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文永三年 (1266年)
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西暦・天皇
和暦・月日
吾妻鏡に記載してある内容の意訳、関連する情報、補足事項など
西暦1266年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
文永三年
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1月 1日 乙未
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吾妻鏡
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晴、風が静まった。相模守 北條時宗 (前年3月28日に相模守に就任) の沙汰による椀飯あり。
御簾を揚げたのは前大納言 土御門顕方卿、御剣役は越前前司 北條時広、御調度は右馬助清時 (時直の嫡子) 、御行騰は秋田城介 安達泰盛。献上の御馬は五疋、暗くなってから西の空に彗星が現れた。
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   ※椀飯 (おうばん) :饗応のための献立、食事を摂る儀式や行事。大判振る舞い、の語源。
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   ※調度 (ちょうど) : 弓箭。将軍の代理として武具を携える。
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   ※行騰 (むかばき) と沓: 乗馬の際に着ける袴カバーと靴。Wiki 画像を参考に。
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   ※年令:六代鎌倉将軍 宗尊親王 (第88代後嵯峨天皇の第一皇子) は24歳、
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五代執権 北條時頼は三年前に死没 (享年36) 、 六代執権 北條長時は二年前に死没 (享年34) 、現在の七代執権は 六代執権長時を補佐していた連署の 北條政村 61歳、
次期の八代執権に就く 北條時宗は現在は連署で15歳、
六波羅北方は 北條時茂 26歳、南方は前年から時宗の庶兄 北條時輔 19歳が着任、
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古参の評定衆 二階堂行義は64歳、実務に堪能な評定衆 二階堂行方は61歳、
安達泰盛 は34歳、足利泰氏は49歳、足利景綱 31歳、
吉良(足利)家氏 55歳、小山長村 50歳、結城朝広 75歳、 評定衆宇都宮景綱は30歳、
弘安八年の 霜月騒動で権力を握る御内人平頼綱は26歳、
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天台宗寺門派 (園城寺) の隆弁は57歳、 真言律宗 叡尊 は64歳、真言律宗 忍性は48歳、 法華宗の 日蓮は44歳、 時宗 (じしゅう) の 一遍は27歳。
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90代 亀山天皇は16歳、(後嵯峨上皇 (45歳) の意向で着位)。先帝の後深草上皇は22歳。
以後の朝廷は後深草天皇系の持明院統と 亀山天皇系の大覚寺統が帝位を競い続ける。
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関白に復帰した 鷹司兼平は38歳 (健治元年 (1275) に復帰) 、従一位関白左大臣 一条実経は42歳、関東申次(関東執奏)は西園寺家 (藤原北家) 当主の世襲となる。
以後の朝廷は 五摂家 (近衛家、一条家、九条家、鷹司家、二条家) の合議分担体制となる。
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                    (年齢表示は全て 1/1現在の満年齢)
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西暦1266年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
文永三年
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1月 2日 丙申
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吾妻鏡
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晴。 左京兆 北條政村の沙汰による椀飯あり。
御簾を揚げたのは前大納言 土御門顕方卿、御剣は左近大夫将監 北條公時、御調度は左近大夫将監 北條顕時、御行騰は備中守 二階堂行有、献上の御馬は五疋。
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椀飯の後に将軍家 宗尊親王が相模守 北條時宗亭に御行始めあり。御引出物は通例の通り、御剣は左近大夫将監 北條時村、砂金は左近大夫将監 北條公時、鷹の羽は左近大夫将監 北條顕時、御馬は二疋。
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西暦1266年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
文永三年
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1月 3日 丁酉
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吾妻鏡
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晴。 陸奥孫四郎 北條義宗の沙汰による椀飯あり。
御簾を揚げたのは前大納言 土御門顕方卿、御剣は右馬助清時 (時直の嫡子) 、御調度は刑部少輔 北條時基、御行騰は対馬前司 佐々木氏信、献上の御馬は五疋。
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西暦1266年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
文永三年
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1月 7日 辛丑
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吾妻鏡
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晴。 佐々目法印権大僧都守海 (人物の詳細不明) が死去した (享年62) 。
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西暦1266年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
文永三年
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1月11日 乙巳
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吾妻鏡
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昨夜から雪、午刻 (正午前後) になって晴。 今日、御弓始めあり。
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  射手
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   一番  伊東刑部左衛門尉 vs 渋谷新左衛門尉
   二番  横地左衛門次郎  vs 小沼五郎兵衛尉
   三番  早河次郎太郎   vs 柏間左衛門次郎
   四番  海野弥六     vs 堤又四郎
   五番  山城三郎左衛門尉 vs 平嶋弥五郎
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今朝、相模守 北條時宗が鶴岡八幡宮に参宮した。
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西暦1266年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
文永三年
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1月11日 丙午
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吾妻鏡
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晴。彗星の変異に対応した祈祷あり。
金剛童子法は大僧正 隆弁、如法尊星王法は安祥寺僧正、天地災変祭は業昌、将軍の使者は伊達蔵人大夫、陰陽道による属星祭は安倍国継、使者は池伊賀前司。
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西暦1266年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
文永三年
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1月13日 丁未
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吾妻鏡
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晴、未刻 (14時前後) に雨、酉刻 (18時前後) になって晴。
将軍家 宗尊親王の蚊触れ (かぶれ) により、今日の御鞠始めが延期となった。
