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文治六年(1190年)、4/11 改元して建久元年
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西暦・天皇・上皇
和暦・月日・史料
吾妻鏡に記載してある内容の意訳、関連する情報、補足事項など
西暦1190年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治六年
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1月 1日 丙辰
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吾妻鏡
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   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
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頼朝は例年の通り鶴岡八幡宮に参拝し奉幣した。御所に還御の後に椀飯 (Wiki) の儀を行った。
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   ※年令: 元暦二年 (1184) 4月に平家が滅亡、文治五年 (1189) 8月に奥州藤原氏が滅亡した。
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源頼朝 42歳、 万寿 (後の頼家) 7歳、 大姫 11歳、 源範頼 39歳、 阿野全成 35歳、
源義経 前年8月 平泉で死没 (享年29) 、
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北條時政 51歳、 北條政子 32歳、 北條義時 26歳、 北條時房 15歳、 千葉常胤 71歳、
千葉胤正 48歳、 三浦義澄 62歳、 足利義兼 36歳、 足利義純 13歳、 安達盛長 54歳、
大江広元 41歳、 畠山重忠 25歳、 梶原景時 49歳、 宇都宮朝綱 70歳、 土肥実平 64歳、
岡崎義実 78歳、 加藤景廉 33歳、 佐々木定綱 47歳、 二階堂行村 34歳、 中原親能 46歳、
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後白河法皇 62歳、 後鳥羽天皇 9歳、 九条兼実 40歳、 吉田経房 47歳、 土御門通親 39歳、
丹後局 38歳、 一条能保 42歳、 藤原定家26歳、 慈円 34歳、 法然 54歳、
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      (全て1/1時点の満年令、一部の年齢は推定)
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西暦1190年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治六年
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1月 3日 戊午
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吾妻鏡
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九郎籐次が飛脚として上洛の途に就いた。これは鷲の羽一櫃 (大形の箱) を院に献上するためで、去年送る筈だったが戦乱のため奥州からの納入が遅れていたものである。
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今日、頼朝が外出始めとして比企籐四郎能員宅に入った。越後守 安田義資 (義定の嫡子) 、駿河守 新田義兼、伊澤五郎 (石和信光) 、小山七郎朝光 (結城朝光、御劔持ち) らが供を務めた。
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   ※九郎籐次: 安達盛長の次男時長 (景盛の次弟) で生母は 丹後内侍。後の建暦三年 (1213) の 和田合戦
の恩賞で得る武蔵国 長井荘 ( 平家に殉じた 斎藤実盛が別当だった) の一部を本領とする。嫡子長泰の代に分家し大曽祢荘 (山形市大反田、地図) を相続して大曽祢氏の祖となった。
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   ※鷲の羽: 蝦夷地経由だけで手に入る交易品で、矢羽根などに利用された貴重品。
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西暦1190年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治六年
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1月 4日 己未
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吾妻鏡
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出雲大社神主の資忠が先日鎌倉に参候した。一つの神社を管理する立場にある者が数日間職務を離れて下向するのは今回が二度目であり、心良く思わなかった頼朝は面会を認めなかった。今日帰国する旨を聞き、神慮に気を配って御前に召し、剣一振を献納した。
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   ※長田資忠: 出雲に勢力を持っていた父の資経は平家に与していたが頼朝の伊豆配流の際に一族の資家
を同行させた。待賢門院 (崇徳後白河の生母) と 上西門院を介した配慮か) 、その恩に報いるため本領を安堵し、息子資忠は国造孝房に替り出雲大社の惣検校職に補任された。
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また朝廷との連絡業務に再三任じていた頼朝の雑色 時澤も資忠の系累だったらしい。
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西暦1190年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治六年
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1月 6日 辛酉
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吾妻鏡
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藤原泰衡の郎従だった 大河次郎兼任 (Wiki) らが昨年末から謀反を企て、伊予守 義経を称して出羽国海辺庄 (山形県遊佐町) に現れた。
また左馬頭 木曽義仲の嫡男朝日冠者とも称して同国山北郡 (大仙市付近か、地図) で挙兵し勢力を強めている。
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兼任は嫡子の鶴太郎と次男の畿内次郎を伴って七千余騎の軍兵と共に鎌倉を目指し、河北 (最上川と寒河江川の合流点、地図) と秋田城 (地図) を経て大関山 (笹谷峠、地図) を越え多賀国府 (地図) に入ろうとした。
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しかし秋田大方 (八郎潟) の志加の渡を越える際に突然氷が割れ、軍兵五千余人が溺死したのは天誅であろうか。
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  右は八郎潟周辺の大河兼任の乱 関連鳥瞰図  クリック→ 別窓で拡大表示
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   ※大河兼任: 出羽国大河 (現在の五城目町大川、地図) を本領とした奥州藤原氏の郎党。道の駅 五城目
ある落ち着いた町並みで中世には海辺だったが、八郎潟の干拓で様相は大きく変わる。
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   ※志加の渡: 場所は四説あり確定していない。積雪期に長距離行軍している事 (1月6日は新暦の2月12日)
や、地元の渡河で氷が割れた事などは明らかに合理性に欠けるし、兵数と溺死者数なども信憑性が乏しい。溺死場所の四説は下記、その位置は右画像、兼任の行動経路は下の地図で確認を。順路も位置もかなり交錯している。
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①本領に近い馬場目川説(地図)  ②能代市向能代の米代川説(地図
③三種町の鹿渡川説(地図)    ④三種町久米岡新田の三種川説(地図
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兼任は由利中八維平に使者を送って「昔から六親 (父、母、兄、弟、妻、子、またはその周辺) の遺恨を晴らすのは普通だが、主人の仇を討つ例はない。私はその先例を目指して鎌倉に向かう。」と伝えた
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維平は小鹿嶋大社山と毛々佐田で二度の防戦に努めたが、討ち取られた。
兼任は更に千福山本と津軽で合戦し、宇佐美平次ら御家人と雑色の澤安らを殺した。これを知った在国の御家人らは飛脚を鎌倉に送って状況を報告した。
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  右は東北一帯の大河兼任の乱 関連スポット  クリック→ 別窓で拡大表示
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   ※兼任の連絡: 由利維平との接触は宣戦布告でなく欄に加わる誘いだった
可能性も考えるべきか。元々由利維平は泰衡の郎党であり出羽で捕虜となった後に頼朝の赦免を受けている。
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ただし「主人の仇を討つ例はない」は当時の武士の忠義心の及ぶ範囲を見るようで面白い。
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   ※小鹿嶋大社山: 雄鹿半島の 真山神社 (観光案内サイト) 説が最も有力視
されている。
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   ※毛々佐田: 秋田市新屋町の雄物川河口 (地図) 。
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   ※千福山本: 能代市南東部の檜山川流域 (地図) か。
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西暦1190年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治六年
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1月 7日 壬戌
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吾妻鏡
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去年の奥州合戦で囚人となった二籐次忠季は大河次郎兼任の弟で温厚な人物、既に鎌倉御家人となっている。
頼朝の命令に従って奥州に下向していたが途中で兼任叛逆事件を知り、今日鎌倉に戻ってきた。兼任の兄弟ではあっても考えが違うため鎌倉に忠義を示すための帰参である。
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頼朝はこれを喜び、急いで奥州に向かって兼任を追討せよと命じた。忠季の兄新田三郎入道も同じく兼任に背いて鎌倉に入ったため状況を把握した頼朝は驚き、軍勢を派遣する手配を行なった。 平盛時二階堂行政らが命令書を書き相模国以西の御家人に送付した。征伐の準備をして鎌倉に参上せよとの内容である。
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   ※兼任に背き: 奥州合戦の終結が 9月初旬だからまだ三ヶ月。離反は正義云々よりも利害の判断だろう。
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西暦1190年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治六年
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1月 8日 癸亥
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吾妻鏡
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奥州の反乱に対応するため軍兵を派遣した。大将軍は海道千葉介常胤、山道比企四郎能員である。
また東海道岩崎の武士から「常胤を待たず進みたい」との申請があり、頼朝はこれを許した。
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彼らは奥州の住人ではあるが鎌倉に二心を持っていない。互いに信頼し協力して合戦を遂げよとの指示を飛脚に託して奥州守護の御家人に派遣した。他に近国の御家人で 結城七郎朝光ら (奥州合戦で) 所領を得た者は (鎌倉の) 本隊を待たず、各自が急いで奥州に向かえ、との命令を下した。
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   ※海道と山道: 常陸から海沿いに北上して多賀国府までが海道、
山道は奥州征伐で頼朝が進んだ白河関を通る奥州街道より日本海沿いの東山道が該当する。
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   ※奥七郡: 那珂東と西は 常陸大宮市、那珂市、ひたちなか市、
東海村、多賀郡は 北茨城市、高萩市、日立市、久慈東と西は 大子町、常陸太田市、佐都東西は 常陸太田市南部と日立市南部。
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   右の行政区分地図 (別窓で拡大) を参照
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   ※岩崎の武士: この地名は数ヶ所あるが「東海道は常胤を待たず
と鎌倉に申請」の文言を考えると当時は奥七郡の久慈郡にあった常陸大宮市の岩崎(地図)か。
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西暦1190年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治六年
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1月13日 戊辰
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吾妻鏡
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一條能保からの書状が到着。出雲大社の神主資忠が院の意思に背き召喚にも応じていない。
更に関東の祈祷に任じているとして権威を振り翳し、密かに鎌倉と往来しているとの噂もある。そのため朝廷の権限である神職の任免権によって更迭しても構わないか、との照会があった、との事。
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頼朝は「その類の件は判断できないし、鎌倉が介入する範囲でもない」との返答を送った。
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今日、奥州での反乱を鎮めるため上野国と信濃国の御家人に出陣を命じた。
次に上総介 足利義兼が追討使として出発し、千葉新介胤正が一方の大将軍に任じた。胤正は葛西三郎清重は特に勇敢な武将であり、先年の上総国合戦の際には一緒に戦った仲なので再び共に合戦を遂げたい」と希望したため、頼朝は奥州に在任中の清重にその旨の書状を送った。
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その他、左近将監 古庄 (大友) 能直と宮六兼仗国平ら奥州に所領を持っている武士の殆どが出陣した。
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   ※千葉新介: 老齢の父常胤から新たに「介」を継ぐとの意味。常胤の場合も「介」は朝廷が任じた正式
な官職ではなく「千葉荘を実質支配する」の意味、これは「三浦介」も同様らしい。
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西暦1190年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治六年
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1月15日 庚午
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吾妻鏡
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頼朝が二所詣でに出発した。千葉小太郎成胤 (胤正の嫡男で後の五代当主) は今回の奥州合戦で功績を挙げたため特に賞賛を受け、感状を贈られた。ただし合戦に於いては一番乗りを競うような事はせず、先登に進まないで慎重に振舞うように、との内容である。
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西暦1190年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治六年
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1月18日 癸酉
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吾妻鏡
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頼朝一行は 伊豆山権現に到着。奉幣前に 鎌倉を6日に出発した 葛西清重の飛脚が奥州から到着して報告した。
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大河兼任と御家人の合戦が始まった。味方の中で小鹿嶋の 橘公成 (公業) 宇佐美平次実政大見平次家政と石岡三郎友景が討死し、由利中八維平は攻撃を受けて城を放棄し逃走した。飛脚は二人で出発したのだが、一人は急病で到着が遅れている。 と。
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頼朝は「飛脚の話は間違いだろう。討死は由利維平で逃げ出したのが橘公成、彼らの性格を考えれば推察できる」と言った。
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そして飛脚を奥州に送り返し「援軍を派遣したから問題ない、慌てずに待機せよ」と伝えさせた。間もなく大見家政からの報告が届いたがこれは既に彼が討死した後である。
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   ※実政と家政: 大見氏と宇佐美氏の系図は養子関係などにより
かなり交錯しているため詳細は不明だが、大見家政と宇佐美実政は親子と推定される。
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   右は宇佐美氏の本拠 城山の墓所。クリック→ 別窓で詳細頁へ
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西暦1190年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治六年
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1月19日 甲戌
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吾妻鏡
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清重が派遣した飛脚の残る一人の病が癒えて伊豆国府に到着し合戦の詳細を報告した。
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内容は 18日に到着した飛脚の言葉と同じだが、兼任が小鹿嶋 (現在の真山神社) に攻め寄せた時には橘公成は逃走、由利維平は直ちに飛び出し戦って落命した、と。頼朝の言葉通りなので人々は舌を巻いた。
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   ※伊豆国府: 二所詣ルートの三嶋大社近くだが正確な場所は不明。詳細は 三嶋大社と周辺の風景で。
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   ※小鹿嶋: 現在の雄鹿半島の 真山神社 (観光案内サイト) 説が最も有力視されている。
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西暦1190年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治六年
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1月20日 乙亥
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吾妻鏡
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夜になってから 頼朝が二所詣から鎌倉に帰着した。
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今後の参詣は最初に三嶋大社と箱根権現に奉幣し、次に伊豆山を経て鎌倉に戻る経路と定められた。
前回は最初の伊豆山権現に参拝する途中で 石橋山合戦場に立ち寄り、佐奈田余一と豊三 (余一の郎従) の墳墓を見て涙を流していた。治承合戦でこの両人が敵に討たれた悲しみを思い出したためだが、これは参拝の途上で縁起が悪く前途が憚られると先達が申し出て経路を変えたものである。
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   ※奉幣の順序: 原文は「先有御奉幣先有御奉幣三嶋筥根等。自伊豆山等。」
「三嶋筥根」は「三嶋から筥根」の順序ではなく、「三嶋と筥根を先に奉幣して」の意味だろう。三嶋→ 筥根では往還ルートが重複してかなり遠回りになる。
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西暦1190年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治六年
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1月22日 丁丑
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吾妻鏡
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小諸太郎光兼は既に老齢の上に持病を抱えていると聞いているが優れた勇士なので再び奥州に派遣された。
去年の合戦で功績を挙げた武士であり 、その時に共に戦った者は光兼に従って出陣せよとの仰せがあった。
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   ※小諸光兼: 前年 12月23日に記載がある小室義兼も太郎。同じ滋野一族の同一人物か。
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西暦1190年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治六年
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1月24日 己卯
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吾妻鏡
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去年の奥州合戦の後に頼朝の恩赦を受け、私宅周辺を安堵された金剛別当の郎従らは全て追放せよ。その命令が頼朝から奥州居住の御家人に下された。
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西暦1190年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治六年
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1月27日 壬子
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吾妻鏡
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小鹿嶋の橘次公成が奥州から参上した。奥州の合戦で大河兼任の包囲から逃れた後に作戦を講じようと考えた事が他の御家人から糾弾されていると聞き、説明するため鎌倉に駆け付けたものである。
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西暦1190年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治六年
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1月29日 甲申
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吾妻鏡
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雑色を使者として奥州に派遣した。「敵軍が領内を通った時に、手柄を狙うため少数の兵で合戦を挑むなど無益な行動をしてはならぬ。それは例えば客を迎えてから領内で食材を捜すようなもの。鎌倉から派遣した武士も在国の武士も立場の違いに拘泥せず、協力して軍議を重ねた後に合戦せよ。」と、書状で御家人に指示を与えるためである。
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由利維平が敵を迎えて討ち死にしたのは賞賛に値するように見えるが、思慮が不足したとも言える。橘公成の行動は深慮の裏付けがあったのかも知れぬ、と。
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西暦1190年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治六年
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2月 1日 乙酉
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吾妻鏡
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   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
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鶴岡八幡宮の廻廊で大般若経の読誦 (歌う如くの発声で読むこと) があり、宮寺の供僧らがこれを行なった。
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西暦1190年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治六年
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2月 2日 丙戌
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吾妻鏡
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朝廷に献上する馬 20疋が京都に向け出発した。納付の明細などは 一條能保から提出させる。
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西暦1190年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治六年
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2月 4日 戊子
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吾妻鏡
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頼朝は今年の 10月に上洛の予定である。その際に付き従う兵などについて諸国の御家人に手配を命じた。
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西暦1190年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治六年
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2月 5日 己丑
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吾妻鏡
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雑色の眞近、常清、利定らを奥州に派遣した。奥州の各地に広がった合戦の詳細を確認させ、また御家人が反乱軍を鎮圧できないなら援軍を差し向ける事になり、その判断を 千葉新介ら御家人に命じるためである。
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合戦の様子から判断すると騎馬よりも歩兵の方が山や沢の搜索に適している。首魁の居場所を捜して攻撃し、落人は郎党に至るまで拘束して連行せよ。勝手に取り調べて裁決したり仲間内で争論をしてはならない、と。
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西暦1190年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治六年
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2月 6日 庚寅
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吾妻鏡
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辰刻 (朝8時前後) に奥州からの飛脚が到着、先月 23日に奥州を出発したがその時点で援軍はまだ到着していなかった。大河兼任の軍兵は蜂が群れるような勢いである、と。
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頼朝は即刻に雑色の里長を飛脚と共に奥州に向かわせた。 (現地の指揮官に)細かく伝えさせたのは、反逆に加わった者は全て死罪に処すのが当然だが、投降した者の罪は減じるよう考慮すると国中に知らしめよ。
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全てを追討すると言っては必死に抗戦することになる。また新留守所も元の留守所も兼任に与した罪によって追討するべきではあるけれども、当分は 葛西清重に預けて甲冑 200領の過料を義務付ける。元の留守所は既に 70歳を過ぎているから斬罪にせずとも構わないだろう。
また味方の軍勢については塩竈などの神領に対して狼藉や非法を行わぬようにせよ、との指示である。
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   ※留守所: 平安中期以後の国司は任地に赴かない 「遥任」 が普通
で、国衙は有力な在庁官人が実質支配していた。
頼朝は権限の剥奪と既得権の一掃を意図したか。
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   ※塩竈: 陸奥国一之宮の 塩竈神社を差す。
かつては 500m東にあり、後に 御釜神社 (現在は末社) が建っている場所に遷り 更に野火で焼けたため現在地に遷った、との伝承もある。御釜神社には 「塩釜」 の名の元になった製塩用の鉄釜があり、東北旅行の際に立ち寄って撮影したのだがこの画像は既に行方不明になった。神社から多賀国府までの距離は直線で約 3km。
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     右画像は多賀国府と塩竈神社の位置図(クリック→ 別窓で拡大表示
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西暦1190年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治六年
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2月10日 甲子
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吾妻鏡
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遠江守 安田義定が先月 25日に下総守に遷任となった。単純な任国の変更ではなく、実際には叡慮 (院の意思) に背く行為があったためで、頼朝は自分の推薦で長く遠江守に任じたにも関わらずこの事態になったのは実に残念と考え、義定の弁明書を添えて再検討を求める書状を飛脚に託した。行程の指示は 5日である。
義定の弁明書は次の通り。
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一.院の命令に違えているとの事について
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納税の催促については滞納の事実はなく、内容を理解できないため対応のしようがありません。不忠を非難されているのが辛いため頼朝に相談し、院からの催促状と関係書類を提出しました。
これによって違反の有無は明らかになる筈です。また去年の年貢の中で未納分の指摘については、前任徴税官が帰洛しても在庁官人と協議して国衙に預けてあり、その証文も同封しました。
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一.稲荷社造営が遅延している事について
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上中下社の本殿と主な諸神の神殿は全て工期内に完成し、遷宮も終わっています。その他の建物も建築していないのではなく、担当している季遠の怠慢と横領に原因があります。そのため担当に俊宗法師を加えましたが、六條殿の門や築地垣の事や大内裏修造などが重なったため遅れてしまいました。
これに対処するため、不足する材木は全て米と交換する手配を済ませており、その書類も提出してあります。その他の材木や桧の皮や工事費用などに充当する米の手配も済ませています。
