古代~治承三年 (1179) 末までの主な事件を記載。 . 挙兵の前、若き日の 頼朝の恋物語や平家への遺恨などは「鎌倉時代を歩く 壱」に詳細を記述した。保元物語、平治物語、曽我物語、伊豆に残る伝承や史跡など、特に曽我物語は平安末期から鎌倉時代初期の世相考察には欠かせない。 . 猜疑心の強さや女癖の悪さなど、頼朝の性格形成の原点を眺めるのも面白い。 . | |||||||||||||||||||
4月 三位頼政
が挙兵、8月 頼朝が挙兵し石橋山と土肥堀口で敗れ安房に逃亡、 9月 木曽義仲が市原で平家側の地侍と合戦、 . 後白河法皇の第二皇子 以仁王が打倒平家の意思を固めた基本的な理由は清盛の専政だが、直接の動機は個人的な遺恨である。 . 後白河妃・建春門院盛子 (清盛の正妻時子の異母妹) の憎しみを受けた以仁王 (生母は後宮の典侍 藤原成子 (Wiki) は皇位継承どころか親王宣下 (公式な認知ね) も受けられず、平家に対して深い遺恨を抱いていた。 . この年6月に盛子が没し、7月には重盛が没した。平家衰退の兆しと見た後白河が二人の知行国と荘園を没収する強硬手段に出たが、激高した清盛は後白河院政を停止させ反平家の公卿多数を配流と解官に処し、更に嫡子 宗盛が後白河近臣を解任、併せて後白河の息子である以仁王の所領も没収した。 . ついにブチ切れた以仁王が頼政を抱き込んでクーデターに及ぶのだが... 加担せずとは言え、平治の乱に敗れた源氏なのに特に冷遇もされず、清盛に推奨されて従三位まで昇った老齢 (77歳) の頼政が、穏やかな老後を捨ててリスクの高い挙兵に踏み切ったのは何故か、納得できる理由が見当たらない。 . 頼政挙兵と頼朝挙兵の詳細は「鎌倉時代を歩く 壱」を参照されたし。併せて、彼が愛した菖蒲の前との物語も。 . | |||||||||||||||||||
養和元年 |
7月14日、養和に改元 |
1月 南都焼き討ち、閏2月 清盛没、3月 墨俣川合戦、 6月 信濃国横田河原で義仲が越後の城長茂らを敗走させる、 . 南都焼き討ちで多くの堂塔 (東大寺・興福寺) を焼き払ったのは暴挙だが、交渉のため事前に送った「軽武装の官兵60余人を殺して首を猿沢の池岸に並べた」興福寺の大衆 (僧兵) の責任も大きい。 . 宗教団体が数を頼んで (現代なら支持票か) 政治に関与し始めるとロクな事はない。創価学会や統一教会の例なんか 強訴 (wiki) 同然の圧力だし、戦争の多くが突発的な衝突から始まるのも事実だし。平家だけ責めるのも片手落ちだ。 . 南都焼き討ち前後の詳細は「鎌倉時代を歩く 壱」の その四に詳細を載せた。 . | |||||||||||||||||
寿永元年 |
5月27日、寿永に改元 | ||||||||||||||||||
| 吾妻鏡の記録が欠落 | |||||||||||||||||||
元暦元年 |
4月16日、元暦に改元 | ||||||||||||||||||
文治元年 |
8月14日、文治に改元 |
2月 屋島合戦、4月 壇ノ浦で平家滅亡、10月 義経が逃亡、同月 勝長寿院完成、 同月 義経捜索の名目で各地に地頭を設置、 . 平氏は一族を重用して滅び、源氏と北條氏は一族が殺し合って滅びる...まだまだ先の話だけどね。奥州藤原氏の悲劇を含めての諸行無常、「鎌倉時代を歩く 弐」の後半部分を参照されたし。 . | |||||||||||||||||
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建久元年 |
4月11日、建久に改元 | ||||||||||||||||||
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1月 政所設置、 3月 鎌倉に大火、 4月 佐々木定綱配流、 12月 法住寺殿が完成、 | ||||||||||||||||||
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4月 佐々木定綱赦免、5月 曾我の仇討ち、6月 多気義幹失脚、8月 範頼失脚・追討、 . 頼朝が伊豆流罪になった平治元年 (1159) から曽我物語は佳境に入る。実際の物語は工藤祐隆 (祐親の祖父) が中伊豆から伊豆東海岸に進出して所領を広げた応徳二年 (1086) 前後に伏線が始まるのだが、それは兎も角として曽我物語は実に面白い。一族の間で巻き起こった40年間の愛憎を描いた物語だ。 . 2020年に熱海から茨城県筑西市に転居した事もあって、22/11月につくば市の多気義幹墓所を訪問。頼朝と八田知家の謀略で滅亡した人物で、小田城址訪問記 の末尾に五輪塔の画像を載せた。画像をクリック→ 詳細ページへ (別窓)。 . 奈良西大寺から東国に下って布教と貧者救済に生涯を捧げた 忍性菩薩 が拠点を置いた 三村山清冷院極楽廃寺 の跡と併せて、どうぞ (共に別窓)。 . | ||||||||||||||||||
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| 吾妻鏡の記録が欠落 |
1月 土御門天皇誕生、11月 九条兼実失脚、近衛基通が関白、中宮任子が内裏退去、 . 建久七年一月~建久十年一月までの欠落について、一文を添えて置く。 . 吾妻鏡の欠落については古くから諸説があり、一般的に原本が「長い戦乱の中で失われた」と考えられているが、他にも「為政者である北條氏が都合の悪い部分を廃棄した」と考える専門家は多い。中でもこの三年間は鎌倉将軍が代替わりした特異な例で、逸失の背景を推測できる要素が多い。以下、妄想 (笑) に依拠する私説を書いて置く。 . 頼朝 の死没後に二代将軍を継承するのは 頼家。頼朝は建久六年の上洛の際に後継者として披露しているから、御家人への正式告知のタイミングは鎌倉に戻った同年夏~翌建久七年あたりの可能性が高いのだが、吾妻鏡の建久七年は欠落している。面白いことに、本来なら建久五~六年あたりに載るべき頼家の元服についても記載はない。 . 更に気になるのは頼家の嫡子 一幡 の誕生 (建久九年) に関する記述がない事。