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弘長三年 (1263年)
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西暦・天皇
和暦・月日
吾妻鏡に記載してある内容の意訳、関連する情報、補足事項など
西暦1263年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
弘長三年
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1月 1日 壬午
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吾妻鏡
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壬午 曇。 相州禅室北條時頼の沙汰による椀飯の儀あり。時頼以下は通例通り布衣(狩衣)を着して出仕し定刻に庭に降りて列座した。
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左馬権頭北條時宗  相模四郎北條宗政  武蔵前司北條朝直  尾張前司北條時章
越前前司北條時広  相模三郎北條時輔  同、七郎宗頼  遠江前司北條時直
相模左近大夫将監北條時村  尾張左近大夫将監北條公時  陸奥左近大夫将監北條義宗
刑部少輔北條時基  武蔵式部大輔北條朝房(朝直の長男)  弾正少弼北條業時
越後四郎北條顕時  武蔵五郎北條時忠(宣時)  陸奥十郎北條忠時
駿河四郎北條兼時(有時の嫡子)  武蔵八郎頼直(朝直の子)  駿河五郎通時(北條有時の子)  備前太郎北條宗長(時長-長頼-宗長へ)  遠江四郎政房(北條朝直-朝房-政房と続く)
武蔵九郎朝貞  宮内権大輔長井時秀  那波刑部権少輔政茂(大江広元の孫で引付衆)
秋田城介安達泰盛  和泉前司二階堂行方  佐々木壱岐前司佐々木泰綱  武藤少卿景頼
壱岐前司後藤基政  出羽前司小山長村  縫殿頭中原師連  越中前司宇都宮(横田)頼業
長門前司  日向前司宇佐美裕泰  加賀前司  対馬守佐々木氏信  中務権少輔
木工権頭藤原親家  宇都宮石見前司   畠山上野三郎  駿河右近大夫
能登蔵人  美作左衛門大夫  那波五郎  城四郎左衛門尉  佐渡新左衛門尉
上野三郎左衛門尉  城六郎兵衛尉  佐々木壱岐三郎左衛門尉  城弥九郎
越中次郎左衛門尉  後藤壱岐左衛門尉  越中五郎左衛門尉  長門三郎左衛門尉
信濃左衛門尉  越中六郎左衛門尉  後藤壱岐次郎左衛門尉  遠江三郎左衛門尉
大隅修理亮  筑前三郎左衛門尉  大隅大炊助  大曽祢太郎  常陸左衛門尉
周防五郎左衛門尉  筑前五郎左衛門尉  梶原上野太郎左衛門尉  伊勢次郎左衛門尉
隠岐四郎兵衛尉  甲斐三郎左衛門尉  伊勢三郎左衛門尉  □□□郎左衛門尉
加藤左衛門尉  武石新左衛門尉  小野寺四郎左衛門尉  紀伊次郎左衛門尉
小野寺新左衛門尉  進三郎左衛門尉  甲斐五郎左衛門尉  内藤肥後六郎左衛門尉
佐々木孫四郎左衛門尉  出羽八郎左衛門尉  伊賀筑後四郎左衛門尉  狩野四郎左衛門尉
伊東八郎左衛門尉  備後太郎  信濃判官次郎左衛門尉  伊賀式部八郎左衛門尉
薩摩七郎左衛門尉  平賀三郎左衛門尉  備後次郎  周防七郎  備後三郎
天野肥後三郎左衛門尉  天野肥後四郎左衛門尉足立右衛門五郎  佐々木加地太郎左衛門尉
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将軍家 宗尊親王が南面に出御し、土御門大納言顕方卿が参進して御簾三ヶ間を上げた。
次いで献上品の儀、
   御剣は武蔵前司北條朝直、御調度は中務権大輔北條教時、御行騰沓は宮内権大輔長井時秀
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   一の御馬は  武蔵五郎北條時忠(宣時)    と 岡村三郎兵衛尉
   二の御馬は  城六郎兵衛尉安達顕盛    と 同、九郎長景
   三の御馬は  出羽八郎左衛門尉二階堂行世 と 同、二階堂九郎宗行
   四の御馬は  佐々木壱岐三郎左衛門尉頼綱(泰綱の嫡子) と 同、四郎左衛門尉長綱(同、三男)
   五の御馬は  相模三郎相模三郎北條時輔  と 諏方四郎左衛門尉
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未の刻将軍家御行始め。相州禅室の亭に入御す。
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  供奉人
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   御所(将軍家)の御方
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     (御剣役)武蔵前司北條朝直    同、五郎時忠北條時忠(宣時)  尾張前司北條時章
     同左近大夫将監北條公時    左馬権頭          越前前司北條時広
     相模三郎北條時輔       刑部少輔北條時基      越後四郎北條顕時
     陸奥十郎忠時         秋田城介安達泰盛      同、九郎長景
     和泉前司二階堂行方      壱岐前司佐々木泰綱     中務権少輔重教
     越中前司頼業         壱岐前司後藤基政      日向前司宇佐美祐泰
     縫殿頭中原師連        美作左近蔵人宗教      小野寺四郎左衛門尉通時
     常陸左衛門尉行清       信濃左衛門尉時清      周防五郎左衛門尉忠景
     筑前三郎左衛門尉行実     進三郎左衛門尉宗長     加藤左衛門尉景経
     甲斐三郎左衛門尉為成     左衛門尉伊東八郎祐光    左衛門尉狩野四郎景茂
     対馬左衛門尉佐々木四郎宗綱  大見肥後四郎左衛門尉行定
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   中御所(将軍正室)の御方(八葉の御車、御衣を出す)
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     中務権大夫北條教時   相模左近大夫将監北條時村   民部権大輔北條時隆
     武蔵式部大夫北條朝房(朝直の子)   遠江右馬助清時(北條時直の嫡子)
     相模七郎北條 宗頼(宗顕)   刑部権少輔那波政茂(大江広元宗元-政茂と続く)
     宮内権大輔長井時秀  長門前司時朝(塩谷(宇都宮)朝業の次男で笠間氏の祖)
     対馬前司佐々木氏信  畠山上野三郎国氏(畠山泰国の嫡子、足利氏庶流奥州畠山氏の祖)
     大隅修理亮嶋津久経(久時)   城四郎左衛門尉安達時盛
     壱岐左衛門尉後藤基頼(基政の子、六波羅引付頭人)  小野寺新左衛門尉道継
     左衛門尉梶原太郎景経?  伊勢次郎左衛門尉行経 武石新左衛門尉長胤(千葉胤盛の曾孫)
     信濃判官次郎左衛門尉二階堂行宗  嶋津周防七郎定賢
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   御引出物、御剣は尾張前司北條時章、砂金は左近大夫将監北條時村、鷹羽は秋田城介安達泰盛
     一の御馬は  相模七郎北條宗頼(宗顕) と 新左衛門尉平頼綱
     二の御馬は  筑前左衛門尉行実(行泰の子)  と 同、五郎左衛門尉二階堂行重
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   ※椀飯 (おうばん) :饗応のための献立、食事を摂る儀式や行事。大判振る舞い、の語源。
   ※調度 (ちょうど):弓箭。将軍の代理として武具を携える。
   ※行騰 (むかばき)と沓:乗馬の際に着ける袴カバーと靴。画像 を参考に。
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   ※年令:六代鎌倉将軍 宗尊親王 (第88代後嵯峨天皇の第一皇子) は21歳、
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退任した五代執権北條時頼は支配権を手放さず専制を続け本年11月に死没 (享年36) 。
後任の六代執権 北條長時は時頼を追う如く翌 文永元年(1264)8月に死没 (享年33) 。
七代執権は執権長時を補佐した連署の 北條政村 58歳。
八代執権になる北條時宗は12歳、政村を継いで連署に任じる。
時宗の庶兄 北條時輔は16歳、六波羅北方は北條時茂23歳。南方は欠員。
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安達泰盛 31歳、千葉頼胤 23歳、足利泰氏 46歳、足利景綱 27歳、
吉良(足利)家氏 51歳、小山長村 47歳、結城朝広 72歳、 宇都宮景綱 27歳、
古参評定衆二階堂行義は61歳、実務に堪能な評定衆二階堂行方 58 歳、
弘安八年 (1285) の 霜月騒動で権力を握る御内人平頼綱は23歳、
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浄土真宗 親鸞は前年11月に死没 (享年88) 、真言律宗 叡尊 61歳、 真言律宗 忍性 46歳、
法華宗 日蓮は41歳、 時宗 一遍は24歳、 天台宗寺門派 (園城寺) 隆弁は54歳、
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90代 亀山天皇は13歳 (後嵯峨上皇 (42歳) の意向で着位) 、先帝の後深草上皇は19歳、
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以後の朝廷は「後深草天皇系の持明院」と「亀山天皇系の大覚寺統」が帝位継承を争うことになる。
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関白 鷹司兼平35歳、太政大臣は1月に 西園寺公相 (亀山天皇の義父、41歳) が着任。
関東申次(関東執奏)は西園寺家(藤原北家)当主が世襲。
以後の朝廷は 五摂家 (近衛家、一条家、九条家、鷹司家、二条家) の合議分担体制となる。
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                       (表示は全て 1/1現在の満年齢)
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西暦1263年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
弘長三年
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1月 2日 癸未
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吾妻鏡
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天晴。 相州禅室 北條時頼の沙汰による椀飯の儀あり。御簾を挙げたのは土御門大納言顕方卿、御剣の献上は尾張前司 北條時章、御調度は越前前司 北條時広、御行騰は和泉前司 二階堂行方
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   一の御馬は 相模左近大夫将監北條時村 と 四方田新三郎左衛門尉
   二の御馬は 越後四郎北條顕時 と 糟屋左衛門三郎行村
   三の御馬は 城六郎兵衛尉安達顕盛 と 同九郎長景
   四の御馬は 出羽八郎左衛門尉二階堂行世 (行泰の息子) と 同、九郎宗行
   五の御馬は 越後六郎北條実政 と 伊賀右衛門次郎
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  今日、将軍 宗尊親王 が元日に出仕した者を鶴岡八幡参宮の供奉人として (名簿に) 付点された。
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西暦1263年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
弘長三年
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1月 3日 甲申
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吾妻鏡
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晴。 武蔵守北條長時の沙汰による椀飯の儀あり。御簾を挙げたのは土御門大納言顕方卿、御剣献上は中務権大輔 北條教時、御調度は左近大夫将監 北條公時、御行騰は太宰権小弐 武藤景頼
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   一の御馬は 相模七郎宗頼北條宗頼 (宗顕)  と 安東宮内左衛門尉景光
   二の御馬は 左衛門尉梶原太郎景綱 と 同、五郎景方
   三の御馬は 甲斐三郎左衛門尉為成 と 同、五郎左衛門尉為定
   四の御馬は 上野三郎左衛門尉重義 と 同、左衛門五郎宗光
   五の御馬は 陸奥十郎忠時 (北條重時の十男)  と 牧野太郎兵衛尉
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西暦1263年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
弘長三年
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1月 5日 丙戌
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吾妻鏡
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鶴岡八幡御参宮の供奉人招集を布告した。
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西暦1263年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
弘長三年
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1月 7日 戊子
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吾妻鏡
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晴。 将軍家 宗尊親王が鶴岡八幡宮に御参宮。供奉人は以下の通り。
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  御車
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城弥九郎長景     出羽八郎左衛門尉行世  後藤壱岐次郎左衛門尉基広  長門三郎左衛門尉朝景
伊勢三郎左衛門尉頼綱 梶原三郎左衛門尉景氏  嶋津周防七郎定賢      越中次郎左衛門尉朝景
武石新左衛門尉長胤  越中五郎左衛門尉    上野三郎左衛門尉重義    伊賀四郎左衛門尉景家
狩野四郎左衛門尉景氏 平賀三郎左衛門尉惟明  薩摩七郎左衛門尉伊東祐能
佐渡新左衛門尉基道  信濃判官次郎左衛門尉行宗
    以上17人は直垂で帯剣、御車の左右に列歩する。
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  次いで御後 49人(布衣)
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武蔵前司北條朝直        同、式部大夫朝房(北條朝直の長男)  同、五郎北條時忠(宣時)
同、八郎頼直(北條朝直の五男)   越前前司北條時広  中務権大輔北條教時
尾張左近大夫将監北條公時    相模左近大夫将監北條時村  民部権大輔北條時隆
同、北條四郎宗房(政村の四男)   相模三郎北條時輔  同、七郎北條宗頼(宗顕)
刑部少輔北條時基        遠江右馬助清時(北條時直の長男)  越後四郎北條顕時
陸奥十郎忠時(重時の十男、後に引付衆)  刑部少輔那波政茂(大江広元の孫)  宮内権大輔長井時秀
壱岐前司佐々木泰綱       同、三郎左衛門尉佐々木頼綱(佐々木泰綱の嫡子)
越中前司宇都宮(横田)頼業     長門前司笠間時朝  壱岐前司後藤基政
同、太郎左衛門尉基頼(基政の子、六波羅引付頭人)
木工権頭藤原親家        同、左衛門蔵人宗教  縫殿頭中原師連
畠山上野三郎  石見前司宗朝  常陸左衛門尉行清  筑前三郎左衛門尉行実 日向前司宇佐美祐泰
城六郎兵衛尉安達顕盛  大隅修理亮嶋津久経(久時)  信濃左衛門尉時清
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(御調度役)周防五郎左衛門尉嶋津忠景  和泉六郎左衛門尉景村  同、七郎左衛門尉景経
紀伊次郎左衛門尉為経      左衛門尉梶原太郎景綱    進三郎左衛門尉宗長
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(御沓手長)左衛門尉加藤景経    小野寺新左衛門尉道継    甲斐三郎左衛門尉為成
左衛門尉伊東八郎祐光      佐々木孫四郎左衛門尉泰信  伊賀式部八郎左衛門尉仲光
大見肥後四郎左衛門尉行定    佐々木加地太郎左衛門尉実綱
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   ※直垂で帯剣: 武士の正装であると同時に 「鎧直垂」 として甲冑の下に着るのが 直垂だった。
愚かな私は、供奉する随兵は直垂姿で帯剣して列歩すると認識していたのだが吾妻鏡の弘長元年 (1261) 7月9日 (西暦の 8月6日) に「放生会の随兵を定めた中で、江戸七郎太郎から老衰と病気が重なって鎧を着け難いとの申請があり恩許された。」との記載があった。
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暑い盛りの放生会にも「鎧直垂」の完全武装で供奉することを確認し、老齢の随兵に同情すると共に自分勝手な思い込みを反省する。
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西暦1263年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
弘長三年
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1月 8日 己丑
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吾妻鏡
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前浜 (由比ヶ浜) で御的 (弓始め) の射手を選抜した。左典厩 北條時宗は体調不良により出仕せず18人が一射づつ五度繰り返した後に解散した。
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   一番  山城三郎左衛門尉 と 早河次郎太郎
   二番  渋谷新左衛門尉  と 横地左衛門次郎
   三番  伊東與一     と 富士三郎五郎
   四番  松岡左衛門四郎  と 平島弥五郎
   五番  伊東新左衛門尉  と 小沼五郎兵衛尉
   六番  小嶋の弥五郎   と 渋谷右衛門四郎
   七番  柏間左衛門次郎  と 本間対馬次郎兵衛尉
   八番  落合四郎左衛門尉 と 神林兵衛三郎
   九番  早河六郎     と 下山兵衛太郎
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   ※左典厩: 時宗は弘長元年 (1261) に従五位下に叙され左馬権頭に任じている。
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西暦1263年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
弘長三年
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1月 9日 庚寅
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吾妻鏡
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晴。 来る12日の御弓始めに備えて招集する射手を定め、当日は辰刻 (朝8時) までの出仕を通告した。
今日、左典厩 (時宗) の体調不良は疱瘡と判明。また夜になって権律師 隆政が死没した (享年23) 。
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西暦1263年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
弘長三年
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1月10日 辛卯
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吾妻鏡
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晴。 和泉前司 二階堂行方の奉行として (各月旬の) 御鞠奉行を定めた。何れも名手 (名足) である。
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  一月 と 四月 と 七月 と 十月
    上旬  冷泉中将隆茂朝臣   右馬助北條清時(時直の嫡子) 出羽前司長村小山長村
    中旬  越前前司北條時広   中務権少輔重教       備中守二階堂行有
    下旬  大夫判官足利家氏   武蔵五郎時忠北條時忠(宣時) 下野左衛門尉宇都宮景綱
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  二月 と 五月 と 八月 と 十一月
