宇陀路から平城宮跡へ 

2008年 12月末     写真をクリック → 拡大表示

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・・・・ 宇陀と宇賀志散策の記録 ・・・・

古事記に描かれた神武東征について、概略 ・・・・ ほとんどが神話の世界だが、それなりに遺跡も残っていて面白い。
 
神倭伊波礼毘古命(カムヤマトイワレビコ・後の神武)は一族を率いて日向の高千穂から東へ向った。全国統治に適した地を探すためである。
まず舟で筑紫(福岡県西南)から宇沙(大分県宇佐市)に渡って1年を過ごし、さらに阿岐国(広島県西部)で7年・吉備国(岡山県東部)で8年を過ごした。その後に舟で浪速の白肩津(東大阪市付近)に着いて土豪の長髄彦(登美毘古・ながすねひこ)と戦って敗れ、兄の五瀬命(いつせ)は長髄彦の矢で負傷した。五瀬命は「日の神の子である我々が東を向いて戦っては勝てない。迂回して太陽を背にして戦おう」と進言、南下して紀国(和歌山)に向ったが、五瀬命は男之水門(和歌山市)で落命し竈山に葬られた。
 
軍勢は熊野に上陸し、アマテラスとタカミムスビの命を受けたタケミカヅチ(雷神)から太刀と道案内の八咫烏(やたがらす・三本足のカラス)を与えられ進軍、土豪の宇迦斯(エウカシ)と宇迦斯(オトウカシ)兄弟の支配していた宇陀を征服して兄の宇迦斯を殺し、更に長髄彦を殺して畝火の白檮原宮(現在の橿原神宮)で即位、初代の天皇神武となった(生年は紀元前711年、没年は紀元前585年・享年126歳・在位76年)。
橿原神宮の北東にある陵墓は幕末の文久3年(1863)に幕府が指定した位置が根拠になっており、古事記の記載である「畝傍山之北方白檮尾上」(御陵は畝火山の北の方の白檮の尾の上にあり)との差異がある。現在の陵と畝傍山の中間に近い生玉神社の付近(地図)だとする説が有力らしい。畝傍山の山頂から300mの地形が入り組んだ辺りである。
 
宇迦斯に関わる「宇賀志」の地と宇賀神社は東南東5kmの山中にあり、殺された宇迦斯の血が流れたと伝わる血原橋が宇賀志川に架かる。また、道案内の烏(高木神の曾孫である賀茂建角身命(カモタケツノミノミコト)の化身)を祀った八咫烏神社も宇陀の地に建てられている。


        

       左左:宇賀神社(地図)は近鉄榛原駅から国道166号の佐倉峠方向へ約12km、宇陀の旧名である兎田野の山間部にある小さな神社だ。
 
       中左:以前は古色蒼然とした社だったが改築され、鳥居も拝殿も本殿も新しくなった。境内の右手には子宝を授かる陰陽石もある。
 
       中右:兄宇迦斯は神倭伊波礼毘古命を殺そうとしたが弟宇迦斯が兄の計略を密告し、兄宇迦斯は自分の造った罠で押し潰された。
 
       右右:境内の裏手には宇賀志川が流れる。狭いせせらぎだが、2000年近く前の土豪の名が地名として残っているのには驚かされる。


        

       左左:古事記には「押し潰した兄宇迦斯を引き出し斬り裂いた。その地を宇陀の血原と言う」とある。これは宇賀志川に架かる血原橋。
 
       中左:八咫烏神社は榛原駅の南3km(地図)、祭神は八咫烏に化身して東征軍を導いた建角身命。但し、史書に「3本足」の記載はない。
 
       中右:続日本記に拠れば、創建は文武天皇の慶雲2年(705)。当時の本殿だったと伝わる石造小祠も本殿横(入れない)に現存する。
 
       右右:「咫」は中国古代周時代の単位で約18cm。従って「八咫」は144cmだが、寸法ではなく単純に「大きな烏」を意味しているらしい。


        