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戌刻 (20時前後) に彗星の変異に対応した祈祷あり。陰陽少允 安倍晴宗が御所の西庭で如法泰山府君祭を催した。雑事 (費用負担?) は左近大夫将監 北條宗政朝臣。鞍を置いた馬一疋、裸馬一疋、銀造りの剣一腰を奉献し、他に紺の絹を納めた手箱二個、草紙の箱が御所から提供された。
将軍の使者として立ち会うのは常陸前司 北條時朝、将軍家も祈祷の場に出御した。
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   ※泰山府君祭: 仏教の護法善神「天部」の一人焔摩天に従う眷属で陰陽道の主祭神、生命も
司る神。天曹、地府を中心とした十二座の神に金幣、銀幣、素絹、鞍馬、撫物などを供えて無病息災と延命長寿を祈祷する。如法は、決め事に従って正しく進めること。
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西暦1266年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
文永三年
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1月17日 辛亥
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吾妻鏡
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晴。 将軍家 宗尊親王 の体調に配慮して今日の鶴岡御参宮は延期となった。
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西暦1266年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
文永三年
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1月25日 己未
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吾妻鏡
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晴。 将軍家 宗尊親王の若宮 (後の七代将軍 惟康親王、1歳9ヶ月)が御魚味。左京兆 北條政村と相模守 北條時宗以下の人々が出仕した。
丑刻 (深夜2時前後) に佐々目谷 (現在の笹目町、地図)一帯が焼失した。
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   ※御魚味: 通常は百日目に行なう食い初めを差す。真魚 (まな) 始めとも。
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西暦1266年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
文永三年
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1月29日 癸亥 
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吾妻鏡
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曇または小雨。 今日、御息所 (将軍正室の 近衛宰子並びに若宮 (後の七代将軍惟康親王) と姫宮 (前年9月21日誕生の掄子) が初めて左京兆 北條政村の小町御亭に入御した。明日から将軍家 宗尊親王が二所詣に対応した精進潔斎に入るためである。
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   ※政村の小町亭: 北條執権邸 (公邸) を差す。現在の 宝戒寺 (地図) の一帯、得宗被官の家を含め
ると相当広い範囲だったのは間違いないが、正確には確定できない。
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元弘三年 (1333) 5月の鎌倉陥落と共に滅亡した北條一族の菩提を弔うため 後醍醐天皇の勅命を受けた 足利尊氏が執権邸の跡地に建立したのが宝戒寺の原型である。
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西暦1266年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
文永三年
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1月30日 甲子
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吾妻鏡
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晴。 将軍家 宗尊親王 が鶴岡八幡宮に御参宮。還御の後に二所詣での精進潔斎が始まった。
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西暦1266年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
文永三年
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2月某日
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その他史料
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   ※日向伊東氏: 左衛門尉伊東八郎祐光が没した。(工藤祐経祐時→ 六男で嫡子の信濃守祐光
祐に続く) 。光は伊東荘の地頭であり、流罪に処された 日蓮の身柄を預かり、 後に帰依した人物で日向伊東氏の祖となる。
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日蓮の草庵跡などの遺跡は 仏現寺の寺域に、屋敷跡と伝わる現在の 仏光寺の一帯 に痕跡が残っている。ただし寺伝は祐光てはなく、祐高の名で記録している。
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伊東祐光は文永九年 (1272) の 二月騒動 (Wiki) で執権の時宗の命令を受けて 北條時章を討った際の傷が元で建治元年 (1275) に三浦で没した人物であり、伝承と史実がかなり錯綜している。
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右は日蓮の草庵跡に建てられたと伝わる毘沙門堂。
   クリック→ 仏現寺の詳細ページ (別窓) へ。
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西暦1266年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
文永三年
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2月 1日 乙丑
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吾妻鏡
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陰、雨。 夜になって泥まじりの雨が降った。
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希代の怪異であり、古い記録を調べると垂仁天皇十五年丙午 (西暦15年) に星が雨のように降ったと伝わる。
第45代聖武天皇の天平十三年辛巳 (西暦741) 6月戊寅の夜に洛中に飯が降った、同十四年壬午 (742年) 11月に陸奥国に丹雪 (赤い雪) が降り、第49代光仁天皇の宝亀七年丙辰 (776年) 9月20日には石と瓦が雨の如く降った。同八年 (777年) には日照りのため井戸が枯れた。
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これ等の変異は上古の災厄である。泥の雨は初めてではあるが有り得ない事とも言えない。
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   ※垂仁天皇: 第11代天皇で在位はBC29年~AC70年、神話と伝説とが混在した時代である。
垂仁天皇の15年は卑弥呼の時代より200年ほど前、西暦15年に該当する。 天皇家の系図は (恐縮だが) 不合理が満載だ (詳細は左目次から「天皇家の系図」で) 。
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   ※洛中に~: 平安京を洛陽と呼び、その区域内が洛中の京都市内を差す。
奈でも西暦741年と742年の都は良から 恭仁京 (Wiki、木津川) に遷都したから洛中の表記は不合理だけど。
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西暦1266年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
文永三年
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2月 5日 己巳
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吾妻鏡
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晴。 二所詣での奉幣御使(将軍の代理として派遣する奉幣使)が鎌倉を出発した。
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   ※奉幣御使: 将軍の代理として神社に奉幣する使者。ただし将軍も必要な精進潔斎を行なう。
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余談だが、治承四年 (1180) の挙兵に際して神慮を得た 三嶋大社 (別窓) を深く信仰した 頼朝は三島から約5km南に住む七人の農民に「三嶋大社の例祭には必ず奉幣使として代参せよ」と命じた。