子煩悩な頼朝が溺愛する初孫を嬉々として披露する姿を吾妻鏡が載せない方が異様である。 . ここから想像できるのは、北條得宗の指示を受けた吾妻鏡の編纂者が、頼朝による「二代目鎌倉殿と、三代目鎌倉殿に予定した溺愛する一幡」を公式に披露した部分を消すために三年間の記録を廃棄、又は最初から創らなかったのではないか、という疑念だ。 . もちろん裏付けになるべき記録類は皆無だから所詮は想像に過ぎないのだが、頼朝の遺言が失われている事を含めて明白な意図が介在している、と私は考える。 . 遺言が存在した事は、吾妻鏡の正治元年 (1199)10月25日の項に何となく漏らした記事がある。公開に至らなかった理由や当事者を推理するのも面白い。 . 幕府の実権を掌握した北條執権は「初代鎌倉殿の意思に背き」更に「頼家と実朝の二代に跨る主殺し」を犯した記録を改竄または廃棄した、そんな妄想である。 . 吾妻鏡の編纂時期 (吾妻鏡を読むために、を参照) は正応三年 (1290) ~嘉元二年 (1304) の間と考えられているから、九代執権 貞時 か 十代執権 師時 (wiki) の時代で、イメージとしては貞時っぽい。 . 人間的には二代執権 義時 か 五代執権 時頼 なら関与し兼ねない...そんな先入観はあるのだが、編纂した年代には既に死没している。 . 吾妻鏡の記録が欠落 |
7月 大姫死没、 11月 一條能保死没、 . 大姫病死により天皇の義父になる頼朝の目論見は崩れた。更に乙姫(三幡)の入内を狙う策謀の途中で頼朝死没、その2ケ月後には乙姫も病没する。頼朝は甘い少年期を過ごした京都への回帰を夢見たのか、絶頂期の清盛を真似たのか。 . この動きが「頼朝の死は東国武士団の離反だった」説 (短絡的に過ぎる) を導き出す。 . 吾妻鏡を読もう。頼家の元服と跡目宣言の記事がない、頼朝の摘孫 一幡の誕生記事がない、頼朝死没の記事がない、遺言の披露がない、更にそれらの全てが建久七年 (1196) 1月~建久十年 (1199) 年1月までに集中しているのに、その間の吾妻鏡が完全に欠落している...これを正常だと思うのは能天気過ぎる、と私は考える。 . 吾妻鏡の記録が欠落 |
1月 後鳥羽上皇が土御門に譲位し院政へ、 9月 一条高能死没、 . 後鳥羽には「三種の神器」なしに践祚 (帝位継承) した負い目と「安徳天皇の在位中に (後白河の意向に従って) 帝位に就いた」負い目の二つがある。彼はこのコンプレックスを生涯抱き続け、強引な院政と承久の乱 (1221年) による不様な敗北を招いた。 . 「後」がつく天皇は 後白河 も 後鳥羽 も 後醍醐 も「後=劣悪な誤」だ... なんて戦前なら完全に不敬罪だね。正しい判断ができない者が権力を握る恐ろしさ。 . 更に言えば偏重に過ぎた資本主義は、メディアや世論どころか国政まで操作できる巨大な銭ゲバ集団を生み出す。GAFA や イーロン・マスクを見てごらん。 . そして安易な憲法解釈の変更が国政に関与する巨大なカルト 「創価学会」を生み出した。創価学会の利益を代弁する組織が政権与党として国政に関与なんて 明白な憲法違反だ。憲法20条の一項から三項まで、自分の眼で読んでごらん。 . 正治元年 4月27日、 正治に改元 |
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建仁元年 |
2月13日、 建仁に改元 |
2月 建仁の乱、 3月 千葉常胤死没、若宮大路の西が焼失、 6月 坂額が甲斐国へ、 7月 頼家が蹴鞠に熱中、8月 台風の被害が甚大、後半で泰時の優秀さを頼家と対比、 . 頼家が鎌倉殿に就いたのは建久十年 (1999)1月26日。13人の御家人に拠る合議制が敷かれ訴訟を決裁する権限が停止されたのは4月12日で僅か76日、吾妻鏡には特筆する様な頼家の悪政、乱行は記録されていない。 . 13人には北條時政と義時の二人が入り、古参の千葉胤正、畠山重忠、宇都宮朝綱、小山朝政、結城朝光、佐々木定綱、葛西清重は除外されている。さしたる落ち度がなかった頼家の権限を縮小し、時政主導の「偽装合議制」が発足したと判断される。 . | |||||||||||||||||
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1月 新田義重死没、2月 頼家が正三位に昇叙、5月 早河庄の半分を箱根権現に寄進、 8月 泰時が三浦義村の娘 (後の矢部禅尼) と婚姻、9月、頼家が駿河と伊豆で狩猟三昧、年間を通じ蹴鞠を楽しむ、 . 義村の娘は翌年に泰時の嫡男 時氏 を産むが、承元二年 (1208) 前後に離縁している (理由は記録がなく、不明)、時氏は27歳で病没し、執権を継ぐ事はなかった。 . 彼女は三浦に戻って実家の庶流佐原義連の嫡子盛連に再嫁して四人の男子を産んだ。 宝治合戦 (1247年)では佐原一族の多くは本家の三浦氏に与して滅亡したが矢部禅尼の息子四人は北條に味方し (母親の意思か)、滅亡した三浦宗家を継ぐ事になる。 . | ||||||||||||||||||
元久元年 |
2月20日、元久に改元 | ||||||||||||||||||
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1月 実朝が近衛中将着任、6月 畠山重忠が滅亡、直後に榛谷重朝と稲毛重成も滅亡、 閏7月 時政夫妻が失脚し北條に隠居、 8月 宇都宮頼綱が 謀反を疑われ隠居、 . 重忠を筆頭とする秩父平氏が武蔵国から駆逐され、時代は時政から義時・政子連合へ。 北條氏に敵対する勢力の殺戮が本格的にスタートする。 . 畠山重忠は「清廉な鎌倉武士の典型」とされるが、建仁三年 (1203) の比企の乱で主君頼家の愛妾と嫡男一幡を含む比企一族を皆殺しにした軍勢に加わっていた。 . もちろん攻撃に加わった小山や結城や三浦や和田も同罪だが、鎌倉武士の多くが「既得権つまり所領を守るためなら主殺しも厭わない輩」だったのは認めざるを得ない。 . | ||||||||||||||||||
建永元年 |
4月27日、建永に改元 |
