当サイトのトップ頁は http://kamakura-history.holy.jp/frame-000.html です。
.

承元五年 (1211年) 、3/9に改元して建暦元年
.
前年・承元三年 (1210年) の吾妻鏡 へ       翌年・建暦二年 (1212年) の吾妻鏡
.
吾妻鏡 写本 (伏見本) の全ページ画像 を載せました。直接 触れるのも一興、読み解く楽しさも味わって下さい。
.
トップ頁は フレーム表示の 吾妻鏡を読む です。タグ記述を Google Crome に変更して誤字・脱字・行間も改善しました。

.
下線なしの青文字 はサイト内での移動です。下線付き青文字 は Wiki、公式サイト、参考サイト、地図 など、別窓での表示です。
.
西暦・天皇・上皇
和暦・月日・史料
吾妻鏡に記載してある内容の意訳、関連する情報、補足事項など
西暦1211年
.
.
84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
.
承元五年
.
1月 1日 乙酉
.
吾妻鏡
.
   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
.
相模守 北條義時が将軍家 実朝に椀飯を献じた。御劔役は武蔵守 北條時房、遠江大夫将監 源親広が弓箭を携え、結城左衛門尉朝光が御行騰を持ち運んだ。
.

.
   ※椀飯 (おうばん) : 饗応のための献立、その食事を摂る儀式も意味する。大判振る舞い、の語源。
.
   ※行騰 (むかばき) : 乗馬の際に着ける袴カバー。 Wiki 画像を参考に。
.
   ※年令: 源実朝 18歳、 坊門信子 (実朝の正室) 23歳、 公暁 (故 頼家の二男) 10歳、
竹御所 (故 頼家の娘、後の四代将軍頼経の正室) 8歳、
政子 52歳、 北條義時 48歳 、 北條時房 35歳 、 北條泰時 26歳 、 北條朝時 18歳 、
北條重時 12歳 、
千葉成胤 55歳 、 千葉胤綱 12歳 、 足利義氏 21歳 、 三浦義村 52歳前後 、 三浦泰村 6歳前後 、
安達景盛 40歳前後 、 大江広元 62歳 、
84代順徳天皇 13歳 、 土御門上皇 15歳 、 後鳥羽上皇 30歳 、 九条道家 18歳 、 近衛家実 32歳、
藤原定家 47歳、
定豪 58歳、 慈円 55歳 、 栄西 69歳 、 法然 75歳 、 親鸞 37歳 、
.
      (全て1/1時点の満年令)
.
安達景盛は生年不詳だが、頼朝の伊豆配流 10年後に誕生と仮定して年齢を推定した。
.
西暦1211年
.
.
84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
.
承元五年
.
1月 2日 丙戌
.
吾妻鏡
.
前大膳大夫大江広元朝臣が椀飯を献じた。御劔役は源親廣
.
西暦1211年
.
.
84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
.
承元五年
.
1月 3日 丁亥
.
吾妻鏡
.
小山左衛門尉朝政が椀飯を献じた。御劔役は 結城左衛門尉朝光が務めた。その後に将軍の御前で酒宴があり、延年 (Wiki) の舞などの歌舞が演じられた。
相模守 北條義時が御狩衣を下賜され、その他に武蔵守 北條時房らも御引出物を受けた。
.

.
   ※結城朝光: 彼の生涯についての 詳細ページを開いた。2020年
秋に結城市に隣接する筑西市に転居したのが契機。転居の理由は、約25年住み続けて飽きたし、猪や猿やハクビシンの被害も昔より増えたし。
.
   ※延年の舞: 平安中期に流行した芸能で、下級の僧や稚児が余興
や儀式の際に演じた。曽我物語に拠れば 大庭景親の追手に館を焼かれた土肥実平「焼くなら何度でも焼け、源家繁栄の炎ぞ」と唄い、延年を舞って敗残の味方を励ました事になっている。
.
安房に逃れる舟を出す前に館が燃え落ちるのを見ながら舞った土肥実平の延年 焼亡の舞は能や謡曲では 「岩海岸へ下る坂」 (現在の「謡い坂」 ) とされているのだが、実際には山が邪魔して土肥館は間違っても見えない。
.
   右は岩海岸近くの坂道に建つ「謡い坂」の碑。
       画像をクリック→ 「真名鶴の岩浦から安房国」の詳細頁へ(別窓)。

.
湯河原 (土肥郷) の 五所神社 (別窓) 例大祭の出陣祭では今も演じられている、と思う。
.
西暦1211年
.
.
84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
.
承元五年
.
1月 9日 癸巳
.
吾妻鏡
.
御弓始めの儀式を催した。
.
  射手   一番 和田平太胤長  vs 市河五郎行重
.

.
   ※市河行重: 圓城寺 (三井寺) の僧で、伊予阿闍梨覚義の子孫。覚義は 源頼義の庶子 (義家 義光の異母
弟) で、甲斐守に任じた義光の縁故として甲斐国に下り 市河荘に土着、御崎明神 (現在の表門神社、同じく末尾に記載) の婿となった。
.
その正確な年代は不詳だが、大治五年 (1130年) に 常陸国武田郷 から追放された 武田義清 清光の親子が甲斐市河荘に土着した事と何らかの連携があったと考えられる。
その後の市河氏は甲斐源氏と協調し、治承四年 (1180) 8月25日の吾妻鏡には、
.
甲斐国から南下した 安田義定 工藤景光 行光、市河別当行房らが 俣野景久と駿河目代 橘遠茂の軍勢を波志太山で打ち破った。
.
との記録がある。覚義の子または孫が行房、その次男が市河五郎行重か。また鎌倉時代中期には埴科郡船山郷青沼 (千曲川西岸、現在の千曲市稲荷山町一帯、地図) を領有した市河氏があり、寛元二年 (1244年) 8月の吾妻鏡は一族内での所領争論を記載している。
.
西暦1211年
.
.
84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
.
承元五年
.
1月10日 甲午
.
吾妻鏡
.
政所と問注所の吉書始めがあり、二階堂行光 三善康信が各々参上して執り行なった。
また今日、橘三蔵人が問注所の事務方に加えられた。
.
西暦1211年
.
.
84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
.
承元五年
.
1月15日 己亥
.
吾妻鏡
.
将軍家 実朝の外出初めがあり、北條義時邸に入御された。前大膳大夫 大江広元ら多数が供として従い、太刀持ちには 結城朝光が任じた。
.
西暦1211年
.
.
84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
.
承元五年
.
1月16日 庚子
.
吾妻鏡
.
京都朝廷の使者が到着。去る五日に将軍家(実朝)が正三位に叙された旨を報告した。
.