                    二月十日   義定(上)  進上 中納言殿
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   ※稲荷社: 伏見稲荷大社を差す。六條殿や大内裏の破損と同様に、元暦二年 (1185) の7月9日に発生した
マグニチュード 7以上の地震による被害の補修で、文治五年 (1189) 3月11日に補修工事について院の要請などが記載してある。
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   ※中納言: 吉田経房を差す。元暦元年 (1184) 9月に権中納言、建久六年 (1195) 11月に中納言。
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   ※安田義定: 建久二年 (1191) には伏見稲荷と祇園稲荷の修理が完成し 3月には従五位に任じ下総守から
遠江守に復職、禁裏守護番にも任じた。内裏守護の 源頼兼 (三位頼政の次男) を補佐する要職であり、幕府の統制から離れて朝廷と結びつく可能性もあるため頼朝にとって望ましい官職ではない。後白河の策謀と頼朝による排除工作、両方の可能性がある。
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前年8月に義定の甥 (武田信義の次男) である 板垣兼信が失脚、甲斐源氏の嫡流は頼朝に協力して兄三人 (一條忠頼と兼信と武田有義) の排斥を策した末弟 石和信光が掌握した。
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義定自身も建久五年 (1194) 5月に追討されることになるのだが...今回の事件を粛清の伏線とみるか、或いはまだ円満 に近い関係にあったと見るべきか。
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西暦1190年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治六年
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2月11日 乙未
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吾妻鏡
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上総国は頼朝が管領する九ヶ国の一つで、足利義兼を国司 (介) に補任したが去年辞退し、1月26日付で遠江国を与えた。同日に平親長を国司 (掾?) に任じ、今日から目代らが国務を執っている。
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大内裏修理が見事に完成したのは偏に忠節の結果であり、丁寧な仕上がりには院も満足している。褒賞を与える意向があり、望みがあれば申し出よとの院宣が昨日到着したため返状を手配した。内容は次の通り。
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先月 22日の御教書は今月 10日に謹んで拝見しました。頼朝の知行国に課された大内裏修理の件、お褒めの仰せには他の国々も羨むでしょう。褒賞は思いもよらぬ事、お褒めの言葉が既に褒賞に値します。忠義の有無を仰せ下されれば (義定の朋輩も) 今後とも忠勤に励むと思います。
この旨を院に奏上頂きたく存じます。             二月十一日  頼朝(請文
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   ※九ヶ国: 関東御分国、つまり「頼朝が所有し支配する国」の意味。国主の「鎌倉殿」が国司四官 (守、
介、掾、目)の任命権を持ち、国衙からの収入を得る権限を持つ。
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文治五年 (1189) 時点の関東御分国 (九ヶ国) は、
駿河 (国司は源広綱) 、武蔵 (国司は平賀義信) 、伊豆 (国司は山名義範) 、
相模 (国司は大内惟義) 、上総 (国司は足利義兼) 、信濃 (国司は加賀美遠光) 、
越後 (国司は安田義定の嫡子義資) 、豊後 (国司は?) 下総 (国司は安田義定?) 。
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   ※請文: 上司や上位者の発言に対して了承を伝える文書。この場合は頼朝→ 後白河(の代行者)宛。
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   ※話の矛盾: 10日には院が指摘した 安田義定の失態を記載し、11日には院が彼の忠勤と業績を賞賛した
旨を記載している。また遠江国よりも下総国の方が格上で年貢の量も多い筈だから、懲罰的左遷には該当しない筈だ。
また義定は翌 建久二年 (1191) 3月には従五位下から従五位上に昇叙しているから、相対的に考えて両日の内容が食い違っている。この話は、更に 25日に続く。
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西暦1190年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治六年
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2月12日 丙申
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吾妻鏡
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鎌倉の軍勢と東国各地の御家人が大河兼任追討のため出陣し、奥州に集結した。昨日平泉を通過し泉田で敵の動静を探ったところ、大河兼任は一万騎を率いて既に平泉から退去していた。
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泉田を過ぎて進軍を続けた 足利義兼、小山五郎 (長沼宗政) 、小山七郎 (結城朝光) 、葛西清重、関四郎、小野寺太郎道綱、中條義勝法橋と子息の籐次らの大軍である。夜になったため一迫は越えずに途中の民家に止宿し、その間に兼任は更に遠ざかった。
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そして今日、千葉新介 胤正らが追手に加わって兼任勢を追跡し、栗原一迫で合戦した。兼任勢は分散して平泉の衣河に布陣。鎌倉軍は栗原に向かい衣河を越えて合戦し、敗れた兼任勢は北上河を渡って逃亡した。
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踏み止まった兵士は全て掃討し、鎌倉勢は更に残兵を追撃して外浜と糠部の間にある有多宇末井の梯で近くの山を砦として籠っているのを確認した。
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足利義兼らも合流してこれを攻撃、防戦に務めた兼任は間もなく敗北して逃げ去った。郎従のある者は討ち取り、ある者は投降した。
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   ※泉田: 同一の地名は陸前高田市と盛岡市と宮城県利府町にある。
地理的には三ヶ所とも該当しないと思うが、一応ルートに入る可能性のある利府町の春日泉田 (地図) をマークした。
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   ※関四郎: 旧 常陸国新治郡が改編され、南部 (千葉県関宿町一帯、地図) が関郡となった。
現在の利根川は江戸時代初期の開削に拠る流路変更で、それまでの河口は東京湾にあった。関氏は小山氏と近縁の武士で、関四郎は関郡を本拠にしていた一族の系累らしい。
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関宿は奥州街道の要所で、奥州平泉を目指した 源義経の愛妾 静女が厳しい警備を避けて北 (現在の栗橋付近) にルートを変えたとの伝承が残っている。詳細は 静御前の旧跡 で。
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   ※栗原一迫: 白鳥飛来地として知られる伊豆沼に流れ込む一迫川流域(地図)、平泉の約 20km南。
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   ※他の地名: 外浜は現在の青森市、糠部は三戸町 (地図) 、有多宇末井 (ウトウマイ) は浅虫温泉の1.5km
南の善知鳥崎 (地図) が古戦場。「梯」は梯子が必要な程の急斜面を意味する。
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   ※総じて: 例えば栗原一迫と衣河の位置が南北逆になっていたり、外浜から 10km圏内の有多宇末井を
糠部との中間と書くなど、明らかに信憑性に欠ける伝聞情報を根拠にした編纂である。
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あれれ? 有多宇末井 (ウトウマイ) って、多分アイヌ語だよね。藤原経清の妻で 清原武貞に再嫁した女性が 有加一乃末陪 (Wiki) で、どう考えても発音と宛字が似ている。やはり奥州藤原氏にはアイヌ民族の血が (その濃さは別にして) 流れていた、と考えるべきなのだろう
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西暦1190年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治六年
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2月22日 丁酉
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吾妻鏡
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伊勢神宮の式年遷宮費用の負担拠出に関し、去年 12月に師中納言 吉田経房が院の意向を奉書として届けた。
諸国の地頭に未納分があるとの内容である。確認を要したため日数が過ぎたが、今日返状を発送した。
右筆は 平盛時、内容は次の通り。
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伊勢神宮遷宮に充当する米の供出について、諸国の地頭に未納があるとの権右中弁親経による奉書を謹んで拝見しました。私が知行している国々については先日頂いた指示に従って既に手配してあります。その中の下総国については指示に従っての早急な手配を命じておきます。
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以前の指示で納税を免除された荘園などはその通りに処理していますが 信濃国、越後国、上総国も免除に加えよとの指示を鎌倉に戻る際に 中原親能が仰せを頂きました。これはそのように手配いたします。
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鎌倉の御家人らが地頭に任じている各地宛の課税も宣下に従って処理いたします。
宇都宮 (公式サイト) 、熱田神宮(訪問記)、石清水八幡宮 (公式サイト) の神領への賦役についても当然ながら改めて通知します。朝廷にとっての大事であり、20年に一度の義務を怠る者は頼朝であっても勘当を受け、御家人が然るべく罪に問われるのは当然であります。
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都から離れた地にいるため仰せを承るのは一部に過ぎず、多くの事は改めて承る必要があります。以上の内容の奏上をお願いいたします。   恐々 謹言  二月二十二日    頼朝   進上 師中納言殿
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西暦1190年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治六年
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2月23日 戊戌
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吾妻鏡
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奥州合戦について 千葉胤正葛西清重堀親家らが派遣した飛脚が報告した。
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叛乱の首謀者らは大部分が敗れ去り大河兼任は逃走して行方不明になった。合戦を通じて 古庄 (大友) 能直、近藤七国平らが優れた働きをした、との内容である。
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西暦1190年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治六年
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2月25日 庚子
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吾妻鏡
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下総守 安田義定が上申した内容について 吉田経房が受け取った 右大弁宰相定長経由の書による院宣は次の通り。これを受け取った安田義定は更に断腸の思いである。
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二位卿 (頼朝) の書状と義定の上申書は院に奏聞した。義定が遠江国に在任中の納税関係の記録を申し述べると、諸国の国司はこの程度の職務さえ遂行できず、横領や滞納さえ把握できないのか、と思う。
在京している (遙任の) 国司でも通常の納税も臨時の課役も決められた通りに済ませ、他にも朝廷への忠義を尽くしている。
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安田義定は特に目立った忠義も行わず、領国は明らかに疲弊している。国を治める能力が欠如しているのか、と思う。六條殿再建の際に諸国は費用負担を了解したのに遠江国だけが異を唱え、頼朝からの叱咤があった後に仕方なく務めを果たした。私用で京洛を通った際もその旨を言上せず、諸国の官人が上洛した時に紛れて密かに下向した。こんな例は聞いた事もないし話す必要もないのだが、と概略はこのように仰せである。
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ましてや七年間国司を勤めた上で管理する国を変更したのだから、不都合を咎めているのではない。更に詳しいことは 大江広元が鎌倉に戻る際に伝えさせよう、との御意向である。
                      二月十八日  右大弁  謹上 権中納言殿
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   追伸...義定が提出した書状と文書は返却せよとの仰せである。
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西暦1190年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治六年
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3月 1日 乙卯
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吾妻鏡
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   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
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鶴岡八幡宮寺で行っていた大般若経の転読は 30日を経て 20部を奉納し、今日結願した。奥州の叛乱軍は鎮圧したが首魁の大河兼任の生死存亡は確認できず、御家人らは勝手に帰還してはならない旨を命令した。
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西暦1190年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治六年
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3月 3日 丁巳
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吾妻鏡
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鶴岡八幡宮での節句法会は通例の通り。頼朝が出御した。
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   ※3月3日: 五節句は  人日 (1月7日) 、上巳 (3月3日) 、端午 (5月5日) 、七夕 (7月7日) 、重陽 (9月9日)
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西暦1190年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治六年
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3月 9日 癸亥
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吾妻鏡
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法金剛院領の怡土庄について地頭職を廃止せよとの院宣が再三出ている。奥州征伐の後に仰せに従う旨の御請文を提出したのに 義経泰衡の滅亡にも拘らず、能盛法師から (地頭の存在により) 管理できない状態であるとの院宣が今日到着した。内容は次の通り。
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法金剛院領怡土庄の地頭に関して再三の申し入れを行なっている。一昨年には奥州が片付いたら院宣に従うと答えたのだから既に何の問題もない筈、優れた土地である上に能盛法師は先祖伝来の土地を管理できないと嘆いている。看過し難い状態なので是非を言わず、地頭を更迭して不合理な状態を解消せよ。
詳細は 大江広元に説明済み、鎌倉の理解を求める。 三月一日 権中納言籐(吉田経房) 謹上 源二位殿
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私的な追伸として..(後白河院は)地頭に関する子細を知った上で躊躇しておられましたが、このまま放置はできないとのお考えです。地頭を退去させるかどうかの御不審を持たれています。
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   ※法金剛院: 左京区花園の 五位山法金剛院 (Wiki) 。崇徳と後白河の生母である待賢門院が大治五年
(1130) に再興した律宗寺院 (地図) 。
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   ※怡土庄: 現在の糸島半島の東で博多湾の西側 (地図) 。大陸との交易拠点であり、朝廷と幕府の双方に
とって重要な荘園だった。元寇の際にはこの周辺で凄絶な死闘が展開される。
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平家の全盛時代は鎮西を統治した 原田種直の支配下にあり、平家滅亡後は没官領 (吾妻鏡に拠れば 3,700町歩)として没収された。本家は天皇家、領家は法金剛院、預所は藤原能成(能盛法師) だが、原田種直は建久元年 (1190) に赦免され、怡土庄に所領を得て御家人に列している。要するに管理形態が重複し錯綜している、という事か。
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   ※能盛法師: 後白河院の北面に近侍し後に重用された実務官僚。周防国や美濃国など院の分国と怡土庄
などの院御領管理を担当した。歌人としても評価が高い。
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   ※本家とは: 領家 (領主) の上にある名義上の荘園領所有者。
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   ※領家とは: 荘園領主。土地を開墾し開発した領主などが所有権保護のため名目的に土地を権力者や
寺社に寄進した場合は (通常は) 寄進を受けた者が本所 (本家) 、寄進者が領家となる。
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   ※預所とは: 上位の荘官。領主に代わって下司など下級荘官を指揮し年貢徴集や荘地の管理に任じた。
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   ※庄司とは: 荘官全体を差すが、下司職に限定する場合もあるらしい。
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西暦1190年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治六年
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3月10日 甲子
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吾妻鏡
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大河次郎兼任は従っていた兵が悉く討ち取られたために追い詰められ 花山、千福、山本などを経て亀山を越え栗原寺に入った。兼任は錦の脛巾 (下肢カバー) を着け黄金造りの太刀を 帯びていたため、樵夫 (きこり) ら数十人が取り囲んで斧で討ち殺した。その後に 千葉胤正の陣に報告、首実検を行なった。
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   ※栗原寺: 頼朝に追われた 義経が平泉に入る前に一泊した伝承が残る 白馬山栗原寺 (参考サイト) 。
前年の 8月20日に平泉に向かう頼朝軍が通った場所 (地図) だから、吾妻鏡の記述が正しければ 2月12日の青森県有多宇末井 (うたうまい) から 300km以上南の栗原まで逃げた事になる。すぐ近くには義経の胴を葬った伝承の残る 判官森があるのも面白い。
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途中の経路は信頼に値しないが、田野畑村と岩泉町の境にある亀山 (地図) は可能性がある、かも。ひょっとして兼任は三陸海岸沿いを逃げたのか。この辺は東北旅行の中継地点として 道の駅 田野畑道の駅 いわいずみ に立ち寄って一息入れたエリアだ。
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三陸沖津波被害で一躍有名になった 道の駅 田老 も近い。
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西暦1190年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治六年
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3月14日 戊辰
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吾妻鏡
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大江広元の使者が 一條能保からの書状を届けた。定長が承った院宣と権中納言 吉田経房の書状も同封している。その内容は次の通り。
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二位卿(頼朝)からの (2月11日付の印) 請文について。
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   一.大内裏修造への褒賞 (頼朝が謝辞した) に関しては尤もである。子細は広元に伝えてある。
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   一.相模と伊豆両国の件、何ヶ国でも知行が多過ぎる事はなく、勲功が重なれば先例を超える。
相模国については要望があれば沙汰をする。
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   一.馬二十疋を献上した件、近年にない数なので喜んでいる。治承の戦乱より昔に戻ったような思い
がする。赤鹿毛の馬については話のついでに出た事で、特に捜す必要はない。同じような馬が見付かったら上覧に供するのが望ましい。     五日  右大弁定長  謹上 権中納言殿
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    馬の献上は 2月2日に鎌倉を出発した件、褒賞は2月11日に送った請文の件、相模と伊豆の件は前年の
12月25日に記載がある。
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西暦1190年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治六年
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3月15日 己巳
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吾妻鏡
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伊澤左近将監 家景を陸奥国留守職に任じた。陸奥国に住み庶民の悩みや訴えに耳を傾けるよう命じられた。
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西暦1190年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治六年
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3月20日 甲戌
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吾妻鏡
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去年の冬に施設として上洛していた因幡前司 大江広元が京都から鎌倉に参着。頼朝の申し入れには全て勅答があり、その内容を具体的に報告した。また前大僧正公顕が広元に託して書状を献じた。
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去る三日に天台 (比叡山延暦寺) 座主に補任された。智證大師 円珍 (Wiki) の門人には長くこの例がないため衆徒は心良く受け取っていないが勅命であり、これを受けて同 6日に辞表を提出した。
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この僧正は頼朝が帰依している僧で、81歳になっての慶事である。
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   ※公顕: 白川伯王家 (Wiki) の顕康王子で 60代天台座主。文治六年には 61代座主として顕真が着任して
いる。従って公顕の座主着任は引退を前にしての儀礼的な名誉職なのだろう。
三権分立の意味さえ理解していない町村や大島が衆院議長を勤めるようなもの、と書いたら公顕座主に失礼だろうな。
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西暦1190年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治六年
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3月25日 己卯
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吾妻鏡
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奥州からの飛脚が到着し去る 10日に大河兼任を討ち取った旨を報告。また生け捕った敵兵は数十人、と。
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西暦1190年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治六年
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4月 2日 乙酉
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吾妻鏡
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   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
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鶴岡八幡宮の末社 三嶋社の例祭である。大江広元が奉幣使に任じた。
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西暦1190年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治六年
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4月 3日 丙戌
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吾妻鏡
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同じく鶴岡八幡宮例祭である。頼朝が参詣して流鏑馬があり 海野幸氏金刺盛澄藤沢清親が射手を務めた。
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西暦1190年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治六年
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4月 4日 丁亥
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吾妻鏡
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美濃国で地頭に任じている佐渡前司 山田重隆と堀江禅尼が公領 (名義上の荘園領所有者) への年貢納付を妨げた件を調査するため派遣した宮廷の雑事官 則国が現地に赴いたところ、糸貫郷の公文 (文書管理や年貢徴収などを担当する荘官) である菊松と犬丸から暴行を受けたとの訴えがあった。
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頼朝は驚愕してその内容を記して師中納言 吉田経房宛に書状を送った。その内容は次の通り。
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召使則国の訴え、美濃国菊松の公文末友と犬丸の公文延末から則国が暴行を受けた件
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公文二人の所行は罪科を逃れ難く、早急に使者を送り末友と延末を呼び付けて処罰すべきと考えます。
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堀江禅尼の地頭職は即刻停止し、他の者を補任します。返す返すも残念な事件であり、堀江禅尼の責任は最も重篤なので法に従って追放に処す事になります。また山田重隆は御分国 (頼朝の管理下にある国) に住みながら公領の年貢納付に不正を行なったのであれば、頼朝が関与する埒外であります。
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罪が確認されれば国衙の目代に命じて流罪に処すなど、どんな沙汰があっても異議は挟みません。国衙領での狼藉は国衙の決裁範囲であり鎌倉は責任を負い兼ねる、それは再三言上している事であります。
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   ※事件の経緯: 下級官人を派遣したのは当然朝廷だろうから、横領と暴行の情報を掴んだ頼朝が朝廷に
攻撃の材料を与える前に先手を打って対応した、という事か。
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   ※山田重隆: 清和源氏満政流 (源氏の系図参照) の武士で尾張国安食荘 (名古屋市北部から春日井市南部)
を本領とした。当初は義仲に与して入京したが法住寺合戦では院に味方して義仲と離別し、その後は鎌倉方として平家と戦った。
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一族は朝廷との関係が深く、更に父 重頼の代から広い勢力を保っていた本拠地の安食荘一帯は東海道の要所にあるため、頼朝による排除の対象になったらしい。
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今回のトラブルにより 8月に常陸国配流の官府が下り、11月には美濃で拘束された。その後の消息は不明だが実権を縮小された形で失脚は免れたと思われる。
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   ※菊松と犬丸: 共に岐阜県南西部で菊松は現在の本巣市上保 (地図) で、道の駅 富有柿の里いとぬき
知られた富有柿の名産地。犬丸はもう少し南の筈だが正確な位置は確認できない。
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共に 八条院領らしいが、国宝の醍醐寺文書には平安時代末期に醍醐寺領となり一時期の公領を経て 12世紀半ばに再び醍醐寺領になったと記録されている。
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西暦1190年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治六年
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4月 7日 庚寅
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吾妻鏡
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頼朝が 下河辺庄司行平に書状を送り、参上を命じた。これは成人が近づきつつある若君のため弓の技術を指導させ、弓馬の技に慣れさせようと考えたためである。
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同じ仕事に熟達した者は多いが、行平は 藤原秀郷将軍の子孫であると共に弓の名手として選ばれた。早急に参上せよと命じ、更に御厩の馬を鎌倉に来る乗馬として与えた。