2月 実朝が従四位下、 3月 桜井五郎が鷹狩りを披露、5月 加藤光員に押領の嫌疑、 7月 定暁が八幡宮別当に補任、 11月 東重胤が実朝の怒りを受ける、 . 鶴岡八幡宮の三代別当が定暁、建暦元年 (1211) に頼家の遺児・善哉 (12歳、成長後に実朝を殺す公暁) を弟子にして出家させた人物。 . 出家後の公暁は上洛して園城寺 (三井寺) の高僧公胤の弟子となり、18歳で鎌倉に戻り八幡宮別当に就任。その18ヶ月後の1月に雪の八幡宮で実朝を殺すことになる。 . 7歳の時に政子の計らいで実朝の猶子 (養子に準じる) になり、政子に養育され政子の意向で園城寺に入室し、政子の意向で八幡宮別当に就任した。公暁の生涯に祖母の政子が深く関与し、彼女の孫が彼女の息子を殺す。こりゃ何かあると思うよね、普通。 . | |||||||||||||||||
承元元年 |
10月25日、承元に改元 |
1月 実朝が二所詣、北條時房が武蔵守に、2月 法然が土佐配流、4月 実朝が体調不良 4月 九条兼実が没す、 6月 冷夏、飢饉の兆し、 . 法然は浄土宗の祖。承元元年(1207)には後鳥羽上皇から「念仏停止」の院宣が下り、法然は還俗を強要されて讃岐国に流罪、同時に弟子の親鸞も越後流罪となった。 . 直接の原因は、同年の後鳥羽院熊野詣の留守中に院の女房らが法然門下が開いた念仏法会に参加し、そのまま出家した事件が上皇の怒りを受けたため、とされている。 . 「阿弥陀仏を信じて「南無阿弥陀仏」の念仏を唱えれば死後は全ての人が平等に往生できる」と説いた事から熊谷直実など多くの武士が法然や親鸞の門下に集まった。 . 忍性、日蓮、法然、親鸞 の四人は鎌倉仏教を知る上で欠かせない宗教者である。 . | |||||||||||||||||
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5月 和田義盛が上総国司を望んで保留に、実朝が従三位に加えて右中将に任ず、 6月 土屋宗遠が梶原家茂を斬殺し罪は不問、 8月 定家が実朝に和歌の口伝書を贈る . 2008年、二人と二匹で信仰に無関係の熊野詣を。見るべき物は概ね見たし楽しい思い出も残せたが、犬が死んでからは悲しい思い出になった。 . 友人には再び犬を飼うよう勧められているが未だに決心できない。生き物は妻だけで沢山だ、なんちゃって (笑)。 熊野詣の記録はこちら (別窓) で。 . | |||||||||||||||||||
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建暦元年 |
3月9日、建暦に改元 |
1月 実朝 (19歳) が正三位、 9月 剃髪した公暁 (11歳) が園城寺 (公式サイト) へ、 10月、鴨長明 (wiki) が実朝を訪問、 12月 義盛が国司着任希望を撤回、 . この公暁が7年後の建保七年(1219)に雪の八幡宮で実朝を殺害する。公暁が修行した園城寺 (三井寺) も責任の一端を問われて幕府の援助を断たれ、苦しい状況が続いた。 . 「鎌倉の政僧」として名高い隆弁の尽力で、五代執権時頼の時代に関係が修復する。 園城寺で育った隆弁にとって園城寺の復興は生涯最大の夢だった。 . 方丈記で知られた鴨長明は下鴨神社 (公式サイト) の禰宜の息子で公職に恵まれない立場だった。実朝を訪ねたのは和歌の師としての採用を求めたため、と伝わっている。 . 実朝は藤原定家に私淑していたため望みは叶わず、方丈 (一丈 (10尺四方) の僧房) で生涯を過ごした。その方丈のレプリカは下鴨神社参道横 (正確な地図) にあるが、実際は南区の山の中、地図 だった。実朝が採用してたら方丈記は生まれなかった、か。 . 義盛国司の件、彼が正式に款状(上総国司に任じる希望)を提出したのは承元三年(1209)5月23日で、実朝から「暫く待て」と言われたのが同年11月27日。最初に希望を申し出てから2年半、「暫く待て」と言われてから一年以上が過ぎている。 . 実朝は撤回を知って怒ったらしいが、義盛の方が理屈に合っている。義時と政子の挑発だと判断するのが当然だ。 . | |||||||||||||||||
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建保元年 |
12月6日、建保に改元 |
2月 泉親衡の謀反計画が発覚、実朝が正二位昇叙、3月 首謀者の一人和田胤長流罪、 4月 旧和田胤長邸を義時が専有、5月 義盛の挙兵と滅亡、9月 比叡と興福寺の紛争、 . 「吾妻鏡を読む」の建暦三年頁に記載できなかった資料は「鎌倉時代を歩く 参」 の 伍 「滅びゆく古参御家人たち④ 老雄和田義盛の滅亡」に載せた。併読されたし。 . 相模国の古参御家人の多数が義盛に味方して合流する筈だったが義盛の決起が一日早まったため勝機を逸した。緻密で蟻一匹逃がさなかった畠山重忠追討に比べると義時の詰めの甘さが目立つが、平定後の残党追及は苛烈を極めた。 . 畠山一族を滅ぼした二俣川合戦の記録 (別窓) を参考に。 . | |||||||||||||||||
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1月 実朝持仏堂落慶供養、2月 東寺で盗難、3月 坊門信清死没、6月 陳和卿登場、 閏6月 廣元が大江姓に戻る、10月 実朝が中納言に昇る、11月 唐船の建造開始、 . 広元は当初から中原姓だったが煩雑なので本稿では大江に統一していた。実父は大江維光で養父が中原広季 (その逆の説もあり)とされる。 本姓の大江に戻す宣旨の申請には「長く世話になった中原氏には優秀な人物が多く、私としては大江家の衰運を見逃すことはできない」との内容がある。 . 陳和卿は平家の南都焼き討ちで溶け落ちた東大寺の大仏を鋳造・再生した渡来の工人。「多くの人を殺した罪深い人物」として頼朝との面会を拒絶し後に東大寺内部の紛争で追放されたのだが、21年後に現れて実朝に面会して語りかけた。 . 「貴方の前世は宋朝育王山の長老で、私はその門弟だった」。これは五年前に実朝の夢に現れた高僧の言葉と符合したから実朝はコロッと信じた。一種のオレオレ詐欺か。 . | ||||||||||||||||||