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在庁と呼ばれた彼らは頼朝と同じ装束で代参する役目を世襲し、奉幣ルートの一部が在庁道の名で古い下田街道の跡と共に間眠神社の参道に重なっている。
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右画像をクリック→ 間眠神社の明細 (別窓) へ
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この神社は三嶋大社本殿の約2km南、流人時代の頼朝が参拝途中で居眠りした伝承から間眠 (まどろみ) 神社が名称で現存している。
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西暦1266年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
文永三年
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2月 9日 癸酉
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吾妻鏡
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晴。 午刻 (正午前後) に二所奉幣の御使が鎌倉に戻った。
その後に御息所 (将軍正室 近衛宰子) および若宮 (後の七代将軍惟康親王) が左京兆 北條政村亭から御所に還御し、弾正少弼 北條業時と中務権大輔 北條教時が御輿寄せに控え、その外数輩が供奉した。
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還御の際には左京兆政村が若宮に引出物を献じた。御剣は弾正少弼業時、鞍置きの馬は左近大夫将監 北條時村と伊賀左衛門次郎光清が引いた。また裸馬一疋は相模六郎政頼と伊賀左衛門三郎朝房が引いた。御息所には砂金と南廷 (銀の延板) などを献じた。
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   ※六郎政頼: 北條時頼の子で 時宗の弟とする説と政村の子とする説があり、判然としない。
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西暦1266年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
文永三年
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2月10日 甲戌
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吾妻鏡
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雨、日中になって晴。 将軍家 宗尊親王が鞠の御坪 (蹴鞠に使う庭) で御馬を観覧した。
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薩摩七郎左衛門尉 伊東祐能、刑部左衛門尉 伊東祐頼、波多野兵衛次郎定康らが騎乗し、土御門大納言顕方卿と八條三位が公卿の席に座した。一條中将能清、中御門少将公仲らの朝臣と左近大夫将監 北條義政と弾正少弼 北條業時以下は北の広廂に控えた。
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西暦1266年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
文永三年
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2月20日 甲申
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吾妻鏡
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晴。 寅刻 (朝4時前後) に御所で変異に対応する祈祷があった。主殿助業昌、大学助晴長、修理亮晴秀、晴憲、大蔵権大輔泰房、晴平、大膳権亮仲光らが南庭に列座し七座の泰山府君祭を行なった。
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将軍家 宗尊親王が出御し、縫殿頭 中原師連がこれを奉行した。去る10日と12日に将軍家と源亜相 (土御門顕方を差す、亜相は大納言の唐名) が同時に同じ夢を見た、その事件を恐れたためである。
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   ※泰山府君祭: 七座は七人。仏教の護法善神 「天部」 の一人焔摩天に従う眷属で陰陽道の主祭
神、生命を司る神でもある。天曹と地府を中心とした十二座の神に金幣、銀幣、素絹、鞍馬、撫物などを供えて無病息災と延命長寿を祈祷する。
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西暦1266年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
文永三年
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3月 2日 乙未
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北條九代記
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北條政村が従四位上に昇叙した。
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   ※政村昇叙: 従四位下に昇ったのが寛元二年 (1244) 6月。来年 (文永三年) 3月には正四位下に
昇る。長く務める執権ではない事は朝廷も承知しており昇叙もスローペースだ。
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西暦1266年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
文永三年
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3月 5日 戊戌
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吾妻鏡
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   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
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晴と陰、小雨。 午刻 (正午前後) に雷鳴が南から北に移動、李 (すもも) ほどの雹 (ひょう) が降った後に晴れたが、酉刻 (18時前後) に再び雷鳴が数声あり、天候が落ち着かない。
占いに拠れば春の雹は兵乱の予兆で穀物が実らず人民の餓死を招く、と。ただし戌巳の雷鳴は良い知らせであると宥める者もいる。
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西暦1266年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
文永三年
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3月 6日 己亥
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吾妻鏡
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晴。 今暁に木工権頭 藤原親家が内々の使者として上洛の途に就いた。
また訴訟に関して引付衆による決裁を停止し問注所が原告と被告の陳述書を受け取って是非を判断する事となった。訴訟内容を書類にして9人の評定衆に割り当てるため組織 (番) と担当の日を整備した。
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  一番は  3日 13日 23日
     尾張入道見西(北條時章)  越前前司 北條時広  宮内権大輔 長井時秀
     伊賀入道道円(小田時家)  和泉入道行空(二階堂行方)
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  二番は  6日 16日 26日
     越後守北條実時  中務権大輔北條教時  出羽入道道空(二階堂行義)
     信濃判官入道行一(二階堂行忠)  対馬前司三善(矢野)倫長
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  三番は  10日 20日 30日
     秋田城介安達泰盛  縫殿頭中原師連  少卿入道武藤景頼
     伊勢入道行願(二階堂行綱)
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  他に出勤するべき日は、 一番衆(1日と15日)、二番衆(5日と21日)、三番衆(11日と25日)
  政所執事と問注所執事は毎日出仕し、問注所からは毎日文士 (書記、記録係) 2名を出仕させる。
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   ※裁判制度: 建長元年 (1249) に北條時頼が設置した引付衆は形骸化が進み決裁遅延が深刻に
なった。弘長元年 (1260) 3月13日の吾妻鏡に「訴人 (原告) から引付衆による裁判の遅滞を嘆く声が高まり云々」の記載があり、幕府はこの苦情に対応して同20日に引付衆の組織改編と拡充を発表したのだが従来の欠陥は払拭できず、改革は不充分だったらしい。