.
   ※実朝の官歴: 1203年 09月に 従五位下(満11歳)、
1204年 01月に 従五位上(満11歳)、
1206年 02月に 従四位下(満13歳)、
1207年 01月に 従四位上(満14歳)、
1208年 12月に 正四位下(満16歳)、
1209年 04月に 従三位  (満16歳)、
1211年 01月に 正三位  (満18歳)、
1212年 12月に 従二位  (満19歳)、
1213年 02月に 正二位  (満20歳)、
1218年 12月に 右大臣に昇任し、翌月27日に死没(享年 満26歳)。
.
西暦1211年
.
.
84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
.
承元五年
.
1月27日 辛亥
.
吾妻鏡
.
寅刻 (早朝4時前後) に大地震。今朝の陽光は影ができないほどに弱く、その色は赤黄色だった。
.
西暦1211年
.
.
84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
.
承元五年
.
1月28日 壬子
.
吾妻鏡
.
京都朝廷の使者が鎌倉に到着。去る18日に将軍家 実朝が美作国権守兼任の宣旨が下された、と。
.
西暦1211年
.
.
84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
.
承元五年
.
閏1月7日 庚申
.
吾妻鏡
.
   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
.
亥刻 (22時前後) に火災、武蔵守 北條時房から南側の人家 30軒余が灰塵に帰した。
.

.
   ※時房邸: 承久の乱 (1221年) で幕府軍を率いて勝利する時房は京都に駐在し六波羅南方として治安維持
に尽力する。元仁元年 (1224年) の 義時死没直後には上司の六波羅北方から転じて三代執権となった 泰時に招かれて鎌倉に戻り、連署に就任して泰時を補佐した。この時の泰時は40歳、補佐が必要な年齢でもあるまいに (私、彼の能力を疑問視してるからね) 。
.
通説では若宮大路に面した一画 (右画像) が時房邸跡と伝わるが 「タリーズコーヒー」 に改装して一年前後の2020年11月に閉店した後はどうなったのか判らない。店内には出土した陶器などを展示していたのにね。
.
更に 80mほど南の小池小路 (今も閉鎖中か?) の奥には古井戸と石の層塔が保存され、ここにも時房邸跡の表示があった。右の地図をクリック→ 別窓で拡大表示
.
まぁタリーズと小池小路の周辺だったと考えればそれで済む。タリーズにあった素焼き土器や陶磁器も特に時房邸跡を証明する遺物でもないし。
.
時房が鎌倉に戻った後の六波羅南方に着任した嫡子の 時盛は仁治三年 (1242) まで在京して、鎌倉に戻ってからは佐介ヶ谷に屋敷を構えて佐介流北條氏の祖となっている。
.
時盛は屋敷に近い松谷寺に佐介松谷文庫 (石碑あり、地図) を創設したらしいから、ひょっとするとこの辺にあった時房本邸を時盛が相続した、のかも知れない。
.
ここから500mの至近距離に、私が鎌倉散策の拠点にしたタイムズ駐車場 (地図) があった。
土日祝日を除いて終日停めても1100円、鎌倉では最も安かった。私はここに駐車して折り畳み自転車で走っていた。西の稲村ヶ崎まで約3km、東の十二所と明王院まで約 4kmだ。
.
オレンジ色の自転車で颯爽と走っているジョージ・クルーニーに似た (嘘だよ) 初老 (中老?大老?) の男性を見かける事もなくなった 。
.
以上、2020年春までの情報。その後の鎌倉の様子は判りませんので。
.
閏月とは
 
.
当時の陰暦では季節とのギャップ調節のため 3~4年に一度閏 (うるう) 月が入る (ここでは 1月の次が閏 1月) 。西暦と陰暦には一ヶ月前後のズレがある事にも留意が必要、例えば頼朝が挙兵した治承四年 8月4日は西暦では 8月25日になる。それと、2月は30日まである。陰暦→西暦の変換は こちらのサイトが利用できる。
.
西暦1211年
.
.
84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
.
承元五年
.
閏1月 9日 壬戌
.
吾妻鏡
.
永福寺の近くから御所の北面に梅の樹一本を移植した。これは北野天満宮の廟庭にある梅樹の種から育てたもので、濃厚な香りのみならず南側の枝には鶯の巣もあり、将軍家 実朝が特に気に入っている。
.

.
   ※北野天満宮: ちょうど梅花の季節を迎えている。和歌の名手だった菅原道真と梅の季節が重なって、
和歌に傾倒している実朝の琴線に触れたのだろう。
    東風 (こち) 吹かば 匂ひをこせよ 梅の花 主 (あるじ) なしとて 春な忘れそ
.
この和歌を元に本歌取りして、惨殺される前に詠んだ実朝の歌が、
    出て去(い)なば 主なき宿と 成りぬとも 軒端の梅よ 春を忘るな
.
西暦1211年
.
.
84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
.
承元五年
.
2月 4日 丁亥
.
吾妻鏡
.
   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
.
将軍家 実朝と御台所 坊門信子が安倍泰貞による熒惑星に基づく二人分の祈祷を受けた。
民部大夫 中原仲業 三浦平六兵衛尉義村がこれを差配した。
.

.
   ※熒惑星: 火星の古名 (中国名) 。陰陽五行思想 (Wiki) に基づく祈祷を行なっている。
.
西暦1211年
.
.
84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
.
承元五年
.
2月 8日 辛卯
.
吾妻鏡
.
鶴岡八幡宮の御神楽奉納と神事は通例の通り。右近大夫将監 源親広が奉幣の使者を務めた。
.
西暦1211年
.
.
84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
.
承元五年
.
2月22日 乙巳
.
吾妻鏡
.
将軍家 実朝が鶴岡八幡宮に御参詣、剣持ちは 結城朝光が務めた。疱瘡の跡を憚っていた去る承元二年 (1208) 以後は今日が始めての将軍家出御である。
.
西暦1211年
.
.
84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
.
承元五年
.
3月 3日 乙卯
.
吾妻鏡
.
   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
.
鶴岡八幡宮の例祭 (上巳節句) および一切経の法会は通例通り。ただし将軍家 実朝の御参宮はなく、前大膳大夫 大江広元朝臣が奉幣の使者を務めた。
.
西暦1211年
.
.
84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
.
承元五年
.
3月 9日 辛酉
.
玉蘂
.
この日改元あり。承元五年を改め建暦元年とした。現在の帝 (84代 順徳) としては最初の改元である。
.
西暦1211年
.
.
84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
.
建暦元年
.
3月19日 辛未
.
吾妻鏡
.
京都朝廷からの使者が鎌倉に到着、改元の詔書を届けた。去る 9日に承元五年を改めて建暦元年と定めた。
.

