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建久二年 (1191年)
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西暦・天皇・上皇
和暦・月日・史料
吾妻鏡に記載してある内容の意訳、関連する情報、補足事項など
西暦1191年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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建久二年
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1月 1日 庚戌
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吾妻鏡
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   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
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千葉介常胤が特に豪華な 椀飯 (Wiki) の儀を行なった。これは 頼朝が近衛右大将と権大納言に昇進 (実際は間もなく辞任) した祝賀の意味を含んでいる。
午刻 (正午前後) に前右大将家 (頼朝) が御所南面に出御し、前少将 平時家朝臣が御簾を挙げた
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先ず進物の儀が行われた。御劔は千葉介常胤、御弓箭は 新介胤正、御行騰沓は 千葉次郎師常
砂金は 三郎胤盛、櫃に納めた鷹羽は 六郎大夫胤頼
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次に 御馬を引く 一番目は 千葉四郎 (大須賀) 胤信千葉平次兵衛尉 (境) 常秀
二番目は 臼井太郎常忠 (父の臼井常安が常胤の父常重の弟) と、
     天羽次郎眞常 (父の秀常が 上総広常の弟)
三番目は 千葉五郎胤道
四番目は 寺尾大夫業遠 (胤正の子?)
五番目は 姓名の記載なし
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   前庭での儀式が終って御簾が下がり、次は西面の母屋に出御した。御簾が挙がり歌舞酒宴となった。
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   ※千葉一族: 出演がこれ程多くなると独立した系図を作らなきゃと思えてくる。個人的には 上総広常
方が好きなんだが、避け続けるのも悔やまれる。取りあえず秩父平氏の系図の流用を。
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   ※年令: 元暦二年 (1184) 4月に平家が滅亡、文治五年 (1189) 8月に奥州藤原氏が滅亡した。
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源頼朝 43歳、 万寿 (後の頼家) 8歳、 大姫 12歳、 源範頼 40歳、 阿野全成 36歳、
源義経 前々年8月 平泉で死没 (享年29) 、
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北條時政 52歳、 北條政子 33歳、 北條義時 27歳、 北條時房 16歳、 千葉常胤 72歳、
千葉胤正 49歳、 三浦義澄 63歳、 足利義兼 37歳、 足利義純 14歳、 安達盛長 55歳、
大江広元 42歳、 畠山重忠 26歳、 梶原景時 50歳、 宇都宮朝綱 71歳、
土肥実平 65歳 (7月以後に死没か) 、 岡崎義実 79歳、 加藤景廉 34歳、 佐々木定綱 48歳、
二階堂行村 35歳、 中原親能 47歳、
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後白河法皇 63歳、 後鳥羽天皇 10歳、 九条兼実 41歳、 吉田経房 48歳、 土御門通親 40歳、
丹後局 39歳、 一条能保 43歳、 藤原定家28 歳、 慈円 35歳、 法然 55歳、
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      (全て1/1時点の満年令、一部の年齢は推定)
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西暦1191年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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建久二年
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1月 2日 辛亥
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吾妻鏡
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三浦義澄の沙汰で 椀飯 (Wiki) あり。義澄は御劔、御弓箭は 岡崎四郎義実、御行騰は和田三郎宗実 (義盛の末弟、名乗りは杉本) 、砂金は 三浦左衛門尉義連、鷲羽は 比企右衛門尉能員
御馬の一番目は 三浦平六義村と太郎景連 (義連の三男) 、二番目から五番目は姓名の記載なし。
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   ※景連: 義連の三男。和田一族は建暦三年 (1213) の和田合戦で滅亡、更に三浦宗家は宝治元年 (1247) の
宝治合戦 (三浦合戦) で北條氏に滅ぼされるが、景連の長兄盛連の六男 盛時の係累だけが五代執権 北條時頼に味方して生き残る。
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これは盛連に再嫁して盛時を産んだ 矢部禅尼が三代執権 泰時の前妻として長男の 時氏を産み、四代執権 経時と五代執権時頼の祖母に当る関係だったため、とされている。
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三浦合戦後の盛時は三浦宗家を継承するが幕政の中で昔と同じ地位を取り戻す事はなく、二流の御家人として扱われたらしい。約300年後の永正十三年 (1516) の当主三浦義同は伊勢新九郎盛時 (後の北条早雲) に滅ぼされ、結果として三浦氏は鎌倉北條氏と小田原北条氏によって二度の一族滅亡を味わった事になる。
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実際の血筋から考えれば三浦義同は上杉氏からの養子の子だから三浦の子孫とは言えないし、北條氏と小田原北条氏の間にも血縁関係は皆無だから、単なる偶然の一致に過ぎないけどね。
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念のため書き添えると、伊勢新九郎宗瑞 (早雲) が生存中に北條を名乗った事実はない。嫡男 氏綱が (早雲の死没 (永正16年 (1519) 8月 ) 後の大永三年 (1523年) に 「北條」 を名乗ったのが最初とされている。
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西暦1191年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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建久二年
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1月 3日 壬子
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吾妻鏡
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小山右衛門尉朝政 の沙汰で 椀飯 (Wiki) 。御劔は 下河辺庄司行平、御弓箭は 小山五郎 (長沼) 宗政、御行騰沓は同 七郎 (結城) 朝光、鷲羽は 下河辺政義)、砂金は最後に朝政が自ら殿上に進んで頼朝の座前に置いた。
次いで、御馬五疋の献上あり。
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   ※同席者: 朝政の父 小山政光下河辺行平の父行義は兄弟なので両氏は同族。三浦、和田、佐原も同族
だからこの椀飯は血族単位で行なわれたらしい。ただし2日の比企能員と三浦氏の間に密接な血縁関係はなく 比企能員は藤原北家秀郷流、三浦氏は桓武平氏良文の子孫を称している。
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   ※政義: 義と能は読みが同じ「よし」なので混用が多い。大庭景義と景能の例も同じ。
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西暦1191年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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建久二年
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1月 5日 甲寅
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吾妻鏡
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宇都宮左衛門尉朝綱の沙汰で 椀飯。酒宴と共に手練の者による弓始めを開催した。
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  一番は 下河辺庄司行平  vs 榛谷四郎重朝
  二番は 和田左衛門尉義盛 vs 藤澤次郎清親 (清親は坂額を射た武士。浅利与一と坂額を参照 (別窓)。
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其々が一回 五射を行ない、頼朝に召されて座の近くに進み褒美を得た。行平は 平時家を経て御劔、義盛は江間殿 (北條義時) を経て御弓箭、重朝は鷲羽、清朝は御行騰である。
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   ※江間殿: 私の記憶に間違いなければ、吾妻鏡に江間の名が出たのは治承五年 (1181) 4月7日の江間四郎
が最初。それまでの義時は北條四郎 (三郎は 宗時)だった。
同年8月24日に嫡子 宗時が函南平井で討死して義時が嫡男となり、この時期に江間郷が分与されたか。宗時の没年は満26歳前後だから子供がいたと考えられるが、係累の記録はない。
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西暦1191年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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建久二年
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1月 8日 丁巳
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吾妻鏡
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今年の末まで、毎日12巻の薬師経を読誦せよとの命令が 鶴岡八幡宮の供僧および 伊豆山権現筥根権現 (共に 別窓 ) の衆徒らに下された。
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   ※薬師経: 薬師如来の功徳を説いた薬師瑠璃光如来本願功徳経 (玄奘の漢訳) で疫病と災禍の防止を招く
功徳がある。身内の病気で連想するのは 政子が溺愛していた 大姫、冷血女の代名詞みたいな政子も伊豆山に延命地蔵を寄進するなどして彼女の平癒を再三祈っているのだが、大姫も妹の 乙姫も早世する。政子だけはしぶとく生き残り、まぁ享年68だから長命ではないが。
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西暦1191年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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建久二年
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1月11日 庚申
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吾妻鏡
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前右大将家 頼朝が鶴岡若宮 (八幡宮) に参詣。三浦左衛門尉 佐原義連が御劔持ちを務め、小早河弥太郎遠平が弓箭を携えた。伊豆守 山名義範三浦介義澄梶原平三景時らが供として従い、神馬三疋を布施とした。
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   一疋は 梶原兵衛尉景高 (下手を引くのは下位の役人) 、一疋は 千葉次郎師常、一疋は葛西十郎
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   ※小早河遠平: 土肥実平の嫡子で小田原市西部の早川郷を相続して小早川氏を名乗り 後に安芸国沼田荘
に移った養子の景平が戦国大名 小早川氏の祖になった。
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子孫には関ヶ原合戦で西軍を裏切った小早川秀秋がいる。彼は秀吉の養子 (義理の甥 ) で豊臣家 No.3 だったが秀頼の誕生により運命が急転、追い出される形で小早川家の養子になった。従って土肥一族との血縁関係はない。ま、豊臣を裏切る気持ちも判るけど。
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   ※三浦左衛門尉: 佐原義連は前年の頼朝上洛の際に頼朝の推挙で任官を受けている。
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   ※葛西十郎: 清重の息子らしいが、葛西氏の系図は極端に交錯しており 時清、清親、朝清、時重の誰が
該当するか判らない。たぶん嫡男となった次男清親だろうとは思うけど、これは推定。
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ところで、治承四年 (1180) 11月10日の吾妻鏡には佐竹討伐の帰路に葛西清重邸に宿泊した頼朝は清重から若い妻の夜伽を提供されている。頼朝は妻女である事を知らなかったらしいが、こんな場合清重側は受胎を避けるのか、それとも貴人の種と考えるのか...三流週刊誌的発想か。羨ましい気がしないでもない、少しだけね。
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西暦1191年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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建久二年
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1月15日 甲子
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吾妻鏡
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政所の (業務開始を兼ねて) 吉書始めを行なった。
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以前から御家人などが新恩の所領や役職を得る際に花押を捺して署名付きの文書を発行していたが、近衛右大将着任と共に政所発行に改める。既に発行した書類は回収し右大将家の政所下文として再発行する、と。
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  政所 別当 (長官) は前因幡守中原朝臣 大江広元、 令(次官)は主計允藤原朝臣二階堂行政
案主 (四等官の三位) は藤井俊長 (鎌田新籐次) 、
知家事 (案主を補佐し事務を分掌) は中原光家 (岩手小中太) 、
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  問注所 執事 (長官) は中宮大夫属 三善康信法師 (法名善信)
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  侍所 別当は左衛門少尉平朝臣 和田義盛 (治承四年11月に着任 ) 、所司 (次官) は平(梶原平三景時)
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  公事奉行人 前掃部頭藤原朝臣 中原親能  筑後権守同朝臣 (藤原俊兼)   
前隼人佐 三善朝臣康清 (康信の弟)   文章生は同朝臣宣衡  民部丞朝臣平盛時
左京進朝臣中原仲業  前豊前介清原眞人実俊
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  京都守護   右兵衛督 一條能保
  鎮西奉行人  内舎人藤原朝臣 左衛門尉 天野藤内遠景.

