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正治三年(1201年)、2/13 改元して建仁元年
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西暦・天皇・上皇
和暦・月日・史料
吾妻鏡に記載してある内容の意訳、関連する情報、補足事項など
西暦1201年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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正治三年
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1月 4日 乙卯
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吾妻鏡
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   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
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江間四郎 (北條義時) が左金吾 (頼家) の使者として鶴岡八幡宮に奉幣し神馬三疋を奉納した。
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   ※頼家叙位: 頼家は前年12月27日に左衛門督、従三位に叙された。左衛門府は右衛門府と共に朝廷の
諸門警護に任じる役で 督はその長官、唐名は「左金吾」、今後の頼家の代名詞となる。
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   ※年令: 頼家 18歳、 一幡 2歳 (建久九年 (月日は記録なし) 誕生、 実朝 8歳、 阿野全成 46歳、
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北條時政 62歳、 北條政子 43歳、 北條義時 37歳、 北條時房 26歳、 北條泰時 16歳、
千葉常胤 4月に死没 (享年84) 、 千葉胤正 59歳、 三浦義村 32歳、 足利義純 23歳、
大江広元 52歳、 畠山重忠 36歳、 宇都宮朝綱 82歳、 宇都宮頼綱 22歳、 加藤景廉 44歳、
比企能員 成年不詳、 佐々木定綱 58歳、 中原親能 53歳、
二階堂行政 生没年 不明、建仁三年 (1203 ) 頃 死没か 、 二階堂行村 44歳、
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土御門天皇 5歳、 後鳥羽上皇 21歳、 九条兼実 51歳、 吉田経房 前年3月死没 (享年57) 、
土御門通親 50歳、 丹後局 49歳、 西園寺公経 29歳、 藤原定家37歳、
定豪 48歳、 慈円 45歳、 法然 65歳、 親鸞 27歳、
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      (全て1/1時点の満年令、一部の年齢は推定)
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西暦1201年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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正治三年
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1月12日 癸亥
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吾妻鏡
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椀飯の前に弓始めの儀式あり。射手は十人、弓場の左右に分かれ敷皮に列座した。左金吾 (頼家) が出御し、左近大夫将監親広が御簾を挙げた。
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   射手
   一番 榛谷四郎重朝     小野澤次郎重政重朝
   二番 海野小太郎幸氏    佐々木小三郎盛季 (盛綱の三男)
   三番 望月三郎重隆    中野五郎能成
   四番 渋谷次郎高重     工藤小次郎行光
   五番 和田平太胤長     同三郎朝盛
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   ※望月重隆: 義仲の嫡子志水冠者義高が人質として鎌倉に入った際に 海野幸氏らと共に従った武士。
義仲の滅亡後は鎌倉御家人となり 武田信光小笠原長清、海野幸氏らと共に弓馬四天王と称された。
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   ※中野四郎: 信濃国志久見郷を本領とした五郎能成 (詳細は建久十年4月20日) の縁戚か。
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   ※渋谷高重: 渋谷重国の二男で石橋山合戦後に降伏し頼朝に従った。
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   ※和田胤長: 義盛の弟 義長の嫡男。和田合戦の発端になった謀反計画に関与して流罪となり 合戦後に
配流地 (陸奥国岩瀬郡) で殺された。三郎朝盛は義盛の嫡男 常盛の子。建暦三年 (1213) の 和田合戦を生き延び、承久三年 (1221) の 承久の乱では宮方に加わって敗北、逃亡したが 嘉禄三年 (1227) に捕縛された。その後の消息は不明、処刑されたと推測される。
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 和田合戦と承久の乱の記事は、共に発端から終結までを説明した長文です。
    概略の説明はウィキの利用をお薦めします。
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西暦1201年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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正治三年
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1月13日 甲子
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北條九代記
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朝覲行幸あり。夜になって城四郎長茂の謀叛が勃発、二條内裏への乱入があった。
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   ※朝覲行幸: (ちょうきん) 、今回は年頭に天皇 (土御門) が上皇 (後鳥羽) の御所に行幸すること。
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西暦1201年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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正治三年
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1月15日 丙寅
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吾妻鏡
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御所に於いて心経会 (般若心経の読経法会) が催され、尊暁阿闍梨が導師を務めた。左金吾 (頼家) の出御は通例通り、法会後に御馬と御衣などが導師に贈られた。担当は 源右近大夫将監親広と 江左近将監能広
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   ※尊暁: 初代八幡宮別当 圓暁の弟とされる。圓暁死没 (前年10月26日) 直前に二代別当に就任した。
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   ※江能広: 親広と併記されている能広には広元の息子とする説
もあるが、重複記載の間違いじゃないかと思う。
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大江広元には親広に該当する息子はいないし、親広の官職は尊卑分脈では右近将監、安中坊系譜では左近将監と記載している事、などが理由である。
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   ※安中坊系譜: 親広は承久の乱で宮方に与し、敗北後は広元の
所領 寒河江 (目代は広元正室の父 多田仁綱) に隠棲し晩年に安中坊を名乗っている。ここから
伝わった古文書が安中坊系譜である。
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  右上は 寒河江八幡宮 (公式サイト) 。画像をクリック→ 別窓で拡大表示。
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建久二年(1191) に寒河江に入った親広が鶴岡八幡宮を勧請して地元の八幡社を合祀し大江氏の産土神 (勧請者と土地を守護する) とした。
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西暦1201年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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正治三年
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2月 1日 壬午
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吾妻鏡
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阿闍梨筆頭を務める尊暁 (法眼 圓暁の弟子) を鶴岡別当に補任し、職責に就いて最初の拝礼を行なった。
その後に大官令 大江広元の取り継ぎ、左金吾 頼家が参拝した。
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   ※圓暁補任: 鶴岡八幡宮寺諸職次第 (別窓) では正治二年 (1201) 10月2日に就任とあった。
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西暦1201年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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正治三年
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2月 3日 甲申
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吾妻鏡
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未刻 (14時前後) に掃部入道 (中原親能)と 佐々木左衛門尉定綱と大番で在京中の 小山左衛門尉朝政からの飛脚が鎌倉に到着、次のように報告した。
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先月23日に第83代 土御門天皇が皇太子 (土御門の弟、後の第84代 順徳天皇) と七條院 (後鳥羽院の生母) と一宮を伴い仙洞 (院の御所 二條殿) の 後鳥羽上皇に朝覲御幸 (拝礼、1/13を参照) のため行幸した。
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ここで越後国の住人 城四郎平長茂 (城四郎 助国の四男) が軍兵を率いて小山朝政の三條東洞院 (地図) にある宿舎を包囲した。朝政は行幸に従って不在で、郎従らが防戦して攻撃を退けた。