    上旬  二條少将雅有朝臣   刑部少輔北條時基    壱岐前司後藤基政
    中旬  弾正少弼北條業時   越後四郎北條顕時    佐渡大夫判官後藤基隆(基綱の子)
    下旬  左近大夫将監北條時村 三河前司新田(世良田)頼氏   周防左衛門尉嶋津忠景
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  三月 と 六月 と 九月 と 十二月
    上旬  二條侍従基長     相模三郎北條時輔    壱岐前司佐々木泰綱
    中旬  中務権大輔北條教時  秋田城介安達泰盛    信濃判官(隠岐流)佐々木時清
    下旬  左近大夫将監北條公時 木工権頭藤原親家    城四郎左衛門尉安達時盛
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西暦1263年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
弘長三年
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1月11日 壬辰
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吾妻鏡
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   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
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明日の御弓始めを前にして射手の中から小嶋弥次郎家範が支障を申し出たため、相手に設定した小沼五郎兵衛尉孝幸も同様に除外し五番に縮める事とした。
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しかし今日、工藤三郎右衛門尉光泰から「家範の支障により孝幸も除外して五番とすれば、もし始まってから更に支障が出れば四番になります。早河六郎祐頼を孝幸に組み合わせて元通り六番とするべきでしょう。」との申し出があり、その意見を容れて両人を加える結果となった。
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西暦1263年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
弘長三年
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1月12日 癸巳
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吾妻鏡
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御弓始めあり。射手は12人、二射づつ五度的を射た。
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   一番は 山城三郎左衛門尉親忠 vs 早河次郎太郎祐泰
   二番は 横地左衛門次郎師重  vs 対馬次郎兵衛尉忠泰
   三番は 渋谷右衛門四郎清重  vs 伊東與一祐頼
   四番は 小沼五郎兵衛尉孝幸  vs 早河六郎祐頼
   五番は 松岡左衛門四郎時家  vs 富士三郎五郎員時
   六番は 渋谷新左衛門尉朝重  va 平嶋彌五郎助経
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西暦1263年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
弘長三年
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1月14日 乙未
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吾妻鏡
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来る21日からの御祈祷の際は左大臣法印の宿所として出羽入道道空 二階堂行義邸を指定した。
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西暦1263年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
弘長三年
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1月15日 丙申
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吾妻鏡
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小雨が続き夜になって晴。丑刻 (深夜2時前後) に八分の月蝕が確認された。御祈祷は加賀法印定清。
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西暦1263年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
弘長三年
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1月17日 戊戌
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吾妻鏡
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紅い霞が白雲を伴って天気は非常に暗い。 戌刻 (20時前後) に乾巽(北西と南東)に火の様な光が見えた。一方の光が輝きを増すと一方が薄れて大きさも連動し、観る者は不審に思った。
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西暦1263年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
弘長三年
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1月18日 己亥
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吾妻鏡
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曇。 乾巽に現れた赤い光は昨夜と同様である。御祈祷に任じる大阿闍梨の宿所について、道空 (二階堂行義) の家は以前から弾正少弼 北條業時に (所有権が) 与えられていた。
常陸入道 二階堂行久 (法名は行日) の家が来月の二所詣奉行に任じているため、今日壱岐前司 後藤基政の家が改めて指定された。
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   ※道空と行日: やや意味不明だが、兄弟だから同じ屋敷に住んでいた、という事か。
後藤基政邸の位置は不明。
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西暦1263年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
弘長三年
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1月20日 辛丑
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吾妻鏡
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近いうちに二所御参詣を行なうため、供奉人に該当する名簿を書き出した。
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西暦1263年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
弘長三年
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1月23日 甲辰
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吾妻鏡
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二所御参詣に伴う供奉人などについて協議があり、先日名簿に付点を下された中から多くの者 (以下に列記) が支障による辞退を申し出た。
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武蔵前司北條朝直   越後前司北條実時   民部権大輔長井時秀   中務権大輔足利家氏
秋田城介安達泰盛   同、左衛門尉安達四郎時盛  対馬守佐々木氏信   縫殿頭中原師連
新左衛門尉大須賀朝氏   出羽九郎二階堂宗行
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以上10人は体調不良だが出仕の際は互いに補佐して務めると。足立左衛門太郎は病気で在国中。
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武蔵式部大夫北條朝房(朝直の長男) 宮内権大輔長井時秀  佐渡大夫判官後藤基隆(基綱の子)
周防五郎左衛門尉嶋津忠景  壱岐左衛門尉後藤基政    甲斐三郎左衛門尉為成
同、五郎左衛門尉為定    新左衛門尉小野寺行通    近江左衛門尉佐々木氏信
和泉六郎左衛門尉天野景村(遠景政景-政泰-景村と続く)   同、七郎左衛門尉景経(景村の弟)
進三郎左衛門尉宗長     大泉九郎長氏  足立左衛門五郎遠時
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以上の14人は支障を申し出ているため理由を確認すること。
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相模左近大夫将監北條宗政  信濃判官二階堂時清  大隅修理亮嶋津久時 上野三郎畠山国氏
隠岐四郎兵衛尉二階堂行長  左衛門尉小野寺四郎道時  左衛門尉足立太郎直元
大須賀新左衛門朝氏(在国)
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以上8人は鹿食、詳細を問うこと。   城六郎兵衛尉 安達顕盛は鳥食、詳細を問うこと。
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鹿食 (要するに ジビエ) に関して質問したところ、禁制の事実を知らなかったと陳謝している。
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西暦1263年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
弘長三年
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1月25日 丙午
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吾妻鏡
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二所御参詣は延期し、今回は先ず奉幣使を派遣することとなる。先日選定した供奉人は全て 将軍家 宗尊親王の精進潔斎中の出仕を通告するよう少弐 武藤景頼を介して小侍所に命じた
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西暦1263年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
弘長三年
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2月 2日 壬子
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吾妻鏡
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   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
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小雨、夜になって雪が庭を白く染めた。
御所で和歌御会が催された。突然のことだったが相模守 北條政村が加わり、明け方まで続けられた。
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   ※2月2日: 西暦の3月12日。春の雪を愛でての歌会か。
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西暦1263年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
弘長三年
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2月 5日 乙卯
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吾妻鏡
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明日から御祈祷を催すため大阿闍梨左大臣法印の宿所として和泉前司 二階堂行方邸が指定された。
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西暦1263年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
弘長三年
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2月 8日 戊午
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吾妻鏡
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晴。申刻 (16時前後) に雨。今日、相模守 北條政村の常盤亭で和歌会。一日で千首、深題懸物と定めた。亭主の政村が80首、右大弁入道眞観 葉室光俊 (葉室(藤原)光親の息子) が108首、前皇后宮大進俊嗣 (光俊朝臣の息子) が50首、掃部助範元が100首、證悟法師と良心法師以下の読み手は17人。
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辰刻 (朝8時) から始め、秉燭以前 (暗くなる前) に詠み終え、掃部助範元が一人で読み上げた。
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   ※深題懸物: 深題は事前に題を準備し籤で割り当てること、懸物は負けた場合に提供する物。
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   ※常盤亭跡: JR鎌倉駅から長谷隧道を抜けた右手 (地図) が北條常盤亭跡。文化遺産オンライン
で詳細を確認できる。ここは数多い訪問漏れの一ヶ所で、敷地の広い範囲が遺跡に含まれている。細道を辿ると奥の「やぐら」まで近寄れた、現状は判らないが。
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西暦1263年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
弘長三年
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2月 9日 己未
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吾妻鏡
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晴。 昨日詠んだ和歌千首を合点 (良いと判断したものに付点する事) のため大掾禅門に送った。
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   ※大掾禅門: この人物は翌10日の会合にも出席しているのだが判断材料が不足している。
当時の鎌倉歌壇で指導的地位にあったのは弘長元年 (1261) に鎌倉に下向して将軍 宗尊親王 の和歌の師を務めていた葉室光俊以外に該当する人物が見当たらない。
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光俊=右大弁=大掾だと思うのだが、心の中では「浅学は悔しい」気持ちと「専門家じゃないんだから」との言い訳が相剋している。妥協はダメだが。
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西暦1263年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
弘長三年
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2月10日 庚申
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吾妻鏡
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朝のうち雨。
昨日の和歌千首の付点が済んでから常盤 (時頼邸) で更に読み上げ、付点の数に依拠して座次を定めた。第一座は弁入道 (葉室光俊) 、第二は範元、第三は亭主 (北條政村) 、第四は證悟である。
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亭主は範元の下座として対面する座に移ろうとしたが大掾禅門は「点数を席次とするのは決めていた事だが、本来の座を動くのは好ましくないだろう。」と述べた。その言葉が終わらないうちに亭主が立ち上がって範元の下座に着こうとし、範元もまた立ち上がって退去してしまった。
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大掾禅門分 (の和歌) は虎皮の上に、範元は熊皮に、亭主は色革に、以下はそれに準じ 無点の者はその縁に着座した。食膳には向かったが箸は下の食前に残ったまま、箸を使わずに食事を済ませた。
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満座の者は頤を解かずと云うこと莫し。掃部助範元は、去る正月に上洛の許可を求めていたが今回の歌会によって保留となり、懸物 (歌くらべの賞品) の中から旅具のみを選んで受け取った。
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   ※大掾禅門: 文字通りに読むとは歌会の付点がトップなのは弁入道 (葉室光俊) 。
あとは葉室光俊が大掾禅門と呼ばれた例の有無を確認すれば済むのだが....。
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   ※頤を...:「頤 (あご) を解く」は大笑いする、解かずは否定だから「笑わない」で、「莫し」は
更にそれを否定しているので「和やかに飲食を楽しんだ」が結論となる。
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西暦1263年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
弘長三年
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2月22日 壬申
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複数史料
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法華宗の僧 日蓮が赦免され、伊豆伊東から鎌倉に戻った。
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   ※日蓮赦免: 流罪は弘長元年 (1261) 5月12日から1年9ヶ月。
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伊東市の 佛現寺の寺伝に拠れば「日蓮は地頭の伊東八郎左衛門朝高の庇護を受けた」とされているが、伊東氏の系図に朝高の名は見当たらない。
年代としては、工藤祐経の嫡男 伊東祐時の六男で伊東庄の地頭を継承した祐光が該当する。
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庇護なのか幽閉なのかは曖昧なのだが寺伝に拠れば 「熱病で苦しむ朝高を祈祷で治癒した」 とあり、鎌倉での祈雨と同様の奇跡を起こしたのだろうね。
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最初は 「法華経を信じない者に功徳などあり得ない」 と拒否したのだが一族の懇願を受けて態度を軟化させたと伝わっている。
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もちろん祈雨を含めて奇跡などあり得ないが、科学の発達していない当時は日蓮の持っている説得力や影響力が奇跡を起こしたかに思えたのだろう。
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また流罪中には 「四恩抄」 や 「教機時国抄」 など多くの著作を完成させ法華宗の教理を形態的に完成させた、貴重な時期でもあった。
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   ※伊東祐時: 幼名 犬房丸、建久四年 (1193) 5月28日に勃発した 「曽我の仇討ち」 で祐経を殺した
曽我兄弟の勇気に感動した 頼朝が捕らえた弟の五郎時致の助命を考えた際に、泣いて身柄の引き渡しを求めた祐経の嫡男犬房丸。伊東氏の名跡断絶を惜しんだ頼朝が継承を許した、と。その経緯は同月の29日に記載してある。
