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今のトランプは腐敗と独善、親米だけの高市は日本を歪める!
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巨大な武力と財力で 思想の異なる他国 (イラン) を攻撃するトランプの暴力をなぜ許すのか?
ベネズエラを占領して大統領を拉致し自国の利益のために支配下に置く行動は正しいのか?
ノーベル平和賞を狙って独善的な行動を続ける愚かな大統領を支持するアメリカは正常か?
トランプは世界を苦しめている。日本政府も国連も欧州諸国もこの異常を指摘できないのか?
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旧 統一教会に法的処分決定。それでは統一教会と協力を続けた政治家の罪は許されるのか?
旧 統一教会と親しかった政治家 安倍晋三を殺害した山上徹也の一審判決は無期懲役だった。
でも組織面で関係が深かった政治家 萩生田光一、木原誠二、井上義行は何の処分も受けない。
2022年で接点を指摘された自民党国会議員は179人、関係が深かった 121人は原状復帰か?
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攻撃される可能性のある中距離ミサイルを住宅地に配備総理の方針だから受け入れろ、か?
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吾妻鏡 写本 (伏見本) の全ページ画像 を載せました。直接 触れるのも一興、読み解く楽しさも味わって下さい。.
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      伏見宮家に伝わる吾妻鏡写本 (所謂 伏見本) の本文画像を追加。年号をクリックし別窓で閲覧を。
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改元、欠落など
主な事件
~1179年
古代~治承三年 (1179) 末までの主な事件を記載。

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挙兵の前、若き日の 頼朝の恋物語や平家への遺恨などは「鎌倉時代を歩く 壱」に詳細を記述した。保元物語、平治物語、曽我物語、伊豆に残る伝承や史跡など、特に曽我物語は平安末期から鎌倉時代初期の世相考察には欠かせない。
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猜疑心の強さや女癖の悪さなど、頼朝の性格形成の原点を眺めるのも面白い。
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1180年
治承四年
4月 三位頼政 が挙兵、8月 頼朝が挙兵し石橋山と土肥堀口で敗れ安房に逃亡、
9月 木曽義仲が市原で平家側の地侍と合戦、


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後白河法皇の第二皇子 以仁王が打倒平家の意思を固めた基本的な理由は清盛の専政だが、直接の動機は個人的な遺恨である。
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後白河妃・建春門院盛子 (清盛の正妻時子の異母妹) の憎しみを受けた以仁王 (生母は後宮の典侍 藤原成子 (Wiki) は皇位継承どころか親王宣下 (公式な認知ね) も受けられず、平家に対して深い遺恨を抱いていた。
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この年6月に盛子が没し、7月には重盛が没した。平家衰退の兆しと見た後白河が二人の知行国と荘園を没収する強硬手段に出たが、激高した清盛は後白河院政を停止させ反平家の公卿多数を配流と解官に処し、更に嫡子 宗盛が後白河近臣を解任、併せて後白河の息子である以仁王の所領も没収した。
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ついにブチ切れた以仁王が頼政を抱き込んでクーデターに及ぶのだが...
加担せずとは言え、平治の乱に敗れた源氏なのに特に冷遇もされず、清盛に推奨されて従三位まで昇った老齢 (77歳) の頼政が、穏やかな老後を捨ててリスクの高い挙兵に踏み切ったのは何故か、納得できる理由が見当たらない。
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頼政挙兵と頼朝挙兵の詳細は「鎌倉時代を歩く 壱」を参照されたし。併せて、彼が愛した菖蒲の前との物語も。
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1181年
治承五年
養和元年
 7月14日、養和に改元
1月 南都焼き討ち、閏2月 清盛没、3月 墨俣川合戦、 6月 信濃国横田河原で義仲が越後の城長茂らを敗走させる、

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南都焼き討ちで多くの堂塔 (東大寺・興福寺) を焼き払ったのは暴挙だが、交渉のため事前に送った「軽武装の官兵60余人を殺して首を猿沢の池岸に並べた」興福寺の大衆 (僧兵) の責任も大きい。
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宗教団体が数を頼んで (現代なら支持票か) 政治に関与し始めるとロクな事はない。創価学会や統一教会の例なんか 強訴 (wiki) 同然の圧力だし、戦争の多くが突発的な衝突から始まるのも事実だし。平家だけ責めるのも片手落ちだ。
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南都焼き討ち前後の詳細は「鎌倉時代を歩く 壱」の その四に詳細を載せた。
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1182年
養和二年
寿永元年
 5月27日、寿永に改元
2月 伊東祐親自殺、 9月 頼家誕生、 同月 八幡宮参道に段葛を造成、

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吾妻鏡は「祐親は前非 (頼朝の子を殺し頼朝に討手を向けた) を悔いて鎌倉の三浦邸で自刃した」と書き、曽我物語は「恨めしげに伊東方向を眺めながら (葉山の) 鐙摺山で首を斬られた」と描いている。曽我物語の祐親は「欲の深い悪役キャラ」だからね。
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1183年
寿永二年
 吾妻鏡の記録が欠落
2月 志田義廣討伐、5月 倶利伽羅峠の合戦、10月 平家都落ち、11月 法住寺合戦、

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清盛の二男知盛や侍大将格の平貞能らは都での決戦を主張したが棟梁の宗盛は都落ちを選択。一度は従った貞能は義仲軍が接近する都に引き返して亡き主人重盛の遺骨を掘り返し、土を鴨川に流して重盛の姉と正妻を伴って戦線を離脱した。
重盛の遺骨を高野山に納めてから安住の地を求めて放浪の旅を続く。吾妻鏡の番外編、「鎌倉時代を歩く 弐」の拾弐、「屋島の合戦」の後半部分で、源平合戦の番外編。
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1184年
寿永三年
元暦元年
 4月16日、元暦に改元
1月 木曽義仲滅亡、2月 一ノ谷合戦、4月 義経の出会い、頼朝義経の離反、
6月 頼朝一條 (武田) 忠頼を鎌倉で謀殺、


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義仲滅亡と甲斐武田氏の興亡は「鎌倉時代を歩く 弐」に出来る範囲で詳細を載せた。
血族が殺し合う源氏の愚かさ (北條氏も同様だが) と共に滅びる者の悲しさを避けては通れない。義仲の最期と共に、甲斐武田氏嫡流が滅びた天目山の悲劇にも頁を割いた。
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1185年
元暦二年
文治元年
 8月14日、文治に改元
2月 屋島合戦、4月 壇ノ浦で平家滅亡、10月 義経が逃亡、同月 勝長寿院完成、
同月 義経捜索の名目で各地に地頭を設置、


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平氏は一族を重用して滅び、源氏と北條氏は一族が殺し合って滅びる...まだまだ先の話だけどね。奥州藤原氏の悲劇を含めての諸行無常、「鎌倉時代を歩く 弐」の後半部分を参照されたし。
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1186年
文治二年
 ←西暦から吾妻鏡本文へ、
 ←和暦から写本画像へ、
3月 九条兼実 が摂政、4月 が八幡宮で舞う、5月 行家を殺害、義経は行方不明に、
8月 西行法師が鎌倉の頼朝を訪問、


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滅多に人を誉めない吾妻鏡が、八幡宮の回廊で舞う静女の凛とした姿を美しく描く。
この時 静女は妊娠五ヶ月の19歳、閏七月の末に産まれた男児は頼朝の命令で殺され、一旦 都に戻った静女は義経を追って奥州平泉を目指すが...美人薄命。
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1187年
文治三年
 
2月 義経奥州入り発覚、8月 鶴岡で放生会、9月 畠山重忠拘禁、10月 藤原秀衡死没

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秀衡は頼朝による奥州侵略を覚悟して「兄弟全員が協力して義経を大将軍に据え頼朝の侵略を防げ」と遺言した。惣領を継いだ愚かな泰衡は義経に味方した次弟の忠衡を殺し、義経追討の兵を送る。義経主従が全滅した衣河の合戦。
詳細は「鎌倉時代を歩く 弐」の拾七 奥州の悲劇 ③ で。
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1188年
文治四年
 ←西暦から吾妻鏡本文へ、
 ←和暦から写本画像へ、
1月 頼朝が最初の二所詣、 4月 義経追討の宣旨発行、 同月 六條殿焼失、
8月 鶴岡で放生会、 9月 城長茂を赦免、
1189年
文治五年
 
閏4月 平泉で義経自刃、 7月 頼朝出陣、 8月 阿津賀志山合戦、 奥州藤原氏滅亡、

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偉大な先祖 義家も成し得なかった奥州制覇。圧倒的な戦力を擁する頼朝には物見遊山の旅に過ぎなかったが、藤原氏三代の栄華は灰燼に帰した。もし義経が生きていたら阿津賀志山あたりでゲリラ戦を、なんて思っても歴史に「もし」はナンセンス。
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頼朝のドヤ顔が目に浮かぶのは不愉快だが、吾妻鏡による奥州関連の記録は貴重だ。
「鎌倉時代を歩く 弐」の15~17、「奥州の悲劇」を参照されたし。

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1190年
文治六年
建久元年
 4月11日、建久に改元
1月 大河兼任の乱、 4月 坊門姫死没、 9月 板垣兼信失脚、 10月 頼朝上洛へ、
12月末 頼朝が鎌倉に帰還、


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甲斐源氏の弱体化政策が進む。父と兄を裏切った褒賞として武田宗家を継いだ石和信光以外の信義系は全て殺され、頼朝に服属する道を選択した加賀美遠光系の小笠原氏や、陸奥国に新恩を得て移住した南部氏らは長く繁栄する。
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本領の甲斐国では信光から15代後の子孫に武田晴信 (信玄) が現れる。「清和源氏の系図」の中の、甲斐源氏の系図を参照されたし。

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1191年
建久二年
 ←西暦から吾妻鏡本文へ、
 ←和暦から写本画像へ、
1月 政所設置、 3月 鎌倉に大火、 4月 佐々木定綱配流、 12月 法住寺殿が完成、
1192年
建久三年
 
1月 永福寺着工、3月 後白河院崩御、 7月 頼朝が征夷大将軍、 8月 実朝誕生、
1193年
建久四年
 ←西暦から吾妻鏡本文へ、
 ←和暦から写本画像へ、
4月 佐々木定綱赦免、5月 曾我の仇討ち、6月 多気義幹失脚、8月 範頼失脚・追討、