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その後に長茂は帝が行幸中の仙洞に押し入り四方の門を閉鎖した。関東討伐のための宣旨を求めたが許されず、清水坂付近に逃げたと聞いた朝政らが駆け付けたときには既に行方知れずとなっていた。
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使者はまず大官令 (大江広元)に報告し続いて御所に参上、鎌倉中は群衆で騒動となり夜になって沈静した。
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   ※城長茂: 右上画像は城氏の略系図。 画像をクリック→ 拡大表示
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治承四年 (1180) 9月、木曽義仲が信濃で挙兵した際に 平宗盛の命令を受けて追討に向かう直前に 脳溢血で死んだ 城資永の弟。長茂は大和吉野で朝政の兵に討たれるが、資永の姉妹の女武者 坂額と資永の息子 資盛が越後鳥坂城 (胎内市) で更に抵抗を続けた。
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最終的に鳥坂城は落城し資盛は行方不明、矢を受けた坂額は捕虜となり、合戦は終結する。この一連の争乱を 建仁の乱 (Wiki) とよぶ。
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   ※一宮: 建久九年 (1198) 2月即位の幼帝 土御門天皇 (Wiki)。
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   ※二条殿: 現在の地下鉄東西線烏丸御池駅北西に200mの 京都
国際マンガミュージアム (地図) に記念石柱がある。
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元々が広大な屋敷だった上に何度も建て直されて持ち主も変わり正確な位置は不明だが、一時期の後鳥羽院が概ねこの付近を仙洞としていた。
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朝政の宿舎からは500mほど、朝政邸から清水坂までは 3km強ほど、何かの拍子に朝政と長茂が遭遇していても不思議ではなかった。
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蛇足だが、天正十年 (1577) に勃発した「本能寺の変」では信長の長男信忠がここで自害し、二条殿はその戦火で焼失している。本能寺までの距離は約 1km。
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右画像は 京都国際マンガミュージアム (公式サイト) 西側通用門横にひっそりと建つ「此附近 二条殿址」の石柱。   画像をクリック→ 別窓で拡大表示
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西暦1201年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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参考資料

平家物語
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巻第六
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嗄 声
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「平家物語」に描かれた資永死没の顛末。お互いに血圧には注意しましょうね。
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越後国の住人城太郎助長 (資永) は越後守に任じた平家の恩に報いるため、木曽義仲を追討しようと三万余騎を集めた。6月15日に兵を整えて16日の卯の刻 (朝6時前後) に出陣を予定したが、夜半に大風と豪雨が吹き荒れ雷が鳴り響いた。天気が回復すると雲の間から大きな嗄れ声が「金銅十六丈の盧舎那仏 (東大寺の大仏) を焼き滅ぼした平家の与党がここにいる、召し捕れや」と三声叫んで通り過ぎた。
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城太郎をはじめこれを聞いた者は身の毛がよだち、郎党らは「これ程恐ろしい天のお告げ、出陣は見合わせ給え」と言上したが「武者は弓矢にこそ頼るもの」と答えて予定通りに出陣した。わずかに十町ほど進んだ所で黒雲が湧き上がり、助長に覆いかぶさると共に身を竦 (すく) ませて落馬、輿で館に運び込んだが数時間後に死んでしまった。この顛末を飛脚で都に伝えると平家の人々は大騒ぎになった。
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  ※その後の合戦: 城氏の軍勢が壊滅する横田河原合戦前後の出来事は 義仲の動向 を参照されたし。
助長 (資永) の跡は弟の長茂 (助職、資職とも) が継いだが文治四年(1188)に降伏し、梶原景時の口添えを得て奥州合戦に従軍、功績を挙げ頼朝の御家人に加わった。
反乱の背景には恩のある景時の失脚と追討に対する武士の意地もあったのだろう。
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西暦1201年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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正治三年
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2月 5日 丙戌
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吾妻鏡
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定綱らの飛脚が鎌倉を発って京都に向かった。長茂の事件に関し、居所などの捜索を在京および近隣の御家人に命じてある。
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西暦1201年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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正治三年
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2月13日 甲午
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皇年代略記
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改元があった。辛酉 (かのととり) の年には大きな変革が起きるとの、易経の思想に拠る。
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   ※辛酉: 60年周期で巡ってくる暦法の用語「干支」に基づく思想。更に詳細は Wiki で。
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西暦1201年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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建仁元年
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2月22日 癸卯
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吾妻鏡
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今日、改元の詔書が鎌倉に到着した。去る13日に正治三年を改めて建仁元年とした。大夫属入道 三善康信
その詔書を御所に持参し、即ちに施行せよとの仰せを受けた。
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西暦1201年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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建仁元年
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3月 3日 癸丑
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吾妻鏡
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鶴岡八幡宮で一切経の法会を行った。神事例は通例の通りで、左金吾が臨席された。
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   ※一切経: 大蔵経、蔵経、三蔵に同じ。仏陀の教えである 「経蔵」と戒律 「律蔵」と弟子を教法指導する
「論蔵」を含む経典。
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西暦1201年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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建仁元年
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3月 4日 甲寅
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吾妻鏡
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京都からの飛脚が鎌倉に到着して報告。先月22日に城四郎長茂と仲間の新津四郎らを吉野の奥で殺した。
長茂は追討に先立って出家、同25日に長茂と仲間4人の首を都大路に引き回した。
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   ※京都〜吉野: 距離は80km強、乱の勃発から鎮圧まで約 1ヶ月、今後は越後鳥坂城での攻防となる。
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西暦1201年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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建仁元年
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3月10日 庚申
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吾妻鏡
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未刻 (朝6時前後) に若宮大路の西側で火事。懐嶋平権守 大庭景義の旧邸土屋次郎義清和田左衛門尉義盛の屋敷から由井ヶ浜に沿った人家まで短時間に数町が焼失した。
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   ※景義旧邸、他: 景義は存命中だから転居後の旧邸か。この三人は昔から婚姻などで関係の深い氏族、
いずれも建暦三年 (1213) の和田合戦では連携して北條勢と戦い、一族滅亡に近い結果を招いた仲間である。同じエリアに住んでいたんだね。
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義盛の屋敷は八幡宮三の鳥居前 (地図) と考える説 (根拠は未確認 もあるが、その仮定に基づくと若宮大路に沿って西側のかなり広い部分が焼失したことになる
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   ※数町: 面積表示ならば1町=3000坪だから広すぎる。数プロックの住宅地と考えるべきか。
でも「八幡宮前から由比ヶ浜」で間違いないなら、もの凄い大火になるよ。