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承久元年 |
4月12日、承久に改元 |
1月 実朝が殺される、2月 政子が鎌倉殿を代行し後鳥羽院皇子の将軍下向を申請、 2月 阿野時元追討、 3月 院の使者藤原忠綱が下向、時房が千騎と共に上洛、 7月 九条道家の息 (後の頼経) が下向、官兵が源頼茂を追討、9月 二階堂行光死去、 . 実朝殺害についての私説。これは間違いなく 執権義時 が計画した事件だ。後鳥羽上皇 暗躍説、三浦義村 黒幕説、小侍の凶行説など多彩だが、いずれも根拠は薄弱だ。 . 全体の流れと殺害後の動向を詳細に見れば、全ての状況証拠は義時を差している。 そもそも事件の報告を受けた義時は殺害者の公暁を「捕えよ」ではなく「問答無用に討て」と命じている。 原文は「発使者件趣告右京兆云々無左右可素誅阿闍梨之由下知」、直訳すれば「義村は使者を送って右京兆 (義時) に仔細を報告、「直ちに誅殺せよ」との命令を受けた。」 . 普通なら「捕えて背後関係などを調べろ」だろう。明らかに口封じだ。頼家や一幡を殺した時政と同様に、義時にも源氏の血筋に対する配慮など一片もない。 . 更に冷徹なのは、全ての事件に政子も (共同謀議の有無は判らないが) 事前に了承していただろうと思われる事だ。この時代、親殺しこそ不道徳だが兄弟や子や孫を殺すことに痛みを感じない例は無数である。 . 「吾妻鏡を読む」に記載した資料の更なる詳細は「鎌倉時代を歩く 参」の「その六 鎌倉幕府三代将軍 実朝暗殺」を参照されたし。暗殺ではない、斬殺と書き換えるべきか。 . | |||||||||||||||||
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| 順徳→仲恭へ譲位 仲恭→後堀河へ譲位 |
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| 4月13日、貞応に改元 後堀河の代始による。 |
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元仁元年 |
11月20日、元仁に改元 天変炎旱(百錬抄)。 |
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嘉禄元年 |
4月20日、嘉禄に改元 | ||||||||||||||||||
| 元仁二年から安貞元年の 伏見本は欠落。 |
1月 藤原頼経
が征夷大将軍、3月 頼経禁色を許される、6月 泰時が銅銭使用を許可、 10月 評定衆制度がスタート、11月 将軍頼経が体調不良、奥州平泉の毛越寺焼失、 12月 政所前で火災、伊豆走湯権現が焼失、 . ここで言う毛越寺は寺域全体ではなく、大泉ヶ池の北岸にあった金堂の圓隆寺を差す。 ただし並立していた講堂や嘉祥寺や開山堂などの被災状況は確認できない。 . 毛越寺と平泉を含めた奥州の興亡に関しては「鎌倉時代を歩く 弐」のその拾四から先、奥州の悲劇 ①②③ に詳細を記述した。 . 銅銭は既に禁止を続けられる状況ではなくなっていた。公式な認可によって流通経済は更に大きく変わり中小御家人層の貧困は更に加速、徳政令の効果も短期間の効果に終わる。天変地異と御家人の不満、泰時の前途は多難である。 . | ||||||||||||||||||
安貞元年 |
12月10日、安貞に改元 |
1月 京都で時政十三回忌法事、 3月 大地震と余震、 4月 京都大内裏が全半焼、 5月 高麗国が倭人の略奪に抗議、 7月 京で念仏宗を弾圧、 11月 変異に対応し祈祷 . 時政の十三回忌法事を営んだのは後妻の牧の方。時政との間に産まれた娘が嫁した高位の公卿・藤原国通の屋敷に同居し、豪奢な暮らしを送った、と伝わっている。 歌人の藤原定家は一族を引き連れて寺社巡りを楽しむ牧の方を (妬み半分か?) 明月記の中で悪しざまに批判している。 . 安元三年 (1177) の大火でほぼ焼失した大内裏はその後の財政難もあって再建が遅れ、文治五年 (1189) 始まった再建計画も承久の乱の前 (1219)に焼失、今回の全焼によって完全に放棄された。 . 内野と呼ばれた廃墟は魑魅魍魎の跋扈する荒れ地となり、元弘三年 (1333) に足利高氏 (後の尊氏) が討幕に動いた際には六波羅探題軍と討幕勢の戦場になっている。 . | |||||||||||||||||
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寛喜元年 |
3月5日、寛喜に改元 |
2月 義村が三浦で来迎講を催す、 6月 比叡山と探題が紛争し幕府は弱腰の決着、 6月 八幡宮八代別当に定親補任、10月 由比ヶ浜で流鏑馬、11月以降 天変と地震、 . 翌年にかけて長雨と冷夏による未曽有の大飢饉、影響は貞永年間まで続いた。 . | |||||||||||||||||
| 伏見本の脱落多数。 他本との差異はなぜか? |
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貞永元年 |
4月2日、貞永に改元 |
2月 頼経が従三位に昇叙、5月 御成敗式目の作成に着手、8月 和賀江嶋の築堤完成、 8月 御成敗式目の編纂が完成、9月 彗星出現で騒動、10月 後堀河→四条に譲位、 12月 泰時が幕府創建以来の文書収集を指示、 . これまでの和賀江嶋には唐船など大型船の係留施設がなく、風雨によって漂流・難破する例が絶えなかった。貞永元年の築堤は相模や伊豆から運んだ石材を沈めて一ヶ月弱で造り上げた簡易な構造に過ぎなかった。 . 更に本格的な施設は 忍性が極楽寺を開いて港湾の維持管理と手数料の徴収権を得た文永四年 (1267) 以後を待つ事になる。築堤の北側には数本の石柱が建ち、大型船による荷揚げも容易だったと伝わっている。 . | |||||||||||||||||
天福元年 |
4月15日、天福に改元 | ||||||||||||||||||
文暦元年 |
