現在では、
頼朝は京都で産まれたと考えられている。熱田で産まれたとしているのは屋代本の平家物語で、母の由良御前が熱田神宮の大宮司
藤原季範(藤原南家・従四位)の三女だった関係から、
義朝の正妻となった彼女は幡屋(現在の旗屋町)の別邸(現在の誓願寺)で頼朝を産んだ、としている。
彼女の兄二人は
後白河天皇の近臣、姉妹の一人は待賢門院(74代鳥羽天皇の中宮・75代崇徳と77代後白河天皇の母)や
上西門院(待賢門院の娘)に仕え、更に孫娘は季範の養女として足利氏の初代
義康に嫁して二代
義兼を産んでいる(つまり、頼朝と義兼は義理の兄弟)。
生活基盤を京都に置いた藤原季範の係累や子女にも朝廷との繋がりが多く、通常は都で暮らしながら欠かせない行事の時のみ熱田の別邸に出向いた...のか。
熱田神宮の
公式サイトおよび
神宮周辺の地図を参考に。
ちなみに、頼朝の長兄
義平の生母は
三浦義明の娘(橋本
※の遊女説もある)、次兄
朝長の生母は
藤原秀郷の後裔を名乗る
波多野義通 の妹。当時は生母の出自が兄弟の処遇に影響するのが普通だったので義平は無官で頼朝の昇進は朝長よりも早く、
※、実質的に義朝の嫡男として遇されていたらしい。
※橋本:京都府八幡市の
石清水八幡宮(公式サイト)の近く。相模あるいは湖西市の橋本とは異なる。
※官位:平治の乱直前の朝長は従五位下で官職は中宮少進、頼朝の官職は右兵衛権佐。これが後に「佐殿(すけどの)」と呼ばれる元となった。
元服に際して頼朝(幼名・鬼武者)は烏帽子親の藤原信頼から頼の文字を受けた。信頼は鳥羽院の近臣大蔵卿藤原忠隆の四男で後白河上皇の寵臣、後に義朝らと平治の乱を主導し、敗れて捕縛され命乞いの末に斬首された。奥州藤原氏の
三代秀衡の舅として知られた
藤原基成 は兄にあたり、従兄弟は
一條長成。長成の妻は源義朝の妾として
義経などを産んだ後に
平清盛
の妾を経て長成に再嫁した絶世の美女
常盤である。血脈の糸は複雑に絡み合う。
史実ではない可能性は高いのだが、熱田神宮に参拝したら西の鳥居のすぐ前にある「頼朝誕生の地」誓願寺を素通りする訳にもいかない。
室町時代の享禄二年(1529)、熱田神宮の大宮司藤原季範の別邸跡に妙光尼日秀(善光上人)が西山浄土宗の妙光山誓願寺(尼寺)を建立した。
法然上人の唱えた戒律と念仏の教えを継承した西山上人による宗派で、京都長岡京の
光明寺(公式サイト)を本山とする。当初の誓願寺は熱田神宮社殿を管理修復する勧進を運営の目的としていたらしい。庫裏の前にある
頼朝公産湯の井戸(画像)は昔の池の跡に戦後再建したもの。他には葵紋の表門と石碑が建っているだけだ。
【 熱田神宮の歴史と御神体(主祭神)である熱田大神(天叢雲剣)について 】
第十二代景行天皇43年(西暦113年)、皇子である日本武尊(ヤマトタケル)は東征の帰路に天叢雲剣(草薙神剣)を火上山(名古屋市緑区・熱田神宮の南8km)に置いたまま
能褒野(別窓・三重県亀山市)で没した。妃の宮簀媛命(みやすひめのみこと)は神剣を守り続け、老齢を迎えた際に遷して祀ったのが神宮の始まりである。その時に社地と定めた地にあった楓の樹が燃えて水田に倒れ、周囲の水田が熱くなったためこの地を「熱田」と呼んだ、と伝わる。
天叢雲剣は三種の神器の一つとして天皇の武力を象徴する存在であり、熱田神宮は歴代天皇と朝廷の崇敬を受けて伊勢神宮に次ぐ特別の存在となった。名古屋中心街に近い境内は約6万坪、樹齢千年を越す楠木や多くの国宝重文(特に刀剣)を収蔵している。