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西暦1201年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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建仁元年
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3月12日 壬戌
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吾妻鏡
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京都からの飛脚が鎌倉に到着して報告。先月29日の 城四郎長茂に与した城小次郎資家入道と、同 三郎資正と、 本吉冠者隆衡らが官軍によって誅殺された。
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   ※他の武士: 資家は長茂の次男、資正は同じく三男、本吉隆衡 (高衡) は藤原秀衡の四男。
文治五年 (1189) 6月13日に 義経の首を鎌倉に届けた新田冠者高平と同一人物で 奥州合戦後に赦免されていた。かつての本領は本吉郡 (現在の宮城県南三陸町一帯) 、一族滅亡の遺恨で参戦したか。
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西暦1201年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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建仁元年
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3月24日 甲戌
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吾妻鏡
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千葉介常胤が没した (享年84) 。従五位下、下総介常重の長男で生母は平政幹の娘。鳥羽上皇の時代、元永元年 (1118) 5月24日の生まれである。
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   ※平政幹: 甥の義忠から河内源氏の支配権を奪おうとした 義光に命じられて 義家の四男義忠 (Wiki) を
闇討ちにした常陸平氏 平成幹の三男。石下 (現在の常総市) を領して石毛を名乗った。
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西暦1201年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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建仁元年
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4月 2日 辛巳
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吾妻鏡
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越後国からの飛脚が到着して報告、城小太郎資盛 (城太郎助永の息子、長用の甥) が北国の軍勢を集めて叛逆を企てている。佐渡と越後両国の兵で攻撃しているが資盛勢も頑強に抗戦して鎮圧できない、と。
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.    ※城氏の名前: 資盛の父 資永が助長、資長、助永を称しているなど複数の名乗りをしているので実に
判りにくい。詳細は 2月3日の「城一族の略系図」を参照されたし。
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坂額は資盛の叔母 (資永の姉妹) で、吾妻鏡に拠れば鳥坂城攻防戦で負傷して捕虜となり浅利与一 (義成、義遠) の申請が許されて妻となった (本年6月28日) 。
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「承久軍記」は浅利知義 (坂額の子?) が「東山道から京を目指した」と書いており、2001年に出産可能年齢だったとすれば坂額が生んだ男子の可能性がある。
2002年生まれであれば、承久の乱には18歳になっている。
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西暦1201年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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建仁元年年
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4月 3日 壬午
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吾妻鏡
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遠州 (北條時政) と 大江広元朝臣三善康信が集まって協議した。越後の飛脚が伝えた資盛の謀叛について、越後近国の御家人に追討を命令すべきか、または鎌倉から追討軍を派遣すべきかの議論である。
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長茂は討ち取ったが仲間は未だ残っている。この情勢で鎌倉の御家人を失なうのは避けたいから在国の武士を派遣しようとの結論に至ったが、越後には適当な人材が見当たらない。
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そこで、上野国磯部郷にいる 佐々木三郎兵衛尉 盛綱法師 (法名を西念) を選んだ。越後国の御家人を集めて資盛を追討せよとの命令書を発行して 和田義盛 (侍所別当) に渡し、飛脚が携えて上野国に送付させた。
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   ※磯部郷: 群馬県安中市磯部の碓氷川南岸にある礒明山松岸寺
(地図) が盛綱の館跡で、夫妻の供養塔と推定される正応六年 (1293) 銘の古式五輪塔が残っている。
 右画像をクリック→ 別窓で拡大表示
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   ※佐々木盛綱: なぜか所領を没収され磯部郷に蟄居していた。
詳細は建久十年 (1199) 3月22日の条で。
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「先君の時代に比べて」と嘆いているから所領の没収は頼家の決裁に間違いないのだが、処分に該当する理由が見当たらない。
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西暦1201年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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建仁元年
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4月 6日 乙酉
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吾妻鏡
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夜になって和田義盛の派遣した飛脚が上野国から鎌倉に戻った。報告の内容は次の通り。
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命令書 (御教書) を西念の屋敷に届けたところ西念は門の外に待機しており立ったまま御教書を読んだ。そして家の中には入らず、門の横に繋いだ鞍付きの馬に跨り直ちに越後を目指して走り出した。
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郎従が追い掛けて「それ程に急がなくても」と言うと西念は「天慶の時代に 将門 が関東で乱を起こした際、宇治民部卿忠文に追討使の命令が下された。食事中の忠文はそれを聞いて箸を投げ捨てて参内し太刀を下賜されて家にも帰らず京都を出発した。それが勇士が目指す行動である。と答えた。
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   ※宇治忠文: 天慶三年 (940) に将門を追討するため 68歳の高齢で征東大将軍に任命された公卿。
忠文の軍勢が関東に着くより前に 平貞盛藤原秀郷の連合軍が将門を殺したため恩賞は得られなかった。翌年には 藤原純友の乱平定のため征西大将軍に任じたが、これも戦場に赴いていない。恩賞がなかった事への不満から怨霊になった、との伝説も残る。
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右は秀郷の築城と伝わる 唐沢山城址 (地図) の古い石垣。
 画像をクリック→ 唐沢山城址と秀郷関連の史跡へ (別窓)

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リンク先のページでは唐沢山城址の詳細および足利と佐野周辺の秀郷に関わる史跡をレポートしてある。
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末尾に記載した足利の鶏足寺は旧名 世尊寺。将門追討の勅命を受けた秀郷は世尊寺の法印に将門調伏を命じた。
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法印は土で作った将門の首を置いて祈り続けて 8日目に眠りに落ち、三本足の鶏 (にわとり) が血まみれの将門の首を踏みつけている姿の夢を見た。
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鶏の笑い声で目を覚ました法印は土の首に鶏の足跡が三つ付いているのを確認した、と伝わる。
まもなく将門は 平貞盛と 藤原秀郷の連合軍によって滅ぼされてしまう、というお話。

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西暦1201年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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建仁元年
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5月 6日 乙卯
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吾妻鏡
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   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
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昨日、佐々木中務入道経高 (経蓮入道) が子息の高重を介して一通の疑状 (先月21日付) を提出、今日 北條時政三善康信を介して頼家にそれを披露した。身に覚えがないにも拘らず讒言により処分を受けた嘆きを含み、まず罪科がない事を弁明した上で現在までの勲功を列挙している。
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去年 7月に大和国の賊徒が叛逆を企てて京都に集結したとの報告を受け 淡路、阿波、土佐 三ヶ国の御家人を招集したのは忠節による行動です。その際に圓識法師を称する者の企みが露見し 伊賀新平内が生け捕りました。これは私の対応によって悪事を防いだものであります。
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また勲功とは、関東草創の時代に私たち兄弟四人が討手に加わって大夫尉 (山木判官 平兼隆)を討ち取ってから世の中が鎮まるまで、身命を賭して幾多の戦場に赴き敵を倒した事であります。
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慎重な評議の結果経高の罪は免じられたが、没収した所領の返還は保留となった。
