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九華山禅長寺は臨済宗円覚寺派。本尊は頼政堂の阿弥陀如来立像で、他に鎌倉時代中期の作と思われる千手観音懸仏と大日如来像懸仏が市の文化財指定を
受けている(懸仏は円板に仏像などを刻んで礼拝したもの)。
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頼政堂は沼津市最古の木造建築 (多分元禄十一年 (1698) の築造) で寄棟造・茅葺の禅宗式仏殿建築、市の有形文化財である。墓所の正確な建築年代が
確認できない事と、創建の母体になった
空海 (弘法大師)が拓いた青龍寺の位置、境内の菖蒲塚の明細を確認していない事が私の宿題として残っている。
地図は
こちら、次回はもう少し時間を掛けて歩きたい場所の一つだ。

左: 本堂裏手の墓所からは手前に あわしまマリンパーク (公式サイト) と江浦湾、左奥には愛鷹山、遠くに箱根連山が見える。ズーム画像は こちらで。
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中: 正面に頼政堂、その手前の「女人遠流之地」と彫った太い柱は関西の歴史家が建てたもので、奈良時代のここ木負(きしょう)の古名を根拠に
したらしい。田方郡棄妾郷とは、妾を棄てる地...女性を遠流に処した場所である、と。菖蒲の前が住んだ伝承を基に地名を定めたのだろうか。
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史料に従えば、地名は棄妾→ 吉妾→ 木正→ 木負と変遷しているという。女性の流刑地を指定した話は聞いたことがないし、そもそも平安時代には
女性には流罪の代りに杖刑(杖打ち)と徒刑(禁固刑)が課されていたのが定説だから、これも嘘っぽい。
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右: 庫裏裏手の小道に菖蒲の墓に至る石標があるが、登りつめた上には広い舗装道路が通っている。墓所はその上の高みに設けられている。

上: 墓所と墓石の建立年代は不詳だが、たぶん元禄十一年(1698)の頼政堂修築と同時期だろう。いずれにしても江戸期の形状で、更に時代を
遡ることはないと思う。二段構えに積まれた石垣の上に4m四方ほどの石枠が組まれ、全体にかなり豪奢な造りである。

左&中: 頼政堂は沼津市最古の木造建築で内部は土間に伊豆石を貼った禅宗様式(鎌倉の 海蔵寺(別窓・建長寺派)の薬師堂と同じスタイル)。
元禄十一年(1698)に、 初代高崎藩主で頼政の子孫を称する松平輝貞(旧姓大河内)が費用を寄進して以前の堂宇を禅宗様式に改めた。
同時に寺領として毎年百石を寄進したという。玄米百石玄米は現代の貨幣価値に換算すると350万円ほどか。
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右: 正面中央に本尊の阿弥陀如来立像、左に菖蒲の前・右に三位頼政の坐像、更に右側には28柱の位牌が並んでいる。

左: 禅長寺本尊の阿弥陀如来立像(台座を含め約150cm)を挟んで左側に菖蒲御前像(1139〜1227)・法名は九華院殿本覚西妙大姉、
右側に
源三位頼政像(1105〜1180)・法名は禅長寺殿前従三位真蓮頼圓大居士、共に穏やかな顔の僧形である。
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右: 位牌の中には大河内信貞夫妻や大河内秀綱などがあり、これは大河内一族の菩提寺・西尾市寺津町の金剛院に残る
宝篋印塔(参考サイト)の
法名と合致する。大河内信貞=普照院殿心月宗空禅定門(永禄元年・1558年没)、信貞夫人=雪峯院殿松庵寿参尼大姉(文禄四年・1595年没)、
大河内秀綱=金剛院殿雄岳宗英大居士(元和四年・1618年没)など。他の位牌も一族のものらしい。