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 古代~治承三年 (1179) 末までの事件 概略 

吾妻鏡を読む」のトップページ       翌 治承四年 (1180) の吾妻鏡

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西暦
天皇
年号
月日
記事
 
 
 
 
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271年
15代 応神
応神二年
 
伊豆山の浜に光る鏡が出現し火を吹く如く西の峰に飛んだ。これを日が峰、後に日金山と呼ぶ。 走湯山縁起には「相模国唐浜(大磯)に現れた」とも書かれている。
273年
15代 応神
応神四年
 
松葉仙人が山頂に祠を建てて光る鏡を祀った。これが 日金山東光寺 の開創と伝わる。
473年
21代 雄略
清寧三年
 
伊豆走湯山 (伊豆山神社) 縁起に拠れば、この年に富士山の大噴火あり。
550年
29代 欽明
欽明十一年
 
伊豆地方一帯に疫病が大流行し死者多数を出す。
575年
30代 敏達
敏達四年
 
伊豆走湯山縁起によれば、伊豆地方に大地震が発生し大きな被害を出す。
594年
33代 推古
推古二年
 
日金山が推古天皇から走湯権現の神号を受ける。 (権現=仏が神の姿を借りて現れる事)
594年
35代 皇極
重祚して
37代 斉明
大化元年
 
乙巳の変 蘇我入鹿 が謀殺され、父の 蝦夷 も自殺し蘇我氏が滅亡 、大化の改新 へ。
政変の舞台は 奈良 明日香村遺跡 訪問記の中段で。
646年
36代 幸徳
大化二年
 
伊豆国が駿河に合併され 国、郡、里に再編される。
680年
40代 天武
大化八年
 
駿河国から二郡を分離し、再び伊豆国とされる。この年、伊豆に大地震が発生。
699年
42代 文武
文武三年
 
役小角 を伊豆大島へ遠流。走湯山縁起に拠れば海上を飛び富士箱根で修行した、と。
701年
42代 文武
大宝元年
 
異常気象が続いたため役小角を赦免し都への帰還を許す。
702年
42代 文武
大宝二年
 
駿河伊豆地方が大飢饉により惨状を呈す、と。
710年
43代 元明
和銅三年
 
藤原京から 平城京に遷都。走湯山縁起によれば、伊豆に大地震が七日間続いた、と。
734年
45代 聖武
天平六年
 
鎌倉最古の寺 杉本寺建立。開山は 行基、本尊は十一面観音像、現在の坂東三十三観音札所一番の 大蔵山杉本寺
736年
45代 聖武
天平八年
 
鎌倉に 海光山長谷寺 建立。開山は徳道上人、本尊は十一面観音像、現在の坂東四番札所。
739年
45代 聖武
天平十一年
 
続日本書紀によれば、この年伊豆地方に大飢饉が発生した。
741年
45代 聖武
聖武二年
 
勅命により、全国に国分寺と国分尼寺の建立が開始された。総国分寺は 東大寺 (金光明四天王護国之寺) 、総国分尼寺は 法華寺 (法華滅罪之寺) 。共に公式サイト。
778年
49代 光仁
宝亀十一年
 
伊豆地方に飢饉と疫病が流行、京より薬品と食料を送った。
784年
50代 桓武
延暦三年
11月
平城京から 長岡京へ遷都。
788年
50代 桓武
延暦七年
 
最澄 比叡山延暦寺(公式サイト)を創建。
794年
50代 桓武
延暦十三年
 
長岡京から 平安京に遷都。征夷大将軍大伴弟麻呂が蝦夷に戦勝。富士山が噴火。
797年
50代 桓武
延暦十六年
 
征夷大将軍 坂上田村麻呂が蝦夷を鎮圧、胆沢城を築き鎮守府とする。続日本紀が完成。
798年
50代 桓武
延暦十七年
 
伊豆地方に飢饉があり疫病が流行、京より薬品と食料を送る。
799年
50代 桓武
延暦十八年
 
この頃 空海が関東と伊豆を巡り修行したと伝わる。ただし、裏付け史料なし。
800年
50代 桓武
延暦十九年
 
富士山が噴火 (延暦の大噴火) 延暦21年まで続いた、と。
802年
50代 桓武
延暦二十一年
 
富士山が噴火し 足柄道を塞いだため新たに官道 (筥根道) を拓く。翌年に官道は足柄道に戻る。 ただし富士東麓に残る延暦噴火の痕跡は軽微で、足柄道を塞ぐ程ではなかったとする説が有力。
803年
50代 桓武
延暦二十二年
 