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   ※政所: 頼朝の従二位昇叙に伴い元暦元年 (1184) に設置した
公文所で処理していた訴訟や公文書発行業務などを徐々に新設の政所に発展統合させた。
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ただし公文所は公文書管理部門として政所の内部に残している。政所の位置は「大倉幕府の西南」との記載があり、八幡宮の南東側 (地図) で遺構の一部が確認されている。
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右は鎌倉駅西側の今小路に建つ 問注所跡碑の遠景
    画像をクリック→ 別窓で拡大表示。
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   ※吉書始め: 朝廷の習慣「吉書の奏」を真似て 年頭や改元の
際に吉書を見る行事で業務開始の意味もある。吉書の奏は正月 2日か3日に弁官や蔵人が奏し、政始は正月 9日や代始めや改元後の吉日に大臣が奏した。
鎌倉では新年最初の文書発行行事として定着している。
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   ※問注所: 最初の設置は、公文所と共に元暦元年 (1184) 10月。治承と寿永の戦乱終結に伴って全国的に
訴訟事件が頻発したため早急な対処が必要になり、政所の一部署として新設した。三善一族は室町時代まで問注所執事を世襲している。
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   ※侍所: 警備などに伴う御家人招集や統括、刑事事件に伴う罪人の収監などが主な業務。治承四年 8月
27日に安房へ落ちる舟の中で義盛が「再起したら侍所別当の職を」と望み、鎌倉入り後の同年11月27日に着任を許されている。平家物語は義盛が「上総介 藤原忠清が平家から八ヶ国の侍所別当に任じられたのが羨ましかった」と語った、と書いている。
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   ※公事奉行人: 朝廷の政務や儀式を差配しの公費を管理した職。鎌倉では行事や儀式の管理部門か。
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西暦1191年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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建久二年
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1月17日 丙寅
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吾妻鏡
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民部丞 平盛時武藤次郎資頼は頼朝の命令を受けて使者を伊勢と志摩の両国に派遣した。物品の出納を管理する和泉掾国守を同行させている。これは平家から没収した旧領であるが地頭を補任していない場所がある旨の情報があり、これを現地で確認させるためである。
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   ※掾国守: 国司の四等官の三番目 (守、介、、目) 。四階級の総称は 長官 (かみ) 、次官 (すけ) 、
判官 (じょう) 、主典 (さかん) で、部署により名称が異なる。
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神祇官は 伯、副、祐、史。  省は卿、輔、丞、録。  寮は 頭、助、允、属。
坊と職は 大夫、亮、進、属。  衛府は督、佐、尉、志、など。
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西暦1191年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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建久二年
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1月18日 丁卯
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吾妻鏡
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御家人の内藤六盛家は去年の春から周防国の遠石庄にある 石清水八幡宮 (公式サイト) の所領に乱入して
神官の友国を刃傷し、神社に納めるべき年貢を押領した。神職家からの訴えによって去年の6月21日に院宣が下され、石清水権別当の使者が鎌倉に訴えてきた。
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院宣の内容は云々するものではない、早急に退去せよとの命令を盛家に下し、中原親能平盛時がこれを差配した。朝廷の命令については当否確認の必要はなく、また岩清水を敬う信仰心に拠る措置でもある。
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   ※内藤盛家: 文治二年 (1186) 3月27日の条に、京都守護の 北條時政が鎌倉に帰還するために市中警護の
武士を残留させたとの記載がある。その中に「ないとう四郎」の名があり、彼の家人の中に左衛門尉 (内藤六) 盛家がいた。系図では盛家の嫡子 盛俊は承久の乱 (1221年) で戦死し、弟の有盛が周防遠石の地頭を継承しているから、退去以上の処罰はなかったらしい。
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   ※遠石庄: 現在の山口県周南市遠石 (地図) 。ここは東大寺領と石清水八幡宮領が混在していた。
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西暦1191年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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建久二年
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1月23日 壬申
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吾妻鏡
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御所の女房 (女官) の大進局が所領の恩沢を得た。常陸入道念西の娘で、頼朝の寵愛を受けて若君を産んだ事が御台所政子の耳に入り、嫉妬による難を避けるため京都で暮らすよう頼朝が手配した結果である。
年貢など手続きの便宜を考え、京都から近い伊勢国に所領が与えられた。
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   ※入道念西: 通説では後に伊達氏の初代当主となる伊達朝宗
(独眼竜政宗の先祖)と考えられている。
正確な系図の流れは確認できないが、桓武平氏 国香流の可能性が高いらしい。
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吾妻鏡の文治五年 (1189) 8月8日の 石那坂合戦で子息らと共に 佐藤庄司基治ら 18人を討ち取る功績を挙げ恩賞として陸奥国の 伊達郡 (Wiki) を得て伊佐または中村の姓を改め伊達を名乗ったらしい。 右は陸奥国伊達郡の行政区分地図
      画像をクリック→ 別窓で拡大表示
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   ※若君とは: 二代将軍 頼家から四歳下の庶子。文治二年 (1186) の2月26日に生まれたが、政子の嫉妬が
激しいため儀式は全て中止、頼朝の指示を受けて匿った長門景遠 (加藤景廉の同族) は自宅から逃れ深澤の辺りに隠れ住んだ。幼児は建久三年 (1192) 5月19日に鎌倉を離れ、仁和寺の法眼隆暁(一条能保の養子)に弟子入りして 貞暁を名乗っている。
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   ※念西の武勲: 吾妻鏡には佐藤庄司らを討ち取った記載と、捕獲後に赦免された記載の二通りがある。
佐藤庄司に関してはその後の史料に名前が現れるため、生存の可能性が高い、と思う。
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西暦1191年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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建久二年
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1月24日 癸酉
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吾妻鏡
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京都守護 一条能保からの書状が到着、昨今は特に変わった様子はないとの報告である。
成尋法橋 義勝房成尋の息子である右馬允小野家長が12月30日に解官された。推挙を受けず勝手に任官を受けたため親子ともに頼朝の心象を損ね、京都に解任を申し入れた結果である。
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   ※成尋法橋: 治承四年 (1180) 8月20日、伊豆韮山を出発して相模に向かう頼朝勢の中に義勝房成尋の名
があり、挙兵当初からの御家人 (元は武蔵横山党の武士) だった事が確認できる。
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また文治元年 (1185) 9月2日に 梶原景時と義勝房成尋が六條室町亭の 義経に面会して 行家との謀反共謀を問い糾した記録がある。
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西暦1191年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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建久二年
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1月28日 丁丑
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吾妻鏡
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頼朝は二所詣のため由比ヶ浜に出御した。水干を着て乗馬は鴾毛 (赤みを帯びた芦毛) である。小早河次郎惟平 (土肥遠平の嫡子) が御剣持ちを務め、上総介 足利義兼、江間四郎主 北條義時ら 50人ほどの武士が従った。頼朝は潮に浴して身を清めた後に浄衣に改めた。
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西暦1191年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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建久二年
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2月 4日 癸未
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吾妻鏡
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   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
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前右大将家 (頼朝) のニ所詣である。辰刻 (8時前後) に横大路を西へ、まず鶴岡八幡宮に参詣し奉幣した後に出発した。若宮大路を南に下り、稲村ヶ崎で行列を整えた。
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右下は稲村ヶ崎から極楽寺坂周辺を含む鳥瞰図。元弘三年 (1333) の鎌倉陥落の際には血で血を洗う激戦が展開される場所、二所詣での経路を逆に辿ると新田義貞軍の侵攻ルートが見えてくるから面白い。
吾妻鏡の絶筆は文永三年 (1266年) で、鎌倉幕府の滅亡は その 67年後の元弘三年 (1333年) になる。
北條氏独裁に突き進んだ幕府が滅亡に至る姿は、左目次の 【 鎌倉時代を歩く 四 】 で。
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まず先達を務める僧、続いて先陣の随兵
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下河辺庄司行平  三浦左衛門尉 (佐原義連)
小山田四郎 (榛谷重朝)   八田兵衛尉知重  中山四郎重政
同 五郎為重  所六郎 (伊賀朝光)   山内先次郎
広澤三郎実高  宇佐美小平次   新田四郎 (仁田忠常)
吉香次郎  工藤小二郎行光  宇佐美三郎助茂
土屋兵衛尉義清  堀籐次親家  比企籐次  中條平六  三浦太郎景連  築井八郎  鎌田太郎  小野寺太郎道綱  大河戸四郎行平  山上太郎高光  馬場次郎資幹
豊田太郎幹重  伊澤五郎 (石和信光)   武田兵衛尉有義  加々美次郎 (小笠原長清)   浅利冠者遠義  伊賀 朝光
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次に乗替の馬、 次に童子一人 (征矢(実戦用の矢) を負う) 、 次に献上の馬、 次に着鎧役の阿保五郎、
次に前右大将家 (頼朝) 御浄衣で芦毛の馬、 次に頼朝の弓箭を担う勅使河原三郎
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次に後に従う供、浄衣に立烏帽子
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相模守大内惟義  上総守足利義兼  越後守安田義資  伊豆守山名義範  新田蔵人義兼
奈胡蔵人義行  北條四郎時政殿  江間義時殿  北條五郎時連 (時房) 殿  山名小太郎重国
遠江四郎  小山左衛門尉朝政  小山七郎 (結城朝光)   三浦介義澄  畠山次郎重忠
八田右衛門尉知家  佐貫四郎広綱  加藤次景廉  梶原平三景時  同、刑部丞梶原朝景
佐々木三郎盛綱  安房判官代高重  伊佐三郎行政  伊達四郎為家  前隼人佐三善康清
葛西兵衛尉清重
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次に後陣の随兵
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村上判官代基国  新田三郎  和田左衛門尉義盛  平六兵衛尉三浦義村  千葉六郎大夫胤頼
葛西十郎 (清重の兄弟か)   江戸太郎重長 (秩父平氏)   品河太郎  小山田五郎
小早河弥太郎遠平  梶原左衛門尉景季  梶原兵衛尉景定  権守横山時広  金子十郎家忠
和田三郎  曽我小太郎祐綱 (曽我祐信の嫡子)   岡部小次郎忠綱 (岡部忠澄の嫡子)
堀平四郎助政  海老名二郎  小河小二郎祐義  豊嶋兵衛尉  大井次郎実春  波多野五郎義景
沼田太郎  中河小太郎  原宗四郎行能  河村三郎義秀  新田六郎 (仁田忠時)
二宮小太郎光忠  本間右馬允
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   ※横大路: 現在の金沢街道。頼朝の墓から直線で南下した横大路に面して大倉御所の南御門があった。
詳細の確認は 大倉幕府跡の地図を参照されたし。また新たに確認された西御門跡と西大路に関しては、貞応三年 (1224) 7月5日の吾妻鏡に詳細の情報を記載した。笑覧されたし。
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   ※稲村ヶ崎: 元弘三年 (1333) 5月21日に新田義貞が黄金造りの太刀を投じて海神に祈ったという伝説の
ある場所 (これは太平記のフィクションに過ぎないけど) 。
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当時は極楽寺も極楽寺坂切通しもなく、由比ヶ浜から稲村ヶ崎に抜けるには成就院山門前の峠道を越すか、海沿いの稲村路を辿るかのみだった(右上画像をクリック) 。
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更に詳細は 極楽寺坂の攻防 (別窓) で。二所詣に向かう頼朝主従一行も、波打ち際を辿る稲村路か、成就院前の細い峠道 (古道部分の詳細地図) を抜けたことになる。
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   ※北條殿: 時政、義時、時連(後に改名して五郎時房)の三人だけ殿を付けているのが吾妻鏡の性格を
如実に物語る。自公独裁に尻尾を振る学者、文化人、ジャーナリストの先達だね。
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西暦1191年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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建久二年
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2月10日 己丑
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吾妻鏡
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頼朝一行が二所詣でを終えて鎌倉に帰着した。
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   ※二所詣で: 前回(初回) は文治四年 (1180) 1月20日に出発し
伊豆山権現→ 三嶋大社→ 箱根権現の順だった。
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伊豆山に向かう途中で 石橋山合戦の跡を訪れた頼朝は 佐奈田与一と郎党豊三の墓に詣で、苦しかった当時を思い出して涙を流した。
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これでは縁起が悪いと先達の僧から危惧があり、次回からは (参拝を忌避した可能性もある) 実朝や以後の将軍も箱根権現→ 三嶋大社→ 伊豆山権現→ 鎌倉帰還の行程を採用した。
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日金山(現在の十国峠)で詠んだ 実朝の歌 (金槐和歌集) も、三島方面から箱根路を経て日金山に登って来たからこそ眺められた、峠の東端からの風景である。
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    箱根路を わが越えくれば 伊豆の海や  沖の小島に 波のよるみゆ
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詳細は画像をクリックして 十国峠に近い日金山東光寺 (別窓) を参照されたし。
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   ※金槐和歌集: 金は鎌 (の 「へん」 ) 倉、塊は高位の官職で右大臣の実朝を差す。実朝の私選歌集である。
成立は建暦三年 (1213年、実朝22歳) より前とされるが、塊に相当する官位 (大納言、大臣) への叙任は建保六年 (1218年、死没の前年) なので編纂されたのは後年らしい。
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西暦1191年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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建久二年
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2月15日 甲午
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吾妻鏡
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鶴岡八幡宮で臨時の祭礼が行われ、流鏑馬などは通例の通り。
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(涅槃会‬のため)今日から経供養(法華三部経)が始まる。導師は八幡宮供僧筆頭の安楽房重慶。布施として導師には包み二つを安房判官代高重が手渡した。他の僧には各々帖絹二疋 (四反) である。
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夜になって、頼朝は大倉山の辺を見て歩いた。新たに精舎 (寺) ‬を建てようと考え、適した場所を選ぶのが目的である。一昨年の奥州征伐が無事に終わり、新たに寺を建てる立願をしたがその年は忙しいままに暮れ、更に次の年は奥州で新たな騒動 (大河兼任の乱) や全国的な飢饉や上洛が続いて取り掛かれなかった。
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今は国中が静謐となり更には豊作で民も潤っているため、手掛けるには良い機会である。三善善信 (康信)
二階堂行政と筑後権守 藤原俊兼に準備の担当を命じた。
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   ※涅槃会: 釈迦入滅の日とされる陰暦 2月15日に釈迦の徳を称えて行なう法会。
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   ※経供養: 写経を仏前に供え仏事を催すこと。大阪 四天王寺の経供養 (外部サイト) が知られている。
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   ※法華三部経: 根幹部分である妙法蓮華経八巻二十八品、開経 (序説) となる無量義経一巻、結び部分と
なる仏説観普賢菩薩行法経一巻のセットを差す。
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   ※新たな寺: 勝長寿院 (南御堂) と 鶴岡八幡宮と共に頼朝が建てた三つの大寺社の一つ永福寺を差す。
頼朝は平泉で見た二階大堂に深い感銘を受け、同じ極楽浄土の姿を再現しようと考えた。    本来の読みは「えいふくじ」なのだが聖徳太子の廟所である 叡福寺 (公式サイト) を
   憚って「ようふくじ」を称した、と伝わる。
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奥州合戦に従軍した多くの御家人も同様で、北條時政による韮山 願成就院は遠征前からの計画だったが、足利義兼による 樺崎寺 (法界寺) 宇都宮朝綱による益子上大羽の 地蔵院庭園 などは平泉で感銘を受けた御家人の例として挙げられる。捜せば更にある、かも。
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西暦1191年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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建久二年
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2月17日 丙申
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吾妻鏡
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雪が五寸 (約15cm) ほど積もり、頼朝は雪見のため鶴岡八幡宮の別当坊に渡御。傘役は 佐貫広綱、供として前少将 平時家が従った。歩きながら連歌を楽しみ、別当坊では献酒を受けた。
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佐々木盛綱堀親家らに命じて山裾の雪を長櫃に入れ長老の坊へ運ばせた。そこは山の陰なので陽が差さず、氷室を設けて炎暑の季節に利用するとの仰せである。参集していた人々も雪運びを手伝った。
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   ※別当坊: 八幡宮の北側、現在は御谷 (おやつ) と呼ぶ一帯に八幡宮供僧の坊 (実際には塔頭や支院) が
あり、建久八年 (1197) 頃には二十五坊として定着した。ここに氷室を設けたのが雪ノ下の地名の元と伝わっている。宅地の乱開発を防いだ1964年の 御谷騒動 (外部サイト) の地であり、明治初期の神仏分離運動までは既得権擁護による僧の私有と腐敗が蔓延った地でもある。
詳細は 鶴岡八幡宮の末尾または「鎌倉時代を歩く 参」の 御谷 二十五坊跡で。
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西暦1191年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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建久二年
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2月21日 庚子
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吾妻鏡
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阿弥陀三尊の絵像を頼朝持仏堂に安置した。文覚上人の手配で兼ねてから京都で描かせていたものである。
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安楽房重慶を導師として今日開眼供養を催し、別に僧三人が加わった。布施として導師に袋の布三枚と野剣一振り、他の僧には一人当り布袋二つ、時家朝臣と源高重がこれを手渡した。
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また、法住寺殿の造営の所課について各方面に負担を命じた。
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   ※頼朝持仏堂: 現在の頼朝の墓は、島津藩 25代当主の重豪が
安永八年 (1779) に建造した廟所である。
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廟所の登り口左側にある白幡神社と小さな公園の一帯が頼朝持仏堂の跡地と伝わる。
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頼朝の遺骸は持仏堂の下に埋葬し、持仏堂を法華堂に改めたと考えるのが自然だろう。
詳細は 頼朝法華堂の跡 を参照されたし。
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   ※野剣: 本来は武士が使う実戦用の野太刀だがここでは衛士や
貴族が佩びた細身の太刀を差すらしい。
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   ※法住寺殿: 寿永二年 (1184) 11月に 木曽義仲が上皇の御所 法住寺殿を襲って焼き払い、後白河法皇
後鳥羽天皇を幽閉して政権を握った 法住寺合戦 (Wiki) が名高い。法皇の居住エリアである南殿は現在の三十三間堂の南側で、全体の敷地は京都女子大近くまであった。
後白河法皇は建久三年 (1192) 3月13日に崩御し、法華堂 (現在の陵) に葬られた。
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右上は後白河陵周辺の鳥瞰(画像をクリック→ 別窓で拡大表示)、地図も参考に。
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西暦1191年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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建久二年
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3月 3日 辛亥
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吾妻鏡
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重三の節句に伴う鶴岡八幡宮の法会で、箱根の稚児10人による神楽舞の奉納があった。また臨時祭として、 長馬 (飾り立てた馬) 10騎、流鏑馬16騎、相撲16番が行われ頼朝も参宮した。
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越後守 安田義資、伊豆守 山名義範、江間殿 (北條義時) 、左衛門尉 小山朝政、同 七郎 (結城朝光) 、
三浦介義澄畠山次郎重忠和田左衛門尉義盛、三浦左衛門尉 (佐原義連) 、伊東四郎 (?) 、葛西兵衛尉清重らが供として従った。