11月5日、文暦に改元 | ||||||||||||||||||
嘉禎元年 |
9月19日、嘉禎に改元 地震頻発が主な理由 |
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1月 将軍頼経の疱瘡が平癒、2月 南都の紛争が鎮静化、3月 泰時が従四位下に昇叙、 3月 若宮大路幕府の新造が決定、 6月 願成就院で義時の十三回忌、 8月 若宮大路幕府に転居、 10月 再び蜂起した興福寺衆徒を鎮圧、 . 8月4日に完成して将軍家が転居。義時と政子の時代から人心一新のため泰時が考えた宇都宮辻子の政庁は僅か12年で廃された。元々「気分を新たに」がテーマで必然性に乏しかった政庁移転だったからね。背後霊 (政子 と 義時) から離れたかっただけ。 . 五代執権 時頼 以後の北條嫡流の代名詞「得宗」は義時の法名「徳崇」が転じたとするのが一般的だが、彼の正式な法名は「観海」。禅の廟号、訴訟用語の転用説がある。 . ちなみに北條嫡流は 時政 の長男 宗時 で、治承四年 (1180) の宗時死没後は牧の方 が産んだ政範が嫡流とされた。義時と泰時は庶流の江間氏であり、元久元年 (1204) 11月の政範病死後は成り行きで義時が嫡流を継承している。従って「得宗」は義時と無関係と考えるべきなのだろう。 . | ||||||||||||||||||
暦仁元年 |
11月23日、暦仁に改元 | ||||||||||||||||||
延応元年 |
2月7日、延応に改元 | ||||||||||||||||||
. 仁治元年 |
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| 吾妻鏡の記録が欠落 |
1月 四条天皇が崩御、 3月 後嵯峨天皇が即位、 6月15日北條泰時が病没、泰時の後継を巡り暗闘あり、嫡孫経時が執権職を継承、 9月 順徳上皇が佐渡で崩御、
泰時を継ぐ四代執権候補に飛び抜けた人材は見当たらず、泰時は「(同年代の) 実時と協力して政務に当たれ」と指示した。後には文人として才能を開き、引退後には金沢文庫 (wiki) を開創した才人である。 . 経時の没後は引付衆→ 評定衆として五代執権時頼を補佐し、更に八代執権時宗の時代には寄合衆に任じた。いま読み進めている吾妻鏡も、金沢文庫の蔵書から流失した元本の写本から派生した可能性が高い、と言う。 . 経時は寛元二年 (1244) に将軍頼経を解任して反得宗勢力を抑え込んだが体調を崩し、同四年 (1246) に23歳の若さで病没。吾妻鏡は「佐々目山麓に葬った」と伝えている。 . 経時が建立した笹目の蓮華寺は寛元元年 (1244) に材木座に移転して光明寺と改めており、裏山奥の代々住職墓地の奥 (詳細地図) の石塔に享年などが刻まれている。 . | ||||||||||||||||||
. 寛元元年 |
2月26日、寛元に改元 | ||||||||||||||||||
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1月 彗星が出現、 2月 頼経と頼嗣が体調を崩す、 4月 北條朝時が病没、 4月 訴訟関連の通達が数件、 7月 前将軍頼経出家、 8月 例年より豪奢な放生会、 8月 将軍藤原頼嗣が発病、9月 執権経時の病状が悪化、11月 鷹狩りを再び禁止、 . 個人的には若くて覇気が感じられる経時は好きなタイプだが、当時の幕閣の評価は高くなかった。六波羅北方の任にあった大叔父・極楽寺流の北條重時は朝廷に対して「 (執権の) 経時に事があっても穢気の必要はない」、つまり死没しても触穢 (死の穢れによる職務の自粛) の必要はない、と伝えている。 . 二代執権の義時や三代執権の泰時が没した際には触穢に伴う一ヶ月の職務停止があったから、重時は経時を軽く見ていた、のか。それとも経時に比べて五代執権を継ぐ時頼を傑物に見せる吾妻鏡編纂者の忖度があったのかも知れない。 . 3月23日には「深秘の御沙汰」があったとの記録があり、「執権職を舎弟の大夫将監北條時頼朝臣に譲る事が決まった。既に存命の見込みがなく、 (経時の) 二人の息子も幼いため政務の牢籠(停滞・行き詰まり)を防ぐため、執権として (経時の) 真実本心からの決断である。時頼は直ちに了承した。」とある。 . その程度の議論が「深秘の御沙汰」とか「真実本心からの決断」とは、笑止に過ぎる。 私には時頼と重臣たちが「権限移譲を承認」を迫ったか経緯の捏造に見えるのだが。 . | ||||||||||||||||||
寳治元年 |
2月28日寳治に改元 後深草の即位による |
2~3月 天変異変が続く、3月 北條経時一周忌、4月 安達景盛が高野山から鎌倉へ 4月 鶴岡の北に後鳥羽の霊を勧請し社壇を建立、 5月 執権側と三浦側が緊張状態に、 6月 三浦合戦で泰村一族が滅亡、妹婿千葉秀胤一族も追討、7月 隆弁が八幡宮別当に 7月 北條重時が連署に就任、11月 壽福寺が全焼、12月 訴訟に関し通達が数件あり、 . 12年も高野山に隠居していた景盛 (年令不詳、70歳を越えた頃か) が鎌倉に戻った背後には三浦一族前将軍頼経らの影響を排除したい時頼や重時の意思が働いていた筈だ。 . 正治元年 (1199) 7月16日から同年8月20日までの吾妻鏡には「頼家が景盛の妾女を奪った上に景盛に討手を向け、政子が必死で制止した」との逸話が詳細に語られている。 . これは明らかに「頼家の愚かさ」と「北條氏と安達氏の緊密な関係」と「主家の排除に挑む正当性」を主張する吾妻鏡の改竄または捏造と見るべきで、そんな関係にあった景盛が漫然と高野山を下るなんて有り得ない。 時頼は高野山の景盛に使者を送った時点で三浦一族討伐の準備を整えていたのだろう。 . 三浦一族や上総千葉氏が滅亡した宝治合戦については、吾妻鏡の記載を含めて【「鎌倉時代を歩く 参」の拾 滅びゆく古参御家人】に記述した。参照されたし。 . 焼失した壽福寺は再建されたが、10年後の正嘉二年 (1258) 1月17日の大火 (今回の火元は安達泰盛の甘縄邸、皮肉だね) 、吾妻鏡は「惣門・仏殿・庫裏・方丈など寺域すべての堂宇が焼け落ちた」と伝えている。 . | |||||||||||||||||