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改革を充実させるための引付廃止と問注所拡充だったが、文永五年 (1268) に執権に就任した 北條時宗が翌文永六年に再度整備する。これは蒙古から届いた牒状により組織整備の必要を感じた時宗の意思が働いていた、と考えられている。
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西暦1266年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
文永三年
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3月11日 甲辰
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吾妻鏡
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晴。 弾正少弼 北條業時朝臣の室 (左京兆 北條政村の娘)が男子を平産した。
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   ※政村の娘: 文応元年 (1260) 10月15日に乱心事件を起こした娘 (婚姻前) の可能性がある。
公式記録では政村の娘は 5人、文応元年に7~8歳前後だったと仮定すると配偶者は寛元四年 (1246) 頃に産まれた男で、安達顕盛 (安達景盛の六男) が政村の娘を妻に迎えている。
ただし、 時宗の同母弟 宗政 (建長五年 (1253) 誕生) も政村の娘を嫁にしている。
さて、今回男児を産んだのは蛇の祟りみたいな狂態を見せた娘なのか、そして結婚した相手は誰か。少し気に懸る部分だ。
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西暦1266年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
文永三年
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3月13日 丙午
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吾妻鏡
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晴、夕暮れに雨。 今日、 (将軍家の) 姫宮の御五十日百日の儀式があった。
また訴訟の取り扱いについて、箇条書きの定めを発表した
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  一.(問注所での) 評定への出仕は、事前に理由を含めて勘解由判官 太田康有に報告する事。
  一.事書 (決定事項) は 評定後に草案を確認し内容に相違がなければ対馬前司 三善 (矢野) 倫長 (評     定衆)に報告する事。
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   ※五十日百日: 読みは「いか ももか」。姫宮誕生は前年9月21日、嬰児の死亡率が高い時代だ。
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   ※太田康有: 父の 三善 (太田) 康連から問注所執事を継いだ兄 康宗の死により弘長二年 (1262)
に問注所執事に任じ評定衆を兼任した。評定衆は (1282) 12月まで、問注所執事は 弘安六年 (1283) 6月までの共に約21年間、幕政の中枢で働いている。
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西暦1266年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
文永三年
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3月27日 庚申
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吾妻鏡
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晴。 相模左近大夫将監 北條宗政の家務 (家政実務) が无行 (杜撰な状態) らしい。
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   ※宗政の家務: 家政管理の杜撰説や若年時代の素行不良説があり、逆に臨済宗の僧 無学祖元
拠る称賛の言葉もあり 彼の実像は良く判らないが、兄 時宗には唯一信頼できる腹心だった。宗政の墓所は 浄智寺 (公式サイト) 、正室 (北條政村の娘) や嫡子 師時 (9代 貞時に続く 10代執権) の創建、と伝わる。
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西暦1266年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
文永三年
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3月28日 辛酉
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吾妻鏡
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以前から通達している鷹狩りの禁止について、改めて諸国の守護人に通達した。内容は次の通り。
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鷹狩りについては神事に供する以外は禁止されている。また神事であっても神領以外では許されず、神領であっても神官以外は鷹狩りへの関与は許されない旨を国内に周知させよ。
違反がある場合は姓名を記録して報告するように、仰せにより通達する。
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  文永三年三月二十八日  相模守北條時宗 左京権大夫 北條政村   某殿(守護人各位)
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   ※鷹狩りの禁止: 寛元三年 (1245) 11月10日の吾妻鏡に諏訪大社の鷹狩りについてコメントを
載せた。
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西暦1266年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
文永三年
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3月29日 壬戌
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吾妻鏡
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晴。 この間刑部卿宗教朝臣が蹴鞠についての勘状 (意見書、上申書) を作り、将軍家 宗尊親王が非公式に宗教を召し出して内容を見た。
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去る文応二年 (1261) 正月10日の御鞠始めに際して、廷尉 二階堂行有を除いた結城広綱 (朝広の嫡子で結城氏三代当主) と 足利家氏が蹴鞠に上括りで参加したため刑部卿宗教が異議を呈した。その時はどちらが正しいとは言えないとの結論に至ったが、同年8月19日の蹴鞠には広綱が再び上括りで参加したため、古い時代の例を挙げて吉凶を指摘するために勘状を書いた、と。
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   ※上括り: 単純に袴の裾を括る位置の問題。Wiki 画像を参照されたし。
この文の後に、第53代淳和天皇(在位: 823~833年)の時代の例から、宝治元年 (1247) に胡 (モンゴル) が高麗王朝を 江華島 (Wiki) に駆逐した朝鮮半島の例まで、「上括り」が公事に悪い結果を招いた例を主張している。要するに行有は宗教の難波流で広綱と家氏はライバルの二條流、単なる勢力争いのために 「上括りなどをする奴らは」 と罵倒している、らしい。馬鹿々しくて詳細は中断した。
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   ※刑部卿宗教: 北條時頼の蹴鞠の師匠として鎌倉で何回も蹴鞠の会を催した従二位の公卿 難波
宗長の嫡子。父親と同様に蹴鞠を介して鎌倉に定住していた可能性が高い。
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西暦1266年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
文永三年
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3月30日 癸亥
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吾妻鏡
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晴。 御所で当座 (即席、予定外) の和歌の会が催された。
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二條左兵衛督教定 (飛鳥井 (二条) 雅経の嫡子) 、宮内卿入道禅恵、遠江前司 北條時直、越前前司 北條時広、左馬助北條清時 (時直の嫡子) 、右馬助時範、周防判官 嶋津忠景、若宮大僧正 隆弁らが参席、僧正は風流一脚 (中国の蓬莱山を模した作り物に和歌を添えたジオラマか) を献じた。
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西暦1266年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
文永三年
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4月 5日 戊辰