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日暮れになり行事が終わって頼朝は御所に還御したが、付き従った御家人らは退去せず、各々侍所 (控えの間) に残っていた。その中で広田次郎邦房という者が仲間に語ったのは「明日鎌倉に大火災が起きる。八幡宮も御所もその災厄を遁れることはないだろう」と。彼は大和守維業の息子で儒学の家を継いでいるが、明日を予言するような天の眼は持っていない、と人々は嘲笑した。
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   ※重三の節句: 三が重なるから重三。人形を真似た雛形を流し難を避けることから雛の節句となった。
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西暦1191年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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建久二年
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3月 4日 壬子
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吾妻鏡
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南の強風が吹く中、丑刻 (深夜2時前後) に小町大路付近の失火が原因で大火となった。
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北條義時、相模守 大内惟義、村上判官代、比企能員、同 朝宗佐々木三郎盛綱一品坊昌寛仁田忠常
工藤行光佐貫広綱らの家を含む数十軒が焼け落ちた。炎と火の粉が風に煽られて鶴岡八幡宮の流鏑馬馬場の横にある塔婆 (五重塔か、多宝塔か) に燃え移り、同様に大倉御所も焼失した。更に鶴岡八幡宮の本殿、回廊、経堂なども全て灰燼に帰した。
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(北の谷、御谷にある)供僧の坊も何軒かが同様の被害を受けた。邦房の言葉はまるで掌を指す如きである。
寅刻 (朝4時前後) になって頼朝は籘九郎盛長の甘縄邸 (地図) に入った。
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   ※当時の屋敷: 義時邸は雪ノ下の横大路沿い (地図) 、比企能員と朝宗
は大町の妙本寺 (地図) 、佐々木盛綱と大内惟義及び仁田忠常と佐貫広綱は小町大路付近 (地図) 、義時と能員以外の位置は概略で推定した。
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その他にも、大倉御所と八幡宮まで焼けたのだから、被害リストには載っていない東鳥居近くの 畠山重忠邸や 八田知家邸も類焼した、だろう。
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右画像は類焼した概略の地図。「小町大路付近」の位置が確定できないので北側の該当スポットを落とし込んだ。鎌倉の中枢部分が全て焼け落ちたと考えられる。  画像をクリック→ 別窓で拡大表示
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西暦1191年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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建久二年
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3月 5日 癸丑
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吾妻鏡
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火災が起きたのを知った近国の御家人が集まってきた。相模の渋谷庄司重国、武蔵の 毛呂豊後守季光が真っ先に駆け付けてきた。

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   ※それぞれの本領: 渋谷重国の本拠は曖昧だが、一族の菩提寺は綾瀬市の祖師山長泉寺 (地図) と伝わる
からこの付近か、鎌倉までの距離は約 25km。毛呂季光の本拠は入間郡毛呂山町毛呂本郷上宿 (地図) 、鎌倉までの距離は約 90km。
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距離だけ考えると岡崎とか波多野とか中村とか二宮とか曽我とか...もっと鎌倉に近い御家人が多数あり、この二人を書いたのは恣意的な意味がある、かも。
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西暦1191年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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建久二年
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3月 6日 甲寅
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吾妻鏡
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八幡宮が焼け落ちたため頼朝の落胆は特に大きく、僅かに残っていた礎石を拝して落涙し、別当僧の坊に渡御して再建の指示を与えた。
戌刻 (20時前後) に大きな地震があった。これは帝尺天が動いた事を意味し、頗る吉兆である。
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西暦1191年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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建久二年
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3月 8日 丙辰
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吾妻鏡
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若宮 (鶴岡八幡宮) の仮神殿造営の着工式あり。二階堂行政と 武藤頼平がこれを差配し 頼朝も立ち会った。
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   ※武藤頼平: 系図は「姉妹が 平知盛の室となり知章を産んだ」 とあるが知章を産んだ正妻の治部卿局の
父親は内大臣藤原忠雅と推測されているため系図の信頼性には疑問がある。
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ただし頼平が知盛の代官として武蔵国に住み、頼朝挙兵と同時期に御家人に列して武藏国久良岐郡師岡郷 (現在の横浜市港北区) を本拠としたのは事実らしい。
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西暦1191年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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建久二年
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3月13日 辛酉
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吾妻鏡
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夜になって仮の神殿への遷宮あり。別当法眼と供僧および巫女や神官らも加わり、随兵百余人が八幡宮の四方を警護した。和田義盛梶原景時安達盛長らが差配し、頼朝出御の際は 佐貫広綱が剣持ちを務めた。
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愛甲三郎季隆が頼朝の弓箭を携え、河勾七郎が鎧役を務めた。また、雑色の基繁と安房判官代源高重が松明を持って御前に控えた。
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西暦1191年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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建久二年
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3月20日 戊辰
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吾妻鏡
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大理 (検非違使別当) 一條能保卿の使者が到着した。火災に関する見舞いの言上である。
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   ※話のついで: 飛脚が 3月4日早朝に鎌倉を発ったとして京都との往復に16日、片道 450kmを 8日間だか
ら一日に 55km。承久の乱勃発の際は宮方への参加を拒んだ京都守護の伊賀光季が寡兵で戦った末に玉砕し、下人を脱出させて鎌倉に変事を知らせている。
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この時は5月15日に京都を出て19日に鎌倉に駆け込んでいるから 3日半~4日で、かなり早い。鎌倉幕府は早くから駅逓制度を設け、宿驛には馬ニ匹を常備していた。
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緊急の場合には京都~鎌倉を 3~4日、元寇の報告には京都~博多 (約660km) を 6~7日で駆けたという。原則として途中の交代は許されていない。
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西暦1191年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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建久二年
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3月27日 乙亥
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吾妻鏡
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八幡宮の仮の経堂再建の事始めである。供僧が参入し読経による供養を行なった。
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   ※経堂: 享保十七年 (1732) の八幡宮境内絵図では仏教関連施設は大石段下の平場に散在している。
もちろん建久の頃の正確な位置は判らないが...
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西暦1191年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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建久二年
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4月 3日 庚辰
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吾妻鏡
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鶴岡八幡宮の臨時祭は通常通りに行われた。
今日は先月の火事に伴って新設した幕府庁舎の仕事始めである。平盛時藤原俊兼がこれを差配した。
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   ※鶴岡八幡宮: 本来の地名は小林郷で、材木座 (現在の地名) の鶴岡にあった 由比若宮を小林郷に遷すと
共に縁起の良い地名をそのまま転用したらしい。小林郷の裏山を鶴岡と呼び、西側の谷は文字遊びの対語で亀谷。扇を広げたような谷津があることから後に扇ヶ谷と呼ばれたと思っていたら、出典は扇の井 (参考サイト) だと言う。真偽は兎も角として、これは知らなかった。「扇のように広がっている」からだと思っていたのだが。
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そして護国寺近く (地図) に屋敷を構えたのが扇谷上杉氏で、その本家が山内上杉氏。
北条記は伊勢新九郎 (後の北条早雲) が「一匹の鼠が二本の大杉を囓って倒し虎に変じた夢を見た」と書き、三嶋大社の社伝は更に詳細を加えている。
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武運長久を祈って三島大社に参籠した早雲 (伊勢新九郎) が霊夢を見た。一匹の鼠が二本の大杉を囓って倒し虎に変じた。二本の杉とは山内と扇谷の両上杉氏、鼠は子年生まれの早雲を示す。三島大社が将来を暗示したと感じた早雲は馬、太刀、甲冑を奉納し 明応八年 (1498) に伊豆討ち入りを決行、やがて関東一円を手中におさめた、と。
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これは戦国時代が始まる頃、鎌倉時代から更に300年を早送りした時代の話。
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西暦1191年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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建久二年
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4月 5日 壬午
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吾妻鏡
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一條能保卿と 大江広元朝臣からの飛脚が鎌倉に到着し、其々の書状を提出した。
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先月、近江国の所領で佐々木小太郎兵衛尉定重 (定綱の次男) が 日吉神社に務める供僧らを刃傷に及んだ。
このため 比叡山延暦寺の衆徒が蜂起し、訴状を掲げて定重の身柄引き渡しを求めた。更に延暦寺の役僧を関東に派遣する旨の噂もある。
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これは朝廷にとっても大きな事件で、原因は近江国佐々木荘が元は延暦寺千僧供養の費用を賄う領地だった経緯にある。去年は水害などのため地頭の 佐々木定綱も農民も領家に納税する余裕がなかった。
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このため先月下旬に衆徒が日吉神社の係官を派遣し神鏡を掲げて定綱邸に乱入、著しい乱行を行なったため怒りを抑えられなかった定重が郎従に命じて係官を刃傷に及んだ、その際に神鏡を破損したのが経緯である。
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   ※著しい乱行: 九条兼実は日記「玉葉」に次のように書いており、双方の言い分はかなり食い違う。
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昼前後に延暦寺の所司三綱が来訪。彼らの主張は次の通り。
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衆徒の報告に拠れば、近江国佐々木荘は比叡山千僧供養の費用を年貢として負担する義務を負っているにも関わらず未納があるため、担当の法師を派遣して譴責した。すると自ら家に放火して法師に暴行を働き、遂に家を焼失させた。
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法師らが退去しようとすると三ヶ所の橋を落として封鎖したが残った道を通り、辛うじて逃げ帰った。死亡者は三名で負傷者は多数、こんな事件は聞いたこともない。定綱親子の引き渡しを要求し、大津坂本の日枝神社神前で仔細を問うつもりである。
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私はそれでは天下を騒がし朝廷を驚かすことになる。「まず三綱一名を南山 (熊野) に、所司一名を関東に送って善後策を協議せよ」と申し入れた。
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   ※所司三綱: 三種の僧職で所司と三綱は概ね同義。管理運営と僧尼を統括する最高責任者の上座、事務
と経営に任じる寺主、僧尼の戒律と学問を監督する都維那の三種類。
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西暦1191年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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建久二年
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4月 6日 癸未
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吾妻鏡
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佐々木三郎盛綱佐々木五郎義清らが近江国に向かった。これには長兄の定綱を訪ねるためである。
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   ※玉葉の記述: 今日、一條能保卿が使者を送り次のように申し述べた。
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  「比叡山の衆徒が蜂起し、佐々木定綱を捕縛するため能保を人質に取ろうと議決した   らしい。これは許容し難いが、如何か」と。
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私は全て是認せず、殺害か起きたのならば正式に訴えるのが順序であろう、と答えた。
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西暦1191年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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建久二年
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4月 8日 乙酉
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吾妻鏡
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南御堂 (勝長寿院) で仏生会 (釈迦の誕生法要) 。仏像に拝するため頼朝と御台所と若公 (頼家) が参会した。
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   ※仏像: 勝長寿院の本尊は定朝 (康朝の嫡男) 作の丈六阿弥陀如来像。定朝については文治二年 (1186) の
3月2日にも面白い記載があった。少々才能に欠ける「謎の仏師」だ。
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西暦1191年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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建久二年
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4月 9日 丙戌
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吾妻鏡
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佐竹別当が常陸の国から参上した。御所で酒宴となり、頼朝は気分良く楽しみたかったところだが比叡山とのトラブルで思い悩んでいたため早めに切り上げることになった。
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   ※佐竹別当: 新羅三郎義光の曾孫で常陸源氏の二代当主だった 佐竹隆義の弟 義季を差す。.
佐竹氏嫡流は金砂城合戦 (治承四年11月4日) に 上総広常が謀殺した 佐竹隆義の長男義政に替って二男 秀義が継承した。
義季は後に頼朝の怒りに触れて所領を没収され 近衛基通の縁故を頼り 山城国葛野郡川島庄 (西京区川島粟田町、地図) に土着、川島庄南部の下司職を得て川嶋氏の祖となった。
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西暦1191年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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建久二年
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4月11日 戊子
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吾妻鏡
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定綱が佐々木庄を出て行方不明になったとの情報が届いた。一族の中で様々な相談があったらしい。
頼朝は「多分定綱は鎌倉へ参向するつもりだろう。」との意見だった。
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   ※定綱の逐電: 行方不明になってから 5月20日に流刑地に赴くまでの約40日間は消息の記録がない。
頼朝の言葉通り鎌倉に入って善後策を協議していたと考えるのが妥当か。
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西暦1191年
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82代 後鳥羽
建久二年
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4月15日 壬辰
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吾妻鏡
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鶴岡八幡宮の宮寺で初めての安居が始まった。
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   ※安居: 夏安居 (げあんぎょ) 、夏行 (げぎょう) とも言う。僧が一定の期間 (本来は旧暦の4月16日~7月
15日)を寺に籠って務める修行を差す。インドでは「雨季」を意味し、この時期に外出すると虫などを踏み潰す恐れがあるため寺に籠るという「雨安居」から始まった。
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西暦1191年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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建久二年
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4月16日 癸巳
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吾妻鏡
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梶原平三景時が使節として上洛。これは延暦寺の衆徒が朝廷に対して佐々木定重の一党を引き渡せとの強訴を行なっているためで、罪が避けられないのであれば早急に (死罪を減じた) 処分を奏聞するつもりである。.
西暦1191年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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建久二年
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4月26日 癸卯
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吾妻鏡
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(焼け落ちた) 鶴岡若宮の上の地に改めて八幡宮を勧請するため神殿の建造が始まり、今日が上棟式である。奉行は 二階堂行政、頼朝も参会した。
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今日、兵衛尉 後藤基清が使節として京都に向かった。佐々木定綱と定重の件について、比叡山からは定重を斬罪に処すべきと再三の申し入れがある。状況を報告する飛脚が次々に到着するため、既に派遣した 梶原景時に加えて基清を派遣したものである。
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先般の申し入れ (4月16日) の内容は既に院に届いており、これについて内々に衆徒を説得しているが 鎮まらないらしい。頼朝の指示は、どうしても斬首を要求する場合は景時が (個人の資格で) 衆徒に懇願し、佐々木庄の中で定綱が知行している所領の半分を永久に比叡山に寄進しようとの内容で交渉せよ、とのことである。
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   ※若宮の上の地: 大石段の上、現在本殿が建っている場所を指す。火災による再度の類焼を避けるため
裏山の中腹を切り開いた平場に本殿を再建した。
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西暦1191年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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建久二年
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4月27日 甲辰
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吾妻鏡
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相模国の生澤直下社 (なおもとやしろ) の神主 清包と地頭の 土屋三郎宗遠が頼朝の御前で論争した。これは清包から、地頭によって社地の桑の木が切り取られたとの訴えがあったためである。
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土屋宗遠は一旦は反論したが、頼朝は二階堂行政の差配により当座の切り取り停止を命じた。御前での対決では簡単な決裁はできないのだが、神社に関連した事件なのでこの措置となった。
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   ※直下社: 現在の鷹取山頂近く (右地図) にある。北は土屋氏、
東は岡崎氏、西は中村氏、南は二宮氏の所領に接している。現在の神社は無住だが鎌倉時代には繁栄し小田原北条氏や徳川家康の庇護も受けた。 鷹取の名は、江戸時代に鷹狩りの最中に行方不明になった家康の鷹がこの山で見付かった事から名付けた、と伝わる。
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西暦1191年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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建久二年
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4月30日 丁未
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吾妻鏡
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延暦寺の所司弁勝と義範らが鎌倉に参着した。先ず横大路 (御所の南門前) で事情を申し述べたため 後藤基清の家に二人を招き入れた。 まず酒肴で饗応し 藤原俊兼平盛時を派遣して話し合いに入った。二人はまず定綱親子の身柄引き渡しを要求する比叡山衆徒の書状を提出、他にも下手人と称する物の姓名を提示した。
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去る三月に佐々木庄で比叡山の使者に暴行を加えた輩で、張本人は堀池八郎実員法師、井伊六郎眞綱、岸本十郎遠綱、源七眞延、源太三郎遠定らである。しかし頼朝はこの身柄を敵に引き渡す例はないと再三述べている。.