建長元年 |
3月18日、建長に改元 |
この年 吾妻鏡の記載なし、散逸と推定される。年間の主な事件のみ整理して列挙する。 大きな出来事として、3月の京都大火と12月の引付衆設置が挙げられる。 . 時頼が新たに設置した引付衆は評定衆 (司法・立法・行政三権を掌握) の下部組織で、多発する御家人の領地に関する訴訟処理を目的とする。定員は3人 (後に5人)、北條一族若年層の出世コースでもあった。 . ちなみに、有力御家人の合議を基本とした評定衆は北條氏の権力強化に伴って徐々に議決権を失い、宝治合戦 (1247) の後は北條一族の最高幹部+外戚の安達氏+諏訪氏などの御内人 (得宗被官) が構成する寄合衆に権力が移っていく。 . | |||||||||||||||||
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2月 熊野本宮焼失、3月 浅草寺と諏訪湖で怪異・熊野神倉焼失、4月 赤城山で山火事、 5月 時頼の次男(後の時宗)が誕生、6月 深刻な冷夏、評定衆の中原師員が死没、 9月 圓城寺復興助成を決定、11月 建長寺建立に着工、12月 足利泰氏が無届け出家、 11月 商店の位置を指定、12月 謀反計画に対処して誅殺と配流あり、 12月 朝廷でも九条道家の一族が勅勘を受けた。 この年の後半に幕臣の規律と訴訟に関する改革が多数実施された、 . 12月の謀反云々は九条道家らの排除が目的だった、と言われる。 反得宗の旗印だった前の将軍 頼経 (道家の実子) と孫の現将軍 頼嗣 と 名越流北條光時 が結託して幕府の実権を奪おうとした「宮騒動」である。 . 名越流北條氏の反発は更に続き、文永九年 (1272) の名越流 北條教時 (光時の弟) が謀反を起こし、八代執権北條時宗に討伐される「二月騒動」へと続き、時宗は異母弟の 時輔 を筆頭にした一族の不満分子を殺し、それを実行した御内人まで粛清してしまう。 . 翌年、謀反事件に関与したとの名目で将軍頼嗣と生母の大宮殿は京都に追放、新たな将軍として 宗尊親王を迎える。頼嗣の祖父・九条道家は翌・建長四年2月に死没、頼経は康元元年(1256)8月に、頼嗣は同年9月に死没して関係者は全て物故した。 . 歴代執権の中で時頼の評価は高いが類まれな独裁者の顔もまた事実である。 . | ||||||||||||||||||
1月 宗尊親王が急遽元服、2月 鎌倉で大火、宗尊親王
の鎌倉下向決定・頼嗣解任、 3月 宗尊親王が六代将軍として鎌倉へ、4月 前将軍頼嗣と弟と頼経の妻妾を京都送還、 4月 引付衆の組織を拡充、 7月 将軍家が新造御所に入御、 8月 大仏の鋳造開始、 9月 将軍家の病気と平癒、 11月 隆弁が権僧正に昇叙、宗尊親王が新造の御所へ、 . この年 律宗の僧 忍性 が布教のため常陸国小田へ。ここを拠点に水運を利用しつつ布教の範囲を広げ始める。 (三村山極楽廃寺 および 小田城址 (各、別窓) を参照) . 小田城址や鎌倉に点在する石造物、また箱根精進池の周辺に点在する巨大石造物群 (別窓) が忍性に率いられて東国に下った西大寺系の石工集団 (南宋から渡来した伊派や同系の大蔵派) による勢作である事も記憶に留める必要がある。 . | |||||||||||||||||||
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1月 時頼の三男宗政が誕生、4月 聖福寺開創・善光寺修造 4月 日蓮が法華宗を開く、 6月 安達義景死没、 11月 建長寺落慶供養、諏訪盛重が経時追善の小堂を建立、 12月、引付の組織を拡充、 . 極端に序列を重んじた時頼は、側室三河局が産んだ時輔と北條重時の娘・葛西殿が産んだ二人の弟 (時宗と宗政) との間に明確な格差をつけて育てた。 . それが時輔と時宗にどんな影響を与えたのかは判らないが、「国論の統一」との建前で時宗は時輔を殺し、宗政は献身的に時宗に仕え幕府軍が弘安の役に勝利した直後の弘安四年 (1281) 8月に29歳で死没する。 . 時輔と同じく側室 (詳細不明) が産んだ六男の宗頼と時宗は良い関係を保ったと伝わっているから、他人様の家族関係を云々しちゃダメ、という事か。 . ただし、時宗はさしたる意味もなく人を殺し過ぎた。二月騒動でも無実だった名越流の時章を殺し、かれの無実が判明すると自分が殺害を命じた被官の5人を斬首している。 . 更に元が派遣した使者は二度とも問答無用で斬首したし。32歳で没したのはその祟りかも知れないね。ずっと昔、軍神と称えられた 八幡太郎義家が死んだ夜も、近所の住人が地獄の鬼に引きずられて屋敷を出ていく義家の姿を見た、らしいから。 . | ||||||||||||||||||
1月 大町で大火、2月 京都で法成寺が焼失・結城朝光が死没、5月 人の質入れを禁止 6月 安達義景の一周忌&北條泰時の十三回忌あり、 7~9月 大雨の被害あり、 10月 炭・薪・糠などの価格統制令を発布、 11月 足利義氏(正義)が死没、 . この年、日蓮が鎌倉で辻説法を開始。「飢饉や災害は法華経を信じないからだ。真言宗は亡国、禅宗は天魔、念仏宗は無間、律宗 (真言律宗を含む) は国賊だぞ」って他宗を罵倒し続けるから、それなりの反発や権力の弾圧を受ける。 . 特に律宗の西大寺 叡尊 (wiki) や忍性に対しては「非人救済を隠れ蓑に幕府の権力と結託し和賀江嶋で関銭を貪る悪徳宗派だ」と誹謗中傷を繰り返した。 . 師の叡尊と弟子・忍性の関係は、実にバランスが良い。教理には詳しいが非人救済や社会の実務には疎い叡尊と、非人救済や諸々の実務の処理能力に長けた忍性。 . 忍性は目標に向けて突っ走り、叡尊は本来の信仰を忘れてはならぬとブレーキを掛ける。勿論それだけではないが両方をこなせる人材は滅多にいない。 . 日蓮が現代に蘇って「公明党を隠れ蓑に政府と結託して献金を貪る創価学会」を見たら嘆くだろう。創価学会は日蓮が説いた法華経を唯一無二の教義にしているからね。 . | |||||||||||||||||||
