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和暦・月日・史料 |
吾妻鏡に記載してある内容の意訳、関連する情報、補足事項など |
西暦1192年 . .
82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 .
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建久三年 . 1月 1日 甲戌 . 吾妻鏡 |
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卯刻 (6時前後) に幕下 ( 頼朝) が鶴岡八幡宮に御参詣、八幡宮に於いて修正 ※ (七ヶ夜) を行なった。
参詣後に 椀飯 (Wiki) の儀あり。 .
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※修正 (会) : 正月に催す仏事。前年の罪過や穢れを懺悔の行で祓い新年の無事を祈る。 .
※年令: 元暦二年 (1184) 4月に平家が、文治五年 (1189) 8月に奥州藤原氏が滅亡している。 .
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西暦1192年 . .
82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 .
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建久三年 . 1月 3日 丙子 . 玉 葉 |
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寅刻 (16時前後) 、お召しにより仙堂御所 (後白河法皇の御所) に参内。法皇御入浴の間に女房二品 (丹後局) と面談、病状の質問に答えて「この数日 天候は良かったが体調は頗る不良である。 元日から下腹部の腫れが酷く、特に苦痛はないが起居や礼拝などは苦痛を伴うご様子だ。」とのこと。.
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西暦1192年 . .
82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 .
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建久三年 . 1月 5日 戊寅 . 吾妻鏡 |
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※御的始め: 上手と下手 (上記の左と右) に分かれる対抗戦の形式で行なっている。全て屈指の名手だが
勝敗は記録していない。弓始めの場合は儀礼として勝敗なし、か。 .
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西暦1192年 . .
82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 .
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建久三年 . 1月 8日 辛巳 . 吾妻鏡 |
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鶴岡八幡宮で行なっていた修正 ※が結願する日である。 頼朝が参詣した。
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※修正 (会) : 正月に催す仏事。前年の罪過や穢れを懺悔の行で祓い新年の無事を祈る。 .
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西暦1192年 . .
82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 .
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建久三年 . 1月 9日 壬午 . 吾妻鏡 |
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戌刻(20時前後)に若宮の修正 (一夜) を完了した。 .
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西暦1192年 . .
82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 .
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建久三年 . 1月11日 甲申 . 吾妻鏡 |
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若公 (満9歳の万寿、後の 頼家) が鶴岡八幡宮に参拝。従来は騎馬だが今日は女房の使う輿を利用している。
小山五郎 (長沼) 宗政が劔持ちを 務めた。 .
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※地図上で計測: 大倉御所の北面 (頼朝私邸) から六浦道に面した南門を出て八幡宮前の三の鳥居を潜り
石橋 (赤橋) を渡って石段上の本殿前に着くまでの距離は1100m。
御所西門から馬場道を通れば半分程度で済むのだが、そんな安直な選択はペケか。 .
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西暦1192年 . .
82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 .
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建久三年 . 1月19日 壬辰 . 吾妻鏡 |
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(東大寺再建を指揮する) 重源上人の使者が参上。周防国 (山口県東部) で東大寺の柱を切り出す作業中に大内介弘成 ※による少々の妨害行為あり。然るべき措置を願いたい、と。
協議の結果、関東の指揮下にある者ではないから早急に朝廷に奏聞せよ、と命じた。 .
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※大内弘成: 元々周防国在庁官人のトップとして大きな実力を持ち、平家追討の功績で朝廷から周防の
国内に所領を与えられていたらしい。制度上は頼朝の支配下にはない、という事か。 .
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西暦1192年 . .
82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 .
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建久三年 . 1月21日 甲午 . 吾妻鏡 |
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頼朝が工事中の御堂 (永福寺) の地に渡御した。犯土 ※のさなか、土石を運ぶ人夫の中に左眼が盲目の男がいて頼朝がこれを怪しんだ。彼を派遣したのは何処の国の誰かを確認せよとの命令で 梶原景時 が調べたが判明しない。御前に呼びつけたところで 佐貫四郎広綱 が頼朝の意図を察し、面縛 ※して調べると懐に一尺余の打刀 ※を隠しており、眼には魚鱗を貼り付けて盲目を装っていた。 .
危害を加える意図として厳しく詰問すると 上総五郎兵衛尉※と名乗り、頼朝暗殺を狙って数日間鎌倉を歩き回って襲撃の機会を窺っていたと白状した。 和田義盛に引き渡し、共謀した者がいれば拘束せよと命じた。 .
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※犯土: 土を掘り返す作業を差す。庚午から丙子までの 7日間 (大犯土、おおづち) は土公神 (陰陽道の
遊行神で時期を決めて移動を繰り返す) が地中にいるため 穴掘り、耕作、種まき、伐採などを避ける習慣があった。時代と共に時期による制限は廃れたが、土公神に許しを請う意味での地鎮祭は各地に定着している。 .
※面縛: 後ろ手に縛った紐の端を額に回して締め上げ、顔を伏せられない状態にすること。
武士にとっては最大の恥辱とされる。 .
※打刀: 本来は抜き打ちしやすい様に刃を上に向けて (江戸時代の帯刀方法) 腰に差す形を言うが、この
場合は即座に攻撃できるよう備える姿を表現しているのだろう。 .
※上総五郎: 平家譜代の忠臣だった 藤原忠清の二男。歌舞伎の景清物で知られた 悪七兵衛景清の兄。 .
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西暦1192年 . .
82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 .
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建久三年 . 1月25日 戊戌 . 吾妻鏡 |
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頼朝が走湯山※ (伊豆山権現) に参詣した。住僧の序列※については去る文治四年 (1188) に基準が定められているのだが、ややもすれば異越する例が起きる。今後は順序を守るよう改めて命令を下した。
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※走湯山: 現在でも70℃の熱湯を1日に公称7000トンも噴き出
す (湯量の真偽は不明だが確実に減っている) 山裾の源泉 「走り湯」 が語源。近くには足湯もあって海の眺めも素晴らしい。
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熱海へ行ったら時代遅れの貫一お宮の銅像や お宮の松など見物せず、是非とも伊豆山へ足を運ぼう。
交通の便は良くないが、その分は充分楽しめる。 .
右画像は「走り湯」の噴出口。もちろん垂れ流さず近隣の旅館にパイプで給湯している。
画像をクリック→ 別窓で拡大表示。.
伊豆山神社のもう少し詳しい紹介は 熱海 伊豆山神社の風景 (別窓) で。
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※僧の序列: 伊豆山権現の人事制度はもちろん私の知る範囲ではないが。
仏陀の教えは完全に年功序列である。知識や年齢の如何を問わず、先に出家した者が常に上位にある。能力の有無を基準にすれば必ず争いが起きる、教えを正しく伝えたいならば、能力だけを優先して組織を拡大する事ではなく地道に永続させる道を選べ 、と。 .
組織の拡大を優先すれば教義は正しく伝わらず、権力と癒着して堕落し腐敗する。仏陀 (釈迦) は2500年も昔に「狂気のカルト創価学会」の出現を予知していたのだろう。お釈迦様は偉いねぇ(笑)! .
まぁ能力主義も年功序列も弊害はあるから一概には言えない。共産主義は非現実的だが行き過ぎた自由主義経済も正常じゃない。自民党は腐っているし連立を組む公明党はメカケ同然、困った時代だ。
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西暦1192年 . .
82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 .
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建久三年 . 2月 4日 丁未 . 吾妻鏡 |
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大夫尉 大江広元 が使節として上洛。年末から 後白河法皇の体調が悪化して体の腫れなどの症状が伝えられ、頼朝は鎌倉で頻繁に祈祷を行なっていた。今回は広元を通じて秘蔵の剣 鳩作を 石清水八幡宮 (公式サイト) に奉納し、更に追加して神馬も奉納する。 .
広元は去年の法住寺殿落成の行事に出席し、検非違使別当として賀茂祭 ※の供奉などの任に就いていた。年末に鎌倉に帰参して再びの上洛は負担だが、法皇の病気は天下の大事なので 頼朝が直々に命じたものである。
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※賀茂祭: 賀茂別雷神社の公式サイト に載っている 「賀茂祭 (葵祭) の詳細」 を参照されたし。 .
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西暦1192年 . .
82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 .
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建久三年 . 2月 4日 丁未 . 玉 葉 |
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後白河法皇の病状を書状で女房二品 (丹後局) に質問した。返報に拠れば「この数日は毎夜のように苦しまれている。徐々に酷くなっている様子だ。」とのこと。
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西暦1192年 . .
82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 .
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建久三年 . 2月 5日 戊申 . 吾妻鏡 |
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故 左典厩 源義朝の乳母 (字は摩々局※) が相模国早河庄から参上し、持参の淳酒を御前に献じた。年齢は既に92歳、余命も少ないため拝謁して置きたいとの事である。 .
頼朝は彼女の功績に配慮し、望みがあれば聞き入れようとの言葉を掛けた。彼女は早河庄※にある知行地の国衙賦役免除を総領地頭に命じて欲しいと願い、頼朝は三町の土地を新たに与え 平盛時を呼んで (総地頭の) 土肥弥太郎 にその旨を命じるように指示を与えた。 .
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※摩々局: 治承五年 (1181) 閏2月7日に「頼朝誕生の時に最初の乳を含ませた女 (現在は摩々と名乗る尼
で、相模の早河荘に住む) を呼び出した。親愛の思いがあるため、屋敷や所領の農地などに間違いが起きないよう総地頭に申し付けた。」との記載がある。
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義朝の誕生は 1123年だから、当時の摩々局が23歳とすれば現在は92歳、計算は合う。
一方で頼朝の誕生は 1147年、同じ女性なら当時47歳で乳母は年齢的に少し厳しいか。
やはり摩々局と摩々尼は母娘で、早河庄に同居していたと考える方がノーマルだろうか。 .
※早河庄: JR東海道線の早川駅 (地図) 付近と考えがちだが実際の早河庄はかなり広大で、土肥実平が
本領としていた土肥郷 (現在の湯河原町、 地図) も早河庄に含まれていた。酒匂川の南側 (小田原市西部) が早河庄と考える説もあるが、これは広すぎるか。
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少し外れるが、羽多野氏の本拠が秦野市の田原 (地図)、酒匂川河口の南岸に出城を設けた事から小田原と呼ぶようになった、との話もある。本当かね、いつか調べてみよう。 .
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西暦1192年 . .
82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 .
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建久三年 . 2月 6日 己酉 . 吾妻鏡 |
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先月の三日に弥勒寺の金堂が焼亡し、本尊の薬師像並びに日光菩薩像、毘沙門天像が灰燼に帰した、と。 .