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   ※救済拒否: 法華宗の正しさを強調する意思を称えた部分なのだが、その理論を狭義に受け止め
た宗派が 「不受不施派」 として現代まで (零細ながら) 続いている。秀吉に従わず殺戮を受けた歴史を含めて詳細は 不受不施派 (Wiki) で。
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右上は 池上本門寺 (公式サイト) 収蔵の日蓮像。木造彩色、高さ86cm、クリック→ 別窓で拡大
内部の墨書銘には没後7年の正応元年 (1288) 6月8日の完成で、数人の直弟子が造像に携わった事が記録に残っている。つまり日蓮の風貌を良く知っている者が造った、最も古い日蓮像らしい。
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西暦1263年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
弘長三年
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3月10日 庚寅
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吾妻鏡
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   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
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晴。 故右京兆 北條義時の祈願所だった大倉薬師堂が先般からの修造を済ませて今日真言による供養の法要を行なった。導師は遠江僧都公朝が務めた。
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   ※大倉薬師堂: 義時が建立した 二階堂北部の寺院で覚園寺
の前身と考えられている。寺域の裏手にある薬師堂が義時時代の名残り、なのだろう。
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吾妻鏡 建保六年 (1218) 7月9日に記載があり翌年1月に勃発した 将軍実朝殺害の直前に、義時が体調不良を称して将軍 実朝との同行を回避した具体的な理由を述べている。
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薬師十二神将の部下 戌神が夢に現れ次の様に語り掛けた、その謝礼に薬師堂建立を思い立った、と。 「今年の神拝は無事に済んだが、明年の拝賀は (危険だから) 供奉すべきではない」  その裏を読めば、「義時は実朝の危機 (闇討ち) を知っていたのに主人の危機には対応せず自分の安全を優先した」事になる。
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この男、実に卑劣で陰険でしかも平然と嘘を吐く。
  右は覚園寺山門に続く石段前。画像をクリック→ 別窓で拡大表示
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西暦1263年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
弘長三年
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3月13日 癸巳
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吾妻鏡
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武藤少卿景頼が奉書 (指示依頼書) を小侍所別当に送り、「将軍家による二所詣の精進潔斎が来月21日より始めることとなる。供奉人および参籠に従う者には先例に従って招集があるから名簿を提出せよ。また鳥食 (鳥獣食だろう) は今月20日頃から慎むよう前もって連絡せよ。」と通達した。
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   ※小侍所別当: この時点では越後守 北條実時が任じている。
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西暦1263年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
弘長三年
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3月17日 丁酉
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吾妻鏡
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丁酉。 最明寺禅室 北條時頼が信濃国深田郷 (善光寺の北、現在の長野市箱清水 (地図) を買い取り善光寺に寄進した。不断経に任じる僧衆と不断念仏に任じる僧衆の扶持に充当し、偏に来世の功徳を願うためである。
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  善光寺金堂不断経衆の結番 (担当) について (次第 順不同)
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     定蓮房律師観西  理久房阿闍梨重実  蓮明房善西  大弐阿闍梨覚玄  理乗房実圓
     厳光房澄範    厳蓮房聖尊     覚地房有慈  金蓮房勝賀    河内公俊栄
     蓮浄房覚隆    権別当俊範
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右 (上) 番帳の旨を守り勤仕すること。この不断経の費用は信濃国水内郡深田郷の水田六町、不断経に任じる僧衆の免田 (税を免じる水田) である。この免田を十二に区分して一人当たり五段を十二人に支給する。
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指示に違背せず、また所職の譲渡や継承などの際は例え証文や所有を望む者がある場合でも、地縁や血縁に拘らず衆議によって決めるように。基準とする資格は知識や才覚ではなく精勤を旨とし、過去帳を守って念仏三昧を勤行し真心を以て懈怠するべからず。     弘長三年三月十七日   紗彌蓮性(在判)
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  善光寺金堂不断念仏の結番(担当)について (次第不同)
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     出雲公尊海  浄佛房良祐  少輔公幸源  法蔵房圓西  唯観房唯観  観法房栄俊
     式忍房幸證  尊明房琳尊  讃岐公俊昌  豊後公幸源  美濃公尊覚  検校俊然
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右 (上) 番帳の旨を守り勤仕すること。この不断念仏の費用は信濃国水内郡深田郷の水田六町、不断念仏に任じる僧衆の免田(税を免じる水田)である。この免田を十二に区分して一人当たり五段を十二人に支給する。
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指示に違背せず、また所職の譲渡や継承などの際は例え証文や所有を望む者がある場合でも、地縁や血縁に拘らず衆議によって決めるように。基準とする資格は知識や才覚ではなく精勤を旨とし、過去帳を守って念仏三昧を勤行し真心を以て懈怠するべからず。 弘長三年三月十七日 紗彌蓮性 (在判)
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   ※不断経: 一定の期間を定めて昼夜を通して途切れなく読経を続けること。不断念仏も意味は
同じで名簿以外の文面も同じ。信濃善光寺 (公式サイト) は特定の宗派に属していない事で知られているが、実質的には 天台宗浄土宗 (当時は概ね念仏宗) の管理下にあるのは鎌倉時代から変わっていない。従って不断経は妙法蓮華経 (法華経) 、現代の浄土宗は般若心経だが、当時の不断念仏は音楽的な要素を持つ称名念仏だろう。
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   ※紗彌蓮性: 得宗被官で律宗の僧 安東蓮聖 (Wiki) を差す。摂津国 (兵庫県南部) と和泉国 (大阪
府南部) を始め瀬戸内海沿岸一帯に所領を持ち、主として西国の得宗領の管理や僧でありながら海運や金融を業とした、実に複雑な顔を持っていた。
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西暦1263年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
弘長三年
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3月18日 戊戌
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吾妻鏡
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晴天。 亥刻 (22時前後) に名越の辺りが失火により焼失した。その中には山王堂も含まれている。
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   ※山王堂: 電通研修所 (地図) の改修に伴う発掘調査で山王堂の痕跡が確認された。八幡宮方面
から行く場合、常識的には小町大路から大町に下って 政子所縁の 安養院 (別窓) の先から登るのが順路なのだが、宝戒寺裏手の東勝寺橋を渡って右に登り「妾トンネル」を抜ける方が早い。
小町の妾宅に通うため大町の金満家が自費で掘らせたトンネルらしい。
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西暦1263年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
弘長三年
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3月21日 甲辰
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吾妻鏡
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晴、夜に入って雨。 今日東御方 (将軍正室 近衛宰子)の里亭 (私邸) を造作する沙汰があった。
惣奉行に任じたのは対馬前司 佐々木氏信
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西暦1263年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
弘長三年
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4月 1日 庚戌
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吾妻鏡
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  吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
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二所御参詣の供奉人について、先般提出した回覧状に基づいて招集する。
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西暦1263年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
弘長三年
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4月 3日 壬子
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吾妻鏡
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壱岐前司 後藤基政が二所参詣の供奉に支障を申請した。
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西暦1263年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
弘長三年
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4月 7日 丙辰
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吾妻鏡
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晴。 夜になって窟堂の辺りで騒動があり、まもなく鎮静した。群盗10数人が地蔵堂に隠れているのを 夜間警備の者が捕えて拘留したのが事件の概要である。
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   ※地蔵堂: 八幡宮から扇ヶ谷に抜ける窟小路の窟堂 (義朝の館跡、現在の寿福寺を参照) の横に
あった松源寺 (明治初期に廃寺) にあり、日金山東光寺の本尊 延命地蔵菩薩像 (頼朝の寄進と伝わる) を模した地蔵を祀っていたという。
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窟堂は別名を天狗堂、元弘三年 (1333) 5月22日の幕府滅亡を描いた太平記の「長崎親子の武勇の事」には「(極楽寺から小町口に移動した)長崎父子は魚鱗の陣形に密集して突破したり散開して攻撃したりして七、八回も交戦した。
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義貞の兵は陣形を乱して若宮大路まで撤退、やや人馬の息を整えた時に天狗堂と扇ヶ谷の方向で合戦と思われる馬煙が上がるのが見えた。」
との記載があり、窟小路は (化粧坂や巨福呂坂を突破した新田勢と北條方残兵が) 激戦が繰り返された場所の一つだった。
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長崎親子とは、北條貞時 高時に仕えた得宗被官の長崎高光 (法名思元、翌22日の東勝寺合戦で自害) と嫡子の為基 (極楽寺坂から由比ヶ浜に後退して奮戦の末に行方不明) を差す。
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西暦1263年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
弘長三年
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4月14日 癸亥
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吾妻鏡
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二所御参詣の供奉人の中から仔細を申し出た者についての沙汰があった。
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相模左近大夫将監 北條教時から「相模守北條政村が服喪の期間にあるため蝕穢と判断しないで良いのか」 との申し出があり、出羽八郎左衛門尉二階堂行世 と 近江三郎左衛門尉佐々木頼重も同調した。「付点に従っての供奉は当然だが華麗な衣装は揃え難いため粗末でも許されるか」との申告である。
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小侍所から以上の報告を受けた太宰少弐 武藤景頼が上申し、相模守政村と左親衛教時と出羽八郎左衛門尉等は (欠席の) 許可があり、近江三郎左衛門尉は供奉するよう沙汰があった。また (4月3日に支障を申し出た) 壱岐前司 後藤基政は相構えて (努力して) 供奉せよ、との指示である。
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西暦1263年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
弘長三年
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4月16日 乙丑
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吾妻鏡
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晴。 河野四郎通行の子息九郎経通が小侍の番帳 (勤務表) に追加され、和泉前司 二階堂行方が将軍家の仰せを小侍所に伝えた。また、東御方 (将軍正妻 近衛宰子) の小町私邸の仮上棟を行なった。
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西暦1263年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
弘長三年
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4月21日 庚午
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吾妻鏡
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晴。将軍家の二所詣に対応した精進潔斎が始まり、潮を浴びるため水干と騎馬で浜に出御した。月卿雲客 (公卿、殿上人) も水干、他の供奉人は立烏帽子に鎧直垂。還御の際には全員が浄衣 (白の狩衣、無紋)を着した。
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行列、
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  御駕 (歩行の御供あり )
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  御後 土御門大納言顕方卿  近衛中将公敦朝臣  越前前司北條時広  民部権大輔北條時隆
遠江右馬助北條清時  越後四郎北條顕時  武蔵式部大夫北條朝房 畠山上野三郎国氏
駿河五郎三浦資村   中務権少輔重教   壱岐前司佐々木泰綱  女医博士長宣朝臣
平岡左衛門尉実俊   陰陽少允安倍晴弘  武蔵守北條長時    相模四郎北條宗政
後続に並ぶ騎馬が雲霞の如く続いた。
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西暦1263年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
弘長三年
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4月23日 壬申
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吾妻鏡
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晴。 浜への出御は昨日と同じ、中潮である。
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西暦1263年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
弘長三年
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4月24日 癸酉
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吾妻鏡
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筑前入道行善 二階堂行泰の宿所を指定した。4月1日から祈祷のため大阿闍梨松殿僧正の宿所となる。
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    この条の原文は「被點筑前入道宿所。是自來四月一日。爲御祈大阿闍梨松殿僧正居所也。
    文字通りに読めば、「来る4月1日から」になる。不合理だ。
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西暦1263年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
弘長三年
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4月26日 乙亥
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吾妻鏡
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雨。 将軍家 宗尊親王 が二所詣に出発した。
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  騎馬
   土御門大納言顕方卿  近衛中将公敦朝臣  武蔵守長時北條長時  相模四郎北條宗政
   御敷皮役は越前前司北條時広  江右馬助北條清時  同、四郎政房  民部権大輔北條時隆
   武蔵式部大夫北條朝房  御床子役黒は越後四郎北條顕時  駿河五郎北條通時
   中務権少輔重教  太宰少弐武藤景頼  壱岐前司佐々木泰綱  木工権頭藤原親家.
   壱岐前司後藤基政  畠山上野三郎国氏  美作左衛門蔵人宗教  女医博士長宣朝臣.