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頼朝が伊豆流罪になった平治元年 (1159) から曽我物語は佳境に入る。実際の物語は工藤祐隆 (祐親の祖父) が中伊豆から伊豆東海岸に進出して所領を広げた応徳二年 (1086) 前後に伏線が始まるのだが、それは兎も角として曽我物語は実に面白い。一族の間で巻き起こった40年間の愛憎を描いた物語だ。
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2020年に熱海から茨城県筑西市に転居した事もあって、22/11月につくば市の多気義幹墓所を訪問。頼朝と八田知家の謀略で滅亡した人物で、小田城址訪問記 の末尾に五輪塔の画像を載せた。画像をクリック→ 詳細ページへ (別窓)
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奈良西大寺から東国に下って布教と貧者救済に生涯を捧げた 忍性菩薩 が拠点を置いた 三村山清冷院極楽廃寺 の跡と併せて、どうぞ (共に別窓)。

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1194年
建久五年
 
2月 北條泰時元服、 7月 宇都宮朝綱流罪、 8月 安田義定追討、
1195年
建久六年
 ←西暦から吾妻鏡本文へ、
 ←和暦から写本画像へ、
2月 頼朝が上洛へ、4月 東大寺大仏殿落慶供養、九条兼実および丹後局と面談、大姫の入内工作が本格化、7月 頼朝が鎌倉に帰還、 8月 中宮任子が女児を出産、
1196年
建久七年
 吾妻鏡の記録が欠落
1月 土御門天皇誕生、11月 九条兼実失脚、近衛基通が関白、中宮任子が内裏退去、

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建久七年一月~建久十年一月までの欠落について、一文を添えて置く。
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吾妻鏡の欠落については古くから諸説があり、一般的に原本が「長い戦乱の中で失われた」と考えられているが、他にも「為政者である北條氏が都合の悪い部分を廃棄した」と考える専門家は多い。中でもこの三年間は鎌倉将軍が代替わりした特異な例で、逸失の背景を推測できる要素が多い。以下、妄想 (笑) に依拠する私説を書いて置く。
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頼朝 の死没後に二代将軍を継承するのは 頼家。頼朝は建久六年の上洛の際に後継者として披露しているから、御家人への正式告知のタイミングは鎌倉に戻った同年夏~翌建久七年あたりの可能性が高いのだが、吾妻鏡の建久七年は欠落している。面白いことに、本来なら建久五~六年あたりに載るべき頼家の元服についても記載はない。
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更に気になるのは頼家の嫡子 一幡 の誕生 (建久九年) に関する記述がない事。子煩悩な頼朝が溺愛する初孫を嬉々として披露する姿を吾妻鏡が載せない方が異様である。
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ここから想像できるのは、北條得宗の指示を受けた吾妻鏡の編纂者が、頼朝による「二代目鎌倉殿と、三代目鎌倉殿に予定した溺愛する一幡」を公式に披露した部分を消すために三年間の記録を廃棄、又は最初から創らなかったのではないか、という疑念だ。
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もちろん裏付けになるべき記録類は皆無だから所詮は想像に過ぎないのだが、頼朝の遺言が失われている事を含めて明白な意図が介在している、と私は考える。
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遺言が存在した事は、吾妻鏡の正治元年 (1199)10月25日の項に何となく漏らした記事がある。公開に至らなかった理由や当事者を推理するのも面白い。
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幕府の実権を掌握した北條執権は「初代鎌倉殿の意思に背き」更に「頼家と実朝の二代に跨る主殺し」を犯した記録を改竄または廃棄した、そんな妄想である。
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吾妻鏡の編纂時期 (吾妻鏡を読むために、を参照) は正応三年 (1290) ~嘉元二年 (1304) の間と考えられているから、九代執権 貞時 か 十代執権 師時 (wiki) の時代で、イメージとしては貞時っぽい。
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人間的には二代執権 義時 か 五代執権 時頼 なら関与し兼ねない...そんな先入観はあるのだが、編纂した年代には既に死没している。
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1197年
建久八年
 吾妻鏡の記録が欠落
7月 大姫死没、 11月 一條能保死没、

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大姫病死により天皇の義父になる頼朝の目論見は崩れた。更に乙姫(三幡)の入内を狙う策謀の途中で頼朝死没、その2ケ月後には乙姫も病没する。頼朝は甘い少年期を過ごした京都への回帰を夢見たのか、絶頂期の清盛を真似たのか。
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この動きが「頼朝の死は東国武士団の離反だった」説 (短絡的に過ぎる) を導き出す。
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吾妻鏡を読もう。頼家の元服と跡目宣言の記事がない、頼朝の摘孫 一幡の誕生記事がない、頼朝死没の記事がない、遺言の披露がない、更にそれらの全てが建久七年 (1196) 1月~建久十年 (1199) 年1月までに集中しているのに、その間の吾妻鏡が完全に欠落している...これを正常だと思うのは能天気過ぎる、と私は考える。
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1198年
建久九年
 吾妻鏡の記録が欠落
1月 後鳥羽上皇が土御門に譲位し院政へ、 9月 一条高能死没、

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後鳥羽には「三種の神器」なしに践祚 (帝位継承) した負い目と「安徳天皇の在位中に (後白河の意向に従って) 帝位に就いた」負い目の二つがある。彼はこのコンプレックスを生涯抱き続け、強引な院政と承久の乱 (1221年) による不様な敗北を招いた。
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「後」がつく天皇は 後白河後鳥羽後醍醐 も「後=劣悪な誤」だ...
なんて戦前なら完全に不敬罪だね。正しい判断ができない者が権力を握る恐ろしさ。
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更に言えば偏重に過ぎた資本主義は、メディアや世論どころか国政まで操作できる巨大な銭ゲバ集団を生み出す。GAFA や イーロン・マスクを見てごらん。
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そして安易な憲法解釈の変更が国政に関与する巨大なカルト 「創価学会」を生み出した。創価学会の利益を代弁する組織が政権与党として国政に関与なんて 明白な憲法違反だ。憲法20条の一項から三項まで、自分の眼で読んでごらん。

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1199年
建久十年
正治元年
 4月27日、 正治に改元
1月 頼朝死没、後継は頼家、2月 三左衛門事件、4月 合議制発足、6月 乙姫死没、
8月 頼家安達景盛追討を狙う、 10月 御家人が梶原景時を弾劾・12月に追放、


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頼朝死没の原因と考えられるのが相模川架橋の落成式から帰る途中の落馬事故。関東大震災に伴う液状化現象で古い橋脚の丸太が浮き上がり、事故現場か と推測された。
詳細は【「鎌倉時代を歩く 弐」の拾八・鎌倉将軍頼朝、51歳で死没】 で。
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1200年
正治二年
 ←西暦から吾妻鏡本文へ、
 ←和暦から写本画像へ、
1月 梶原景時を追討、三浦義澄没、2月 義盛が侍所別当に還任、6月 岡崎義實没、
12月 頼家従三位に昇叙、


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景時の追討について、慈円 (「愚管抄」の著者、天台座主、九条兼実の同母弟) は「景時を見捨てたのは頼家最大の失策」と書いている。景時を単なる悪役と見るのは江戸時代の義経判官贔屓が発端、嫌な性格ではあるが源家に忠実だった側面は間違いない。
「鎌倉時代を歩く 参」の壱 滅びゆく古参御家人たち ①梶原景時 を参照されたし。
1201年
正治三年
建仁元年
 2月13日、 建仁に改元
2月 建仁の乱、 3月 千葉常胤死没、若宮大路の西が焼失、 6月 坂額が甲斐国へ、
7月 頼家が蹴鞠に熱中、8月 台風の被害が甚大、後半で泰時の優秀さを頼家と対比、


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頼家が鎌倉殿に就いたのは建久十年 (1999)1月26日。13人の御家人に拠る合議制が敷かれ訴訟を決裁する権限が停止されたのは4月12日で僅か76日、吾妻鏡には特筆する様な頼家の悪政、乱行は記録されていない。
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13人には北條時政と義時の二人が入り、古参の千葉胤正、畠山重忠、宇都宮朝綱、小山朝政、結城朝光、佐々木定綱、葛西清重は除外されている。さしたる落ち度がなかった頼家の権限を縮小し、時政主導の「偽装合議制」が発足したと判断される。
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1202年
建仁二年
 ←西暦から吾妻鏡本文へ、
 ←和暦から写本画像へ、
1月 新田義重死没、2月 頼家が正三位に昇叙、5月 早河庄の半分を箱根権現に寄進、
8月 泰時三浦義村の娘 (後の矢部禅尼) と婚姻、9月、頼家が駿河と伊豆で狩猟三昧、年間を通じ蹴鞠を楽しむ、


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義村の娘は翌年に泰時の嫡男 時氏 を産むが、承元二年 (1208) 前後に離縁している (理由は記録がなく、不明)、時氏は27歳で病没し、執権を継ぐ事はなかった。
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彼女は三浦に戻って実家の庶流佐原義連の嫡子盛連に再嫁して四人の男子を産んだ。
宝治合戦 (1247年)では佐原一族の多くは本家の三浦氏に与して滅亡したが矢部禅尼の息子四人は北條に味方し (母親の意思か)、滅亡した三浦宗家を継ぐ事になる。
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1203年
建仁三年
 
6月 頼家が伊豆伊東と富士裾野で狩猟、 7月 頼家重病、 8月 相続について協議、
9月 比企の乱により比企一族と一幡を惨殺し頼家を修禅寺に幽閉、実朝が将軍に就く、


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時系列に従えば、時政は計画した頼家毒殺に失敗し「生存中に死没報告を朝廷に送った」事になる。いよいよ公然と主家に牙を向け始めた北條時政。「鎌倉時代を歩く 参」の弐と参を参照されたし。
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1204年
建仁四年
元久元年
 2月20日、元久に改元
3月 三日平氏の乱、7月 修禅寺で頼家が暗殺される、11月 北條時政と後妻 (牧の方) の長子・政範が京都で死没、 12月 坊門信清の娘信子が鎌倉に下向し実朝と婚姻、

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修善寺に残る信仰と殺戮の痕跡。「鎌倉時代を歩く 参」の その参「修禅寺物語」で。
実朝の嫁には然るべき御家人の息女 (足利義兼の娘、など) が候補だったが実朝は頑として拒み、京都朝廷の公卿の娘を求めた。
有力御家人比企氏の娘を妻にして殺された兄・頼家の不幸を避けると共に、京の文化に憧れる夢が捨て難いし、田舎娘より公卿の娘の方が好きだった、かも。
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1205年
元久二年
 ←西暦から吾妻鏡本文へ、
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1月 実朝が近衛中将着任、6月 畠山重忠が滅亡、直後に榛谷重朝稲毛重成も滅亡、
閏7月 時政夫妻が失脚し北條に隠居、 8月 宇都宮頼綱が 謀反を疑われ隠居、