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吾妻鏡
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晴。将軍家 宗尊親王 に小さな瘡 (できもの) が見られ、医師らが集まって治療について協議した。
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西暦1266年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
文永三年
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4月 7日 庚午
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吾妻鏡
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朝雨、後に曇、強い南風。 将軍家 宗尊親王 の御蚊触れ (かぶれ、皮膚病) に対応して蛭吃 (ヒルに悪血を吸わせる治療) を施薬院使の忠茂朝臣が申し入れ、三嶋大社に対する憚りの有無を陰陽道に問合わせた。参宮しない場合は問題なしとの返答があり神官も同じ意見だったため、その治療を行なった。
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西暦1266年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
文永三年
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4月 8日 辛未
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吾妻鏡
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晴。前左兵衛督正三位 藤原朝臣教定 (飛鳥井 (二条) 雅経の嫡子) が死没。日頃から瘡 (できもの) を患っていた。
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西暦1266年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
文永三年
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4月15日 戊寅
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吾妻鏡
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長門国一宮の神人らが殺害と寄せ沙汰に関与した詳細な報告が守護人の小早川資平から届いてその処理が行われた。資平からは狼藉に関する処分の権限も求められたが守護の権限は式目に定められており、朝廷が任命した検非違使の権限は侵害できない旨を通知した。
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   ※神人: 社務の補助や雑事を処理する下級神職や神領に従属した荘民。寺院が抱えた僧兵と同
様に武装して強訴などを行なった例 (春日大社など) や、鎌倉時代中期以後には賦役の免除特権を得るために商人などが神人として脱法行為を行なった例も多い。
長門国一宮は下関市の 住吉神社 (Wiki) 、管理権は京都朝廷なので地頭はいない。
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   ※寄せ沙汰: 当事者能力に欠ける場合や勝訴の見込みが乏しい場合に訴訟実務を担当する官僚
や有力者に原告か被告の権利を委託(沙汰を寄せる)して勝訴を狙う脱法行為。
受託 (申請を承諾する)側の腐敗にも大きな原因がある。
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西暦1266年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
文永三年
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4月21日 甲申
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吾妻鏡
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晴。 数十人の甲乙人 (武士以外の一般庶民) らが比企谷山の麓に集まり、未刻 (14時前後) から酉刻 (18時前後) まで石を投げ合い (石合戦) 、やがて武具を持って喧嘩となった。警護の夜回りが駆け付けて首謀者数名を拘束し、残った者は全て逃亡した。
鎌倉では未だ起きなかった事件で、京都での石合戦は狼藉の原因として前武州禅室 北條泰時が執権の時から 固く禁止するよう六波羅に命じている。ましてや鎌倉で起きるなど、飛んでもない事だ、と。
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西暦1266年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
文永三年
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4月22日 乙酉
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吾妻鏡
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晴。 将軍家 宗尊親王 の病気に対応して松殿僧正を験者とし護身護持の祈祷を催す命令があった。
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西暦1266年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
文永三年
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5月 1日 癸巳
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吾妻鏡
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曇。 昨夜から黒雲が広がったため日蝕は確認できなかった。
御祈りは三位僧都範乗で祈祷は玄應、御感 (感動と訳すほど強くないだろうが) を受けた将軍家から銀作りの剣一腰と鞍を置いた馬一疋を送り届けられた。
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西暦1266年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
文永三年
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5月24日 丙辰
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吾妻鏡
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晴。 将軍家の病気に対応して、広御所で五大尊合行法が始められた。若宮大僧正 隆弁が伴僧八人を従えて奉仕した。
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   ※五大尊合行法: 五大明王 (不動、降三世、軍荼利明王、大威徳、金剛夜叉) を一つの檀に祀っ
て祈る行法。別々の壇で行なう場合は五壇法と呼ぶ。
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西暦1266年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
文永三年
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5月25日 丁巳
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吾妻鏡
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相模守 北條時宗が御所に参上した。
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西暦1266年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
文永三年
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5月26日 戊午
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吾妻鏡
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将軍家の病気について、御修法 (五大尊合行法) が結願の日 (七日目) に回復が見られる旨を大阿闍梨 (高位の僧の尊称、この場合は隆弁を差す) が申し述べた。
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西暦1266年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
文永三年
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6月 1日 壬戌
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吾妻鏡
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晴。 鬼宿曜 (占星術の概念) による御修法が結願した。将軍家の病状に回復の気配があり、先日の阿闍梨 隆弁の言葉が符号したな、との口遊み (独り言、軽口) があった。
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西暦1266年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