   陰陽少允安倍晴弘
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  歩行
   左衛門尉伊賀四郎景家    左衛門尉土肥四郎実綱 左衛門尉上野三郎重義
   隠岐四郎左衛門尉二階堂行長 近江三郎左衛門尉頼重 周防七郎定賢  左衛門足立五郎遠時
   内藤肥後六郎左衛門尉時景  平賀三郎左衛門尉惟時 小河木工権頭時仲  小河左近将監
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西暦1263年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
弘長三年
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5月 1日 庚辰
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吾妻鏡
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   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
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晴。 将軍家 宗尊親王が二所詣から還御した。今日は浜部崎から見ると鎌倉御所が太白方に当たるため還御は避けるべきとの意見もあったが、将軍家は還御を強行した。
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   ※太白方: 弘長三年 (辰年) には北が太白方 (凶の方角) だが、立夏前 (甲子~戊辰) の太白 (大将
軍) は東に遊行している時期。つまり5月1日の帰路から見ると東 (鎌倉方向) が凶の方角になる。浜部崎=稲村ヶ崎なのだろうが、ここが浜部崎と呼ばれた例が見当たらないのが残念。
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西暦1263年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
弘長三年
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5月 9日 戊子
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吾妻鏡
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晴。 掃部助 (押垂) 範元が京都より帰参し、密奏 (ひそかに奏上) の望みを果たしたと報告した。
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祖父の大監物宣賢朝臣が長く秘めていた願いだったが、84歳になって自分の孫 (範元) の優れた能力を知り家業を継がせるため再三の内挙 (内々の推挙) を試みた。希望者も多く職位の空席もない中で宗明朝臣の跡を継ぐ者がないために宣下を得る事ができた。蔵人左衛門権佐経業が奉行である。
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   ※押垂範元: 野本 (斎藤) 基員の養子となって武蔵国押垂 (現在の東松山市下押垂、地図)の
開発領主となった基時を祖とする。大監物宣賢朝臣との詳しい関係は確認できないが、大監物は中務省 (朝廷に関する職務全般を担当) に所属する従五位下相当の官職である。
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西暦1263年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
弘長三年
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5月17日 丙申
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吾妻鏡
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晴。  鷺 (さぎ) が左典厩北條時宗亭の坂に集まり、その後に永福寺山の方向に飛び去った。占いを行なったところ (陰陽師の) 文元、晴茂、晴宗、泰房、頼房らが「口舌 (喧嘩、悪口) の兆しあり」との結果を報告し、武田七郎次郎が鷺を追い掛け射殺して持ち帰った。夜になって鷺の変異に対応して泰山府君、百怪、白鷺などの祈祷を催した。
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   ※左典厩:左馬頭 (従五位下) の唐名。時宗は弘長元年 (1261)
の12月22日に満10歳で叙位と任官を受けている。
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   ※永福寺山: 北條義時が開いた薬師堂 (現、 覚園寺 (公式サ
イト) のある薬師ヶ谷と永福寺跡を隔てる標高50m前後 (永福寺との高低差は約20m) の山。
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藤原秀衡が建立した平泉の無量光院を模して永福寺を創建した 頼朝は西の山に沈む夕陽の姿の再現まで夢見たのかも。
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右は平泉の無量光院の復元想像図(現在は庭園のみ復元)
 クリック→ 別窓で拡大表示。
 更に詳細は 宇治平等院を模した無量光院 で。
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西暦1263年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
弘長三年
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5月19日 戊戌
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吾妻鏡
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晴。 寅刻 (早暁4時前後) に地震。
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西暦1263年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
弘長三年
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5月29日 戊申
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吾妻鏡
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来月一日から祈祷に任じる大阿闍梨松殿法印の宿所について、今回は尾張前司 北條時章亭と決めていたが、先日 (3月18日) の火災に伴って肥前四郎左衛門尉の家が指定された。
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西暦1263年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
弘長三年
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6月 2日 庚戌
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吾妻鏡
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   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
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晴。 東御方 (将軍正室 近衛宰子) の小町亭の柱立てを行なった。去る4月16日に仮の棟上げ、今日梁と棟を上げた。また壱岐前司 後藤基政と丹波守頼景が在京するため上洛の途に就いた。
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   ※丹波守頼景: 弘長三年に後藤基政と 安達頼景が六波羅評定衆に任じているから頼景=安達だ
たろう。だし、頼景は丹波守ではなく正嘉元年 (1257) に丹後守に就任しているから、この部分は間違い。
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西暦1263年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
弘長三年
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6月13日 辛酉
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吾妻鏡
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晴。 駿河六郎 (北條有義、北條有時の五男) が死去した。
相模守 北條政村と左典厩 北條時宗が軽服 (軽い服喪) となる。 .
西暦1263年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
弘長三年
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6月17日 乙丑
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吾妻鏡
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曇。 昨日から秋を思わせる凉しさとなり、人々は綿入れを纏うような状態だった。
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   ※6月17日: 太陽暦の7月23日に該当する。寒さの夏はオロオロ歩き、か? 冷害の危惧か?
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西暦1263年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
弘長三年
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6月23日 辛未
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吾妻鏡
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将軍家 宗尊親王の御上洛について沙汰があり、行程に伴う役務を沿道の諸国に割り当てた。
(六波羅への) 御教書 (命令書) の内容も同一で 西海 (墨俣川から西) については六波羅を経由しての指示となる。御教書の内容は以下の通り。
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(将軍家の) 御上洛について百姓などに課する賦役は、水田一段当り百文と五町当り官駄 (荷駄に供する馬) 一疋と役夫二人。畑は二町を水田一町に換算し、その他には農民を煩わせるべからず。ただし逃散する者がいれば居住地に通告してその役を勤めさせる事。仰せに従って通達する。
      弘長三年六月二十三日   武蔵守 北條長時 (執権)  相模守 北條政村 (連署)
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                      陸奥左近大夫将監 北條時茂殿
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   ※逃散: 「逃げ出す」の意味とは別に、「農民が耕作を放棄して他領へ移る」との意味もある。
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   ※北條時茂:文永七年 (1270) 1月の死没まで六波羅北方を勤めた。叔父時茂を継いだ北條義宗
も文永五年 (1268) に叔父と同じ陸奥左近大夫将監に任じるから混同に要注意。
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西暦1263年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
弘長三年
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6月25日 癸酉
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吾妻鏡
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晴。巳刻 (午前10時前後) に将軍家が百首の和歌を詠み終えた。昨日未刻 (14時前後) に始めたもので、押垂掃部助範元 (5月9日を参照) が御前でこれを清書した。
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西暦1263年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
弘長三年
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6月26日 甲戌
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吾妻鏡
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来る八月の放生会に御参宮する際の供奉人を決める付点の名簿を小侍所から和泉前司 二階堂行方に提出。名簿に載る越中判官 宇都宮 (横田) 頼業は病痾 (長引く病気) を称して帰国療養を申請している。
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今日御所に於いて帝範についての談議があった。右京権大夫茂範朝臣と参河前司教隆 (清原教隆) が近くに控え、近衛中将公敦朝臣と越前前司 北條時広が参席した。
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   ※帝範: 唐時代の648年に成立した政治書。太宗が帝王の模範を撰して子息 (後の皇宗) に与え
たもの。
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西暦1263年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
弘長三年
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6月28日 丙子
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吾妻鏡
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放生会に御参宮する際の供奉人名簿に (将軍家による) 付点あり。左点は布衣、右は随兵、左点端は鎧直垂を着す、と。小侍所に引き下した後に工藤光泰と平岡実俊が回覧させた。
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西暦1263年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
弘長三年
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6月29日 丁丑
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吾妻鏡
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晴。 将軍正室 近衛宰子の私邸 小町御亭の門に仮棟を上げた。
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西暦1263年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
弘長三年
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6月30日 戊寅
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吾妻鏡
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晴。 去る25日に将軍家が詠んだ和歌を右大弁入道 (2月8日を参照 ) が御前で拝見し評価し奉った。
去年詠んだ一日百首の御歌より優れていると申し上げたが将軍家は納得せず 「去年の方が良いと思う」 と言われた。
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西暦1263年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
弘長三年
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7月 5日 癸未
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吾妻鏡
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   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
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晴。 将軍家が今年中に詠んだ和歌から360首を選んで清書させ評価を求めて入道民部 藤原為家卿に送らせた。また今日 和泉前司 二階堂行方の孫が死没したため、縫殿頭師連 中原師連が御所中の雑事を奉行することとなった。
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西暦1263年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
弘長三年
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7月10日 戊子
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吾妻鏡
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小雨降りしきる。 御所の棟門を建立した。
今日、前浜で風伯祭を行なった。祭祀の担当は前大監物宣賢朝臣。
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   ※棟門: 屋根付きの門 (画像) で、四脚門 (画像) より格下、腕木門 (画像) より格上。
(画像は全てYahoo紹介ページ、別窓で)
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   ※風伯祭: 東西南北の四方に存在する風の神を祀る祭祀。
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西暦1263年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
弘長三年
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7月13日 辛卯
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吾妻鏡
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東御方 (将軍正室 近衛宰子) の小町新造邸への転居に伴い、今日供奉人を命じる沙汰があった。
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その中で病気を申し出た越中判官時業は、特に問題とする程の状態ではない。先日辞退を申し出た際に実態を確認せず許可したのだが、近侍する者として欠席は妥当ではないとの沙汰が下った。既に帰国したとの事、直ちに御教書を送って呼び戻すこととなった。
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  その他の人々(辞退を申請している者)、
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  布衣
    足立三郎左衛門尉(在国中)
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  随兵
    足利上総三郎吉良満氏(病気で服薬仲)  三浦介三浦(佐原)盛時  阿波四郎左衛門尉
    城四郎左衛門尉安達時盛  隠岐四郎兵衛尉二階堂行久  常陸修理亮重繼
    淡路四郎左衛門尉(灸)  風早太郎左衛門尉     以上の八人は病気による申請。
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    駿河五郎(服喪) 遠江十郎左衛門尉佐原頼連、8月15日まで重服 (親の服喪 ) と。
    小田左衛門尉   鹿嶋神宮修造の惣奉行。供奉でも他の神社で働くのは神事を軽んじる。
    阿曽沼小次郎   落馬してから進退に支障がある。子息 五郎を勤めさせたいが如何か。
    伯耆四郎左衛門尉 病気の回復が期待できず子息 五郎清氏を勤めさせたいが、如何か。
    江戸七郎太郎   老齢と病気が重なり、既に甲冑を着しての進退は勤められない。
    足立太郎左衛門尉 将軍上洛の供奉と京都大番役あり。許可があれば早くの参勤を望む。
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  直垂を着す者
    対馬太郎左衛門尉佐々木頼氏  同、壱岐三郎左衛門尉佐々木頼綱  左衛門尉平賀三郎帷時
        以上三人は支障あり、と。
    佐々木対馬四郎宗綱(疲労)  遠江五郎左衛門尉三浦 (佐原) 盛時 (疲労で灸、更に鹿食)
    出羽七郎左衛門尉二階堂行頼  左衛門尉大須賀六郎為信
    信濃判官次郎左衛門尉二階堂行宗(疲労)  以上三人は鹿食、と。
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    左衛門尉鎌田三郎義長  大番役が終って帰国直後のため困難、と。
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  官人
    佐渡大夫判官後藤基隆  病気中だが少しでも回復があれば加わりたい、と。
    信濃判官次郎行宗 (服暇、服喪中の意味か?)
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   ※三浦介: この時点では三浦 (佐原) 盛時、遠江五郎左衛門尉でもある。重複か、私のミスか。
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   ※駿河五郎: 6月13日に没した駿河六郎北條有義 (北條有時の子) の三男公有か。
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   ※佐原頼連: 三浦 (佐原) 義連盛連-時連-頼連と続く。時連は宝治合戦では同族の三浦泰村
を見捨てて兄弟 6人が時頼に味方している。吾妻鏡には死傷した記録なし。
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西暦1263年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
弘長三年
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7月16日 甲午
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吾妻鏡
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曇。 右大弁入道真観 (2月8日を参照) が帰洛の途に就いた。相模守 北條政村らの諸人が餞別を贈り見送った。
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西暦1263年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
弘長三年
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7月17日 乙未
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吾妻鏡
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曇。 日蝕が確認できず、司天 (天文担当) と宿曜道 (密教に基づく占星術) の間で議論が交わされた。
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西暦1263年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
弘長三年
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7月18日 丙申
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吾妻鏡
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晴。 将軍家 宗尊親王が帝範についての談議を行なった。
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   ※帝範: 唐の648年に成立した政治書。太宗が帝王の模範を撰して子息 (後の皇宗 ) に与えた。
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西暦1263年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
弘長三年
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7月20日 戊戌
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吾妻鏡
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越中判官時業 (宇都宮 (横田) 頼業 二男) が放生会供奉について送った御教書に了解の上申書を献じた。
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西暦1263年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
弘長三年
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7月23日 辛丑
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吾妻鏡
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晴。 将軍家 宗尊親王)が詠んだ和歌 500首を前右兵衛督の二條三位教定卿を介して評価を受けるため入道民部卿 藤原為家の許に送った。範元がこれを清書した。
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   ※和歌 500首: 宗尊親王は7月5日にも360首を送っている。為家のうんざりした顔が見える気
もするし、実権のない傀儡将軍 ( 20歳) の鬱屈した気持ちも理解できるし。
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西暦1263年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
弘長三年
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7月27日 乙巳
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吾妻鏡
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放生会の随兵を更に10人を加えるようにとの仰せがあった。
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西暦1263年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
弘長三年
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7月29日 丁未
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吾妻鏡
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雨。 将軍家が詠んだ和歌の建長五年 (1253) から正嘉元年 (1257) までの分を修撰 (整えて編纂) され、初心愚草と名付けた。
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西暦1263年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
弘長三年
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8月 1日 戊申
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吾妻鏡
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晴。 御所に於いて、和歌五首の題として「人々」を下された。奉行は二條少将飛鳥井雅有朝臣。
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   ※飛鳥井雅有: 飛鳥井 (二条) 雅経-教定-雅有と続く和歌と蹴鞠の家系。
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西暦1263年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
弘長三年
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8月 4日 辛亥
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吾妻鏡
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放生会供奉人の中に鹿食したため参加が憚られると上申する者がいた事について、厳しい禁令に違犯したとの叱責を受けて各々から次の通り陳謝があった。
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   遠江五郎左衛門尉
      鹿食の禁制については充分に理解しておらず、病気治療のため食べてしまった。
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   大須賀六郎左衛門尉
      体調不良が続き、鹿食が良いだろうとの医師の言葉により禁制を忘れてしまった。
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   信濃次郎左衛門尉
      先月上旬にあった会合で他の食物と間違えて鹿を食べてしまった。
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   ※鹿食: 信州諏訪大社の祭神は、本来は諏訪に土着していた狩猟
ある 「チカト神」 だと考える説がある。
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後に出雲系の神と習合して現在の建御名方神 (大国主命の子) と八坂刀売神 (女神) に偏移した、とする説である。
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鎌倉時代にも 「神に捧げる贄」 としての狩猟や鷹狩りが許されており、更には肉食を全面的に禁じていた江戸時代にも、神社から「鹿食免」と称する一種の肉食免罪符が発行されていた。
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日本の各地に諏訪神社があるのは、信仰は勿論だが鎌倉時代の領主が諏訪大社を勧請分祀して鹿食を合法化するのが目的の一つとも考えられているのが面白い。規制は常に抜け道を伴う。自公政権の「自粛と自主規制」も典型例だ。腐敗は根深い。
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以前は諏訪上社から約500m離れた 神長官守矢史料館 (地図) で鹿食免のレプリカ (免符と箸のセット) を売っており、多分今でも扱っているだろうから立ち寄って見聞を深める良い。    右上は鹿食免の裏側に印字した能書き。
        クリック→ 別窓で拡大表示。なるほど、成程、Got it !