.
   ※改元: 前年12月25日に83代土御門天皇が退位し84代順徳天皇が践祚した事による。
.
西暦1211年
.
.
84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
.
建暦元年
.
3月23日 乙亥
.
吾妻鏡
.
山門 (延暦寺) で勃発した騒動について、将軍 実朝から、京畿の御家人を招集して園城寺 (三井寺) を警固せよとの命令が駿河守 中原季時 左衛門尉佐々木広綱に下され、足立八郎元春 (足立遠元の長子) が使者として京都に出発した。

.
   ※差し替え: この内容は翌 建暦二年 (1212) 2/28に該当するため転記し、控えを残しておく。
.
西暦1211年
.
.
84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
.
建暦元年
.
4月 2日 癸未
.
吾妻鏡
.
   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
.
陸奥国長岡郡小林にある新熊野社の堂舎は当時の陸奥守 藤原秀衡法師の時代に豊前介実俊が差配して維持管理し、元暦二年 (1185) 8月には秀衡も郡内の荒野30町を寄進してこれを援助していた。
.
文治五年 (1189) 8月に奥州征伐を行なった右大将家 頼朝も奥州に入御した際に武士による寺社への関与を禁止し、軍功によって新熊野社周辺の支配権を得た 畠山重忠もこの禁令の影響を受けた。
.
新熊野社住僧の隆慶は「平資幹が地頭を称して神田の年貢を押領した」と訴えているため資幹を呼び出して審理した。資幹は「重忠が管理した新熊野社については先例に従って処理したにも拘らず、隆慶が不足を訴えている。崇敬の気持ちから10町を追加して40町を神田としている。」と主張しており、この内容は問註所から事実であるとの報告が届いている。
.
これにより、訴えがあった神社は豊前介実俊が私的に建立したもので公認の神田ではないから、押領されたとの主張は根拠に欠ける。資幹が10町を追加で寄進したのも合理的であり、40町に関する年貢は免除するが隆慶の訴えは却下する、との将軍直裁が下された。図書允 清原清定がこの件を差配した。
.

.
   ※新熊野社: 宮城県大崎市古川前田町3-29の熊野神社 (地図) が該当する。重忠が得た葛岡地域 (地図) の
20km南東に位置するが、重忠が領有した葛岡の位置は 5km前後の誤差が有り得る、か。
.
   ※平資幹: 建久四年 (1193) 5月の曽我兄弟仇討事件直後に 八田知家の策略により失脚した多気義幹の跡
を継承した馬場 (平) 小次郎資幹を差す (同年6月5日、12日、22日を参照) 。
これ以後の馬場氏は「常陸大掾氏」として戦国時代末期まで繁栄することになる。
.
西暦1211年
.
.
84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
.
建暦元年
.
4月 3日 甲申
.
吾妻鏡
.
鶴岡八幡宮で臨時の祭礼および神事が催された。将軍家 実朝は御参宮されず、大江広元朝臣が奉幣使として神事を執行した。
.
西暦1211年
.
.
84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
.
建暦元年
.
4月13日 甲午
.
吾妻鏡
.
相模守 北條義時が伊豆国に下向した。来る16日に三嶋大社 (公式サイト) で神事が行われるためである。
.

.
   ※三嶋大社: かつての三嶋 (三島市) には伊豆国府が置かれていた。
.
大納言 藤原為家の後妻 阿仏尼 (共に Wiki) が相続の訴訟で鎌倉に向かった際に三嶋大社近くに一泊して旅の記録を残した 十六夜日記 でも知られている。
.
大社周辺の 法華寺と祐泉寺 訪問記なども参照されたし。
.
  右は三嶋大社の本殿。クリック→別窓の訪問記へ。
.
   ※箱根精進池: 東海道を西へ進む箱根駅伝往路を進むと小涌谷駅、更に
5.6kmで国道一号 (東海道) 最高地点 (874m)の青い標識が見える。東海道はこから下りに入り左にカーブすると間もなく左手に現れるのが通称「曽我兄弟の墓 三基」。ここから精進池南側の 石仏と歴史館 (駐車場あり) までの約400m区間に石仏や石碑群が点在する。 概略ルート地図を参考に。
この石造物群は鎌倉幕府と 真言律宗 (Wiki) の僧 忍性の関係を抜きには考えられない。
.
鎌倉幕府安定期の建長四年 (1252年、五代執権 北條時頼の頃) 、宗祖 叡尊 (Wiki) に師事を受けた忍性は律宗布教のため 奈良西大寺 から関東に下り、その際に率いた石工集団の大蔵派 (宋から渡来した石工の子孫 (伊派の流れを汲む) は鎌倉で様々な石工と土木作業に携わった。
.
律宗集団は土木、建築、教育、福祉、医療などの行政を幕府から委託され、専門家集団として実務を代行した。
.
忍性の行動を「政治権力と宗教の癒着」と考えた法華宗の僧 日蓮「律は国賊」と罵ったのもその頃である。
「日蓮宗の正統な継承者を称する創価学会が腐敗自民党と連立する現実」 を日蓮が生きていたらどう思うか、考えて見るが良い。
.
是非とも足を止めて非人救済と福祉に生涯を捧げた忍性に想いを馳せて頂きたい。
.
  右画像は正安二年 (1300年) 8月8日銘の六道地蔵 (約350cm) 。
  天上、人間、修羅、畜生、餓鬼、地獄、六つの世界の案内を司る仏である。
.
    画像をクリック→ 「箱根精進池の石仏群の詳細ページ」(別窓)へ。
.
西暦1211年
.
.
84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
.
建暦元年
.
4月16日 丁酉
.
吾妻鏡
.
由比ヶ浜で千番の小笠懸が催された。三嶋大社の祭礼に伴う献納である。和田胤長らが射手を務め、和田義盛が行事を差配した。
.
西暦1211年
.
.
84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
.
建暦元年
.
4月21日 壬寅
.
吾妻鏡
.
相模守 北條義時が伊豆国から鎌倉に帰着した。
.
西暦1211年
.
.
84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
.
建暦元年
.
4月29日 庚戌
.
吾妻鏡
.
未明に将軍家 実朝が永福寺に渡御された。供として従ったのは相模太郎 北條泰時殿、その他に範高、内藤馬允知親二階堂行村東重胤町野康俊など、全員が徒歩である。
.
昨朝、今年初めてここで 郭公 (カッコウ) (Wiki) の鳴き声を聞いたと報告した者がおり、林のそばで数時間を過ごしたが聞けず、虚しく引き上げた。今日、この寺の運営については行村が監督せよとの仰せが下された。
.

.
   ※藤原範高: 藤原季範の長男で久寿二年 (1155) に熱田大宮司職
を継承した範忠の三男で安芸権守。
.
建保六年 (1218) 3月に実朝が左大将に任じられた際に聞書 (任官叙位の昇進者とその理由を記した文書) を書写して実朝に献じている。
.
   ※内藤知: 藤原定家の門弟で実朝の近臣。承元三年 (1209) 7月
5日に実朝の和歌30首を京都の定家に届け、8月13日に実朝宛の口伝書を預かり持ち帰った。
.
承元四年 (1210) 9月13日には御所での和歌の会にも加わっている。
.
右画像は二階堂永福寺遺跡現場の近況。手前がテニスコート方向が鎌倉宮の方向、参道は池を右に迂回している。まるっきり平泉のコピーだ。八幡宮鳥居前から約1.5km、ここまで来ると観光地の喧騒は全くないが、画像正面奥の谷津には300所帯ほどの住宅団地がある。
.
西暦1211年
.
.
84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
.
建暦元年
.
5月 4日 乙卯
.
吾妻鏡
.
   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
.
町野民部丞康俊 (4月29日を参照) と 伊賀次郎光宗らが差配し、新しい御所に菖蒲を葺く事の可否を陰陽師らに尋ねさせた。新しい御所でも移転後ならば問題なし、移転の前は好ましくない、との返事だった。
.