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   下に書いた玉葉の記述などから考えると、頼朝はこの時点で定重の引き渡しを決めたのだろう。
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西暦1191年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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建久二年
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5月 1日 戊申
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吾妻鏡
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   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
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延暦寺の所司らが帰洛のため出発。馬を二疋と各種の染絹三十反を贈り、比叡山への返状も持ち帰らせた。
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   ※玉葉の記録: 比叡から鎌倉に派遣した使者が帰洛した。定綱の引き渡しを認めただけではなく、饗応
など当社を崇敬する態度は丁重だった、と報告した。
悪僧らはこれを聞き「(朝廷が決めた) 遠流は誠に物足りない裁許だ」と言い募っている。実に天魔の所業と言う他にない。
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西暦1191年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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建久二年
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5月 2日 己酉
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吾妻鏡
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大江広元の飛脚が京都より到着し、一條能保からの書状を届けた。先月 26日に比叡山の衆徒が 佐々木定綱の処分を求めて八王子、客人、十禅師、祇園、北野などの神輿を担ぎ、閑院 (里内裏) に押し掛けるとの情報があり、急遽朝廷での会議が開かれて死罪を減じて遠流と決定した。その内容で宣下があるだろう、と。
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また遠江守 安田義定の飛脚が報告、「内裏警備の任に着いており、先月26日の神輿入京の際には検非違使長官から阻止する際も抗戦は禁じる旨の命令が重ねて出された。無抵抗だったため、家人四人と郎従三人が斬られた。朝廷の命令で神罰を恐れる措置ではあったが、武士の本分を忘れたようだと衆人に嘲笑された。」と。
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この件について指示があり、三善康信二階堂行政藤原俊兼平盛時らが召集された。
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   ※八王子、他: 本地垂迹説により比叡山を護持する日吉大社の神々。八王子は千手観音、客人は十一面
観音、十禅師は地蔵菩薩を本地仏とする。祇園と北野の詳細は判らない。
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衆徒の理不尽さを見ると後世の信長による比叡山焼き討ちも当然だと思えてくるね。
創価学会も政治権力と結託して佛の教えに背き続けていると今に仏罰が下るぞ。
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西暦1191年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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建久二年
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5月 3日 庚戌
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吾妻鏡
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院に奏上する書を三位 高階泰経卿に送った。起草は 三善康信、書したのは 藤原俊兼である。申刻 (16時前後) に雑色の成里が携えて京都に向かった。奏書の内容は次の通りである。
.
佐々木定綱の濫行に伴って比叡山から所司二名、義範と弁勝が先月30日に鎌倉に入りました。提出した書状には罪科により定綱と子息三人の引き渡し要求が書かれ、それ以外の詳細は使者の言上です。これに伴って今月1日に返状を与えると共に、私の判断を答えました。
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定綱の狼藉は事実であり、重罰を避けることはできません。情報を根拠にしてその様に判断し、先月16日と26日に罪科を定めるように二度奏聞しております。ただし処分が身柄を引き渡す内容であれば、事前にその旨を言って頂く必要があります。また聖断が下る前に引き渡せば朝廷の決裁を軽視する事になり、また御家人を統括する頼朝の立場を無視する事にもなります。
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罪を犯した者は拘束して検非違使に引き渡す内容での勅定を待っておりましたが、先月26日辰刻 (8時前後) には禁裏に群参して神輿を振り大声で訴え帝を驚かせたとのこと、これには検非違使などではなく正式な使者を派遣して返答を求めるべきでしょう。にも関わらず衆徒を都から立ち去らせて取り敢えずの騒動を収拾する算段では、言葉と行動が相反しています。
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私は忠義と奉公によって家業を継ぎ、朝廷を守護しています。比叡山の衆徒は何の意図を以て策を巡らすのか、実に不都合であります。定綱を配流し部下たちを獄につなぐとの宣下は明らかに正当で、既に下されたものです。衆徒が勅裁に背くのなら罪科を決めて私に命令して頂ければ、先例など無視して斬罪に処します。
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衆徒の主張も理解しますが、勅命に背いて都に乱入するなど物事の是非を弁えない行動です。もし私が定綱の罪を重く見ず日吉大社の神威を軽んじたら衆徒の不満を招くでしょう。それは十分承知しており、私自身が同じような罪を犯せば朝廷の沙汰を受けるのが当然と考えております。
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私は天台宗 (比叡山延暦寺など) のため、また法相宗 (興福寺) のために忠節を尽くし、粗略に扱ったことはありません。木曽義仲が 座主明雲を殺した時には間もなく義仲を滅ぼしたし、平重衡が南都を焼き僧徒を殺した後には彼を捕らえ南都に引き渡したように、私は宗門の敵ではありません。
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しかし南都が私の志に感激しているのに比叡山は未だに一言もなく、事務担当の法師が斬られた恨みによって朝廷を威嚇しています。義仲が座主を殺した時にはなぜ蜂起して戦わなかったのでしょうか。
座主が殺されても怒らずに、事務担当法師が殺されると大騒ぎをする。義仲の時には訴えもせず、信仰心の篤い相手には強訴を試みるなどは、全く筋の通らない姿勢であります。
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正当な訴訟であれば蜂起して京に押し寄せなくても、また乱入して喧嘩騒乱に及ばなくても、一通の奏状を朝廷に送れば筋が通り、裁許を得られます。仔細を書き始めれば際限がありませんが、今年は三合の暦運に当たるため厄を避けるため祈祷に励むべきなのに小事に大騒ぎして比叡山から繰り出し騒乱するのは悪僧が増え善行を施す僧が少ないためでしょう。良い僧侶も自らを省みて比叡全体が良い方向に進むよう努力すべきであります。以上の内容で奏聞頂きますように。
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                建久二年五月三日  頼朝    進上 高三位殿
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追伸として言上
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遠江守 安田義定は大内裏の守護として郎党を派遣し、御所の警備に任じていました。衆徒が乱入の際の官兵であります。勅命に依って神威を尊び衆徒には手を出さなかったにも関わらず、勢いに乗じた衆徒らが郎党四人と従者三人を刃傷に及びました。
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義定からの報告ではありますが、駄馬でも鞭を当てれば奔走するのと同じように、官兵が恥辱に耐えず本気で戦えば衆徒を斬り殺していたでしょう。指示を守って手を出さないのを嘲笑い朝廷を守る武士を傷つけた、その罪はどう処置するのでしょうか。
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衆徒の訴えている内容をそのまま勅許するような事態があってはなりません。重ねての恐惶頓首謹言であります。
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   ※座主明雲: 22代と57代を重任した天台座主で権大納言 久我顕通 (Wiki、村上源氏) の長男。
寿永二年 (1183) の11月に勃発した法住寺合戦で 木曽義仲が後白河院を襲撃した際に居合わせて 楯親忠に射られ (流れ矢説あり) 首を斬られた。後任は義仲の意向に従って俊堯が就任したが、一ヶ月後の義仲敗死と共に比叡山から追われている。
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400年後の天正十年 (1582) の武田氏滅亡後に残兵の引き渡しを拒んで織田軍に焼き討ちされ、恵林寺 (公式サイト) の山門の上で「安禅必ずしも山水を須 (もち) いず、心頭を滅却すれば火も自ら涼し」の偈を残して焼け死んだ (捏造説もあるが) 。快川和尚の如き気骨の欠片も比叡山には無かった。
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   ※南都を焼く: 治承四年 (1180) 4月の以仁王の挙兵に協力した 東大寺興福寺はその後も反平家の動
きを続けたため、清盛の命令を受けた 重衡率いる軍勢が南都を攻めた。
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その兵火 (清盛の命令、重衡の決裁、乱戦に伴う失火など諸説あり) が東大寺と興福寺の堂塔を焼き尽くし多くの僧を殺した事件。更に詳細は 南都焼き討ち (別窓) で。
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   ※三合の暦運: 陰陽道の言う凶年。金星、木星、火星が重なり合う年を指す。災害が多発する、と。
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西暦1191年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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建久二年
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5月 8日 乙卯
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吾妻鏡
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左衛門尉 佐々木定綱らに関し、比叡山の訴えによって下された先月26日の口頭による宣下と同28日の院宣の案文などが鎌倉に届いた。また同29日に定綱等の罪名が決まり (結果として) 衆徒の神輿は比叡山に退去した。
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    流罪    左衛門尉定綱を薩摩国、左兵衛尉広綱 (定綱の嫡子) を隠岐国へ。
    禁獄五人  堀池八郎実員法師  井伊六郎眞綱  岸本十郎遠綱  源七眞延  源太三郎遠定
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権中納言泰通卿が参陣 (太政官の会議に参加) し、頭中宮亮宗頼朝臣が流人などの処分を宣し右大弁資実が決裁の公印を捺した。左宰相中将実教卿と少納言信清らがこれを差配した。口頭での宣下は次の通り。
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建久二年四月二十六日  宣旨
近江国の住人源 (佐々木) 定綱は日吉社宮主を殺害したため衆徒の訴訟があり、遠流に処するべきにも関わらず逐電したと聞いた。前の右大将源朝臣 (頼朝) 並びに京畿諸国の官人には定綱の身柄確保を命じる。
                       蔵人頭大蔵卿兼中宮亮藤原宗頼(奉る)
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文書による院宣は次の通り。
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近江国の住人源定綱が日吉社宮主らを殺害した罪科は軽くない。相応の罪科とすべきではあるが、担当官による調書の遅延と日吉大社神威への配慮、また衆徒の訴えを尊重して定綱を遠流に処し、部下の輩を禁獄 (懲役刑) に定めた。衆徒は身柄引き渡しがなかった事を不満に思い神輿を振りかざして御所に強訴したが、身柄の引き渡せば斬首されるのが明白なため、その処分は行わない。
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嵯峨天皇が執行を停止してから長い年月の間、死刑の決裁は行われなかったが、その不満から衆徒は神輿を放置して帰山してしまった。これは勅に背く行為であり、帝を驚かす罪科にも値する行為であり、仏法の価値を減じ神威を貶める行為である。朝廷は常に日吉大社を崇敬し、他よりも深く延暦寺に帰依しているのに、仏の教えに背いて朝廷を侮蔑する行為に終始するのを是とするか。
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遠流に処されれば再び帰れず、禁固の刑で長い年月を過ごすのは死罪との優劣があるとは言えないから、死罪を遠流に替え斬首を禁固に替える措置である。定綱の逐電は罪を重ねる行為なので京畿諸国に拘束せよと宣下している。早々に強訴をやめて裁断を待ち、比叡に帰山して神輿を迎えよ。なおも行ないを改めない場合は全員が協力して制止の方策を講じ、和平の道を探ることになる。以上が院宣の内容である。
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                   四月二十八日  大蔵卿宗頼(奉る)   謹上 天台座主御房
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   ※天台座主: 第61代顕真は建久元年 (1190) に就任し同三年 (1192) に没。62代は愚管抄を書いた 慈円
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西暦1191年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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建久二年
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5月12日 己未
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吾妻鏡
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大江広元は 先月20日の賀茂祭に 後白河院の供を務め、御厩舎人の金武を介して院の厩の馬を下賜されて特に面目を施した。その経緯を書面 (下記) で提出し、報告として「後白河院の祈願だった五丈 (50尺) の毘沙門天像が近江国高島郡で完成し、近日中に開眼供養する模様です」と。三善康信がこれを聞き、「その像は去る養和年間に後白河院が仏師の院尊法印に命じて造り始めた像です」と補足した。
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頼朝は「それは噂として何度か聞いたことがある。清盛が生きていた頃に、多分源氏を調伏する (祈り殺す) ために造像を開始したのだろう。あまり感心できない話だ」と答え、その経緯を内々に 一條能保に伝えさせた。
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建久二年四月二十日丁酉  賀茂祭
     大夫尉中原広元 (院から御馬を賜う。厩舎人の金武が同伴。赤色上下に款冬の着衣)
     大江公朝  源季国   橘定康
     六位尉は  籐腹能宗  中原章広  源清忠  中原章清
     志は    中原経康  中原職景  安部資兼
     府生は   紀守康
     馬助は   仲通
     中宮使は  権亮忠季朝臣(左中将)
     近衛使は  右少將保家朝臣
     山城介は  源盛兼
     内蔵助は (?)