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   ※秀郷の子孫: 左フレームの藤原秀郷系図を参照。籘姓足利氏の方が近縁だが既に滅亡してしまった。
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西暦1190年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治六年
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4月 9日 壬辰
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吾妻鏡
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古庄左近将監能直宮六兼仗国平は現在も奥州に駐在し降伏した者の措置などを行なっている。能直が近日中に鎌倉に帰参するに当り、国平も戻りたいと申し出た。しかしながら雑色の澤安を討ち取った者、それに与する輩、また武装を解いていない現地の住民などを取り締まるため更に駐留が必要である旨を細かく書き記して送付した。
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西暦1190年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治六年
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4月11日 甲午
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吾妻鏡
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若君 (成長後の頼家) が初めて小笠懸を行なった。下川辺行平が参上して弓と引目矢を献じ 別命により弓射を手伝った。
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三浦介義澄が的を、千葉介常胤が御馬を、小山田 (稲毛) 重成が御鞍を、八田知家が行騰と沓を、宇都宮朝綱が水干と袴を献じた。
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小笠懸は御所南庭で開催。小山朝政足立遠元畠山重忠榛谷重朝和田義盛梶原景時が呼ばれて軒の横に控えた。
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更に多くの御家人が群参して見守る中、若君は三度騎射して武芸の天性を披露し、参列者を感嘆させた後にその場を下がった。頼朝は出仕した御家人に酒盃を与え、弓術の師である下川辺行平には御剣を下賜した。
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   ※引目矢: 蟇目鏑とも呼ぶ。鏑矢と同様に矢の先端近くに取り付けた「鏑」に開けた数ヶ所の穴が音を
発する。こちらのサイトが判りやすい。
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   ※小笠懸: 埒 (馬場を囲む柵) から左に1杖 (2.3m前後) に離して地上に置いた 4~8寸 (2~24cm) の的を
射る。この時の頼家は満 8才と8ヶ月だから「参列者を感嘆」させるほどではない筈だ。
    右画像を参考に(クリック→ 別窓で拡大表示)
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   ※行騰と沓: 懐かしい Rawhide(直訳は生皮)と同様にズボンや袴の上に着けるカバー。当時の武士に
は足先までの鹿皮が人気だったらしい。沓=靴だが、詳しい形状は判らない。
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西暦1190年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治六年
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4月11日 甲午
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玉 葉
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この日、改元となった。文治を改めて建久、光輔がこれを撰んだ。
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   ※光輔: 藤原光輔は文章博士を世襲する家柄の公家(従四位上)。
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西暦1190年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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建久元年
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4月18日 辛丑
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吾妻鏡
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美濃国犬丸、菊松、高田郷などの地頭が年貢を滞納している件、また同国の時多良山の地頭である玄蕃助蔵人仲経が寺社への賦役を怠っている件について国衙の在庁官人の訴えを経て院宣が下された。これに伴い頼朝が下文を発行した。その内容は次の通り。
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美濃の国犬丸、菊松、高田郷の地頭らに下す。
犬丸と菊松の地頭 (美濃尼) 、高田郷の地頭保房らは公領を私領の如く知行し納税や賦役の義務を怠っている訴えが国衙からあり、院宣が下された。再三の命令にも拘らず滞納の繰り返しは恐れ多い事である。
よって両人の地頭職を更迭し別の者を補任する。早急に郷内から退去せよ。 文治六年四月十八日
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美濃国の時多良山地頭仲経に下す。先例と留守所の指示に従い神仏への賦役を恒例の通りに実行せよ。
この賦役などが果たされていない旨は、在庁官人を経て院の耳まで届く結果となった。今後は決められた務めを果たし、更に遅れるなら過怠の謗りを受ける。留意せよ。     文治六年四月十八日
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   ※時多良山: 現在の岐阜県大垣市上石津町 (地図) の一帯。
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   ※蔵人仲経: 仲経の父 (憲実法眼) は頼朝の生母 (由良御前) の父 (熱田大宮司藤原季範) の弟、つまり頼朝
の大叔父にあたる。今回戒告を受けた仲経は建久四年 (1193) 9月に土岐多良庄を与えられている。血縁者にはそれなりの配慮、だ。
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西暦1190年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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建久元年
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4月19日 壬寅
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吾妻鏡
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伊勢神宮の式年遷宮に充当する費用納付の滞納について、担当官からの通知が届いた。神宮の担当神官が院の庁に善処を求めており、頼朝は直ちに処理するよう下命した。
その内容を朝廷に知らせるため 大江広元平盛時藤原俊兼が書状を纏めた
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   ※沙汰の内容: 未納の完済を命じた、調査を命じた、該当する土地は管理していない、既に納付済み、
課税するとの通知を受けていない、国衙の処理遅れ、国衙に言わず直接院に訴えるのは不合理など。全てを書き出すのは面倒だし、特に重要とも思えないため詳細は省く。
そのうち暇になったら書き足すかも知れない。
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西暦1190年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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建久元年
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4月20日 癸卯
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吾妻鏡
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佐々木左衛門尉定綱の飛脚が鎌倉に到着し、去る 13日の23時頃に 一條能保の室 (坊門姫) が難産のために死去した旨を報告した。享年46、頼朝は深く悲しんだ。
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   ※坊門姫: 頼朝と三歳違いの姉 (私は何度か妹と書いた) 、存命している兄弟姉妹の中では唯一、頼朝と
同腹である。彼女の産んだ長女が後に 九条良経に嫁して道家を産み、その次女が 西園寺公経に嫁して倫子を産む。
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共に坊門姫の孫に当る九条道家と西園寺倫子が婚姻して産まれる一人が、実朝没後に幕府の四代将軍となる 藤原頼経、そして頼経の正室となるのが 頼家の娘 竹御所 (頼経よりも 15歳年上の 超姉さん女房) 。夫婦仲は円満だったが、酷い難産のため四年後に母子共に死没する。
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藤原定家「平家の遺児を全て殺した報いだろう」と書いているが...子孫の全てが悲惨な運命を辿るとは、神ならぬ身の頼朝が知る筈もない。
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西暦1190年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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建久元年
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4月22日 乙巳
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吾妻鏡
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大和前司の 山田重弘が使者として上洛する。これは 一條能保卿の妻で頼朝の同母妹 (姉説あり) 坊門姫の卒去関わる弔問である。
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西暦1190年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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建久元年
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4月25日 戊申
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吾妻鏡
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去る 11日に改元があった。文治六年を改め建久元年とする、と。
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西暦1190年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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建久元年
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5月 3日 丙辰
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吾妻鏡
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南御堂 (勝長寿院) で一條能保室を追善供養する法事が行なわれた。導師を務めたのは信救得業、阿弥陀三尊の絵像を祀り、頼朝と御台所 政子が参列して聴聞を受けた。前少将の 平時家が導師の布施 (被物、布) を渡し左衛門尉 工藤祐経が布施として渡す馬を曳いた。
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   ※信救得業: 木曽義仲の右筆を務めた八幡宮供僧の 大夫房覚明。後に前歴がバレて 箱根権現に蟄居と
なるのだが、箱根権現縁起の制作にも関与し、更には 「曽我物語」 の成立にも関与したとも言われる。それならば曽我物語の悪役を演じる工藤祐経とは今回の法事で同席したことになり、因果は巡る糸車...どころじゃない、もの凄~く複雑な関係になる。
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曽我兄弟の弟 五郎時致は箱根権現の稚児だったし、仇討ち事件は三年後の建久四年 (1193) 5月28日だから、何らかの前触れがあっただろう事も想像できる。仇討ち事件に関する史料は【 鎌倉時代を歩く 壱 】の 曽我物語の原点 (別窓) で、どうぞ。長い長い物語になる。
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信救得業つまり 大夫房覚明は、信濃の名族 滋野氏嫡流の海野幸親の次男 幸長と同一人物説もあり、事実なら義仲の嫡子 志水義高に従って鎌倉に入った 海野幸氏 (義高没後は鎌倉御家人) の実兄である。
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西暦1190年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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建久元年
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5月 5日 戊午
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吾妻鏡
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節句ではあるが御所には菖蒲を飾らなかった。頼朝が御軽服の悲しみに入ったためである。
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   ※軽服: 遠戚の死去 (今回は4月13日の坊門姫死没) による服喪。父母の喪なら重服となる。
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西暦1190年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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建久元年
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5月10日 癸亥
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吾妻鏡
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一條能保室の四十九日法要を差配せよと左衛門尉 佐々木定綱に命じた。導師および供僧の布施については近江国田上と報恩寺領などからの年貢を充当せよ、と。
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   ※大見国田上: 現在の大津市田上一帯 (地図) 。安土桃山時代は甲賀五十三家の多羅尾氏が支配した。
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   ※報恩寺: 琵琶湖西岸の高島市新旭町 (地図) 。
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西暦1190年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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建久元年
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5月12日 乙丑
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吾妻鏡
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加賀国井家庄の地頭である都幡小三郎隆家の違法行為について院からの申し入れがあったため、今日命令を下した。民部丞 平盛時がこれを差配した。内容は次の通り。
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井家庄都幡の者が地頭と称し各地で違法を行っている件、領家の命令に従わず京から派遣された使者も受け入れず押領を繰り返して農民を苦しめ、更に賦役にも従っていないとの申し入れが院から届いた。実に不届きであり、直ちに職権の停止を命じる。更に領家の命令には違反すれば解任し重罰に処すと心得よ。
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                   五月十三日  盛時(奉)   加の国井家庄内 都幡小三郎宛
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   ※井家庄: 石川県河北郡津幡町津幡 (地図) 。津幡小学校一帯に隆家の居館があったと伝わる。
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西暦1190年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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建久元年
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5月13日 丙寅
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吾妻鏡
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六條院の修理および各地荘園の年貢に関する院宣が下され、今日到着した。その内容は次の通り。
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六條院は白河法皇が草創して以来、長年の崇敬を経て近年は荒廃し、住僧にとって暮らしにくく恰も牛舎や馬房のようで、白河院の御趣旨に対して恐れ多い有様である。修理および年貢を拠出する荘園について下命せよとの院の御意向を伝達する。   四月二十六日     右大弁  謹上 源二位殿
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追伸。 吉田経房卿が熊野に出掛けているため、命令を受けて伝達を代行した。
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   ※六條院: 21歳で没した皇女 媞子内親王 (郁芳門院、72代 白河天皇 (Wiki) の第1皇女) の菩提を弔って
六條内裏に建てた六條御堂を差す。天皇の出家も皇女の死が契機になったと伝わる。
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後に京都五山の五位として繁栄し、火災や移転を経て現在は東山区の 万寿寺 (Wiki、地図) 。旧社地の 発掘調査記録も参考に。
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   ※白河天皇: 応徳三年 (1746) に73代堀河天皇に譲位、孫の鳥羽天皇と曾孫の崇徳天皇まで三代、43年間
院政を敷いた人物。その経緯は兎も角として、強権を使って天皇制の中に歪んだ制度を作り上げた人物として相応の評価を受ける。
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西暦1190年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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建久元年
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5月15日 戊辰
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吾妻鏡
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暴風雨と雷鳴が終日続いた。大倉山が鳴動して樹木が多く倒れ岩石が崩れ落ちた。その跡を水が流れ下り、まるで龍が舞い降りたような景色になっていた。

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   ※大倉山: 御所の北、現在の白旗神社が頼朝法華堂 (当時は持仏
堂) で、その南側のラインが御所の北端だった。全体に礫岩質で土砂崩れが起きやすい地質と言われる。
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義時法華堂は承応三年 (1224)、三浦やぐらは宝治元年 (1247) 、頼朝の墓毛利と大江の廟所は共に江戸時代後に建造された。元々大雨が降れば崩れるような地質の傾斜地である。
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  右上は大倉山一帯を含む鳥瞰図  クリック→ 別窓で拡大表示。
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西暦1190年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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建久元年
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5月19日 壬申
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吾妻鏡
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大和前司 山田重弘が京都から帰着した。弔問の使者を派遣してくれたのは悲歎の中での喜びであると、一條能保の返報を伝えた。先月13日に安産の無事を祈って落飾したが、その甲斐もなく早世してしまった。翌日仁和寺の近くに埋葬、この日は賀茂祭だった、と。
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   ※賀茂祭: 現在の上賀茂神社 (公式サイト) の葵祭 (京都観光サイト) 。昔は旧暦の3月16日 (西暦4月22日)
が定例だった。大同二年 (807) に始まり、応仁の乱から元禄七年 (1694) までの中断を経て現在まで続いている。今では神事ではなく完全な観光行事だけどね。
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西暦1190年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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建久元年
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5月23日 丙子
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吾妻鏡
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院の女房三位局が来月比叡山で仏事を行なうと聞き及んだため砂金や絹などを贈与した。
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   ※三位局: 通称は丹後局 (高階栄子) 、後白河の寵妃で楊貴妃に例える程の権勢で政治に関与した。
後に彼女の関与もあって失脚した 九条兼実は丹後局について「朝務 (政治) はひとえにかの唇吻にあり」と書いている。つまり、「政治は全て彼女の口出しに左右される」、と。
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そんな彼女も建久三年 (1192) の 後白河の崩御、建久七年 (1196) の九條兼実の失脚、協力し合っていた後ろ盾の 土御門 (源) 通親の死没 (建仁二年、1202年) によって影響力を失ない、後鳥羽 院政の安定と共に失脚、建保四年 (1216) に没した。更に詳細は (Wiki) で。
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西暦1190年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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建久元年
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5月29日 壬午
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吾妻鏡
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御随身左府生秦兼平が使者を派遣し、八條院領の紀伊国三上庄は兼平が先祖から管理権を継承している土地なのに、関東が任じた地頭の 豊嶋権守有経が通例に逆らって年貢を横領したと訴えている。従って通例の通り年貢を納めよとの下文を受けて使者は帰洛した。
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   ※御随身左府生: 勅宣により貴族の外出を護衛した近衛府の官人で検非違使に所属する下役。
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   ※三上庄: 現在の和歌山市の南部、紀三井寺(公式サイト)の一帯 (地図) 。
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   ※豊嶋有経: 豊島清元の庶子で、嫡子となった豊島清重の異母兄(異説あり)らしい。
戦乱当初は義経に従って転戦、紀伊権守に任じた元暦元年 (1184) にも高野山の所領である伝法院 (根来寺、公式サイト) 領でトラブルを起こしている。
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今回の訴えにより建久二年 (1191) 10月に地頭職は停止されたが、過去の功績に免じて代替地を与える旨の決裁を得た。
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西暦1190年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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建久元年
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6月 6日 己丑
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吾妻鏡
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伊勢神宮の役夫工料米について、信濃国に拠出未納の所々が残っているとの報告が徴収担当官から届いた。雑色の時澤を担当官に同行させ確実に納付せよとの命令を下した。
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   ※役夫工料米: 工事に従事する職人や労働者に賃金として支払う米を差す。
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西暦1190年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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建久元年
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6月10日 癸巳
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吾妻鏡
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佐々木定綱から伝言。「本日 5月30日、一條能保の御為に法事を執り行なった。導師は園城寺の公胤僧都、願文の起草は右中弁親経殿、弔問には大宮大納言藤原実宗殿、右宰相中将実教殿、新宰相中将公時殿らの来臨があった。」旨の報告である。
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   ※公胤: 村上源氏出身の僧で後に法勝寺別当を経て園城寺僧正に任じている。鎌倉と懇意な関係を保ち
後に政子の依頼を受けて 頼家の遺児 公暁)を仏法の弟子として預かる事になる。
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公暁が三代将軍 実朝を殺害するのは建保七年 (1219) 、実朝の誕生は 2年先だし公暁の誕生も10年先なのだが、21年後に起きる事件の伏線として記載しておく。
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西暦1190年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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建久元年
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6月14日 丁酉
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吾妻鏡
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頼朝は 小山兵衛尉朝政の家に渡御した。酒宴があり、白拍子らが集まって芸を見せて座を盛り上げた。
今夜の丑刻 (午前 2時前後) には月蝕があり (その穢を避けるため) 朝政宅に止宿する。
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   ※白拍子: この頃の遊女の拠点 (現代なら芸者置屋か) 場所は不明。約 60年後の建長三年 (1251) 12月3日
の吾妻鏡には「市内の指定七ヶ所 (下記、但し概略推定) 以外での商屋設置を禁じる」旨の布告が出されている。商店街=娼家という訳でもないし、鎌倉時代の円熟期とは時代背景も違うが「当時の繁華街」として、参考までに。私は気和飛坂上の可能性が高い、と思う。
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大町 (四ッ角付近、地図) 、小町 (日蓮辻説法跡付近、 (地図) 、米町 (諸説あり、不明) 、
亀谷辻 (寿福寺付近、地図) 、和賀江 (材木座付近、地図) 、大倉辻 (岐れ道付近、地図) 、
気和飛坂山上) 化粧坂の上、地図) 、
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西暦1190年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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建久元年
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6月22日 乙巳
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吾妻鏡
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佐々木定綱を介して女房三位局 (高階栄子) の書状が届いた。「去る 11日に日吉社に於いて澄憲法印を導師とし五部大乗経供養を修しました。偏に鎌倉殿の御援助を頂いて宿願を果たせました。」との内容である。
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   ※頼朝の援助: 5月23日に砂金や絹などを贈与している。
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西暦1190年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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建久元年
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6月23日 丙
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吾妻鏡
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去年奥州に遠征した際に 後白河院の姫宮を名乗る女性と面会した。詳しく尋ねると次のように語った。
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母は九條院の官女であり、自分は心得のある筝 (琴) の芸を披露するため母に連れられて暫く院にいた。
その後に不慮の事件があって奥州に下向した。
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疑わしく思ったが、肥後守資隆入道 (従四位少納言の官僚、歌人) の母親が「姫宮に間違いない」と言ったため奥州の人々は誰もが彼女の出自を信じ、藤原秀衡も可愛がって出家する望みを許さなかった、との事である。頼朝も、もしも狂人ならば秀衡が可愛がることもなかろうと考えて処遇に迷った。