天叢雲剣(草薙神剣)は須佐之男命(すさのお)が出雲国で殺した八岐大蛇(やまたのおろち)の尾から出てきた太刀。須佐之男命→天照大神→瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)→豊鍬入姫命(崇神天皇の皇女)→倭姫命(垂仁天皇の皇女)を経て伊勢神宮に納められた。
その後に倭姫命が東征に向う日本武尊に渡し、日本武尊は東征の帰路に尾張で娶った宮簀媛命に剣を託して伊吹山の悪神討伐に向ったが、病を得て没した。「天叢雲」は八岐大蛇の頭上に掛かっていた雲気から、「草薙」は東征途中の駿河国で敵の放った火に囲まれた時に草を払って難を逃れたことから名付けられたもの。その地が焼津である、と。
【 果たして御神体の天叢雲剣は熱田神宮にあるのだろうか? 】
※熱田神宮にある、とする説
天智天皇七年(668)に新羅の僧が神剣を盗んで新羅に渡ろうとしたが船が難破し、その後は宮中に保管された。朱鳥元年(688)6月、天武天皇が病気になったのは天叢雲剣が本来の場所から遷されたのが原因とされ、熱田神宮に戻された。
江戸時代に天叢雲剣を盗み見た神官によれば「長さは2尺8寸(約85cm)、刃先は菖蒲の葉に似て(両刃の意味だろう)中程にはむくり(ふくらみ)と厚みがあった。根元の6寸(18cm)ほどには魚の背骨状の節があり全体に白かった。」という。その神官は剣の祟りで死んだとか、失明したとか。
昭和天皇に仕えた入江侍従長の著書には、空襲を避けるため避難させた際の見聞を次のように記述している。
明治天皇の侍従長山岡鉄舟の封があり、更に明治天皇の封があった。実物は見ないで封を解かず短剣の櫃に入れた。と。
※壇ノ浦合戦の際に失われた、と書いているのは吾妻鏡と平家物語。後鳥羽天皇も戦後に宝剣の捜索を命じているので、常識的にはこれが正しい。
【 吾妻鏡 元暦二年(1185) 3月24日 】
壇の浦で源平の合戦があった。平家は500余艘の軍船を三手に分けて源氏に挑んだが正午頃に敗色が明らかになった。 二位の尼(時子、安徳天皇の祖母で清盛正室)は8歳の 安徳天皇を抱き海底に沈んだ。建礼門院(安徳帝の生母、清盛の娘)も入水したが渡部党の源五馬允が熊手に懸け引き上げた。
【吾妻鏡 同年 4月11日】
合戦の指揮官義経からの飛脚が到着し平氏滅亡の詳細を報告した。入水して死んだのは安徳帝・二位尼・平教盛・知盛・経盛・資盛・有盛・行盛。捕えた主な者は若宮(高倉天皇の第二皇子守貞親王で安徳の異母弟)と建礼門院、宗盛、時忠、清宗、他(詳細はここでは省略した)。
内侍所(八咫鏡)と神璽(八尺瓊勾玉)は確保したが宝劔(天叢雲剣)は失われたため鋭意捜し求めている。
【平家物語 壇ノ浦合戦の事(長門本)】
〜中略〜 中納言 平知盛が女房たちの船に来て「見苦しい物は全て片付けなさい」と言った。女房がその理由を問うと「戦いはこの有様、間もなく珍しい東男どもが見られます」と笑って答えた。こんな時に何と言う冗談を...と泣き合う女房らのさまを聞き二位尼は鈍色の衣に袴の裾をからげ八歳の安徳帝を抱いて二ヶ所を結びつけた。宝剣を腰に差し神璽を脇に挟んで進みだすと安徳帝は不安げに何処へ行くのかと尋ねた。二位尼は「波の下にも極楽浄土があり都があるのです」と答えて海底に沈んで行った。
広大な境内を歩くだけでも相当の時間が必要だし、周辺にはその他にも見所が点在している。のんびりと見学したら名物の「ひつまぶし」(
蓬莱軒の登録商標)でも楽しもう。
正門(南の鳥居)のすぐ前が神宮店、西の鳥居前の伏見通を左へ約400mの信号を渡った向い側に本店がある。ウナギの高騰で大変みたいだけど値段をそれなりに据え置いて頑張っているのは偉い!老舗のプライドだね。