文永三年
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6月 5日 丙寅
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吾妻鏡
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晴。 木工権頭 藤原親家が京都から鎌倉に戻った。仙洞 (院の御所、後嵯峨上皇を差す) から中御所 (将軍正室の 近衛宰子) に関して非公式の御諷諫 (忠告) があった、と。
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   ※近衛宰子: 不義密通の噂が京都まで届いたか、或いは宗尊親王に謀反の気配が見られたか。
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西暦1266年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
文永三年
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6月19日 庚辰
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吾妻鏡
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晴。 今暁、諏訪三郎左衛門入道が飛脚として上洛の途に就いた。
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   ※諏訪三郎: 父の 諏訪盛重と同じく忠実な北條得宗の被官 (御内人) で宗経、直性とも名乗る。
元弘三年 (1333) には北條一族や他の得宗被官と共に幕府滅亡に殉じている。
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西暦1266年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
文永三年
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6月20日 辛巳
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吾妻鏡
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晴。 相模守 北條時宗邸で極秘の協議があった。余人は入れず、相模守 時宗、左京兆 北條政村、越後守 北條実時、秋田城介 安達泰盛だけの会合である。
今日、事情があって松殿僧正良基が御所から退出、そのまま行方不明になった。
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   ※極秘協議: 幕府の最高意思決定機関として寄合衆の名が史料に現れた最初は正応二年 (1289)
5月で 北條政村の嫡男で評定衆と一番引付頭人を兼任していた時村の就任が最初らしい。実際は五代執権 時頼の時代から一部の重臣や得宗被官による私邸での秘密会合が再三開かれて寄合と呼ばれ、時代と共に寄合が定例化され得宗専制を補佐するようになった。
併行して、従来の執権政治を支えてきた評定衆の制度は形骸化してしまう。
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   ※松殿僧正良基: 藤原基房の孫で 定豪に師事した真言宗の僧。将軍 宗尊親王の護持僧となり、
公式には親王の謀反に加担して (非公式には将軍正室 近衛宰子との不義密通が露見して) 高野山に逃れ、断食の末に没した。個人的には密通が事実だったのかを含めての詳しい状況も知りたいところだが、記録は残っていない。
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西暦1266年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
文永三年
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6月23日 甲申
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吾妻鏡
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晴。 酉刻 (18時前後) に御息所 (将軍正室 近衛宰子) と姫宮 (前年9月21日に産まれた掄子女王) が突然に山内殿 (時宗の別邸) に入御した。若宮 (後の七代将軍惟康親王) は相模守 北條時宗邸 (執権公邸か) に入御した。
これにより御家人が (執権邸に) 駆けつけ鎌倉中が騒ぎになったが、誰もその理由を知らなかった。
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西暦1266年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
文永三年
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6月24日 乙酉
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吾妻鏡
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晴。 子刻 (深夜0時前後) に大地震あり。 今日、左大臣法印厳恵 (良基の同僚か?) が遁世して姿を晦ました。
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西暦1266年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
文永三年
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6月26日 丁亥
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吾妻鏡
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晴。 近国の御家人が競って鎌倉に集まってきた。家から溢れ、道に満ちている。
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西暦1266年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
文永三年
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7月 1日 辛卯
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吾妻鏡
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雷雨。 御家人の中には関所を突破して鎌倉に駆けつける者や本道を迂回して密かに参上する者もあり、いずれも武器を携帯して辺鄙な民家に待機している。 酉刻 (18時前後) になって突然騒動が勃発した。集結した者は小具足を付けて弓箭を携えているが、何事も起きずに日暮れを迎えた。
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   ※関所: 元弘三年 (1333) に鎌倉幕府と北條氏滅亡の初戦とな
った 関戸の合戦に「霞之関」 (出典は太平記) の記載がある場所。
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現在の多摩市関戸の熊野神社参道 (地図) 、隣接する原峰公園一帯に砦と望楼などがあった、らしい。
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右は関戸の熊野神社参道の霞之関の柱杭 (レプリカ)
  画像をクリック→ 多摩 関戸の合戦 (別窓) へ。
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   ※小具足: 籠手や脛当てなど甲冑に付属する軽量の防具類。
更に鎧と兜を付ければ甲冑として完全な防具になる。
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西暦1266年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
文永三年
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7月 3日 癸巳
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吾妻鏡
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晴。 明け方に木星が五諸喉の第三星(?)の軌道を犯した。
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今暁から世間が落ち着きを見せず、戦火を恐れて家屋を壊したり資財を運び隠す者が頻発している。
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巳一点 (朝9時過ぎ) に甲冑に身を固めた武士らが旗を揚げて東西から駆け付けて相模守 北條時宗邸の門外に集結した。続いて政所の南大路で鬨の声を挙げ、その後に少卿入道心蓮 武藤景頼と信濃判官入道行一 (二階堂行忠)が相州時宗の使者として御所に入り、時宗邸と御所を三回も往復した。
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このような情勢の場合は将軍家が軍勢の動きを避けて執権邸に入御し然るべき人々が警護に任じるのが通例なのだが今回はその動きが見られず、人々はこれを訝しく思った。