陸奥国に 志波城 (Wiki) が築かれた。
804年
50代 桓武
延暦二十三年
 
最澄 空海が遣唐使として入唐。
816年
52代 嵯峨
弘仁七年
 
帰国した空海が 高野山金剛峯寺 (公式サイト) を開いた。
818年
52代 嵯峨
弘仁九年
 
相模湾に大地震が発生、伊豆と相模の沿岸地域が津波の被害を受けた。
818年
52代 嵯峨
弘仁十五年
 
衰退を続ける新羅からの亡命者らが東国各地に移住。
825年
53代 淳和
天長二年
 
桓武天皇の皇子 葛原親王が息子に平姓を与えて臣籍に降下させる件を上奏し許された。
836年
54代 仁明
承和三年
 
走湯山縁起に拠れば、甲斐の僧賢安が神霊を日金山から現在の伊豆山神社の地に遷した。
838年
54代 仁明
承和五年
7月5日
神津島が大噴火 この後三年間は伊豆に地震が続いた。
841年
54代 仁明
承和八年
 
続日本後記 に拠れば、伊豆に大地震発生。震源は 丹那断層、昭和五年 (1960) 11月26日に起きた 北伊豆地震 の震源も同じ断層だった。
853年
55代 文徳
仁寿三年
 
桓武平氏の祖である 葛原親王が薨去。
864年
56代 清和
貞観六年
4月15日
富士山が噴火 (貞観の大噴火) 。
888年
59代 宇陀
仁和四年
 
京に 仁和寺 (Wiki) 建立。信濃国で千曲川が大洪水。
888年
59代 宇陀
寛平元年
5月
桓武天皇の曾孫 高望王に平姓を付与、高望王が桓武平氏の祖となる。
894年
59代 宇陀
寛平六年
9月
菅原道真の提案により、遣唐使を廃止。
902年
60代 醍醐
寛平六年
4月
荘園整理令や班田のシステムが徹底せず、律令制度の崩壊が始まった年とされている。
903年
60代 醍醐
延喜三年
2月25日
菅原道真 死没。
921年
60代 醍醐
延喜二十一年
 