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皇室の血を引く者ならば奥州に置くのは恐れ多いと考え、京都に送り届けて検非違使の大江公朝に調査を依頼した。その結果、事実と異なる旨の院宣が届いた。内容は次の通り。
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姫宮を称する者の件は虚偽で、全く皇室の血筋ではない。語っている内容は嘘なので善人とは言い難く、京に留まらせず早急に送り返せとの仰せである。       六月九日  参議
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頼朝の返状は次の通り。
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仔細は了解しました。元々信用せず確認のため連れて行かせた者であり、その旨は御了承願います。関東に連行して処罰するべきですが今年は殺生を慎む事になっており、顔に傷を付けて追放するか、或いは阿波国に居住している 佐々木経高に預けるかの措置を取ります。関東へ返せとの御言葉に背く結果になる恐れがありますので念のため報告いたします。         六月二十三日   頼朝
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西暦1190年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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建久元年
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6月26日 己酉
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吾妻鏡
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京都御所の警護について、通常は 散位頼兼に北国 (北陸道の諸国) の御家人らを加えて勤めさせるように頼朝が定めたが、頼兼から彼らだけでは不足する旨の申し出があり、その意向を院に問い合わせた。
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   ※北陸道: 平安期の行政区分では若狭 (福井県) 、越前 (福井県北部) 、加賀 (石川県南部) 、
能登 (石川県北部) 、越中 (富山県) 、越後 (新潟県) 。
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西暦1190年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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建久元年
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6月27日 庚戌
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吾妻鏡
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伯耆国の住人 海大成国を呼び出し、囚人として和田義盛に預けた。これは去年の年末に伯耆国で院から派遣された召次 (下級職員) に暴行し職務を妨害したためで、死罪に相当する罪科である。
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   ※伯耆国: 山陰道に属した、概ね現在の鳥取県。厳密には東側の一部が摂津国 (兵庫県) に含まれた。
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西暦1190年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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建久元年
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6月29日 壬子
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吾妻鏡
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諸国の地頭等の伊勢神宮の式年遷宮に従事する者への供米の拠出を怠っている旨、造宮担当官からの申し入れが続いているため重ねて命令を下した。数日の確認と審議を経て地頭らに通告すると共に院への返状を提出した。その内容は次の通り。
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去る 4月11日の御教書が 5月8日に到着、役夫工米に関し担当官 親経朝臣の奉書を謹んで拝見しました。
鎌倉が知行する八ヶ国への割当と納付状況などを別紙目録の通り報告します。
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この中で相模国と武蔵国は鎌倉の近くなので直ちに命令し早速納付の手配を済ませました。残る六ヶ国はやや離れており、国衙に命じて先例に従い納付したと判断していたため、書類を照合し確認しました。
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尾張国の住人高田重家と 山田重忠の負担分は法に定めた通りに命じて下さい。京都に近い国で納付が滞っている場合は然るべく処分して結構です。中原親能大江広元の知行地については、親経朝臣の申し入れ書を添付して命令を下しました。その他の輩に頼朝の名を利用して役務を逃れる様子があれば使者を送って措置して下さい。既に天下も落ち着きを取り戻し、全ては院の決裁と法に従って命令されるべきです。
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遠江国の件は謹んで承りました。そもそも 木曽義仲は山道 (北陸道) の軍勢、安田義定は海道 (東海道) の軍勢として入洛しました。この際に朝廷が義定を守護に任じたのが経緯で、頼朝が与えた職責ではなく、朝廷の命令に従うのが筋です。その旨は既に義定に通知してあり、異論を述べる理由はありません。
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以上の内容を奏上して頂きたいと願っております。割当の文書等を確認していたため報告が遅れましたのは恐縮であります。      六月二十九日 頼朝
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追伸として、添付書類は奏覧後に返却して頂き、国務の担当官に戻すつもりです。重ねて恐々謹言。
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   ※役夫工料米: 工事に従事する職人や労働者に賃金として支払う米を差す。(これは6月6日と重複)
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   ※供米未納: 4月19日に記載された申し入れへの返状。明細の列記はいずれ、改めて。
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西暦1190年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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建久元年
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7月 1日 癸丑
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吾妻鏡
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今年と来年は殺生を固く禁じる旨の命令を関東御分国に下した。これは聖断 (勅定) に基づく措置であり、その他の諸国については特に期限を定めないと、先月 9日に宣下された。
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   ※関東御分国: 鎌倉が国司任命権を持ち、国衙領からの収入を得る。時代により増減があり、建久元年
時点では駿河、伊豆、武蔵、相模、上総、下総、信濃、越後。更に詳細は (Wiki) で。
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西暦1190年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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建久元年
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7月11日 癸亥
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吾妻鏡
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土佐国の住人 夜須七郎行宗の本領を安堵する旨の御下文を発行した。これは土佐冠者が討たれた時に身命を惜しまず怨敵の蓮池権守を討ち、それ以後も再三の勲功を挙げたためである。
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   ※土佐冠者: 頼朝に呼応し土佐で挙兵した同母弟の 源希義を差す。詳細は寿永元年 (1182) 9月25日の
吾妻鏡で。
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西暦1190年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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建久元年
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7月12日 甲子
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吾妻鏡
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法橋の 一品坊昌寛が使節として上洛。これは頼朝が 10月の上洛を予定しているため六波羅に新たに屋敷を建てる工事を差配するためである。
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   ※六波羅: 平家の本拠だった鴨川東岸 (参考略図) 。頼朝の新邸は後に六波羅 (探題) として利用される。
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西暦1190年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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建久元年
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7月15日 丁卯
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吾妻鏡
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今日は盂蘭盆 (うらぼん) である。頼朝は勝長寿院に参拝して 万燈会 (Wiki) を勤修した。これは滅亡した平家一門が辿る黄泉の国の足元を明るく照らす目的を兼ねて開催された。
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   ※万燈会: 罪業懺悔や報恩のため多くの灯明で供養する行事 (万灯供養) で奈良時代から行われていた
東大寺の万燈供養会が良く知られている。
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   ※盂蘭盆: 各地で様々な行事がある。記憶に残る一つは 長崎の精霊流し。豪華さを競う船が進む中で
小さな舟を掲げる若い父親の姿などを見ると涙が出る。幼子を亡くしたのだろう。
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もう一つ紹介するのは既に途絶えた行事、箱根精進池の「火焚き地蔵」。盂蘭盆が終わるとこの地の霊魂は精進池を越えて駒ヶ岳方向へと帰り、縁者は火焚き地蔵の前で送り火を焚いたと伝わる。詳細は 箱根精進池の石仏群 (別窓) 後半の「磨崖仏 俗称応長地蔵」で。
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西暦1190年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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建久元年
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7月20日 壬申
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吾妻鏡
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御所で双六の会があり、佐々木三郎盛綱が頼朝の相手を務め 子息の太郎信実 (15歳) が父の傍らに座した。
続いて 工藤左衛門尉 祐経が加わり、座る場所がなかったため信実を抱き上げて横に移した。
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信実は顔色を変えて一旦は退出したが、石を握り座に戻って祐経の額を打った。流血が水干に流れ落ち、頼朝が立腹したため信実はその座から逃げ出した。盛綱が後を追ったが見失ってしまった。
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西暦1190年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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建久元年
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7月21日 癸酉
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吾妻鏡
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信実は出家してそのまま逃亡した。頼朝は信実の拘束を父親の盛綱に命じたが捜す手段もなく、「勘当して一切相続などを許さない」としか言えなかった。頼朝は「20歳にも満たない若者の行為だが祐経がどう思っているかは判らない。取り敢えず祐経に会って謝罪すべきだろう。」と語った。
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盛綱は「工藤祐経には何の遺恨も持っていないし信実の行為に弁解の余地はありませんが、信実の父としての謝罪は武士の本分ではなく、鎌倉殿から祐経を宥めて頂くようお願いします。」との返事があった。
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頼朝はそれが条理と考え「盛綱は既に信実を勘当した、これで問題の収束とせよ」と述べた。祐経は「事件の経緯での理屈は信実にあります。若者の行為に遺恨はなく、まして盛綱に異心は持っていません。」と答えた。
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   ※信実: 義絶は形式的だったらしく、後に盛綱の嫡子として
越後国の加治荘を相続し加治氏の祖となった。
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承久の乱 (1221) では北陸道の指揮官として 北條朝時結城朝広と並んで46~47歳になった 佐々木 (加地) 信実の名が見える。
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吾妻鏡の同年5月29日には京都を目差し進軍する途中で越後北部に遠征した信実が旧領の「加地庄願文山」で敵勢を討伐した記事も載っている。
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上皇方に与した国上寺も進軍ルートにあり、焼き討ちの被害にあった。話は大きく脱線してしまうのだが、国上寺に関する詳細を 道の駅 国上の中段より少し下に書いておいた。
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 右上は 良寛和尚 (Wiki) が暮らした国上寺の五合庵(画像をクリック→ 別窓で拡大表示)。
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年老いて足腰も不自由になった良寛は国上寺から15kmほど南の島崎村に転居し名主の木村某の庇護を受け、弟子の貞心尼が最期を看取る事になる。
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私たち夫婦は 更に足を伸ばして 道の駅 良寛の郷 わしまに移動し、良寛和尚最期の足跡を辿ることになった、もう 20年以上も昔の話である。
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西暦1190年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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建久元年
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7月27日 己卯
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吾妻鏡
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上洛した際の宿館については再三申し入れているが未だに決定しておらず、年内の上洛予定を控えているため特に急がせている。担当に任じた 一品坊昌寛は材木などを手配するため既に京に入っており、宿館の予定地について改めて飛脚を派遣した。行程は五日の命令、書状の内容は次の通り。
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宿館については先日連絡した通り東山道に面した広い土地が望ましく、同行する御家人の宿舎も設けようと考えております。この旨の奏上をお願いします。 七月二十七日 頼朝  進上 権中納言 吉田経房殿
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西暦1190年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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建久元年
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8月 3日 乙酉
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吾妻鏡
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河内国の荘園各所で地頭らが年貢を横領している件、および 糟屋籐太有季が狼藉を行った件を調査して処分せよとの院宣が下された。御請文 (上位者への返状) を献じるため、該当する地頭を呼んで詳細を調査調査した。御請文の内容は次の通り。 (下の二通は担当の地頭宛の下文)
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河内国の国務について、仰せの内容を光輔に問合わせました。不法行為を犯した 大江公朝と北條時定および 足利義兼らには書状を以て命令を下しました。その三通の控えを提出いたします。また糟屋有季の狼藉は実に不当であり、罪科に相応した措置を下されて結構です。この旨の奏上をお願いします。
                    八月三日  頼朝
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下文 河内国の国衙領を北條時定が勝手に陸奥所と名づけて押領しているとの申し入れがあった。陸奥所などと、聞き苦しい上に無礼至極である。陸奥や出羽で横領して陸奥所を称し役務を果たすなら兎も角、地頭に任じている地で横領や非法を行うなど言語道断である。国衙への役務は早急に遂行せよ。もし更に過怠があれば地頭職停止の措置を取る旨を通達する。 八月三日 盛時 (奉) 平六左衛門尉 (北條時定) 殿
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下文 河内国山田郷の件、地頭として国衙の命令に従うのが業務である。にも関わらず国司光輔に対し鎌倉の認可を受けているから確認せよと述べたのは何事か。そのような虚言は論外である。早急に先例に従い役務を果たすよう命じる。   八月三日  盛時(奉)   江大夫判官(大江公朝)殿
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   ※光輔: 河内国の歴代国司に光輔の記載は見当たらない。いずれにしろ国衙の官人だろうけど。
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   ※北條時定: 系図では兼時 (時政の兄弟) の息子となっている。つまり時政の甥だが、詳細は不明。
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   ※山田郷: 諸説あるが、ここでは南河内郡太子町山田 (地図) を選択した。特に根拠はなく、単純に好き
なエリアだから (笑) 。何回歩いても歩き足りない竹内街道沿いの集落である。
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明日香散策 から 道の駅 近つ飛鳥の里太子 を経て 羽曳野通法寺を巡った頃が昨日の出来事のように思い出される。それぞれ別窓表示となる。 昔の様に好き勝手な旅に出たい!
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西暦1190年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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建久元年
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8月 9日 辛卯
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吾妻鏡
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頼朝の宿館を建てる土地について、院からの書状 (家実朝臣の筆) が届いた。右大弁宰相 藤原定長 (Wiki) の取り次ぎである。内容は次の通り。
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東山にある邦綱卿(故 藤原邦綱、Wiki) の屋敷を使うようにとの仰せがあった。周辺は平家から没収した朝廷御領で、空地が多いから宿館に向くだろうとお考えである。
                  八月三日   左衛門権佐家実  謹上 右大弁 宰相殿
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西暦1190年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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建久元年
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8月13日 乙未
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吾妻鏡
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一條能保の使者が京都から到着し、去る7月30日の流人に関わる官符を持参した。前佐渡守 山田重隆は常陸国へ、 板垣三郎兼信は隠岐国へ、高田四郎重家は土佐国へ、などである。
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朝廷の会議に於いて 土御門通親 (中納言) がこれを定め、右少弁親経朝臣が処理を差配し、籐宰相中将 藤原公時 (Wiki) が決裁印を捺した。これらの輩は勅命への違背が再三だったため院の聖断が下されたもので、処分の結果については頼朝にも異存はない。
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西暦1190年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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建久元年
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8月15日 丁酉
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吾妻鏡
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頼朝が参席して鶴岡八幡宮で放生会。小山七郎朝光が御劔を持ち、佐々木三郎盛綱が頼朝の代理として甲冑を着け、榛谷四郎重朝が弓箭を帯して従い、他に随兵と供奉人が前後に列した。供僧らが進んで法華経を供養、導師は別当法眼の圓暁が務めた。その後に 伊豆山権現から来た童子による舞楽奉納があった。
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   ※圓暁: 八幡宮の初代別当。圓城寺 (三井寺) の高僧で生母は 源為義の娘と伝わる (真偽は不明) 。
厳密な記録に依拠すれば、治承四年10月12日に頼朝の仏典の師だった走湯山 (伊豆山権現) の住僧 専光坊良暹を取り敢えずの別当に任命している。
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別当は 圓暁→ 尊暁→ 帝暁と続き、五代目に就任するのが将軍 実朝を殺すことになる 公暁
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西暦1190年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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建久元年
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8月16日 戊戌
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吾妻鏡
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(放生会の二日目は)馬場での行事である。従来は流鏑馬と競馬も同日に開催したが催事が増え、今年から二日に分けて行なう事となった。頼朝の参席は前日通りだが、流鏑馬の射手が直前に体調を崩し欠場となった。
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ここで 大庭景能 (景義) が、「去る治承四年 (1180) に 大庭景親に与した 河村三郎義秀を囚人として私が預かっていました。騎射の技術に優れた武士であり、当時に敵対した者は殆どが赦免されたにも関わらず義秀だけが取り残されているのも残念です。こんな時にこそ召し出しては如何でしょうか。」と言上した。
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頼朝は「その男は斬罪に処すように命令した筈なのに生きているとは奇怪だが、神事に免じて許してやろう。ただし技が優れていなかったら改めて斬罪に処すと心得よ。」と述べた。
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ただちに義秀が呼んでこの旨を命じ、流鏑馬の開始となった。頼朝が義秀の矢を見ると長さは十三束で鏑 (かぶら) は八寸もある。頼朝は 「騎射に長けているため慢心したか。景親に与した罪を考えると更に許し難いから三流れ作物を射て見せよ。もし失敗したら直ちに処刑を行おう。」と述べた。ここで義秀は三尺、手挟み、八的の三種類を見事に射抜いて観客を驚嘆させた。怒っていた頼朝の心も感動に変わった。
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   ※矢と鏑の寸法: 束は 「握りこぶしの巾」 で 8cmほどだから十三束は 104cm、鏑の八寸は 24cmだから
常識を超えたサイズだったらしい。
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   ※三流れ作物: 史料では「三尺」は的の寸法が六寸で串の長さが三尺三寸、距離が十九杖 (27m) 、
「手挟み」は的の寸法が六寸で串の長さが三尺三寸、距離が十八杖 (25m) 、「八的」は的の寸法が四寸で串の長さが三尺三寸、距離が八杖 (11m) 。
残念ながら作法や射法は皆目判らない。
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西暦1190年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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建久元年
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8月17日 己亥
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吾妻鏡
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終日の豪雨となった。夜に入ってから防風が人家を吹き倒し、洪水が堤を流し崩す有様となった。
相模河の岸に建っていた一軒の民家が河口まで流されたが、家の中にいた男女八人は屋根の上に這い上がったまま流され全員が助け上げられた。奇特な事件である。
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   ※相模河: 現在の流路より 1km前後東を流れていたと想像される。古流路とされる小畔川畔に頼朝が
落馬して死没する事件の発端になった 相模川橋脚史跡が保存されている。
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西暦1190年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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建久元年
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8月19日 辛丑
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吾妻鏡
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板垣三郎兼信が勅命に違背した罪などにより流罪に処され、更にその管理していた土地の地頭職を解任された事、また 土肥弥太郎遠平の不法行為を訴える事などが院宣として届いたため、両件についての御請文 (目上への返答書) を纏めて届けることとなった。
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圓勝寺領の遠江国雙侶庄地頭については、もし不正がなければ処分もないだろうと考えていましたが、兼信の行動は誠に不当なので早急に解任し適任者を選んで補任いたします。補任についても院の御意向を尊重し、補任も停止せよとの仰せがあればそれに従います。備後国の在庁官人が申し入れた件も子細を確認して調査し、追って報告いたします。以上の奏上をお願いします。  八月十九日   頼朝恐々謹言。
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   ※兼信流罪: 甲斐源氏の嫡流 武田信義の次男。長男 一條忠頼は元暦元年 (1184) に頼朝により謀殺、三男
逸見 (武田) 有義は文治四年 (1188) に失脚、そして兼信と嫡子の頼時も流刑地隠岐で死没、父親の信義も文治二年 (1186) に失意のまま死没している。
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明らかに計画的な甲斐源氏粛清であり、頼朝は一族の粛清に協力した末子の 石和信光を嫡流として認め優遇した。そして、この男の子孫から甲斐の虎 武田信玄が現れる。
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西暦1190年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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建久元年
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8月28日 庚戌
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吾妻鏡
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院の官吏を勤める 藤原康貞は心中に何かの遺恨があるらしく、民部卿 吉田経房と右大弁宰相 藤原定長らについて頼朝に悪意ある申し入れをしてきた。「経房は讒言で多くの人を貶めた希有の人物、藤原定長は大蔵卿 高階泰経朝臣と意を通じていた悪臣であります。」と、これは 三河守範頼が取り次いできた話である。
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頼朝はこれを聞き入れず、「二人とも定評のある良い廷臣であり、鎌倉との連絡や調整に於いても不都合は生じていない。くれぐれも口外しないように。」と述べ、範頼もこれを承諾した。
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   ※高階泰経: 後白河法皇の近臣。頼朝追討の宣旨を義経に与えた責任を問われて伊豆流罪に処されたが
文治五年 (1189) に赦免され、建久二年 (1191) には正三位に昇叙している。
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西暦1190年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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建久元年
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9月 3日 甲寅
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吾妻鏡