.
   ※菖蒲を葺く: 「あやめふく」は夏の季語。端午の節句には軒先に菖蒲を差して邪気を払い火災を防ぐ。
.
西暦1211年
.
.
84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
.
建暦元年
.
5月10日 辛酉
.
吾妻鏡
.
文治五年に故幕下将軍 頼朝が奥州征伐に御下向された時、平泉の高屋から没収した 藤原泰衡が父祖の代々から受け継いだ重宝は遠征に従軍した当時の御家人に分け与えられた。今でも各々が保存している事を聞いた 将軍家 実朝和田義盛に命じて閲覧のため提出させた。多くは既に失われていたが、幾分かの品を確認してから持ち主に返却した。
その中で葛西兵衛尉清重が提出した縫い目のない帷 (原文は不縫帷) には特に興味を持たれた。
.

.
   ※平泉の高屋: 文治五年 (1189) 8月221日に平泉に入った頼朝は
翌日に焼け残った倉庫 (高屋) を 葛西清重と小栗重成に調べさせ様々な宝物を確認している。
清重は希望した象牙の笛と不縫帷を与えられた。
.
平泉の高屋とは当時の奥大道 (現在のJR 平泉駅方面) から毛越寺に至る当時の主要道 (右画像) 。
毛越寺の先を更に右折して北上すると、前九年の役時代の「衣の関跡」方面に至る。
.
 右上は平泉の倉町遺跡周辺地図。 画像をクリック→ 別窓で拡大標示
.
   ※不縫帷: 帷子(かたびら)など衣類だとすれば重宝とは言えないが、縫い合わせていない巾広の幕布
と考えれば辻褄が合う。巾広の布を作れる巨大な織り機を使ったのだろう。
.
   関連する 柳の御所 観自在王院 毛越寺 も参照されたし。
.
西暦1211年
.
.
84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
.
建暦元年
.
5月15日 丙寅
.
吾妻鏡
.
未の刻 (14時前後) に地震あり。
.
西暦1211年
.
.
84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
.
建暦元年
.
5月18日 己巳
.
吾妻鏡
.
御台所 坊門信子が岩殿観音堂に御参詣。武蔵守 北條時房が供として従った。
.

.
   ※岩殿観音堂:大倉御所から小町大路経由で約4km南東 (地図) の 海雲山岩殿寺。開山は 行基 と伝わり、
吾妻鏡の文治三年 (1187) 2月23日には大姫が参詣したとの記載がある。すぐ近くには大切岸と日蓮法難で知られた猿畠山法性寺があるが、この開創は70年も先になる。
.
西暦1211年
.
.
84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
.
建暦元年
.
5月19日 庚午
.
吾妻鏡
.
小笠原御牧の管理担当者と、奉行人である 三浦平六兵衛尉義村の代官が喧嘩した事件について、今日決裁が下された。このように現地で働く職員に対し奉行を称して横柄な態度を執れば得てして騒乱になる。 公平な対処を忘れた責任により義村の奉行職を停止するよう佐原太郎兵衛尉経連に指示が与えられた。
.

.
   ※小笠原御牧: 甲斐源氏 小笠原長清が父の 加賀美遠光から継承した小笠原郷は現在の南アルプス市立の
小笠原小学校 (地図) 周辺が中心だが、御牧があったのは更に北部の明野町の小笠原地区になる (地図) 。詳細は 小笠原長清の史蹟 (別窓) を参照されたし。
.
   ※佐原経連: 三浦義澄の弟 佐原義連の嫡子で、酒癖の悪さから誅殺された盛連の二男。長男光盛は会津
の所領を継いで蘆名氏の祖となり、二男の経連が本領の佐原 (横須賀市) を継承した。
.
三浦氏傍流の大部分は宝治合戦 (1247年) の際に三浦本家に味方して滅亡したが、盛連の息子らは生母 矢部禅尼 (三浦義村の娘で 北條泰時の前妻、離縁の理由は不明) の婚家だった北條氏に味方して勝ち残り、六男の盛時が三浦本家を継承する形となった。
.
彼女が実家を見捨てて自分を離縁した北條得宗家に味方したのは、泰時との間に産まれて早世した 時氏への想いか、泰時への愛か、あるいは生き残りへの打算だろうか。
.
西暦1211年
.
.
84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
.
建暦元年
.
5月20日 辛未
.
吾妻鏡
.
鶴岡八幡宮で祭礼と神事あり。右近大夫将監 源 親広が将軍家 実朝の使者として奉幣を行なった。
.
西暦1211年
.
.
84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
.
建暦元年
.
6月 2日 壬午
.
吾妻鏡
.
   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
.
申刻 (16時前後) 、将軍 実朝が突然病気になり頗る危険な状態である。このため戌刻 (8時前後) に御所の南庭で安倍泰貞による属星祭を催した。武蔵守 北條時房が御撫物と将軍の御衣を持ち祈祷の場に加わった。
.

.
   ※安倍泰貞: 安倍晴明から五代目の嫡流 泰親の孫あたりかと思うが、安倍氏系図には見当たらない。
陰陽師としての安倍氏は朝廷での権益を巡って争った賀茂氏との暗闘に加えて同族の内部でも抗争を繰り返して衰退し、その過程で鎌倉に下った者が多かったようだ。
.
   ※属星祭: 国土安穏五穀豊饒を祈祷する星供養 (星祭) が個人の守護星を供養する属星祭に発展したもの。
.
   ※撫物: 災いや穢れを転移させるため紙人形や代用の小袖などで体を撫でて水に流すなど処分する。
.
西暦1211年
.
.
84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
.
建暦元年
.
6月 3日 癸未
.
吾妻鏡
.
寅刻 (早暁4時前後) に将軍の病状が回復、確かな夢のお告げがあったらしい。これは偏に昨夜の祈祷が効果を挙げたと思われ、宮内兵衛尉公氏を使者として御馬一疋を安倍泰貞に贈った。
.