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   ※経高の罪: 去年の7月 27日に 「朝廷の権威を軽んじ警備を称して兵を集め略奪を行なった」 との記事
があり、経高は 城長茂 の謀反に対応した行為だと主張している。疑状は質問状か。
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西暦1201年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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建仁元年
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5月13日 壬戌
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吾妻鏡
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佐々木太郎高重が父経蓮赦免の御教書を持って京都に出発した。遠州 (北條時政) と 大江広元朝臣が餞別として馬を与えた。
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西暦1201年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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建仁元年
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5月14日 癸亥
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吾妻鏡
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佐々木三郎兵衛尉盛綱入道の使者が鎌倉に到着して書状を提出した。
和田義盛が御所に届け、三善康信二階堂行光頼家の前で読み上げた。 内容は次の通り。
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城小太郎資盛が朝廷に叛き、越後国鳥坂の城郭に籠りました。近在の武士が手柄を焦って攻め寄せましたが悉く敗退したため、私 西念に出陣の命令が下りました。先月 5日に居住している上野国磯部郷に御教書が届き、直ちに出発して三日中に鳥坂口に駆け付けて資盛に軍使を送り御教書の内容を伝えましたが、雌雄を決するから攻め寄せろとの返答がありました。
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これによって越後、佐渡、信濃の軍兵が攻撃を開始、私の子息小三郎兵衛尉盛季が一番乗りを目指し、信濃国の住人 海野小太郎幸氏が盛季の右手に進みましたが盛季の郎従が幸氏の馬を抑えたため、盛季は望み通りに前進し最初の矢を射ることができました。
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その後に幸氏も攻め寄せて戦ううちに負傷し、資盛率いる守備兵も雨のように矢石を放って合戦は二刻(4時間前後) にも及び、盛季も傷を負い数人の郎従が死傷しました。資盛の叔母で 坂額御前を称する女性が敵の中におり、百発百中の弓箭の腕前は群を抜いていました。髪を束ね上げ腹巻を着して矢倉の上から寄せ手を狙い多くの兵を射殺し、西念の郎従の多くも彼女によって命を落としました。
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最後は信濃国住人 藤澤清親 が砦の背後に廻り込み高所から放った矢が坂額の太股の左右を射抜き、倒れたところを清親の郎従が生け捕りました。傷が癒えたら連行する予定です。
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坂額の負傷後に資盛の陣は崩れて敗れ去りました。資盛は先祖 (四代前) の出羽城介繁成が野干 (狐または狼) から手に入れた自慢の太刀をこの合戦で失なったそうです。
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   ※鳥坂城: 現在の胎内市羽黒にあった山城 (地図) 。更に詳細は こちら (外部サイト) で。
新潟旅行の際にすぐ近くの道の駅 胎内加治川に寄ったのだから無精をせず少し足を伸ばせば良かったのに、と思う。
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   ※野干の太刀: 私の記憶では繁成ではなく 城長茂の太刀。幼い時に行方不明になって狐に育てられ、
4年後に発見された。その時に現れた老翁 (狐の化身) が太刀と櫛を贈ったと伝わる。
老翁は 「私が育てれば天下を握るほどの人物になっただろうに 」 と言った、とか。
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西暦1201年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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建仁元年
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5月17日 丙寅
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吾妻鏡
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佐々木左衛門尉定綱の飛脚が鎌倉に到着。柏原弥三郎は去年に三尾谷十郎広徳が追討に向かった際に逃亡し行方不明になっていたが、佐々木広綱の弟 四郎信綱が所在を突き止め今月 9日に討ち取った と報告した。
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   ※佐々木氏: 広綱は佐々木四兄弟の長兄定綱の長男。承久の乱では宮方に与して斬首となった。
信綱は定綱の四男、鎌倉方に与し宇治川合戦で功績を挙げ尾張豊浦庄の地頭に任じた。
近江の旧領は四人の息子が継承し 大原氏、高島氏、六角氏、京極氏の祖になっている。
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   ※柏原為永: 屋島と壇ノ浦合戦で勲功を挙げ、柏原庄地頭と京都守護に任じていた武士。嫌疑の詳細は
記録になく、一説に 鎌倉の影響力を弱めたい朝廷と、朝廷を武力で威圧したい幕府の間で犯罪の捏造があった、とも。昨年1月1日に、追討を命じる宣下が発せられていた。
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   ※三尾谷広徳: 文治元年 (1185) 10月17日、土佐房昌俊と共に
義経の六条室町邸を襲った水尾谷広徳。
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土佐房と仲間の三人は「26日に義経の部下が鞍馬山の奥で捕獲し六條河原に首を晒した」とされているが、三尾谷広徳は義経の郎党の追撃から逃げ延びて鎌倉に戻ったらしい。
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比企氏所領の南限に近い比企郡川島町の広徳寺 (地図) の伝承では、頼朝の郎党三尾谷 (水尾谷) 広徳が敷地に建立した持仏堂を原型とした堂が保存されており、元は広徳の菩提を弔って 政子が寄進したもの、と伝わる。記録に残らない接点があったのだろうか。
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  右は国の重文 広徳寺阿弥陀堂。 画像をクリック→ 別窓で拡大表示
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西暦1201年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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建仁元年
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6月 1日 己卯
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吾妻鏡
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寅刻 (早朝4時前後) に左金吾 (頼家) が江島明神に御参詣、併せて相模河付近を逍遙した。近在の御家人が集まって狩猟や弓射の勝負などを楽しんだ。今夜は大磯に止宿、遊女らを呼び集めて歌舞酒宴を催した。
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   ※江島明神: 現在の 江ノ島神社 (公式サイト) 、祭神は三姉妹の
女神。 ある時に 北條時政が参籠し、満願の夜に天下の覇権を握る夢を見て「善根を積めば栄えるが悪行があれば一族が滅びる」との託宣を得た。
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翌朝になると三枚の龍の鱗が床に残されており、時政はそれを家紋 (三つ鱗) とした。
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元弘の乱 (1333年) での北條一族滅亡は高時らの悪行が原因、と書いていたのは太平記だったかな。悪行に関しては時政も高時なんかに負けていないと思うけどね。「主殺し」 は悪行だよ。
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   ※大磯: 東海道の大きな宿驛。平安末期から鎌倉時代の相模国府も大磯にあり、曽我兄弟の兄 祐成
愛人だった「大磯の虎」もこの宿の遊女だった。相模を代表する五つの神社を大磯に合祀して相模総社とした六所神社や神揃山などに国府の雰囲気が残っている。
  右画像は相模総社の六社神社。クリック→ 別窓の明細ページへ
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相模国府は治承四年秋の富士川合戦後に 頼朝が初めての論功行賞を行なった場所でもある。
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西暦1201年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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建仁元年
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6月 2日 庚辰
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吾妻鏡
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今朝、左金吾 頼家が大磯宿を出立する際に遊女の愛寿が突然落餝 (髪を落とす) した。昨夜頼家に呼ばれた数人の中に入らなかったのが理由で、彼女の美しさを妬んだ同僚が名簿に載せなかったためらしい。
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頼家は嘆息して多くの纏頭 (てんとう) を与えたが彼女は受け取らず、布施として高麗寺に納めて立ち去ってしまった。  戌刻 (20時前後) に金吾は鎌倉に御帰着された。
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   ※纏頭: 褒美の衣装などを頭に纏った習慣から発生した言葉。貨幣経済が確立した室町時代以後には
花代として紙で作った花 (纏頭) を渡して遊女がそれを換金するシステムになったらしい。
鎌倉時代初期なら単純に「報償の贈与」と理解すべきか。
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   ※高麗寺: 神仏習合時代は現在の 高来神社(大磯町のサイト、地図) と一体だったが、明治維新に発布
された神仏判然令により廃寺となった。
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西暦1201年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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建仁元年
