新田義貞の実弟で腹心の協力者だった脇屋義助の館跡 

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元弘元年(1331)に楠木正成が鎌倉幕府に叛旗を掲げて挙兵、脇屋義助続いて元弘三年5月に倒幕の兵を挙げた兄・義貞と共に鎌倉を攻めた。
鎌倉北條氏が滅亡して後醍醐天皇が配流地の隠岐島から京に戻ると倒幕に功績のあった諸将に恩賞があり、義助も正五位下 左衛門佐に任じ、
駿河国守護・兵庫助・伊予守・左馬権頭・弾正大弼などを歴任した。
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その後も義貞と共に南朝の武将として各地を転戦、延元四年(南朝の建武五年・1338年)の義貞戦死後も劣勢の南朝軍を指揮して抗戦を続けた。
しかし戦局は好転せず、西国の指揮官に任命されて四国に渡った後の康永元年(南朝の興国三年・1342年)5月11日に伊予国府(愛媛県今治市)
で病没した。享年38歳、南北朝の動乱の勃発後は二度と故郷の新田荘に帰ることはなく、没後に従三位を贈られている。


  

              左: 土埃の舞う畑の十字路に石碑が建つ。脇屋町は反町館など新田宗家中心部のすぐ東に隣接している。兄義貞に従って転戦し、義貞が
北陸で戦死した後も南朝に忠義を尽して伊予国で病没した悲劇の武将の名を今に伝えている。2006年に撮影した画像。
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              右: これは同じ場所の2013年の画像。7年の間に農地は住宅街に変り、緑も僅かになった。義助が生きた痕跡も地名が残るのみか。

この頁は2022年 9月 6日に更新しました。