.
   ※宮内公氏: 実朝の側近として、吾妻鏡に数回載っている。建保七年 (1219) 1月27日の実朝斬殺の朝に
起きた出来事の挿話 (下記) が広く知られている。
.
(右大臣拝賀に謝する儀式に)出発の直前に、大江広元が御前に進んで言上した。「私は成人してから涙を流した事がありませんが (不吉な前兆が重なった) 今は落涙を抑えることができません。東大寺落慶供養の日に右大将軍 頼朝)前例に従って御束帯の下に腹巻 (鎧の胴) を着けていただきますように。
.
源仲章朝臣が「大臣大将に昇叙する人にその例はありません」と言って腹巻の件は中止となった。また公氏が御髪を整えた際に実朝は髪を一筋抜き記念と称して公氏に与え、庭の梅を見て禁忌の和歌を詠んだ。

     出でいなば 主なき宿と 成ぬとも 軒端の梅よ 春をわするな
.
実朝殺害事件には脚色が多くあり、実朝の和歌も 本歌取 (Wiki) としては駄作だと思うが、側近公氏のサブ解説として載せておいた。しかし、なぜ「梅よ、主人のいない館になっても春を忘れないように」なんて馬鹿な歌を詠んだのか。誰かが捏造した可能性は?
.
西暦1211年
.
.
84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
.
建暦元年
.
6月 7日 丁亥
.
吾妻鏡
.
越後国三味庄を管理する領家の役人が訴訟のため鎌倉に入り大倉近くの民家に宿泊したところ、今朝盗人に殺害された。夜が明けてから左衛門尉 和田義盛がこれを調査し、下手人として三味庄地頭 の代官を捕縛した。
.
地頭の親類らが縁者の女房 (女官) を介して内々に尼御台所 政子に (赦免または穏便な措置を) 訴えたため、取り次いだ女房駿河局は「義盛の沙汰に齟齬はない」との厳しい叱責を受けた。
.

.
   ※厳しい叱責: 21日になって事件の真相が発覚している。理屈が通用しないのが雅子の恐ろしさ...。
.
西暦1211年
.
.
84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
.
.
建暦元年
.
6月14日 甲午
.
吾妻鏡
.
将軍家 実朝 亀谷山 寿福寺に参拝した。
.
西暦1211年
.
.
84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
.
建暦元年
.
6月18日 戊戌
.
吾妻鏡
.
御持仏堂に於いて御台所 坊門信子の御本尊 (如意輪観音) を供養する法事を催した。導師は 荘厳房行勇
.
西暦1211年
.
.
84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
.
建暦元年
.
6月21日 辛丑
.
吾妻鏡
.
三味庄の管理人を殺害した男が判明し召し捕って拘禁した。故 野三刑部丞 小野成綱の従者で、主人の他界以後は転々としていたらしい。これにより捕縛していた地頭代は釈放となり元の職場に戻された。
.
西暦1211年
.
.
84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
.
建暦元年
.
6月26日 丙午
.
吾妻鏡
.
東海道に新しい宿驛を設ける件について、決裁を重ねているにも拘らず未だに実施されていないのが将軍家の耳に届き、今日重ねて東海道の守護と地頭に命令が下された。
.
西暦1211年
.
.
84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
.
建暦元年
.
7月 3日 壬子
.
吾妻鏡
.
   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
.
酉刻 (18時前後) に大地震。牛馬が驚いて騒ぎ立てた。
.
西暦1211年
.
.
84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
.
建暦元年
.
7月 4日 癸丑
.
吾妻鏡
.
将軍家 実朝 貞観政要 (Wiki) の読み合せをされた。
.

.
   ※貞観政要: 唐代に編纂された太宗 (唐朝第二代皇帝、在位626~649年) の言行録で全10巻 40篇。
太宗は名君であり能筆家としても名高い。政要は政治の要諦を意味する。
.
地震発生の翌日に「貞観」を説明するのは少し刺激的だが...
.
歴史に残る 貞観の大地震 (Wiki) は平安時代初期の貞観十一年 (西暦869年) の大災害だ。
2011年の「北地方太平洋沖地震」と同じ、三陸沖を震源地とする。マグニチュードは推定 8.3 だが、東日本大震災は7.3 だった。
.
この史実を知りながら必要な津波対策を怠った自公政権と東京電力、そして「対策の不十分さは責められない」として当時の経営陣の責任を否定した裁判官の、何という愚かさ!
.
西暦1211年
.
.
84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
.
建暦元年
.
7月 8日 丁巳
.
吾妻鏡
.
尼御台所 政子ならびに御台所 坊門信子が相模国の日向薬師堂 (現在の 宝城坊 日向薬師) に御参拝。
.
武蔵守 北條時房、遠江守 源親広結城左衛門尉朝光三浦兵衛尉義村葛西兵衛尉清重安達右衛門尉景盛佐貫右衛門尉広綱、佐原兵衛尉、和田四郎義直ら 10人が供奉し、其々が郎従数十騎を率いた。
.

.
   ※日向薬師: 行基が開いたと伝わる古刹 (実際には平安時代中期らしい)) 。本堂や宝殿には平安時代の
造像と推定される薬師三尊像 (950年前後の作か) をはじめ 26点以上の仏像を安置している。詳細画像は 公式サイト から。建久五年 (1194) 8月8日の吾妻鏡に 頼朝が多数の御家人を従えて参拝した記録がある。
.
   ※佐原兵衛尉: 佐原義連の長男 景連が兵衛尉に任じている。たぶん彼だろう。
.
   ※和田義直: 和田義盛の四男で建暦三年 (1213) 5月3日の和田合戦で討死。吾妻鏡の記録は下記。
.
酉刻 (18時前後) に和田四郎左衛門尉義直 (37才) が伊具馬太郎盛重に討ち取られた。父の義盛 (67才) は深く嘆き、「鍾愛する義直のために禄を願ったのに、今となっては合戦を続ける意欲も失せた」と声を挙げて哭き、遂に江戸左衛門尉義範の郎従に討ち取られた。
.
   ※鍾愛: 「寵愛」は妃などを可愛がる場合、「鍾愛」は子や孫を可愛がる場合が多い。義盛が上総国司を
願ったのは義直のためを思っての希望だったらしい。
.
西暦1211年
.
.
84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
.
建暦元年
.
7月 9日 戊午
.
吾妻鏡
.
秉燭 (灯をともす頃) に両御方 (政子と信子) が日向薬師から鎌倉に還御された。
.

.
   ※行程: 大倉御所~日向薬師は片道約38km、一泊二日の行程だった。建久五年 (1194) の頼朝主従一行
は早朝 4時前後に出発し、帰路に大江広元領の下古沢 (厚木市西部、地図) で食事休憩しその晩に鎌倉に戻った。これはかなりの強行軍だったと思う。
.
西暦1211年
.
.
84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
.
建暦元年
.
7月11日 庚申
.
吾妻鏡
.
宗掃部允 (惟宗) 孝尚が将軍家 実朝の怒りに触れて武蔵守 北條時房に身柄を預けられた。
下野国中泉庄に届け出ていない隠し田があるとの訴えが本所から出されており「正しく措置せよ」との命令を下したにも拘らず未だに放置しているのが理由である。
.