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6月28日 丙午
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吾妻鏡
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藤澤次郎清親が囚人の資盛 叔母 (坂額を称す) を伴って参上した。彼女の傷はまだ癒えていなかったが左金吾 (頼家) の仰せを受け、清親に支えられての拝謁である。左金吾は御簾の中から眺め 畠山重忠小山朝政和田義盛比企能員三浦義村らが侍所に列座し多くの御家人が見物に群参した。
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坂額はその中央を御簾の前まで歩み寄った。凛とした態度で少しも諂う (へつらう) 様子を見せず、名のある武将と比べても見劣りのない堂々とした態度だが、絶世の美女でもある。
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   ※坂額: 同じ女武者だが実在が疑われる巴御前と比べると史料が明確に残っている。美女かどうかは
個人的な趣向もあるから一概には言えないが、それなりの容貌ではあったらしい。
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平家物語の「木曽殿最期」に描かれた巴は「敵の首を鞍に押さえつけて捩じ切った」などと書かれているから、見た目はアジャ・コングみたいな女 (笑) を想像してしまうが、坂額の場合は弓 (半弓だろう) の名手だから、特に男勝りのパワーを必要とするタイプではない。
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ちなみに、女武者 巴の存在は「平家物語のフィクションで、更に源平盛衰記が拡大脚色して転載したもの」と考えるのが概ね定説とされている。真偽は御自分で調査して下さい。
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西暦1201年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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建仁元年
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6月29日 丁未
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吾妻鏡
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阿佐利與一 義遠が女官を介して願い出た。越後で囚人となった女の配所 (処分) を決めるのであれば是非とも私に頂きたい、と。
左金吾 頼家「彼女は朝敵である。理由を述べよ」と命じた。
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義遠は「特別な所存はありません。妻として立派な男子を産ませ朝廷を護り武家の繁栄に努めたいと考えるからです」と答えた。
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左金吾は「この女の容貌は美しいが内にある猛々しい心を思えば義遠の考えは尋常にあらず。」と嘲笑し、最後には願いを許した。
義遠は 坂額を伴って甲斐国の所領に下向した。
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   ※その後の坂額: 義遠 (浅利与一) の本領 甲斐国浅利郷で生涯
を終えたらしい。義遠は久安五年 (1149) の生まれだから当年 50歳、後妻か側室にする希望だったか。本領と墓所、所縁の地や伝 坂額の墓所などは別窓のリンク先で。
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  右上は浅利氏の菩提寺を称する大福寺近くの与一廟所。
  五輪塔群は周辺の墓石を集めて見栄え良く並べたものだろう。
  画像をクリック→ 浅利与一と坂額の詳細ページ (別窓) へ。
   
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西暦1201年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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建仁元年
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7月 6日 甲寅子
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吾妻鏡
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焼けるような残暑である。涼しくなった夕刻を待ち、御所で百日連続の蹴鞠を始めた。左金吾 (頼家) は長く蹴鞠を続けているが未だに奥義の境地に至っておらず、北面の武士の中で熟達している者を一人鎌倉に派遣するよう 後鳥羽上皇に依頼していた。その勅許が下り、下向に備えて蹴鞠仲間を加えての習熟が目的である。
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申刻 (16時前後) に参加者が集って左金吾の準備も整い、北條五郎時連、少将法眼観清、富部五郎、大輔房源性、比企弥四郎時員 (能員の三男) 、肥多八郎宗直と蹴り始めた。数え役として金持右衛門尉、江間四郎 (北條義時) 殿、同太郎主 (泰時) 、民部丞 二階堂行光らが立ち合った。
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   ※蹴鞠: 歴史やルールなど詳細は Wiki、または 保存会のサイトで。7月6日は新暦では 8月6日。
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西暦1201年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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建仁元年
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7月10日 戊午
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吾妻鏡
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豊嶋右馬允朝経 (有経の嫡男) を土佐国守護職に補任した。佐々木中務丞 経高法師の後任である。
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   ※佐々木経高更迭: 5月6日に再審の処分結果が決定。赦免を勝ち取り、11月13日に鎌倉に入る。
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西暦1201年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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建仁元年
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8月11日 戊子
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吾妻鏡
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午刻 (正午前後) に豪雨と強風あり。家屋が倒壊し船が転覆、鶴岡八幡宮寺の廻廊と八足門 (八脚門) など多くの堂塔にも被害が発生した。民家一万軒の中で被害を受けないのは一軒もない、そんな状況である。
下総国葛西郡の海岸では多数の人が潮に流されている。
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   ※八脚門: 片袖に各々4本の柱を持つ門で、金剛力士像などを
納めている例が多い。 右は小町大路の本覚寺山門。
  画像クリック→ 別窓で拡大表示

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すぐ近くの 妙本寺の山門 (別窓) は一般的な四脚門だが、本堂 (祖師堂) の前にも四脚門 (二天門) がある。
こちらは妙本寺 (比企氏館跡) も参考に。
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   ※葛西郡: 下総国葛飾郡の南西部で現在の葛飾区と江戸川区の
の一帯。秩父平氏 豊島清元の三男 清重が開拓した所領を伊勢神宮に寄進して葛西御厨とし、葛西氏の祖となった (秩父平氏の系図を参照) 。
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清重の居館は現在の環七と国道 6号 (水戸街道) の交差点付近 (御殿山公園、地図) で、この一帯が葛西郡の中心部と推定される。
今回の出水が台風の高潮被害なのか中川の氾濫なのかは判断が分かれる。
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西暦1201年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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建仁元年
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8月15日 壬辰
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吾妻鏡
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鶴岡八幡宮で恒例の放生会が延期となった。廻廊が倒壊したためである。
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   ※8月15日: 西暦の 9月2日に該当する。台風シーズンだ。
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西暦1201年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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建仁元年
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8月23日 庚子
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吾妻鏡
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去る 11日と同様の豪雨と強風。各地で穀類の被害が発生し、国衙の倉庫には何も納められない状態である。
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西暦1201年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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建仁元年
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9月 7日 甲寅
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吾妻鏡
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蹴鞠の名手である紀内所行景後鳥羽上皇の仰せにより鎌倉に下着。左金吾の申請に対応した措置である。今日、下向する途中の宿舎手配などを担当した大膳大夫 大江広元朝臣邸に到着した。
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   ※紀内行景:紀内は「紀氏の内舎人」を意味する。例えば 天野遠景
を天野藤内と呼ぶのは「藤原氏の内舎人」だから。内舎人 (うどねり) は帯刀して警護と雑事を受け持つ実務者を差す (更に詳細は Wikiで) 。