この年 吾妻鏡の記載なし、散逸と推定される。年間の主な事件のみ整理して列挙する。 | |||||||||||||||||||
康元元年 |
10月5日、康元に改元 |
3月 重時が連署を辞して出家し後任に政村が着任、併せて引付衆の人事異動あり、 4月 矢部禅尼が死去、 8月 前々将軍頼経が京都で死没、 9月 赤班瘡が大流行、 10月 前将軍頼嗣が京都で死没、 11月 時頼が出家し執権職などを長時 に委譲、 12月 勝長寿院の大部分が焼失、 . 極楽寺流・重時の嫡子長時に執権職を譲ったのは、安貞元年(1227)生まれの時宗がまだ5歳だったから。中継ぎとして六代長時と七代政村を挟んで文永五年 (1268) に17歳の時宗が八代執権となる。出家した時頼は...弘長三年 (1263) に病床に就くまで最高権力者として執権を支配し続けた。古今東西、独裁者は簡単に死ねないのだ。 . | |||||||||||||||||
正嘉元年 |
3月31日、正嘉に改元 | ||||||||||||||||||
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1月 甘縄から出火して寿福寺と新清水寺が焼失、 1月 勝長寿院の修造工事を開始、 3月 将軍宗尊親王が最初の二所詣、3月 戒壇許可宣下を巡り比叡山と圓城寺が紛争、 5月 圓城寺戒壇の許可宣下を撤回、6月 勝長寿院の落慶供養、8月 台風による災害、 7~8月 放生会供奉人選定で齟齬あり、 . 寿福寺は再建されたが生前の政子が建立した新薬師寺 (浄光明寺筋向いの谷、地図) はそのまま廃寺になり、本尊の鉄観音像も行方不明になったのだが、江戸時代になって小町通り角の「鉄の井」の井戸浚いをしたところ鉄観音の頭部が現れた。 . 火事の際に強い光が巽 (東南) に走ったと伝わるから、ここに退避したのだろうとの結論になり、井戸の前に観音堂を建てて祀った。そして明治初期の神仏判然令に伴って日本橋人形町の寺に引き取られ、現在は大観音寺の本尊になっている、という長い話。 . 作り話っぽい部分もあるが、この頭部が新清水寺の鉄観音だったのは間違いないだろう。 新清水寺から鉄の井までは直線で約200m、移動の方法はもちろん不明だ。 . 我が国最初の戒壇については、下野国庁跡と下野国分寺を経て薬師寺跡と龍興寺へ の中段以下に詳細の経緯を記述した。様々な宗派が戒壇を競い合う時代もあったが、今は如何なっているのか...一時は日蓮正宗と創価学会が激しく争った事もあった。 . ここでは園城寺出身の僧 隆弁 が寺門 (園城寺) 復興のシンボルとして設置の勅許を得たのだが、山門 (延暦寺) が絶対反対の強訴を展開して撤回させた、という事。園城寺も延暦寺も同じ天台宗なんだから笑っちゃうけど。 . | ||||||||||||||||||
正元元年 |
3月26日、正元に改元 | ||||||||||||||||||
文応元年 |
4月13日、文応に改元 . ←西暦から吾妻鏡本文へ、 ←和暦から写本画像へ、 |
1月 戒壇を巡って比叡山と圓城寺の紛争が頻発し戒壇設置の認可宣下は撤回される、 3月 将軍家が近衛兼経の娘(時頼の猶子)と婚姻、4月 仙洞御所焼失、鎌倉でも大火、 6月 疫病と長雨に対応して祈祷あり、時頼が息子三人の序列明確化をアピール、 7月 日蓮が立正安国論を時頼に提出、 8月 将軍家が赤痢、日蓮の松葉ヶ谷法難、 10月 政村の娘が狂乱と平癒、11月 将軍が二所詣で、12月 葉室光俊が鎌倉下着、 . 立正安国論は飢饉や疫病は邪教が原因で法華経を正宗にと求める内容で反発も激しい。 政村の娘は比企の乱で死んだ讃岐局の怨念が原因、僧正隆弁の祈祷により回復した、 葉室光俊は新三十六歌仙の一人、六代将軍宗尊親王の師として鎌倉歌壇を指導した、 . | |||||||||||||||||
弘長元年 |
2月20日、弘長に改元 | ||||||||||||||||||
| 吾妻鏡の記録が欠落 | |||||||||||||||||||
文永元年 |
2月25日、文永に改元 吾妻鏡の記録が欠落 |
2月 延暦寺が焼失、 延暦寺衆徒の強訴が頻発、 4月 後の七代将軍惟康親王が誕生、 5月 延暦寺衆徒が円城寺の大部分を焼く・北條朝直死没、 6月 日照りが続く、 8月 北條長時死没、執権は政村、連署は時宗、小侍所別当は宗政と業時、 10月 時輔が六波羅南方に就任、11月 日蓮の小松原法難、12月 執権政村が昇叙、 . 執権長時は実権を時頼・重時に握られ時頼を追う様に死没した穏和が取り柄の人物、 小松原法難は母を見舞った安房で念仏宗の地頭に襲われ重傷、数人の弟子を失った事件、 次代は政村・時宗体制へ、文永五年 (1268) には時宗・政村体制に、文永十年 (1273) の政村死没後は重時の子 義政が連署を務める、 . | |||||||||||||||||
2月 将軍家の二所詣あり、3月 町屋(商店)を認可する市内七ヶ所を再指定、大地震、 6月 安達義景の十三回忌、評定衆と引付衆を増員、 9月 将軍正室が女児を出産、 12月 彗星が出現、 . 改定した町屋の位置は本文に地図を添付してある。 . | |||||||||||||||||||
3月 引付衆を廃止し訴訟担当を問注所に変更、 6月 将軍正室近衛宰子の密通が露見、 7月 将軍宗尊親王を解任更迭、宰子と掄子女王も京都へ、惟康親王が将軍宣下、 11月 蒙古が一回目の使節を派遣したが高麗の非協力により対馬から帰還、 . 将軍正室の密通は将軍宗尊親王の謀反として処理され7月に京都に追放、11月に正室と姫も送還した。密通相手の良基僧正は高野山に逃げて断食して死没 (北條九代記)。親子三人で幸せに暮らしたとの俗説は捏造だろうが、私は宰子の密通は事実だと思う。 . 国書の不着に激怒した元の皇帝クビライ (wiki) は使節の再派遣を高麗に厳命した。 二年後の文永五年(1268)1月、高麗による第二回使節団が大宰府に到着する。 . 一説に、クビライは チンギス・カン (wiki) の孫だ、と。平泉から大陸に逃れた 義経はモンゴルを平定してチンギス・カンとなったが異民族の素性を隠した、クビライは祖父の母国との友好を求めたが 時宗に拒否されて戦闘状態になった、という壮大な夢物語。 . 高木彬光の「成吉思汗の秘密」は義経が奥州の娘に産ませた子の子孫の青年と満州国皇帝の弟・溥傑の娘が起こした 天城山心中 (wiki) を800年を隔てた輪廻として描いた。 . 「鎌倉時代を歩く 四」の最終章は天城山心中で閉じる計画だったのだが途中で馬鹿々々しくなって放棄、中途半端になった。私は何をしようと思っていたのか? . 詳しく調べると、義経は間違いなく平泉で自殺しているのだからモンゴルには渡れず、チンギス・カンに変身できず、話を続ける根拠がない。まぁ元々チンギス・カン=義経なんて最初から信じていないから、この件は自業自得だ。 . 義経自殺の経緯は「鎌倉時代を歩く 弐」の拾七 奥州の悲劇 ③ の後半に記載した。 . |
