| 曽我兄弟の弟 禅司房が出家・修行していた越後の国上寺 |
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海産物で有名な寺泊に近い国上山中腹にある真言宗の古刹 (
国上山 国上寺(くがみさん こくじょうじ、公式サイト)。和銅二年(709)に弥彦大神の託宣に従って創建された県内最古の名刹である。
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当初は修験道だったが、時代の流れに従って法相宗→ 天台宗→ 真言宗醍醐派→ 真言宗豊山派に改めている。現在の堂宇の多くは大和国吉野郡で生まれた中興の祖・万元和尚が元禄時代に再建したもの。
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国上寺は良寛和尚所縁の寺としても名高い。越後国出雲崎で生まれ18歳で出家した良寛は玉島 (倉敷市) の円通寺に入って修行を続け、師の国仙人和尚が没した34歳から諸国を巡る修行の旅を続けた。
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38歳で越後に帰ってからも各地で修行を続け、48歳で国上寺に入り、住職の義苗和尚が没した後に五合庵に定住した、と寺伝は記録している。30年間の流浪の末に安住の地を得た、という事か。
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その後は起居が辛くなった70歳で長岡の島崎村に移って豪商の庇護を受け、当時30歳だった弟子貞心尼との交流を深めながら天保二年 (1831) 1月に73歳で没した。
肝心の禅司房に関する記録は乏しく、縁があって16歳の時に寺に入ったとしか伝わっていない。
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道の駅 良寛の里わしま(別窓)に少しだけ関連資料を載せてある。

左: 朝日山展望台から越後平野を。信濃川の放水路として越後平野の稲作を支える 大河津分水路(wiki)が右手の日本海に向って流れる。
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中: 五合庵と朝日山展望台を結ぶ千眼堂の吊り橋(長さ124m)。鮮やかな深紅が緑の山に美しく映える。
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右: 唐から帰国した空海が密教流布を祈って三鈷杵と五鈷杵(仏具)を船から投じると三鈷杵が高野山に、五鈷杵が国上山の松に懸った。
三鈷と五鈷については
こちら(参考サイト)に詳細が載っている。ちなみに不動明王が右手に持っている剣は三鈷杵が変身した姿とされている。
もちろん高野山にも三鈷杵が懸った松が残されている。時空と常識を無視して民衆に広がる弘法大師伝説は凄い!

左: 和銅二年(710)に弥彦大明神の詫宣を受け建立した歴史を誇る国上寺の本堂。宝永八年(1711)の落慶直前に焼け落ち、万元上人が尽力して
再建したのが現在の本堂。他の堂宇と同じく茅葺きだったが平成になってから銅板の覆屋根が設けられた。300年の風雪に耐えた壁面の木肌が
味わい深い姿を見せている。

左: 県文化財の方丈講堂(客殿)は元文二年(1737)の建造で千手観音像を安置する。上杉謙信を初めとする代々の越後武将から庇護を受けていた。
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中: 宝永八年(1711)建造の大師堂(御影堂)は弘法大師像を祀っている。本堂の建造中には本尊の阿弥陀如来を安置したため御仮堂とも。
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右: 良寛が住んだ五合庵(大正三年(1914)再建)。玉島(倉敷市)の円通寺で修行した後に各地で研鑽を重ねた良寛は寛政八年(1796)からの
20年間をここで過ごした。元々は貞享年間(1684〜1687)に国上寺に住んだ万元上人が阿弥陀堂 (本堂) 再建に尽力した功績で毎日の
米五合と共に支給された草庵で、その「五合」から名付けたもの。
良寛は文化十三年(1816)にこの草庵を出て、200mほど山を下った中腹の乙子神社脇の草庵 (
画像・社務所を兼ねた集会所らしい) に移った。
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五合庵の老朽化と老齢により、水を汲んで山道を歩くのが辛くなったためらしいが、乙子神社草庵 (昭和六十二年 (1987) 再建) に住んでいた
次期の書などが最も円熟の境地に達していた、とされる。
弥彦(彌彦)神社の正確な創建次期は不明だが、700年代後半に成立した万葉集にも歌われており、日本後紀※の天長十年7月3日の条に記録がある事から、この時点で
既に崇敬を集めていたのは間違いない。正式には「いやひこ」と読む。国上寺の寺伝に拠れば「和銅二年 (709) に越後一の宮弥彦大神の託宣により国上寺を創建した」と
あるから、更に時代を遡るかもしれない。祭神の天香山命は越後を拓いた祖神として信仰され、神武東征にも貢献した神として武将からも崇敬を受けた。
宝物館には源義家・源義経・上杉謙信らに所縁の武具などを収納している。
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※日本後紀: 平安時代初期の承和七年(840)に完成した勅撰史書。延暦十一年(792)から天長十年(833)までの42年間を記録している。

左: JR弥彦線の終点、神社の雰囲気を模した弥彦駅。周辺には弥彦山ケーブル・温泉・公園・競輪場などがあり、村は観光に力を注いでいる。
地域全体が公共無線LANの
フリースポット化しているので前回の旅行では便利に利用させてもらった。もちろん駅の待合室でも接続できる。
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中: 旅館の並ぶ突き当たりが弥彦神社の一の鳥居。上越新幹線開通を記念して建立した30mの大鳥居は3kmほど離れた燕の市街地にあり、
社殿とは殆ど無関係。この鳥居のすぐ左には参拝者用の無料駐車場があるし、余程のイベントがあるとき以外は心配無用だ。
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右: 一の鳥居から100mほど進むと参道は左に折れて二の鳥居(多分)に至る。元々は右方向の県道2号(弥彦街道)から真っ直ぐ拝殿(背後には
御神体の弥彦山)に向うのが正式だった感じがする。旅館街から入り参道を左折するのは違和感があるが、詳しいことは判らない。

左:拝殿へと続く随神門。桜井古水鏡(郷土誌)によると弓を持つ随神二体は熊野から天香山命に従った印南鹿神の息子兄弟の像と伝わる。
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中: 煌びやかな拝殿。社殿の全ては門前民家の失火から始まった明治四十五年(1912)の火災で焼け落ち、大正五年(1916)に再建された。
祭神は天香山命、背後の弥彦山頂にある奥宮を神廟とする。スタートは山岳信仰、やや左の奥が弥彦山だが、雨で見通しが利かない。
山頂まではロープウェイで10分程だが整備された歩道(634m)を歩いても登っても良い。
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右: 本殿も同じく大正五年の再建で帝大の伊東忠太教授の設計による。石貼りの渡り廊下で幣殿とつながっている。(拡大画像なし)