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やがて老若近臣の多くが御所を離れ、御所に残るのは周防判官 嶋津忠景、信濃三郎左衛門尉 二階堂行章、伊東刑部左衛門尉祐頼、鎌田次郎左衛門尉行俊、渋谷左衛門次郎清重らだけになった。
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   ※時宗邸: この場合は執権公邸だろう。御所との距離は最大に考えても2~300m程度。
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西暦1266年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
文永三年
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7月 4日 甲午
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吾妻鏡
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晴、申刻 (16時前後) から雨。今日午刻 (正午前後) に騒動あり。
中務権大輔 北條教時朝臣が甲冑の軍兵数十騎を伴って薬師堂谷の屋敷から塔の辻の宿所に進出、この行動によって周辺の緊張が更に高まった。
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相州 時宗は東郷八郎入道を派遣して中書 (中務権大輔の唐名) の軽率な行動と行粧 (いでたち、装備) を戒め、教時は弁解もできず深く陳謝して引き下がった。
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戌刻 (20時前後) に将軍家 宗尊親王が女房輿で越後入道勝円 北條時盛の佐介邸に入御した。
これは (将軍を解任されて) 京都への送還を前提とした措置である。
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  供奉人 土御門大納言顕方卿  同、中将  同、少将  木工権頭 藤原親家
同、子息左衛門大夫景教、  同、兵衛蔵人長教
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  女房  一條局(追参)  別当局  兵衛督局  尼右衛門督局
この他に  相模七郎 北條宗頼 (宗顕)   太宰権少弐 武藤景頼
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経路は御所北門から出御して赤橋を西へ、武蔵大路を経由した。赤橋前で御輿を若宮の方向に暫く祈りを捧げ和歌を詠んだ。  右下は北門から時盛邸までのルート、約2km (クリック→ 別窓で拡大)
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  供奉人 相模七郎宗頼  相模六郎政頼 遠江前司 北條時直
越前前司 北條時広  弾正少弼 北條業時
駿河式部大夫通時(北條有時の五男)
尾張四郎篤時(北條時章の三男)  越後六郎 北條実政
周防判官嶋津忠景  城弥九郎長景(義景の七男泰盛
弟)  壱岐入道生西(佐々木泰綱)  小山四郎
河越遠江権守経重(重頼-重時-泰重-経重)
和泉左衛門尉 二階堂行章  左衛門尉 伊東刑部祐頼
和泉籐内左衛門尉(行章の弟?)  新左衛門尉 武藤景泰
甲斐三郎左衛門尉為成  出羽七郎左衛門尉
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  その他 土御門大納言顕方卿  同、中将  同、少将  木工権頭 藤原親家
同、子息左衛門大夫景教同  兵衛蔵人長教
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  女房  一條局 別当局 右衛門督局 民部卿局 小宰相局 侍従局 越後 加賀 但馬 春日
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   ※北條教時: 名越流北條氏の伝統として反得宗意識が強く、文永九年 (1272) の二月騒動で兄の
時章北條時輔らと共に 時宗の命令で討伐される。謀反を企てた嫌疑での追討とする説が大半だが、実質は一族内の異質な勢力を排除する短絡的な粛清である。
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時宗の行動には明らかに軽率さが見られるが、それを冷静な対処だったと強調する吾妻鏡編纂者の北條得宗贔屓に留意したい。
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最近では異質な傾向を排除する時宗の方針が側近の質を低下させ、更には自分自身の判断の低下と孤立を招いた、 「問答無用で殺せば済む政策」 に陥ったことに拠る負担が短命を招いたか?と考える説が正統性を認められつつある。
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そもそも、異質な考えを持つ異母兄や同族を討伐し、それに対する批判が起きると討伐の実行者を殺害する...時宗と安達泰時による支配体制の強化が得られる一方で 「体制の質の低下を招く愚かさ」 を理解できなかったのだろう。
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   ※御所北門: 江戸時代で言う不浄門。屋敷の鬼門 (北東) にあり死人や罪人の搬出口とされる。
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   ※六郎政頼: 同名の人物は二人。一人は 時頼の五男で七郎宗頼の兄だから、序列が宗頼の下は
有り得ない。もう一人は 北條政村の三男で政長の弟だから14歳前後、多分こちらだろう。
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   ※小山四郎: 三代当主の 四郎朝長は寛喜元年 (1229) に没している。朝長の嫡子で四代当主に
なる 五郎長村と混同しているんじゃないかと思うが...。
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   ※武藤景泰: 景頼の嫡子。後に引付衆となり、霜月騒動で死没。
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   保暦間記征夷将軍の上洛は良基僧正の件によるもの。 と書いている
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西暦1266年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
文永三年
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7月20日 庚戌
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吾妻鏡
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晴。 戌刻 (20時前後) に前の将軍家宗尊親王 が御入洛、六波羅北方の左近大夫将監 北條時茂朝臣の六波羅邸に入った。
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   ※前の将軍家: 実質的な解任追放である。
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西暦1266年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
文永三年
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7月24日 甲寅
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その他史料
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   北條九代記惟康親王 (六代将軍 宗尊親王の嫡子、満2歳2ヶ月) が従四位下に叙され同日征夷
大将軍に叙任された。
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   五代帝王物語関白近衛兼経の娘が産んだ三歳の宮 (御名は惟康) が 7月24日に将軍宣下を
受けた。すぐ従四位下に叙任され、左少弁経任 (中御門大納言) が使節として関東に下向した。
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西暦1266年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
文永三年
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10月 日
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続史愚抄
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前将軍 宗尊親王が六波羅北方の左近将監 北條時茂邸から 土御門万里小路邸 (承明門院 (後鳥羽上皇の後宮 源在子) の旧邸) に移った。去る7月に (父親の後嵯峨上皇との) 御義絶の儀があり、その後に密かに御対面された。
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西暦1266年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
文永三年
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11月 2日
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その他史料
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   北條九代記中御所 近衛宰子と姫宮 (倫 (実際は手偏) 子女王) が御上洛された。良基僧正