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   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
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大庭平太景能河村三郎義秀の措置は斬首とするのでしょうか」と尋ねた。
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頼朝は 「何を言ってるのか判らん。早く処刑しろと命じた時には助命して今まで匿い、今は流鏑馬の見事さに免じて赦免した。今更どんな罪科に問えると言うのか。」と答えた。
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景能は重ねて 「(治承四年から) 今までの義秀は私の援助があって生き永らえる事ができました。ここで赦免されては生活する方法もなく、いずれ餓死するでしょう。彼にとっては殺される方が幸いではないでしょうか。」と述べた。頼朝は大いに笑って、旧領の相模国河村郷を安堵する旨の命令を下した。
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   ※河村郷: 波多野領の西端にある JR御殿場線 山北駅一帯 (地図) 。河村城址 (鳥瞰図) が残る。
波多野氏追討事件は富士川合戦の直前、治承四年 (1180) 10月17~18日に記載してある。
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西暦1190年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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建久元年
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9月 7日 戊午
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吾妻鏡
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夜になって故 祐親法師の孫である 祐成 (名乗りは曽我十郎祐成)が弟の少年 (筥王) を伴って 北條時政の許を訪れ、時政の前で元服した。名乗りは 曽我五郎時致、鹿毛の駿馬一疋を与えられた。彼らの祖父祐親法師は (治承の合戦で) 頼朝に敵対したが、子孫は罪に問われていない。
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祐成は継父の 曽我祐信に養われて曽我庄にあり、不肖にして主人を持たないまま普段は北條時政と懇意にしている。そんな経緯があるため、今夜の元服については特に問題にはならない。
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   ※祐親の孫: 祐親の長男が 工藤祐経の郎党の遠矢で殺された
河津三郎祐泰、その遺児が一満 (祐成) と箱王 (時致) で、一満は曽我祐信に再嫁した母に連れられて曽我祐信の猶子となり、箱王は成長後に出家する約束で 箱根権現の稚児となった。
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祐成は祐信の 「祐」 、時致は時政の 「時」 を受けて元服、烏帽子親が違うため兄が十郎で弟が五郎を名乗った。右の略系図 (別窓で拡大) を参考に。
    更に詳細は「伊東氏の系図」で確認を。
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   ※時政名越亭: 鎌倉の時政邸は弁ヶ谷の補陀洛寺の東 (地図) 付近にあったと推定されている。
詳細はこちら、近くには 千葉常胤の屋敷もあった。
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   ※不肖: 愚かなこと、劣っていること、不遇なこと 、貧しいこと、などの意味がある。
この時点の祐成は満19歳、仇討の宿願がありながら養父と生母、更に仕官した場合は主家に累が及ばないよう無職のまま暮らしていた、と思われる。
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   ※時政と懇意: 伊東祐親の長女は北條時政に嫁して長男 宗時と長女 政子と次男 義時を産んでいる。
ただし、政子と義時の生母については諸説があって断言はできず、曽我兄弟にとって時政は母方の叔父に当たるとしか書けない。これらの経緯から、曽我兄弟の仇討事件=頼朝暗殺を狙った時政が仕組んだという策謀説も生まれている。
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西暦1190年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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建久元年
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9月 9日 庚申
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吾妻鏡
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古庄左近将監能直の使者が陸奥国から到着、陸奥と出羽の住人に関する情勢と大河兼任に与した輩の所領などを書類で報告した。彼らの賞罰について頼朝の指示を受け、平盛時の差配で命令書を能直の使者に託した。
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西暦1190年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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建久元年
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9月13日 甲子
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吾妻鏡
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板垣三郎兼信と高田四郎重家らは去る七月に配流の官符を受けたが担当官が護送を行なっておらず、まだ在京しているとの情報がある。内々に 九条兼実を経て奏上して貰うよう 一條能保に命令書を送った。
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西暦1190年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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建久元年
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9月15日 丙寅
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吾妻鏡
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来月の御上洛に伴って不在になる間の措置などを定めた。今年は諸国に旱魃と洪水があったため農民が安心できる状態ではない、延期するべきかとも考えたが既に仙洞には連絡済みであり、予定を変える事はない。
行程に関する諸事は担当者を定め、二階堂行政三善康信三善康清が沙汰を行なった。その目録は雑色の常清と成里に渡された。
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上洛に関わる諸事担当について。
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   一.献上する砂金その他の贈与については  民部丞 二階堂行政法橋昌寛
   一.先陣を務める随兵については 和田太郎義盛
   一.後陣を務める随兵については 梶原平三景時
   一.乗馬の手配と管理については 八田右衛門尉知家千葉四郎胤信 (常胤の四男) 、
   一.必要な什器備品については 三浦十郎義連と 九郎籐次、
   一.宿舎の手配と管理については 葛西三郎清重
   一.中持(大型の物入れ)については 堀籐次親家
   一.雑色以下の作業担当については 梶原左衛門尉景季と 同 平次景高
   一.宿館の六波羅と関連の贈物については 掃部頭親能と 因幡前司大江広元
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      以上、仰せに依って定める。   建久元年九月日
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   ※三善康清: 頼朝挙兵前の治承四年 (1180) 6月19日に兄の使者として北條邸の頼朝を訪ね、「以仁王の
令旨が露見し各地の源氏追討令が出た。源氏正統のあなたは最も危険だから奥州へ逃げるべき」と進言している。頼朝の鎌倉入りから兄と共に文官として活躍した。
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西暦1190年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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建久元年
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9月16日 丁卯
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吾妻鏡
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畠山次郎重忠が武蔵国 (現在の武蔵嵐山の菅谷舘) から参上、頼朝御上洛に供奉するためである。
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西暦1190年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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建久元年
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9月17日 戊辰
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吾妻鏡
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先月 27日付、民部卿経房の取り次ぎによる院宣が到着。数ヶ条の中にあった 板垣兼信の所領遠江国雙侶庄についての御意向に対し、今日返状を送付した。内容の一つは藤原光範朝臣の希望による地頭更迭の件、二項は先日鎌倉から言上した件に対する勅答である。院宣の内容は次の通り。
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東大寺で使う麻苧 (麻糸) について。
日頃の対応については報告を受けており誠に神妙であると思っている。今回の手配については指示がないようなので申し入れる。上棟式までの不足は許されず、近国がこれを補っている。周防国での木材運搬には再度必要になるため催促し、手配を済ませるべきである。
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日吉社での千僧供養の費用と装束について。
手配により処理が済んだ旨の報告は受けている。結縁が結ばれるようにと考えて申し入れた。
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圓勝寺領の遠江国雙侶庄地頭について。
この御堂は待賢門院の草創であり、他の寺と同様ではないとお考えである。仏への奉仕や費用充当の欠如は不都合であり、その結果が兼信の流罪である。次の地頭補任がなければ更に喜ばしい。
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以前の件はこの内容で伝えよとの御意向である。  八月二十七日 右大弁定長  謹上 民部卿殿
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この院宣に応えた頼朝の御請文は次の通り。
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仰せのあった遠江国雙侶庄地頭兼信の流罪に伴なう新地頭の補任を止めよとの御意向は謹んで承りました。その旨を上奏いただくようお願いします。    頼朝恐惶謹言    九月十七日  頼朝
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   ※雙侶庄: 東海道線金谷近くで大井川に流れ込む大代川中流の静岡県島田市志戸呂(地図)。平安中期
編纂の辞書 「和名類聚抄」 には遠江国榛原郡九郷の一つ質侶 (しとろ) 荘として載っている。
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西暦1190年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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建久元年
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9月18日 己巳
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吾妻鏡
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佐々木三郎盛綱が野箭一腰を献上した。上洛の際に頼朝が利用するためである。無地に仕上げた羽を鶉目に樺で締め、鏃の口巻を籘で仕上げてある。これは先祖の将軍 (祖先の鎮守府将軍源頼義) が天喜年間 (1053~1058年、前九年の役) に奥州の叛徒 (安倍貞任) らを征伐して帰洛する際に用いたものである。
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また飯富源太宗季 (宗長と改名) も箭を作って献上した。これを見ると矢筈の端革を逆に巻き重ねてある。その理由を問うと宗季が「これは故実であります。赤革を表に重ねて巻くと平家の赤旗や赤標に似ますから、下に重ねるべきだと考えます。」と応えた。また蛇結文を箙の腰充て部分に使っている風情が見事である。
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これに感心した頼朝は今後の矢筈は端を同様に重ね巻きせよ、また蛇結丸は宗季の紋に使え、と指示した。
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   ※野箭一腰: 狩猟に使う仕様の矢1セット (24本) を意味する。
   ※鶉目に樺: うずらの目の模様に樺 (山桜の樹皮) で巻き締める、の意味。
   ※矢筈: 矢の末端、弦を掛ける部分。端革は矢筈と矢羽の間を巻き締める。
   ※箙: 矢を入れて腰に付ける容器、えびら。

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   ※蛇結文: 飯富 (おぶ) 季貞の本領は飯富庄 (千葉県袖ケ浦市飯富、地図) 。
季貞の子孫は蛇結紋を変化させた蛇の目紋(右画像)を使っており、
これは千葉氏の月星紋と酷似している。
元々の蛇結紋は蛇に近かったらしく、興味があれば「蛇結」で検索を。
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西暦1190年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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建久元年
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9月20日 辛未
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吾妻鏡
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東大寺再建工事の木材を曵く太縄の拠出を諸国の御家人に割り当てよとの院宣が下され、頼朝は必要な手配を全て実施した。また上洛に関して、諸国の洪水に配慮が必要かを民部卿 吉田経房に問合わせたところ、右大弁宰相藤原定長から経房を経た書状が到着した。内容は次の通り。
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東大寺の太縄については院が五畿七道に漏れなく命じたため仏との結縁を願った拠出が多くあり、既に余っている状態との報告が重源上人から届いています。また上洛に関しては多少の (現地の負担など) 費用が発生するかも知れませんが、これは明春に処理すればよろしいと思います。院は以前から様々な配慮があった事を理解され、良い印象を抱いておられます。      九月十三日  右大弁  謹上 民部卿殿
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追伸として。全国に洪水が発生した事は、院も驚愕されています。ただし上洛の計画を変更する必要はなく、もし延期などがあれば院も恨めしく思われるでしょう。是非とも実行されるようにとの仰せです。
前回の書状は返却いたします。また以上の内容は右大臣とも申し合わせてあります。
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京都での宿館は故 池大納言 平頼盛の屋敷跡に決め、既に工事を始めたとの報告が 一品房昌寛から届いた。
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   ※頼盛邸跡: 池禅尼から頼盛が引き継いだ六波羅邸 (概略地図) の池殿を差す。惣領の一族が住んでいた
泉殿の南側にあったと伝わるが、正確な位置は判らない。
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西暦1190年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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建久元年
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9月21日 壬申
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吾妻鏡
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上洛中の留守を預かる要員として、鎌倉近郊の御家人の所領に任務を割り当てた。北條時政領の伊豆国寺宮庄など 20余ヶ所で、二階堂行政がこれを差配した。また因幡前司 大江広元は頼朝に先んじて上洛し、京都での準備に当たる任務を受け持つ事になった。
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   ※寺宮庄: 現在の伊豆の国市 寺家 (地図)、寺は 願成就院、宮は 守山八幡宮を差す。 (各 別窓)
庄と呼ぶほどではない「条」の一部だが、時政の権限拡大に伴って広がった可能性はある。
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西暦1190年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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建久元年
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9月29日 庚辰
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吾妻鏡
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頼朝上洛の先陣随兵の詳細を和田義盛に、後陣随兵の詳細を 梶原景時に渡し、それぞれに差配を担当する任務を与えた。その名簿の中で源氏の一族および豊後守 毛呂季光と泉八郎らには「殿」の字を書き加えてある。
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   ※随兵: 直訳すると従兵だが、煌びやかに装いつつ戦闘にも対応する武者で儀仗兵より近衛兵に近い。
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   ※豊後守: 原文の「於家子并豊後守泉八郎等」「家の子 (同族) 並びに豊後守と泉八郎ら」と読む。
季光は側近として重用され、文治二年 (1186) に頼朝の推挙で豊後守に任じている。
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それ程大きな功績を挙げた記録もないため、流人時代に頼朝の召使が季光の息子 季綱に恩を受けた事で引き立てを受けた (または食料提供の依頼に応じてくれた ) とする説がある。食べ物の恨み、じゃなかった、食べ物の恩は「門葉待遇に値する」ほどなのかも。
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西暦1190年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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建久元年
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10月 2日 癸未
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吾妻鏡
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   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
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上洛する行列の先陣を務める栄誉については、内心で望んでいる者や自分が任命されるだろうと考えている御家人が多い。今までは何の指示もなかったが、今日 頼朝畠山次郎重忠を呼んで先陣を務めよとの指示を与えた。以前から心に決めていた事に加えて、夢のお告げがあったのが契機となった。
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   ※重忠の先陣: 上洛は二ヶ月を越える遠征なのに、出発前日の任命は常識としてあり得ない。編纂者に
何らかの意図があったのだろう。
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西暦1190年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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建久元年
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10月 3日 甲申
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吾妻鏡
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上洛行列の出発である。付き従う御家人の主だった者多数が南庭に列座した。常陸国から加わる ‬八田知家の到着が遅れており、既に予定の時刻を過ぎているため頼朝も不機嫌になった。正午前後になってやっと到着して怠慢を責められ、体調が優れなかった旨を弁解した。
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続いて知家は先陣と後陣の人選と乗馬を尋ね、頼朝は「先陣は畠山重忠、後陣は考慮中だ。馬は景時が提供した黒駮 (斑)」と答えた。知家は「先陣の重忠は当然です。後陣は長老の 千葉常胤が務めるべきでしょう。
またあの黒斑は素晴らしい駿馬ですが御鎧には合いません。細めの馬を用意しましたから御利用を。」
と言って八寸余の黒馬を引き出した。頼朝は気に入ったが「これは入洛の際に、途中は黒斑を使おう。」と定めた。
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次いで千葉常胤を呼び、六郎胤頼平次常秀を伴って後陣を務めよ」と指示し、出発となった。
冬空は間もなく黄昏となり、相模国懐島で宿泊となった。大庭景能が夕食を用意した。
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   ※南庭: 御所の南側、公式行事を行なうスペースを差す。
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   ※八寸余の馬: 背高四尺 (約121cm) 以上の馬を龍蹄と呼び四尺を越えると一寸、二寸と数える。
八寸は約144cm、まれに五尺 (152cm) の大型馬もいたが、一般的には四尺台だった。
現代の乗馬クラブの馬は150~170cm、147cm以下はポニー種となる。ポニーに跨る鎧武者なんて想像したくないけどね。
ちなみに、競走馬として改良されたサラブレッドは160~170cm らしい。
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   ※懐島: 本領の大庭から10km前後西、現在の茅ヶ崎市円蔵、
浜之郷、矢畑の一帯 (地図) 。当時の海岸線は現在よりも 1kmほど内陸側にあったと伝わる。
大庭景能 (景義) は懐島郷に広大な新田を開拓して本拠とし、懐島姓を名乗っていた。
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源義朝に従って保元の乱 (1156年) に従軍した景能は白河殿の合戦で 為朝の鏑矢に膝を砕かれ歩行困難になり家督を異母弟 景親に譲って懐島に隠居していた。
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治承の合戦では景親が滅亡して景義が当主に復活、今回の頼朝宿泊は景義邸と推測されるが、神明大神宮付近 (地図) と推定されるだけで、懐島邸の遺構は残っていない。何もないと少し寂しい (笑) ので、景義や頼朝にも縁の深い 鶴嶺八幡宮の画像を右に載せる。勧請は 頼信又は頼義、鎌倉の 鶴岡八幡宮よりも歴史は遥かに古い。   画像をクリック→ 鶴嶺八幡宮の明細 (別窓) へ。
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   ※白河殿: 新院 崇徳上皇には摂関家の藤原頼長と 源為義親子が
味方し、後白河天皇には摂関家の 藤原頼長 (Wiki) と 平清盛源義朝が味方して覇権を争った保元の乱。
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保元物語に拠れば、白河北殿に陣を構えた崇徳院側の 為朝は即刻の夜討ちを主張するが容れられず、翌日早朝には軍備を整えた清盛と義朝と 足利義康が率いる 600騎の先制攻撃を受けて惨敗する。
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この合戦で為朝の鏑矢が景能の左膝を粉砕し、更に乗馬の胴を貫いた。前屈状態で即死した馬の前に投げ出された景能を、弟の三郎景親が肩に担いで助け出したという経緯がある。
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右画像は白河殿と六勝寺と琵琶湖疎水を落とし込んだ地図 (クリック→ 別窓で拡大表示)
琵琶湖疎水は明治末期の完成だから、当時はもちろん存在しない。
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西暦1190年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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建久元年
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10月 4日 乙酉
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吾妻鏡
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頼朝一行は酒匂の宿に入った。
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   ※酒匂の宿: 懐島から約 23kmの酒匂川東岸 (地図) 。ここより 4km手前の 相模国府か 北側の 曽我屋敷
を利用する方が快適だと思うけれど、大きなお世話だよね。
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翌日の頼朝一行は東海道から離れて酒匂川沿いを北上し、足柄峠を越えて駿河国に下る。
6年前に平家追討の緒戦となった富士川合戦に向けて進軍したルートだ。
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西暦1190年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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建久元年
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10月 5日 丙戌
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吾妻鏡
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関下の付近で陸奥目代からの書状が届き、陸奥国に於ける地頭の業務などについて幾つかの指示を下した。
旅の途中ではあるが頼朝は寸暇を惜しんで 実務を処理している。指示の内容は次の通り。
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陸奥国各地に補任された地頭らに下す。留守職や国衙の命令に従い務めを果たすこと。
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一.国司の御厩舎人らに与えている農地の件
郡郷に居住する者の農地には先例に従って課税し、かつ課税額は収穫の多少に配慮せよ。
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一.国衙領または国司所領内にある領主所有の農地の件
免税田として旧来から認められた郡郷、即ち宮城、名取、柴田、黒河、志太、遠田、深田、長世、大谷、竹城などは先例に任せて処理せよ。農地の荒廃などがある場合も、作柄に従って割り当てよ。
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この命令書に従わず不当を行う者は地頭職を更迭し新たに補任する。また新たな国司の目代が赴任していなければ留守役の伊沢 (留守) 家景や在庁官人の命令に従い、家景は先例を国衙に照会して処理せよ。
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国司は朝廷から補任され、在庁官人は国司の分身である。先例については人に憚ったり偏向したりすることなく処理しなければならない。国の復興は偏に農業の振興にあると家景に命じているにも関わらず国務に従わない場合は家景が現地を確認して指示を与え、猶も従わない場合は報告せよ。相手によって対応を変えるような輩は家景を介して厳罰に処すことになる。   建久元年十月五日
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   ※関下: 現在の南足柄市関本。ここから足柄峠に向かう交通の要所である。関下は堰下の地名からの
転訛で、30年後の承久の乱後に宮方首謀者とされた一人 藤原範茂が処刑された場所。
承久三年 (1221) 7月18日に記載があり、更に詳細は 藤原範茂の墓 を参照されたし。
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北條朝時が預かった甲斐宰相中将 藤原範茂は足柄山の麓で早河の底に沈んだ。五躰不具で
最期を迎えるのは (成仏に) 支障ありと考え、斬首より入水の希望を述べたためである。
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朝時はその希望を容れ、川に堰を造って深みを設け範茂を沈めた。これが堰下の語源である。
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   ※留守役の家景: 本名は伊沢家景、時政の推挙で御家人となった文官。奥州合戦後に 葛西清重と共に
奥州の総奉行として新領行政のトップに就任した。
今回の頼朝書状はその職責を更に保証した意味合いを持っている。
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西暦1190年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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建久元年
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10月 9日 庚寅
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吾妻鏡
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駿河国蒲原の駅で院宣が届いた。近江国田根庄は按察大納言 葉室朝方の領所だが、頼朝の怒りを受けて籠居している間に地頭の 佐々木左衛門尉定綱が領家への年貢納入を怠っていた。このたび罪を許されて復職し仔細を報告してきたため、詳細を調べて処理せよとの内容である。この趣は直ちに定綱に伝えられた。
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   ※蒲原駅: 富士川西岸の宿場 (地図) 。治承四年には頼朝軍と対峙した 平維盛の軍勢が本陣を置いた地で
後世の東海道五十三次では江戸から 15番目の宿場となる。
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   ※田根庄: 現在の長浜市黒部町一帯 (地図)。天正元年 (1573) に 浅井長政が自刃した 小谷城 (共にWiki)
のすぐ東側に位置する。20年以上前に見学するつもりで登城口近くまで行ったけど「熊に注意」の看板にビビって撤退したっけ。
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熊も蛇も大嫌いだ、それと猪も。南熱海に住んでいた2012年冬の夕方、犬と散歩中に大きな猪と遭遇、 4mの距離で睨み合った。犬は挑戦的な態度で吠えるし、猪は前足で地面を掻いて威嚇するし、結局猪は道路 (普通の生活道路) をUターンしてくれたけど、本当に怖かった!