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西暦1263年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
弘長三年
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8月 6日 癸丑
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吾妻鏡
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雨。将軍家 宗尊親王が和歌七首の提出を人々に勧めた。これは素暹法師が死去した後に夢のお告げがあって来世の苦しみを知らされたため、罪滅ぼしの思いに駆られて懐紙に経典を書写し、詠んだ和歌は左兵衛尉行長の名を用いている。
また広御所で臣軌に関する談義があった。弾正少弼 北條業時、越前前司 北條時広、掃部助範元 (5月9日を参照) らが御前に伺候した。
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   ※素暹法師: 千葉 (東) 胤頼→ 重胤→ 胤行 (法名素暹) と続く。重胤は歌人として 実朝に愛され
胤行もまた、実朝と宗尊親王の二代に仕えて優れた歌人の資質を表している。
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三浦一族が滅亡した宝治合戦 (1247年) では 三浦泰村の妹婿だった 千葉秀胤一族を攻め滅ぼしている (吾妻鏡 宝治元年6月6日を参照) 。胤行の関連記事は吾妻鏡の建永元年 (1206) 12月23日にも載せたが、死没は文永十年 (1273) との説もある。
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   ※臣軌: 唐代の典籍。儒教の道徳観を基礎にして家臣のあるべき姿を説いている。
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西暦1263年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
弘長三年
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8月 7日 甲寅
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吾妻鏡
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晴。 御所で五十首の歌合せあり。衆議判 (合議して優劣を判断する) と。
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   ※歌合せ: 詠み人を左右に分けて一首ずつ提出、批評し優劣を競うと共に実力を問う会。
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西暦1263年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
弘長三年
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8月 8日 乙卯
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吾妻鏡
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放生会の供奉人などについて沙汰があり、随兵に選んだ中で河越次郎経重が支障を申し出た。
また後日に再度通告した中から佐渡太郎左衛門尉が鹿食を申し出た。その他、支障を申し出た者は次の通り。
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尾張前司  秋田城介   各々、病気を申し出た。
陸奥左近大夫将監  伊勢次郎左衛門尉  各々、支障があると申し出た。
常陸次郎左衛門尉は服喪中  宮内権大輔は体調不良のため鹿食をした、と。
足立三郎左衛門尉は鹿食  佐々木壱岐前司は許可を得て上洛の予定、と。
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以下の16人は在国中 (本領に滞在) 。.
新田参河前司  小山出羽前司  上野前司  宇都宮石見前司  同、六郎左衛門尉
長門前司  筑前三郎左衛門尉  和泉三郎左衛門尉  小野寺四郎左衛門尉  田中右衛門尉
伊豆太郎左衛門尉  大見肥後次郎左衛門尉  和泉六郎左衛門尉  鎌田図書左衛門尉
周防四郎左衛門尉  鎌田次郎左衛門尉
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その他に仰せがあった事。
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  布衣
    秋田城介  病気は最初に散状を回覧した頃であり、その後の決定に従って出仕せよ。
    鎌田図書左衛門尉 と 同、次郎左衛門尉   既に京都から下向している。早急に対応せよ。
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  随兵
    阿曽沼小次郎    負傷によって子息を勤仕させる事には支障なし。
    上野太郎左衛門尉  軽服 (軽い服喪) の根拠を申告させよ。
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  直垂を着す者
    鎌田三郎左衛門尉  故障の理由が京都から下向のため不調とは勝手が過ぎる。
    隠岐四郎左衛門尉  前回の随兵には故障を申し出た。直垂着の名簿に書いて再招集せよ。
    信濃次郎左衛門尉  前回は故障を申し出ていた。随兵として供奉せよ。
    対馬四郎      故障とは何事か。重ねて招集せよ。
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追加して招集する者について
  随兵
    城六郎左衛門尉  加藤左衛門尉  各々、謹んで了承した。
    下野四郎  長門三郎左衛門尉   各々、病気の旨を改めて申請した。
    小野寺新左衛門尉  遠江国に戻っているとして御教書を返上した。
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  直垂を着す者
    薩摩左衛門尉  出羽十郎  三善太左衛門尉  山内三郎左衛門尉  萩原右衛門尉
    長雅楽左衛門尉   以上六人は進奉する。
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    大須賀五郎左衛門尉   病気の旨を申告。
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   ※支障の申告: 豊かな時代なら兎も角、貨幣経済の浸透に伴って中小御家人の暮らしは厳しさ
を増している。誰もが見せかけの栄誉に喜んで同調しているのではない。
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西暦1263年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
弘長三年
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8月 9日 丙辰
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吾妻鏡
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晴。 御所で連歌の歌合せあり。衆議判 (合議して優劣を判断する) と。
今日、左近大夫将監 北條義政朝臣が名越亭に移転した。また将軍家の御上洛について沙汰があった。
来る10月3日に鎌倉を出立するため行程の供奉人などについて定め、縫殿頭 中原師連が御所に持参して押垂範元 (5月9日を参照)を御前に呼び清書させた。これは京都朝廷に届けるのが目的である。
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   ※歌合せ: 詠み人を左右分けて一首ずつ提出し、批評し合って優劣を競うと共に歌人の実力を
問う会。
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  随兵
相模三郎北條時輔  武蔵前司北條時直の子息一人  越前前司北條時広
中務権大輔北條教時  左近大夫将監北條時村  越後四郎北條顕時  左近大夫将監北條公時   右馬助北條清時  足利上総三郎(吉良)満氏  上野介広綱  左衛門尉梶原太郎景綱
伊豆太郎左衛門尉実保  対馬前司佐々木氏信  薩摩七郎左衛門尉伊東祐能
周防五郎左衛門尉嶋津忠景  常陸左衛門尉二階堂行清  風早太郎左衛門尉康常
三浦介頼盛(三浦(佐原)盛時の嫡子)  小田左衛門尉時知  大多和左衛門尉義清
色部右衛門尉   加地七郎左衛門尉氏綱  和泉三郎左衛門尉二階堂行章
遠江三郎左衛門尉三浦泰盛  伊勢次郎左衛門尉行経  出羽弥籐次左衛門尉頼平
遠江十郎左衛門尉三浦頼連  完戸壱岐次郎左衛門尉家氏  武田五郎三郎政直
阿曽沼小次郎光綱  足立太郎左衛門尉直元  同、三郎左衛門尉元氏  河越次郎経重
長次郎左衛門尉義連  狩野新左衛門尉  加賀前司二階堂行頼  加藤左衛門尉景経
下野四郎左衛門尉景綱  海上弥次郎胤景  武石三郎左衛門尉朝胤 土肥四郎左衛門尉実綱
隠岐四郎兵衛尉行長  常陸修理亮  進三郎左衛門尉宗長  佐々木壱岐三郎左衛門尉頼綱
淡路又四郎左衛門尉宗泰  善太郎左衛門尉康定  小野寺四郎左衛門尉通時
出羽入道子息一人  和泉六郎左衛門尉景村  同、七郎左衛門尉景経
一宮次郎左衛門尉康有  出羽六郎右衛門尉景経  肥後新左衛門尉景茂
相馬孫五郎左衛門尉胤村  田中右衛門尉知継  長江四郎左衛門尉  石見次郎左衛門尉
出羽前司子息一人  長門三郎左衛門尉朝景  式部太郎左衛門尉光政
中條出羽四郎左衛門尉  三善五郎左衛門尉康家  信濃次郎左衛門尉行宗
周防四郎左衛門尉泰朝  平賀三郎左衛門尉惟忠  小野寺小次郎左衛門尉
内藤肥後六郎左衛門尉 武藤左衛門尉頼泰  内藤豊後三郎左衛門尉
大見肥後四郎左衛門尉行定  武田六郎子息一人  小笠原六郎子息一人
土屋新三郎左衛門尉  狩野四郎左衛門尉景茂  伊賀筑後四郎左衛門尉景家  長江七郎
足立籐内左衛門三郎  天野肥後三郎左衛門尉  遠山六郎 完戸壱岐左衛門太郎
氏家左衛門尉  善太左衛門尉  近江三郎左衛門尉頼重  阿波入道子息一人
伊賀次郎左衛門尉光房  平左衛門入道(平盛時)の子息一人(長崎光綱か)
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  水干を着すべき人々
相模守北條政村  武蔵守北條長時  武蔵前司北條朝直  尾張前司北條時章
越後守北條実時  大夫判官足利家氏  弾正少弼北條業時  武藤少卿景頼
長門前司笠間時朝  壱岐前司佐々木泰綱  佐渡大夫判官後藤基隆(基綱)の子
越中判官時業(宇都宮(横田)頼業の子)  信濃判官佐々木時清(泰清の嫡子)
和泉前司二階堂行方
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  御路次の間方々奉行人の事
   一.御出奉行   和泉前司二階堂行方  武藤少卿景頼
   一.御物具    対馬前司佐々木氏信  武藤少卿景頼  土肥四郎左衛門尉実綱
   一.御中持    木工権頭藤原親家   進三郎左衛門尉宗長  長次郎左衛門尉義連
   一.御宿の事   和泉前司二階堂行方  備中守二階堂行有  式部太郎左衛門尉伊賀光政
   一.御厩     薩摩七郎左衛門尉伊東祐能
   一.御笠     左衛門尉加藤景経   左衛門尉狩野四郎景茂
   一.御床子御敷皮 信濃次郎左衛門尉行経
   一.掃部所    伊豆太郎左衛門尉実保
   一.護持僧
   一.医陰道    以上の両條は和泉前司二階堂行方
   一.進物所    壱岐三郎左衛門尉佐々木頼綱
   一.釜殿     左衛門尉梶原太郎景綱
   一.砂金と紫染衣 和泉前司二階堂行方    式部太郎左衛門尉伊賀光政
   一.紺染衣    武藤少卿景頼       伊勢次郎左衛門尉行経
   一.恪勤侍    小野寺左近大夫入道光連
   一.御中間    信濃判官佐々木時清
   一.御力者    佐渡大夫判官後藤基隆
   一.朝夕雑色   小侍
   一.小舎人    侍所
   一.国の雑色   加賀前司二階堂行頼
   一.御乗替の事  長門前司時朝       越中判官時業(宇都宮(横田)頼業の子)
小野寺四郎左衛門尉通時  和泉六郎左衛門尉景村 善五郎左衛門尉康家
武石三郎左衛門尉朝胤   阿曽沼小次郎光綱
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西暦1263年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
弘長三年
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8月10日 丁巳
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吾妻鏡
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将軍家の御上洛に伴う進物所(食事の調理などを司る部署)などについて今日その沙汰があった。
来る10月の御上洛以前に京都に指示し畿内と西国の守護人に手配を命じるよう御教書を発する、と。
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西暦1263年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
弘長三年
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8月11日 戊午
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吾妻鏡
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雨、申刻 (16時前後) から晴。  廂の御所に於いて御連歌五十句の歌会が催され、掃部助押垂範元 (5月9日を参照)が五句づつの書記を務めた。
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前右兵衛督教定が五句を読み上げ、中務権少輔重教朝臣が一句、侍従基長が三句、遠江前司 北條時直が五句、右馬助清時が四句、河内前司親行が七句、武蔵五郎時忠が四句、加賀入道親顕が一句、左衛門少尉行佐が二句、左衛門尉行俊が一句、左衛門尉忠景が四句、将軍の御句が八句である。
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   ※廂の御所: 寝殿造りの場合、母屋の外側に付け加えられた広縁部分に該当する。ここに宿直
して将軍警護の任に当たったのが正嘉元年 (1257) に設けた廂番である。
当初は10人構成×6番、文応元年 (1260) から12人構成×6番に増強された。
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西暦1263年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
弘長三年
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8月12日 己未
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吾妻鏡
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小雨が続く。  昨夜の御連歌について、大夫判官後藤基隆 (基綱の二男で 基政の弟) が仰せを受けて合点 (評価の付点) を行なった。
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西暦1263年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
弘長三年
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8月13日 庚申
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吾妻鏡
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   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
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放生会に伴う供奉人招集の散状 (名簿を列記した書類) の整理が終わって回覧された。
支障を申し出た上で改めて催促された者、供奉を承知した者、更に支障を申し出た者 たちは今回に限り特に許可する、と。
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  随兵
    信濃次郎左衛門尉  前回の鎧直垂は辞退し、今回の随兵招集は承知した。
    上野太郎左衛門尉  祖母が他界してから余り日数が過ぎていない旨を申請。
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  直垂を着する者
    対馬四郎 支障の理由は前回に同じ (故障とは何事か、と叱責を受けている)。
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  官人(検非違使に任官している者)
    大夫判官 足利家氏は進奉を了承。
    信濃判官 二階堂行綱  軽服の日数は既に経過、進奉を了承。
    越中判官時業 (宇都宮 (横田) 頼業の二男)  先般了承と上申したが改めて病気を申請した。
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西暦1263年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
弘長三年
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8月14日 辛酉 
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吾妻鏡
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朝から曇で雨、雷鳴が数回あり。更に強い南風に加えて雨脚が益々強まり、午刻 (正午前後) には強風によって樹木が倒れ軒並み屋根が飛ぶほどになった。御所では西侍が倒壊し梁や桁まで吹き飛ばされた。また由比ヶ浜に停泊していた数十隻の船も破損したり漂流沈没する被害を受けた。
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今夕、御息所 (将軍正室 近衛宰子) が放生会に御参宮する供奉人について、提出の名簿に付点された。
子刻 (深夜0時前後) 、前太宰少弐で正五位下の藤原朝臣狩野為佐法師 (法名蓮祐) が死去 (享年83) 。
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   ※狩野為佐: 治承四年 (1180) に頼朝と共に挙兵し、函南で
自刃した 茂光→ 行光→ 為佐 (旧名為光) と続く狩野氏の嫡流。
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寛元四年 (1246) の宮騒動 (五代将軍 藤原頼嗣の更迭に伴う政変) に関与した嫌疑で評定衆を解任され、建長五年 (1253) に引付衆として幕政に復帰している。
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狩野氏本拠の情報は右画像をクリックして 狩野一族の本領を、石橋山合戦に敗れ 落ち延びる途中の函南で討たれた 北條時政の嫡子 宗時 および自刃した茂光らの経緯は 函南の宗時神社 を参照されたし。
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   ※由比ヶ浜: 貿易港としての和賀江島で被害を受けたか。和賀江島に関する情報は吾妻鏡の
貞永元年 (1232) 7月12日と建長六年 (1254) 4月29日の吾妻鏡を参照されたし。
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   ※樹木が倒れ: 西暦の9月17日に該当する。間違いなく台風襲来だろうね。
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西暦1263年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
弘長三年
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8月15日 壬戌
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吾妻鏡
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晴。鶴岡八幡宮で放生会。将軍家 宗尊親王の出御は通例の通り。相模守 北條政村、武蔵守 北條長時、左典厩 北條時宗は廻廊に待機し、弾正少弼 北條業時、相模三郎北條時輔、越後四郎北條顕時らは御桟敷に控えた。
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  まず中御所 (将軍正室 近衛宰子)が出御。
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   供奉人
備中次郎兵衛尉行藤(二階堂行村行義-行藤と続く 、政所執事)
佐々木壱岐四郎左衛門尉長綱(佐々木信綱-重綱-長綱と続く)
城中八郎秀頼  大泉九郎長氏  荻原右衛門尉定仲  長雅楽左衛門三郎政連
以上六人は直垂を着して帯剣し 御車の左右に供奉す。
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御後十人(下括りの布衣)
越前前司北條時広  刑部少輔北條時基  中務権少輔重教  日向前司宇佐美祐泰
縫殿頭中原師連  遠江四郎北條政房(時直の子)  加賀前司佐々木行頼 長次右衛門尉義連
佐々木孫四郎左衛門尉泰信  加地七郎右衛門尉氏綱(佐々木盛綱-加地信実-氏綱と続く)
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  次いで将軍家が出御。