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※弥勒寺: 該当するのは奥州 (登米市) の 長徳山 歓喜院 弥勒寺かと思っていたら本年 8月9日の吾妻鏡に
「鶴岡八幡宮および 相模国の主な寺社に神馬を寄進し安産を祈る読経を行わせた」の記事と リスト10行目に「波多野の弥勒寺 (現在の 寄神社、松田町のサイト」の記載があった。 .
金堂と本尊などが全焼した半年後に「安産を祈る読経を行わせた」ことには疑問も残るが、該当するのは間違いない。ちなみに 8月9日の巳刻 (10時前後) に産まれるのは幼名を千幡、後の三代将軍 実朝である。 .
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西暦1192年 . .
82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 .
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建久三年 . 2月12日 乙卯 . 吾妻鏡 |
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鶴岡八幡宮で御神楽の奉納があり、幕下 ( 頼朝) も参席した。
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西暦1192年 . .
82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 .
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建久三年 . 2月13日 丙辰 . 吾妻鏡 |
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鶴岡の別当法眼 圓暁 (号は宮の法眼) が上洛の途に就いた。園城寺三院への入堂が目的である。頼朝は心の籠った餞別を贈り、長旅の護衛として雑色八人を同道させた。 .
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西暦1192年 . .
82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 .
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建久三年 . 2月14日 丁巳 . 吾妻鏡 |
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法印 権の大僧都 成清の書状が届いた。今月 2日に 石清水八幡宮 (公式サイト) の検校に補任され、法眼 道清も同じく権の別当に補任となった旨の報告である。 .
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※補任の報告: 頼朝の推挙に拠る、らしい。謝礼を兼ねた報告か。 .
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西暦1192年 . .
82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 .
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建久三年 . 2月15日 戊午 . 吾妻鏡 |
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鶴岡八幡宮での臨時の祭礼あり、内容は通常通り (2月15日は涅槃会、釈迦入滅の追悼謝恩の法要) .
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西暦1192年 . .
82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 .
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建久三年 . 2月22日 乙丑 . 吾妻鏡 |
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大江広元の使者が京都から到着。去る十三日夜に入り入洛した、法皇の病状は危急であり、直ちに御劔を石清水八幡宮に献納する手配を済ませた、と。 .
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西暦1192年 . .
82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 .
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建久三年 . 2月24日 乙丑 . 吾妻鏡 |
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武蔵の国六連 (金沢区六浦の古名) の海辺で 和田義盛の差配により 囚人上総五郎兵衛尉忠光を梟首した。既に日頃から飲食を断っており、尋問に対しては 「既に仲間はいないが、越中次郎兵衛尉盛継 (盛嗣) は去年の頃は丹波国に隠れていた。彼も報復の心を抱いていたが、詳しい在所は知らない。」と供述していた。
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※上総忠光: 1月21日に工事の人夫にまぎれて頼朝を狙っていた。平家譜代の忠臣だった 藤原忠清の
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西暦1192年 . .
82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 .
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建久三年 . 3月 2日 甲戌 . 吾妻鏡 |
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検非違使別当の 大江広元の書状が京都から到着し、この職の辞表を朝廷に提出した事を報告した。これは頼朝の意向に叶っていると思う、と。提出した辞表の写しは次の通り。 .
正五位下行左衛門大尉の中原朝臣広元が謹んで言上します。 .
朝廷の恩を蒙って任じた左衛門大尉と検非違使職の辞職申請であります。私は去年の 4月1日に明法博士と左衛門大尉に任命され、同時に検非違使の宣旨を頂きました。三つの官職には対応しきれず、同年 11月5日にまず李曹の儒職 (明法博士) を離れたとはいえ、まだ棘署の法官 (検非違使) の任にあります。立身を願って鎌倉に赴きましたが、一族の足跡は全て京都朝廷の下にあります。
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しかしながら廷尉 (検非違使) は朝廷の警護が本分であり、同時に民を管理し法を執行するのが本来の職務です。広元はその両方を処理できる能力を持たず、鎌倉と京都の両方に仕えるのは不可能と考えます。
分に値しない任官を頂いた事に感謝しつつ辞任し、今後は心の中で忠節を尽くしたいと考えております。 .
広元 誠惶誠恐謹言 建久三年二月二十一日 正五位下行左衛門大尉 中原広元 .
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※広元辞任: 朝廷の官職と京都守護は元々が利益の相反する組織の実務部隊だから官職辞任は当然の
結果だが、後白河院崩御が近付いたタイミングなのが少し気になる。 .
一條能保 が前年四月の延暦寺強訴の収拾に失敗し、京都守護に専任する形で検非違使別当を広元が引き継いだ。頼朝には二人の存在が京の情勢を把握できる絶好の体制だった。 .
三月に 後白河法皇が崩御して 後鳥羽天皇の時代に入ると間もなく、権力を掌握し続けていた 九条兼実 vs 土御門通親 + 丹後局 連合の政争が本格化し始める。 .
大姫の入内を夢見た頼朝は朝廷で発言力を持つ丹後局に接近し、長く盟友として協力し合った兼実を見捨てしまう。頼朝自身の京都回帰願望を指摘する説も多く、数年のサイクルで考えれば、明らかに頼朝の失策である。この辺の動きから 「頼朝の事故死は京都回帰の姿勢を危惧した御家人連合の計画殺害説」 が発生したのだろう。 .
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西暦1192年 . .
82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 .
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建久三年 . 3月 3日 乙亥 . 吾妻鏡 |
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鶴岡八幡宮で節句の法会があり通例通り舞楽の奉納があった。 頼朝が参詣し、若公 (10歳の万寿、後の 頼家) も同行した。
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※節句の法会: 3月3日は五節句の一つ、上巳 (じょうし) の節句。禊 (みそぎ) の行事と宮中の雛遊びが
融合して、汚れを人形に託して流す 「流し雛」 に変化していくのだが。
この時代はまだ、 「女の子の節句」 ではない。 .
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西暦1192年 . .
82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 .
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建久三年 . 3月 4日 丙子 . 吾妻鏡 |
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江次 ( 大江広元の二男) の久家が神楽の秘曲などを習得するため上洛する。頼朝が奉書を左近将監好節 (多好方 ※の息子) の許に送り、 平民部丞盛時がこれを差配した。奉書の内容は次の通り。 .
弓立星歌などを習得させるため江次久家を上洛させるとの仰せである。
件の歌の他にも神楽の口伝や故実など様々に指導して来年八月の放生会には鎌倉に参向し、その際には久家も伴って欲しい、それが鎌倉殿の意向である。
三月四日 盛時(奉) .
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※多好方: 宮廷直属の雅楽師で音楽家。前年11月14日~22日と12月19日に関連の記載あり。 .
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西暦1192年 . .
82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 .
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建久三年 .
3月13日 乙酉 . 玉 葉 |
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この日寅刻 (午前 4時前後) に 後白河法皇 が六條西洞の院の宮で崩御 (御年66歳) された。
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鳥羽院 (第74代鳥羽天皇) の第四皇子、御母は待賢門院、二條院 (第78代二条天皇) と高倉院 (第80代高倉天皇) の父、六條 (第79代六条天皇)と先帝 (第81代安徳天皇) と今上天皇 (第82代後鳥羽天皇) の三帝の祖である。
保元時代 (1156~1158年 ) から40余年天下を治められた。 .
善智識上人※は本成房湛敬。十念具足 臨終正念※、顔を西方に向け手は定印を結び、極楽往生を全く疑わなかった (後に聞いた話では西方を向かず、巽方 (東南) を向き微笑していた) 、と。 .
( )内は筆者の付記。詳細は「天皇家の系図」で。 (後に聞いた話...) のみ原文通り。 .
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※本成房湛敬: 大原来迎院の僧。吉記 (吉田経房の日記) は、文治元年 (1185) 5月1日の 建礼門院徳子の
出家の戒師を務めた、と書いている (平家物語は長楽寺の阿房上人印西、としている) 。 .
※善智識上人: 臨終に立ち会い極楽往生に導く指導僧。 .
※十念具足: 阿弥陀仏を十回念じて心に備える。仏名を称して八十億劫の生死の罪を取り払う。 .
※臨終正念: 臨終の際にも心を乱さず、阿弥陀仏にひたすらに念じて極楽往生を願うこと。 .
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西暦1192年 . .
82代 後鳥羽天皇 .
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建久三年 . 3月15日 丁亥 . 玉 葉 |
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今日、後白河院の御葬送である。重日 (忌み事を避けるべき日) ではあるが、 (三日後に行なえとの) 遺詔に従っての実施であり、待賢門院や建春門院などの例に準じている。
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廂御車 (二人を添える)、炬火六人、北面の下臈 (大夫尉公朝、定康、造酒正尚家、前大和守親国、検非違使章清、俊兼) 、焼香四人、同北面の下臈 (左衛門尉籐能兼、同 実重、平基保、皆左衛門尉) 、素服 (喪服の一種) の人と右大臣以下は御車の後に歩む。他の人は供奉せず、仁和寺の宮以下は一町ほど離れて従う。 .
前触れは狼藉を防ぐため裏道を進んでいる、これも御遺言である。御棺を御車に担ぎ入れる役人は中将親能、基範、少将教成、忠行、資明法師、範綱法師、能盛法師、業忠、範清らである。
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西暦1192年 . .
82代 後鳥羽天皇 .
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建久三年 . 3月16日 戊子 . 吾妻鏡 |
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未刻 (14時前後) に京都の飛脚が参着、去る13日寅刻 (朝4時前後) に 後白河法皇 が六條殿で崩御と報告。
多量の腹水が溜まった事が直接の死因らしい。大原の本成房上人を召して御善知識とし、高声に御念仏七十回を唱え御手に印を結んで臨終を迎え眠るように遷化された。御年は67歳、既に半百 (百歳の半分) を過ぎた。 .
御治世四十年は殆ど上古の記録を越えている。白河法皇※の他にこれ程の君主※は居なかった。頼朝にとっては心を砕くほどの悲しみで、心を通わせながらも君臣としての礼儀を重んじた関係であった。 .
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※白河法皇: 第72代天皇の在位は延久四年 (1073) ~応徳三年 (1087) の14年間だが ...73代堀河天皇、
74代鳥羽天皇、75代崇徳天皇の三代に亘って幼帝を擁立し43年間の院政を敷いた。
歴史上は 白河、鳥羽、後白河、後鳥羽の四上皇の治世を 「院政時代」 と呼ぶ。 .