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重忠を筆頭とする秩父平氏が武蔵国から駆逐され、時代は時政から義時・政子連合へ。
北條氏に敵対する勢力の殺戮が本格的にスタートする。
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畠山重忠は「清廉な鎌倉武士の典型」とされるが、建仁三年 (1203) の比企の乱で主君頼家の愛妾と嫡男一幡を含む比企一族を皆殺しにした軍勢に加わっていた。
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もちろん攻撃に加わった小山や結城や三浦や和田も同罪だが、鎌倉武士の多くが「既得権つまり所領を守るためなら主殺しも厭わない輩」だったのは認めざるを得ない。
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1206年
元久三年
建永元年
 4月27日、建永に改元
2月 実朝が従四位下、 3月 桜井五郎が鷹狩りを披露、5月 加藤光員に押領の嫌疑、
7月 定暁が八幡宮別当に補任、 11月 東重胤実朝の怒りを受ける、


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鶴岡八幡宮の三代別当が定暁、建暦元年 (1211) に頼家の遺児・善哉 (12歳、成長後に実朝を殺す公暁) を弟子にして出家させた人物。
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出家後の公暁は上洛して園城寺 (三井寺) の高僧公胤の弟子となり、18歳で鎌倉に戻り八幡宮別当に就任。その18ヶ月後の1月に雪の八幡宮で実朝を殺すことになる。
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7歳の時に政子の計らいで実朝の猶子 (養子に準じる) になり、政子に養育され政子の意向で園城寺に入室し、政子の意向で八幡宮別当に就任した。公暁の生涯に祖母の政子が深く関与し、彼女の孫が彼女の息子を殺す。こりゃ何かあると思うよね、普通。
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1207年
建永二年
承元元年
 10月25日、承元に改元
1月 実朝が二所詣、北條時房が武蔵守に、2月 法然が土佐配流、4月 実朝が体調不良
4月 九条兼実が没す、 6月 冷夏、飢饉の兆し、


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法然は浄土宗の祖。承元元年(1207)には後鳥羽上皇から「念仏停止」の院宣が下り、法然は還俗を強要されて讃岐国に流罪、同時に弟子の親鸞も越後流罪となった。
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直接の原因は、同年の後鳥羽院熊野詣の留守中に院の女房らが法然門下が開いた念仏法会に参加し、そのまま出家した事件が上皇の怒りを受けたため、とされている。
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「阿弥陀仏を信じて「南無阿弥陀仏」の念仏を唱えれば死後は全ての人が平等に往生できる」と説いた事から熊谷直実など多くの武士が法然や親鸞の門下に集まった。
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忍性日蓮法然親鸞 の四人は鎌倉仏教を知る上で欠かせない宗教者である。
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1208年
承元二年
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1月 実朝が天然痘、三善康信邸が全焼、閏4月 京都で大火、7月 後鳥羽院熊野巡行、
9月 朱雀門焼亡、10月 政子が熊野詣、12月 鶴岡に神宮寺が完成、中原親能 死没、


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天然痘は実朝の顔に痘痕 (あばた)を残し、更に無精子症を残した、らしい。
高い官位を求め続ける実朝を諫めた大江廣元に対して「子孫も残せない私に出来るのは先君 (父の頼朝) より更に高い官位を得て源家の名を高める事しかない」と答え、廣元は続ける言葉がなかった、と伝わっている。
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1209年
承元三年
 
5月 和田義盛が上総国司を望んで保留に、実朝が従三位に加えて右中将に任ず、
6月 土屋宗遠が梶原家茂を斬殺し罪は不問、 8月 定家実朝に和歌の口伝書を贈る


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2008年、二人と二匹で信仰に無関係の熊野詣を。見るべき物は概ね見たし楽しい思い出も残せたが、犬が死んでからは悲しい思い出になった。
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友人には再び犬を飼うよう勧められているが未だに決心できない。生き物は妻だけで沢山だ、なんちゃって (笑)。 熊野詣の記録はこちら (別窓) で。
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1210年
承元四年
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4月 大庭景義が死没、 5月 後鳥羽院が熊野詣、 9月 彗星が出現し大騒ぎに、
12月 83代土御門天皇退位し84代順徳天皇践祚、上皇が二人 (後鳥羽と土御門) に
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1211年
承元五年
建暦元年
 3月9日、建暦に改元
1月 実朝 (19歳) が正三位、 9月 剃髪した公暁 (11歳) が園城寺 (公式サイト) へ、
10月、鴨長明 (wiki) が実朝を訪問、 12月 義盛が国司着任希望を撤回、


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この公暁が7年後の建保七年(1219)に雪の八幡宮で実朝を殺害する。公暁が修行した園城寺 (三井寺) も責任の一端を問われて幕府の援助を断たれ、苦しい状況が続いた。
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「鎌倉の政僧」として名高い隆弁の尽力で、五代執権時頼の時代に関係が修復する。
園城寺で育った隆弁にとって園城寺の復興は生涯最大の夢だった。
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方丈記で知られた鴨長明は下鴨神社 (公式サイト) の禰宜の息子で公職に恵まれない立場だった。実朝を訪ねたのは和歌の師としての採用を求めたため、と伝わっている。
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実朝は藤原定家に私淑していたため望みは叶わず、方丈 (一丈 (10尺四方) の僧房) で生涯を過ごした。その方丈のレプリカは下鴨神社参道横 (正確な地図) にあるが、実際は南区の山の中、地図 だった。実朝が採用してたら方丈記は生まれなかった、か。
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義盛国司の件、彼が正式に款状(上総国司に任じる希望)を提出したのは承元三年(1209)5月23日で、実朝から「暫く待て」と言われたのが同年11月27日。最初に希望を申し出てから2年半、「暫く待て」と言われてから一年以上が過ぎている。
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実朝は撤回を知って怒ったらしいが、義盛の方が理屈に合っている。義時と政子の挑発だと判断するのが当然だ。
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1212年
建暦二年
 ←西暦から吾妻鏡本文へ、
 ←和暦から写本画像へ、
2月 京で衆徒による騒動が続く、同月 相模河の橋補修の議論あり、3月 三浦に遊覧、
4月 大慈寺の建造開始、7月 永福寺と杉本寺の惣門を再建、12月 実朝が従二位に、


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相模河の橋、つまり頼朝が死に至った事件に吾妻鏡が触れた唯一の例を、事件の14年後に実朝が語っている。その橋の痕跡らしい橋脚丸太が810年後の関東大震災 (大正12年・1923年) の液状化現象で浮き上がったのだから、誰だって驚く。
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別窓の 相模川橋供養の跡 を参照されたし。
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1213年
建暦三年
建保元年
 12月6日、建保に改元
2月 泉親衡の謀反計画が発覚、実朝が正二位昇叙、3月 首謀者の一人和田胤長流罪、
4月 旧和田胤長邸を義時が専有、5月 義盛の挙兵と滅亡、9月 比叡と興福寺の紛争、


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「吾妻鏡を読む」の建暦三年頁に記載できなかった資料は「鎌倉時代を歩く 参」 の 伍 「滅びゆく古参御家人たち④ 老雄和田義盛の滅亡」に載せた。併読されたし。
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相模国の古参御家人の多数が義盛に味方して合流する筈だったが義盛の決起が一日早まったため勝機を逸した。緻密で蟻一匹逃がさなかった畠山重忠追討に比べると義時の詰めの甘さが目立つが、平定後の残党追及は苛烈を極めた。
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畠山一族を滅ぼした二俣川合戦の記録 (別窓) を参考に。
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1214年
建保二年
 
4月 延暦寺と圓城寺の紛争、7月 大慈寺完成供養、11月 源頼家の遺児 栄實自殺、

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大慈寺 (新御堂) は実朝が大倉 (現在の十二所) に建造した大寺だが、墓地の痕跡を僅かに残すだけで既に失われた。建暦二年 (1212) 10月11日に実朝が建設予定地を視察した際の詳細が載っている。
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1215年
建保三年
 
1月 時政が伊豆北條で死没、6月 栄西が京都建仁寺で死没、後半に天変と地震が頻発
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1216年
建保四年
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1月 実朝持仏堂落慶供養、2月 東寺で盗難、3月 坊門信清死没、6月 陳和卿登場、
閏6月 廣元が大江姓に戻る、10月 実朝が中納言に昇る、11月 唐船の建造開始、


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広元は当初から中原姓だったが煩雑なので本稿では大江に統一していた。実父は大江維光で養父が中原広季 (その逆の説もあり)とされる。
本姓の大江に戻す宣旨の申請には「長く世話になった中原氏には優秀な人物が多く、私としては大江家の衰運を見逃すことはできない」との内容がある。
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陳和卿は平家の南都焼き討ちで溶け落ちた東大寺の大仏を鋳造・再生した渡来の工人。「多くの人を殺した罪深い人物」として頼朝との面会を拒絶し後に東大寺内部の紛争で追放されたのだが、21年後に現れて実朝に面会して語りかけた。
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「貴方の前世は宋朝育王山の長老で、私はその門弟だった」。これは五年前に実朝の夢に現れた高僧の言葉と符合したから実朝はコロッと信じた。一種のオレオレ詐欺か。

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1217年
建保五年
 
4月 実朝の唐船は動かず朽ちるのみ、 6月 公暁 が園城寺から下着し鶴岡別当に着任、
8月 後鳥羽院が瘧病、 11月 廣元が重体の後回復、

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1218年
建保六年
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1月 実朝が権大納言に、2月 政子上洛、3月 実朝が左大将、泰時が讃岐国司を固辞、
4月、千葉成胤死没、政子が従三位、6月 実朝の左大将拝賀、11月 政子が従二位に

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1219年
建保七年
承久元年
 4月12日、承久に改元
1月 実朝が殺される、2月 政子が鎌倉殿を代行し後鳥羽院皇子の将軍下向を申請、
2月 阿野時元追討、 3月 院の使者藤原忠綱が下向、時房が千騎と共に上洛、
7月 九条道家の息 (後の頼経) が下向、官兵が源頼茂を追討、9月 二階堂行光死去、