後の陰陽師として名高い安倍晴明が誕生。
923年
60代 醍醐
延長二年
4月
怨霊を恐れ、故菅原道真を右大臣に戻し正二位を遺贈。
927年
60代 醍醐
延長五年
藤原忠平らが 延喜式 (Wiki) を完成させる。
935年
61代 朱雀
承平五年
桓武平氏の 平将門が父 良将の遺領相続を巡る争いが発端で叔父の 国香を殺す。
この年の12月、新羅が滅亡。
936年
61代 朱雀
承平六年
従七位下伊予掾の 藤原純友が瀬戸内海で海賊行為。天慶四年 (941) に捕われて獄死。
937年
61代 朱雀
承平七年
8月19日
朱雀天皇元服に伴う大赦で 平将門を赦免。紛争は天慶三年 (940) の将門敗死まで続く。
939年
61代 朱雀
天慶二年
12月
将門が常陸国府と 下野国府を攻略、上野の国府を占領し新皇を称する。平純友の乱が勃発。
940年
61代 朱雀
天慶三年
2月14日
平貞盛 藤原秀郷の軍が幸嶋郡北山でン平将門を討つ。首は京で史上初の獄門に。
947年
62代 村上
天慶十年
4月26日
藤原忠平が関白太政大臣、子の実頼と師輔が左大臣と右大臣、太政官の高位を独占した。
957年
62代 村上
天暦十一年
10月27日
天徳に改元。この年の夏に全国的な大飢饉が起きた。
967年
63代 冷泉
康保四年
藤原実頼が関白に就任。
994年
66代 一條
正暦四年
疱瘡の流行に対応して、庸 (年に約20日の労役、又は絹の物納) と調 (労役の代替えとして絹、綿、麻など特産品の物納) が免除された。
995年
66代 一條
正暦五年
疱瘡がさらに流行、京の町中に病人と死人が充満。
1006年
66代 一條
寛弘三年
おおかみ座に超新星 (SN1006) が現れた。明月記にも書かれており、明るさは史上最高の9等級。この頃は王朝文学の最盛期で 紫式部、和泉式部、赤染衛門らが活躍している。
1016年
66代 後一條
長和五年
藤原道長が摂政に着任、政権中枢を支配する。
1030年
66代 後一條
長元三年
平忠常の乱が勃発。
1051年
70代 後冷泉
永承六年
陸奥国俘囚長の安倍一族が納税を怠り国司の藤原登任が出兵。鬼切部 (宮城県鳴子町鬼首) の合戦で安倍氏が圧勝、登任は都へ逃げ帰った。これが 前九年の役の伏線とされる。
1052年
70代 後冷泉
永承七年
源頼義が後任の陸奥守として奥州に着任。大赦があり安倍氏は許されて頼義と融和した。
1053年
70代 後冷泉
天喜元年
藤原頼通が宇治平等院の阿弥陀堂 (鳳凰堂) を建立。源頼義が鎮守府将軍を兼任。
1056年
70代 後冷泉
天喜四年
源頼義 の挑発で安倍一族が蜂起し全面戦争へ。安倍氏の娘婿 藤原経清は安倍側に寝返る。
1057年
70代 後冷泉
天喜五年
7月26日
鳥海柵(岩手県胆沢郡金ケ崎町)で安倍氏の族長頼時が戦傷死、後継は嫡男 貞任。11月黄海合戦 (東磐井郡藤沢町) で頼義軍は安倍貞任軍に大敗、わずか七騎で逃げ延びた。 
1062年
70代 後冷泉
康平五年
5月
頼義は出羽俘囚の主 清原光頼に援軍を依頼、光頼は弟の 武則と大軍を派遣した。
9月、安倍貞任は厨川柵 (盛岡市天昌寺町) で敗死し 藤原経清は斬首、前九年戦役が終結。
1063年
70代 後冷泉
康平六年
10月
源頼義が奥州合戦の帰路に鎌倉で 石清水八幡宮を勧請し由比若宮 (元八幡神社) を建立。
1083年
72代 白河
永保三年
清原一族の内乱が後三年の役に発展、藤原 (清原) 清衡源義家連合と 家衡武衡連合が争った。
1085年
72代 白河
応徳二年
狩野 (工藤) 祐隆が中伊豆から東海岸の伊東へ移り 宇佐美、久寝 (久須見) 、河津を開発して領有した。
1086年
72代 白河
応徳三年
後三年の役勃発。清衡邸を襲った家衡は沼柵で義家軍の攻撃に耐え翌春に金澤柵に入る。
1087年
73代 堀河
寛治元年
(4月7日改元)
12月
家衡軍が 金沢柵で敗れ後三年の役が終結。清衡は実父 経清の藤原姓を名乗り奥州支配へ。
朝廷は 源義家の私戦として陸奥守を解任し恩賞と戦費の支給を拒否したため、義家は私財で恩賞を賄った、とされる。この事が結果として源氏の名声を高め、後に 頼朝が関東で覇権を得る背景の一助になった、とされる。
1118年
74代 鳥羽
元永二年
伊勢平氏棟梁平忠盛の嫡男 清盛誕生。母は白河法皇晩年の寵姫 祇園女御の妹説が主流。
1138年
75代 崇徳
保延四年
北條時政誕生。父は時方 (時家とも) 、母は伊豆掾伴為房娘。詳細な系図は確認できない。
1141年
75代 崇徳
永治元年
源義朝の長男 義平誕生。通称は悪源太、母は京都郊外橋本 (石清水八幡宮近く) の遊女、或いは 三浦義明の娘とも。京都堀川の源氏館で育ち13歳で鎌倉に下ったと伝わる。