※これ程の君主: 凡愚でも没後は偉人扱いするし「死者を鞭打たず」は日本の美徳だから 戦犯まで軍神
扱いする。極東裁判の妥当性を問う以前に、数百万の国民を死に追いやった責任を問わないのはどう考えても異様なのに。
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しかも帰国できず海外で落命した兵士の半分以上は国を守っての戦死ではなく、餓死または戦病死だ。そんな戦争を推進した連中まで靖国に祀ってどうするのさ。
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それは兎も角として 後白河、 後鳥羽、 後醍醐の三人を持ち上げる必要は全くない!
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西暦1192年 . .
82代 後鳥羽天皇 .
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建久三年 .
3月19日 辛卯 . 吾妻鏡 |
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後白河法皇の初七日を迎え、幕府でも法事を営んだ。御導師は義慶房阿闍梨 (若宮の供僧) 、従う僧は七人。
頼朝は四十九日毎に潔斎をして念仏を唱えようと決めた。 .
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西暦1192年 . .
82代 後鳥羽天皇 .
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建久三年 .
3月20日 壬辰 . 吾妻鏡 |
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山ノ内に※百日間の蒸し風呂を設け、往来する人々や農民が入浴するようにと道筋に札を立てて周知させた。
これは後白河法皇追善のためで、担当は 藤原俊兼が任じ、今日の費用は頼朝の負担である。差配は 平民部丞盛時と 堀籐次親家ら、百人で終了する中には雑色10人が含まれる。 .
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※山ノ内: 武蔵国に向かう当時の幹線道路は八幡宮の西側から
巨福呂坂へ、現在の洞門 (ロックシェッド、覆道) の
上を建長寺 (1253年開創) の近くに下っていた。 .
明治時代の末 (1215年前後) に「横須賀水道」管路がこの峠を通り、この時点で道路が現在の位置まで掘り下げられたらしい。 .
大正12年 (1923) の関東大震災で壁面が崩落、復旧後の昭和31年 (1956)に拡幅され 平成五年 (1993) になって現在の形に完成した。 .
そこから大船の 常楽寺 (1237年開創) の付近までが当時の山ノ内、横須賀線の踏切から北鎌倉駅付近までが山ノ内の中心部になる。 .
右は北鎌倉側から見た洞門。明治時代の開削までの峠道は洞門の上を通っていた。
洞門の右側に水道の管路跡が保存されている。 画像をクリック→ 別窓で拡大表示。 .
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西暦1192年 . .
82代 後鳥羽天皇 .
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建久三年 .
3月23日 乙未 . 吾妻鏡 |
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頼朝が岩殿観音堂 ※に参拝。 三浦介義澄と 左衛門尉 佐原義連が従い、大多和三郎義久 ※が椀飯を献じた。
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※岩殿観音堂:大倉御所から約 4km南東 (地図) の 海雲山岩殿寺。開山は 行基と伝わり、吾妻鏡の文治
三年 (1187) 2月23日に 大姫が参詣したとの記載がある。すぐ近くに大切岸と日蓮法難で知られた 猿畠山法性寺 (別窓) があるが、その開創は 70年も先の話になる。 .
※大多和義久: 三浦義明の三男で義澄の次弟。三浦郡大多和 (横須賀市太田和、地図 ) を本領とし、鐙摺
(現在の葉山、 地図) にも拠点を持っていた。曽我物語では、捕虜となった 伊東祐親は 「鐙摺山 (現在の旗立山) で恨めしそうに伊東の方向を眺めつつ首を斬られた」と書いている。祐親自刃の件は養和二年 (1182) 2月14日の吾妻鏡で。
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また義久から五代後の六左衛門尉義行は 新田義貞に味方して 分倍河原合戦場に駆け付け鎌倉幕府滅亡の契機となる 関戸河原合戦 の勝利に大きく貢献することになる。 .
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西暦1192年 . .
82代 後鳥羽天皇 .
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建久三年 .
3月26日 戊戌 . 吾妻鏡 |
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第二七日 (ふたなぬか、没後14日) の法事が八幡宮で行われた。導師は八幡宮供僧の安楽房である。 .
後白河院崩御についての詳細が今日、鎌倉に報じられた。
崩御と共に女房の三位局 高階栄子が落飾、導師は本成房が務めた。
若狭守範綱と主税頭光遠が崩御の後に出家した。 .
今後については民部卿 吉田経房と検非違使別当の右中弁棟範朝臣と検非違使の右少弁資実が差配を行なう。崩御当日の亥刻 (10時前後) に澄憲僧正と静賢法印が読経する中での御入棺となった。 .
中将基範 (成範卿の息子) 、中将親能、少将教成 (二品局の連れ子) 、少将忠行、右馬頭資時入道 (故 資賢大納言の息子) 、大膳大夫業忠、範綱入道 (若州) 、能成入道 (周防守) らが入棺を補助し 同15日に法住寺法華堂に葬り奉った。 .
陰陽の重なる日だがこれは遺令に従ったもので、没後の措置は御存命の内に決めておられた。 .
右画像は院の御所法住寺殿に隣接する後白河天皇陵(法華堂跡) クリック→ 別窓で拡大表示 .
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西暦1192年 . .
82代 後鳥羽天皇 .
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建久三年 .
4月 2日 癸卯 . 吾妻鏡 |
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申刻 (16時前後) に 御台所政子が御着帯。御加持 ※は安楽房阿闍梨で御験者 ※ は題学房が任じた。
武蔵守 大内義信が腹帯を持参し頼朝がこれを結んだ。今日以後は毎日安産の祈祷を行なうよう、鶴岡八幡宮の供僧に命じた。 .
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※着帯: 妊婦が妊娠五ヶ月目の戌の日に白布を腹に巻く習慣。今は儀式としては廃れているだろうね。
この日は癸夘 (みずのとう、うさぎ) だから、戌 (いぬ) の日に巻くのは後世の習慣だろう。
政子が妊娠したのは後の 実朝で、予定日は八月初旬である。 .
※加持: 験者は霊験を現すため山岳修行などを重ねて霊力を会得した者、修験者と同じ意味か。
加持は元々は密教の修法だが、民間信仰と一体化して病気や災難の除去など現世の利益を願う祈祷に変質した。 .
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西暦1192年 . .
82代 後鳥羽天皇 .
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建久三年 .
4月 4日 乙巳 . 吾妻鏡 |
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後白河院の三七・二十一日の法要を行なった。導師は恵眼房阿闍梨、今日から頼朝は毎日一巻の法華経を読誦する事を心に決めた。これは毎日の習慣とは別の読経である。
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西暦1192年 . .
82代 後鳥羽天皇 .
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建久三年 .
4月 5日 丙午 . 吾妻鏡 |
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千手経 ※三千巻を今月中に転読せよとの命令を相模の寺々に命令した。 .
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※千手経: 千手観音とその陀羅尼 (繰り返し唱える呪文) について説いた経の略称。
正式には千手千眼観世音菩薩広大円満無礙大悲心陀羅尼経。 .
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西暦1192年 . .
82代 後鳥羽天皇 .
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建久三年 .
4月11日 壬子 . 吾妻鏡 |
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常陸入道 (伊達朝宗 ※) の妹が産んだ頼朝の子の乳母を務めるよう 野三刑丞成綱と 法橋昌寛と 大和守 山田重弘らに命じたが全員が固辞したため長門江太景国に申し付けた。 .
来月には若君 (後の貞暁) を伴って密かに上洛せよとの命令である。辞退者が多いのは御台所の嫉妬心が激しいため、彼女の機嫌を損ねるのを恐れての結果である。
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この景国は鎮守府将軍藤原利仁から四代目に当る修理少進景通 (伊予守 源頼義が 安倍貞任らと戦った際の武者七騎 ※の筆頭) の曾孫で、父の景遠は大学頭大江通国の猶子として藤原から大江に姓を改めた人物である。 .
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※常陸入道: 法名 念西、伊達氏の祖と考えられている。大治四年 (1129) 誕生の満 63歳、妹が 20歳下だ
としても、頼朝の子 (後の 貞暁) を産んだ時には37歳になる。他の資料の記載は全て「常陸入道の娘」としているから「妹」は吾妻鏡の記載ミスだろう。 .
※武者七騎: 陸奥話記に拠れば、天喜五年 (1057) 11月の 黄海の合戦で 安倍貞任に迎撃された
源頼義と
八幡太郎義家親子の軍勢は散々に敗れ、七騎だけが辛うじて戦場を離脱した。 .
義家に弓馬を教えた藤原景通は脱出の際に殿 (しんがり) を務めて敵軍を食い止めた末に討ち死にした、と伝わる。 加藤景廉の先祖でもあるが、大江氏の猶子 (通常は相続権を持たない養子) となった景遠は加藤氏 (加賀の藤原) の系図には載っていない。
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西暦1192年 . .
82代 後鳥羽天皇 .
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建久三年 .
4月28日 己巳 . 吾妻鏡 |
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後白河法皇三十五日の法要を営んだ。導師は恵眼房阿闍梨、布施は綾の被物二重と鞍を置く御馬一疋である。また次の四十九日法要は僧百人の供養を予定しており、鎌倉に加えて武蔵、相模、伊豆の主な寺社の供僧らは招請に従うよう、二階堂行政と 中原仲業を介して書状を送った。京都でも追善供養法要が催される。 .
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西暦1192年 . .
82代 後鳥羽天皇 .
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建久三年 .
4月29日 庚午 . 吾妻鏡 |
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巨大な流星が飛ぶ様子が目撃された。陰陽師の占いでは吉凶は判断し難い、との事である。 .
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西暦1192年 . .
82代 後鳥羽天皇 .
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建久三年 .
4月30日 辛未 . 吾妻鏡 |
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丑刻 (深夜2時前後) に若宮職掌の紀籐大夫宅が焼け落ちたが延焼はしなかった。
人々が集まったところで家主は「放火でも失火でもない、天の火 ※による結果である」と語った。
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※職掌: 雑務を担当する下級職員と、神楽を演じる職員の二通りの意味らしい。ここでは後者か。
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※天の火: 前年 3月の大火で御所や八幡宮が全焼、やっと再建した直後だからね。処罰を恐れて虚偽を
語った可能性を考えるのが普通だが...翌日の記事にその答えがある。 .
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西暦1192年 . .
82代 後鳥羽天皇 .
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建久三年 .