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体重 36kgのゴールデン・レトリーバよりずっと大きい猪で、好戦的な奴じゃなくて助かった。翌日の朝刊に「猪に襲われた住人が...」と載るのが頭に浮かんだもの。
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ついでに、もう一つ。沼津市郊外の香貫山でも猪に遭遇した。これは 10mほど離れた車の中で対面したから危険はなかったけれど、冗談じゃなくて 100kgはあるかと思うような、見た事のない超大型だった。散策する人も多い戦没者慰霊塔 (地図) のすぐ横だった。
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2020年の秋、茨城県の筑西市に転居し平和に暮らしている。伊豆では猪、猿、ハクビシン、スズメバチに悩まされた。庭の菜園を荒らしてる猪に二階から石を投げ付けたたのも、少し懐かしい思い出として残っている。筑西市での敵はミミズとカラスと近所のバカ猫程度だ。
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西暦1190年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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建久元年
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10月12日 癸巳
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吾妻鏡
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岡部の宿で院宣への御請文(上位者への返状)を発送した。9日に院宣を届けたまま待機していた使者が返状を携えて京を目指して折り返した。返状の内容は次の通り。
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先月9日の御教書が到着し、謹んで拝見しました。近江国田根庄の年貢については領家代官の指示に従って和與 (訴訟における和解、の意味) せよと地頭の定綱に命じました。猶も従わない場合は勘当します。
以上の旨を奏上いただきますように。               十月十二日   頼朝
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   ※岡部宿: 宇津ノ谷峠 (地図) 西側の驛。去年10月5日に旧道の詳細と開発の由来を書いた「蔦の細道」。
蒲原~岡部間は約 37km、10日から12日の三日間だから、移動のペースはかなり遅い。
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西暦1190年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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建久元年
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10月13日 甲午
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吾妻鏡
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遠江国菊河の宿で 佐々木三郎盛綱から、折敷 (盆) に載せた鮭の楚割が小刀を添えて届いた。元服前の子息が宿舎に持参し「実に美味ですから削ってお食べ下さい」と申し述べた。これが気に入った頼朝は折敷に自筆で和歌を書き込んだ。 まちゑたる 人のなさけも すはや里の わりなく見ゆる 心さしかな
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   ※菊河宿: 大井川西岸の驛 (地図) 。岡部→ 菊河は約 25km。
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   ※楚割: 「すわやり」又は「すはやり」、細く切って固く干した
保存食を削って食べる。佐々木盛綱が源平合戦の恩賞として得たのが越後国加治荘 (新発田市) 、「すわやり」は北越地方名産の 鮭とば (右画像、Wiki) だろう。
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今年7月21日に記載した盛綱の嫡子 (元服後の嫡子信実) による工藤祐経傷害事件の関連情報を含んでいる。
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   ※元服前の子息: 傷害事件で蟄居している長男 信実はまだ人前に
顔を出せず、届けたのは二男 盛季か三男の盛則 (長幼が逆の説あり) か 。
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盛綱の跡を継いだ盛季は比叡山大衆との合戦で負傷し、三男 盛則が在京御家人として駐在していたが、承久の乱で京方となって没落した。交代する形で復権した信実が加治荘を継承し、越後加治氏の祖となっている。
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西暦1190年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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建久元年
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10月18日 己亥
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吾妻鏡
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橋本の驛では遊女が群参して多くの贈り物を差し出した。これに先立って連歌の宴を催した。
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頼朝...橋もとの君にはなにか渡すへき  景時...たヽそまかはの暮れて過ぎはや
   橋本のオネエちゃんに何を贈ったら良いかねぇ 
           → そま川を渡らずに考えていると日が暮れちゃいますよ。
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   ※橋本の驛: 菊河から約 64km、現在の湖西市新居町浜名 (地図) 。東関紀行 (Wiki) に記載がある。
  橋本という所に着いた。聞いていた通りに景色の良い場所である。 南の潮海には漁舟
  が波に浮かび、北の湖水に沿って人家が連なっている。

時期は調べていないが、頼朝が詠んだ「浜名の橋」の和歌も記録に残っている。
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       かへる浪 君にとのみぞ ことづてし  浜名の橋の 夕暮れの空
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当時の浜名湖は海側が陸続きで、湖水から海に流れ込む浜名川の橋 (貞観四年 (862) 架橋)、右地図の川が西に曲がった辺りか。 この橋を渡れば概ね陸路で新居橋本⇔ 舞阪が往来できた。
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  右は汽水湖になる前後の概略地図。
       クリック→ 別窓で拡大表示。

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この浜名橋は 長さ 167m、巾4m、高さ5m と記録されているが、小田原北条氏 初期の1498年に勃発した 明応地震 (Wiki) で発生した土砂崩れに流路を塞がれた浜名川が決壊して逃げ場所を失なった川水が堤防を破り、浜名湖は一気に汽水湖に変貌した。
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昭和53年 (1978) の浜名バイパスと浜名大橋の完成まで、車両は全て北に迂回していた。
ちなみに浜名湖東の浜松駅周辺が伊勢神宮の蒲御厨、範頼 (蒲冠者) はここで育っている。
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   ※そま川: 当時の川の位置は不明、橋本の少し西に「杣川」 (地図) の地名が残っている。
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西暦1190年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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建久元年
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10月25日 丙午
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吾妻鏡
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頼朝は尾張国の御家人 須細治部大夫為基に案内させて野間の庄を訪れ、 (平治の乱の際に葬られた) 故左典厩 源義朝の廟堂に参拝した。この墳墓は荊棘 (トゲのある潅木) に覆われ雑草も刈っていない状態らしいと聞いていたが、堂の扉を開くと荘厳な装飾が施してあり、多くの僧が読経する声が聞こえてきた。
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不審に思った頼朝が仔細を尋ねると、平家時代に検非違使だった平康頼入道が尾張国司 (史実は目代、代官) として赴任した際に水田 30町を寄進し、以降は堂宇を建立して菩提を弔っているとの話である。康頼がこの地を差配したのは昔の事なので既に荒れ果て、多分援助が必要だろうと予想していたのに意外な光景だった。
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頼朝は改めて康頼入道の志と古い廟所の管理に感謝の念を抱き、多くの僧を集めて勤行を修めさせ一人あたり綿衣二着と綿布十反を布施として与えた。
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   ※僧の読経: 頼朝一行が上京するという情報を、通り道の住人が
が知らなかった筈はない。吾妻鏡の編纂者が辻褄を合わせたか、地元の坊主が上手く立ち回ったか。
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   ※寺の管理: 康頼は特に義朝の菩提を弔ったのではなく、荒れて
いた古寺と墓地を整備して水田を寄進した、その程度が事実らしい。
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建久元年に野間を訪れた頼朝が義朝の廟所と郎党の 鎌田政清の墓を整備したのが康頼と結び付けられて拡大脚色を重ね康頼の徳行に化けた、と思われる。
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鎌倉の勝長寿院での義朝法事は文治元年 (1185) 9月3日を、康頼が褒賞として阿波国麻殖保(おえほ) の保司職を得た件は文治二年 (1186) 閏7月22日を参考に。
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  右画像 (義朝の墓所) をクリック → 野間大坊の詳細 (別窓) にリンク。
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西暦1190年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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建久元年
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10月27日 戊申
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吾妻鏡
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頼朝は心身を清め潔斎した後に熱田宮 (現在の 熱田神宮、別窓の訪問記は こちら、別窓) を参拝した。
外戚の祖神であり、特に衷心から崇敬している社である。
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   ※外戚: 頼朝の生母 由良御前は熱田神宮々司 藤原季範の娘。祖神なのは間違いないが同族の尾張氏から
から大宮司職を奪う形で就任している。更なる祖神である尾張氏は、手放しでは喜べない。
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西暦1190年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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建久元年
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10月28日 己酉
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吾妻鏡
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小熊宿で須細大夫為基身が任務を外れる事を許された。鳴海からここまで頼朝馬前の従者を務め続け、没収していた当国の所領を返却して安堵を与えた。
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夜になって美濃国墨俣に着御。ここで高田四郎重家が配流の宣旨を受けながら未だ本領に住み謀反を企てているとの噂があったため使者を派遣。重家父子は宿舎に参上し異心は全く抱いていない旨を言上した。
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   ※小熊宿: 墨俣河合戦で源氏軍が本陣を置いた墨俣川の東岸 (地図) 。ここから渡河して墨俣に入る。
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   ※墨俣: 養和元年 (1181) 4月25日に頼朝の叔父 新宮行家と頼朝の異母弟 義圓の連合軍が 平重衡の率いる
平家軍に惨敗した 墨俣河合戦場の跡。東山道が長良川を渡る要所である。
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   ※高田重家: 尾張国を地盤にした山田重忠や葦敷 (あじき) 重隆と同様に清和源氏満政流の武士。
醍醐寺領の春日井郡安食荘を本拠にしていた。春日井郡が交通の要所だった上に朝廷との関係も深く、頼朝には彼らの勢力を弱体化したい政治的な思惑があったらしい。
ただし実際に流罪になったのかは確認できず、蟄居程度で処理した可能性は残る。
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西暦1190年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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建久元年
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10月29日 庚戌
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吾妻鏡
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青波賀の宿驛で長者 (延寿) の娘を召し出して贈物を与えた。
故左典厩 源義朝 は東国と京を往復する度に延寿を寵愛していた、その旧交を重んじたためである。
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また祖父六條廷尉禅門 源為義 の最後の愛妾は大炊長者の姉で乙若ら四人の男子 (保元の乱後に自殺) を産んでいる。
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この女性と、保元の乱で死没した内記平太政遠と、義朝の敗走を助けた平三真遠と 青墓長者延寿の四人は連枝 (兄弟姉妹) 、つまり内記大夫行遠の子女たちである。
        右上画像は青波賀の長者周辺の系図 (クリック→ 別窓ではなく、単純に拡大表示).

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   ※青波賀: 平治の乱での義朝と、死没した 朝長らの挿話は 青墓の円興寺 (別窓) で。
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   ※内記大夫: 内記は皇室の庶務を司る官職、太夫は五位の通称となる。
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西暦1190年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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建久元年
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11月 2日 壬子
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吾妻鏡
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   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
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近江国柏原で前の兵衛尉忠康を捕縛し、雑色を派遣して民部卿 吉田経房の許に報告した。
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また 山田 (葦敷、源) 次郎重隆、高田四郎重家らが配流の宣旨を受けているのに流刑地に向かっていないため、重隆を墨俣で拘束し連行している。 彼らの処遇と入洛の仔細についての内奏を依頼するため、その旨の書状を先行して入洛した 大江広元に送った。その内容は次の通り。
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内々の仰せに従い墨俣周辺で調べたところ、山田重隆と重家親子が謀反を企んでいる情報を得たため呼び出して二人を拘束した。息子の重家は美濃に残し重隆だけを連行する。
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重隆の供述では「9月30日に宣旨の使者が発ち10月1日に赦免が行われたと聞いたので自分も許されたと思った。」とのこと、例え赦免が事実でも勝手に判断するのは慮外である。
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また重家の供述では「東大寺上人の仲介で許されたと聞いたため上洛しなかった」とのこと。謀反の企てが事実であれば重家も拘束して京に連行させる。
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山田重家と 板垣兼信はまず京都に連行し、その後に検非違使に引き渡せば良い。重隆を流刑地に送らず京に連行するのは良くない噂になるかも知れないが、これは慎重を期するためである。これらの内容は正確かつ至急に 吉田経房卿に伝え、また橋本宿で遠江国目代の饗応を受けた件も伝えるように。
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いずれにしろ山田重隆や高田重家が院の命令に従わなかった上に私の使者に対して圧力を加えた件は実に言語道断である。重隆については頼朝上洛前に流罪にせよと鎌倉が申し入れたのに、「広元を介して申し入れた」とか、「大藏卿 高階泰経の指示だ」、などと言う者がある。
                        十一月二日    盛時(奉)  因幡前司殿
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   ※謀反云々: 実際には些細な問題を意図的に拡大解釈された処分で、板垣謙信は勅命に背いた罪、山田
重隆は美濃の公領の業務を妨げた罪で流罪処分を受けた。
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板垣処分の目的は甲斐源氏の排斥、山田処分の目的は京と鎌倉を結ぶ要所である美濃と尾張に勢力を持ち朝廷との関係が深い一門の排除が大きな理由だった。
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この頃から朝廷で勢力を強めた 土御門通親が後白河の寵姫 丹後局 (高階栄子) と手を結び、頼朝と協力して政治を動かした 九条兼実を蹴落とす計画が動き始める。文治二年 (1186) 頃には後鳥羽天皇の乳母 藤原範子を妻に迎え、その連れ子 在子を養女としていた。
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頼朝には 大姫を入内させる夢があり、通親には 後鳥羽天皇の中宮 任子 (兼実の娘) を内裏から退去させ兼実を失脚させたい夢があった。結果として通親の養女 在子が皇子 (後の土御門天皇) を産んだため任子は内裏を追われ、兼実も失脚となる。
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入内を実現させるために通親+丹後局に近付いて盟友だった筈の兼実の苦境を見捨てるのだが...大姫の病死によって夢は簡単に途切れる。まぁ在子が土御門を産んだ時点で、通親には大姫入内の成否など興味なし、どうでも良い事だったが。
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大姫入内の夢は娘への愛情か、頼朝自身の京都回帰への夢か。結果的には百戦錬磨の通親に操られて盟友兼実を見捨てる、頼朝晩年の惨めな失策に繋がってしまう。
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西暦1190年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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建久元年
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11月 4日 甲寅
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吾妻鏡
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頼朝入洛は今日か明日だろうと院に伝えられた。
また、再三の朝敵追討の恩賞として官職の授与を考えたいが、何を望むかとの勅問が届いた。
今日、後藤基清結城朝光らが使節として先だって入洛した。
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西暦1190年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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建久元年
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11月 5日 乙卯
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吾妻鏡
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野路の宿に到着。前の右馬助朝房が当国の三上社から食事と酒肴などを献上してきたが、頼朝はこれを
受納しなかった。

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   ※野路の宿: 現在の草津市野路町。Jr琵琶湖線 南草津駅近くに江戸時代の一里塚(地図)がある。
源平盛衰記には「頼朝の追討に出陣した 平維盛の軍勢五万騎が野路に泊まった」とあり、元暦二年 (1185) 6月21日の吾妻鏡は 「前の内府 平宗盛の嫡子 清宗が野路宿で斬首され、父の遺骸と共に篠原に埋葬された。」と書いている。詳細は 平家最後の地 で。
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   ※三上社: 野路から約 9km東にある 御上神社 (Wiki) を差す。頼朝と何らかの関わりがありそうだが、
その接点が判らない。
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西暦1190年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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建久元年
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11月 6日 丙辰
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吾妻鏡
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激しい降雨となった。道虚日に加えて衰運の日でもあり、雨を衝いての入洛は延期して野路宿に逗留した。
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今日、騎馬の武士が宿館の門前に現れた。無礼を咎めた 梶原景時が下馬を命じたが「その例は心得ず」 と答えたため 和田義盛 に拘束を命じた。義盛が門前に出るとその武士は騎馬で立ち去ろうとしたため、後を追って引目を射って落馬させ郎従が取り押さえた。
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仔細を問うと、彼は大舎人允 藤原泰頼、「頼朝の上洛を知って出迎えに来ると共に、伯耆国長田庄の得替の件を訴えるために来たが、宿館を知らなかった」と陳謝した。頼朝は「さしたる無礼ではない、落ち着いたら連れてくるように」と指示した。
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   ※道虚: 陰陽道で、外出は凶だから控えるべきとされる日。
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   ※引目: 矢の先端に付ける鏑の一種 (右画像) 。音を出すために
開けた穴が蟇蛙の目に見えるため蟇目または蟇目鏑とも言う。正式な造りは四つ穴、殺傷が目的ではない。
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   ※長田庄: 鳥取県西伯郡南部町の法勝寺一帯 (地図) 、六勝寺の
の中でも別格に近い法勝寺の所領だった。
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六勝寺は愛宕郡 (現在の京都市左京区) に建てた朝廷の祈願寺で「勝」の字を含む六寺 (法勝寺、尊勝寺、最勝寺、円勝寺、成勝寺、延勝寺)。応仁の乱 (Wiki) 以後に全て廃寺になっている。法勝寺は白河天皇の建立、六勝寺の中では最初で最大の規模だったと伝わる。概略は今年の10月3日、詳細は文治二年 (1186) 6月29日の吾妻鏡で。
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   ※得替: 補任者と交替、新しい領主への交替、所領没収などの意味がある。該当するのはどれだろう。
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西暦1190年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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建久元年
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11月 7日 丁巳
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吾妻鏡
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頼朝が入洛。後白河法皇は身分を隠して見物に出掛け、物見高い (貴族らの) 牛車が鴨川の河原に並んだ。
申刻 (16時前後) に先陣が京に入り、三条大路の端から西に進み鴨川に沿って南下し六波羅に入った。
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   ※入京ルート: 高速を使わずに京都に入る、私の好きな道程。大津から東海道を西へ進み京都東IC入口
で東海道と別れて三条通へずーっと直進、粟田口を経て三条大橋の手前を左折して南下する ルート地図、古道との誤差はあるが、僧俗男女が歩いた昔を偲ぶのに不足はない。