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   ※広元邸跡: 十二所の明石橋近くに、鎌倉青年団が建てた石碑が
住宅の角に保存されている。
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四代将軍藤原頼経が建立した明王院 (公式サイト) や梶原景時邸の痕跡、三代将軍 実朝が建立した巨刹 大慈寺の跡一遍上人が開いた 光蝕寺 (Wiki) などが点在する、見所の多いエリアである。
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  右画像は「大江広元邸址の碑」。画像をクリック→ 別窓で拡大表示
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西暦1201年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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建仁元年
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9月 9日 丙辰
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吾妻鏡
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大江広元朝臣が行景を伴って御所に参内。行景 (花田の狩衣に狩袴) は最初に侍所に入り、お召しに従って中庭を経て御所の縁に控えた。烏帽子に直衣で出御した左金吾 頼家は行景に御盃を与え「蹴鞠の師範として招き偶然にも重陽の節句に面会する運びとなった。 (庭の雛菊を盃に浮かべ) 長い間の指導を頼む。」と語った。
行景は跪いて盃を受け、左金吾は自らの手で銀造りの剣を与えた。
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   ※花田: 露草の花の汁で染めた淡い藍色を差す。吾妻鏡が風情のある頼家を描いているのは珍しい。
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西暦1201年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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建仁元年
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9月11日 戊午
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吾妻鏡
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行景が鎌倉に到着して最初の蹴鞠に左金吾が加わった。北條五郎時連、紀内行景、富部五郎、比企弥四郎、
肥多八郎宗直、大輔房源性、加賀房義印がメンバーである。
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西暦1201年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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建仁元年
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9月15日 壬戌
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吾妻鏡
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早朝、御所に行景を招いて蹴鞠。北條五郎ら五、六人が加わったが数えるほどの記録ではなかった。
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今日は鶴岡八幡宮での放生会である。本来の予定だった先月には八脚門や廻廊が倒壊したため延期していた。左金吾が八葉の御車で参席し、山城左衛門尉 二階堂行村が御劔役を務めた。
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江間四郎 北條義時殿、大膳大夫 広元朝臣、右近大夫将監 源 (大江) 親広 、右近将監 源能広、新判官 比企能員、右馬大夫 安藤右宗、左兵衛尉 和田常盛、左衛門尉 中原章清、源三左衛門尉 親長、太田兵衛尉、
後藤左衛門尉 信康、雅楽允景光、前右兵衛尉 三浦義村結城七郎朝光らが御後に従った。
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(将軍出御に) 随兵がないのは異例、最近は何事につけても旧例を守らず、古老が嘆くような有様である。
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西暦1201年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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建仁元年
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9月16日 癸亥
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吾妻鏡
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左金吾 (頼家) は昨日と同じく八幡宮へ参席。流鏑馬などは通例の通り。
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西暦1201年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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建仁元年
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9月18日 乙丑
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吾妻鏡
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左金吾 (頼家) が犬を飼い、共に狩猟を楽しむ者らに犬を世話する順番を割り当てる札を庭の石坪に置いた。  一番 小笠原弥太郎 と 細野兵衛尉 二番 中野五郎 と 工藤十郎 三番 比企弥四郎 と 本間源太
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   ※石坪: 建物や垣根などに囲まれた土地、中庭などを差す。
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西暦1201年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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建仁元年
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9月20日 丁卯
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吾妻鏡
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御所で御鞠。最近は政務を顧みず専ら蹴鞠に傾倒し 側近も皆これに加わっている。今日は 北條五郎時房らが狩衣を着けずに参集し、蹴った数は七百に至った。
深夜になって月か星の様な光が空から降り、人々は災禍の前兆ではないかと怪しんだ。
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   ※災禍の前兆: 吾妻鏡で良く出会うのが事件の前に予兆がある例と、戸板の影などで立ち聞きする例。
吾妻鏡の編纂者は日記形式で書く事によって臨場感と真実味を訴求したのだろうが、実際には事件の数十年後に複数の資料や日記を寄せ集めて編纂したもの。
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事件後に付け加えた周辺情報には価値が乏しいのみならず、背景に権力者側の曲筆や欺瞞があるのは避けられない。政権政党の公文書改竄と同じと考えれば良い。
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西暦1201年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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建仁元年
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9月22日 己巳
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吾妻鏡
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今日も通例の人数で蹴鞠。大勢が見物する中で江間太郎 (泰時) 殿が密かに中野五郎能成に話し掛けた。
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蹴鞠は幽玄の芸で誰もが夢中になるのは判りますが、去る 8月の台風で鶴岡八幡宮の門が倒壊し諸国が飢饉に苦しんでいるのに京都から人まで招いています。
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去る20日に起きた変異も何かの前兆として警戒し、天文の学者などに確認すべきでしょう。幕下 (前 将軍頼朝) が健在だった建久年間には百日間も毎日浜に出ると決めていたのに、天変地異が起きて安倍資元朝臣が諌めた後には遊びを止め、祈祷の指示を下しました。今の状態は心配ですから、側近である貴方が機会を見つけて諫言すべきだと思います。
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能成はその通りだと思ったが、頼家を諌める事はできなかった。
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   ※江間太郎: 前年 2月 26日の頼家八幡宮参拝の随兵として 「江間太郎頼時」 の名が載っている。
この時点では烏帽子親である頼朝が与えた 「頼」 が 今日の記載では 「江馬太郎殿 泰時」 に変っている。実際に泰時を名乗り始めた正確な時期は不明だが、頼朝死没から一年が過ぎて北條氏が頼朝の (つまり源家の) 支配から離れたという意思表示なのだろう。
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   ※泰時の発言: 安倍資元の名が吾妻鏡に現れた最初は建久六年 (1195) 10月 3日、これは京都からの報告
で 「諫言」 には該当しない。可能性があるのは脱落している建久七年〜九年だが、頼朝は大姫に続く乙姫の入内工作などで浜遊びに熱中できる情勢ではない。
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そもそも、現在18歳の泰時が 「頼朝が健在だった建久年間 (つまり自分が満12〜13歳の頃) には...云々」 などと言うのは不自然である。
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泰時の事跡に関しては多くの逸話を掲載して 「人物の高潔さ、そして才能の豊かさ」 を強調している。つまり頼家の人格を故意に貶める事例を数多く載せると共に 「凡庸な人物である泰時を卓越した政治家に偽装する意図」があったとも考えられる。若年の江間太郎に 「殿」 まで付けて語る吾妻鏡の編纂者に騙されてはいけない (笑) 。
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それに加えて、本来なら鎌倉殿の補佐役を務めるべき宿老らが 政権運営に関する権限を剥奪したのに「政治に関心を持て、遊びに熱中するな」と諌めるのは筋違いだろう。