     典侍は   平宣子(大納言時忠卿の女)
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   ※養和年間: 養和元年は1181年7月14日→ 翌1182年5月27日に改元して寿永元年。ただし養和を使った
のは平家だけで、源氏は1181年を治承五年としている。
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   ※院尊法印: 高島郡は琵琶湖西北岸の高島市 (地図) 一帯だが、
15尺の毘沙門天像は存在しない。
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院尊は院覚の子で院朝の弟、東大寺復興などの造像も手がけた高位の院派仏師 (仏師の系図を参照) で、彼の手に拠ると思われる作品は確認されていない。唯一可能性が指摘されるのは長講堂 (三十三間堂) の阿弥陀三尊像 (右) のみ。
  右画像をクリック→ 別窓で拡大表示
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   ※大江広元: 元は中原姓、大江姓に改めたのは晩年が近付いた
建保四年 (1216) に陸奥守に任官した以後になる。大江は実父の姓で中原は養父の姓 (その逆とする説あり) とも言われ、家譜では藤原光能 (正三位、参議) の息子で母の再婚相手である中原広季が養育した、と記録している。信憑性は私が判断できる範疇ではないが、建保四年 (1216) 閏 6月14日の吾妻鏡に広元の願状として以下の記述がある。
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正四位下の陸奥守中原朝臣広元が謹んで言上いたします。 朝廷の恩恵を受けて先例に従い中原姓を改め大江姓とする申請であります。朝廷の御恩を受けて先例に倣い、中原姓を大江氏に改める願いであります。 (~ 中間、略す ~)
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散位従四位上の大江朝臣維光とは父子の間柄なので跡を継ぐのが道理であります。
従四位下の掃部頭中原朝臣広4季には養育の恩を受けておりますが、中原には姓を継ぐ逸材に不足がなく、大江には血縁者が少ないため早く本姓に復して氏の衰退を防ごうと考えます。
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ここは文面通りに受け取るのが当然の様に思う。
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西暦1191年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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建久二年
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5月20日 丁卯
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吾妻鏡
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近江国辛崎の近くで佐々木小次郎兵衛尉定重の流刑を中止し梟首に処せられた。この事態を避けるべく頼朝卿が配慮を巡らしたのだが、最後まで比叡山衆徒の遺恨を宥める事ができなかった。梶原景時の報告である。
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左兵衛尉源朝臣定重 佐々木源三秀能 (秀義) の孫、左衛門尉定綱の二男
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   ※定綱らの処分: 5月8日に院宣が発行され定綱は薩摩国流罪、嫡子廣綱は隠岐国流罪、二男定重は対馬
国流罪、三男定高は土佐国流罪。他の五人 (4月30日の記載では堀池八郎実員法師、井伊六郎眞綱、岸本十郎遠綱、源七眞延、源太三郎遠定)は獄に監禁である。
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そして5月20日に佐々木定重は近江国辛崎付近で梟首。吾妻鏡に詳細の記載はなく、頼朝が定重の梟首で手を打ったのだろうが、これは国主の立場として容認し難い。
梟首は斬首した首を晒す処置で、一般には通常の斬首よりも重罪とされる。
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   ※辛崎付近: 大津市北部の 唐崎神社(公式サイト、地図) で梟首された。衆徒に引き渡したか検非違使
が首を刎ねたのか不明。唐崎神社は今回の被害者側である日吉の摂社である。
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   ※玉葉の記載: 5月18日に「定綱が武装兵に守られ流刑地に出発。子息三人が同船して海路」との記載が
ある。史料では「定綱が薩摩、嫡子広綱が隠岐、三男定高が土佐」とされており、「子息三人」とは食い違う。出発の時点で定重の処分は決まっていたらしい。
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   ※その後の定綱: 二年後の建久四年 (1193) に赦免され、10月28日に鎌倉に帰還し近江守護職に復任。
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西暦1191年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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建久二年
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6月 7日 甲申
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吾妻鏡
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   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
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(先月の火災で焼けた)幕府の南門を再建。費用負担は武蔵守 大内義信、 工事は 成尋法橋が差配した。
頼朝も現地に渡御し造営の様子を 眺めた。
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   ※南門: 御門の位置から推定した 大倉幕府 概略位置 (画像) 。
右画像は概ね同時代に造られた 野間大御堂寺の総門
     (伝 頼朝寄進、クリック→ 別窓で拡大表示)

御所南門もこんな感じか、それとも両袖付きの門か。
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   ※成尋法橋: 治承四年 (1180) 8月20日に伊豆韮山から土肥郷を
目指す頼朝勢の中に義勝房成尋の名が見える。
横山党の武士で、桓武平氏の末を名乗っている。
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文治元年 (1185) 9月2日に頼朝から「行家追討を 義経に命じて反応を確かめよ」との命令を受けて 梶原景時と共に京都に向かった武士。
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西暦1191年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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建久二年
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6月 9日 丙戌
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吾妻鏡
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大理 (検非違使別当の唐名) 一條能保の姫が左大将 九条良経に嫁すと決定、近日輿入れの儀が催される。
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これによって姫君の装束は御台所 政子の沙汰とし、女房五人および侍五人の装束と長絹百疋 (二百反) は 頼朝の贈与として御家人に割り当てた。
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女房の装束は 中原親能大江広元らが京都で調達し、大内惟義山田重弘宇都宮朝綱が侍の衣装を手配、絹は 三善康信三浦義澄安達盛長八田知家足立遠元小早川遠平らが手配する。
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五人分の絹は揃ったが残りが遅れたため頼朝は機嫌を損ね 手配を担当した 藤原俊兼平盛時を呼び出して叱責した。立ち会った御家人らが恐れて萎縮した中で三善康信が「既に届いたのは早馬で運んだ絹です。未着の分は念入りに練っているため遅れているのでしょう。」と気の利いた台詞で引き取ったため頼朝の機嫌が直り、御家人も処分を受けずに済んだ。
間もなく残りの絹がすべて到着し、安達新三郎が明朝京都に運ぶ手配となった。
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   ※一條能保の姫: 生母は頼朝の同母妹の 坊門姫。建久四年 (1190) 4月19日の記事に「13日に難産のため
死去、享年46」とある。初産ではないが、かなりの高齢出産だったのだろう。
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   ※左大将良経: 摂政関白 九条兼実の二男。建久六年 (1195) に内大臣まで昇るが翌年には九条兼実の政敵
である 丹後局源 (土御門) 通親によって父と共に失脚する。
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正治元年 (1199) に政界復帰して左大臣となり、建仁二年 (1203) には第83代土御門天皇の摂政、同四年に従一位太政大臣に就任。和歌と書道に優れた才能を発揮したと伝わる。 百人一首に載った和歌、
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    きりぎりす 鳴くや霜夜の さむしろに 衣かたしき ひとりかもねむ
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一條能保の娘が産んだ一人は第84代順徳天皇の中宮となり第85代仲恭天皇を産む。
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西暦1191年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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建久二年
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6月17日 甲午
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吾妻鏡
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(火災で焼失した)御所の厩舎を新しく建造、三浦介義澄の差配である。
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   ※厩舎の位置: 鎌倉幕府政庁は 大倉宇都宮辻子→ 若宮大路 (宇都宮辻子の北側 ) の順に移転する。
いずれも敷地の概略範囲が推定できるだけで、建物の配置やその規模は判っていない。
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頼朝が建造した三つの巨大建物は郊外に離れていた永福寺が発掘調査されているのだが勝長寿院の敷地の範囲や伽藍配置や規模は全く不明である。
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鶴岡八幡宮の本殿は文政十一年 (1828) の再建、付属した仏堂群は明治維新の廃仏毀釈運動で全て破壊され、江戸時代の姿が記録に残るのみ。これで世界歴史遺産は少し無理な話だ。加えて小町通などの下品な喧噪は 「古都」 の名に値しない。
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西暦1191年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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建久二年
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6月22日 己亥
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吾妻鏡
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越前国の平泉寺に於ける関東御家人の年貢押領について調査せよとの院宣があり、今日その返状を送った。
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前摂政家領の越前国鮎川庄での押領についての調査を命じられました。北陸道方面は 比企朝宗に守護を命じていますが、現在の鮎川庄には管理者を置いていないとの報告です。現在の担当者が嘘を述べているのか、国衙の役人からの訴えの有無をお調べください。押領したという藤嶋三郎という者は会った事もないし、実在する人物か否かも知りません。以上を奏上願います。     六月二十二日  頼朝
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   ※平泉寺: 福井市の古刹 永平寺から15kmほど九頭竜川上流、白山信仰の拠点寺院である。
詳細資料 (外部サイト ) と地図を参考に。
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   ※鮎川庄: 越前で鮎川の名が残るのは越前市鮎川町 (地図) 、通常は高陽院領と称する摂関家領の一つ、
近衛基通の家領である。藤嶋三郎は永平寺の西にある平泉寺領吉田郡藤島荘(地図)を本領にしていた国人と推定されている。
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西暦1191年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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建久二年
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6月24日 辛丑
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吾妻鏡
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神護寺文覚上人が鎌倉に書状を送り、厭世の末に逐電した駿河守 源広綱が上醍醐にいると聞いた、と報告した。

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   ※源広綱: 建久元年 (1190) 12月14日に逐電の記録がある。頼朝の上洛には従ったが右大臣拝賀の供奉人
の選に漏れた事と駿河守の任務にストレスが溜まっていたのが逐電の原因と伝わっている。
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上醍醐は 醍醐寺 から更に1時間も山道を登った場所 (地図) 。当時の著名人が隠棲するには最適な場所だった。神護寺は京都の北西で醍醐寺は南西、20kmも離れている。
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西暦1191年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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建久二年
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7月11日 丁巳
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吾妻鏡
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   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
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安達新三郎が京都から戻った。大理 (一條能保を差す) の御吉事 (娘の婚姻) は先月の25日。
婿の左幕下 (左大将 九条良経) は一條室町の能保邸に渡御された。
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   ※能保の娘: 頼朝には妹の娘つまり姪。彼女ほどの幸せを、せめて病弱の大姫に と思っただろうか。
「大理」は能保の職責 検非違使別当の唐名。
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西暦1191年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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建久二年
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7月18日 甲子
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吾妻鏡
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御所内にある頼朝私邸 御厩の上棟式。御厩は十間土肥次郎実平岡崎四郎義実の差配である。
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   ※十間: 当時の間は長さではなく、スパン数を意味する。例えば三十三間堂の柱間は 33スパンで全体の
長さは約 120m、従って単純計算では柱の芯から芯は約 360cm弱になる。頼朝厩舎の1スパンのサイズは判らないが、全体では最低 20疋程度は入らないと権威に傷がつく。
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西暦1191年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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建久二年
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7月23日 己巳
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吾妻鏡
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先日から鶴岡八幡宮に参籠していた生一と名乗る僧が別当 圓暁を経由して三粒の仏舎利を頼朝に献上した。
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頼朝は「仏舎利には深い帰依心を持っているが、以前に東大寺重源上人の弟子で空躰を名乗る宋人が室生で数十粒の仏舎利を掘り出して盗んだ事件があった。これに怒った興福寺が空躰を捕らえた、そんな話の仔細を別当の覚憲僧正から聞いたことがある。その件に関係する疑いもあり、後聞も憚られるため受け取れない。」と答えた。生一は仏舎利を持ち帰り、別当円暁は頼朝の対応に感心した。
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   ※仏舎利: 釈迦の没後に遺骨 (仏舎利) を巡る争いが勃発、その
結果八つに分けた遺骨に遺灰を加えて 10ヶ所の寺院に納めた、と伝わっている。
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釈迦入滅200年後 (紀元前200年頃) にインドを統一したアショーカ王 (阿育王) は七ヶ所の寺院を巡って仏舎利を回収し細かく分けて八万余の寺に配った。
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つまり日本の古い堂塔に納めてある仏舎利は所詮は偽物という事なのだが、それはさて置き。
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アショーカ王が配った仏舎利と石塔の一つは琵琶湖の湖底に沈み、もう一つが東近江市の阿育王山石塔寺に残っている。もちろん伝承に過ぎないホラ話だが、異形三重の大きな石塔を囲んで大小様々の石塔が並ぶ姿は一見に値する。近くを通ったら是非とも立ち寄ろう。
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   画像をクリック→ ウィキによる解説にリンク。石塔寺でググれば画像多数あり。
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   ※蛇足: 私は仏教徒じゃないし、概ね完全な近い (と思っている) 無宗教者だが、心に残る釈迦の教えは幾つか覚えている。
その一つは、出家と在家の役目についての教え。
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在家信者は布施によって出家者を支え、出家者は布施を得て修行を重ね深めた信仰を在家信者に還元し、正しい世界に教え導く役目を負う。この循環は宗教者だけではなく、例えば教師と生徒や政治家と納税者の関係にも当て嵌るから面白い。
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教師の給与も国会議員の歳費も、在家信者の布施 (国民の税金) が財源である。さて、布施を得た彼らは「出家信者のなすべき功徳の還元」を行なっているか、否か。
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公明党の姿勢が典型的な例だね。創価学会信者の布施に加えて政党交付金や莫大な歳費 (要するに布施) を得ている彼らが目指しているのが「在家 (国民) への功徳」か、それとも連立政権を維持することから得られる既得権の擁護か。それを考えれば判る。
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政権に加わり、集団的自衛権の行使容認に賛成して自衛隊員を危険な戦場に送り、戦死させて来世に導くのが布施に値する功徳なのか。
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統一教会も含めて、権力に関与する全ての宗教者は在家を裏切るクズだ、と私は思う。
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西暦1191年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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建久二年
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7月28日 甲戌
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吾妻鏡
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寝殿と対屋および御厩など御所の造営が完成し、今日移転の儀を行った。
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頼朝は亥刻 (22時前後) になって、安達籐九郎盛長の甘縄邸から完成した大倉御所に入御した。
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  武蔵守大内義信  参河守範頼  上総介足利義兼   伊豆守山名義範  越後守安田義資
  大和守山田重弘  千葉介常胤  小山左衛門尉朝政  三浦介義澄    畠山次郎重忠
  八田右衛尉知家  同、太郎左衛門尉知重  土屋三郎宗遠  梶原平三景時  和田左衛門尉義盛
  らが供として従った。
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  梶原左衛門尉景季が剣を持ち、橘右馬允公長が弓箭を携え、河匂七郎政頼が代理として甲冑を着した。
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騎馬の随兵が16人
  先陣  三浦左衛門尉佐原義連  長江太郎明義   小野寺太郎道綱   比企四郎右衛門尉能員
      千葉四郎胤信      葛西三郎清重   小山五郎宗政    梶原三郎兵衛尉景茂
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  後陣  江間四郎義時殿    修理亮和田義盛  村上左衛の尉頼時  里見太郎義成
      工藤左衛門尉祐経    狩野五郎宣安   伊澤五郎信光    阿佐利冠者長義
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   ※江間四郎: 前にも同じ事例があったが 30歳にも満たない、本来なら末席の義時だけに殿を付けて筆頭