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実朝殺害についての私説。これは間違いなく 執権義時 が計画した事件だ。後鳥羽上皇 暗躍説、三浦義村 黒幕説、小侍の凶行説など多彩だが、いずれも根拠は薄弱だ。
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全体の流れと殺害後の動向を詳細に見れば、全ての状況証拠は義時を差している。
そもそも事件の報告を受けた義時は殺害者の公暁を「捕えよ」ではなく「問答無用に討て」と命じている。
原文は「発使者件趣告右京兆云々無左右可素誅阿闍梨之由下知」、直訳すれば「義村は使者を送って右京兆 (義時) に仔細を報告、「直ちに誅殺せよ」との命令を受けた。」
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普通なら「捕えて背後関係などを調べろ」だろう。明らかに口封じだ。頼家一幡を殺した時政と同様に、義時にも源氏の血筋に対する配慮など一片もない。
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更に冷徹なのは、全ての事件に政子も (共同謀議の有無は判らないが) 事前に了承していただろうと思われる事だ。この時代、親殺しこそ不道徳だが兄弟や子や孫を殺すことに痛みを感じない例は無数である。
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「吾妻鏡を読む」に記載した資料の更なる詳細は「鎌倉時代を歩く 参」の「その六 鎌倉幕府三代将軍 実朝暗殺」を参照されたし。暗殺ではない、斬殺と書き換えるべきか。

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1220年
承久二年
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1~2月 鎌倉で火災頻発、4月 清水寺の本堂焼失、6月 前年の彗星に対応して祈祷、
11月 三寅(後の頼経)が着袴の儀、

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1221年
承久三年
 順徳→仲恭へ譲位
 仲恭→後堀河へ譲位
1月 法華堂で実朝の追善供養、 4月 順徳天皇が譲位し仲恭天皇が即位、
4月 後鳥羽院義時追討の宣旨を発行、 5月 官兵が京都守護伊賀光季を襲い自刃へ
5月 泰時時房 の19万騎が各地で官軍を破り入洛、 6月 関与者の捕縛と残兵掃討
7月 乱に関与した公卿を斬首、後鳥羽院らを配流、仲恭天皇が退位し後堀河が即位、


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承久の乱により朝廷の権威は失墜し北條氏の覇権が確立した画期的な年になった。
承久の乱に関する情報は 【「鎌倉時代を歩く 弐」の七 吾妻鏡に見る承久の乱】 に合戦の詳細などを乗せてある。
北條氏に非ずんば人に非ず。奢る平家の轍を辿る北條得宗、繁栄は残り100年。

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1222年
承久四年
 4月13日、貞応に改元
 後堀河の代始による。
3月 三寅が体調不良、 4月 鳥居禅尼の遺領で紛争、 4&5月 関東御教書を発行、
8月 西北西に彗星出現、 後半に地震が頻発、 10月 大慈寺で一切経法会、
11月 後堀河天皇が大嘗祭、
1223年
貞応二年
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2月 勝長寿院奥に寺と政子の隠居所建築に着工、 4月 三寅守護のため泰山府君祭、
8月 政子の新邸と御堂の落慶供養、 11月 三寅御所新築の日程の吉凶を評議、
1224年
貞応三年
元仁元年
 11月20日、元仁に改元
 天変炎旱(百錬抄)。
2月 駿河国惣社が焼失、5月 日照りが続く、6月 義時が急死し泰時時房が鎌倉へ、
7月 伊賀光宗らに陰謀疑惑、閏7月 伊賀光宗らを流罪、9月 伊賀の方を伊豆流罪に、
10月 一条實雅を越前流罪、11月泰時が釈迦堂を建立、12月 一条實雅が死没、


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覇権の邪魔者は小さな可能性であっても全て断つ、老醜の尼将軍・政子の狂気。冤罪を受ける方は酷い迷惑だが、執権を継承する泰時には猫の首に鈴を付ける覇気はなく、ただ政子の寿命が尽きるのを待つのみ。義時も遺書ぐらいは残すべきだったのに。
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1225年
元仁二年
嘉禄元年
 4月20日、嘉禄に改元
5月 二位政子が体調不良、 6月 大江廣元が死没、 7月 二位政子が死没、
9月 多胡江河原で石塔供養、 12月 宇都宮辻子幕府の着工、新御所に移転、
12月 幕府の最高政務機関として評定衆を設置し合議制による意思統一を目指す、


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大江廣元、義時、政子が相次いで鬼籍へ。革命第一世代が消えた凡庸な泰時 (個人的な評価です) は背後霊の束縛を離れ新築の政庁で新しい政治に着手するが前途は多難だ。
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1226年
嘉禄二年
 元仁二年から安貞元年の
 伏見本は欠落。
1月 藤原頼経 が征夷大将軍、3月 頼経禁色を許される、6月 泰時が銅銭使用を許可、
10月 評定衆制度がスタート、11月 将軍頼経が体調不良、奥州平泉の毛越寺焼失、
12月 政所前で火災、伊豆走湯権現が焼失、


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ここで言う毛越寺は寺域全体ではなく、大泉ヶ池の北岸にあった金堂の圓隆寺を差す。
ただし並立していた講堂や嘉祥寺や開山堂などの被災状況は確認できない。
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毛越寺と平泉を含めた奥州の興亡に関しては「鎌倉時代を歩く 弐」のその拾四から先、奥州の悲劇 ①②③ に詳細を記述した。
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銅銭は既に禁止を続けられる状況ではなくなっていた。公式な認可によって流通経済は更に大きく変わり中小御家人層の貧困は更に加速、徳政令の効果も短期間の効果に終わる。天変地異と御家人の不満、泰時の前途は多難である。
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1227年
嘉禄三年
安貞元年
 12月10日、安貞に改元
1月 京都で時政十三回忌法事、 3月 大地震と余震、 4月 京都大内裏が全半焼、
5月 高麗国が倭人の略奪に抗議、 7月 京で念仏宗を弾圧、 11月 変異に対応し祈祷


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時政の十三回忌法事を営んだのは後妻の牧の方。時政との間に産まれた娘が嫁した高位の公卿・藤原国通の屋敷に同居し、豪奢な暮らしを送った、と伝わっている。
歌人の藤原定家は一族を引き連れて寺社巡りを楽しむ牧の方を (妬み半分か?) 明月記の中で悪しざまに批判している。
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安元三年 (1177) の大火でほぼ焼失した大内裏はその後の財政難もあって再建が遅れ、文治五年 (1189) 始まった再建計画も承久の乱の前 (1219)に焼失、今回の全焼によって完全に放棄された。
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内野と呼ばれた廃墟は魑魅魍魎の跋扈する荒れ地となり、元弘三年 (1333) に足利高氏 (後の尊氏) が討幕に動いた際には六波羅探題軍と討幕勢の戦場になっている。
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1228年
安貞二年
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1月 将軍頼経竹御所の婚姻計画、 2月 伊豆山権現が再び火災、 2月 寒河尼死没、
3月 興福寺と多武峯の紛争深刻化、7月 頼経三浦義村の田村山庄へ、10月 台風、
10月 箱根権現が火災、 12月 九条道家が関白に叙任、


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考えように拠れば、義時&政子による政治が20年近く続いたシワ寄せを泰時が担う形になった、とも言える。政治的にやや落ち着いたのは御成敗式目 (貞永式目) が完成した 1232年以後だが天変地異と飢饉と身内の不幸が生真面目な (融通の利かない) 泰時を襲う。寿命が尽きるまで残り10年。
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1229年
安貞三年
寛喜元年
 3月5日、寛喜に改元
2月 義村が三浦で来迎講を催す、 6月 比叡山と探題が紛争し幕府は弱腰の決着、
6月 八幡宮八代別当に定親補任、10月 由比ヶ浜で流鏑馬、11月以降 天変と地震、


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翌年にかけて長雨と冷夏による未曽有の大飢饉、影響は貞永年間まで続いた。
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1230年
寛喜二年
 伏見本の脱落多数。
 他本との差異はなぜか?
1月 泰時が太田荘開墾を指示、閏1月 滝口武者の補充命令、2月 鎌倉で武者が騒動、
3月 六波羅探題の北條時氏実泰と交代、 6月 御所の車庫に落雷し対応策を評議、
6月 寛喜の飢饉が始まる、北條時氏死没、 8月 園城寺で内紛、
12月 将軍頼経竹御所が婚姻、 承久の乱以後逃亡していた大内惟信を捕縛、
12月 実朝を追善する勝長寿院三重塔の落慶供養、


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執権を継ぐ筈だった泰時の長男・時氏が28歳で病没。二男の時実も私闘で嘉禄三年 (1227) に殺害され、四代執権は時氏の次弟北條経時が19歳で継承、一族内部の勢力争いは重鎮の重時らが支え、金沢流で同年輩の従弟実時が補佐する体制となった。
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1231年
寛喜三年
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1月 鎌倉で火災多発、 2月 法印貞暁が高野山で死没、 4月 頼経が正四位下に昇叙、
5月 四角四境で鬼気祭施行、10月 頼経が五大尊堂建立を計画、法華堂が焼ける大火
10月 土御門院が阿波国で崩御、


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貞暁は最後に残った頼朝の男系男子で、政子から「実朝没後の四代将軍に就く意思の有無」を問われ片目を抉り出して拒んだ、と。天寿を全うした唯一の男性子孫か。
男系女子は三年後に死没する 竹御所 鞠子が最後になる。
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1232年
寛喜四年
貞永元年
 4月2日、貞永に改元
2月 頼経が従三位に昇叙、5月 御成敗式目の作成に着手、8月 和賀江嶋の築堤完成、
8月 御成敗式目の編纂が完成、9月 彗星出現で騒動、10月 後堀河→四条に譲位、
12月 泰時が幕府創建以来の文書収集を指示、


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これまでの和賀江嶋には唐船など大型船の係留施設がなく、風雨によって漂流・難破する例が絶えなかった。貞永元年の築堤は相模や伊豆から運んだ石材を沈めて一ヶ月弱で造り上げた簡易な構造に過ぎなかった。
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更に本格的な施設は 忍性が極楽寺を開いて港湾の維持管理と手数料の徴収権を得た文永四年 (1267) 以後を待つ事になる。築堤の北側には数本の石柱が建ち、大型船による荷揚げも容易だったと伝わっている。
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1233年
貞永二年
天福元年
 4月15日、天福に改元
4月 出挙米の利息は5割と通知、 5月 近衛基通が死没、 6月 日照りが続く、
10月 後堀河院の中宮藻璧門院が崩御、 12月 北條(金沢)實時が元服、