5月 1日 壬申 . 吾妻鏡 |
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鶴岡宮で備供祭 (神仏に供物を供える祭) が行われ、巫女や職掌らが集まった。その席で紀籐大夫が突然狂乱して語り出した。その内容は次の通り。
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小壺 (小坪、地図) の町外れに住む女 楠前を日頃から口説いていた。彼女は 「神鏡を鋳造して家に祀っており、近いうちに八幡宮に納めようと思う」 と言って応じないため、29日の夜に彼女の家に放火する気で訪れたが、できなかった。昨夜再び松明を持ち出掛けるつもりが間違って自宅に火を付けてしまった。 .
直ちに義慶房と題学房が加持 (お祓い) を行なった。 .
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※ 馬鹿だねぇ...とは言うものの、恋の狂気は 800年以上が過ぎた今も変わらず、か。 .
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西暦1192年 . .
82代 後鳥羽天皇 .
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建久三年 .
5月 8日 己卯 . 吾妻鏡 |
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後白河法皇の四十九日法要が南御堂 (勝長寿院) で行われ、僧百人が早朝から集合した。布施はそれぞれ白布三反と米一袋、 二階堂行政と前右京進 中原仲業の差配である。集まった僧の詳細は次の通り。 .
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※注釈1: 寺社はサイト内リンク先と公式サイトと Wiki などが混在するため全て別窓表示とした。
また神仏習合時代の状態に従って神社と寺は区分していない。例えば六社神社の場合ならば
併設の宮寺、と判断されたし。人数によって寺社の規模が概ね想像できる。 .
※注釈2: 僧の数は、原文では「口」、様々の意味を持つが単純に人数表記とした (総数 104人) 。 .
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西暦1192年 . .
82代 後鳥羽天皇 .
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建久三年 .
5月12日 癸未 . 吾妻鏡 |
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頼朝は神馬二疋を鶴岡八幡宮の上宮と下宮に奉納した。これは紀籐大夫の所業を知って神威の素晴らしさを改めて認識し、更に信仰心を深めた結果である。
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※神威: 5月1日に女の家の放火を企んだ紀籐大夫が自宅を焼いたのが神威か? 馬鹿の自業自得だろ。 .
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西暦1192年 . .
82代 後鳥羽天皇 .
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建久三年 .
5月19日 庚寅 . 吾妻鏡 |
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若公 (後の 貞暁 幼名不明、満6歳) が 仁和寺 (公式サイト) 隆暁法眼の弟子として坊に入るため京に向かった。
長門江太景国 (4月11日に関連記事あり) 、江内能範、土屋弥三郎 ( 宗遠の嫡男) 、大野籐八、由井七郎らが供として従い、雑色の国守と御厩舎人の宗重らが副えられ、由比にある常陸平四郎宅から出発し、 昨夜は頼朝 ※が密かに渡御して剣を与えた。
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※恐妻家頼朝: 普通の男なら「なんでこんな女に手を出したんだろう」と後悔するのに 結局は似た者夫婦
なのだろうか。晩年に伊賀氏謀反を捏造して一族を排除粛清するなど、政子が一度決めたら普通の理屈が通用しない。
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ふと野村克也と沙知代夫人が巻き起こした騒ぎを思い出したが、考えれば安倍晋三と昭恵夫妻も似てるね。倫理意識が欠如した馬鹿が権力を握ったら始末に負えない。
野村氏は野では優秀だったからマシだけど、トランプなんか救い様のない馬鹿だ。 .
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西暦1192年 . .
82代 後鳥羽天皇 .
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建久三年 .
5月26日 丁酉 . 吾妻鏡 |
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多賀二郎重行 ※が所領没収の処分を受けた。 .
江間殿 ( 北條義時) の息子金剛殿 (後に三代執権を継ぐ 泰時、満九歳) が徒歩で遊んでいる前を重行が乗馬したまま通り過ぎた。それが頼朝の耳に入り、頼朝は直接重行に向って 「礼儀とは長幼ではなく身分に依拠する。金剛はお前らと同様に扱う立場※ではない、世間がどう見るかを考えないのか。」と言い聞かせた。
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重行は畏怖しつつ 「そうではありません、若公と従者に経緯を御確認ください。」と弁解、金剛に確認すると 「そのような (無礼な) 事はありません」と答え、更に同道した奈古谷橘次も 「重行は確かに下馬しました。」と報告した。 .
頼朝は怒りを募らせ、 「事後の糺明も恐れず嘘を吐いて罪を逃れようとする気持ちも行為も実に不届きなり」と何回も繰り返し 「それに比べて若公は幼いのに重行を庇う配慮を見せているのは賞賛できる」と以前から所持していた剣を与えた。後の承久の乱 (1221) の 宇治川合戦で (大将軍に任じた) 泰時が帯びたのがこの剣である。 .
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※多賀氏: 近江国の多賀と甲良一帯 (地図) を本領とした。系図では所領を執権北條氏に寄進し、後世の
関ヶ原合戦で石田三成に味方して敗れるまでこの地方で勢力を保った事になっている。
頼朝による所領没収に関しては史料の確認が取れない。 .
※金剛丸: 建久五年 (1194) 2月2日に御所で元服し、頼朝が加冠して頼時と命名 (頼朝没後に泰時と改名)
した。そして 三浦義澄 を呼び 「この若者を婿にせよ」 と述べた。義澄は 「孫の中から良い娘を選んで仰せの通りに」と答えた、と吾妻鏡は記録している。泰時の生母は義時の側室で御所の女房だった阿波局、これらの経緯から泰時=頼朝の落胤説が生まれるのだが... .
※立場の違い: 頼朝没後の権力掌握は戦国時代なら珍しい事例ではないのだが、北條一族は所詮は陪臣
で貴種性はない。後に四代執権 北條経時が娘の檜皮姫を五代将軍 藤原頼嗣と婚姻させるのも、源氏将軍の断絶で失なった貴種性を北條一族に切換えたい意図があった。 .
しかし北條一族は最後まで陪臣の身分から抜け出せず、利害関係で支配していた御家人が団結して倒幕に動いた時には一族と御内人 (北條氏の陪臣) だけで戦う結果になる。
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西暦1192年 . .
82代 後鳥羽天皇 .
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建久三年 .
6月 3日 癸卯 . 吾妻鏡 |
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恩賞の付与があった。ある者は新恩を、ある者は以前の下文を書き改めての給付を受けた。 .
この日、文武の御家人 ※双方への恩賞があり、前右京進 中原仲業は右筆として勤めてきたが未だ恩賞を得ておらず、この新恩で正式に御家人の身分を得た。また藤田小三郎能国は弓馬の術を継承しているため、父が勲功で得た領地を引き継ぎ、御家人として子孫に伝えよ、との言葉を得た。 .
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※御家人の身分: 鎌倉殿から受ける恩恵は基本的に本宅安堵 (本領の所有権保証) と新領給付の二つ。
新領給付は謀反や戦乱で没収した土地の管理権を地頭に補任 (新補地頭 ) して与えるなど、給付の恩恵である。恩恵の見返りとして、軍役 (従軍、京都や鎌倉の大番役、その他警護役 ) と公事(賦課された米などの納付)の義務を負う。 .
膨大な所領を持つ御家人も零細な御家人も身分は同格で、主従になるなどの支配関係は禁じていた。従って頼朝の「金剛は別格、云々」発言は明白な二重基準である。
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その他 所領を持たない家臣 (準々御家人か) として 「恪勤 (かくご) 」 の立場がある。本来は御所の雑務に従事する者が一定量の米を給付され住み込みで働くケースで、今回の中原仲業もこれに該当するし、寿永元年 (1182) 6月5日に載っている熊谷直実の様な貧しい御家人の例もある。 .
熊谷直実は領地を持たず御所に住み込みで忠勤を励んでいた。治承四年 (1180) に 佐竹秀義を追討した際には特に勲功があり、その武勇により 久下直光が押領していた (実際は正当な久下領だった) 武蔵国の旧領などの領有を認めた。生国に戻っていた直実は今日参上し、その下文を受け取った。 .
武蔵国大里郡の熊谷次郎平直実の所領について、先祖伝来のものなので久下直光の横領を停止し直実を地頭とする。常陸の合戦に功績を挙げ、云々...と。
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まぁ彼の場合は背景が様々にあったのだけれど(同日の記載を参照されたし)。 .
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西暦1192年 . .
82代 後鳥羽天皇 .
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建久三年 .
6月13日 癸丑 . 吾妻鏡 |
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頼朝が建造中の御堂 (永福寺) の地に渡御した。畠山次郎重忠、佐貫四郎広綱、城四郎助茂、工藤小次郎行光、下河辺四郎政義らが梁材や棟材を運んだ。その力は力士数十人に匹敵し頼朝を含めて見ていた者を驚かせた。江間殿 (北條義時) が自ら工事の差配に当っている。 .
作業する者の中に夏毛の行騰 (乗馬用袴カバー) に土を入れて運ぶ男を見た頼朝が素性を尋ねると、梶原景時 の囚人 皆河権六太郎と答えた。木曽義仲に従い、その後は囚人として景時が預かっていた武士である。彼の働き振りに感心した頼朝は直ちに罪を許し、赦免を与えた。 .
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西暦1192年 . .
82代 後鳥羽天皇 .
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建久三年 .
6月18日 戊午 . 吾妻鏡 |
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鶴岡八幡宮別当の 園暁法眼が京都から帰着し、直ぐに頼朝に謁見して 後白河法皇 崩御後の詳細を報告した。 .
去る4月2日に主上 ( 後鳥羽天皇) が3月15日に籠った倚廬 (服喪中の天皇の仮屋) から御所に還御し正式に政務を開始した。20日の賀茂祭は 諒闇 (天皇の服喪) のため中止となった。 .
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西暦1192年 . .
82代 後鳥羽天皇 .
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建久三年 .
6月21日 庚申 . 吾妻鏡 |
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美濃国の御家人らは守護である相模守 大内惟義の命令に従うようにとの命令が下った。これは洛中に出没する群盗等を鎮圧するための措置である。詳細は次の通り。 .
前右大将家の政所から、美濃国御家人らに下す。 直ちに相模守惟義の徴兵に対応せよ。
当国内の荘園の地頭のうち 鎌倉の御家人に任じている者は直ちに惟義の求めに応じて勤務せよ。 .
洛中で盗賊が犯行を重ねており、彼らを討伐するために上洛して大番役の指揮下に加わるように。御家人ではないと考える者は仔細の事情を申し出ること。ただし、公領に所属する者は動員令には含まない。
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佐渡前司山田 (葦敷、源) 重隆も同様に郎従を伴い参加せよ。忌避する者があれば姓名を報告せよ。
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建久三年六月二十日 案主 籐井
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西暦1192年 . .
82代 後鳥羽天皇 .
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建久三年 .