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今なら国道一号を直進して東山五条に入る方が六波羅には近いけど、当時の五条口は伏見に下る経路と考えられていた。鴨川沿いの川端通を通るのも良し、四条大橋か団栗橋辺りの駐車場に車を入れて置屋やお茶屋が密集する宮川町通を歩くのも面白い。
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ただし宿舎を六波羅の故 平頼盛邸跡と決定した通知が鎌倉に届いたのは9月20日。担当の 一品坊昌寛「既に工事を始めた」と報告しているから、着工が8月20日としても、工期は僅か70日だ。新築ではなく頼盛邸を大規模リフォームしたのだと思う。
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行列は献上の砂金を入れた唐櫃を先頭に先陣の 畠山次郎重忠 (黒絲威の鎧、従うのは同族一人と郎党十人) 。
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次に先陣の随兵が並列に三騎。一騎毎に甲冑姿で行縢 (皮の袴覆い) を着した替弓持ちが一騎と舎人童が征箭 (実戦用の矢) を負い、行騰を着して騎馬武者の前を進む。その他に郎従は伴っていない。
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一番     大井四郎太郎   太田太郎     高田太郎
二番     山口小七郎    熊谷小次郎    小倉野三
三番     下河辺四郎    渋弥次郎     熊谷又次郎
四番     仙波次郎     瀧野小次郎    小越四郎
五番     小河次郎     市小七郎     中村四郎
六番     加治次郎     勅使河原次郎   大曽四郎
七番     平山小太郎    樟田小次郎    古郡次郎
八番     大井四郎     高麗太郎     鴨志田十郎
九番     馬場次郎     八嶋六郎     多加谷小三郎
十番     阿加田澤小太郎  志村小太郎    山口次郎兵衛尉
十一番    武次郎      中村七郎     中村五郎
十二番    都筑三郎     小林三郎     石河六郎
十三番    庄太郎三郎    四方田三郎    浅羽小三郎
十四番    岡崎平四郎    塩谷六郎     曽我小太郎
十五番    原小三郎     佐野又太郎    相模豊田兵衛尉
十六番    阿保六郎     河匂三郎     河匂七郎三郎
十七番    坂田三郎     春日小次郎    阿佐美太郎
十八番    三尾谷十郎    河原小三郎    上野沼田太郎
十九番    金子小太郎    駿河岡部小次郎  吉香小次郎
二十番    小河次郎     小宮七郎     戸村小三郎
二十一番   土肥次郎     佐貫六郎     江戸七郎
二十二番   寺尾太郎     中村小太郎    熊谷小太郎
二十三番   禰津次郎     中野五郎     小諸太郎次郎
二十四番   禰津小次郎    志賀七郎     笠原高六
二十五番   嶋楯三郎     今堀三郎     小諸小太郎
二十六番   土肥荒次郎    広澤三郎     二宮小太郎
二十七番   山吊小太郎    新田蔵人     徳河三郎
二十八番   武田太郎     遠江四郎     佐竹別当
二十九番   武田兵衛尉    越後守      信濃三郎
三十番    浅利冠者     奈胡蔵人     伊豆守
三十一番   参河守      相模守      里見太郎
三十二番   工藤小次郎    佐貫五郎     田上六郎
三十三番   下総豊田兵衛尉  鹿嶋三郎     小栗次郎
三十四番   藤澤次郎     阿保五郎     伊佐三郎
三十五番   中山四郎     中山五郎     江戸四郎
三十六番   加世次郎     塩屋三郎     山田四郎
三十七番   中澤兵衛尉    海老名兵衛尉   豊嶋兵衛尉
三十八番   中村兵衛尉    岡部平六     猪俣平六
三十九番   駒江平四郎    西小大夫     高間三郎
四十番    所六郎      武藤小次郎    豊嶋八郎
四十一番   佐々木五郎    糟江三郎     岡部右馬允
四十二番   堀四郎      海老名次郎    新田六郎
四十三番   葛西十郎     伊東三郎     海野太郎
四十四番   小澤三郎     渋河彌五郎    横山三郎
四十五番   豊嶋八郎     堀籐太      和田小次郎
四十六番   山内先次郎    佐々木三郎    筥王丸
四十七番   右衛門兵衛尉   尾藤次      中條平六
四十八番   三浦十郎太郎   後藤内太郎    比企籐次
四十九番   小山四郎     右衛門太郎    岡部與一太郎
五十番    糟屋籐太     野平右馬允    九郎籐次
五十一番   多気太郎     小平太      宇佐美小平次
五十二番   波多野小次郎   仁田四郎     桃井八郎
五十三番   小野寺太郎    足利七郎四郎   足利七郎五郎
五十四番   佐貫四郎     足利七郎太郎   横山太郎
五十五番   梶原兵衛尉    和田小太郎    宇治蔵人三郎
五十六番   梶原左衛門尉   宇佐美三郎    賀嶋蔵人次郎
五十七番   小山田四郎    三浦平六     小山田五郎
五十八番   和田三郎     堀籐次      土屋兵衛尉
五十九番   千葉新介     氏家太郎     千葉平次
六十番    小山田三郎    北條小四郎    小山兵衛尉
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次に頼朝の御替馬が一疋、次に御小具足 (甲冑の小道具) 持が一騎、次に御弓袋持ちが一騎、
次に御甲着(主人の代理で甲冑を着ける者)が一騎、
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次に 頼朝。折烏帽子、絹紺青丹打の水干袴、紅衣、 (鹿の) 夏毛の行騰、染羽の野箭、
黒馬、楚の様式の鞦 (尻飾り) 、水豹毛 (アザラシ) の泥障(どろよけ)。
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次いで水干に野箭 (狩猟用の矢) を携えた武者。
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一番    八田右衛門尉   伊東四郎     加藤次
二番    三浦十郎     八田太郎     葛西三郎
三番    河内五郎
四番    三浦介
五番    足立右馬允     工藤左衛門尉
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次いで後陣の随兵
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一番    梶原刑部丞   大河戸太郎   豊田太郎
二番    大井次郎    大河戸太郎   豊田太郎
三番    人見小三郎   多々良四郎   長井太郎
四番    豊嶋権守    江戸太郎    横山権守
五番    金子十郎    小越右馬允   小澤三郎
六番    吉香次郎    大河戸次郎   工藤庄司
七番    大河戸四郎   下宮次郎    奥山三郎
八番    海老吊四郎   宇津幾三郎   本間右馬允
九番    河村三郎    阿坂余三    山上太郎
十番    下河辺庄司   鹿嶋六郎    真壁六郎
十一番   大胡太郎    祢智次郎    大河戸三郎
十二番   毛利三郎    駿河守     平賀三郎
十三番   泉八郎     豊後守     曽祢太郎
十四番   村上左衛門尉  村山七郎    高梨次郎
十五番   村上右馬助   同判官代    加々美次郎
十六番   品河太郎    高田太郎    荷沼三郎
十七番   近間太郎    中郡六郎太郎  同次郎
十八番   秩父平太    深栖太郎    倉賀野三郎
十九番   沼田太郎    志村三郎    臼井六郎
二十番   大井五郎    岡村太郎    春日與一
二十一番  大胡太郎    深栖四郎    都筑平太
二十二番  大河原太郎   小代八郎    源七
二十三番  三宮次郎    上田楊八郎   高屋太郎
二十四番  浅羽五郎    臼井余一    天羽次郎
二十五番  山上太郎    武者次郎    小林次郎
二十六番  井田太郎    井田次郎    武佐五郎
二十七番  目黒彌太郎   皆河四郎    平佐古太郎
二十八番  鹿嶋三郎    広澤余三    庄太郎
二十九番  上野権三郎   大井四郎    相模小山太郎
三十番   塩部四郎    同、小太郎   中條籐次
三十一番  小見野四郎   庄四郎     仙波平太
三十二番  片穂平五    那須三郎    常陸平四郎
三十三番  塩谷太郎    毛利田次郎   平子太郎
三十四番  遠江浅羽三郎  新野太郎    横地太郎
三十五番  高橋太郎    印東四郎    須田小太郎
三十六番  高幡太郎    小田切太郎   岡舘次郎
三十七番  筥田太郎    長田四郎    同五郎
三十八番  廰南太郎    籐九郎     成田七郎
三十九番  別府太郎    奈良五郎    同弥五郎
四十番   岡部六野太   瀧瀬三郎    玉井太郎
四十一番  玉井四郎    岡部小三郎   三輪寺三郎
四十二番  楠木四郎    忍三郎     同五郎
四十三番  和田五郎    青木丹五    寺尾三郎太郎
四十四番  深浜木平六   加治太郎    道後小次郎
四十五番  多々良七郎   眞下太郎    江田小次郎
四十六番  高井太郎    道智次郎    山口小次郎
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次いで後陣
勘解由判官   梶原平三景時 (郎従数十騎を伴う)    千葉介常胤(随兵は子息親類)
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夕暮れになって六波羅の新亭 (故大納言 頼盛卿の屋敷跡に建築)) に入った。先に入京していた下総守 源邦業 (後に政所別当) 、前掃部頭 中原親能、因幡前司 大江広元、左衛門尉 宇都宮朝綱小山七郎朝光が出迎えた。
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   ※勘解由判官: 頼朝の配下ではなく正式には中央行政と地方行政を監査監督する官職 勘解由使の三等官
で後陣の武者には含まれない。行政官の一人として入京に同行していた。
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西暦1190年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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建久元年
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11月 8日 戊午
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吾妻鏡
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左武衛 一條能保が参上し御参内に関して打ち合わせた。明日は院に参上する旨を民部卿 吉田経房に連絡、経路辻々の警固を 佐々木左衛門尉定綱に命じ、和田義盛梶原景時が詳細を確認して御家人を手配した。
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   ※伊賀前司仲教: 在京御家人の田村仲教らしい。坂上田村麻呂生誕の地とされる陸奥国安積郡の田村を
本拠とした田村氏は奥州藤原氏に仕え熊野新宮に寄進された田村庄々司に任じた。
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奥州合戦の後に東北地方の大部分は恩賞として鎌倉御家人に与えられた。その中で田村庄には補任の記録がないため、何らかの理由で旧領を安堵されたと考えられる。
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しかし続く大河兼任の乱には与したため解任、御家人の藤原仲教が補任されて田村仲教を名乗り一族を代官として現地に派遣、自身は在京御家人として駐留していた。
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   ※直衣: 原則は普段着だが勅許を得た公卿 (三位以上か四位の参議) は直衣での参内が雑袍勅許として
許された。朝廷の風習に馴れた仲教が手配した、という事か。画像は こちら (Wiki) で。
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西暦1190年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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建久元年
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11月 9日 己未
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吾妻鏡
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   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
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御家人が辻々を警固する中を頼朝の院への参内である。まず民部卿 吉田経房を介して直衣着用の許可を願い 即刻の勅許を得た。蔵人左京権大夫光綱がこれを取り次いだ。民部卿は申次役として予め御所に詰めている。
頼朝は申刻 (16時前後) に六波羅を出発し、直衣で大八葉紋の網代車に乗り、院の六条殿へ。
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行列は先頭に随兵が三騎。最前に 三浦介義澄、続いて 小山兵衛尉朝光小山田三郎重成
次に頼朝の御車、牛の御者二人が車に付き添う。
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小山 (長沼) 五郎宗政 (政光の次男) と佐々木三郎盛綱加藤次景廉の三人が牛車の横を徒歩で従う。
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次に御調度懸け(弓箭持ち)の中村右馬允時経、紺と青と丹に染めた水干(入洛の日に頼朝が着用)。
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次に狩衣の武者が六人、各々弓箭を持った二騎を従える
      宇都宮左衛門尉朝綱  八田右衛門尉知家  工藤左衛門尉祐経
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      畠山次郎重忠     梶原平三景時    三浦十郎義連
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次に随兵が七騎
      千葉新介胤正  梶原左衛門尉景季  下河辺庄司行平  佐々木左衛門尉定綱
      和田太郎義盛  葛西三郎清重    武田太郎信義が最後尾の一騎
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六條殿では中門の廊下から昇り、公卿の座の端に着した。吉田経房は前もって奥の座に控え、子息の権弁定経朝臣を介して頼朝の到着を伝奏した。後白河法皇は白色無紋の浄衣で出御し経房の手引きで畳を敷いた南の広縁に座した。暫くの間は治世に関すると思われる院の勅語が続き、暗くなってから退出された。
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経房から「仰りたい事があるとのことです」との院の意向を伝え、頼朝は「後日に改めて参上いたします」と答えて退出した。経房はそれを奏上したところ、「大納言に任じると伝えよ。辞退するだろうが返事を待つ必要はない。今夜叙書 (任命書) を発行せよ」との指示があった。
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(六条殿を退出した) 頼朝は閑院 (帝の里内裏) に参内し、弓場殿 (帝が射芸を見る施設) の方向から鬼の間に入って控え、頭中宮亮 宗頼朝臣が参内の旨を奏した。帝は御引直衣の姿で昼の御座に出御し、摂政の九条兼実が御座の北側に控えた。頼朝は招かれて広縁の円座に座し、ややあって帝は退出された。
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次に鬼の間で 九条兼実と面談、子の一刻に六波羅に戻り、吉田経房が院宣を渡して次のように述べた。
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「勲功によって権大納言に任じられました。再三の仰せにも関わらず辞退のため実現しませんでしたが、上洛した上での仰せなので先例に背いてはなりません。参内された時に伝える御意思は退出が早かったため仕方なく院宣を発行されました。また辞退することのないよう、院の意向を御理解ください。また直綬 (推薦の手順を経ずに叙す事) ではあるが受けよ、との宣下もありました。院宣は以上の通りです。」
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                   十一月九日   民部卿      謹上 新大納言殿
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この書状が六波羅に届き 一品坊昌寛代筆の御請文 (上位者への返状)を呈上。内容は次の通り。
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権大納言拝任の件は誠に喜ばしく恐れ多い事であります。関東でも任官の御言葉を頂きましたが所存があって辞退しておりました。いま再び仰せを頂いたのは面目の極まりでありますが、恐れながら重ねて辞退申し上げます。辞退の意思を収めて頂くことで朝廷の恩を更に深く思い、重ねて勅授を受けたことも深く謝するものであります。この旨を奏上頂くようお願いします。     頼朝恐惶謹言  十一月
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追伸...院宣にも拘らずの辞退も勅授についても誠に恐れ多いと考えております。
この内容を宜しく奏上して頂くよう重ねてお願い申し上げます。
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   ※八葉網代車: 竹や桧で編んだ屋形に窓をつけた牛車に八葉
(八曜) 紋を打ったもの。紋の大きい大八葉車は親王や高位の公卿や僧、紋の小さい小八葉車 (右) は中流貴族や女房が使った。
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   ※鬼の間: 殿上人が詰める広間の南端。南壁に白沢王 (古代
インドの王) が鬼を斬る姿を描いていた。
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   ※御引直衣: 天皇が日常に着用した丈の長い直衣。緋の長袴
の上に重ねて裾を長く引く。
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   ※子の一刻: 子刻 (23時~1時) を四等分した最初の30分間で 23時~23時半に該当する。他の刻も同じ。
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西暦1190年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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建久元年
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11月 9日 己未
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玉 葉
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~ 拝謁に関しては吾妻鏡の記載と概ね同じなので略し、玉葉の要点のみ意訳した。 ~
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九日、頼朝卿と面談した。彼が語ったのは次のような事柄である。
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現在は法皇が政治を司り、天子 (天皇) はまるで春宮 (東宮、つまり皇太子) の如くですが、これはいずれ是正され主上に戻るでしょう。現在の主上はまだ幼年であり、あなた (九条兼実) の前途も洋々であり、私もまた運があれば本来の姿に戻った政治を見られるでしょう。
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父の 義朝が逆賊の罪を負ったのは元々勅命を重んじた結果の滅亡です。私は父の忠義を無駄にしないため、朝廷の大将軍を受けたのであります。
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   ※本来の政治: 朝廷の大将軍を受けた理由は、院政から本来の天皇親政に戻す事にある、と語った。
頼朝は 運があれば院政ではなく帝が統治する本来の姿を見る云々を述べているのだが、その幼い帝 (後鳥羽天皇) が退位後に院政を強化し、頼朝没後の1221年に更なる権威の強化を目指して承久の乱を引き起こすのだから、何とも皮肉だ。
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頼朝の言葉はこの時点での本音だと私は考えるが、頼朝は建久六年 (1195) 2月に東大寺落慶供養のため上洛した頃から、大姫の入内工作が本格化する。
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後白河は建久三年 (1192) に既に崩御し、寵姫だった 丹後局 (高階栄子) と 彼女と協調して朝廷の実権を握ろうとしていた 土御門通親の協力を得るため、平然と 九条兼実を見捨ててしまう。悔やんでも戻らない失敗だが、頼朝にその自覚があったのかどうか。
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   ※義朝が逆賊: 1156年11月の保元の乱は、皇位継承を巡る 後白河天皇崇徳上皇の勢力争いが発端。
後白河側は関白の 藤原忠通 (Wiki) と後白河傳人の 信西 (Wiki) を筆頭に河内源氏の 源義朝、伊勢平氏の 平清盛、摂津源氏の 源頼政ら。
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崇徳上皇側には藤原氏長者の 藤原頼長 (Wiki) を筆頭に河内源氏の 源為義、摂津源氏の 源 (多田) 頼憲 (Wiki) 、伊勢平氏の 平忠正 (Wiki) らが加勢して戦った。結果は後白河天皇側が勝者となり、崇徳上皇は讃岐に流されたまま崩御した。
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敗北者が逆賊で勝者が正義の執行者になるのは常に同じ。為義と (義朝を除く) 息子 5人および崇徳側の伊勢平氏には大同五年 (810年) に勃発した 薬子の変 (Wiki) 以来 346年間途絶えていた死罪が適用された。
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「勅命を重んじた義朝が逆賊に」 はこの部分を差す。「保元の乱」は朝廷の権力争いに武家の力が介入した最初の例であり、結果として武家政治の時代を招く端緒にもなった。
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西暦1190年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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建久元年
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11月11日 辛酉
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吾妻鏡
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新大納言家が六條若宮と石清水宮 (現在の 石清水八幡宮、公式サイト) などに参詣した。
行列の先頭は神馬一疋 (鴾毛、赤みを帯びた葦毛。六條若宮に立ち寄って石清水へ) 。
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神馬に続いて先陣の随兵
小山兵衛尉朝政   小山田三郎(稲毛)重成    越後守安田義資   加々美次郎(小笠原)長清
土肥次郎実平    左衛門尉梶原景季     村上左衛門尉頼時(北信濃坂城の武士)
兵衛尉武田有義   千葉新介胤正       葛西三郎清重
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次いで御車
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新田四郎忠常   糟屋籐太有季   佐々木次郎経高   同、三郎盛綱   大井次郎實春
金子十郎家忠  小諸太郎光兼(元義仲の武将)  河匂七郎政頼  本間右馬允義忠  猪俣平六範経
    (以上十人、御車の左右に歩く)
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御調度懸けは武藤小次郎資頼
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次いで後騎(浄衣)
参河守源範頼    駿河守源広綱   相模守大内惟義    伊豆守山名義範   村上右馬允経業
北條小四郎義時   三浦介義澄    左衛門尉宇都宮朝綱  右衛門尉八田知家
右馬允足立遠元   比企四郎能員   千葉介常胤
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次いで後陣の随兵
畠山次郎重忠   八田太郎朝重   毛利三郎頼隆(陸奥 (源) 義隆の三男)
小山七郎(結城朝光)   村山七郎頼直(信濃善光寺の武将)   千葉次郎師常(相馬師常
左衛門尉佐々木定綱    加藤次景廉  信濃三郎光行  三浦 (佐原) 十郎義連
最後尾に和田太郎義盛   梶原平三景時 (各々浄衣)
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参詣の最初は六條若宮で、次に石清水八幡宮。石清水で神馬一疋と銀造りの劔一腰を奉納した。馬場の仮屋に食事の用意があったが広さが不足し任覚房に入った。今夜は宿泊し神前で通夜の読経が行われる。
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   ※新大納言家: 直綬により権大納言と右近衛大将に任じられた頼朝は当日中に奉書で叙任を辞退し、
更に12月3日には正式に辞状を提出した。従って暫定的にも権大納言着任ではないが、公卿の特権だけ確保する意図があって権大納言は辞さなかった可能性もある。
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いずれにしろ建久三年 3月に 後白河法皇が崩御し、同年の 7月12日には (坂上田村麻呂以来の) 征夷大将軍に任じた。更に近年は新たな史料が発見され、頼朝が望んだのは「大将軍」であり、征夷にしたのは単純に朝廷の都合だった、あるいは鎮守府将軍を超える職位として征夷大将軍を望んだ、などの説が発表されている。
詳細は 資料 (Wiki) を参照されたし。
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   ※六條若宮: 文治三年 (1187) 1月15日の項に詳細を記載した。
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西暦1190年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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建久元年
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11月12日 壬戌
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吾妻鏡
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夜になって石清水八幡宮から六波羅に還御した。
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   ※移動距離: 石清水 (八幡市) から六波羅までは約 16km、意外に近い。しかし遠路はるばる京都まで
来たのだから父祖の守護神社だった羽曳野の 壺井八幡宮 (Wiki) や、河内源氏の菩提寺である 通法寺にも行くべきなのに、立ち寄った記録がないのは何故だろう?