に名前を残すのは吾妻鏡編纂者の意図的な記述であり、逆説的に考えれば北條執権の独裁体制が確立した時代に、古い原史料をベースにして都合よく改竄したという事だ。
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特に 藤原定家の明月記からの転用が多く見られる事から、現在では吾妻鏡の編纂時期は鎌倉時代末期の 1290年以後と考える説が主力である。
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学術的な研究は兎も角として、吾妻鏡は為政者の意図を斟酌して鎌倉時代後期に編纂された事は大きな前提として認識しておく必要がある。
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西暦1191年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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建久二年
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8月 1日 丁丑
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吾妻鏡
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今日、大庭平太景能が主催して新造の御所で献杯と宴会が行われた。特に豪華を意図せず鱸 (スズキ) など五種類の魚を肴とした。座に列したのは 足利上総介千葉介小山左衛門尉三浦介畠山次郎八田右衛門尉工藤庄司土屋三郎梶原平三、同、刑部丞 (景時の弟) 、比企右衛門尉岡崎四郎佐々木三郎ら。
盃を勧めつつ、頼朝の指示によりそれぞれが昔の思い出を語り合った。
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大庭景義は保元合戦について、武士が心掛けるべきなのは武具の準備である、と語った。とくに弓の長さには注意すべきで、鎮西八郎為朝は弓に関しては無双の名人だが、あの弓は長過ぎたと思う。私は大炊御門の河原で為朝の弓手 (左側) に向き合ってしまい、彼は今まさに弓を引こうとしていた。
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あの時に私は、為朝は勇猛ではあるが鎮西 (九州) から上洛して直後で騎射には慣れていない、と考えた。
関東の馬に慣れている私は為朝の妻手 (右手) に回り込み、為朝は長い弓を (馬の首を越えて) 右側に廻して射たために、体に当る筈の矢が逸れて私の膝を砕いた。この対応を知らなかったら私は落命していただろう。
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武士は一筋に騎馬の熟練を心掛けるべきである。老人の話を笑うべからず、と。千葉常胤以下の同席者は感心し、頼朝からもお褒めの言葉を受けた。
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   ※保元合戦: 最近では「保元物語は承久の乱 (1221年) 以後に成立した」と考える説が比重を深めている。
その保元物語には次の記述がある。
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為朝は兄の義朝を威嚇して退かせようと放った矢は義朝の兜の星を削って宝荘厳院の門柱に矢の中程まで突き立った。義朝は「思ったより乱暴な奴だな」と叱りつけた。
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為朝は「お許しがあれば二の矢を見舞います。兜の内側では失礼ですから障子板 (栴檀の上) か、栴檀 (胴の右側につけた板) か、弦走り (胴の部分) か胸板の真ん中か、もし草摺がお望みなら一の板でも二の板でもお望みの通りに」と答えて弓を引き絞った。
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主人を守ろうと駆け寄った上野国の住人深巣七郎がその矢を兜の右側に受け、左の耳まで射抜かれて即死してしまった。これを少しも恐れず攻め寄せる軍勢の中に、相模国の大庭平太景吉 (景義) と 三郎景親が加わっていた。
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「八幡殿 (義家) が後三年合戦で出羽金沢を攻めた際に16歳で先陣を務め、鳥海三郎の矢を左眼に受けて兜の内側まで射抜かれながら返し矢で敵を倒した 鎌倉権五郎景正の末裔である大庭平太景義、同じく景親」と名乗りを挙げた。
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これを聞いた為朝は「西国の者なら誰もが私の腕前を知っているが、東国の武士とは初めての合戦である。征矢 (実戦用) は何回も射たが今度は鏑矢を見舞ってやろう」と鏑の部分 (10~15cm)を除いて15束 (120cm以上) もある鏑矢を放った。
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果たして鏑の音は御所中に鳴り響き 五~六段 (55~65m) 離れた大庭平太の左膝を砕き 更に馬の腹を貫いた。馬は屏風を倒すように伏し倒れたため大庭平太は前に落馬し弟の三郎景親が馬から飛び降りて兄を担ぎ四、五町 (450~550m) ほど退いた。
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   ※景義と景親: 嫡男の景義と次弟の豊田景俊の生母は横山一族の娘、三男景親と四男 俣野景久の生母は
記録にはないが、下の二人は間違いなく異腹である。
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保元合戦で歩行困難になった景義が家督を景親に譲った事、後に降伏して捕虜になった景親の助命を願うかと頼朝に問われた景義が、保元合戦で命を救ってくれた弟なのに「御心のままに」と答えた事、兄弟四人が源平に分かれて戦った事などを考えると (家督継承権を含め) 骨肉の争いがあった、のかも知れない。大庭塚と豊田郷も参考に。
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   ※景義と景親: 景義は60mの距離で左膝を砕かれた。実際には、互いに相手を弓手 (左) に見て対峙した
のだろうと思う。為朝が鏑矢を構える前に矢を放たなかったのが景義の致命的な失敗だ。後手に回ったのは経験不足か他の原因か、やや疑問が残る。
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   ※出羽金沢の合戦: 後三年合戦の最終段階、金沢柵 (現在の横手市) で籠城の末に滅びる 清原家衡の軍と
八幡太郎義家の率いる官軍の合戦。詳細は 後三年戦役と金沢柵 (別窓) で。
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西暦1191年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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建久二年
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8月 6日 壬午
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吾妻鏡
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(新築の御所に) 転居されてから最初の外出初めがあった。申の刻 (16時前後) に (同様に新造された) 右衛門尉 八田知家宅に渡御、近距離のため徒歩である。
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籐太兵衛尉 糟屋有季が劔持ちを務め、武蔵守 大内義信、上総介 足利義兼以下多くの供奉人が続いた。
知家が御引出物を献じ、宇都宮四郎頼業が御劔を、子息の兵衛尉 朝重が馬を献じた。
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西暦1191年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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建久二年
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8月 7日 癸未
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吾妻鏡
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幕下 (頼朝の外甥である僧任憲) は熱田神宮領内の神田を相伝しているが、勝実と名乗る僧に押領された。
勝実は既に届けを朝廷に提出しているため任憲も書類を整えて申請する予定で、頼朝の口添えを望んでいる。
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任憲の父である故 祐範の恩に報いるため頼朝は躊躇しつつ色々と検討を巡らしたが、この案件はかなりの難題である。祐範が残した土地である上に他に方法も見つからないため、今日慇懃な書状に任憲の申請書を添えて三位の 高階泰経卿に送った。内容は次の通り。
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僧任憲の申請書を添えて申し上げます。このような事を取り次ぐべきではない上に些細な案件ではありますが今回の被告勝実が押領した申請に従って決裁が下されたようです。勝実の主張が正しいのなら、上西門院の時代に裁許を得ていないのは筋が通りません。任憲はその詳細説明が困難だと嘆いているため、恐縮しつつ申し上げる次第です。この旨を取り次いで頂くようお願いします。    八月七日  頼朝
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私信として。 この祐範は私の母の弟で、私が特別に考えているのは受けた恩を知っているからです。
私の母が没した時には澄憲法印を導師として七々の法事を営んでくれました。また平治の乱後に私が流罪に処された際には人を付けて伊豆国まで送ってくれた恩を忘れられません。
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母のために菩提を弔い、私のために忠節を尽くして没した人物です。任憲の嘆きに配慮して、取り次ぐべきではないと判ってはいますが彼の希望はこの件のみです。祐範に受けた旧恩に報いるため任憲の嘆きを終わらせるため道理を弁えず言上する次第であります。
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道理が通らない事情を枉げて申し上げるのではなく、祐範が長年管理していた以後に勝実の管理になったのも判っていますが、勝実の言い分が正しいのなら上西門院の頃に許可を得て運営に当たらなかった理由が判りません。
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祐範が長年管理していた事実に従って任憲の相続を認めて頂ければ頼朝にとっても本意であります。祐範の恩に報いるための心と道理を弁えるべきとの心が相半ばしております。この旨をお取次ぎ下さい。 恐々謹言。
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   ※任憲: 熱田神宮(公式サイト) 大宮司 藤原季範の娘が頼朝の生母
由良御前、その弟が祐範 (生母不詳) 、その息子が任憲。
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祐範は頼朝の伊豆配流 (平治元年、1160年) の際には従者を付き添わせ、その後も毎月使者を送って近況を確認する配慮を見せていた。
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伊豆まで付き添ったのは (役人を除けば) 祐範の従者と、義朝の家人だった高庭介資経が付けてくれた郎党の籐七資家の二人のみという見捨てられた状態だった。
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寿永三年 (1184) 3月10日、頼朝は資経の息子 長田実経を呼んで本領の高庭荘 (鳥取県西部) の管理権を安堵してその恩に報いている。
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頼朝は「資経の恩は子々孫々まで忘れ難い。多くの家人が死んだり変節して去ったりした中で資経が郎党を添えてくれた、その恩に報いるためである。」 との言葉を残している。
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     右画像は熱田神宮拝殿。画像をクリック→ 別窓の訪問記へ。
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西暦1191年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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建久二年
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8月15日 辛卯
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吾妻鏡
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鶴岡八幡宮での放生会に頼朝も参宮。安楽坊重慶を導師にした経供養と箱根神社稚児の舞楽奉納があった。
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   ※経供養: 一般的には写経を仏前に供えて営む法会だが、この場合は単に読経の奉納かも知れない。
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西暦1191年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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建久二年
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8月16日 壬辰
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吾妻鏡
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頼朝の奉幣は例年通り。神馬二疋を奉納し、流鏑馬と競馬も例年通りに行なった。
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   ※例年通り: 前年の建久元年にも15日の放生会と16日の馬場行事を開催、河村三郎義秀が突然の参加を
指示されて三流れ作物の妙技を見事に演じ、石橋山で景親に味方した10年越しの罪を許され旧領の安堵を得ている。
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西暦1191年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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建久二年
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8月18日 甲午
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吾妻鏡
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新たに献上される馬のために厩が出来上がった。
元々の厩で飼っていた馬と並べて選別し、南の庭 (公式の場) で16疋を御覧になった。下河辺四郎政義梶原兵衛尉景茂 (景時の三男) 、狩野五郎宣安 (狩野五郎親光の息子為広に決めると納得できるが、疑念が残る) 、
工藤小次郎行光佐々木五郎義清らが騎乗し、藤原俊兼が毛色の記録係を務めた。
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  一疋(鴾毛)   上総介(足利義兼)進す
  一疋(糟毛)   千葉介(千葉常胤)進す
  一疋(黒栗毛)  北條殿(北條時政)御分
  一疋(青駮)   武田五郎(武田(石和)信光)進す
  一疋(鴾毛)   小山左衛門尉(小山朝政)進す
  一疋(鴾毛)   葛西三郎(葛西清重)進す
  一疋(黒鹿毛)  畠山次郎(畠山重忠)進す
  一疋(鹿毛)   小山七郎(結城朝光)進す
  一疋(黒)    下河辺庄司(下河辺行平)進す
  一疋(葦毛)   和田左衛門尉(和田義盛)進す
  一疋(鹿毛)   小山五郎宗政(小山政光の次男(長沼)宗政) 進す
  一疋(鴾毛)   宇都宮四郎((宇都宮朝綱の孫で頼綱の弟)で塩谷氏を継いだ横田頼業 進す
  一疋(栗毛)   土屋三郎(土屋宗遠)進す
  一疋(栗毛)   三浦介(三浦義澄)進す
  一疋(鴾毛)   足立左衛門尉(足立遠元)進す
  一疋(黒)    梶原平三(梶原景時)進す
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西暦1191年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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建久二年
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8月27日 癸卯
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吾妻鏡
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(3月4日に焼失した)鶴岡八幡宮の若宮 (下社) および末社の熱田社と三嶋社の廻廊などを上棟した。
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   ※若宮: 現在の石段下にある若宮 (主祭神として応神天皇の御子 仁徳天皇を祀る下宮) を差すのだろう。
末社の熱田社と三嶋社は現存しない。
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西暦1191年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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建久二年
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9月 3日 己酉
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吾妻鏡
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亡父 義朝の菩提を弔うため南御堂 (勝長寿院) で法会が行われ、頓写の法華経一部を奉納した。
導師は恵眼房、布施として被物二重を 三善康信が差配した。御台所政子も参列し読経に耳を傾けた。
頼朝は御衰日 (陰陽道による運勢の弱まる日) に当るため参席しなかった。
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   ※頓写: 追善供養のため多数の人が集まり一日で一部の経を書写すること。頓経または一日経。
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西暦1191年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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建久二年
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9月 9日 乙卯
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吾妻鏡
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鶴岡八幡宮で臨時の祭礼 (9月9日は重陽節) が通常の通り行われ、頼朝も奉幣を行なった。
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   ※重陽節: 文治二年 (1187) から毎年通例になっているが、去年は (上洛準備のためか) 記載がない。
文治三年には 比企能員邸 (現在の 妙本寺 (別窓) の地) で菊見の宴会を行なっている。
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陽数の九が重なるため中国では九月九日を「重陽」とし、日本では菊を飾り菊酒を嗜む行事として宮中に定着した。最も古い開催の記録は天武天皇十四年 (685) だが、崩御が朱鳥元年9月9日 (西暦 686年10月1日) だったため国忌として廃止され延暦十年 (791) から再開となった。
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西暦1191年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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建久二年
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9月18日 甲子
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吾妻鏡
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頼朝が大倉観音堂 (現在の 杉本寺) に参詣した。大倉の一帯では最も古い時代に創建された寺院である。
長い年月を経て瓦は壊れ軒も傾いた。頼朝は特に無常を感じ、修理の費用として布 200反を寄進した。
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   ※杉本寺: 天平六年 (734) に光明皇后 (45代聖武天皇后) の発願により開山和尚を 行基が務めた、鎌倉
で最も古い寺院 (公式サイト) 。当時は既に 450年ほどを経て荒れ果てていた。
三浦義明の長男で 和田義盛の父 義宗は杉本寺の裏山に館を構えて杉本を名乗っていた。
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義宗は長寛二年 (1164) に安房で長狭常伴と戦い負傷して 39歳で死没、この時に37歳だった弟の義澄が三浦の家督を継ぎ、17歳だった義宗の長男 義盛は 三浦郡和田郷 (別窓) に住んで和田を名乗り、次男の義茂が杉本城に入った。
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家督を巡る義明の決裁が和田と三浦の間に微妙なしこりを残すことになる。
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西暦1191年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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建久二年
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9月21日 丁卯
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吾妻鏡
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頼朝は浜辺を遊覧するため稲村ヶ崎辺りに出御した。ここで小笠懸の勝負を楽しんだ。
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    上手の射手          下手の射手
    幕下 (頼朝)      vs    下河辺庄司行平
    和田左衛門尉義盛   vs    榛谷四郎重朝
    藤澤次郎清親     vs    愛甲三郎季隆
    山田太郎重澄(山田重忠の父) vs 笠原十郎親景(比企能員の舅、信濃の武士)
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勝負は上手の負けとなり、それぞれが浜に持ち寄った酒一瓶と肴一品を囲んで宴会となった。薄暮となって帰還する際に雑色の澤重と平盛時の従者が喧嘩して双方が傷を負い、和田義盛の郎従が二人を捕らえて頼朝の前に引き出した。怒った頼朝はその場から直ちに伊豆国流罪に処すようよう命じた。
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盛時が「簡単に決定せず、まず罪の軽重を確認するべきでは」と義盛を通じて申し出ると頼朝は機嫌を損ね、「双方が罪を犯した事実は逃れ難い」と盛時を叱りつけた。「他でもない遊興の場での無礼を糾弾するのに調べる必要があるのか。お前は公職の立場にありながら根拠のない発言をするのは道理が通らぬ。」と何度も叱責したため、盛時は口を閉ざして引き下がった。
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   ※頼朝の裁断: 個人的には盛時に理があると思うけど、吾妻鏡編纂者がどんな意図でこの記事を載せた
のかが気に懸かる。絶対君主としての頼朝を賛美したかったのか、それとなく粗忽さをアピールしたかったのか...