   供奉人
先陣の随兵十一人
壱岐三郎左衛門尉佐々木頼綱(泰綱の子、六角氏当主)  加藤左衛門尉景綱
筑前四郎左衛門尉行佐  武藤左衛門尉頼泰  伊東八郎左衛門尉祐光
伊勢次郎左衛門尉行経  出羽三郎左衛門尉行資  五郎宣時  城六郎兵衛尉顕盛
相模七郎宗頼  陸奥十郎忠時
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  次いで諸大夫
  次いで殿上人
  次いで公卿
  次いで御車
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越中次郎左衛門尉長員  土肥四郎左衛門尉実綱  隠岐四郎兵衛尉行長
武籐新左衛門尉長胤  出羽十郎行朝  近江三郎左衛門尉頼重  一宮次郎左衛門尉康有
山内三郎左衛門尉通廉  三善太郎左衛門尉康定  鎌田三郎左衛門尉義長
薩摩左衛門尉祐家  伊東六郎左衛門三郎
    以上十二人は直垂を着して帯剣、御車の左右を進む。
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  次いで御後の十五人(下括りの布衣
弾正少弼北條業時  相模四郎北條宗政  相模左近大夫将監北條時村  遠江右馬助清時
相模三郎北條時輔  越後四郎北條顕時  木工権頭藤原親家  和泉前司二階堂行方
越中前司宇都宮(横田)頼業  対馬前司佐々木氏信  備中守二階堂行有(弓箭携行役)
周防五郎左衛門尉忠景(嶋津忠綱の三男、御沓の役)  鎌田次郎左衛門尉行俊(御笠の役)
進三郎左衛門尉宗長  善五郎左衛門尉康宗
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  次いで後陣の随兵十人
佐介越後四郎時治  畠山上野三郎国氏  大須賀新左衛門尉朝氏
越中五郎左衛門尉泰親  平賀三郎左衛門尉惟時  伯耆左衛門五郎清氏
佐々木対馬太郎左衛門尉頼氏  信濃判官次郎左衛門尉二階堂行宗
遠山孫太郎左衛門尉景長  長門左衛門八郎頼秀
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  官人
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十五日に体調不良のため退出し十六日も欠席した者
佐々木大夫判官足利家氏  信濃判官時清
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   ※下括りの布衣: 狩衣の裾を括った状態の装束。Wiki 画像 を参考に。
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   ※伊東六郎: 稲用氏の祖となった祐盛だと思うが未だ確認していない。
工藤祐経の妻 万劫 (伊東祐親の娘) は祐親が強引に (祐経と) 離縁させて 土肥遠平に再嫁させ 二人の間に産まれた娘 (前妻が産んだ娘だ、とも伝わる) が祐経の嫡子 祐時に嫁して祐盛を産んだという、恐ろしく複雑な縁戚関係となる。
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血の繋がりの有無を確認すべきなのだが、系図では 「祐経の孫娘が祐経の息子と婚姻して祐盛を産んだ」 という関係になり、これを忌避した北條氏が祐盛の家督相続を認めなかった。
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結果として六男の祐光が伊東荘と地頭職の相続を許され、祐盛は分家して稲用氏 (稲持氏の系か) の祖となった、と伝わる。かなり複雑なので、気になる人は「伊東氏の系図」で確認してね。
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西暦1263年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
弘長三年
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8月16日 癸亥
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吾妻鏡
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晴。 将軍家の (八幡宮) 御参宮は昨日と同じ。
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 競馬の禄(報奨の意味か)を取る人々
   越前前司北條時広  相模左近大夫将監北條時村  相模三郎北條時輔  刑部少輔北條時基
   遠江右馬助北條清時(時房時直-清時と続く)
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西暦1263年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
弘長三年
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8月25日 壬申
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吾妻鏡
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晴  将軍家の御上洛に関し、台風により諸国の穀類が被害を受けたことを考慮して農民の負担を避けるため延引すると定め、今日その旨の御教書二通を六波羅に送った。一通は京畿の御家人に通告する内容、一通は左親衛 北條時頼の分国の者への通告で、内容は次の通り。
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御上洛の事、大風によって延期するとの仰せが下った。その旨の使節を派遣する事になるが、まず御家人に宛てて通告する。仰せの内容は以下の通り。
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        弘長三年八月二十五日   武蔵守 北條長時 相模守 北條政村
            陸奥左近大夫将監 北條義政 (六波羅北方) 殿
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来る10月の御上洛が延期となった。御上洛に伴って負荷させた年貢は返還する趣旨を摂津と若狭の国中に通知するよう 仰せに従って通達する。
        弘長三年八月二十五日   武蔵守 北條長時 相模守 北條政村
            陸奥左近大夫将監 北條義政 (六波羅北方) 殿
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今日、春日部左衛門三郎泰実が美濃国指深庄の地頭職を解任となった。
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これは指深庄の沙汰人 (実務執行者) が地頭の非法を訴え出た件で、泰実は六波羅の召喚状にも応じていないためその内容を注進する結果となり、対処として陸奥左近大夫将監に通達したものである。
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また法印房源と権律師覚乗が相州禅室 北條時頼邸で大般若経を信読 (省略せず全てを読む事) 、相州禅室の病気への対応である。また亥刻 (22時前後) に甘縄で火災があり、北斗堂周辺の民家が多く被災した。
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   ※指深庄: 美濃国武儀郡、現在の美濃加茂市伊深(地図)を中心にした摂関家領の荘園。
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   ※北斗堂: 甘縄の北斗堂に関しての数説は何れも確証が乏しく、位置も確定していない。
鎌倉の北斗堂としては八幡宮境内にあった堂と、大倉 (現在の十二所) の 明王院 (公式サイト) の堂が知られている。
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ただし明王院は単立ではなく、三代将軍実朝が建立した大慈寺 (廃寺) の一部だったと考える説もあるようだ。この微妙な部分は理解でき。る
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西暦1263年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
弘長三年
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8月26日 癸酉
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吾妻鏡
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曇。 去る14日の大風によって諸国が被害を受け、百姓の悲嘆が蔓延している。
農民を慰撫するため将軍家の上洛を延期し、遠江十郎左衛門尉三浦頼連を使節としてその旨を仙洞 (後嵯峨上皇の御所) に言上させた。
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西暦1263年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
弘長三年
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8月27日 甲戌
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吾妻鏡
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晴。 申刻 (16時前後) からの風雨が夜になって激しくなり由比浦 (和賀江の港湾施設を含む) の船舶が沈没し、数え切れない程の死人が浜に流れ着いた。また鎮西 (九州) の乃貢 (年貢とほぼ同義 ) の運送船61艘が伊豆の海で同時に漂流する被害を受けた。
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西暦1263年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
弘長三年
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9月 3日 庚辰
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吾妻鏡
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晴と陰。 午刻 (正午前後) に従五位上行の刑部権少輔大江朝臣政茂が死去した。
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西暦1263年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
弘長三年
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9月10日 丁亥
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吾妻鏡
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切銭に関しての沙汰あり。近年になって流通頻発が報告されているが、今後は使用を禁止するとの仰せが左典厩 北條時宗らに下された。内容は次の通り。
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  切銭の事
近年、多くの使用が報告されているが今後の使用は禁止する。仰せにより周知を図るべき旨通告する。
   弘長三年九月十日  武蔵守 北條長時 相模守北條政村   加賀前司 二階堂行頼 殿
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   ※切銭: 民間に流通した銭の一種。銅を細長く鋳造し必要に応じて切り取り、銭として使って
いた。また、磨り減ったり欠損した銅銭を差す (含む) 場合もある。
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   ※二階堂行頼: 前年から政所執事に任じたが今年11月に病没し、引退していた父の 行泰が旧職
に復帰することになる。
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西暦1263年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
弘長三年
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9月12日 己丑
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吾妻鏡
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一晩中激しい雨、戌刻 (20時前後) に雷鳴あり。武蔵大路に霹靂 (落雷) が卒塔婆を断裂し、その上三尺余り (約1m) が焼け焦げた。凄まじい音が近隣に響き、多くの者がこれを聞いた。
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今日、遠江十郎左衛門尉が京都より帰参した。
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   ※武蔵大路: 武蔵大路の名が吾妻鏡に現れている一つが寿永二年 (1183) 9月16日。
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  桐生六郎が 足利俊綱の首を持って鎌倉に参着、まず武蔵大路から使者を 梶原
  景時
宛に送ったが鎌倉には入れず深沢から腰越に向かえと命令された。

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主人である籘姓足利氏の当主 俊綱の首を携えた桐生六郎は下野国足利から武蔵国を経て鎌倉街道 (正しくは鎌倉時代以後の呼称) を南下し、常楽寺の東から寺分を通って 梶原邸に使者を送っている。
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また太平記に拠れば、弘安三年 (1333) に幕府を滅亡させた合戦でも寺分の泣き塔 (洲崎の合戦 (別窓) を参照)付近から梶原を経て化粧坂に続くルートで激しい消耗戦が行われており、ここが大量の荷駄や軍馬が移動可能な武蔵大路に沿った地点だった。
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ただし、武蔵大路は固有名詞ではなく「鎌倉と武蔵国を結ぶ大路」という普通名詞だった側面がある。化粧坂と梶原を経由する ルートA の他に、常楽寺 (別窓) の横を通って 畠山重忠 が殺された 二俣川の合戦場 (別窓) を経由する ルートB も含まれるから「武蔵国と鎌倉を結ぶ大路の鎌倉市内部分」と受け取る方が正しいのかも知れない。右上は武蔵大路に関わる概略地図。クリック→ 別窓で拡大
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   ※卒塔婆: 故人の追善供養を目的とした現代の卒塔婆ではなく、仏舎利などを納めた信仰対象
の石塔や多宝塔や五重塔まで含む普通名詞として使っている例もあり 「三尺ほど焼け焦げた」だけでは特定できない。
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   ※遠江十郎 頼連: 佐原義連盛連→ 時連→ 頼連と続く。8月25日に鎌倉から六波羅に使者を
派遣しており、この使者が (名前の記載はないが) 頼連だと思う。
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西暦1263年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
弘長三年
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9月13日 庚寅
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吾妻鏡
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晴。 寅刻 (朝4時前後) から将軍家 宗尊親王が体調不良となった。
今朝、将軍家が側近らを従えて山に登った際に昨夜の落雷で焼けた卒塔婆を眺めた事から、天変に対する謙虚な姿勢について陰陽師から勘文 (上申書) の提出があった。
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   ※山に登り: 12日の記事から考えると扇ガ谷の平地との高低差50mの源氏山 (標高約80m、
)付近の可能性が高いと思うが卒塔婆の位置や形状を含めて想像の域を出ない。
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源氏山の最高地点は 頼朝像のある公園から約300m南東のトイレがある広場 (地図) で標高は約73m、早朝に宗尊親王が散策した卒塔婆の場所がこの地点なら、御所から徒歩で往復約3.5km。旧暦の9月13日は西暦の10月13日、早朝の散策は楽しそうだね 。
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西暦1263年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
弘長三年
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9月14日 辛卯
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吾妻鏡
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晴。 将軍家の病気に対応し、安倍晴宗が御所で泰山府君祭を勤仕した (初めての勤仕) 。流れ星が確認されたため効験は顕著であろう、と。
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   ※泰山府君祭: 仏教の護法善神「天部」の一人焔摩天に従う眷属で陰陽道の主祭神、生命を司
る神でもある。天曹と地府を中心とした十二座の神に金幣、銀幣、素絹、鞍馬、撫物などを供えて無病息災と延命長寿を祈祷する祭祀。
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西暦1263年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
弘長三年
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9月26日 癸卯
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吾妻鏡
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晴。 入道陸奥五郎平実泰(北條実泰、法名浄仙) が死去した (享年56) 。
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西暦1263年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
弘長三年
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10月 1日 戊申
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吾妻鏡
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晴。 大蔵権大輔泰房が御所南庭で天地災変祭を催した。先月12日の落雷に対応する祈祷である。
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   ※安部泰房: 福岡県八女市に残る宝治二年 (1248) 9月13日付の地頭職争論を決裁した関東下知
に 「上妻庄内蒲原と次郎丸の惣地頭安部泰房」との記載がある。中堅以上の陰陽師か。
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   ※関東下知状: 執権と連署および担当する奉行人が将軍の意を受ける形で発行する命令書、
公式文書。
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西暦1263年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
弘長三年
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10月 8日 乙卯 
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吾妻鏡
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晴。 和泉前司 二階堂行方が湯治の最中に突然中風を煩って病床に伏した、と。
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西暦1263年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
弘長三年
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10月10日 丁巳
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吾妻鏡
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評定衆による会議があり、六波羅検断などについて決定があった。六波羅に勤務する佐渡入道 (使節として鎌倉に在り) を召し出して即刻に通達した。
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地頭を置いていない権門領などでの強盗犯は守護所からの通告に従って召し出すか、或いはその所領から追放しなければならない。それが出来ない場合は新たに地頭を補任する旨を、本所 (最終権限を持つ荘園領主) に申し入れること。また、地頭が存在する土地なのに強盗犯の引渡しがない場合はその地頭職を改易する旨を通達し、さらに経緯の明細を報告せねばならない。