.
   ※惟宗孝尚: 政所勤務の能吏で通名は筑前三郎。頼朝に近侍し、
三代執権 泰時の時代まで文官を続けた。
.
   ※中泉庄: 現在の栃木県下都賀郡壬生町中泉(地図)。
文治元年 (1185) 10月9日に 義経の追討を命じられた土佐房昌俊が下野国に残す老母と幼子らへの配慮を願い頼朝が中泉庄を与えた、との記録がある。
.
壬生には下都賀郡から陸奥国白河を経て奥州に向かう官道が通っていた。中泉の 3kmほど北には義経 (元服直後の牛若丸) を奥州平泉へ導いた 「金売り吉次の墓」と伝わる五輪塔の残欠 がある。吉次は実在が疑われる半ば伝説上の人物だから疑問符を付けざるを得ないけれど、この近くを奥州街道が通っていた事実は弁えておきたい。下野国庁と薬師寺跡も参考に。
.
西暦1211年
.
.
84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
.
建暦元年
.
7月15日 甲子
.
吾妻鏡
.
将軍家 実朝 亀谷山 寿福寺に御参りし、御仏事の後に方丈(住職 退耕行勇の私室) で仏教談義を交わした。
.
西暦1211年
.
.
84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
.
建暦元年
.
8月 8日 丁亥
.
吾妻鏡
.
   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
.
大膳大夫 大江広元が体調を崩し、病状がかなり重いため祈祷を行なった。
.
西暦1211年
.
.
84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
.
建暦元年
.
8月15日 甲午
.
吾妻鏡
.
鶴岡八幡宮で放生会を催した。将軍家 実朝はやや体調を崩しているため出御せず、奉幣使は相模守 北條義時が務めた。続いて将軍家は廻廊に出御し、簾中で内々の舞楽観覧を行なった。
.
西暦1211年
.
.
84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
.
建暦元年
.
8月16日 乙未
.
吾妻鏡
.
(昨日に続いて八幡宮での祭礼と神事が催され) 相模守 北條義時が参宮した。将軍家は (流鏑馬) 御見物のために馬場の桟敷に出御された。
.
西暦1211年
.
.
84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
.
建暦元年
.
8月27日 丙午
.
吾妻鏡
.
将軍家 実朝が病気 (6月2日に発病) から回復して初めて鶴岡八幡宮に参詣された。
.
西暦1211年
.
.
84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
.
建暦元年
.
9月12日 辛酉
.
吾妻鏡
.
   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
.
今暁、内藤右馬允盛時が使者として京都に向かった。これは先月25日に中納言 坊門忠信卿が遊放 (昇叙の要求) に関して勅勘を受けた噂が届いたためである。中将 一条信能朝臣も同じ理由で勅勘を受けた、とのこと。.

.
   ※遊放: 昇叙を求めて勅勘を受けたまでは判るが、使者を派遣した理由が判らない。彼らと同様に昇叙
昇叙を求めている実朝が朝廷の様子を窺ったのだろうか。
.
西暦1211年
.
.
84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
.
建暦元年
.
9月15日 甲子
.
吾妻鏡
.
金吾将軍 頼家の若君 (善哉公、満11才) が定暁僧都 (八幡宮寺三代別当) の房で剃髪し法名の 公暁を名乗った。
.
西暦1211年
.
.
84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
.
建暦元年
.
9月22日 辛未
.
吾妻鏡
.
禅師公 公暁が登壇受戒のため定暁僧都 (八幡宮寺三代別当) と共に上洛した。将軍家 実朝の猶子になっている関係から、侍五人を付き添いとして同行させた。
.

.
   ※登壇受戒: 仏の教えに従う証として戒壇に登り、戒律を守る事
を誓約する。与えるのが授戒で、受けるのが受戒。
.
奈良時代末期の仏教は腐敗して僧は戒律を守らず、更に僧は課税されないため勝手に出家する庶民が増えて収拾がつかない状態になった。
.
宗教法人の事業所得などが減免される現代と同じ。日本最大の宗教団体「創価学会」は課税の回避に加えて公明党経由で政党助成金まで懐に入れている。
選挙協力すれば既得権が保証される互助組織だ。

.
朝廷は「授戒 受戒」の儀式を行える僧として唐から律宗の高僧 鑑真 (Wiki) を招き、東大寺と下野薬師寺 (既に廃寺) と筑紫観世音寺 (Wiki) に三戒壇を設置した。
.
更に天長五年 (828) には延暦寺にも戒壇院が建立されて独自に受戒が行えるようになると三戒壇の権威は揺らぎ始める。仏教の一部は再び権力と腐敗と欲望の世界に染まり、鑑真から1300年を経て宗教者を装った創価学会が国政に関与する現代に至る。
.
国政に関与しながら、都合が悪くなると「政教分離の原理原則」を要求する卑劣集団だ。
.
「平和」を党是とする公明党が集団的自衛権の行使を認め国外での武器使用 (要するに殺傷) を容認するとは恐れ入った背信行為だ。自衛隊員が戦死したら誰が責任を取るのか?
この腐れ集団さえ一時期は国立戒壇の設置を夢見たのだから、笑わせる。
.
 右上は下野薬師寺資料館の戒壇院レプリカ (画像をクリック→ 別窓で拡大表示)。
        更に詳細は 下野の史蹟 薬師寺跡と龍興寺で。
.
比叡山の戒壇院 (公暁が受戒した建物ではなく江戸時代初期の建立) は 公式サイトで。
.
西暦1211年
.
.
84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
.
建暦元年
.
10月13日 辛卯
.
吾妻鏡
.
   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
.
鴨社の氏人 (同族の人物) である菊大夫長明入道 法名蓮胤 鴨長明、Wiki) が 雅経朝臣 飛鳥井雅経) の仲介で今回下向し、将軍家 実朝と再三の面談に及んだ。今日は幕下将軍 頼朝の月違い命日に当たるためその法華堂で読経法会を行なった際には懐旧の涙を流し、堂の柱に和歌一首を記した。
.
          草も木も なひきし秋の 霜消て むなしき苔を はらふ山風
.

.
   ※鴨社: 賀茂川上流にあるのが上社 ( 賀茂社または上賀茂社、
正式には賀茂別雷神社)。この項の鴨社は下流の下社 (鴨社または下鴨社、正式には賀茂御祖神社 ) を差す。.
共に賀茂氏の氏神を祀る神社が原点であり両社の総称が賀茂神社 (賀茂社) である。
.
   ※再三の面談: 鴨長明は元久元年 (1204) に欠員が出た賀茂御祖
神社の摂社 河合社の禰宜職就任を望んだのだが、賀茂御祖神社禰宜の鴨祐兼が長男祐頼を強く推して実現せず神職としての将来に絶望、後鳥羽上皇のとりなしにも関わらず出家隠棲の道を選んだ。
.
それから七年後の鎌倉下向は、実朝の和歌の師として仕えるよう飛鳥井雅経が仲介して推挙したのだが、なぜか実朝がOKしなかったらしい。実朝の憧憬は高位の貴族として生きる和歌の師 藤原定家にあったのだろう。
.
右画像は現在の河合神社に再現された鴨長明の「方丈」 (十尺四方の庵) のレプリカ。
.
実際の「方丈」は伏見区の山奥 (地図) だった。詳細の案内は こちらのサイトで。
.
西暦1211年
.
.
84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
.
建暦元年
.
10月19日 丁酉
.
吾妻鏡
.
午刻 (正午前後) に永福寺に於いて曼陀羅を供えて宋本一切経五千余巻を読誦する法会を催した。
導師は大阿闍 梨葉上房律師 栄西、供僧は30人、題名僧 (読経する僧) は100人である。将軍 実朝は牛車で出御され、二階堂行村が奉行に任じた。
.