6月28日 戊辰 . 吾妻鏡 |
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由井七郎が京都から参着して報告。去る16日に若公 ( 貞暁) が 一條能保卿に伴われて弥勒寺の法印 隆暁 の 仁和寺 (公式サイト) の坊に渡御された。彼の坊で鎌倉からの贈与の品を 参河律師隆辺に手渡した、と。 .
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※若公との別離: 一行は5月19日に鎌倉を発った。前夜には頼朝が我が子に剣を与えている。 .
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西暦1192年 . .
82代 後鳥羽天皇 .
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建久三年 .
7月 3日 癸酉 . 吾妻鏡 |
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西暦1192年 . .
82代 後鳥羽天皇 .
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建久三年 .
7月 4日 甲戌 . 吾妻鏡 |
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御台所政子の出産に用意する品々を揃えて産所 ※に届けた。 三浦介義澄と 千葉介常胤が それぞれ 義村と 常秀に命じて差配に当たらせた。また鳴弦 ※を担当する役を定め、 梶原景季 がこれを差配した。 .
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※産所: 北條時政の名越邸と決めてあった。正確な位置は不明
だが現在の材木座四丁目と推定される。 千葉常胤の屋敷があった事から弁ヶ谷 (千葉介の「介」の唐名 「別駕」 の転訛か) と呼ばれた一角である。
右は材木座一帯の鳥瞰図。クリック→ 別窓で拡大.
ちなみに長男頼家の産所は比企ヶ谷の 比企能員邸。
乳付けの乳母は 比企尼の次女 ( 河越重頼 室) だった。
皆さんは実家でのお産が一番落ち着くようで。 .
※鳴弦: 邪気を払う呪文として弓の弦を鳴らすこと。当初は帝の行事で、後に鎌倉でも取り入れた。 .
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西暦1192年 . .
82代 後鳥羽天皇 .
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建久三年 .
7月 8日 戊寅 . 吾妻鏡 |
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御台所の体調不良は既に回復した。医師の三條左近将監は懐妊の影響だろうと言っている。 .
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西暦1192年 . .
82代 後鳥羽天皇 .
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建久三年 .
7月18日 戊子 . 吾妻鏡 |
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御台所が名越の御館 (浜御所と呼ぶ) に渡御した。御産所 ※に決められていたためである。 .
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※再び、産所: 名越邸は本文に記載した通り、長い間大町六丁目の釈迦堂口切通しの近く (地図) と説明
されていた。鎌倉の地理を知った人物が吾妻鏡を普通に読めば疑問を持たない方がむしろ不思議で、そもそも急峻な崖の上が北條執権邸だなんて、不合理極まる。 .
平成20年 (2008) の発掘調査後に、地図上の表示もやっと 「大町釈迦堂口遺跡」 に改定となったが、これは明らかに遅すぎた。何を考えていたんだろうね。 .
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西暦1192年 . .
82代 後鳥羽天皇 .
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建久三年 .
7月20日 庚寅 . 吾妻鏡 |
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大理 (検非違使別当の唐名) の 一条能保からの飛脚が到着。去る12日に頼朝が征夷大将軍 ※に任じられた。
その除書 (辞令) は勅使によって届けて頂けるように申し入れた。 .
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※征夷大将軍: 一般的な日本史はこの着任を以て鎌倉幕府が成立した、と書いている。「いい国作ろう
鎌倉幕府」 ね。個人的には奥州藤原氏を滅ぼして支配権を確立した時点=建国だと思うが 「実効支配」 を国家の樹立と考えると (学術的&政治的に) 支障が起きるのかも。 征夷大将軍の詳細は Wiki が懇切丁寧に説明してくれている。 .
鎌倉時代に直接関係する部分としては、新田源氏の祖先 新田義重の四男 世良田義季の子孫が新田荘南部の得川郷 (現在の徳川町、 地図) を領有した。そして後に天下統一を果たした 徳川家康が新田源氏の系図を捏造して 「私は源氏の子孫だから征夷大将軍の地位に相応しい」 と言い出した事ぐらいか。系図の捏造に異論すら提示せず 「得川」 だった地名を 「徳川」 に変えて喜んでる地元の歴史家って...恥ずかしいよね。
「群馬県は ドリル優子の地元だから言ってもムダ」との声もあるらしいけど (笑) 。 .
閑話休題。とりあえず 長楽寺と家康所縁の東照宮 (別窓) も参考までに。
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西暦1192年 . .
82代 後鳥羽天皇 .
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建久三年 .
7月23日 癸巳 . 吾妻鏡 |
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御台所の立願として鶴岡八幡宮の供僧25人にそれぞれ龍蹄 ※を一疋と絹布二反と越布 ※一反を布施した。
差配は民部丞 平盛時である。 .
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※再び馬の話: 龍蹄は背の高さ4尺 (121cm) 以上の馬。4尺を超えると1寸、2寸と数える。当時も5尺
(約152cm) 程の大型馬もいたらしいか一般的には4尺前後、4尺を超えると1寸、2寸と数える。現在の乗馬クラブなどの馬は150~170cmで、147cm以下はポニー種の範囲。
現在は子供用や愛玩用たからイメージが崩れる。ポニーに跨った甲冑武者、か (笑) 。 .
吾妻鏡には阿津賀志山合戦から落ち延びた 藤原国衡 が跨っていた名馬「高盾黒」は九寸だから約150cm、5尺に近い(文治五年 (1189) 8月10日の条)。 .
ただし当時の馬は大鎧で重武装した武者を載せても良く走り、耐久性にも優れていた。
平家物語は 「宇治川の先陣争いで 佐々木高綱が跨った生月は4尺8寸 (約145cm) 、極めて太く逞しい」と書いている。当時の奥州の馬は一般的な四川馬よりも大柄で、特に良い馬なら数百束もの稲(現代に換算して100万円以上)の値が付いた、と言う。
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何としても奥州を手に入れたかった頼義や義家や頼朝の気持ちが判るなぁ...。 .
※越布: 上質の麻糸で織った軽く薄い夏用の織物。越後上布 (Wiki) の他に薩摩上布(宮古島や八重山の
産物を薩摩藩が税とした)などが知られる。上布は夏の季語でもある。 .
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西暦1192年 . .
82代 後鳥羽天皇 .
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建久三年 .
7月24日 甲午 . 吾妻鏡 |
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頼朝が時政の名越邸に渡御し 三浦介義澄が接待の席を手配した。
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※頼朝渡御: 政子の出産は8月9日午前10時頃だから半月前の見舞いだ。貞暁の件などあって多少は気を
使ったのかも知れない。私は...二番目の子だったかな、麻雀屋で義母から電話で出産を知らされ、以後10年ほど嫌味を言われ続けた。これは今でも深く深く反省している。
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後悔しても取り返せない事って数え切れない程ある。辛いけれど、それも人生の一部だ。 .
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西暦1192年 . .
82代 後鳥羽天皇 .
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建久三年 .
7月26日 丙申 . 吾妻鏡 |
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勅使の肥後介中原景良と康定 (検非違使) が鎌倉に参着し征夷大将軍の除書 (辞令の写し) を持参した。
両人はそれぞれ衣冠の姿で通例に従って鶴岡八幡宮の南庭に並び、使者を介して除書を渡す旨を申し述べた。 .
これに応じて 三浦介義澄が遣わされた。義澄は左衛門尉比企能員と 和田三郎宗実 (和田義盛の弟) および甲冑を着けた郎従十人を率いて八幡宮寺に出向き、除書を受け取った。景良らは最初に姓名を問い、まだ介に任じられていない義澄は三浦次郎と名乗っただけで御所に戻った。
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衣冠束帯姿で待ち兼ねた頼朝は西の廊下で待機し、義澄は除書を捧げ膝立ちに進んでこれを献じた。亡父の 三浦義明は頼朝のために命を捧げ、その勲功は子孫が受け継いだことになる。除書の内容は次の通り。 .
左少史 三善仲康 内舎人 橘実俊 中宮権少進 平知家 宮内少丞 藤原定頼 大膳進 源兼光
大和守 大中臣宣長 河内守 小槻広房(左大史を辞す) 尾張守 藤原忠明(元伯耆守)
遠江守 藤原朝房(元陸奥) 近江守 平棟範 陸奥守 源師信 伯耆守 藤原宗信(元遠江)
加賀守 源雅家 若狭守 藤原保家(元安房) 石見守 藤原経成 長門守 藤原信定
対馬守 源高行 左近将監 源俊実 左衛門少志 惟宗景弘 右馬允 宮道式俊 .
建久三年七月十二日 征夷使大将軍 源頼朝 従五位下 源信友 .
左衛門督 源通親が御意を承り、参議の兼忠卿が書面にした。将軍任命に関しては以前から御意にあったが今になった。後白河法皇が崩御して最初の会議で特に任命の沙汰があり、勅使の派遣となった。
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その後に 八田知家 が手配して武蔵守 大内義信邸に勅使を招き、接待の宴を設けた。 .
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※人物名: 左少史 三善仲康から右馬允 宮道式俊まで20人が何を意味するのか判らなかったが、頼朝と
同じタイミングで叙任や遷任となった官人らしい。いずれも特に著名な人物ではない。 .
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西暦1192年 . .
82代 後鳥羽天皇 .
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建久三年 .
7月27日 丁酉 . 吾妻鏡 |
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将軍家 頼朝は勅使二人を幕府に招き、寝殿の南面 (公式の場) で対面して献盃があった。加賀守 (源) 俊澄、大和守 山田重弘、 小山七郎朝光らが接待の役目に任じ、前少将 平時家、参河守 範頼、相模守 大内惟義、伊豆守 山名義範らがその場に列した。 .
退出の際にはそれぞれに鞍を置いた馬 (葦毛と鹿毛) が贈られ、左衛門尉 工藤祐経と 八田朝重 (知重) らがこれを曳いた。二人の勅使は庭に降りて馬を請け取り、一礼して退出した。
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西暦1192年 . .
82代 後鳥羽天皇 .
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建久三年 .
7月28日 戊戌 . 吾妻鏡 |
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西暦1192年 . .
82代 後鳥羽天皇 .
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建久三年 .
7月29日 己亥 . 吾妻鏡 |
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勅使の景良と康定が帰洛の途に就いた。まず将軍家から餞別として、馬十三疋と絹糸百十疋 (一疋は二反) 、越布千反 (7月23日を参照) 、紺藍染の布百反 が贈られた。贈呈の使者は 結城朝光 である。 .
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西暦1192年 . .
82代 後鳥羽天皇 .
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建久三年 .