私は、カリスマの蔭でも主張すべきはする、盛時みたいな存在が好きなんだよね。
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西暦1191年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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建久二年
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9月26日 壬申
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吾妻鏡
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申刻 (16時前後、ただし文献により哺時 (午後) との表記あり) 以後に、久し振りの地震があった。
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   ※独白: 私が首都圏から熱海郊外 (南熱海) に転居した30年近く前は伊豆群発地震の最盛期だった。
拙宅は三階建てだのRC構造なので簡単には壊れないが、夜中に南 (つまり伊東方面) から地鳴りが次第に大きくなりながら近付いてくるのを感じるのは (短い時間だけど) 気持ち悪かった。
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2020年秋には茨城県筑西市に転居して続けて二回の (一回目は少し大きな直下型) 地震に遭遇した。地震の女神(メスのナマズ?)が私を追い掛けて来たのか?と思った。
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東海沖地震と首都直下地震のどちらが先か判らないけど、オリンピックに莫大な費用を投じる前に考えるべき多くの事があった筈。私は東京生まれで東京育ちだけど、首都圏を離れるとそれまでの暮らしが砂上の楼閣っぽく思える...なんて書くと大袈裟だが。
でも生き残る心づもりは絶対に必要だよ。23区内では生き残る確率が大きく下がる、と思う。
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   ※地震: 百錬抄 (鎌倉後期の歴史書) の宝治元年 (1247) 1月12日
には、「此間風聞云伊豆國長十二町弘八町自十余町行去其跡如湖水云々」との記載がある。
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現代語。 噂によれば 伊豆国で長さ1300m×巾1000m程が失われ湖水の如くなった、と。
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 右は関東大震災の際に宇佐美を襲った津波の痕跡。
   画像をクリック→ 津波の痕跡 (別窓で表示)

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吾妻鏡の寛元四年 (1246) 11月2日の「寅の刻 大地震」が百練抄の記事に匹敵する。現在の伊豆山漁港から熱海海岸一帯が該当するらしい。資料として、熱海の海底遺跡保存会の記述を参考に。
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また、我が家の隣町だった伊東市宇佐美の海岸近くには関東大震災 (大正12年) に伴って発生した 7mを越える 津波の痕跡 (右画像をクリック) が残っている。
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伊東市街で買い物した帰り道、この近くを車で通った時に三陸沖地震が発生、震源から 500km以上も離れているのに国道沿いの電柱が大きく揺れていた様子を、昨日のように思い出す。
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地震が頻発した歴史を無視してこの国の海沿いに原発を造る神経が私には理解できない。
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西暦1191年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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建久二年
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9月29日 乙亥
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吾妻鏡
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北條時政の室が上洛する。一つには実家の氏神に奉幣するためである、と。頼朝は数々の餞別を贈り、他の人々も丁重な心遣いをした。
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   ※時政の室: 後妻 牧の方は下級貴族牧宗親の娘、又は妹。早くに死没した先妻は 伊東祐親の娘で 長女の
通称 政子と、その弟の 故 宗時の生母だと思うが、義時の母か否かは確定できない。
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個人的には、その下の娘三人 (足利義兼室の 時子と、畠山重忠の室を経て 足利義純に再嫁した娘と、阿野全成に嫁した 阿波局) までが先妻の子だと思うのだが裏付け史料は皆無、ただの推察である。
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牧の方が産んだのは、家督を継がせる筈だったのに 16歳で病没した政範の他に、娘三人 (三條実宣室と 平賀朝雅室と 宇都宮頼綱室) である。牧氏一族は藤原北家の末裔で氏神は奈良の 春日大社、昔は強訴の常習犯だが、今では泣く子も黙る世界歴史遺産だ。
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西暦1191年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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建久二年
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10月 1日 丙子
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吾妻鏡
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佐々木三郎盛綱と宮六兼仗国平らの差配により奥州と越後国から優れた牛 15頭が献上され、今日頼朝の御覧に供した。木曽義仲が法住寺殿を襲撃 (寿永二年 (1183) 11月) した際と、文治元年 (元暦二年、1185年) 7月9日の地震で悉く倒壊した際には関東の手配によって復旧した京都御所の牛舎に納めるための牛である。
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前少将 平時家と大夫属入道 三善康信の意見に拠れば「この牛は牛車に向かない。京都の雑踏では使えないだろう。」とのこと。馬を贈与して牛の購入に宛てさせれば良い、と頼朝の指示があった。
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西暦1191年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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建久二年
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10月 2日 丁丑
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吾妻鏡
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御随身左府生 兼峯の使者が鎌倉に到着、所領の紀伊国 八條院領の三上庄 (紀三井寺の一帯、地図) の地頭更迭を訴えている。兼峯は頼朝の右大将拝賀に供奉して以来の功績があり、申請に応じて 豊嶋権守有経の地頭職停止を命じた。但し豊嶋権守有経には (功績のある御家人なので) 代替の土地を与える旨も申し伝えた。
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   ※御随身左府生: 勅宣により貴族の外出を護衛した近衛府の官人で検非違使に所属する下役。
秦兼峯 (兼平) は建久元年 (1190) 5月29日に「先祖から管理権を継承した土地なのに関東が任命した地頭の豊嶋権守有経が通例に逆らって年貢を押領したと訴えている。従って通例の通り年貢を納めよとの下文を受けて使者は帰洛した。」との記載あり。
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   ※拝賀に供奉: 建久元年 (1190) 12月1日の行列に「随行の官人 (府生) 」と載っている。
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西暦1191年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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建久二年
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10月10日 乙酉
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吾妻鏡
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成勝寺執行の昌寛法橋が使節として上洛。法住寺殿の修造は前掃部頭 中原親能と大夫判官 大江広元一品房昌寛の三人が工事を差配しており、昌寛は頼朝に呼ばれて鎌倉に戻っていた。工事が終っていないため再び京都に向かったのが経緯である。
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   ※成勝寺執行: 京都駐在中の昌寛は寺の内局 (寺務管理の部署)を兼任していたのだろう。
成勝寺に関しては、文治二年 (1186) 6月29日の条に詳細を載せてある。
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西暦1191年
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82代 後鳥羽
建久二年
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10月17日 壬辰
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吾妻鏡
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卯刻 (18時前後) に 大姫の病状が悪化して苦しさが激しく、人々が大勢集まってきた。
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   ※病状が悪化: 病苦と回復を繰り返しつつ建久九年 (1198) に満19歳で薄幸の生涯を閉じる。頼朝の子で
若死にしなかったのは 貞暁だけ (でも享年46で暗殺説もある) なのは、何とも惨めだ。
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頼朝も政子も健康には特に問題がないのだから「平家の幼児を含む多くの命を奪った祟り」との 藤原定家の言葉が真実味を帯びてくる。
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西暦1191年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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建久二年
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10月20日 乙未
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吾妻鏡
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大江広元が明法博士を辞任する旨を京都に伝えた。鎌倉に仕えている者が朝廷の要職を兼任しているのは妥当ではないとの (頼朝の) 言葉を受けたのが理由である。
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   ※明法博士: 律令制大学寮に属する官職で朝議に際して法律的な見解を記した明法勘文の作成と提出が
職務。ずっと前の内閣法制局長官 横畠裕介みたいな人柄だったら嫌だ。自分で正義だと思っていない事を正義として喋る、歴史に残る「政権の飼い犬」で、しかも駄犬だから。
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西暦1191年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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建久二年
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10月22日 丁酉
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吾妻鏡
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信濃国善光寺の曼陀羅供養である。導師は大阿闍梨中納言と阿闍梨忠豪、善光寺住僧多数が参加した。
治承三年 (1179) に火災で焼失し (12年を経て) 堂塔の完成を成し遂げた記念である。
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   ※曼荼羅供養: 仏や菩薩の世界と宇宙の真理を図示したのが曼荼羅。
密教の経典を基本にした金剛界曼荼羅と、大日如来を中心に描いた胎蔵界曼荼羅 (右、クリック→ 別窓で拡大) の二種類があり、その曼荼羅を中心にして催す法会が曼荼羅供養となる。
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   ※善光寺再興: 頼朝は文治三年 (1187) 7月に下文を発行した。
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信濃国の荘園と公領の沙汰人らに下す。
善光寺造営のため人夫を手配して仏と結縁せよ。
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善光寺は霊験殊勝の伽藍である。草創以来長い年月を経て堂宇の破搊が甚だしく、火災のため礎石だけが残る状態は実に嘆かわしい。国中の荘園公領を問わず力を合わせ、復興を勧進する上人に人夫を拠出するなどで功徳を尽くせ。 参加を拒む者は所領や管理権などの没収もある事を告知する。
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更に翌 28日には信濃各地の国司目代 (代官) 宛に同様の下文を発行している。
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   ※善光寺: 特定の宗派に依らず万民の救済を目指す単立の寺 (公式サイト) 。天台宗と浄土宗 (尼僧) が
交互に貫首を務める異例のシステム。創建以来11回の火災に遭っているがその都度復興し、今回の勧進に貢献した頼朝を「大旦那」として祀っている。
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昨今は不正経理や淫行事件の噂もあるが、まぁこれは善光寺だけでの問題じゃないし。
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創建に関する詳細や頼朝像との関係、本尊の姿、甲斐善光寺と信濃飯田の元善光寺などについては「鎌倉時代を歩く」の 三ヶ所の善光寺と本尊を一読されたし。
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西暦1191年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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建久二年
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10月25日 庚子
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吾妻鏡
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鶴岡八幡宮の遷宮 (新造の社殿への移転) を来月に控えて詳細の打ち合わせを行なった。
二階堂行政三善康信平盛時藤原俊兼ら文官が検討した内容を頼朝に言上し、八幡宮別当も同席して様々に計画を練った。また宮人の曲を演じさせるため多好方を京都から招いた。
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   ※多好方: 読みは「おおのよしかた」、頼朝に招かれて鶴岡八幡宮の楽人らに秘曲を伝授し、再三の功績
により建久四年 (1193) 11月12日には飛騨国荒木郷の地頭職を与えられる。
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   ※飛騨国荒木郷: 現在の高山市国府町の荒城川流域 (地図) 。高山市より飛騨古川 (飛騨市) に近く、以前
の旅行で立ち寄った道の駅 アルプ飛騨古川 から 5kmほど西の山間地にある 安国寺 (参考サイト、貞和三年 (1347) に足利尊氏が全国に建立した) の古い地名が荒木郷だったと伝わっている。当時はそんな事は露ほども知らなかった。
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蛇足だが、飛騨古川は諏訪の製糸工場で働いた女工哀史で知られた娘たちの供給基地でもあった。「アルプ飛騨古川」から更に東の山間部にある道の駅 飛騨たかね工房 の末尾に野麦峠訪問記を載せておいた。
野麦峠の詳細画像などは 奈川 野麦峠ミュージアムの閲覧をお薦めしておく。
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ちなみに野麦とは峠に密生するクマザサの呼称だったらしい。10年に一度 麦の穂に似た実を付ける事があり、飢饉の年にはすり潰し団子にして飢えを凌いだ、とも。
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また就労先で妊娠し峠越えの難所で流産する工女もいたことから「野産み」が転じて野麦になった、とも言う。
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西暦1191年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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建久二年
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11月 3日 戊申
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吾妻鏡
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日頃は 三浦介義澄に預けている鴾毛 (つきげ) の馬三疋を今日京都に送る。これを飼育調教して 後白河法皇の遷居の明朝に献上せよと 大江広元に指示した。
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   ※鴾毛: 朱鷺 (トキ) の羽の裏の色のような赤みを帯びた白い毛色。
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西暦1191年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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建久二年
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11月 8日 癸丑
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吾妻鏡
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大姫の病状が回復した。日頃から懇切な祈りを捧げられているため邪気が払われた結果である。
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   ※大姫の病状: 熱海伊豆山権現山裾の参道に建つ地蔵堂に、大姫の回復を祈り政子が寄進したと伝わる
快慶作の 宝冠阿弥陀立像がある。本物じゃないとは思うけど、何とはなしに政子の溺愛を思わせる雰囲気ではある。
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西暦1191年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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建久二年
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11月12日 丁巳
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吾妻鏡
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北條時政の室 (牧の方)が京都から戻ってきた。兄弟の 牧宗親と外甥の越後介高成が同行している。
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   ※兄弟の: これは見落としてしまった!「宗親は牧の方の父または兄」とする一般的な記述を鵜呑みに
していた。宗親は 政子の命令を受けて頼朝の愛人 亀女の家 (小坪の 伏見広綱宅) を打ち壊したため、二日後の寿永二年 (1182) 11月12日に頼朝に呼び出され、土下座した上に髷まで切られている。この時に「姑の父にそこまでやるか」の疑問をスルーしたのがミスだった。
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西暦1191年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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建久二年
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11月14日 己未
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吾妻鏡
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梶原景時が由比の付近で自ら謀反人の仲間を名乗る男を一人捕らえた。姓名を聞いても直接頼朝に答えると称して黙秘しているため御所に引き立てた。.