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今日の明け方に正五位下行石見守大江朝臣能行が死去した。
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   ※六波羅検断: 鎌倉時代中期以降の訴訟制度に関わる規則の一つ、検断 (刑事犯の検挙、裁判、
執行) などについて定めている。
東国の直轄領に於ける検断は幕府の侍所、京都では六波羅検断方、地方では各国の守護と地頭の任務および権限とし、本所に対する地頭の補任まで言及している。
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   ※権門: 官位官職が高く大きな勢力を持っている一族 (例えば庶流を除く藤原氏など) を差す。
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西暦1263年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
弘長三年
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10月14日 辛酉
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吾妻鏡
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今日の評定衆による会議には出羽前司入道道空 二階堂行義が初めて出仕した。この一両年は病気のために閉じ込もる状態が続いていた。
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   ※一両年: 文応元年 (1260) 7月に出家し道空を名乗っている。文永五年 (1268) 閏正月に死没す
る。行義が評定衆に任じたのは暦仁元年 (1238) 4月だから勿論初めての出仕ではなく「久し振りに」を意味するのだろう。
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西暦1263年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
弘長三年
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10月17日 甲子
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吾妻鏡
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明年正月の御的始めの射手について指示があり、参勤が命じられた。北條実時が重服のため左典厩 北條時宗一人による御奉書 (将軍の意向を命令する文書) による。
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   ※実時の重服: 9月26日に実父の 北條実泰が死没している。
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西暦1263年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
弘長三年
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10月25日 壬申
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吾妻鏡
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晴。 今夜、中御所 (将軍正室の 近衛宰子) が武蔵守 北條長時亭に出御した。御外戚の大臣法印澄圓が死去した事に因る御軽服 (軽い服喪) である。この上綱 (高位の僧) は光明峯寺禅閤の息子である と。
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   ※光明峯寺禅閤: 四代将軍 藤原頼経の父でもある 九条道家を差す。九条道家は自らが創建した
東福寺の東の谷に光明峯寺を創建し、この寺に葬られた。南都 (奈良) 最大の「東」大寺と興隆を極めた興「福」寺から一字づつを取って東福寺と名付けた、と伝わっている。
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光明峯寺は応仁の乱 (1467~1477年) で焼失したまま廃寺となった。同地の最勝金剛院 (参考サイト地図)には日記 玉葉を遺した 藤原 (九条) 兼実の廟所もある。
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西暦1263年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
弘長三年
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10月26日 癸酉
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吾妻鏡
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雨。 故奥州禅門 北條重時 三回忌の仏事が極楽寺で行われた。導師は宗観房
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   ※宗観房: 西山浄土宗の僧で 証空 (共にWiki) の弟子。この記載が 弘長三年時点の極楽寺が浄土
宗寺院であり 「文永四年 (1267) に極楽寺に入った 忍性が真言律宗に改めた」 事の傍証となった。
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ただし、極楽寺が保存する古い仏具には建長七年 (1255) の年紀と共に極楽律寺の文字があり、忍性の入寺より前には既に真言律宗だったと考える説もあって真実は判然としない。
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西暦1263年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
弘長三年
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10月27日 甲戌
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吾妻鏡
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晴、翌暁に雨。  今日、朝廷に貢上する馬を観覧する儀式が行われた。
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西暦1263年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
弘長三年
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10月28日 乙亥
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吾妻鏡
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晴。 将軍家 宗尊親王が詠んだ五百首の和歌に民部卿入道融覚 藤原為家が評価点を加え、和歌の奥義を説いた書状一巻を添えて届いた。更に研鑽を積み努力するよう諷諫 (控えめの忠告) を含んでいる。
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   ※五百首: 将軍 宗尊親王は為家の評価を求め7月5日に360首、7月23日に500首を送っている。
政務に実権を持たず和歌を詠むだけが生き甲斐の若い傀儡将軍、哀れではあるが。
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西暦1263年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
弘長三年
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11月 2日 己卯
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吾妻鏡
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晴。 左衛門少尉 清原眞人満定が急死した (享年69) 。
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西暦1263年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
弘長三年
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11月 8日 乙酉
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吾妻鏡
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相州禅室 北條時頼が体調を崩したため 御祈祷を催した。まず今日中に等身大の千手菩薩像を彫り上げ、松殿僧正良基を導師として開眼供養および伴僧12人による昼夜を通した千手陀羅尼の読誦を行なった。
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僧正は五穀を断ち伴僧は一日に三度の行水による潔斎を繰り返した。
続いて尊家法印が北殿で延命護摩を修し、更に陸奥左近将監 北條義政が一日で等身大の薬師如来像を造立し、尊家法印を導師として供養を遂げた。
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また尊海法印 も等身大の薬師如来画像を携えて七ヶ日の三嶋大社参籠を行なうため今暁に出発した。三時護摩 (前世、現世、来世を供養する) を修し大般若経を信読 (転読の対語、全てを読む) する、と。
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   ※千手菩薩像: 右上は 建長寺から鎌倉国宝館に寄託し収蔵している千手観音坐像 (像高97cm)
     クリック→ 別窓で拡大表示
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これが今回病気平癒を祈った仏像と言われるが完成度の高さを考えれば一日では無理。時頼が建長寺創建 (1253年) に合わせて造らせた像と考えるべき、か。
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この像とは別に、建長寺法堂に本尊として祀られている 千手観音坐像 (別窓表示) の完成度は少々雑で「今日中に彫り上げた」と言われても納得できるレベルに思える。胎内を調べて収納物が確認できれば面白いが、個人的には参拝して合掌するほどの像ではない、と思う。軽く調べた限りでは、専門家の意見もどちらが弘長三年の作品か、断定には至っていないらしい。
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   ※建長寺本尊: 創建以来の火事や地震で被災し創建当時の本尊
も早くに失われた。右は現在の本尊、室町時代の作。  画像をクリック→ 別窓で拡大表示
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禅寺の本尊は釈迦如来が多い中で建長寺は地蔵菩薩。建立したのはかつて処刑場があった通称 「地獄ヶ谷」 で斬首された魂を救い上げる地蔵菩薩を本尊とした 「伽羅陀山心平寺」が存在していた事に由来している。
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元々は心平寺の本尊をそのまま再用していたらしいが本来の姿は、既に想像すらできない。
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もう一枚の本尊画像は建長五年 (1253) 10月25日の吾妻鏡に掲載しておいた。
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西暦1263年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
弘長三年
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11月 9日 丙戌
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吾妻鏡
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加賀前司 二階堂行頼の病状が深刻なため政所執事の実務は筑前三郎左衛門尉行実 (行頼の弟) が代行し対処するよう仰せがあった。
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   ※二階堂行頼: 前年に隠居した父の 行泰から政所執事を継承した直後の11月10日に死没、行泰
が復帰し再任されるのだが...行泰も文永二年 (1265) 10月に死没 (享年54) 。
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西暦1263年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
弘長三年
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11月10日 丁亥
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吾妻鏡
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前加賀守従五位下藤原朝臣 二階堂行頼が死去した (享年34) 。
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西暦1263年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
弘長三年
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11月13日 庚寅
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吾妻鏡
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最明寺禅室 北條時頼の病状が危急となり、尊家法印が法華護摩を修した。松殿僧正は山内の亭で五穀を断ち回復を祈る祈祷を行なった。
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西暦1263年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
弘長三年
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11月15日 壬辰
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吾妻鏡
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禅室 (時頼) への祈祷として松殿僧正が今日から不動護摩を開始、また三時護摩 (11月8日を参照) も修された。
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西暦1263年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
弘長三年
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11月16日 癸巳
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吾妻鏡
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晴。 午刻 (正午前後) に御息所 (将軍正室の 近衛宰子) が御着帯。験者は大納言僧正良基 (香染の法服、伴僧二人、大童子を伴う) 、医師は玄蕃頭の丹波長世朝臣 (布衣) 、御祓いは陰陽権助安倍晴茂朝臣 (束帯) 、宿曜師 (天文暦学者) は大夫法眼晴尊、またその家族も参上。太宰少弐 武藤景頼がこの件を奉行した。
戌刻 (20時前後) に地震あり。
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   ※御着帯: 翌文永元年 (1264) 4月29日に生まれるのが七代将軍となる惟康親王。3歳で征夷大
将軍となり臣籍降下、第88代後嵯峨天皇の孫として後嵯峨源氏を名乗った。
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これは元寇という非常事態に対応する八代執権 北條時宗の政策で、蒙古襲来を治承の源平合戦や承久の乱に置き換えて惟康を 頼朝に准 (なぞら) え、時宗は自らを偉大な先祖 北條義時の生まれ変わりとして武士階級を統合し国難に対処する意図があった、らしい。
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源姓を称した惟康は正二位に昇って頼朝の再現となり、時宗は義時に倣って源氏将軍を補佐すると共に北條得宗家による支配の正当性を論理的に支えようとしたのだが...時宗の死後に実権を握った陪臣 平頼綱は一転して惟康を皇籍に復帰させた。
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これは北條得宗中枢が成人した惟康の長期在任を嫌い、後深草上皇の皇子 久明親王を新将軍とする下準備だったと考える説が現在では有力である。
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そして26歳になった正応二年 (1289) 9月に惟康は京都に送還され、北條一族の滅亡を見る事もなく、嘉暦元年 (1326) 10月に満65歳で崩御する。
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   ※香染、他: 香染は丁子 (ちょうじ) の実を煎じて薄紅黄色に染めた衣類、伴僧は導師に従い補
佐を担当する僧、大童子は寺院で召し使う童子の中で中位の者または年長の者。
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   ※惟康送還: 真実は不明だが、送還の理由は将軍正室 近衛宰子の密通である。その相手は彼女
の護持僧を務めた大納言僧正良基、従一位摂政関白太政大臣だった 松殿基房の孫である。事件は吾妻鏡が断絶する直前の7月に発生、近衛宰子も産まれた娘も同様に送還されてしまう。
密通は真実か、政治絡みか。鎌倉時代を通じて最大のスキャンダルとなる。
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西暦1263年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
弘長三年
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11月17日 甲午
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吾妻鏡
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晴。 供養の放光仏 (体や白毫から光を放つ仏) を描いた。尊家法印の指示により御産まで連日の供養を行なう。
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西暦1263年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
弘長三年
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11月19日 丙申
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吾妻鏡
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相州禅室 北條時頼の病状が危急となり、心静かに臨終を迎えるため最明寺北邸に転居を決めた。
尾籐太 尾籐景氏 (法名浄心) と宿谷左衛門尉 (光規、法名最信) に訪問者を謝絶するよう命じた。
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   ※尾籐と宿谷: 共に時頼の近臣で謂わば腹心。
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西暦1263年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
弘長三年
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11月20日 丁酉
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吾妻鏡
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早朝、北條時頼が北殿に渡御し、臨終を迎える心を整えた。昨日厳命を受けた両人が固くそれを守って人々の来訪を禁じたため静かな環境が保たれた。
看病のために以下の6~7人、即ち武田五郎三郎 (政綱) 、南部次郎 (実光、光行の二男) 、長崎次郎左衛門尉 (光綱) 、工藤三郎左衛門尉 (光泰) 、尾籐太、宿谷左衛門尉、安東左衛門尉 (光成) が祇候するのみである。
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西暦1263年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
弘長三年
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11月22日 己亥
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吾妻鏡
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晴。 未刻 (14時前後) に小町の一体が焼失し、南風に煽られた煙が御所を覆った。念のため御車二領を南庭に引き出して避難に備えたが、武蔵前司 北條朝直邸の前まで焼けて鎮火した。