1145年
76代 近衛
久安元年
伊東氏が葛見東光寺を建立 (祐家または祐継か) 。江戸時代に廃寺となり、一族の菩提寺は 伊東祐親が嫡子の河津三郎祐泰を葬った 東林寺に移る。
1147年
76代 近衛
久安三年
4月8日
源頼朝誕生。父は河内源氏の棟梁 義朝、母は 熱田神宮の大宮司 藤原季範の三女由良御前。
1145年
76代 近衛
仁平三年
1月、平忠盛 (清盛の父) 没。朝廷に勢力を拡大し日宋貿易を活性化して平家の財政基盤を築いた傑物だった。
1154年
76代 近衛
久寿元年
武蔵国 大蔵鎌形で駒王丸 (後の木曽義仲) 誕生。帯刀先生 源義賢の二男で母は小枝御前。
為朝の九州兵乱の責により父の 為義は検非違使を解任され隠居、嫡男 義朝が後継となる。
1155年
76代 近衛
久寿二年
8月16日
義朝の長男 義平が父の命令で 武蔵国大蔵館を攻め、叔父 義賢と その舅 秩父重隆を殺す。義賢は義朝の弟で妻は重隆の娘、北関東の武士を組して南関東の義朝と対立していた。
1156年
77代 後白河
保元元年
7月11日
保元の乱勃発。後白河天皇 崇徳上皇側を倒し、平清盛源義朝ら武士が地位を確立。
1157年
77代 後白河
保元二年
(北條) 政子誕生。父は 北條時政、母は 伊東祐親の娘。
1159年
78代 二条
平治元年
牛若 (義経) 誕生。義朝の九男で、母は側妾 常盤 (近衛天皇の中宮 九条院の雑仕女) 。
12月9日、平治の乱が勃発。後白河上皇と二条天皇の対立と源平の対立が交錯して衝突し義朝側が敗北。源氏の勢力は壊滅し、終結後は 平清盛を棟梁とする平家が権力を独占する。
12月29日、義朝の次男 朝長 青墓で死没。自刃、または義朝が殺したと伝わる。
1160年
1月3日
義朝が逃走中の尾張 野間で謀殺され同行の家臣 鎌田政家も死没、政家の妻も自殺。
義朝と正清の首は京で獄門に懸けられた。
1160年
1月25日
青墓で別れて京に潜伏し 清盛を狙った 義朝の長男 義平は石山寺で難波経房の郎党 橘俊綱に捕縛され京の六条河原で斬首。
1160年
2月9日
伊吹山中で義朝一行とはぐれ関ヶ原で 平頼盛の家臣平宗清に捕われた 頼朝が京に到着。
1160年
3月11日
頼朝は減刑され 伊豆蛭島に流罪 (蛭島の名は平家物語に初出) 。
1160年
伊東祐継が没し、祐隆嫡孫の 祐親が所領の河津を出て嫡流を理由に伊東荘を独占した。
1163年
長寛元年
北條義時誕生。時政の二男だが長男 宗時が治承四年 (1180) の石橋山合戦から落ちる途中で討死、その後に嫡子となる。生母は 伊東祐親の娘か。
1167年
79代 六条
仁安二年
曽我物語に拠れば、頼朝は伊東鎌田に近い 北の小御所に住み祐親の娘 八重と通じた、と。
1167年
1月25日
平清盛が太政大臣となるが三ヶ月で辞任して政界を引退、長男の 重盛が後継となる。
1170年
80代 高倉
承安元年
曽我物語に拠れば、流人 頼朝 伊東祐親の四女 八重姫の間に男子 千鶴丸が誕生。
1170年
2月10日
平清盛の娘 徳子が高倉帝に入内、清盛は天皇の舅となる。
1173年
承安三年
文覚神護寺 (公式サイト) 再興の勧進を 後白河天皇に強要して伊豆に流罪、西伊豆の 土肥を経て伊豆韮山に近い ‬那古谷に住む。
1173年
伊東祐親 工藤祐経が伊東荘の所有権を巡って訴訟、結果として祐親が伊東を独占する。
1173年
頼朝の子 千鶴丸が平家を憚った祖父 伊東祐親に殺され、八重は江間小四郎 (後の義時?) に再嫁。江間小四郎と妻八重が立願し千鶴丸の後生を祈って伊東の 音無の森近くに西成寺(現在の最誓寺)を建立した、と伝わる。 (出典は曽我物語の一部と伊東の伝承)
1173年
4月1日
浄土真宗の開祖 親鸞が京都で誕生。
1175年
安元元年
9月
伊東祐親 頼朝に討手を向け、頼朝は祐親の二男 祐清の通報で伊豆山へ逃げる。
1176年
安元二年
10月
伊東祐親が 奥野の巻き狩りを主催。河津祐泰 帰路の赤沢 工藤祐経の家臣により殺害。
祐親の次男祐清が討手として中伊豆大見へ出兵、刺客八幡三郎と 大見成家を討ち取った
1176年
安元二年
伊豆北條で 頼朝 時政の長女(後の政子 21歳)の間に大姫が誕生。
1177年
安元三年
6月1日
清盛派の謀反計画が露見。後白河法皇の近臣らが処罰される (鹿ヶ谷事件、Wiki) 。
1179年
承安三年
11月
閏7月、重盛が病没。清盛 後白河法皇の院政を停止させ鳥羽離宮に幽閉した。

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