2月 元が三回目の使節を派遣し対馬から島人2名を連行、 9月 四回目の使節が到着、 | |||
3月 北條有時が死没、 5月 足利泰氏が死没、 | |||
9月 元から五回目の使節が到着、 10月 日蓮の龍ノ口法難と佐渡流罪、 | |||
4月 元が高麗国を吸収し朝鮮半島を完全制圧、 | |||
1月 亀山天皇が退位し91代後宇多天皇が即位、 3月 日蓮が佐渡流罪を赦免、 5月 日蓮が甲斐南部の地頭・波木井実長の招きに応じて身延山)へ、 10月 元が対馬・壱岐を制圧、 10月 元が肥前松浦郡の博多湾に上陸、10月末に撤退し11月末には朝鮮半島に退却 | |||
建治元年 |
4月25日、建治に改元 | 4月 元から七回目の使節が到着、9月 使節5名を龍ノ口で斬首、5月 藤原為家が死没 | |
弘安元年 |
2月29日、弘安に改元 | ||
1月 塩谷泰朝が死没、 3月 南宋が滅亡、 6月 元が八回目の使節を派遣し博多で斬首 6月 南宋から無学祖元 (臨済宗) が来日し建長寺を住持、 7月 北條宗頼が死没、 | |||
3月 安達顕盛が死没、 8月 九条基家が死没、 | |||
5月 元軍が対馬壱岐を制圧して博多に襲来、6月5日に志賀島に上陸、7月末に日本軍の善戦と台風により壊滅し撤退、少弐資能・資時が戦死、 9月 北條宗政が死没、 | |||
11月 霜月騒動で安達一族が滅亡、 | |||
9月 無学祖元が死没、二条為氏が死没、 | |||
クビライが三度目の日本侵攻を計画、 6月 北條業時が死没、 10月 後宇多天皇が退位し92代伏見天皇が即位、 | |||
正応元年 |
4月28日、正応に改元 | 伏見天皇即位による代始改元 | |
8月 一遍上人が兵庫津で死没、 | |||
8月 叡尊が死没、 12月 二階堂行忠が死没、 | |||
8月 少弐経資が死没、 | |||
9月 安達頼景が死没、 | |||
永仁元年 |
8月5日、永仁に改元 | 4月 平禅門の乱で平頼綱が滅亡、 | |
5月 佐々木氏信が死没、 | |||
2月 北條公時が死没、 6月 北條時兼が死没、 | |||
九代執権北條貞時が徳政令を発布、 9月 佐々木宗綱・南部実長が死没、 | |||
5月 宇都宮景綱が死没、 7月 伏見天皇が退位し93代後伏見天皇が即位、 | |||
正安元年 |
4月25日、正安に改元 | 元使の一山一寧が来日・修禅寺に拘留、 | |
9月 大友頼泰が死没、 | |||
乾元元年 |
11月21日、乾元に改元 | 鎮西探題の北條實政
が死没、 | |
嘉元元年 |
8月5日、嘉元に改元に | 7月 忍性が鎌倉極楽寺で死没 (享年88)、 | |
5月 佐々木貞宗が死没、 | |||
4月 北條宗方の乱、 | |||
徳治元年 |
12月14日、徳治に改元 | 10月 覚山尼(時宗
正室)が死没、 | |
8月 北條時範が死没、 | |||
延慶元年 |
10月9日、延慶に改元 | 8月 後二条天皇が崩御し95代花園天皇が即位、 | |
11月 結城氏五代当主貞広が死没、 12月 北條貞房が死没、 | |||
未着手 | |||
応長元年 |
4月28日、応長に改元 | 7月 大友氏当主貞親が死没、 9月 10代執権師時が死没、後任は連署の宗宣 10月 北條貞時が死没、 | |
正和元年 |
3月20日、正和に改元 | 6月 執権北條宗宣が死没、後任は十二代煕時 10月 無住道暁が死没、 | |
波木井長義が死没 | |||
7月 執権煕時が死没・十三代執権は基時、 | |||
7月 基時が辞任し十四代執権に北條高時
が就任、宇都宮氏八代当主定綱が死没、 | |||
文保元年 |
2月3日、文保に改元 | 10月 北條時頼正室の葛西殿が死没、 10月 元の渡来僧 一山一寧が南禅寺で死没、 | |
1月 新田氏七代当主朝氏が死没、 2月 花園天皇が退位し96代後醍醐天皇が即位、 12~1月 幕府内で日印が諸宗を論破し布教を許可される、 | |||
元応元年 |
2月23日、元応に改元 | 後醍醐天皇即位による代始改元 | |
1月 法華宗の日朗が死没、 | |||
元亨元年 |
2月23日、元亨に改元 | 辛酉革命に当たるため改元 | |
8月 鎌倉に大地震、略奪あり、 | |||
正中元年 |
12月9日、正中に改元 | 6月 新田氏六代当主基氏が死没、 4月後宇多天皇が崩御、 9月 正中の変(後醍醐による倒幕計画)・後醍醐天皇の処分なし、 | |
嶋津氏四代当主忠宗が死没、 | |||
嘉暦元年 |
4月25日、嘉暦に改元 | 3月 高時
が辞職し十五代執権には貞顕が就任し10日後に辞任、十六代執権は守時、 10月 七代将軍 惟康親王が死没、 | |
元徳元年 |
8月29日、元徳に改元 | 1月 安東蓮聖(御内人)が死没、 2月 政所執事二階堂行貞が死没、 | |
4月 陸奥石川氏12代当主家光が死没、 11月 甲斐武田氏九代当主信宗が死没、 | |||
元弘元年 |
8月9日、元弘に改元 | 後醍醐天皇が倒幕に失敗して廃位され隠岐流刑、持明院統(北朝)の光厳天皇が即位、 幕府と光厳天皇は改元を認めず、1332年に正慶に改元した。 | |
正慶元年 |
4月25日、正慶に改元 | 光厳天皇(持明院統)による改元、二つの年号が並立。 | |
正慶二年 |