       左左:本殿へは境内の右手にある石段を登る。日本書紀には烏ではなく長髄彦との戦いで金鵄(金色のトビ)が東征軍を助けた、とある。
 
       中左:サッカー協会寄進の八咫烏像。協会のマークに使われたことで本来は村の鎮守だったこの神社が一躍全国区で有名になった。
 
       中右:参考までに、サッカー協会のシンボルマーク。画像をクリックすると3種類の協会ロゴ(八咫烏)の表示画面へリンク。
 
       右右:御神酒は当然、やたがらす。吉野の造り酒屋北岡本店の醸造である。25kmほど南の国道370号沿い、辛党なら寄るのも面白い。


・・・・ ここから、平城宮跡散策の記録 ・・・・

 
西暦710年から784年までの合計で約75年のあいだ都が置かれた平城京の中心部が御所と政治の中枢が置かれたのが平城宮。近年になって世界遺産に登録され、発掘や復元作業が進んだため全体の姿がかなり明確になった。平城京と平城宮を紹介するサイトは多いが、奈良文化財研究所の公式サイトである 特別史跡・平城宮跡が最も判りやすいように思える。該当サイトの平城京地図はこちらで。
 
西暦710年まで政庁は飛鳥宮(現在の明日香村)に置かれ、わずか1km四方の狭いエリアの中で数回の移転(飛鳥浄御原宮、飛鳥板蓋宮、飛鳥岡本宮、飛鳥小墾田宮、藤原京など)を繰り返した。和銅三年(710)になって43代元明天皇は律令制(中央集権)を強化する目的もあって平城京に都を造り移転、二代後の聖武天皇は政治の刷新と既得権益の排除を狙って恭仁京→難波京→紫香楽宮へ移転を重ね、天平17年(745)に再び平城京を都と定めた。その40年後の延暦3年(784)に50代桓武天皇が長岡京を経て平安京に移るまで合計74年間繁栄したのが平城京である。
 
都の周辺には大きな川がないため10万人とも言われる人口を支えるために必要な物資輸送の水運ルートがなく、さらに水不足に伴う衛生状態の悪化が平城京が放棄され長岡京に遷都した最大の理由だった、らしい。
 
資料館を含む見学は無料、建物以外の史跡24時間・365日開放されており駐車場などの施設も良く整っている。近鉄大和西大寺駅の東500mにある 平城宮跡資料館(9時〜無料P利用可)で予備知識を仕入れてから南へ、反時計廻りに朱雀門〜東院庭園跡〜遺構展示館〜大極殿跡〜大極殿正殿と見学するルートが面白いが、暖かな日に食事などを持ってハイキング気分で1日を楽しむつもりで出掛けよう。
大極殿を中心にした平城宮の地図はこちらで。


        

       左左:南から平城宮復元のシンボル朱雀門を撮影。資料に基づく推定原寸で復元された。高さは22m・巾は約25m・奥行は10m。
 
       中左:柱の間隔も発掘資料に依拠し約5m、門への立ち入りは16時まで。現在は22時までライトアップされ往時の姿を髣髴とさせる。
 
       中右:朱雀は南を守る四神の一つ。これは門の北西側・内裏の内部からの撮影で、遠く西10kmには生駒山系が連なっている。
 
       右右:柱は18本、断片のみが発掘された礎石は花崗岩だった。都が移転した後は荒れ果てて盗賊などが住み着いた、と伝わる。


        

       左左:門の円柱を通して700m北に復元中の大極殿正殿(天皇の公式行事施設)が見える。建物は2010年中の完成を目指している。
 
       中左:朱雀門と大極殿の間には近鉄奈良線が東西に走っており横断場所が限られている。平城宮は約1km四方の広大なエリアだ。
 
       中右:大極殿へと続く広場。平城宮の周囲4.6kmには高さ約5.6mの築地塀が巡らされ、朱雀門の両側にも一部が復元されている。
 
       右右:南は羅生門へ続く朱雀大路の跡(現在は観光バスの駐車場)。平城京全体は東西4.3km×南北4.8kmの広大な面積だった。
           ちなみに、映画などで知られた羅生門(羅城門)跡は朱雀門の南約4km、JR大和路線郡山駅近くに公園として残っている。
           地図はこちらで。近くの大型家具店「ニトリ」の駐車場を利用して西へ、徒歩300m。