8月 5日 乙巳 . 吾妻鏡 |
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頼朝は征夷大将軍に任じてから最初の政所業務に臨席した。 .
参席の者 別当 前因幡守 中原朝臣 (大江) 広元 前下総守 源朝臣邦業
令 民部少丞 藤原朝臣 (二階堂) 行政
案主 藤井俊長
知家事 中原光家.
大夫属入道 善信 (三善康信) 、筑後権守 藤原俊兼、民部丞 平盛時、籐判官代 藤原邦通、
前隼人 佐康時 ( 三善康清) 、前豊前介 実俊 ※、前右京進 中原仲業 らも列席した。
まず 千葉介常胤が (頼朝の) 下文を受け取った。
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大将に任じる前の下文には 花押 (Wiki) が載っていたが、政所の設置以後は従来の下文を回収し新たに政所の下文に変更している。常胤はこれを不満に思い、 .
政所下文にあるのは家司 (職員) の署名であり、後世に伝える栄誉たり得ません。私の分には別に花押を添えて頂ければ子孫の範に致します。と申し出たため、その望みを容れた。
(下文の)内容は次の通り。 .
下総国の住人常胤に下す。 .
相伝の所領および新たに給された各地の地頭職を早急に掌握せよ。去る治承の時代から平家が朝廷をないがしろにする甚だしい専横があった。
この賊徒を追討するため熟慮を巡らした際に、朝威を重んじる常胤が真っ先に味方に加わった。合戦での功績も忠節を尽くした功績も傍輩に勝る実績を挙げたため、相伝の所領と軍功で得た各地の地頭職について政所の下文を発する。 .
子孫に至るまで相違ないことは本状の通りである。 建久三年八月五日 .
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※前豊前介実俊: 奥州合戦終結後の文治五年 (1189) 9月14日に記載のある清原姓の兄弟の兄。
奥州藤原氏時代の旧官僚で陸奥国と出羽国の絵図および諸郡の所有権に詳しく、実務にも長けているため頼朝が幕吏として再採用した。
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右上は 三嶋大社に保存されている頼朝の花押二枚 (自筆) クリック→ 別窓で拡大表示.
社伝に拠れば、この花押が載っている文書は「挙兵が成功したら三薗郷 (三嶋大社から7km西の沼津駅南側) と 川原谷郷 (同、1km東の大場川東岸) を寄進する」との内容。
日付の治承四年 (1180) 8月19日は挙兵して 山木判官 平兼隆を討ち取った翌日、伊豆韮山から土肥を目指して出陣した前日に当る。 .
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西暦1192年 . .
82代 後鳥羽天皇 .
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建久三年 .
8月 9日 己酉 . 吾妻鏡 |
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※鳴弦: 邪気を払う呪文として弓の弦を鳴らすこと。当初は朝廷の行事で、後に鎌倉でも取り入れた。
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※下妻弘幹: 平国香─貞盛─維幹─為幹─繁幹─為幹─直幹と続く。
直幹は仁平年間 (前九年役の頃) から長男義幹、四男弘幹、五男忠幹、六男長幹 (次男と三男は早世) に常陸国内の所領を割譲、弘幹は現在の下妻市一帯を継承したが頼朝の命令で 八田知家に斬られた (建久四年 (1193) 12月13日) 。
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※大貳局: 文治四年 (1188) 7月4日に出仕し、9月1日に頼朝に拝謁して
大貳局と命名された女官で甲斐源氏 加賀美遠光 の娘。記載した日付の記事と文治四年 (1188) 7月4日の記事の参照を。 .
北條実時 が開基を務めた金沢文庫の真言律宗 称名寺 (wiki) の支院である光明院には大弐局が発願した像高約21cmの大威徳明王像 (五大明王の一尊) が保存されている。 .
作像は既に名声の頂点にあった大仏師 運慶、大貳局の権限と財力の規模を彷彿とさせる。
右画像をクリック→ 別窓で拡大表示。.
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西暦1192年 . .
82代 後鳥羽天皇 .
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建久三年 .
8月10日 庚戌 . 吾妻鏡 |
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西暦1192年 . .
82代 後鳥羽天皇 .
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建久三年 .
8月11日 辛亥 . 吾妻鏡 |
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若君が三夜を迎える儀式あり。信濃守 加賀美遠光の差配である。
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西暦1192年 . .
82代 後鳥羽天皇 .
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建久三年 .
8月12日 壬子 . 吾妻鏡 |
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西暦1192年 . .
82代 後鳥羽天皇 .
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建久三年 .
8月13日 癸丑 . 吾妻鏡 |
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西暦1192年 . .
82代 後鳥羽天皇 .
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建久三年 .
8月14日 甲寅 . 吾妻鏡 |
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鶴岡八幡宮の廻廊外庭で放生会に奉納する相撲の取り組み明細を定めた。籐判官代 藤原邦道の差配である。
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一番 奈良籐次 vs 荒次郎 二番 鶴次郎 vs 藤塚目
三番 犬武五郎 vs 白河黒法師 四番 佐賀良の江六 vs 兼仗太郎
五番 所司三郎 vs 小熊紀太 六番 鬼王 vs 荒瀬五郎
七番 紀六 vs 王鶴 八番 小中太 vs 千手王 .
今夜、若君が六夜を迎える儀式あり。因幡前司 大江広元の差配である。
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西暦1192年 . .
82代 後鳥羽天皇 .
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建久三年 .
8月15日 乙卯 . 吾妻鏡 |
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鶴岡八幡宮放生会で舞楽の奉納があった。将軍家 頼朝は出御せず、上総介 足利義兼が奉幣使として廻廊に座し、舞楽などの奉納に立ち会った。演じた稚児は
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左は 金王 瀧楠 弥陀王 伊豆熊
右は 夜叉 観音 亀菊 良寿 .
今夜、若君が七夜を迎える儀式あり。 小山左衛門尉朝政が差配して将軍家 (頼朝) と若公に御馬と御劔などを献じ、御台所には綾織二十反と生糸の衣を三領、女房一同には長絹百疋 (二百反) を贈った。 .
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西暦1192年 . .
82代 後鳥羽天皇 .
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建久三年 .
8月16日 丙辰 . 吾妻鏡 |
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西暦1192年 . .
82代 後鳥羽天皇 .
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建久三年 .
8月20日 庚申 . 吾妻鏡 |
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将軍家が御産所に渡御した。両親が健在の射手らを召して草鹿 ※の勝負を行った。 .
一番 左衛門尉梶原景季 vs 比企彌四郎時員比企能員の三男)
二番 三浦兵衛尉三浦義村 vs 同、太郎景連(佐原義連の三男)
三番 千葉兵衛尉千葉常秀 vs 梶原兵衛尉(景時の弟で梶原氏を継いだ友景 (朝景) の息子役野景貞) .
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※草鹿: 流鏑馬などの騎射ではなく、徒歩 (かち) による弓射 (歩射、ぶしゃ) 。鹿の姿の板に革や布を
張り、中に綿や草を入れて的とする。 .
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西暦1192年 . .
82代 後鳥羽天皇 .
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建久三年 .
8月22日 壬戌 . 吾妻鏡 |
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雑色の成里は長年の務めを通じて功績を積んだため頼朝が気に入っていた者で、御家人と優劣を付けられない程の働きをしていたが、この夏に他界してしまった。頼朝はこれを深く嘆き子供を捜させたところ子息の成澤が伝え聞いて越中から参上した。今日初めて拝謁を許し、慰めの言葉を掛けた。 .
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西暦1192年 . .
82代 後鳥羽天皇 .
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建久三年 . 8
月24日 甲子 . 吾妻鏡 |
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二階堂の地 (永福寺建設用地、地図) に初めて苑池を掘った。地形は元々が水や樹木の似合う場所を選んである。 .
近国の御家人に命じて各々三人づつの人夫を集め、頼朝も工事の進捗を眺めた。帰路の途中で 二階堂行政の家に立ち寄り、三浦義澄以下の御家人たちが酒一瓶と肴一種を携えて集まった。
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※二階大堂: 文治五年 (1189) 9月17日、平泉中尊寺の堂塔群を
を巡覧した頼朝は二階大堂 (多分 無量光院 (別窓) だろう) を見てその荘厳さに深く感動し鎌倉にも同じ仏堂と浄土庭園を再現しようと考えた。 .
右上は鎌倉の二階大堂 (永福寺) の発掘調査画像。 クリック→ 別窓の拡大画像へ。
拡大画像では見易いように横長 (西側を上に) 変更してある。.
平泉に残っている平安末期の建造物は 金色堂 (中尊寺の後半を参照) のみで、頼朝を感動させた二階大堂は既に失われた。山を背にして前に池を配した寺院全体の姿は 無量光院の復元想像図 (右下画像) に近かったと想像できる。 .

ただし、 清衡や 秀衡が抱いた「平和への祈り」を頼朝が抱いたかは、かなり疑わしい。 .
「戦乱による多くの死者の魂を弔うために」とは言っているが、これは清衡の 中尊寺供養願文を読んで一過性の感動を受けただけ、と私は思う。 .
右下は平泉の無量光院復元想像図
クリック→ 別窓の詳細ページへ。.
無量光院と永福寺の姿を比較想像してみよう。 .
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西暦1192年 . .
82代 後鳥羽天皇 .
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建久三年 .
8月27日 丁卯 . 吾妻鏡 |
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頼朝が二階堂 (の建設現場) に渡御した。阿波の阿闍梨静空の弟子である僧静玄を召し、御堂前の池※に置く立石について話し合った。数十もの巨石を各地から取り寄せ、積み上げて小高い丘を造る、と。 .
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※御堂前の池: 造園の手法は壮大な規模の 毛越寺庭園を縮小して模したと想像すると判りやすい。
特に立石の配置などについて記載は明らかに作庭記※の記述を意識に置いており、静玄という僧が作庭記の内容に習熟していた可能性は高い、と思う。 .
※作庭記: 平安時代の造園マニュアル。摂政関白 藤原頼通 (Wiki) の二男で正四位上の公卿、歌人として
も知られた 橘俊綱 (Wiki) が著したと伝わる。文章のみで、図面などは描かれていない。
興味があれば 現代語訳 (外部サイト) も参考に。これ、結構面白いよ。 .
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西暦1192年 . .
82代 後鳥羽天皇 .
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建久三年 .
9月 4日 癸酉 . 吾妻鏡 |
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吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
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鶴岡八幡宮上宮の西壇所 (修法のための壇) に於いて終日続けて聖観音供養法 (仏、菩薩、経を供養する行法) ならびに法華講讃 (法華経を講義し称える) を始めた。供僧らによる勤めである。
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西暦1192年 . .