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出挙米は貸し付けで貸与ではないが飢饉の際は返済を免除されるケースがあった。従来の倍返しが5割になるのは朗報だが対症療法に過ぎず、貨幣経済の浸透に比例して貧富の差は大きくなる。
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1234年
天福二年
文暦元年
 11月5日、文暦に改元
2月 北野天満宮が焼失、 3月 僧・隆弁が鎌倉訪問、7月 竹御所が死産の後に死没、
9月 八幡宮別当定豪が祈祷失敗の責任を負って辞任、 11月 里見義成が死没、
12月 将軍頼経が正三位に昇叙、


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竹御所(鞠子)は頼家の娘だから頼朝の孫にあたる。酷い苦しみの末に母子共に死没し頼朝の血筋は完全に絶えた。
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結婚した時の竹御所は28歳で頼経は16歳年下の12歳。源氏の血筋の利用を狙った北條氏の魂胆が透けて見える政略結婚だが、夫婦仲は良かったと伝わっている。
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幸せな一生だったとは言えない竹御所は比企一族の館跡だった比企ヶ谷の妙本寺 (別窓) に葬られている。
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1235年
文暦二年
嘉禎元年
 9月19日、嘉禎に改元
  地震頻発が主な理由
1月 五大尊堂着工、3月 地震が続く、4月 摂関の九条教実が死去し父の道家が還任、
5月 石清水八幡宮と興福寺が紛争、6月 五大尊堂落慶、8月 加藤景廉の遺児が遺領を巡って争論、 11月 将軍頼経が従二位に昇叙、同月 頼経が体調不良、


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五大尊堂は十二所の明王院 (公式サイト)、三代将軍実朝が建立した大慈寺々域の西端を利用して四代将軍の頼経が建立したことになる。
明王院は当時のまま五代明王 (不動明王を中心に、降三世、軍荼利、大威徳、金剛夜叉を祀る密教の理念 ) を本尊としている。
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1236年
嘉禎二年
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1月 将軍頼経の疱瘡が平癒、2月 南都の紛争が鎮静化、3月 泰時が従四位下に昇叙、
3月 若宮大路幕府の新造が決定、 6月 願成就院で義時の十三回忌、
8月 若宮大路幕府に転居、 10月 再び蜂起した興福寺衆徒を鎮圧、

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8月4日に完成して将軍家が転居。義時と政子の時代から人心一新のため泰時が考えた宇都宮辻子の政庁は僅か12年で廃された。元々「気分を新たに」がテーマで必然性に乏しかった政庁移転だったからね。背後霊 (政子義時) から離れたかっただけ。
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五代執権 時頼 以後の北條嫡流の代名詞「得宗」は義時の法名「徳崇」が転じたとするのが一般的だが、彼の正式な法名は「観海」。禅の廟号、訴訟用語の転用説がある。
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ちなみに北條嫡流は 時政 の長男 宗時 で、治承四年 (1180) の宗時死没後は牧の方 が産んだ政範が嫡流とされた。義時と泰時は庶流の江間氏であり、元久元年 (1204) 11月の政範病死後は成り行きで義時が嫡流を継承している。従って「得宗」は義時と無関係と考えるべきなのだろう。
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1237年
嘉禎三年
 
1月 将軍頼経が二所詣で、 4月 日蝕による騒動、 6月 矢部禅尼が吉井郷地頭に、
6月 大慈寺東の丈六堂落慶供養、 8月 四天王寺で紛争、 9月 天変地異が続く、
11月 頼経が今年二度目の二所詣で、 12月 泰時が大船常楽寺を開く、


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常楽寺の山号は粟船山、当時は粟を積んだ川舟が付近を往来していた名残の山号だ。
本堂の裏手には開基を務めた泰時の墓石がある。かつては付近に木曽義仲の嫡男だった清水冠者義高を葬った塚があったと伝わるが既に行方不明。
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その縁から常楽寺裏山の石祠が義高と婚約した頼朝の長女 大姫の墓と言われている。これは根拠のない捏造で、何の裏付けもない。
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1238年
嘉禎四年
暦仁元年
 11月23日、暦仁に改元
1月 将軍頼経が二所詣で、2月 将軍頼経が上洛、3月に権中納言&右衛門督に着任、
3月 深澤大仏殿建造開始、小山朝政死没、9月 僧正定豪死没、10月 松殿師家死没、
10月末 頼経が鎌倉に帰還、


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深澤大仏は現在の「阿弥陀如来像」の前身で、八丈余・約24mの木製だった。後に火事か台風か地震かで失われ建長四年 (1252) に現在の銅製大仏 鋳造が開始される。
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一説に「大仏鋳造の資金を拠出したのは安達一族で、5年前の宝治合戦で皆殺しにした三浦一族の怨霊を鎮めるため甘縄邸の裏山を選んだ」とも言われる。真偽は不明。
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1239年
暦仁二年
延応元年
 2月7日、延応に改元
2月 後鳥羽上皇が隠岐で崩御、 4月 泰時が急病、 5月 幕府が人身売買を禁止、
9月 泰時が連続して種々の禁令を発布、 12月 三浦義村が死没、


この頃から泰時が矢継ぎ早に様々な政令を発布している。自らの死期が三年後に迫っているのを予知したかのようだ。
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1240年
7月16日、仁治に改元
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仁治元年
 
1月 彗星出現に伴う不安が蔓延、北條時房が病没、鎌倉市中での禁止事項を公布、
2月 幕府政所などが焼失、 5月 人身売買・祖父母への訴訟禁止、 6月 旱魃が長期化
8月 将軍頼経がニ所詣、10月 山内への峠道を整備、11月 篝火に関し規則を設定、
12月 来春の六浦街道整備を決定、


時政と義時と泰時派の三代に仕えた五郎時房が死没。韮山から狩野川を越えた伊豆長岡の北條寺、北條義時夫妻の供養墓奥 (別窓) に時房を祖とする一族の墓所が続いている。
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1241年
仁治二年
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1月 四条天皇が元服、 4月 前月に続き大地震があり津波で浜の鳥居の祠と船が損壊、
4月 新田政義が過怠により懲罰、 5月 大江時廣が死没、 6月 佐々木信綱が隠居、
8月 御所の敷地に北斗堂を建立、 10月 武蔵国鶴見に新田を開墾、


約90年後の元弘三年 (1333) に協力して鎌倉幕府を倒した新田義貞足利高氏 (尊氏) は共に河内源氏 源義家の三男義国を祖としているが、足利氏は幕府の重臣として長く北條氏に優遇され、新田氏は様々なトラブルのため些末な待遇に甘んじていた。
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大覚寺統の後醍醐天皇は持明院統と交互に帝位を継ぐ約定を破って息子の憲良 (後の後村上天皇) への譲位を主張、この時から朝廷は分裂し、南朝二代の後村上天皇 (wiki) と北朝二代の光明天皇 (wiki) に分かれ、建武の新政 (334年) 以後は正統を争って南北朝時代を過ごすことになる。概略は、左目次から「天皇家の系図」を参照されたし。

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1242年
仁治三年
 吾妻鏡の記録が欠落
1月 四条天皇が崩御、 3月 後嵯峨天皇が即位、 6月15日北條泰時が病没、泰時の後継を巡り暗闘あり、嫡孫経時が執権職を継承、 9月 順徳上皇が佐渡で崩御、

泰時を継ぐ四代執権候補に飛び抜けた人材は見当たらず、泰時は「(同年代の) 実時と協力して政務に当たれ」と指示した。後には文人として才能を開き、引退後には金沢文庫 (wiki) を開創した才人である。
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経時の没後は引付衆→ 評定衆として五代執権時頼を補佐し、更に八代執権時宗の時代には寄合衆に任じた。いま読み進めている吾妻鏡も、金沢文庫の蔵書から流失した元本の写本から派生した可能性が高い、と言う。
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経時は寛元二年 (1244) に将軍頼経を解任して反得宗勢力を抑え込んだが体調を崩し、同四年 (1246) に23歳の若さで病没。吾妻鏡は「佐々目山麓に葬った」と伝えている。
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経時が建立した笹目の蓮華寺は寛元元年 (1244) に材木座に移転して光明寺と改めており、裏山奥の代々住職墓地の奥 (詳細地図) の石塔に享年などが刻まれている。

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1243年
仁治四年
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寛元元年
 2月26日、寛元に改元
2月 大倉薬師堂が焼失・頼経の嫡子頼嗣が体調不良、6月 深澤大仏(木像)開眼供養
11月 近江佐々木一族の内紛と分割相続、 12月 白虹の変異あり、

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大倉薬師堂は義時の建立に拠る堂が原点で、実朝が殺された八幡宮参拝の際に、本尊の薬師如来が十二神将の犬神将を白い犬に変えて危険を知らせた「ヨタ話」で知られている。
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義時が危険なら同行した実朝も危険な筈、幕府の最高権力者が将軍に危険も報告せず自分だけ逃げ出してどうすんだよって言いたくなるような弁解だ。
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1244年
寛元二年
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4月 頼嗣が元服し頼経が退位(更迭)、4月 全国に疫病が流行し頼嗣の兄弟も罹病、
5月 頼嗣が征夷大将軍・右近衛少将・従五位上に、 7月 永福寺の修復工事開始、
8月 頼嗣が初の放生会に渡御・西園寺公経が死没・九条道家が関東申次に就任、

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アンチ執権のシンボルである将軍頼経は更迭したが、不満を残した三浦一族は関東申次 (幕府との調整窓口) の九条道家と接近して頼経の復権を企てる。心の休まらない経時の体調は現状を維持しているが...。
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1245年
寛元三年
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1月 彗星が出現、 2月 頼経頼嗣が体調を崩す、 4月 北條朝時が病没、
4月 訴訟関連の通達が数件、 7月 前将軍頼経出家、 8月 例年より豪奢な放生会、
8月 将軍藤原頼嗣が発病、9月 執権経時の病状が悪化、11月 鷹狩りを再び禁止、