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戌刻 (20時前後) 、入道正五位下行で相模守平朝臣 北條時頼 (法名道崇、37歳) が最明寺北亭で死去。臨終に当たっては袈裟 (法衣) を着し縄床 (座禅に用いる縄の座布団) で坐禅したまま心を乱す気配が見えなかった。  辞世に曰く、
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  業鏡高懸、三十七年、一槌撃砕、大道坦然。   弘長三年十一月二十二日 道崇珍重々々
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政務に任じていた時には武略によって将軍を補佐し仁政によって民を慈しんだ。その偉業は天意に達し人望を高めた。終焉の際には手に印を結び、口に頌 (仏の賞賛) を唱えて即身成仏の瑞相を現した。
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(時頼は) 神仏の権化にして再来、道俗貴賤は群を成して拝礼した。尾張前司 北條時章、丹後守 安達頼景、太宰権少弐 武藤景頼、隠岐守 二階堂行氏、城四郎左衛門尉 安達時盛らが哀しみの余り出家剃髪、他にも御家人の出家は記録できないほどの数だが、 (幕法に背くため) 全員が出仕停止となった。
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また武蔵前司 北條朝直朝臣も剃髪しようとしたが、武州弾正少弼 北條業時が制止して断念させた。
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   ※辞世: 37年の罪業を映す鏡 (業鏡) を一撃で砕いたら思いがけぬ大道が現れた。ほどの意味。
ただし、時頼の自作ではないとの説もある。
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西暦1263年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
弘長三年
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11月23日 庚子
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吾妻鏡
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晴。 酉刻 (18時前後) に相州禅室 北條時頼 の葬礼あり。
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今日御息所 (将軍正室 近衛宰子)安産の祈祷などが行なわれた。
奉行の太宰少弐 武藤景頼が出家したため縫殿頭 中原師連がこれを代行、また御験者大納言僧正、護持僧大弐法印と医師長世朝臣は昨夜まで最明寺禅室 (時頼) の看病と治療に任じたため御産への関与を辞退した。
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   ※時頼の墓所: 紫陽花寺として有名な明月院の山門の左手に
ある宝篋印塔が埋葬地とされている。右画像をクリック→ 別窓で拡大表示
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分骨墓として一族出自の地に近い 伊豆長岡の最明寺にも質素な層塔がある。
同じ伊豆長岡の 北條寺には 北條義時の墓が、狩野川を挟んで東側の 願成就院には始祖の 北條時政の層塔が保存されている。時政は隠居を強いられた出自の地に眠っているが、伊豆長岡にある義時と時頼の墓所は地元の願いを容れた分骨墓と伝わっている。
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西暦1263年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
弘長三年
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11月24日 辛丑
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吾妻鏡
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晴。 将軍家 宗尊親王が最明寺禅室 (時頼) を悼んで十首の和歌を詠んだ。
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西暦1263年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
弘長三年
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11月25日 壬寅
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吾妻鏡
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寅刻 (朝4前後) に月が房第三星 (さそり座の頭部) の軌道から四寸の所を犯した。この星は左右馬寮 (御所の厩の馬や馬具を司る役所) を示すもので、 (形式上その官職に任じている) 左典厩 北條時宗 は特に注意し、慎み深くあるべき旨を司天 (天文担当) が上申した。
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西暦1263年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
弘長三年
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11月28日 乙巳
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吾妻鏡
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浄土真宗の宗祖 親鸞死没 (享年89) 。臨終は現在の京都市 中京区虎石町の 御池中学校 (地図) にあったと伝わる実弟 尋有の善法院、廟所は鳥辺野の 大谷本廟 (公式サイト) とされる。
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西暦1263年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
弘長三年
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12月 9日 乙卯
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吾妻鏡
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   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
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晴。 夜に入り右少弁経任朝臣が仙洞 (後嵯峨上皇) の使節として鎌倉に下着した。
最明寺禅室 北條時頼の死去に当たっての弔問である。
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   ※後嵯峨上皇: 後深草天皇に譲位した寛元四年 (1246) には対立していた 九条道家の失脚に伴い
院政は安定していた。宝治合戦 (1247年6月) の三浦滅亡直後には幕府と朝廷の間で円満な関係を保つ合意が交わされた。吾妻鏡の同年6月26日に以下の記載がある。
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今日内々御寄合あり。京都朝廷との関係は特に円満を心がけるよう沙汰があった。左親衛北條時頼、前右馬権頭北條政村、陸奥掃部助北條実時、秋田城介安達義景が参集、兵衛入道諏訪盛重が奉行に任じた。
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幕府は後嵯峨上皇の院政に全面協力し、朝廷は摂関将軍 (藤原頼経頼嗣) の後継として宮将軍 宗尊親王を下向させた。
朝廷と幕府が互助関係を維持した、数少ない時代の一つである。。
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今回鎌倉に入った右少弁中御門経任は特に調整能力に長けた中級貴族。上皇の側近として余すところなく能力を発揮し、建治三年 (1277) には権大納言まで昇っている。
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西暦1263年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
弘長三年
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12月10日 丙辰
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吾妻鏡
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晴。 源亜相が勅使に対面した。また秋田城介 安達泰盛も同様に拝謁した。
今日、諸国の守護人に宛てて御教書を発行した。これは相州禅室 (時頼) の死去に伴う出家を禁じる旨を既に通達しているにも拘らず違反する者の噂がある事に因る。内容は次の通り。
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相模入道の逝去に伴う御家人の出家を禁じる旨の通達にも拘らず背く者が輩出している。管轄下の御家人で出家した者は文書で報告するよう、仰せにより通達する。 弘長三年十二月十日  某殿
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丑刻 (深夜2時前後) に若宮大路一帯が焼亡し、呪師勾当の辻から出火して大学の辻子まで延焼した。その間にある家屋は全て焼失、太宰少弐 武藤景頼入道宅もその中に含まれる。
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   ※源亜相: 亜相は大納言の唐名、源亜相は建長四年 (1252) 3月に宗尊親王に従って鎌倉に入り
側近を務めると共に足利氏庶流の 吉良長氏の娘と婚姻。これにより将軍 宗尊親王は得宗+足利氏連合に与すると同時に、反得宗+足利氏グループとも接点を持つ形になった。
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この動きが宗尊親王と妻子の京都更迭を招き、文永九年 (1272) の 二月騒動 (Wiki) の引き金になった、と考える説もある。
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   ※吉良長氏: 足利宗家三代当主 義氏の庶長子で吉良足利氏の祖。摘孫にあたる三河西条城主の
吉良貞義が 楠木正成討伐に向かう宗家の 足利高氏と面談、鎌倉からの離反を強く促して手を握ったと伝わる。
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   ※呪師勾当の辻: 呪師は寺院に属して行法などを演じて解説する猿楽師、勾当は記録作業など
に任じる官職。合わせて「勾当を名乗る呪師が住む四つ辻」になり、具体的には若宮大路幕府政庁の北端を若宮大路の西側に延長した地点から200m南の小道 (大学小路) の間を差すらしい (概略地図から に通じる裏道) 。
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西暦1263年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
弘長三年
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12月11日 丁巳
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吾妻鏡
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連署の相模守 北條政村と執権の武蔵守 北條長時が勅使に拝謁した。
今日、祈祷に任じる大阿闍梨安祥寺僧正の宿舎として和泉前司 二階堂行方の家が指定され、中原師連が奉行の任にあたる、と。
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西暦1263年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
弘長三年
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12月13日 己未
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吾妻鏡
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晴。今暁に (勅使の) 右少弁経任朝臣が帰洛の途に就いた。鎌倉滞在は僅かに四日間だった。
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西暦1263年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
弘長三年
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12月16日 壬戌
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吾妻鏡
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壬戌 晴。 最明寺殿 北條時頼の死去により鎌倉に戻っていた六波羅 (北方) の陸奥左近大夫将監 北條時茂朝臣が帰洛の途に就いた。京都の治安などを警戒せよとの仰せがあり出立を急いだものである。
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西暦1263年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
弘長三年
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12月17日 癸亥
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吾妻鏡
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晴。 戌刻(20時前後)荏柄社 (現在の荏柄天神社地図) の前から失火し塔之辻まで延焼した。
御息所 (将軍正室 近衛宰子) の御産所と定めていた宮内権大輔 長井時秀の家も被害を受けた。
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   ※塔之辻: 主要道の交差点などに石塔を建ててランドマーク
に利用していたと伝わる。鎌倉には7~8ヶ所あったらしいが現存するのは由比ヶ浜古道のみ。
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延焼地点の塔之辻は荏柄天神社から近い小町大路と六浦道 (金沢街道) が交差する筋替橋付近 (地図) と推定される。国立横浜大付属校の校庭で途切れている西大路と六浦道の交差点である。
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3月8日、11月22日に続いて三度目の大火であり西暦なら1月17日に該当する、寒さがピークを迎える時期だ。
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右は鎌倉で最も知名度の高い由比ヶ浜古道に残る塔之辻(クリック→ 別窓で拡大)
     更に詳細は 塔之辻から小町口へ続く古道 を参照されたし。
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   ※西大路: 筋替橋から校庭を経て北側の来迎寺や八雲神社の先まで伸びていた古道。
最近は大倉御所の西御門を含めた古道の発掘調査が行われていた。関連資料は貞応三年 (1224) 7月5日、嘉禎四年 (1238) 1月10日、宝治元年 (1247) 6月5日の吾妻鏡に地図と併せて詳細を記載して置いた。
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西暦1263年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
弘長三年
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12月24日 庚午
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吾妻鏡
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晴、夜になって雨。 今日評定衆が相模守 北條政村邸に集まって御息所の御産所と御方違えなどの協議が開かれた。陰陽師らを呼んで各々の意見を求めた。
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御産所に渡御するのは来る24日と定めていたが、安倍晴茂朝臣は 「その日は没日 (陰陽道で全てに凶とされる日) なので憚 (はばかり) あり」 と述べ、業昌は 「建長六年 (1254)4月24日丙寅の没日に御産所に入った大宮院には何の問題もなかった」 と語った。それが確認できたため取り敢えず議論は収束した。
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次に御産所に予定していた宮内権大輔 長井時秀の家が焼失したため改めて指定した 北條公時邸と 北條義政邸 (共に大夫将監) について、晴茂が「閇杯八座方に当たるので憚りあり。」との指摘があった。
これに対して三河前司 (清原) 教隆「大臣家などの古い勘文 (上申書) にその例は見られず、また御方違えは29日が望ましい。」と異論を述べた。
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業昌は「29日は往亡日 (全てに厄日) なので憚るべきで、これは通常の御方違えではなく産所についての重要な決定である。」と述べた。清原教隆と安倍晴茂朝臣が話し合って「特に問題なし」と申し出したが、北條政村は再び「憚るべきだろう」との意見を容れた。
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   ※清原教隆: 論語や孝経が専門の儒者。四代将軍 藤原頼経と六代将軍 宗尊親王の侍講 (君主を
徳育する教師) を務めて引付衆に任じ 北條実時 金沢文庫 (Wiki) 創設にも大きな影響を与えた。
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翌年京都に帰って大外記 (詔勅や上奏文の訂正や起草、先例などの勘考に任じる官職) を務め、文永二年 (1265) 7月に65歳で死去している。
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西暦1263年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
弘長三年
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12月28日 甲戌
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吾妻鏡
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晴。 御息所 (将軍正室の 近衛宰子)が御方違えのため御産所に定められた左近大夫将監 北條公時朝臣の名越邸に入御した。
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   ※名越邸: 元は 北條時政の屋敷。泰時の異母弟 朝時北條時章-公時と続く名越流北條氏が継
承した。北條義時の正室 姫の前 (比企朝宗の娘) が産んだ長子が朝時だった関係から名越流北條氏は「我こそが嫡流」の意識が強く、朝時の子は長男 光時、四男時幸、六男教時が謀反の嫌疑で粛清されている。館の位置などは吾妻鏡の承元二年 (1208) 1月16日を参照されたし。
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西暦1263年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
弘長三年
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12月29日 乙亥
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吾妻鏡
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晴。 辰刻 (朝8時前後) に御息所が名越邸から御所に還御した。午刻 (正午前後) に六波羅北方の大夫将監 北條時茂の室が妊帯を着け、若宮僧正 隆弁がこれを加持 (祈祷と同じ意味) した。
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   ※時茂の室: 時茂は単身赴任か、或いは妊娠中の妻が任地の京都から鎌倉下向に同道したか。
ちなみに時茂の妻は従三位 兵部卿の公卿 平基親の娘、実家は当然京都である。
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2025.12/25 16時半、フォントサイズと行間と文脈の校正がここまで終了。
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西暦1263年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
弘長三年
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新院は 後深草
本院は 後嵯峨
弘長三年
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新院は 後深草
本院は 後嵯峨
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前年・弘長元年(1262)の吾妻鏡へ       翌年・弘長四年(1264)の吾妻鏡へ