江ノ電の稲村ヶ崎駅から踏み切りを渡って二度左折した角に大舘宗氏主従十一人の遺骸を葬ったと伝わる場所(
地図)が残っている。
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極楽寺坂攻めの大将 大舘宗氏率いる軍勢は大仏貞直の防御線 (浜辺の稲村路か) を強行突破し由比ヶ浜まで進んで陣形を整えたのだが、深入りし過ぎて後続を断たれ
大仏陸奥守貞直の家臣 本間山城左衛門部隊の斬り込みを受けて全滅した。太平記に拠れば、宗氏の首を獲って大仏貞直の陣に戻った本間はそのまま自刃。
やがて極楽寺坂の守備隊は巨福呂坂から移動した脇屋義助率いる新田勢に制圧され、大将の大仏貞直も戦死して戦局は若宮大路周辺の市街戦に移ることになる。
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由比ヶ浜の稲瀬川(
地図)近くで戦死した宗氏主従の墓が2kmも西の稲村ヶ崎近くにあるのは、新田軍の本隊が稲村路を確保し、稲瀬川付近まで進出した時点で
時点で亡骸を回収したのだろう。とりあえず安全な稲村ヶ崎に遺体を移して葬ったと思われる。いずれにしろ、攻撃軍の指揮官が最前線を突破して敵陣深く突入し、
主従共に討死した史実は戦闘の激しさを如実に物語っている。
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ただし、鎌倉青年団は稲村ヶ崎と稲瀬川にそれぞれ内容の異なる石碑を残しており、微妙な認識の違いが窺われるのが面白い。
「極楽寺坂に攻め込む前に本間隊の斬り込みを受けて宗氏主従11人が戦死した」 が十一人塚碑の解釈で、
「稲瀬川近くまで攻め込んで孤立し、本間主従の襲撃を受けて討死した」 が稲瀬川碑の解釈。
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太平記は
「極楽寺坂を守る大仏貞直の陣が突破されたと聞いた本間が、」と書いているから、新田勢を指揮していた大館宗氏が手勢を率いて防衛線を突破し
稲瀬川近くで本間勢に討たれた可能性が高い。稲瀬川碑から8年過ぎてから建てた十一人塚碑は、戦死場所と埋葬場所が異なる事の整合性に悩んだのかも
知れない。宗氏主従の遺骸は稲村ヶ崎近くに埋葬して塚を築いたのだから、ここを討死の場所と考えるのが普通だろう、と。
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太平記の記述は以下の通り。現代語訳の拙さは無視されたし。
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些細な事で蟄居を命じられていた本間山城左衛門は、主君大仏貞直が守る極楽寺坂が大館宗氏勢に突破されたと聞き、手勢を率いて敵陣に斬り込み
貞直の首級を挙げた。本間は太刀先に首を突き刺して貞直の陣に駆け戻り、蟄居の身で推参したのを詫びて自刃した。
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自刃の真偽は不明だが、極楽寺坂は5月21日に脇屋義助隊が突破し、敗将の大仏貞直は残兵300騎を率いて最期の地 東勝寺に撤退した。
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【 十一人塚 碑 】
元弘三年五月十九日 新田勢大館又次郎宗氏ヲ将トシテ極楽寺口ニ攻入ラントセシニ 敵中本間山城左衛門手兵ヲ率イテ大館ノ本陣ニ斬込ミ 為ニ
宗氏主従十一人戦死セリ 即遺骸ヲ茲ニ埋(古字)メ 十一面観音ノ像を建テ以テ其ノ英魂ヲ弔シ 之ヲ十一人塚ト称セシト云フ
昭和六年三月 鎌倉町青年団 建
【 稲瀬川 碑 】
万葉ニ鎌倉ノ美奈能瀬河トアルハ此ノ河ナリ 治承四年(1180)十月政子鎌倉ニ入ラントシテ来リ 日並ノ都合ヨリ数日ノ間此ノ河辺ノ民家ニ逗留
セルコトアリ 頼朝ガ元暦九年※範頼ノ出陣ヲ見送リタルモ正治元年※義朝ノ遺骨ヲ出迎ヘタルモ共ニ此ノ川辺ナリ 元和三年義貞ガ當手ノ大将
大舘宗氏ノ此ノ川辺ニ於テ討死セルモ人ノ知ル所 細キ流ニモ之ニ結バル物語少ナカラザルナリ 大正十二年 鎌倉町青年団 建
設置と考えると、駅から稲村ヶ崎へ向う道がここを通っていたのかも知れない。
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※年代記録の件: 範頼の出陣を見送ったのは元暦九年 (元暦は2年まで) ではなく寿永三年 (1184) 、義朝の遺骨を出迎えたのは正治元年 (1199)
ではなく文治元年 (1185) 。 詳細は本文の続き、「稲瀬川河口の碑」を参照されたし。