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個人的には若くて覇気が感じられる経時は好きなタイプだが、当時の幕閣の評価は高くなかった。六波羅北方の任にあった大叔父・極楽寺流の北條重時は朝廷に対して「 (執権の) 経時に事があっても穢気の必要はない」、つまり死没しても触穢 (死の穢れによる職務の自粛) の必要はない、と伝えている。
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二代執権の義時や三代執権の泰時が没した際には触穢に伴う一ヶ月の職務停止があったから、重時は経時を軽く見ていた、のか。それとも経時に比べて五代執権を継ぐ時頼を傑物に見せる吾妻鏡編纂者の忖度があったのかも知れない。
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3月23日には「深秘の御沙汰」があったとの記録があり、「執権職を舎弟の大夫将監北條時頼朝臣に譲る事が決まった。既に存命の見込みがなく、 (経時の) 二人の息子も幼いため政務の牢籠(停滞・行き詰まり)を防ぐため、執権として (経時の) 真実本心からの決断である。時頼は直ちに了承した。」とある。
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その程度の議論が「深秘の御沙汰」とか「真実本心からの決断」とは、笑止に過ぎる。
私には時頼と重臣たちが「権限移譲を承認」を迫ったか経緯の捏造に見えるのだが。
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1246年
寛元四年
 
1月 88代後嵯峨天皇→89代後深草天皇 (満2歳) に譲位、2月 相続関連の訴訟頻発
3月 名越北條氏が善光寺供養法要、 閏4月 執権北條経時が病没、後継は時頼
5月 宮騒動が勃発、 6月 光時流罪など騒動の関係者を処分、
7月 前将軍頼経を京へ追放、多少の策動あり、


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経時の後継決定の裏で時頼の激しい策動あり、結果として時頼独裁がスタート。前の将軍頼経は京都に追放、現将軍の頼嗣はそのまま留任したが、これは次期将軍が確定するまでの暫定である。既に老獪な独裁者の匂いはするが、時頼はまだ弱冠20歳だ。
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1247年
寛元五年
寳治元年
 2月28日寳治に改元
 後深草の即位による
2~3月 天変異変が続く、3月 北條経時一周忌、4月 安達景盛が高野山から鎌倉へ
4月 鶴岡の北に後鳥羽の霊を勧請し社壇を建立、 5月 執権側と三浦側が緊張状態に、
6月 三浦合戦で泰村一族が滅亡、妹婿千葉秀胤一族も追討、7月 隆弁が八幡宮別当に
7月 北條重時が連署に就任、11月 壽福寺が全焼、12月 訴訟に関し通達が数件あり、

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12年も高野山に隠居していた景盛 (年令不詳、70歳を越えた頃か) が鎌倉に戻った背後には三浦一族前将軍頼経らの影響を排除したい時頼や重時の意思が働いていた筈だ。
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正治元年 (1199) 7月16日から同年8月20日までの吾妻鏡には「頼家が景盛の妾女を奪った上に景盛に討手を向け、政子が必死で制止した」との逸話が詳細に語られている。
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これは明らかに「頼家の愚かさ」と「北條氏と安達氏の緊密な関係」と「主家の排除に挑む正当性」を主張する吾妻鏡の改竄または捏造と見るべきで、そんな関係にあった景盛が漫然と高野山を下るなんて有り得ない。
時頼は高野山の景盛に使者を送った時点で三浦一族討伐の準備を整えていたのだろう。
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三浦一族や上総千葉氏が滅亡した宝治合戦については、吾妻鏡の記載を含めて【「鎌倉時代を歩く 参」の拾 滅びゆく古参御家人】に記述した。参照されたし。
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焼失した壽福寺は再建されたが、10年後の正嘉二年 (1258) 1月17日の大火 (今回の火元は安達泰盛の甘縄邸、皮肉だね) 、吾妻鏡は「惣門・仏殿・庫裏・方丈など寺域すべての堂宇が焼け落ちた」と伝えている。

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1248年
寳治二年
 
3~5月 裁判に関する沙汰を数件発布、背景に訴訟の多発あり、
5月 高野山で安達景盛が死没、 8月 南都と比叡が紛争、11月 時頼が蹴鞠に熱中、

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宿敵の三浦一族を滅ぼした安達景盛、思い残す事のない往生、か。
37年後の弘安八年 (1285) には霜月騒動で今度は安達一族が滅亡するなんて想像しなかっただろうけど。驕れる者久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。

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1249年
寳治三年
建長元年
 3月18日、建長に改元
この年 吾妻鏡の記載なし、散逸と推定される。年間の主な事件のみ整理して列挙する。
大きな出来事として、3月の京都大火と12月の引付衆設置が挙げられる。

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時頼が新たに設置した引付衆は評定衆 (司法・立法・行政三権を掌握) の下部組織で、多発する御家人の領地に関する訴訟処理を目的とする。定員は3人 (後に5人)、北條一族若年層の出世コースでもあった。
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ちなみに、有力御家人の合議を基本とした評定衆は北條氏の権力強化に伴って徐々に議決権を失い、宝治合戦 (1247) の後は北條一族の最高幹部+外戚の安達氏+諏訪氏などの御内人 (得宗被官) が構成する寄合衆に権力が移っていく。
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1250年
建長二年
 
2月 時頼 が体調不良、園城寺の興隆助成が決定、 3月 閑院再建工事の担当が決定、
5月 八幡宮上宮の修理開始、 6月 山内への道と六浦への道を補修、
この年の後半に幕臣の規律と訴訟に関する改革が多数実施された、

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園城寺 (三井寺) への助成については、三代将軍実朝が園城寺で修業した公暁に殺された事、園城寺出身の高僧隆弁が時頼を筆頭とする幕府中枢に接点を持った事、などの経緯がある。このページの建暦元年 (1211) に記載した内容を参照されたし。
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1251年
建長三年
 ←西暦から吾妻鏡本文へ、
 ←和暦から写本画像へ、
2月 熊野本宮焼失、3月 浅草寺と諏訪湖で怪異・熊野神倉焼失、4月 赤城山で山火事、
5月 時頼の次男(後の時宗)が誕生、6月 深刻な冷夏、評定衆の中原師員が死没、
9月 圓城寺復興助成を決定、11月 建長寺建立に着工、12月 足利泰氏が無届け出家、
11月 商店の位置を指定、12月 謀反計画に対処して誅殺と配流あり、
12月 朝廷でも九条道家の一族が勅勘を受けた。
この年の後半に幕臣の規律と訴訟に関する改革が多数実施された、

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12月の謀反云々は九条道家らの排除が目的だった、と言われる。
反得宗の旗印だった前の将軍 頼経 (道家の実子) と孫の現将軍 頼嗣 と 名越流北條光時 が結託して幕府の実権を奪おうとした「宮騒動」である。
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名越流北條氏の反発は更に続き、文永九年 (1272) の名越流 北條教時 (光時の弟) が謀反を起こし、八代執権北條時宗に討伐される「二月騒動」へと続き、時宗は異母弟の 時輔 を筆頭にした一族の不満分子を殺し、それを実行した御内人まで粛清してしまう。
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翌年、謀反事件に関与したとの名目で将軍頼嗣と生母の大宮殿は京都に追放、新たな将軍として 宗尊親王を迎える。頼嗣の祖父・九条道家は翌・建長四年2月に死没、頼経は康元元年(1256)8月に、頼嗣は同年9月に死没して関係者は全て物故した。
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歴代執権の中で時頼の評価は高いが類まれな独裁者の顔もまた事実である。
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1252年
建長四年
 
1月 宗尊親王が急遽元服、2月 鎌倉で大火、宗尊親王 の鎌倉下向決定・頼嗣解任、
3月 宗尊親王が六代将軍として鎌倉へ、4月 前将軍頼嗣と弟と頼経の妻妾を京都送還、
4月 引付衆の組織を拡充、 7月 将軍家が新造御所に入御、 8月 大仏の鋳造開始、
9月 将軍家の病気と平癒、 11月 隆弁が権僧正に昇叙、宗尊親王が新造の御所へ、

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この年 律宗の僧 忍性 が布教のため常陸国小田へ。ここを拠点に水運を利用しつつ布教の範囲を広げ始める。 (三村山極楽廃寺 および 小田城址 (各、別窓) を参照)
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小田城址や鎌倉に点在する石造物、また箱根精進池の周辺に点在する巨大石造物群 (別窓) が忍性に率いられて東国に下った西大寺系の石工集団 (南宋から渡来した伊派や同系の大蔵派) による勢作である事も記憶に留める必要がある。
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1253年
建長五年
 ←西暦から吾妻鏡本文へ、
 ←和暦から写本画像へ、
1月 時頼の三男宗政が誕生、4月 聖福寺開創・善光寺修造 4月 日蓮が法華宗を開く、
6月 安達義景死没、 11月 建長寺落慶供養、諏訪盛重経時追善の小堂を建立、
12月、引付の組織を拡充、

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極端に序列を重んじた時頼は、側室三河局が産んだ時輔北條重時の娘・葛西殿が産んだ二人の弟 (時宗宗政) との間に明確な格差をつけて育てた。
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それが時輔と時宗にどんな影響を与えたのかは判らないが、「国論の統一」との建前で時宗は時輔を殺し、宗政は献身的に時宗に仕え幕府軍が弘安の役に勝利した直後の弘安四年 (1281) 8月に29歳で死没する。
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時輔と同じく側室 (詳細不明) が産んだ六男の宗頼と時宗は良い関係を保ったと伝わっているから、他人様の家族関係を云々しちゃダメ、という事か。
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ただし、時宗はさしたる意味もなく人を殺し過ぎた。二月騒動でも無実だった名越流の時章を殺し、かれの無実が判明すると自分が殺害を命じた被官の5人を斬首している。
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更に元が派遣した使者は二度とも問答無用で斬首したし。32歳で没したのはその祟りかも知れないね。ずっと昔、軍神と称えられた 八幡太郎義家が死んだ夜も、近所の住人が地獄の鬼に引きずられて屋敷を出ていく義家の姿を見た、らしいから。
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1254年
建長六年
 
1月 大町で大火、2月 京都で法成寺が焼失・結城朝光が死没、5月 人の質入れを禁止
6月 安達義景の一周忌&北條泰時の十三回忌あり、 7~9月 大雨の被害あり、
10月 炭・薪・糠などの価格統制令を発布、 11月 足利義氏(正義)が死没、