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西暦1201年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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正治三年
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10月 1日 戊寅
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吾妻鏡
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御所で蹴鞠。北條五郎、紀内、富部五郎、肥多八郎、比企弥四郎、源性、義印がこれに参加、数は三百六十。
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西暦1201年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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建仁元年
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10月 2日 己卯
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吾妻鏡
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夜になって観清法眼 (写本により親清、素性不明) 法眼が密かに江間太郎 (泰時) 殿の館を訪れて語った。
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先月22日に能成に話したことの詳細が左金吾に伝わった。誇張もあったと思うが、父親 (義時)や祖父 (時政) を差し置いての諫言は僭越との怒りを招いているようだ。ただし長く続く事ではなく、短期間で鎮まると思う。
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泰時は次のように答えて旅支度の蓑や笠などを出して見せた。
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諫言などではなく、自分の考えを側近に相談しただけです。処罰を受けるとすれば本領に戻っていても同じでしょうが、急ぎの用事があるため明朝北條に下向しようと思います。
忠告には感謝しますが帰国は兼ねてからの予定であり、旅の準備もこの通り揃えてあります。
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   ※泰時の背後で: 時政の長男として 13人合議制の中でもナンバー2の地位にあった義時が従五位下に
叙されたのは 41歳の元久元年 (1204) 3月6日、これに対して時政の後妻 牧の方 が産んだ政範 (1204年11月5日に 15歳で病没する) も従五位下である。
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叙位の正確な時期は不明だが、建仁元年の時点での時政夫妻が想定した嫡男としての序列は、明らかに義時から政範に移っていた。
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私は、時政の野望は頼朝挙兵の頃から漠然と芽生えていたと考える。主殺しの汚名を避けるため頼家の悪行を殊更に強調し、東国武士団の総意を代弁する正義を装った。
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それと同じように、後継の地位を継母の息子に奪われかけた 義時政子の政権奪取計画も、この前後 (政範の叙位の頃) に芽生えたのではないか。
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時政が源家に叛く 「正当な機会」 を待ったように、義時も実父に叛く行為を 「正当化できるチャンス 」 を待ち始めたのだろう、と思う。
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相互に隠し合っている内輪の怨念を想像しつつ吾妻鏡を読むのも面白い。
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西暦1201年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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建仁元年
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10月 3日 庚辰
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吾妻鏡
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卯刻 (朝6時前後) に江間太郎 (北條泰時) 殿が北條に向けて出発した。
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西暦1201年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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建仁元年
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10月 6日 癸未
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吾妻鏡
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江間太郎 (北條泰時) 殿が昨日伊豆北條に下着した。ここは去年の不作の影響で春から飢饉の状態にあるため提出された数十人連名の嘆願状に応じて出挙米 (種籾) 50石を支給した、その返済期限が今秋である。
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しかしながら 8月の台風で被害を受けたため餓死の危険が迫って返済できない農民が譴責を恐れて逃亡まで考えていると聞き、泰時はその救済のため急行した。それが下着した理由である。
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泰時は負債を抱えた数十人を集め目の前で証文を焼き捨て、「豊作の年になっても返済の必要はない」とし、更に取り敢えずの食事と酒と一人当り1斗 (白米換算で約 16kg) 与え、人々は嬉し涙を流して退出した。手を合わせ泰時の子孫繁栄を祈るような農民の思いである。更に泰時は食事と酒を目代に用意させていた。
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   ※種籾 50石: 単純換算すると 9,000リットル。真偽は不明。
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   ※義時と泰時: 正確な日付は不明だが 烏帽子親の 頼朝が与えた
初名の頼時を泰時に改め 江間太郎泰時の呼称に変っている (もちろん、頼朝没後の改名) 。
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父 義時は従来の江間四郎から北條四郎主に表記が変っている (相模守に任じた元久元年 (1204) 以後は「相州」となっている) 。
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当時の義時邸は守山西麓の北條時政邸から狩野川を隔てた西岸の南江間にあり、跡地の伝承は残っているが痕跡は皆無である (地図) 。 右上は江間郷の義時邸跡の記念碑。
                   画像をクリック→ 別窓の明細ページへ。

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義時夫妻 (義時の墓は分骨) を葬った 北條寺も至近距離にある。北條寺は舎弟の 五郎時房および彼の子孫一族の菩提寺でもある。
ちなみに、義時の正式な墓所は 通称 「頼朝の墓」 から直線で東へ100m、 「三浦やぐら」 の前の平地にあった 法華堂 (詳細の別窓表示) 、今では痕跡も残っていない。
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興味があれば 北條義時法華堂跡 確認調査報告書 (pdf) のダウンロードを。
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西暦1201年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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建仁元年
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10月10日 丁亥
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吾妻鏡
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江間太郎 (泰時) 殿が伊豆の国から帰着された。
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西暦1201年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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建仁元年
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10月21日 戊戌
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吾妻鏡
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御所で蹴鞠あり。加わったのは 北條五郎時房、紀内、富部五郎、比企弥四郎時員 (能員の嫡子) 、肥多八郎、
源性、義印。相模守重頼と若宮三位房らが検分した数は九百五十である。
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西暦1201年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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建仁元年
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10月27日 甲辰
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吾妻鏡
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鶴岡八幡宮の廻廊と八足門 (八脚門) の上棟式があり工匠らが褒美を得た。遠州 北條時政 、大官令 大江広元 大夫属入道 三善康信が八幡宮寺で儀式を行ない、見物人も群集した。
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西暦1201年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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建仁元年
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11月 2日 己酉
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吾妻鏡
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御所で蹴鞠あり。加わったのは 北條五郎時房らで 前回と同じ、見分した数は三百六十。
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西暦1201年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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建仁元年