頼朝は御簾の奥から男を眺め、比企朝宗藤原俊兼に供述を記録させた。
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彼は故伊豆右衛門尉 源有綱の家人だった右兵衛尉平康盛で、北條時定を討つために潜んでいたのだが運がなかった、と述べた。有綱は 義経の婿で、義経の謀反に与したため時定を派遣して追討した、その遺恨を果たすための行動である。鶴岡八幡宮の遷宮が済んだ後に処分を決めることとなった。
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   ※義経の婿: 1189年に30歳で死んだ義経に婿を迎えるほどの娘がいる筈はない。頼朝に合流する以前の
平泉時代に迎えた養女の婿が有綱、と考えるのがノーマルか。
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西暦1191年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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建久二年
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11月19日 甲子
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吾妻鏡
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右近将監多好方を召し、御所で盃酒を賜った。多好方は俗謡を歌い、三善康信も御前に進んで見事に声を合わせた。畠山重忠梶原景季も呼ばれて神楽の曲の指導を受け、多好方から才能がある、との言葉を受けた。
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   ※右近将監多好方: (おおの よしかた) 、10月25日に記載されているプロの雅楽家で音楽家。
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西暦1191年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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建久二年
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11月21日 丙寅
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吾妻鏡
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好天に恵まれ、鶴岡八幡宮と若宮と末社などの遷宮を挙行。和田義盛梶原景時らが随兵を率いて町の辻と境内を警備し、束帯で帯劔した頼朝が参宮した。北條義時が劔持ちとして御座の傍らに控え、結城朝光も同様に本殿前まで従った。多好方は宮人の曲を謡った。神慮に叶う如くに見事な声である。
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   ※宮人の曲: 鶴岡八幡宮で毎年12月16日の 御鎮座記念祭 (公式サイト 12月16日に表示) で演じている。
原型は歌なのだろうが、演じるのは往時の姿を想像した神楽の様式、「薪能に似た幽玄な雰囲気を強調した観光イベントに過ぎない」との (的を得た) 酷評もある。
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西暦1191年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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建久二年
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11月22日 丁卯
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吾妻鏡
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多好方らの京都への帰還にあたって政所から餞別が贈与された。二階堂行政中原仲業、家光 (中原光家じゃないか、と思う) らがこれを差配した。別録として馬12疋。範頼も同様に馬10疋を提供した。
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政所発行の目録は次の通り。
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多好方に、
鞍を付けた馬三疋  鞍なしの馬二疋  荷駄の鞍を付けた馬五疋  熊皮の行縢 (むかばき)
履物  手袋  長持  布  小袖  水干袴  絹20反  布20反  染絹10切
皮各種15枚  烏帽子2頭  布刺し縄7種
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子息の多好節に、 鞍を付けた馬一疋  鞍なしの馬二疋  夏毛の行縢(むかばき)  靴 手袋  野矢一腰(24本)
弓一張  萌黄糸縅の腹巻(鎧の胴)一領
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府生 (検非違使の下級職員) 公秀に、
鞍を付けた馬一疋  鞍なしの馬一疋  夏毛の行縢 (むかばき)   靴  手袋
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府生 (検非違使の下級職員) 守正に、
鞍を付けた馬一疋  鞍なしの馬一疋  冬毛の行縢 (むかばき)   靴  手袋
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助直 (備中国吉備津宮助信の子) に、
鞍を付けた馬一疋  鞍なしの馬一疋  夏毛の行縢 (むかばき)   靴 手袋
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       建久二年十一月日  送夫二十一人を添える
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西暦1191年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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建久二年
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11月23日 戊辰
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吾妻鏡
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本来の領主 河村三郎高政が遠江国河村庄北條時政に寄進した。愁訴するべき事のためである。
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   ※河村庄: 菊川市北部 (地図) の一帯らしいが判然としない。
郷土史家は羽多野氏の庶流である 河村三郎義秀一族との関連を主張している。
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   ※河村三郎高政: 郷土史家は波多野義通の弟秀高の子、としている。波多野氏系図に載っている秀高の
子は長男の二郎則実から三郎義秀、四郎義清、五郎秀経が見えるのみ。
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また高政が北條時政に寄進と依頼を行なったのは 秀高の妻が北條政子の侍女 京極局だった事と、奥州合戦の阿津賀志山合戦で河村千鶴丸が勲功を挙げた事 (文治五年 (1189) 8月9日)と、河村義秀が (建久元年 (1190) 8月16日に) 八幡宮放生会で流鏑馬の妙技を見せて罪を許され御家人に列した事、などを挙げている。
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地元の自慢話っぽいが両家の間に何らかの接点があった可能性までは否定できない。
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西暦1191年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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建久二年
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11月27日 壬申
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吾妻鏡
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夜になって頼朝が北面 (私邸) の縁側に佇んでいると一人の法師が庭に跪いたため、用心のために三浦太郎景連 (佐原義連の三男) に仔細を尋ねさせた。法師が語った内容は次の通り。
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私は駿河守 源広綱の従者だった加世丸で、恨み言を言うため逐電し上醍醐(醍醐寺の更に奥) で修行しています。かつて扶持を受けていたのが忘れられず、事の経緯を訴えたいために参上しました。
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何を恨んでいるのかを頼朝が尋ねると、
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右大将拝賀の際に京都に馴れている者を選んで供奉人に定めました。広綱は幼少の頃から京都に住み、最初の推挙を得て官位に就いた意味で一族の先達であるにも関わらず、供奉人から漏れてしまいました。また駿河国の国務については国司赴任の希望は叶えられましたが、実務を任されていません。
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この二つの事が格段の不満と考えて出家しました。今では没後の菩提を弔い恩に報いようと考えております。
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頼朝はそれに答えて次のように述べた。
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その二件は恨みの根拠たり得ない。拝賀の前駆は院が指定した者の他には兄弟の 範頼のみ、相模守 大内惟義らの源氏一族もそれは心得て不満に思っていないのになぜ広綱だけ憤懣を抱くのか。また国司の件は私の決裁範囲ではなく、朝廷の指示を待つ必要がある案件だ。逐電して行方不明になっては対処できず、私の力が及ばない事だ。
とりあえず使者を同行させ事情を説明するから、三浦景連と一緒に宿舎で待機するように。
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そして宿を手配した景連が戻ると法師は既に所在不明だった。実に訳の判らない出来事である。
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  右画像 (国宝の薬師堂) をクリック→ 世界遺産 上醍醐の公式サイトへ。薬師堂の拡大はこちら (別窓)。
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西暦1191年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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建久二年
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12月 1日 乙亥
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吾妻鏡
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北條時政が盃酒と椀飯を献じた。時政の室 牧の方も御前に参上、既に引出物も献上してある。
三浦介義澄ら宿老の御家人も侍所で食事を摂り、頼朝は母屋に出御して牧宗親 (時政の後妻 牧の方の兄) と越後介高成らの給仕を受けている。
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頼朝から高成は恪勤として御所に勤務せよとの仰せがあった。彼は時政の代官ではあるが時政室の外甥であり、文筆に秀でているため召し出したものである。
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   ※椀飯 (おうばん) : 饗応の献立、その食事を摂る儀式や行事も意味する。大判振る舞い、の語源。
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   ※恪勤 (かくごん) : 警護や雑役に任じる下級の武士。所領を持たず、供米 (給与米) を報酬とする。
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西暦1191年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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建久二年
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12月 6日 庚寅
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吾妻鏡
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左衛門尉 和田義盛の差配で前右兵衛尉康盛 (義経関連の郎党) が腰越近くで梟首となった。先月 梶原景時が捕えた男である。

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   ※腰越: 当時は鎌倉の外とされた (地図) 。鎌倉入りを禁じられた義経が留まった地であり、元寇直前に
派遣された元の使者多数が 北條時宗の命令で斬られた地でもある。
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西暦1191年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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建久二年
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12月15日 己丑
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吾妻鏡
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故 土佐房昌俊の老母が下野国山田庄から鎌倉ら参上し御前に召された。死んだ息子の事を話しながら頻りに涙を流すため頼朝も同様に悲しみ、綿入れを二着与えた。
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義経が鎌倉に背いたため討手を派遣する際、多くの御家人が嫌がる中で昌俊だけは法体ながら派遣に応じ、結果として命を鎌倉に捧げた。これは没後の今でも勇士の鏡と考えるためである。
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   ※山田庄: 土佐房昌俊を義経の追討に派遣したのは文治元年 (1185) 10月9日で、頼朝は老母に中泉庄
(現在の栃木県壬生町、地図) を与えている。山田庄の詳細も中泉庄との関係も不明。
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西暦1191年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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建久二年
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12月19日 癸巳
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吾妻鏡
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鶴岡八幡宮の神事のため山城江次久家ら13人を京都に派遣した。これは神楽の秘曲伝授を受けるべく書状を携えて多好方の許に赴く任務である。書状の内容は次の通り。
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鶴岡八幡宮神事のため山城江次久家ら侍13人を派遣します。才能のある者を弟子に選び、神楽の動き一通りを習得させて下さい。鶴岡の本社である石清水と同様に年二回の彼岸に神楽を奉納するのが目的です。
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星弓立歌は秘伝と聞いています。だれが相伝に適しているか判れば続けての習得を命じます。鎌倉殿の仰せは以上の通りです。       十二月十九日   平盛時(奉、在判)  右近将監殿
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   ※星弓立歌: 雅楽の一節だが詳細は判らない。雅楽研究所のサイト が参考の一助になる、かも。
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西暦1191年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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建久二年
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12月24日 戊戌
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吾妻鏡
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中原親能大江広元 らの使者が京都から到着して去る17日に法住寺殿御遷居の儀式が無事終了の旨を報告、一條能保 がその記録を添付した。
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その日出仕の人々
   摂政殿(九条兼実)  右大将頼実    新大納言忠良   左大将良経    籐中納言定能
   右衛門督通親    坊門中納言親信  民部卿経房    権中納言泰通   別当能保
   平中納言親宗    右兵衛督隆房   左宰相中将実教  大宮権大夫光雅  籐宰相中将公時
   左大弁定長     三位中将家房   左京大夫季能   籐三位雅隆    前宮内卿季経
   六條三位経家    新宰相中将成経  頭中将実明朝臣  頭大蔵卿     宗頼朝臣 以下
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六條殿より出御し 掃部頭安部季弘朝臣が反閉 (邪気を払う歩行) 。陰陽頭の賀茂宗憲朝臣が新御所に向って再び反閉し、黄牛二頭に引かれて殷富門院 (後白河第一皇女の亮子内親王) も新しい御所に入御された。
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少納言頼房と勘解由次官清長が水火の役を務め、また女房二位局 高階栄子 が前駈四人と衛府四人を伴って参上した。入御の後、右大将が供した五菓 (李、杏、棗、桃、栗)を食された。
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献上役は修理大夫定輔と播磨守経中の朝臣。右大弁資実が殿上に登って盃に酌し、左大将以下が着座。
一献は定輔が盃を持参、二献は左大弁定長、三献は平中納言親宗である。
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翌朝、前掃部頭中原親能 (薄青織の襖に狩衣) 、大夫判官大江広元 (白襖に一斤染衣と平礼、帯劔せず) が御召しに従って御所に昇殿し中原親能が左中将親能朝臣を経て御劔 (錦の袋に入る) を下賜され、広元も同様に左少将忠行を経て下賜された。
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 広元が書状に書いているのは次の通り。
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鴾毛の御馬三疋は御遷居の後に引き渡しました。今夜御所に届けた物は鈊色装束 (裏代) 、御塗籠の帖絹五百疋、繕綿二千両、紺小袖千領、御倉の八木 (米) 千石、御厩の御馬二十疋。他に女房二品局に献上したのは白綾百疋、帖絹百疋、綿二千両、紺絹百疋です。
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西暦1191年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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建久二年
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12月26日 庚子
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吾妻鏡
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去る22日の子刻 (深夜0時前後) に常陸国鹿嶋社 (鹿島神宮、公式サイト) が大地震のように鳴動して人々の耳を驚かせた。これは兵乱、あるいは高貴な方が崩じる前兆であると、禰宜の中臣広親が報告している。
頼朝は謹慎し鹿島六郎に命じて 馬を奉納した。
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   ※前兆: 後白河法皇崩御 (翌年3月13日)の予告か。古名が鹿嶋で地名も鹿嶋、社名だけ鹿島である。
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西暦1191年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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建久二年
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12月29日 癸卯
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吾妻鏡
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吉田経房卿と女房二品局 (丹後局、高階栄子) からの書状が到着し、法住寺殿の修理が立派に完成した事についての礼が記してあった。「今年は京都での法住寺殿造営、関東での鶴岡八幡宮遷宮と幕府の新造があり、どちらも民に負担を掛けることなしに大きな功績を挙げたのは誰もが感動している事である」、と。
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閏月とは
 
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当時の陰暦では季節とのギャップ調節のために3~4年に一度閏 (うるう) 月が入る (ここでは7月の次が閏7月)。西暦と陰暦には一ヶ月前後のズレがある事にも留意が必要、例えば静女が八幡宮で舞った文治二年 4月 8日は西暦では 4月28日、また 2月は30日まである。陰暦→ 西暦の変換は こちらのサイト(外部)が利用できる。
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西暦1191年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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建久二年
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閏12月 2日 丙午
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吾妻鏡
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北條時政は脚気を患っており、保養のため今朝伊豆国北條に下向する。そこで年を越す予定である。
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   老獪なイメージが付き纏う時政だが当時はまだ働き盛りの 54歳、意外に若い。
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西暦1191年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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建久二年
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閏12月 5日 己酉
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吾妻鏡
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三位 高階泰経卿の書状が到着、「諸国の地頭に命じて東大寺の柱を切り出せ」との院の庁からの命令である。
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   ※東大寺再建の経過:
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平重衡軍による南都焼き討ちが治承四年 (1180) 、
  同年には重源和尚が大仏修理の勧進を開始、
大仏修理の開始が治承五年 (1182) 、
大仏開眼供養が文治元年 (1185) 、
大仏殿再建完了が建久元年 (1195、頼朝上洛) 、
大仏殿落慶供養が建久六年 (1190、頼朝上洛)、
東大寺落慶総供養が建仁三年 (1203) 。
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現在の建物は宝永五年 (1708) 再建で既に300年が経過、昭和49年 (1974) ~同55年 (1980) の大修理で軽量な屋根瓦に交換するなどの保存作業を済ませている。
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右は光明皇后崩御1250年大遠忌法要の大仏殿(クリック→ 別窓で拡大表示)
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西暦1191年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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建久二年
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閏12月 7日 辛亥
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吾妻鏡
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頼朝が 三浦介義澄に入御された。新築工事の完了に伴う招待を受けたためで、終日を遊興で過ごした。
平六兵衛尉義村、太郎景連 (佐原義連) の長男、佐貫四郎広綱大井兵衛次郎実春らが相撲の勝負を披露した。
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   ※三浦邸: 八幡宮や大倉御所の西御門 (発掘調査位置の地図) から
走って行かれる程度の至近距離にあったのは間違いないが、正確な位置は確認されていない。
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延応元年 (1239) の三浦合戦では筋替橋から攻め込んだ安達勢に火を掛けられ、数100m東の頼朝法華堂に逃れて (つまり寄せ手の横矢を受けるほど北寄りではない) 一族が自刃したと伝わっている。
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 右は西御門跡を中心にした鳥瞰図
     画像をクリック→ 別窓の拡大図へ。
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西暦1191年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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建久二年
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閏12月 9日 癸丑
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吾妻鏡
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東大寺の柱を 48本、来年中に挽き出して納めよとの命令を畿内と西海の地頭らに下した。佐々木四郎左衛門尉高綱の差配である。

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   ※佐々木高綱: 宇治川先陣争いで知られた武士。長門 (山口県北部) と備前 (岡山県南部) の守護に任じて
中国地方に多くの所領を持っていたため、材木の確保と運搬には適任だった。
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西暦1191年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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建久二年
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閏12月18日 壬戌
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吾妻鏡
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幕府で千巻観音経を読誦を行なった。鶴岡八幡宮と勝長寿院の供僧らの担当である。僧たちに酒を勧め、頼朝が自ら酌をした、と。
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   ※寺社の位置: 大倉御所を中心に、八幡宮と勝長寿院と永福寺が
概ね三方の等距離にあるのが面白い。
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鶴岡八幡宮は治承四年 (1180) の着工、勝長寿院 (大御堂または南御堂、1460年頃に廃絶) は元暦元年 (1184) の着工、永福寺 (1405年焼失) は文治五年 (1185) の着工である。
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右画像は頼朝が建立した三ヶ所の寺社の位置。
    画像をクリック→ 別窓で拡大表示
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西暦1191年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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建久二年
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閏12月25日 己巳
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吾妻鏡
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梶原刑部丞朝景から報告があり、去る16日の夜に左府禅閤 徳大寺実定が 53歳で没したとのこと、頼朝は深く嘆息した。関東とは深い縁があり、日頃から大切に思っていた人物である。
梶原一族も彼の恩を受けており、特に 梶原景時は頼朝の推挙によって美作国の目代に任じていた。
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   ※美作国の目代: 現在の岡山県真庭市にあった河内荘 (地図) の目代を差す。その領家が徳大寺実定。
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西暦1191年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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建久二年
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閏12月27日 辛未
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吾妻鏡
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後白河法皇が体調を崩し、腹の具合と飲食に支障がある旨の情報が届いた。頼朝は今日から潔斎に入り、回復を祈請するため法華経の読誦を始めた。.
西暦1191年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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建久二年
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