.
   ※一切経: 経 (釈迦の教え) と律 (僧の規律や生活の姿) と論 (律と経の解釈) の三蔵を纏めた仏教の聖典で
大蔵経に同じ。正治二年 (1200) 、建仁元年 (1201) 、建仁三年 (1203) 、元久三年 (1206) にはいずれも 3月3日 (上巳節句) に開催している。
.
西暦1211年
.
.
84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
.
建暦元年
.
10月20日 戊戌
.
吾妻鏡
.
平盛時が京都から帰参した。坊門黄門 坊門忠信の件は既に勅許を得ている。先月8日の除目によれば、勅勘を受けた身 (9月12日に記載) でありながら左衛門督に任じられている。
.
また今月5日申刻 (16時前後) に暴風でも地震でもないのに内裏瀧口の詰所建物が倒壊し備えていた矢が全て破損、中にいた雑仕女一人が揺れを感じて飛び出したため命は全うしたが右手を負傷した。貫首 (部署の筆頭、この場合は蔵人頭)) が陰陽寮に連絡して祈祷を行なった。
.

.
   ※内裏瀧口: 御所警護などに任じる滝口武者の詰所。画像などは承元四年 (1210) 5月11日に記載あり。
.
   ※陰陽寮: 八省の一つ中務省の部署。占い、天文、時・暦の編纂を担当する。幹部職として陰陽頭、
実務を担当する陰陽師、その他の事務職が置かれていた。
.
西暦1211年
.
.
84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
.
建暦元年
.
10月22日 戊戌
.
吾妻鏡
.
伊賀守朝光が永福寺の近くに一軒の堂を建て、今日落成供養を行なった。導師は葉上房律師 栄西で供僧は8人、相模守 北條義時ならびに後室の 伊賀の方 北條泰時らが共に参席した。
.

.
   明月記には: 「10月23日に朱雀門が倒壊した」との記事あり。末世なのか魔物の祟りなのか、と。
.
西暦1211年
.
.
84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
.
建暦元年
.
11月 1日 己酉
.
吾妻鏡
.
   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
.
寅刻 (早暁4時前後) に太白星 (金星) が房上將星 (さそり座ベータ星) の領域を距離六寸程度まで犯したと、天文を司る陰陽師が報告した。
.

.
   ※天変地異: 翌々日に永福寺の惣門と塔が一棟焼失する。陰陽師はこの予兆だと考えている。
星や星座など天体の離隔距離は手を伸ばした位置での測定が原則とか。出典は忘れた。
.
西暦1211年
.
.
84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
.
建暦元年
.
11月 2日 庚戌
.
吾妻鏡
.
小川法印忠快が上洛の途に着いた。民部丞 町野康俊が馬と宿驛などの手配や雑務を担当した。
.
西暦1211年
.
.
84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
.
建暦元年
.
11月 3日 庚戌
.
吾妻鏡
.
寅刻(朝4時前後)に永福寺の惣門と塔婆一基(前の武蔵守源(平賀)義信の建立)が焼失、類焼はない。
戌刻(20時前後)、天変(一昨日の房上將星の件)に対応し、御所で泰山府君と歳星(木星)の祈祷を行なった。奉行は加藤判官光員、図書允清原清定がこの詳細を差配した。
.

.
   ※泰山府君: 仏教の護法善神「天部」の一人焔摩天に従う眷属で陰陽道の主祭神で生命も司る。
.
西暦1211年
.
.
84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
.
建暦元年
.
11月 4日 壬子
.
吾妻鏡
.
申刻 (16時前後) に黄門 (中納言) 坊門忠信の使者が鎌倉に到着した。これは勅勘を受けた際に見舞いの使者を頂いた (9月12日の条) 、すぐに御礼するべきなだったにも拘らず 後鳥羽上皇の熊野行幸 (先月22日に還御) などの仕事が続いて遅れた事を陳謝する書状である。
.
その夜に上皇が朱雀門の大工 国永と配下の職人を検非違使に派遣し、取り敢えず屋根の仮復旧を終わらせよとの勅定が下された。書状を 三善康信が読み上げ、その内容について将軍家 実朝からの質問があった。
康信がこれに答えて次のように説明した。
.
この門は今のような末世には相応しくありません。藤原通憲 信西、Wiki) の時代 (平治の乱、1159年) には無実なのに斬罪が行われ、治承元年 (1177) 4月28日の大極殿と朱雀門焼亡を招きました。
.
建久九年 (1198) に朱雀門は再建しましたが造営担当の 一条能保と息子の 高能が続けて死没、元久三年 (1206) に扁額を揮毫した後京極摂政殿 (九条兼実の次男 良経) も3月7日に頓死しました。
.
今回は上棟後に父 坊門信清の病気が突然回復して内大臣に昇叙し、今回の還御では御輿が建礼門に入る前に朱雀門が倒壊しました。魏の文帝が臨幸した日にも離宮の南門が倒壊した、と伝わっています。
.

.
   ※忠信の書状: 明月記の10月22日条と内容が全く同じ。つまり後世の吾妻鏡編纂者が 藤原定家が書いた
内容を坊門忠信の書状に置き換えて記載したと思われる。更に三善康信の子孫が吾妻鏡の編纂に関わった可能性を考えると、康信の事蹟を高めようとする意図を感じる。
.
なお、ここには記載がないが 朱雀門は承元二年 (1208) 10月21日にも焼け落ちている。当日の記事を参照されたし。
.
西暦1211年
.
.
84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
.
建暦元年
.
11月16日 甲子
.
吾妻鏡
.
尼御台所 政子の御願として金銅三尺の薬師三尊を造像し開眼供養を行なった。導師は圓如房阿闍梨 遍曜、この本尊は鶴岡八幡宮の神宮寺に安置された。
.

.
   ※神宮寺: 承元二年 (1208) 7月5日に上棟式を行なっている。中尊の薬師如来坐像は現在は鎌倉国宝館が
収蔵している。画像は当日の条で。坐像は台座を含み高さ54cm、本体は尺5寸 (約45cmか)、仏像は立ち上がった状態での身長 (この場合は三尺) を想定する。
.
西暦1211年
.
.
84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
.
建暦元年
.
11月20日 戊辰
.
吾妻鏡
.
将軍家 実朝が去る7月4日に始めた貞観政要の読み合せが今日その一篇を終えた。
.

.
   ※貞観政要: 唐代に編纂された太宗 (唐朝第二代皇帝 (在位:626~649年) 、名君であり能筆家としても
著名) の言行録(全10巻40篇)。貞観は太宗の在位の年号、政要は政治の要諦を意味する。
.
西暦1211年
.
.
84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
.
建暦元年
.
12月 1日 己酉
.
吾妻鏡
.
   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
.
宗掃部允孝尚が将軍家 実朝の怒りを受けた件が今日、許しを受けた。これは下野国中泉庄に穏田があるとの訴えを受け、調査と整理を命じられたにも関わらず怠っていたのが原因なのだが、中原仲業が命令を受けて調べても隠田の事実はなかった。結果として孝尚に罪はなく、整理が遅れた怠慢に関しての注意を受けた。
.
将軍家は穏田が事実なら重い処分を課そうと考えられていたが、本所の訴えが事実ではなかったのは孝尚にとっての幸運だった。今後は何事についても慎み深く行動するよう、大江広元を介して注意が与えられた。
.