82代 後鳥羽天皇 .
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建久三年 .
9月 5日 甲戌 . 吾妻鏡 |
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右馬権頭 藤原公佐朝臣※からの書状が届いた。先月20日に讒言を受け 朝廷の役職から除籍されてしまった、身に覚えのない処分なので撤回を願うために添え書きが欲しい、との事。 .
頼朝は「もし讒言でも全くの嘘が天聴に達する (天皇に伝わる) とは思えぬ、何らかの過怠があったのだろう。親戚であろうと軽々に引き受ける訳にはいかない。」との仰せだった。 .
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※藤原公佐: 頼朝の異母弟 阿野全成の娘の婚姻相手。後白河院の近臣だった正二位権大納言 藤原成親
(Wiki) の子で 滋野井実国 (Wiki) の養子となった。 .
息子の実直は母方の姓の阿野を称して公家 阿野家の祖となった。三代目か四代目の子孫に南朝初代 後醍醐天皇の寵妃として第二代後村上天皇を産んだ 阿野廉子 (wiki) がいる。 .
もしこの讒訴云々が自分の娘または寵臣の娘の婿だったら、頼朝は「何らかの過怠が」とは考えないだろう。彼は常に複数の判断基準を持っており、権力基盤の強化と共にその傾向が強まる。歴史には生涯を通して潔癖だった権力者も、存在する。 .
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西暦1192年 . .
82代 後鳥羽天皇 .
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建久三年 .
9月11日 庚辰 . 吾妻鏡 |
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静玄 (8/27を参照) が永福寺御堂前の池に立石を設置する。頼朝は昨日から 二階堂行政の家に逗留してこの作業を眺めた。汀野の埋め石、金沼、汀野の筋、鴉會石、嶋等石※など全ての庭石は今日中に設置を終えた。 .
玉沼石と形石は長さ一丈 (3m) ほど、静玄の指示を受けた 畠山次郎重忠が一人で担ぎ上げ、池の中心まで進んでこれを据え立てた。見ていた者は全てその力に驚かされた。 .
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※石の種類: 配置する場所や用途による名称。これも8/27に載
せた作庭記を丁寧に読めば載っているかも。 .
右画像は平泉毛越寺庭園の 「立石」。大震災直後に傾いた時は縄を巻いて保護し添え木で倒壊などによる破損を防いでいた。
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クリック→ 毛越寺庭園 立石を別窓で拡大表示。
平泉に咲いた浄土思想 毛越寺 (別窓) も参考に。
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ちなみに一般的な庭石は比重2.6~3.0前後、現在の 20×30×300cmの毛越寺 立石は体積が 0.18立方mだから、重量は約 470kgの計算になる。担ぐだけなら可能性がないとは言えないが、運ぶのはいくら畠山重忠でも無理だね。 .
話のついでに書いておくと、ず~っと昔に近くの住人が永福寺の敷地跡から掘り出して庭石にしていた立石状の石があったらしい。長さ 150cm弱で径は 10×30cm弱、推定では 120kg前後。これが本物の永福寺立石なら、重忠の件も「白髪三千丈」じゃなかった、かも知れない。現在 その石が何処にあるかは、残念ながら確認できなかった。 .
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西暦1192年 . .
82代 後鳥羽天皇 .
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建久三年 .
9月12日 辛巳 . 吾妻鏡 |
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小山左衛門尉朝政が先年の勲功により恩賞として常陸国村田下庄を与えられ、今日政所の下文発行を受けた。内容は次の通り。 .
将軍家政所が下す 常陸国村田下庄 (下妻宮など) ※の地頭職に補任する件 左衛門尉藤原朝政 .
右の者は去る寿永二年に 三郎先生義広が謀叛し合戦を企てた際に、偏に朝威を重んじて単独でも防ごうと務め、同年2月23日の官軍到着と共に下野国野木宮一帯※で合戦し、抜きん出た功績を顕した。
よってその軍功により地頭職に補任し、荘官がその内容を承知し違背のないように命令を下す。 .
建久三年九月十二日 案主 藤井 (案主は文書や記録の作成と保管に任じる下級の役職)
令民部少丞 藤原 知家事 中原 別当前因幡守 中原朝臣 下総守 源朝臣 .
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※村田下庄: 現在の筑西市村田(地図)、下妻宮は10kmほど南にある 大宝八幡宮を差す。下妻の一帯は
は8月9日の末尾に記載した下妻弘幹 (常陸平氏の大掾氏惣領家、生母は 千葉常胤の娘) の所領だが、地元の史料は「建久年間の不都合で所領没収のうえ斬首」と記録している。 .
弘幹の出自である多気氏は常陸平氏大掾氏の惣領家で、当初は常陸源氏嫡流の佐竹氏に与して頼朝に対抗、佐竹氏の零落後は頼朝に従った。建久四年 (1193) 5月には多気氏の当主義幹も失脚したから、大掾氏の解体を目的とした粛清計画があった可能性が高い。 .
下妻弘幹の父に当る多気直幹 (つまり 千葉常胤の娘婿) の父 多気致幹 (後三年合戦記での多気権守宗基) の娘が、陸奥と京都を往来していた 源頼義の娘を産み、その娘は出羽の覇権を握った 清原真衡 の養子として跡を継いだ成衡 (出自は海道平氏) に嫁している。 .
真衡の計画は海道平氏の男子と源頼義の娘を夫婦養子に迎えて家格を高め一族を掌握したかったらしいのだが、血筋が途切れる事や真衡の独裁指向を嫌った 吉彦秀武や弟の 家衡や (後の藤原) 清衡 らとの抗争を巻き起こし、後三年の役に発展した。 .
詳細は 後三年戦役最後の地 金沢柵 (別窓) で紹介してある。
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※野木宮合戦: 寿永二年 (1183) 閏2月に起きた志田義広 vs 小山朝政を主力とした鎌倉勢の合戦。吾妻鏡
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※案主藤井 以下: 文案は藤井俊長 (鎌田正清の遺児) 名簿は右へ、下位の役職順に、 .
令の民部少丞 藤原 ( 二階堂行政) 知家事 (事務官) の 中原光家
別当の前因幡守 中原朝臣 ( 大江広元) 別当の下総守源朝臣 ( 源邦業) .
サラリーマン時代の稟議書を思い出す(笑)。 .
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西暦1192年 . .
82代 後鳥羽天皇 .
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建久三年 .
9月17日 丙戌 . 吾妻鏡 |
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来月、 一條能保が熊野に参詣にする。頼朝は白絹五十反を整え献上せよとの指示を 佐々木中務丞経高に命じ、更に龍蹄 (大型の駿馬) 二疋の贈与を手配させた。今暁に雑色 鶴次郎と御厩舎人 仲太が連れて上洛する。
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西暦1192年 . .
82代 後鳥羽天皇 .
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建久三年 .
9月25日 甲午 . 吾妻鏡 |
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幕府の官女 (名は姫の前※) が今夜 江間殿 (北條義時) に嫁して屋敷に赴いた。彼女は 比企籐内朝宗の娘で、頼朝が重用する美女である。江間殿はこの一両年想いを寄せて再三消息※を送ったが、相手にされなかった。 .
頼朝がその仔細を聞き、離縁するような事はないとの起請文 (誓書) を出させるよう姫の前に助言した。義時はその旨を書いて渡し、婚儀が纏まったものである。
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※姫の前: 義時に嫁した彼女は 朝時 (名越流北條氏の祖) と 重時 (極楽寺流北條氏の祖) の二人を産んだ
後に比企の乱 (1203) に連座する形で離縁となった。比企の乱 (まぁ北條氏によるライバル排除だけどね) が起きなければ、生母の家格から考えると正室の産んだ朝時が嫡子となる筈だったが...三代執権は身分の低い官女 阿波局が産んだ 泰時が継ぐ事になる。 .
頼朝の落胤説などもあるし、泰時は政子が溺愛していたし。真実は全て闇の中なのだが。 .
その他の不満などが蓄積し、朝時の子供らは 宮騒動 (Wiki) などに関与して非主流派を貫いて没落、一方の極楽寺流は三人の執権 (6代 長時、13代 基時、16代 守時) を輩出している。 .
※消息: 要するに恋文。翌 建久四年 (1193) 11月には 安田義資が御所の女房に同様の手紙を渡したため
罪を問われて梟首される事件が起きている。
周囲の状況は殆ど違わないのに義時の場合は「消息扱い」でめでたく婚姻、義資の場合は「艶書扱い」で斬首。甲斐源氏粛清の一環とはいえ、残酷なダブルスタンダードだ。私は平然と嘘を吐く義時の陰険さが大嫌いだから、グズグズ因縁をつけてる部分もあるのだけれど。
もし私が若い美女だったら絶対に義時は選ばないね。 .
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西暦1192年 . .
82代 後鳥羽天皇 .
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建久三年 .
10月15日 甲寅 . 吾妻鏡 |
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※左女牛若宮: 源頼義が六條堀河邸の坤 (南西) 隅に石清水八幡宮を勧請した六条若宮を差す。場所など
の詳細は文治三年 (1187) 1月15日の記載を参照されたし。 .
※土佐国吾河郡: 文治元年 (1185) 12月30日の吾妻鏡に以下の記載がある。
諸国の地頭職任命を許された中から土佐国吾河郡 (現在の高知県吾川郡伊野、地図) を六條若宮 (上記) に寄進した。この神社は 故 源頼義の六條邸跡地に石清水八幡宮を勧請し、大江広元の弟※である秀厳阿闍梨が別当職に任じている。 .
※広元の弟: 系図により広元の父は藤原光能 (正三位 参議) と大江維光 (従四位上 式部大輔) の二説ある。
吾妻鏡の建保四年 (1216) 閏6月14日には勅許を得て中原から大江に改姓する。
鎌倉では当初から大江を名乗っていたが、戸籍上の正しい姓は中原だった。 .
広元の申請には「養父 中原広季の養育を受けた恩はあるが、 中原一族には後継者が多く、大江一族は衰退しているので本姓に戻したい」とあるから、大江維光の実子だろう。
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秀厳の方はとくに系図上の疑問点はなく大江維光の子と載っている。上記の左女牛若宮に土地を寄進した際に阿闍梨季厳として記載があり、若宮創建当初からの任命と思われる。
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西暦1192年 . .
82代 後鳥羽天皇 .
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建久三年 .