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11月13日 庚申
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吾妻鏡
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左金吾 (頼家) から謹慎処分を受けていた佐々木中務入道経蓮 (経高) が赦免され、それを謝するため先日鎌倉に参着した。今日、故 将軍家 頼朝)の御月忌 (月命日) を迎え 法華堂に於いて法華経六部を供養する法事を行なった。この六部は謹慎中の京都で少しづつ仕上げた写経である。
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導師を務めたのは題学房、招いた僧は六人。導師には絹布六疋で他の僧には一人宛に白布一反を布施とした。所領も公職も没収されたため僅かな布施に過ぎないが志は故将軍家も照覧されると考え諫文 (和字、ひらがな) に直した経文を読み上げた。
その懐旧の情を察した聴衆は涙を流し、尼御台所 も仏縁を結ぶため内々に参席された。
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   ※謹慎の経緯: 前年の7月27日に「洛中に武装兵を集めて狼藉云々」の記載がある。今年 5月6日に弁明
した書状を提出したのだが、所領没収は撤回されなかったらしい。
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発端は洛中に武装兵を集めた事が 後鳥羽上皇を怒らせ、鎌倉に対して淡路、阿波、土佐の守護職解任を要求された。頼家には突っ撥ねるだけの気概はなかった。
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経高は 12月 3日に頼家に面会し、没収された中から一ヶ国 (場所は不明) だけの返還を受けている。ここで再び泰時が登場するから 「忖度とゴマスリもいい加減にしろよ」と言いたくなるが...。
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西暦1201年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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建仁元年
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12月 2日 戊寅
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吾妻鏡
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文章生の宣衡が使節として京都に向かった。これは左衛門督 (頼家の官職) の辞表を届けるためで、辞表を書いた政所には官職の記載を省略するように指示を下した。
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   ※宣衡: 翌年 11月9日に「善進士宣衡が...」の記述があるため三善氏の一族なのだが、それ以上の素性
は判らない。同じ三善氏で承久の乱直前の 後鳥羽上皇の動きを鎌倉に知らせた官人 三善長衡の系累だった可能性はあるが、三善康信の近親ではない。
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   ※官職と官位: 頼家の官位は従三位。左衛門督は従四位に相当する官職なので、官位と官職がバランス
しない。上級職を求める場合には官職の記載を省くのが通例だったらしい。
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西暦1201年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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建仁元年
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12月 3日 己卯
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吾妻鏡
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佐々木中務入道経蓮 (経高) が子息の高重を伴って御所に参上し、近日帰洛する旨を申し述べた。
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比企能員の取り次ぎによって東の小御所で左金吾 (頼家) と対面、没収した所領一ヶ所の返還が許され、暫くの世間話や思い出を語り合った。経蓮は忘れ得ない記憶や他人と比べられない奉公の記憶を語り、独り涙を拭って退出した。当時を知る 和田義盛ら年老いた御家人たちの多くも涙を流した。
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また江間太郎 (北條泰時) 殿が密かに家君に向かって次のように語りかけた。
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経蓮が没収された土地は全て勲功で得た恩賞で、罪を許すなら全て返還すべきです。譜代の勇士なのに恨みを残したままにしたら公私ともに禍を招きかねません。そんな配慮をされないのでしょうか。
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   ※家君: 家長、父親を意味する。この場合は 義時を差す。
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   ※泰時の危惧: 承久三年 (1221) に勃発する承久の乱での経高は 後鳥羽上皇 に与して自害、嫡男の高重
と次男の高兼も戦死する。吾妻鏡はここでも泰時の優れた洞察力と頼家の愚かさを対比させている。ただしこの部分は「承久の乱での経高一族の滅亡を知っている 70年以上後の編纂者が追記した内容」である。
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こんな言葉が恣意的に残っているのは「泰時の優れた判断力」を喧伝して認知させる必要に迫られる編纂者の立場があった、という事。こんな話が頻発すると「優秀さを証明する逸話を残す必要がある」レベルの才能だった、と勘繰りたくなる。
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頼家に旧領の全てを返還する配慮を見せていれば経高が京方に与する事もなかった可能性は確かにあるが、元々の佐々木一族は朝廷と深い接点を持っていたし、一族が常駐に近い形で在京した事実も知っておく必要がある。
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西暦1201年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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建仁元年
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12月18日 甲午
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吾妻鏡
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御所で蹴鞠。人数は前に同じ、数は三百二十である。
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西暦1201年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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建仁元年
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12月28日 甲辰
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吾妻鏡
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善進士三善宣衡が京都から帰参して報告。15日に御辞表を提出したが勅許されず、辞表は返却された、と。
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   ※三善宣衡: 12月2日に 頼家の辞表を携えて京都に向かっている。
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西暦1201年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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建仁元年
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12月29日 乙巳
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吾妻鏡
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今日、梶原景時の与党だった勝木七郎則宗が囚人の扱いを許されて鎮西に帰った。
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   ※勝木則宗: 正治二年 (1200) 2月 2日に勝来として登場、捕縛しようとした波多野盛通を突こうとして
畠山重忠に腕を折られた武士。
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西暦1201年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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建仁元年
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月 日
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史 料
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記事
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西暦1201年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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建仁元年
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月 日
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史 料
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記事
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   ※:
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西暦1201年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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建仁元年
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月 日
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史 料
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記事
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   ※:
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