.
   ※訴えの詳細: 中和泉庄の場所と訴えの詳細は7月11日を参照されたし。
.
西暦1211年
.
.
84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
.
建暦元年
.
12月10日 戊午
.
吾妻鏡
.
将軍家 実朝から武名を残している和漢の武将について質問があり、源仲章朝臣がこれを書き出して上覧に供した。今日、三善康信 大江広元が御前でこれを読み上げ、将軍家が疑問点を尋ねた。問答は再三繰り返され、将軍家は感銘を受けられた。
.
西暦1211年
.
.
84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
.
建暦元年
.
12月13日 辛酉
.
吾妻鏡
.
将軍家 実朝が故 右大将 頼朝の法華堂に御参りし、恒例の御仏事 (月違い命日) を催した。
.
西暦1211年
.
.
84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
.
建暦元年
.
12月17日 乙丑
.
吾妻鏡
.
相模守 北條義時が支配している地域の神社仏閣を興隆させる手法を検討した結果、将軍家 実朝に提議したい件があり、日向介 (詳細は不明) がこれを差配した。
.
西暦1211年
.
.
84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
.
建暦元年
.
12月18日 丙寅
.
吾妻鏡
.
(実朝の) 御持仏堂で観音経の読み合わせ法会を開催。隆宣法橋が作法を進めた後に管弦の奉納も行われた。
.
西暦1211年
.
.
84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
.
建暦元年
.
12月20日 戊辰
.
吾妻鏡
.
和田左衛門尉義盛が上総国司への推挙を望んだ件は既に諦めたため、申請状を返還して頂きたい旨が子息の四郎兵衛尉義直 (義盛の四男で 朝比奈義秀の次弟) から 大江広元に伝えられた。
.
これは過日に将軍家 実朝の御前に提出した申請状であり、撤回は問題になり兼ねないと知りながら将軍家に上申したもので、案の定「暫く待つようにと命じたにも拘らず撤回を申し出るとは、私の意思を軽んじるのか」との勘気を受ける結果となった。
.

.
   ※暫く待つ: 義盛が内々に希望を申し出た日付は判らないが、実朝は承元三年 (1209) 5月12日に母親の
政子にその件を相談して否定的な意見を受けている。
.
故将軍 (頼朝) の時代に「侍の受領は禁止すべき」との沙汰があった。ただし、その沙汰を知った上で新しい例を設ける考えならば女が口を出す限りではない。 と。
.
義盛が正式に款状 (上総国司に任じる希望) を提出したのは承元三年 (1209) の5月23日で、実朝から「暫く待て」と伝えられたのが同年11月27日。最初に希望を申し出てから二年半で、「暫く待て」と言われてから一年以上が過ぎている。
.
要するに実朝には政子の意向に逆らう意思を持たず、更に考えれば政子と義時が実朝をコントロールして義盛を追い詰めた可能性もある。
.
西暦1211年
.
.
84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
.
建暦元年
.
12月22日 庚午
.
吾妻鏡
.
将軍 実朝が勝長寿院と永福寺に御参詣された。歳末の恒例行事である。
.
西暦1211年
.
.
84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
.
建暦元年
.
12月25日 癸酉
.
吾妻鏡
.
御持仏堂に於いて恒例の文殊供養を催した。導師は 葉上房律師 栄西大江広元が布施を差配した。
.

.
   ※文殊供養: 前年の9月25日に最初の供養法会を催している。五十度行なう立願をした、と。
.
西暦1211年
.
.
84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
.
建暦元年
.
12月27日 乙亥
.
吾妻鏡
.
年が明けたら駿河、武蔵、越後の諸国の田文を整備するよう 二階堂行光と図書允 清原清定に命じた。
.

.
   ※田文: (たぶみ)国内の国衙領や荘園別に名称、面積、所有関係などを記載した文書。
別名を田数帳、図田帳とも。
.
西暦1211年
.
.
84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
.
建暦元年
.
12月28日 丙子
.
吾妻鏡
.
将軍家 実朝は来年が太一定分の厄年に当たるため、今日祈祷を催した。葉上房律師 栄西定豪法橋 (勝長寿院別当) 、隆宣法橋 (日光別当 真智房) らがこれに任じ、併せて (陰陽師の) 安倍親職と同 泰貞が天冑地府祭の祈祷を行なった。差配は武蔵守 北條時房である。
.

.
   ※太一定分: 数え年 3才、9才、15才、21才、27才 が厄年。実朝は来年が 21歳にあたる。
.
   ※天冑地府祭: 陰陽道が国家の大事などの際に行なう重要な祭祀の一つで、内容は六道冥官祭と同じ。
泰山府君、天曹、地府を中心とした十二座の神に金幣、銀幣、素絹、鞍馬、撫物などを供えて無病息災と延命長寿を祈祷する。
.
   ※泰山府君: 仏教の護法善神「天部」の一人 焔摩天に従う眷属。陰陽道の主祭神で、生命を司る。
.

.
.


.
2025年
.
6月25日
.
晴耕雨読
.
この一週間ほどは日照不足の為か生育が少し遅れたトマトが大きくなってきた。一部の実は薄赤く色づいた感じで、今週末には今期の初物が食卓に載る、かも知れない。トマト、ナス、キュウリの三種類は何といっても夏野菜の代表だからね。
.
試しに一株だけ接木苗ではない実生なえを大型の菊鉢に植えたのだが、こちらは最初の実が病気にやられてしまった。妻がホームセンターの隅の「無料!ご自由にお持ち下さい!」から目の色を変えて選び出した奴、やっぱり無理だった、かな?
.
取り敢えず収穫の中間報告、6/25現在で キュウリ 58本、ナス 33ヶ。ナスは色々と便利に食べているがキュウリは完全に供給過剰で、近所のおばさんや新聞屋さんに差し上げ始めている。   画像をクリック→ 別窓で拡大標示
.
園芸日誌を整理して 2025年10月の情報を載せました。左目次の 晴耕雨読 園芸日誌 でどうぞ。
.
西暦1211年
.
.
84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
.
建暦元年
.
 月 日
.
吾妻鏡
.
記事
.

.
   ※:
.
西暦1211年
.
.
84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
.
建暦元年
.
 月 日
.
吾妻鏡
.
記事
.

.
   ※:
.
西暦1211年
.
.
84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
.
建暦元年
.
 月 日
.
吾妻鏡
.
記事
.

.
   ※:
.

前年・承元四年 (1210) の吾妻鏡へ       翌年・建暦二年 (1212) の吾妻鏡へ