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石清水から更に 60km南だから少し遠いが、頼信頼義八幡太郎義家の墓所もある。
通法寺は明治初期に廃寺となったが、この時代はまだ隆盛していた筈だ。
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西暦1190年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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建久元年
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11月13日 癸亥
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吾妻鏡
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新大納言家からの献上品は伊賀前司仲教を経て詳細の内容書 (凾に入れて封) を 吉田経房卿に提出、経房は左大丞定長を経て奏覧に呈した。内容は下記。他に龍蹄 (大型の駿馬) 10疋を禁裏 (帝の御所) に献上した。
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    進上品   砂金 八百両  鷲羽 二櫃  御馬 百疋     建久元年十一月十三日  源頼朝
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西暦1190年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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建久元年
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11月15日 乙丑
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吾妻鏡
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大納言家 (頼朝) から院に献じた百疋の馬は各所の神社に分け与えられた。
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西暦1190年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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建久元年
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11月16日 丙寅
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吾妻鏡
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   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
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大納言家 (頼朝) が唐櫃 (鶴の蒔絵) 二組を御所の女房三位局 高階栄子 に贈った。中には絹糸を二百疋、紺の絹百疋を納めている。大和前司 山田重弘が使者を務めた。
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   ※一疋: 布地二反分に束ねてある絹糸、疋絹に同じ。
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西暦1190年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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建久元年
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11月18日 戊辰
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吾妻鏡
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亜相 (大納言の唐名、頼朝を差す) が 清水寺 (公式サイト) に参詣した。乗り物は牛車、供は石清水八幡宮での人数と同じで、随兵の 小山七郎朝光和田太郎義盛の二人を御車の前に配した。
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清水寺では多勢の僧による法華経の読誦供養を奉納、参加した僧には多くの布施を与えている。
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   ※清水寺: 治承四年 (1180) 8月24日の吾妻鏡は 石橋山合戦に敗れて土肥椙山を逃げ回り、洞窟に隠れて
暫くの休息を得た頼朝の言動をを次のように記述している。
今回の清水寺参詣は単に物見遊山ではなく、背景に持仏である観音像の由来があった。
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頼朝は髷の中から正観音像を取り出して岩窟に隠し奉じた。土肥実平が仔細を尋ねると 「討ち取られて景親が首を見た時に源氏の大将に相応しくないと思われる。
これは私が三歳の時に乳母が清水寺に参詣して将来を祈り、夢のお告げで得た二寸の銀の像なのだ。」 と語った。
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頼朝の乳母は、比企掃部允の妻 (比企尼) 、小山政光の妻 寒河尼山内俊通の妻、三善康信の伯母、が知られている。また、治承五年閏 2月7日の吾妻鏡に次の記述がある。
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頼朝誕生の際に乳付けのため呼ばれた青女 (現在は尼で摩々と名乗る) が相模の早河庄に住んでいる。古い縁があるため、屋敷と田畑の保護を惣領地頭に指示した。
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   ※新 清水寺: 京都の清水寺に深く帰依した政子は亀ヶ谷に新 清水寺を
建立し、本尊として巨大な鋳鉄の観音像を本尊とした。
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寺域は現在の扇ガ谷の高台、泉谷山浄光明寺 (Wiki) の山門前の細い路地を入った右手の高み (地図)である。
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正確な創建年代も規模も不明なのだが、正嘉二年 (1258) 1月17日の鎌倉大火が事件の発端となる。
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丑刻 (深夜2時前後) 、秋田城介 安達泰盛の甘縄邸からの炎は南風に煽られ北側の峯を越えて寿福寺まで飛び火し 惣門、仏殿、庫裏、方丈など寺域全ての堂宇を焼き尽くし、更に新清水寺と窟堂および付近の民家と八幡宮の宝蔵と別当坊も焼失した。
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そして火災から 441年が過ぎた元禄十二年 (1699) 、突然に鉄観音の頭部だけが発見された。その顛末は...正嘉二年 (1258) 1月17日の吾妻鏡で、どうぞ。
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仏像の背後が鉄観音の頭部。高さ約170cmで巾54cm、頭頂部の傷を銅で補修している。
常識的に聖観音像は立像だが、坐像と仮定しても全体は7mを越す巨大サイズである。
立像ならば優に 12mクラスか。  右画像をクリック→ 別窓で拡大表示
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西暦1190年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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建久元年
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11月19日 己巳
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吾妻鏡
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朝からの雨は夕方にやんだ。未刻 (14時前後) に大納言家は直衣で仙洞 (院の御所) に参内し、左武衛 一條能保を伴って 後白河法皇と数刻 (一刻は2時間) に及ぶ面談を行なった。
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   ※数刻の面談: 殆ど一日中話し合っていた事になる。頼朝が在京した 40日間の面談は8回に及び、二人
は互いを理解したと言われるが、朝廷と鎌倉の利害関係はその程度では解消しない。
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後白河は頼朝の征夷大将軍叙任を最後まで許さず、これが実現したのは後白河が崩御した建久三年 (1192) 3月から4ヶ月が過ぎた同年7月12日だった。この年を以て鎌倉時代がスタートした、とするのが一般的らしい。無意味な設定なのだが必要な区分、か。
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西暦1190年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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建久元年
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11月22日 壬申
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吾妻鏡
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大納言家を (近衛府の) 大将に任じる旨の院宣 (吉田経房の奉) が届いた。御請文 (上位者への返状) は「思いの他に大納言に任じ、更には大将にまで任じて良いのだろうか」との内容である。
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九条兼実はその返状を見て「 (辞退などの)異議を呈するべからず」との旨を伝えてきた。
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西暦1190年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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建久元年
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11月23日 癸酉
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吾妻鏡
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大納言家 (頼朝) は仙洞に参上し、終日 院と面談。長絹百疋と綿千両と紺絹三十反を台盤所に献じた。
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   ※台盤所: 内裏に仕える女房 (女官) の詰所、または女房全体を差す。
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西暦1190年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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建久元年
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11月24日 甲戌
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吾妻鏡
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右大臣の藤原兼雅卿が右大将の辞表を提出した。
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今夜、亜相 (大納言の唐名、頼朝を差す) を右大将に任じる旨の院宣 (吉田経房の奉) が発せられた。
頼朝の御請文には辞退の趣のみで所望の記述はなく、言葉が見当たらない、と。
夜になって叙目が行われ、蔵人右少弁家実が宣下を伝えた。頼朝以外の叙任はない。
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右近衛大将に源頼朝  太政官上卿 (首席補佐官だ) は別当 源 (土御門) 通親、執筆は右宰相中将公時卿。
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   ※兼雅の辞表: 右大将は右近衛大将の略で定員一名。頼朝任命の意向を知った兼雅が職を退いて空席に
した。右よりも左が上位で、後に三代将軍実朝は父よりも高位の左大将を望んでいる。
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   ※土御門通親: 村上源氏の公卿。丹後局 高階栄子と手を組んで 九条兼実を失脚させ、大姫の入内を願う
頼朝を操るなど朝廷で辣腕を振るったが、54歳で他界。以後は 後鳥羽上皇の専断暴走を押し留められるほどの見識や能力を持つ公卿は激減する。
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西暦1190年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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建久元年
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11月26日 丙子
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吾妻鏡
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右大将家の番長以下の人事を院が定めた。検非違使の秦兼平が番長に任じ 播磨貞弘がその部下筆頭となる。主上 (天皇) に拝賀の際は仙洞 (院の御所) を先にせよとの旨が右大臣経由で命令があった。
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   ※番長: 衛府の中間管理職。近衛府では長官に従って騎馬で前駆を務めるのが任務。
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西暦1190年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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建久元年
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11月28日 戊寅
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吾妻鏡
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頼朝の右大将拝賀に伴って随兵などについての指示があった。江間殿 (北條義時) から内々に 小山朝政に、
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随兵については当日の出発前に指示されるが、私と同色の甲冑と直垂を着した者を私の同伴者にするよう申請してある。私は赤革威の鎧に青筋柄の直垂を用意しているから、あなたも同色にして任じるように。
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との連絡があった。喜んだ朝政は同色の直垂と甲冑を用意した。
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   ※両者の年齢: 義時は応保三年 (1163) 生まれの27歳、朝政は仁平四年頃 (1154年頃) 生まれの36歳。
実績も家格も朝政が上なのだが、義時を上位に描いたのは編纂者の忖度だろう。
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西暦1190年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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建久元年
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11月29日 己卯
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吾妻鏡
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夜に入り右大将頼朝が院に参上。狩衣の武士12人が従い、それぞれ狩衣の下に腹巻 (鎧の胴) を付けた。
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  三浦介義澄    足立右馬允遠元  下河辺庄司行平  小山七郎朝光  千葉新介胤正
  八田太郎朝重   小山田三郎重成  三浦十郎義連   三浦平六義村  梶原左衛門尉景季
  加藤次景廉    佐々木三郎盛綱
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西暦1190年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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建久元年
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11月30日 庚辰
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吾妻鏡
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右大将家の毛車と廂車、御装束 (束帯直衣) 、剣と装具、随臣舎人らの装束、これらは全て院が整え、検非違使の則清が勅使として届けてきた。その他の従者や牛飼いの装束は右大臣の手配である。
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   ※毛車: 屋形の表を色糸で飾った牛車で地位により糸色が異なる。主に女性用だが女性専用ではない。
廂車は唐破風の屋根と庇 (この部分も網代) をつけた網代車。用途の区分は判らない。
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   ※右大臣: 藤原兼雅が右近衛大将に任じたのは文治四年 (1188) 10月、右大将を頼朝に譲って辞任し
右大臣専任となったため、不要になった装束を提供したと思われる。
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西暦1190年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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建久元年
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12月 1日 辛巳
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吾妻鏡
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   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
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右大将家 (頼朝) の拝賀 (朝廷への御礼) である。主税頭 在宣朝臣が院宣に従って良い日時を選び、申一刻 (15時) に仙洞 (六條大路の北、西の洞院通西) に参上した。
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行列はまず、牛の御者が二列四人 (薄紅の狩衣、一人は牛の鼻輪を執る)
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次に 舎人が二列四人 (行幸の手順と同じ、右大臣の指示に拠る。萌黄狩衣と袴、薄色の袙 (中着) 、
   白絹の単衣、平組の括り紐、平烏帽子)  これらは院の御厩舎人 (貞澤、金武、枝次) である。
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次に 随行の官人 (府生、検非違使の下役)、将曹(近衛府の主典、四等官)、廰 (院の官吏) 一人、
   将監より上は束帯で騎馬 (院の馬)
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次に 前駆の笠持ち (模様を打った鞍覆)
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次に 前駆十人
   七條院非蔵人範清  河内守光輔   皇后宮大進行清  散位成輔    前右馬の助朝房
   前尾張権守仲国   前下総守邦業  前左馬助成実   内蔵権頭国行  前参河守範頼
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次に 番長 秦兼平 (左府生、検非違使の下級書記官) 、院の人選。白の狩袴に脚絆風、狩猟用の胡録
   (箭壺) を負う従者が八人、道の横を行進す、
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次に 御簾を挙げた御車 車の付添い二人(烏帽子に垂裾、糊張の狩衣(村濃平組の括り紐、薄色、白絹単衣、
   牛の御者(赤色と山吹色の着衣、榻(昇降台)を携帯。院の牛飼いで黄色の単衣、牛は黒班牛(院の牛)、
   糟屋籐太有季 (直衣、折烏帽子) が御劔 (野太刀、戦闘用) を持つ
   前左衛門尉朝綱と前右衛門尉朝家 (各々直衣に折烏帽子で御車の左右、付添いの横に立つ)
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次に 近衛府の武者五人
   播磨貞弘 (本府生敦助の息子)   下毛野敦季 (敦助の息子)
   秦兼峯 (兼平の息子)   同、頼任 (頼文の息子)   佐伯武文 (近文の息子)
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次に 雑色七人 (一人は垂袴に木沓、五人は藁沓を着す。皆平烏帽子)
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次に 笠と雨着持ち
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次に 狩衣の武者七人
   三浦介義澄    千葉新介胤正  左衛門尉祐経  前右馬允遠元
   前左衛門尉基清  葛西三郎清重  八田太郎朝重
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次に 扈従の人々
   左兵衛督能保卿(簾を挙げた毛車、垂袴の護衛兵が従う)
   左少将公経朝臣(簾を挙げた車、衛府の兵士二人が従う)
   右少将保家  (簾を挙げた車、衛府の兵士二人が従う)
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次に 頼朝の弓箭持ち 前右馬允時経 (騎馬、御入洛日の御箭を携帯、麹塵 (灰黄緑) の水干袴に立烏帽子)
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次に 随兵七騎
   北條小四郎   小山兵衛尉朝政  和田太郎義盛  梶原平三景時
   土肥次郎実平  比企籐四郎能員  畠山次郎重忠
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中門に於いて院への賀詞を述べ、内蔵頭定輔朝臣が取り次ぎ。奏上の旨が伝えられ、舞踏 (喜びを表す儀式) の後に御前への御召があった。蔵人が圓座を敷いた透渡殿(寝殿造りの建物を結ぶ回廊)に進み直ぐに退出、本来の馬を授与する儀式は省略した。
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夕暮れ前に六条大路を東へ向かい東洞院を北行して内裏(閑院、里内裏)に参上し弓場殿で奏慶、右中将伊輔朝臣が取り次いだ。舞踏の後に頭中将実明朝臣に招かれ昼の御座の前に進み、帝は中宮の方に出御された。中宮と摂政の出席は用意したのみで略された。
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   ※仙洞: 六条殿は現在の長講堂一帯 (地図) 。寿永二年 (1183) に 後白河法皇が近臣の平業忠から譲り受け
た邸内に建立したのが長講堂。文治四年 (1188) に焼失、幕府の協力で再建された。
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後白河法皇は建久三年 (1192) の崩御直前に所有する荘園を長講堂に寄進し、後白河と 高階栄子の娘である宣陽門院 (覲子内親王) が相続、持明院統 (第89代後深草天皇の系、北朝に続く) が
継承して大覚寺統 (第90代亀山天皇天皇の系、南朝に続く) よりも優位に立てる経済的な基盤となった。その後は火災などで数度の再建と縮小を繰り返す。
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   ※内裏: この時の帝の御所は権大納言 藤原邦綱邸を利用した里内裏の 土御門東洞院殿 (Wiki) 。 場所とし
ては現在の京都御苑の南西部分になるだろうか。元弘元年 (1331) に 後醍醐天皇と対立した幕府が擁立した光厳天皇 (後の北朝初代) がここを皇居とし、東京遷都まで 27代の御所となった。
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平安遷都当時の内裏は1.7km西の千本通り沿いだったが、当サイトの時代背景である平安末期~鎌倉末期の御所は (仙洞御所は別にして) ここを基準に考えないと駄目、なんだね。
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西暦1190年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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建久元年
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12月 2日 壬午
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吾妻鏡
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右大将家 頼朝が御直衣 (三位以上の装束) を着して最初の参内。丸い藤を染めた薄色の袴に薄色の紅梅を配した直衣、紫革飾りの太刀に笏を持ち、檳榔毛の車である。
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前駆は六人  行清、成輔、仲国、邦業、国行、範頼。番長は兼平、各色の衣装を着した部下五人を従える。
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随兵は八人  小山田三郎(稲毛)重成   葛西三郎清重   千葉(境)平次常秀   加藤次景廉
       三浦(佐原)十郎義連   梶原三郎景茂   佐貫四郎廣綱佐々木左衛門尉定綱
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他に従っている者はいない。まず仙洞 (院の御所) へ。東門から入って西の廊下に控えた。すぐに右中弁棟範朝臣を介して御前に招かれ、まもなく退出した。昨日の拝賀の際には直垂を来て太刀を帯びた者について質問があった。姓名を奏上すると、無官ではならない、すぐに兵衛尉を授ける旨の勅定があった。
その後に帝の御所に参内、今日の上下装束は全て院が整えたものである。
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   ※檳榔毛の車: 椰子科の常緑高木の葉を裂いて編んだ屋形の前後に庇を付けた牛車(びろうげの車)。
上皇、親王、摂政関白、大臣など高位の公卿が使った。
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西暦1190年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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建久元年
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12月 3日 癸未
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吾妻鏡
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右大将家 頼朝は両職 (近衛府右大将と大納言) の辞表を箱に納めて提出した。使者は右少将保家、頭中将 (蔵人頭と近衛中将の兼任職) が受け取って院に上奏した。院は慰留せよとの仰せである。
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頼朝は辞表の提出に伴って院から派遣された者に禄 (参加者への褒賞) を与えた。番長兼平に馬三疋と布各種を 100段、近衛府の五人に各々馬一疋と布各種を30段。中原親能がこれを差配した。
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西暦1190年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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建久元年
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12月 4日 甲申
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吾妻鏡
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前右大将家 頼朝は絹の布などを京都の著名な神社や仏寺に布施として納めた。差配は中原親能二階堂行政一品房昌寛らである。
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西暦1190年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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建久元年
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12月 5日 乙酉
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吾妻鏡
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前右大将家 頼朝が石清水八幡宮に参詣、供として従った者は前回と同様である。
今日、龍蹄 (大型の駿馬) を 吉田経房卿に献上した。また前駈の人々にも馬を贈与し、この使者は 八田知家千葉胤信らが務めた。
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   ※前駈の人々: 参内の際に前駈を務めた官人 (範清ら10人) を差す。
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西暦1190年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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建久元年
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12月 7日 丁亥
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吾妻鏡
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前右大将家 頼朝の関東下向が近づき、御所の女房三位局 高階栄子に餞別などを贈った。その中には扇が百本、これも 後白河法皇の御意向である。
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西暦1190年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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建久元年
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12月 8日 戊子
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吾妻鏡
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前右大将家 頼朝が御劔一腰と砂金十両を三井寺青龍院の修理費用として寄進した。この霊場は八幡太郎義家が特に崇敬し遺髪を埋葬した地である。
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   ※青龍院: 三千院 (梶井門跡) や妙法院と共に天台宗三門跡寺院とされた。詳細はこちら (Wiki) で。
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西暦1190年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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建久元年
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12月 9日 己丑
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吾妻鏡
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前右大将家 頼朝は半蔀車に乗って院に参上した。院が手配した牛車である。
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   ※半蔀車: 網代車 の一種で物見窓が半蔀 (上半分は外へ吊り上げ、下半分は嵌め込み)のもの。
高位の公卿 (摂政、関白、大臣) と大将の乗用で、上皇や高僧や上﨟 女房も使った。
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西暦1190年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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建久元年
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12月10日 庚寅
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吾妻鏡
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留守中の六波羅宿館の管理などについて、今日これを定めた。左兵衛頭 一條能保の息子である 高能 (頼朝の甥) が使うことになる。
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   ※一條高能: 能保は文治二年 (1186) ~建久八年 (1197) 10月まで京都守護に任じた。高能は父の後任
として約1年間務め、翌 建久九年 (1198) 9月に23歳で早世した。建久元年には若干16歳、官職 (左馬頭または右兵衛督) を兼ねて父の補佐に任じていたのだろう。
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公用で鎌倉に下向した建久五年 (1194) 8月に頼朝は 大姫との婚姻を進めようとしたが大姫が「そんな事したら死んでやる!」と拒否したため立ち消えになったのも面白い。
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もし結婚していたら揃って若死にしていたかも (大姫は建久八年7月に20歳で病没)。
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西暦1190年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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建久元年
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12月11日 辛卯
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吾妻鏡
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前右大将家 頼朝が院に参上して数時間を過ごした。御家人の 10人がこれまでの勲功に依って左右の兵衛尉と左右の衛門尉などに任官された。院からは 20人を推挙せよとの仰せがあり、頼朝は何度も辞退したが再三の勅命があったため 10人の任官を申し出た。
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   左兵衛尉  平 (千葉、境) 常秀 (祖父 常胤が譲る)   平 (梶原) 景茂 (父 景時が譲る)
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   右兵衛尉  平 (三浦) 義村 (父 義澄が譲る)   平 (葛西) 清重 (勲功の賞)
   左衛門尉  平 (和田) 義盛 (勲功の賞)   同、義連 (勲功の賞)
藤原 (足立) 遠元 (勲功の賞、元前右馬允)
   右衛門尉  藤原 (小山) 朝政 (勲功の賞、元前右兵衛尉)   藤原 (比企) 能員 (勲功の賞)
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西暦1190年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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建久元年
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12月13日 癸巳
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吾妻鏡
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現在は牛車 (毛車、11月30日参照) を三輌、六波羅の館に保管している。そのうちの二輌は 二階堂行政が差配して関東へ運ぶことになり、佐々木左衛門尉定綱の担当で近江国の人夫に命じて輸送を担当する。
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西暦1190年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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建久元年
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12月14日 甲午
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吾妻鏡
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   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
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前右大将家 頼朝が関東に帰還する。前後の随兵や供奉人は入洛の際と同様だが、駿河守 源広綱が今朝から姿を見せない。家人の誰も所在を知らず驚いている。広綱は伊豆守 仲綱の息子で以前から関東で頼朝に従っており、去る元暦元年 (1184) 6月5日には伊豆守を希望して任命されていた。今回の上洛に従って来たのに、行方不明の意味が判らない。  夜に入って強い風が吹き荒れ、小脇の宿に到着した。
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   ※仲綱の息子: 広綱は仲綱の実子ではなく頼政の末子が仲綱の養子
になった人物。頼政と仲綱が平等院で自刃した時には頼政の二男 有綱と伊豆 (頼政の知行国) に滞在中で追討を免れ、そのまま頼朝挙兵に合流した。頼政は衰退した源氏の遠戚を何人も養子に迎えている。
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翌 建久二年6月24日に神護寺の 文覚から頼朝宛に書状が届き、以下の内容を伝えてくる。
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広綱失踪は「右大臣拝賀の際の供奉人に選ばれなかった事」と「駿河守の業務に関する不満とストレス」が原因で、現在は上醍醐 (地図) に隠棲している、と。
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右は上醍醐の国宝 薬師堂、延喜十三年 (913) の建造で保安二年 (1121) の再建。同じく国宝の本尊 薬師三尊像は下醍醐の霊宝館に遷している。クリック→ 別窓で拡大表示
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   ※小脇の宿: 現在の東近江市小脇町、堀に囲まれた一角 (地図) が館の跡と推定される。六波羅からは
約50km、通常は30km前後の草津か野洲で宿泊だろうが小脇は佐々木氏の本領で、寛弘年間 (1004~1011年)に 秀義の祖父経方 (宇多源氏) が定住して以来の本貫地である。信頼を置いている定綱の小脇館に宿泊したと考えるべきか。
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嘉禎四年 (1238) 10月13日の吾妻鏡にも四代将軍 藤原頼経が上洛の帰路に「近江入道 (佐々木信綱) が建てた仮御所に宿泊して豪華な接待を受けた」との記載がある。この時は早朝 3時に京を出発し18時に小脇入りしている。
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西暦1190年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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建久元年
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12月15日 乙未
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吾妻鏡
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   12月15日 乙未 箕浦で宿泊。   現在の米原市箕浦(地図
   12月16日 丙申 青波賀で宿泊。  現在の大垣市青墓町(地図
   12月17日 丁酉 黒田で宿泊。   現在の愛知県一宮市木曽川町黒田(地図
   12月18日 戊戌 小熊(黒田より西、前後を間違えたか)で宿泊。  岐阜県羽島市小熊(地図
   12月19日 己亥 夜に入り宮路山中で宿泊。  愛知県豊川市音羽 ( 地図
   12月20日 庚子 橋下で宿泊。  (往路の10月29日に宿泊、地図
   12月21日 辛丑 池田で宿泊。   天竜川池田の渡し、磐田市池田 (地図
   12月22日 壬寅 懸河で宿泊。   静岡県掛川市(地図
   12月23日 癸卯 嶋田に宿泊。   静岡県島田市(地図
   12月24日 甲辰 駿河国府に宿泊。 駿河の国府(地図)だが国府の位置は未確認
   12月25日 乙巳 奥津に宿泊。   静岡市興津(地図
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   小脇~箕浦は42km 箕浦~青波賀は28km 青波賀~小熊は15km 小熊~黒田は11km
黒田~宮路は82km 宮路~橋下は34km 橋下~池田は30km 池田~懸川は26km
懸河~嶋田は21km 嶋田~駿河国府は27km 駿河国府~奥津は15km 奥津~黄瀬川は42km
黄瀬川~竹下 (竹之下) は32km 竹下~酒勾は30km 酒勾~鎌倉は40km
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   小熊と黒田が前後する事や距離のバラつきなど、吾妻鏡の記録は正確さに欠けるようだ。
青波賀~宮路の部分は108kmを3日で通過した、と単純に考えるべきかも。
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西暦1190年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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建久元年
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12月26日 丙午
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吾妻鏡
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   12月26日 癸丑 亥の刻 (22時前後) 黄瀬河宿(地図)着。替馬が整い、北條時政が糧食を準備した。
   12月27日 丁未 竹下に宿泊。 現在の駿東郡小山町竹之下(地図)、足柄峠の西側。
   12月28日 戊申 酒匂に宿泊。 現在の小田原市酒匂(地図)、往路の10月4日にも宿泊している。
   12月29日 己酉 寅刻(午前4時前後)に酒匂の宿を出発し、酉刻(18時前後)に鎌倉に着御した。
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西暦1190年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治六年
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 月 日   
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吾妻鏡
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記事
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   ※:
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西暦1190年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治六年
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 月 日   
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吾妻鏡
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記事
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   ※:
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西暦1190年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治六年
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 月 日   
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吾妻鏡
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記事
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   ※:
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前年・文治五年(1189)の吾妻鏡へ      翌年・建久二年(1191)の吾妻鏡へ