宮頼綱などと同じく浄土信仰に生きた。建保四年(1216)に親鸞聖人を招請して帰依し、法堂を建立して称名寺日弥を号し求法精進した。しかし時勢は武人朝光の遁世を止め得ず、承久の乱では朝光は東山道、長男の朝廣は北陸道の将として出陣し武功を挙げている。
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鎌倉動乱の世に波乱の生涯を生き抜き、老齢を理由に鎌倉を辞して結城領内の治世を計り、真仏上人を称名寺の開基に招請して信仰に生き、真仏の嫡子真證と娘の朝尾をめあわせて念仏に精進し、建長五年(1253)2月24日に87歳で死没、遺骨をこの地に埋葬した。
御霊屋には結城四代の城主の遺骨が葬納され、結城氏の古墳墓として史跡に指定されている。
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初代朝光公 称名寺殿日阿弥陀仏 建長五年2月24日 87歳
二代朝廣公 妙蔵院殿信阿弥陀仏 康元元年11月23日 67歳
三代廣綱公 新福寺殿教阿弥陀仏 弘安元年6月23日 52歳
四代時廣公 法蔵院殿證阿弥陀仏 康元元年7月1日 24歳 以上、称名寺の案内板の概略を転記した。
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前述した城跡歴史公園から南へ700mほど歩くと「結城家御廟」を称していた慈眼寺(既に廃寺)墓地(地図)がある。城内から移設したとも言われるが室町期以後に結城氏供養のために設けたか、或いは移封により結城に入った水野氏が領民慰撫のため造ったものと想像する。現在は更に約500m南の曹洞宗見龍山覚心院乗国寺(公式サイト・地図、宝徳元年(1449)創建)の管理下にある。禅宗の乗国寺と浄土真宗の称名寺がそれぞれ結城家菩提寺を称しているのは鎌倉仏教の争いを再現している如きだが、ここは改めて訪問してから報告したい。
左: 寛永三年(1626年、徳川三代将軍家光の頃)京都の二条家から移築したと伝わる山門(築後400年!?)。裏側は劣化が激しく、倒壊が危ぶ野れる。
JR結城駅から徒歩700mほどの住宅密集地で500m圏内に7ヶ所の寺と10ヶ所の神社が集中しているのは昔の寺町なのだろうか。
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中: 山門(現状は通行できない)のすぐ左側に10数台が停められる駐車スペースがある。白壁に沿って寺域に進む。
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右: 突き当り右側が室町時代築の御霊屋門、この手前にも20台弱の駐車場がある。墓域が広く、駐車場は観光客よりも盆と彼岸の墓参者対応だろう。
左: 御霊屋門直進すると本堂、その前を左に曲がると結城朝光の廟所に至る。新居山称名寺、朝光の法名「称名寺殿日阿弥陀仏」を転用している。
山号の「新居山」は朝光が建てた最初の念仏堂が
下野薬師寺(「下野東山道の史跡群」の後段を参照)の新居郷にあり、嘉禄元年(1225)に現在地に
移転して
親鸞の高弟
真仏(Wiki)を招いて称名寺を開いた、その経緯に拠る。
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法然の教えを受けた親鸞は師の法難に連座して越後に流され、罪を許された後は下野などで布教に専念していた。初期に法然、後に親鸞に帰依した
朝光はその経緯から下野薬師寺に念仏堂を設け、更に結城に移して称名寺を開いたのだろう。
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中: 本尊の阿弥陀如来像は本願寺阿弥陀堂(文化遺産オンライン)の本尊と同じ仏師の作と伝わる。本堂右側には朝光の木像が合わせて祀られている。
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右: 本堂に向かって右側の築山には親鸞聖人の銅像があり、手を合わせる拝観者も多い。余談だが、浄土宗も数々の内部紛争を引き起こしている。
宗教界でも政界でも学問の世界でも、権力の伴なう全ての組織は腐敗と堕落と権力闘争を繰り返す。猿山の猿の方がマシ、かも。
上: 参道の突き当り、銀杏の巨木を背にした結城朝光の墓標はやや変形の九層の層塔で、左に二代朝廣、三代廣綱、四代時廣の墓石が並んでいる。