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この年、日蓮が鎌倉で辻説法を開始。「飢饉や災害は法華経を信じないからだ。真言宗は亡国、禅宗は天魔、念仏宗は無間、律宗 (真言律宗を含む) は国賊だぞ」って他宗を罵倒し続けるから、それなりの反発や権力の弾圧を受ける。
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特に律宗の西大寺 叡尊 (wiki) や忍性に対しては「非人救済を隠れ蓑に幕府の権力と結託し和賀江嶋で関銭を貪る悪徳宗派だ」と誹謗中傷を繰り返した。
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師の叡尊と弟子・忍性の関係は、実にバランスが良い。教理には詳しいが非人救済や社会の実務には疎い叡尊と、非人救済や諸々の実務の処理能力に長けた忍性。
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忍性は目標に向けて突っ走り、叡尊は本来の信仰を忘れてはならぬとブレーキを掛ける。勿論それだけではないが両方をこなせる人材は滅多にいない。
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日蓮が現代に蘇って「公明党を隠れ蓑に政府と結託して献金を貪る創価学会」を見たら嘆くだろう。創価学会は日蓮が説いた法華経を唯一無二の教義にしているからね。
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1255年
建長七年
 
この年 吾妻鏡の記載なし、散逸と推定される。年間の主な事件のみ整理して列挙する。
1256年
建長八年
康元元年
 10月5日、康元に改元
3月 重時が連署を辞して出家し後任に政村が着任、併せて引付衆の人事異動あり、
4月 矢部禅尼が死去、 8月 前々将軍頼経が京都で死没、 9月 赤班瘡が大流行、
10月 前将軍頼嗣が京都で死没、 11月 時頼が出家し執権職などを長時 に委譲、
12月 勝長寿院の大部分が焼失、

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極楽寺流・重時の嫡子長時に執権職を譲ったのは、安貞元年(1227)生まれの時宗がまだ5歳だったから。中継ぎとして六代長時と七代政村を挟んで文永五年 (1268) に17歳の時宗が八代執権となる。出家した時頼は...弘長三年 (1263) に病床に就くまで最高権力者として執権を支配し続けた。古今東西、独裁者は簡単に死ねないのだ。
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1257年
康元二年
正嘉元年
 3月31日、正嘉に改元
1月 若槻頼定伊賀光宗が死没、2月 正寿が元服して時宗に、3月 引付衆の組織改編、
4月 時頼が伊勢神宮に納経、 5月 鎌倉に大地震、 6月 幕府中枢の人事異動
8月 大地震と余震あり、10月 大慈寺修造の落慶供養、12月 将軍警護の廂衆を設置、


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冷夏と台風・地震などに起因する飢饉が発生、世相が著しく乱れる。
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1258年
正嘉二年
 ←西暦から吾妻鏡本文へ、
 ←和暦から写本画像へ、
1月 甘縄から出火して寿福寺と新清水寺が焼失、 1月 勝長寿院の修造工事を開始、
3月 将軍宗尊親王が最初の二所詣、3月 戒壇許可宣下を巡り比叡山と圓城寺が紛争、
5月 圓城寺戒壇の許可宣下を撤回、6月 勝長寿院の落慶供養、8月 台風による災害、
7~8月 放生会供奉人選定で齟齬あり、

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寿福寺は再建されたが生前の政子が建立した新薬師寺 (浄光明寺筋向いの谷、地図) はそのまま廃寺になり、本尊の鉄観音像も行方不明になったのだが、江戸時代になって小町通り角の「鉄の井」の井戸浚いをしたところ鉄観音の頭部が現れた。
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火事の際に強い光が巽 (東南) に走ったと伝わるから、ここに退避したのだろうとの結論になり、井戸の前に観音堂を建てて祀った。そして明治初期の神仏判然令に伴って日本橋人形町の寺に引き取られ、現在は大観音寺の本尊になっている、という長い話。
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作り話っぽい部分もあるが、この頭部が新清水寺の鉄観音だったのは間違いないだろう。
新清水寺から鉄の井までは直線で約200m、移動の方法はもちろん不明だ。
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我が国最初の戒壇については、下野国庁跡と下野国分寺を経て薬師寺跡と龍興寺へ の中段以下に詳細の経緯を記述した。様々な宗派が戒壇を競い合う時代もあったが、今は如何なっているのか...一時は日蓮正宗と創価学会が激しく争った事もあった。
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ここでは園城寺出身の僧 隆弁 が寺門 (園城寺) 復興のシンボルとして設置の勅許を得たのだが、山門 (延暦寺) が絶対反対の強訴を展開して撤回させた、という事。園城寺も延暦寺も同じ天台宗なんだから笑っちゃうけど。
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1259年
正嘉三年
正元元年
 3月26日、正元に改元
この年 吾妻鏡の記載なし、散逸と推定される。年間の主な事件のみ整理して列挙する。

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忍性北條重時に招かれて鎌倉に入り地獄谷 (現在の 極楽寺 (Wiki、地図近く) に住む、
深刻な疫病と飢饉あり、死人の肉を食う者が頻発と、
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1260年
正元二年
文応元年
 4月13日、文応に改元
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 ←西暦から吾妻鏡本文へ、
 ←和暦から写本画像へ、
1月 戒壇を巡って比叡山と圓城寺の紛争が頻発し戒壇設置の認可宣下は撤回される、
3月 将軍家が近衛兼経の娘(時頼の猶子)と婚姻、4月 仙洞御所焼失、鎌倉でも大火、
6月 疫病と長雨に対応して祈祷あり、時頼が息子三人の序列明確化をアピール、
7月 日蓮が立正安国論を時頼に提出、 8月 将軍家が赤痢、日蓮の松葉ヶ谷法難、
10月 政村の娘が狂乱と平癒、11月 将軍が二所詣で、12月 葉室光俊が鎌倉下着、

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立正安国論は飢饉や疫病は邪教が原因で法華経を正宗にと求める内容で反発も激しい。
政村の娘は比企の乱で死んだ讃岐局の怨念が原因、僧正隆弁の祈祷により回復した、
葉室光俊は新三十六歌仙の一人、六代将軍宗尊親王の師として鎌倉歌壇を指導した、
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1261年
文応二年
弘長元年
 2月20日、弘長に改元
1月 将軍と時頼の間に隙間風、時頼が息子の序列徹底を図る、2月 追加の法令を発布、
3月 引付の組織を再編成、4月 時宗が安達氏の娘と婚姻、将軍が重時の極楽寺新邸へ、
5月 日蓮が伊豆流罪、6月 重時が重病、やがて回復、7月~ 放生会供奉辞退が続出、
11月 宇都宮泰綱北條重時が死没、

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律宗の僧 極楽寺の忍性重時 の葬儀を差配、
3月に改元、疫病や飢饉や地震などの頻発により死者多数の発生が理由と、
5月 日蓮を伊豆に配流、【鎌倉時代を歩く 壱】の拾壱 伊東一族と日蓮にかかわる史蹟 (別窓表示) に詳細を載せた。
12月 第89代後深草が退位し第90代亀山天皇が即位、
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1262年
弘長二年
 吾妻鏡の記録が欠落
この年 吾妻鏡の記載なし、散逸と推定される。年間の主な事件のみ整理して列挙する。

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数年前から頻発した天変地異や飢饉による世情不安に混乱する鎌倉の仏教界に危機感を抱いた評定衆の北條実時が下向を求めていた真言律宗の祖 叡尊忍性の師)が鎌倉に入り実時と時頼に授戒、鎌倉念仏宗の指導者だった年空道教 (念仏衆の指導者) の帰依を受けて7月に奈良西大寺に帰った。
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叡尊を引き継いだ実務家の宗教者 忍性は律宗と念仏宗を併せた鎌倉庶民の仏教界を指導する中心的立場となり、水を得た魚の如く布教と貧民救済に全力を注ぐ。
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1263年
弘長三年
 
2月 日蓮が赦免され伊東から鎌倉に帰還、 3月 時頼が善光寺に北の水田六町を寄進、
4月 将軍のニ所詣あり、 8月 放生会と将軍上洛の供奉人について調整が続く、
9月 北條実泰死没、 10月 六波羅検断などを決裁、 11月 清原満定が急死、
11月 将軍正室の近衛宰子が懐妊 ・ 二階堂行頼死没 ・ 北條時頼死没、

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鎌倉に戻った日蓮は再び布教を強化、北條一族や御家人にも帰依する者が増える、
時頼は腹心の得宗被官以外の面会を許さず死没、最明寺 (現在の明月院) に葬られた、
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1264年
弘長四年
文永元年
 2月25日、文永に改元
  吾妻鏡の記録が欠落
2月 延暦寺が焼失、 延暦寺衆徒の強訴が頻発、 4月 後の七代将軍惟康親王が誕生、
5月 延暦寺衆徒が円城寺の大部分を焼く・北條朝直死没、 6月 日照りが続く、
8月 北條長時死没、執権は政村、連署は時宗、小侍所別当は宗政業時
10月 時輔が六波羅南方に就任、11月 日蓮の小松原法難、12月 執権政村が昇叙、

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執権長時は実権を時頼・重時に握られ時頼を追う様に死没した穏和が取り柄の人物、
小松原法難は母を見舞った安房で念仏宗の地頭に襲われ重傷、数人の弟子を失った事件、
次代は政村・時宗体制へ、文永五年 (1268) には時宗・政村体制に、文永十年 (1273) の政村死没後は重時の子 義政が連署を務める、
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1265年
文永二年
 
2月 将軍家の二所詣あり、3月 町屋(商店)を認可する市内七ヶ所を再指定、大地震、
6月 安達義景の十三回忌、評定衆と引付衆を増員、 9月 将軍正室が女児を出産、
12月 彗星が出現、

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改定した町屋の位置は本文に地図を添付してある。
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1266年
文永三年
 
3月 引付衆を廃止し訴訟担当を問注所に変更、 6月 将軍正室近衛宰子の密通が露見、
7月 将軍宗尊親王を解任更迭、宰子と掄子女王も京都へ、惟康親王が将軍宣下、
11月 蒙古が一回目の使節を派遣したが高麗の非協力により対馬から帰還、