逐電し、高野山で断食して死没した、と。
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   ※良基僧正: 弘長三年 (1263) 11月8日に 北條時頼の病気平癒を祈り、千手観音像の開眼供養の
導師として伴僧十二人による千手陀羅尼の読誦を行なった記録がある。
都では近衛宰子と夫婦になって仲睦まじく暮らしたとの噂もあったらしい。
宰子の没年は不詳。
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   ※宗尊親王: 続拾遺和歌集 (Wiki) に載る宗尊親王の和歌
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   思ふにも よらぬ命の つれなさは 猶ながらへて 恋ひやわたらむ
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  報われぬ思いの切なさよ それでもなお 想い続けるのだろうけれど
ほどの意味か。鎌倉で宰子と暮らしていた頃の、宰子の密通を知らなかった頃の歌かと考えると他人事ながら何ともやりきれぬ思いが残るね。男の女の間には暗くて深い河があるってさ。
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ただし、宰子の密通は宗尊親王の謀反を捏造して更迭するための口実だったと考える説もある。個人的には事実だったと思うが、少々の疑問は残る。
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西暦1266年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
文永三年
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11月 日
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その他史料
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   ※モンゴル帝国: 正元元年 (1259) に高麗を征服し、翌年第五代皇帝に即位したクビライは日本
との接点を求めて第一回使節団を派遣した。
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既に支配下にある高麗に入った使節団は高麗王の元宗に仲介を命じたが高麗は侵攻に伴う軍事費の負担や兵力の拠出を警戒して半島南端の巨済島 (地図) まで案内して荒れた海を見せ、航海の危険と日本人の非友好的な気質を説明して渡航の中止を訴えた。
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モンゴルの使節団はこれを受けて高麗の官吏を伴いクビライの元に帰国したが、クビライは高麗王に「万難を排して国書を届けよ」と命じており、更に絶対服従を誓っていた高麗王が渡航を妨げた事に激怒して、高麗王の責任で使節を派遣し返書を持ち帰るよう厳命した。
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二年後の文永五年 (1268) 1月、高麗による第二回使節団が大宰府に到着。
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西暦‬2021年
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126代 今上天皇
令和三年
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4月某日
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独言
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やっと吾妻鏡が終了、実質三年ぐらい費やしたのかなぁ...とりあえず少し気分転換しようっと!
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西暦‬2021年
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126代 今上天皇
令和三年
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3月 4日
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独言
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2023年3月4日 追記①・・・去年の4月10日に「吾妻鏡を読む」の校正を始めてから約11ケ月、一年の予定を一ヶ月残して完了した。続いて「鎌倉時代を歩く」の校正に取り掛かるが、少し休憩したい。
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西暦‬2021年
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126代 今上天皇
令和六年
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3月 4日
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独言
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2024年6月27日 追記②・・・2022年の6月頃に2回目の「吾妻鏡を読む」校正を始めてから約12ケ月、今日文永三年 (1266) の校正が始まったから、第一回と同様に約一年を費やした事になるが...
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建保五年 (1217) 以後は全ての英数字を小文字表記に改めたため、第一頁の「古代~治承三年(1179)」から建保四年 (1216) までの (主として英数字部分を) 再校正しないと気が済まない、また苦労が続く。
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それが終わったら、文永四年 (1267) 以後の年表整理に本気で取り掛かろう!
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西暦‬2025年
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126代 今上天皇
令和七年
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4月16日
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独言
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今回の校正作業は承久二年 (1220) から始めたから、吾妻鏡がスタートする直前の治承四年 (1180) 4月9日から 建保七年 (4/12に改元して 承久元年) までの校正を済ませる必要がある。多分軽い手直しで済むだろう、一年程で終われるかなぁ...と皮算用中である。
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早く自由になりたいので少し休憩してから再開し、併せて夏野菜の種蒔きと植え付けが本格的に始まる。
長さ 7mの畝が3本半、堆肥と化成肥料と腐葉土は既に耕し込んである。晴耕雨読もそれなりに多忙である。
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西暦‬2025年
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126代 今上天皇
令和七年
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12月29日
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今後の予定
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「吾妻鏡を読む」 の文字サイズと行間の修正、文字と武勲脈の校正は一応完了した。年末年始の休憩が過ぎたら、吾妻鏡には載っていない 文永五年 (1267年) から鎌倉幕府が滅亡する 元弘三年 (1333年) 5月までの大きな事件 真言律宗の僧 忍性の活躍、日蓮の活躍と死没、二月騒動、時宗の独裁、元寇 (文永の役と弘安の役) 、後醍醐天皇の挙兵、鎌倉幕府の滅亡、などの史料にもう一度触れてみたい。そこまで進めるか否かは兎も角として。
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2026年 1月5日 追記
新年のセールを利用して、堆肥や腐葉土や土壌改良の土など 合計 8,000円強を支出して菜園の増設準備を整えた。来年の冬には南側隣家に接した陽当たりの悪い部分の畝を大根・カブ・赤カブの栽培に利用して、ブロッコリーやリーフレタスやホウレン草や小松菜などの葉物を日当たりの良い庭の北側に7~8mの畝を新設する方針が決まった。今日から作業開始となる。
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元弘三年 (1333年) の鎌倉幕府滅亡の経緯に関しては、左目次の 「鎌倉時代を歩く 四」 に 「太平記」 をベースにして現地の史料と組み合わせた合戦記録などを掲載してあるので参照を。 「吾妻鏡を読む」 に転載しようかとも考えたが、その必要はない、だろう。余裕ができたら、この項目の校正も済ませたいとは思っている。
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前年・文永二年(1265)の年表へ       翌年・文永四年(1267)の年表へ