        

       左左:朱雀門の東200mにある兵部省(軍事・警察部門の駐屯場所)跡。線路に沿った跡地には8棟あった建物の礎石が残っている。
 
       中左:兵部省の東側には広場を挟んで式部省(文官組織)の建物群があった。式部省の大部分は線路によって既に失われている。
 
       中右:壬生門の跡。平城宮の南面には中央の朱雀門・西の若犬養門・東の壬生門があり、東西に走る二条大路(巾35m)に面していた。
 
       右右:壬生門前の掘割から朱雀門を。奈良時代後期には平城京東側が役所の集まるメイン街区で、壬生門が正門として使われたらしい。


        

       左左:壬生門から真北を見る。600m先が東側の大極殿(奈良時代後期)跡、左の奥に復元中の第一次大極殿(前期)が見える。
 
       中左:右手奥に見えるのは復元された東院庭園跡の築地塀。ここは儀式や宴会や賓客の接待が行われた場所と推測されている。
 
       中右:農地の中、東西に伸びる東院庭園南側の築地塀。背景の樹木は国の重要文化財に指定されている宇奈多理座高御魂神社。
 
       右右:平城宮は東側に張り出し部分があり東院庭園がその部分を占めていた。この更に東は 藤原不比等の邸跡(後の法華寺)だった。


        

東院庭園は数代に亘り同様の目的に使われたらしい。45代聖武天皇(724年即位)の「南苑」、46代称徳天皇(749年即位)の「東院玉殿」、
49代光仁天皇(770年即位)の「楊梅宮」などが記録に残されている。東西60m×南北60mの逆L字の浅い池を中心にして配置されたテラス状の張り出し付き建物群で構成されていた。池も建物も何度か作り変えられた痕跡も残る。すぐ東では国宝の十一面観音立像がある総国分尼寺法華寺にも参詣できる。駐車場あり、観音像は春・初夏・秋に拝観可能、本堂や庭園との共通拝観券が千円を超えるのは財布に厳しいけど...


        

       左左:第一次大極殿と東院庭園の中間にある後期大極殿跡。こちらは紫香楽宮から戻った745年〜平安遷都の784年まで使われた。
 
       中左:左写真の裏手、北側から見た大極殿跡。第一次大極殿から南に伸びる朱雀大路から東へ約300mずれた壬生門に続く。
 
       中右:大極殿から北東には遺構展示館が設けられている。撮影はできなかったが、ここもかなり見応えあり。すぐ横には駐車場もある。
 
       右右:まっすぐ東には奈良市の中心部を経て若草山や春日山が眺められる。メインスポットの東大寺までの距離は直線で約4km。


        

       左左:大極殿から南、朝堂院や朝集殿などの建物群があった遺跡部分を撮影。それぞれが回廊で結ばれていたと推測されている。
 
       右3枚:大極殿の西側(第一次大極殿側)から大極殿を撮影した。背景は奈良盆地の東、若草山から春日山に続く山並み。


        

       左左:大極殿跡から見る復元中の第一次大極殿。こちらは平城遷都の710年から740年(恭仁京に遷都)年まで大極殿院が置かれた。
 
       中左:第一次大極殿院を囲む東側回廊のあった付近。この右側が宮殿の前で儀式などが開かれた広場があった。
 
       中右:復元中の大極殿併設の展示館から朱雀門を撮影。大極殿院は南北320m×東西180mを屋根付きの回廊で囲み南側半分に
           広場、北側には高い壇を造って天皇の玉座が位置する大極殿の建物が配置されていた。
 
       右右:史跡を一周して平城宮跡資料館まで帰着。なんとも広いエリアだが、大極殿の復元完了の頃には是非とも再訪したい。