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将軍正室の密通は将軍宗尊親王の謀反として処理され7月に京都に追放、11月に正室と姫も送還した。密通相手の良基僧正は高野山に逃げて断食して死没 (北條九代記)。親子三人で幸せに暮らしたとの俗説は捏造だろうが、私は宰子の密通は事実だと思う。
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国書の不着に激怒した元の皇帝クビライ (wiki) は使節の再派遣を高麗に厳命した。
二年後の文永五年(1268)1月、高麗による第二回使節団が大宰府に到着する。
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一説に、クビライは チンギス・カン (wiki) の孫だ、と。平泉から大陸に逃れた 義経はモンゴルを平定してチンギス・カンとなったが異民族の素性を隠した、クビライは祖父の母国との友好を求めたが 時宗に拒否されて戦闘状態になった、という壮大な夢物語。
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高木彬光の「成吉思汗の秘密」は義経が奥州の娘に産ませた子の子孫の青年と満州国皇帝の弟・溥傑の娘が起こした 天城山心中 (wiki) を800年を隔てた輪廻として描いた。
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「鎌倉時代を歩く 四」の最終章は天城山心中で閉じる計画だったのだが途中で馬鹿々々しくなって放棄、中途半端になった。私は何をしようと思っていたのか?
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詳しく調べると、義経は間違いなく平泉で自殺しているのだからモンゴルには渡れず、チンギス・カンに変身できず、話を続ける根拠がない。まぁ元々チンギス・カン=義経なんて最初から信じていないから、この件は自業自得だ。
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義経自殺の経緯は「鎌倉時代を歩く 弐」の拾七 奥州の悲劇 ③ の後半に記載した。
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            幕府滅亡まで、残り66年。資料の整理には吾妻鏡の現代語訳同様に苦労するか?
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吾妻鏡は文永三年(1266)7月20日で途絶、以降は資料を寄せ集めて記述するが、少年易老だ。光陰なんか散々軽んじちゃったし。

西暦
年号
その他
主な事件
1267年
文永四年
 
(整理中) 極楽寺創建 (開基は重時、開山 は忍性)、 忍性の推薦で六浦称名寺に審海が入り真言律宗に、
1268年
文永五年
 
1月 元の国牒状到着、3月 執権時宗・連署政村体制に、日蓮が他宗に公開法論を要求
1269年
文永六年
 
2月 元が三回目の使節を派遣し対馬から島人2名を連行、 9月 四回目の使節が到着、
1270年
文永七年
 
3月 北條有時が死没、 5月 足利泰氏が死没、
1271年
文永八年
 
9月 元から五回目の使節が到着、 10月 日蓮の龍ノ口法難と佐渡流罪、
1272年
文永九年
 
二月騒動勃発、執権時宗時輔 (庶兄) と時章 (名越流朝時 の二男) と教時 (同じく六男) を誅殺、国論統一に名を借りた異論の排除だ、 4月 (または12月) 元から六回目の使節が到着、
1273年
文永十年
 
4月 元が高麗国を吸収し朝鮮半島を完全制圧、
1274年
文永十一年
 
1月 亀山天皇が退位し91代後宇多天皇が即位、 3月 日蓮が佐渡流罪を赦免、
5月 日蓮が甲斐南部の地頭・波木井実長の招きに応じて身延山)へ、 10月 元が対馬・壱岐を制圧、
10月 元が肥前松浦郡の博多湾に上陸、10月末に撤退し11月末には朝鮮半島に退却
1275年
文永十二年
建治元年
 4月25日、建治に改元
4月 元から七回目の使節が到着、9月 使節5名を龍ノ口で斬首、5月 藤原為家が死没
1276年
建治二年
 
南宋の臨安が陥落し宋が滅亡、 6月 佐々木泰綱が死没、 11月 北條実時が死没、
1277年
建治三年
 
6月 北條時盛が死没、 9月 北條義宗が死没、
1278年
建治四年
弘安元年
 2月29日、弘安に改元
疫病の流行による改元説あり 6月 結城広綱が死没、 11月北條時定 が死没、
1279年
弘安二年
 
1月 塩谷泰朝が死没、 3月 南宋が滅亡、 6月 元が八回目の使節を派遣し博多で斬首
6月 南宋から無学祖元 (臨済宗) が来日し建長寺を住持、 7月 北條宗頼が死没、
1280年
弘安三年
 
3月 安達顕盛が死没、 8月 九条基家が死没、
1281年
弘安四年
 
5月 元軍が対馬壱岐を制圧して博多に襲来、6月5日に志賀島に上陸、7月末に日本軍の善戦と台風により壊滅し撤退、少弐資能・資時が戦死、 9月 北條宗政が死没、
1282年
弘安五年
 
時宗が円覚寺を創建、 1月 北條義雅が死没、 10月 日蓮が現在の池上本門寺 (wiki) で死没、
1283年
弘安六年
 
5月 阿仏尼が鎌倉で死没、 5月 中原師連 が死没、 9月 隆弁が死没、
1284年
弘安七年
 
4月 北條時宗が死没・九代執権は貞時、 5月 嶋津久経が死没、
1285年
弘安八年
 
11月 霜月騒動で安達一族が滅亡、 
1286年
弘安九年
 
9月 無学祖元が死没、二条為氏が死没、
1287年
弘安十年
 
クビライが三度目の日本侵攻を計画、 6月 北條業時が死没、
10月 後宇多天皇が退位し92代伏見天皇が即位、
1288年
弘安十一年
正応元年
 4月28日、正応に改元
伏見天皇即位による代始改元
1289年
正応二年
 
8月 一遍上人が兵庫津で死没、
1290年
正応三年
 
8月 叡尊が死没、 12月 二階堂行忠が死没、
1291年
正応四年
 
8月 少弐経資が死没、
1292年
正応五年
 
9月 安達頼景が死没、
1293年
正応五年
永仁元年
 8月5日、永仁に改元
4月 平禅門の乱で平頼綱が滅亡、
1294年
永仁二年
 
 
1295年
永仁三年
 
5月 佐々木氏信が死没、
1296年
永仁四年
 
2月 北條公時が死没、 6月 北條時兼が死没、
1297年
永仁五年
 
九代執権北條貞時が徳政令を発布、 9月 佐々木宗綱・南部実長が死没、
1298年
永仁六年
 
5月 宇都宮景綱が死没、 7月 伏見天皇が退位し93代後伏見天皇が即位、
1299年
永仁七年
正安元年
 4月25日、正安に改元
元使の一山一寧が来日・修禅寺に拘留、
1300年
正安二年
 
9月 大友頼泰が死没、 
1301年
正安三年
 
1月 後伏見天皇が退位し94代後二条天皇が即位、 3月 北條顕時が死没、
8~9月 彗星(ハレー)が出現、 8月 貞時が出家して退任し師時が十代執権に就任、
1302年
正安四年
乾元元年
 11月21日、乾元に改元
鎮西探題の北條實政 が死没、
1303年
乾元二年
嘉元元年
 8月5日、嘉元に改元に
7月 忍性が鎌倉極楽寺で死没 (享年88)、
1304年
嘉元二年
 
5月 佐々木貞宗が死没、
1305年
嘉元三年
 
4月 北條宗方の乱、
1306年
嘉元四年
徳治元年
 12月14日、徳治に改元
10月 覚山尼(時宗 正室)が死没、
1307年
 徳治二年
 
8月 北條時範が死没、
1308年
徳治三年
延慶元年
 10月9日、延慶に改元
8月 後二条天皇が崩御し95代花園天皇が即位、
1309年
延慶二年
 
11月 結城氏五代当主貞広が死没、 12月 北條貞房が死没、
1310年
延慶三年
 
未着手 
1311年
延慶四年
応長元年
 4月28日、応長に改元
7月 大友氏当主貞親が死没、 9月 10代執権師時が死没、後任は連署の宗宣
10月 北條貞時が死没、
1312年
応長二年
正和元年
 3月20日、正和に改元
6月 執権北條宗宣が死没、後任は十二代煕時 10月 無住道暁が死没、
1313年
正和二年
 
波木井長義が死没
1314年
正和三年
 
 
1315年
正和四年
 
7月 執権煕時が死没・十三代執権は基時、
1316年
正和五年
 
7月 基時が辞任し十四代執権に北條高時 が就任、宇都宮氏八代当主定綱が死没、
1317年
正和六年
文保元年
 2月3日、文保に改元
10月 北條時頼正室の葛西殿が死没、
10月 元の渡来僧 一山一寧が南禅寺で死没、
1318年
文保二年
 
1月 新田氏七代当主朝氏が死没、 2月 花園天皇が退位し96代後醍醐天皇が即位、
12~1月 幕府内で日印が諸宗を論破し布教を許可される、
1319年
文保三年
元応元年
 2月23日、元応に改元
後醍醐天皇即位による代始改元
1320年
元応二年
 
1月 法華宗の日朗が死没、
1321年
元応三年
元亨元年
 2月23日、元亨に改元
辛酉革命に当たるため改元 
1322年
元亨二年
 
1323年
元亨三年
 
8月 鎌倉に大地震、略奪あり、 
1324年
元亨四年
正中元年
 12月9日、正中に改元
6月 新田氏六代当主基氏が死没、 4月後宇多天皇が崩御、
9月 正中の変(後醍醐による倒幕計画)・後醍醐天皇の処分なし、
1325年
正中二年
 
嶋津氏四代当主忠宗が死没、
1326年
正中三年
嘉暦元年
 4月25日、嘉暦に改元
3月 高時 が辞職し十五代執権には貞顕が就任し10日後に辞任、十六代執権は守時、
10月 七代将軍 惟康親王が死没、
1327年
嘉暦二年
 
 
1328年
嘉暦三年
 
7月 冷泉為相 (藤原為家の子、定家の孫) が鎌倉で死没、 10月 久明親王が鎌倉八代将軍に就く、 11月 冷泉為守 (wiki) が死没、 12月 日蓮の孫弟子日印 (wiki) が死没、
1329年
嘉暦四年
元徳元年
 8月29日、元徳に改元
1月 安東蓮聖(御内人)が死没、 2月 政所執事二階堂行貞が死没、
1330年
元徳二年
 
4月 陸奥石川氏12代当主家光が死没、 11月 甲斐武田氏九代当主信宗が死没、
1331年
元徳三年
元弘元年
 8月9日、元弘に改元
後醍醐天皇が倒幕に失敗して廃位され隠岐流刑、持明院統(北朝)の光厳天皇が即位、
幕府と光厳天皇は改元を認めず、1332年に正慶に改元した。
1332年
元弘二年
正慶元年
 4月25日、正慶に改元
光厳天皇(持明院統)による改元、二つの年号が並立。
1333年
元弘三年
正慶二年
 
閏2月 後醍醐先帝が伯耆国船上山で挙兵、 4月 足利高氏が挙兵、 5月 六波羅が陥落
5月 新田義貞が挙兵、 5月末 鎌倉幕府と北條一族が滅亡、後醍醐が建武の新政を開始