10月19日 戊午 . 吾妻鏡 |
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※名越浜の御所: 地名が名越 (なごえ) で時政の娘 (政子) の産所に決まっていたのだから「時政の名越邸」
だと判る。そもそも 「名越邸は釈迦堂口切通しの上」 が根拠のない伝承に過ぎない事に歴史家諸兄はもっと早く気が付くべきだった。
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※五郎時連: 義時の異母弟 時房を差す。連は銭の単位を連想するとの話が頼家の耳に入り、建仁二年
(1202) 6月25日 (27歳の時) に改名を勧められる。元服の際に時連と名付けた烏帽子親は誰だ?と思って調べたら 佐原義連 だった。元服した頃は唐銭の普及など概ね皆無だったから「連」の使用も特に変じゃなかったと思うけど。
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西暦1192年 . .
82代 後鳥羽天皇 .
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建久三年 .
10月25日 甲子 . 吾妻鏡 |
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※惣門を建立: 門の位置は池の南側、現在のテニスコート付近 (地図) と考えるのが通説らしい。
永福寺の立地はやや変則で、南北に長い谷津の西側に東向きの堂を建て その前に苑池を造ったため、無量光院のように門→ 池を渡る橋→ 金堂→ 背景の山を 一直線に配置できなかった。距離も短いし、それに比べて無量光院の場合は広い平地だからね。 .

宇治平等院は無量光院と全く同じ配置だったが西方浄土に沈むための山並みが近すぎる。 .
無量光院は池の西側に仏像が見える堂を配置し背後の金鶏山に夕陽が沈む絶妙のレイアウトだが鎌倉の敷地は何とも狭い。このイメージを実現させた 秀衡 の感覚を褒めるべきか。 .
右は仙台博物館による無量光院CG画像
春と秋の彼岸には橋と堂を結んだ延長線の
金鶏山に陽が沈む、つまり西方浄土の姿を描いている。 クリック→別窓で拡大 .
発掘調査時点の無量光院跡 のレポート (別窓) も参考に。
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西暦1192年 . .
82代 後鳥羽天皇 .
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建久三年 .
10月29日 戊辰 . 吾妻鏡 |
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永福寺の扉および本尊を安置する内陣の後の壁に絵を描く作業が終了した。絵師は修理少進季長※である。
これは 藤原秀衡 が建立※した圓隆寺※を模したもので、絵の細部まで圓隆寺を想わせる姿になった。 .
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※修理少進季長: 寿永三年 (1184) 1月2日には絵の名手 藤原 (宅間) 為久を京から招いたとの記事があり
翌年8月23日には (勝長寿院南御堂) の仏画を描くため再度招いた旨の記載がある。 .
ただし同年10月11日には頼朝が絵にクレームをつけて修正させているから、宅間為久の技量に不満を感じて追加で招いたのが季長だった可能性もある。 .
宅間為久は鎌倉に定住して永福寺の絵の一部も手掛け、鎌倉宅間流絵師の開祖になったと伝わる。簡単に京都に帰ることもできなかっただろうし。 .
※圓隆寺: 毛越寺の大泉ヶ池 北岸にあった金堂。本尊は雲慶※
作の丈六薬師如来像。堂塔の殆どは保元元年 (1156) までには完成し、最後に残った嘉祥寺だけは次代の 秀衡 が引き継いで仁安二年 (1167) に落慶させた。 .
秀衡の父 基衡 は金堂の圓隆寺を含めた堂塔の大部分が完成した保元ニ年 (1157) に52歳で没している。
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従って 「 藤原秀衡が建立した圓隆寺」 は厳密に書くと「 藤原基衡が建立した圓隆寺」が正しいのかも。
右は大泉ヶ池対岸の毛越寺の旧 堂塔群。 画像をクリック→ 別窓の拡大表示へ .
※雲慶作: 文治五年 (1189) 9月17日の吾妻鏡は平泉堂塔の紹介記事で 「京都の大仏師 雲慶」 と書いている
が 「雲慶」に該当する仏師はいないし、慶派の 運慶とは活躍した年代も明らかに異なる。 .
吾妻鏡の記載は平泉で得た情報のまま転記したのだろうから、そもそも平泉の情報が間違っていた事になる。「雲慶」って、いったい誰だよ? .
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西暦1192年 . .
82代 後鳥羽天皇 .
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建久三年 .
10月30日 己巳 . 吾妻鏡 |
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亥刻 (22時前後) に 牧の方の兄 武者所 牧宗親の由比ヶ浜の家が焼け落ちた。宗親はたまたま外出中で、煙を見て駆け戻り筝 (琴) を持ち出そうとして左側の鬚 ※を焼いた。唐の国太宗の鬚 ※は薬のために施し、我が国の宗親の鬚は筝を惜しむ心を表している。焼いた部分は同じだが、焼いた理由は全く異なっている。 .
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※左側の鬚: あごひげ=鬚で、くちひげ=髭。従って焼いたのは「左のあごひげ」になる。
耳の近くのひげは「びん」=鬢。 .
※太宗の髭: 太宗とは唐の名君 李世民大帝。重臣の一人が病気になった際、「鬚を焼いた灰が薬になる」
と聞いた太宗は自分の鬚を切って薬を作った。家臣は涙を流して感謝したが、大宗は...
「卿のためではなく、国家のために必要だから切ったのだ。感謝するような事ではない。」と答えた。クールだけど深いねぇ! 卿=貴方だ。こういうの、大好き! .
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西暦1192年 . .
82代 後鳥羽天皇 .
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建久三年 .
11月 2日 辛未 . 吾妻鏡 |
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吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ .
御堂 (永福寺) の落慶供養を来月 (落慶法事は11月25日) に行なうと決定。導師※が京都から下向する事の雑事の処理は 二階堂行政と 平盛時が差配するようにとの仰せがあり、海道の宿驛については経路にあたる諸国に手配を命じた。また 足柄峠を越える警備は沼田太郎※、波多野五郎義景、河村三郎義秀、豊田太郎※、工藤介※ らが手配せよとの命令を下した。 .
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※落慶の導師: 法務大僧正 本覚院公顕は文治四年 (1188) 1月に京の法勝寺、最勝寺、成勝寺、延勝寺、
円勝寺 (つまり尊勝寺を除く六勝寺、文治二年 (1186) 6月29日を参照 ) の別当に任じて
元暦二年 (1185) 10月24日の勝長寿院 (南御堂) 落慶供養の導師も務め、更に文治六年 (1190) には第60世天台座主に就任した。 .
蛇足。後に六勝寺の一つ 成勝寺の執行僧に任じるのは頼朝の御家人 一品房昌寛。
娘が 頼家※の側室として 栄実 (1201年) と 禅暁 (1202年?) を産んだ勲功 (笑) に拠る。 .
※沼田太郎: 北九州一帯に勢力を広げた大友氏の一族。大友 (古庄) 能直の母方の叔父が沼田城 (現在の
沼田市西倉内町、 地図) に拠って沼田太郎実秀を名乗ったのが最初、と伝わる。 .
※豊田太郎: 大庭景義の同母弟 豊田景俊。大庭塚と豊田郷 (別窓) を参照されたし。 .
※工藤介: 該当するのは 工藤 (狩野) 茂光だけしか思いつかないが、彼は治承四年の石橋山合戦後に函南
で自刃、その後の工藤介は見当たらない。たぶん狩野介 狩野宗茂 の誤記だと思う。 .
※頼家の子: 建久九年 (1198) 誕生の 一幡、正治二年 (1200) 誕生の
公暁、建仁元年 (1201) 誕生の 栄実、
建仁三年 (1203) 前後に誕生の 禅暁、建仁ニ年 (1202) 誕生の 竹御所 の五人。 .
建久十年1月13日 (1199年2月9日) に死没した頼朝が生存中に産まれた孫は 頼家の側妾 若狭の局 (Wiki) が産んだ 一幡のみ、二人目以後の誕生は全て頼朝の死没後である。 .
溺愛していた世継ぎの頼家に嫡男が、自分の血を分けた初孫が、三代目の「鎌倉殿」が産まれた!子煩悩の頼朝が大騒ぎで喜ぶ姿が目に浮かぶのだが...吾妻鏡には一行の記録も載っていない。二男 実朝が産まれた8月9日以後には多くの行事が行われているのを考えれば、 吾妻鏡の編纂者が意図的に削除した 以外に理由は見つからない。
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もう一つ、頼朝没後の正治元年 (1199) 10月25日、 御所の控えの間で同僚の御家人に向かって 結城七郎朝光が次の様に述懐する。 .
「忠臣は二君に仕えずという。幕下 (頼朝) に多大な恩を受けながら遷化 (死去) の際の遺言に従って出家を遂げなかったのが悔やまれる。今の世の中を見ると、まるで薄氷を踏むような思いがする。」 と。つまり、頼朝の遺書 (遺言) は存在していたが 「跡を追って出家剃髪してはならない」程度しか公開されなかった。
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頼朝は年末に催された相模川の橋供養に参席した帰路に落馬し二週間ほど後に鎌倉で他界した。 「跡を追って出家剃髪してはならない」と遺言したのなら、他にも言い残す事は多くあった筈だ。鎌倉殿を継承する嫡子頼家に忠義を尽くす事と、前年に産まれた初孫が将来の鎌倉殿を継ぐ事 (これは多分生まれた時に告知した筈) などは絶対に欠かせない。
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しかし嫡男頼家が元服した記事も、初孫 一幡の誕生の記事も吾妻鏡に載らず、頼朝の喜ぶ声どころか遺言さえ公開されないままで時は流れる。そして建仁三年 (1203) 9月には三代目鎌倉殿を継ぐ筈の一幡は比企一族と共に惨殺され、二代目の鎌倉殿だった頼家も修禅寺で殺されてしまう。 .
頼家と一幡を殺したのは衆知の事実なのに、 「将来の鎌倉殿が産まれたぞ!」と喜んだ頼朝の言動や 「二代目の頼家と三代目になる筈の一幡に忠義を尽くせ」と言い残した頼朝の遺言を記録に残したら、 「時政も義時も御台所政子も遺言を隠蔽し改竄した主人殺しの大罪人だ」と認める様なものだからね。 .
権力を簒奪した連中は記録を改竄するのが世の常、時政と義時と政子も例外ではない。 .
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西暦1192年 . .
82代 後鳥羽天皇 .
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建久三年 .
11月 5日 甲戌 . 吾妻鏡 |
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卯刻 (朝6時前後) 、新たに誕生した若公 (千萬、後の 実朝) の御行始め (外出初め) があり、輿で 籐九郎盛長 の甘縄邸 ( 甘縄神社と安達邸跡を参照) に入御された。 .
女房 大貳局と 阿波の局らが介助し 相模次郎 北條朝時、信濃三郎 南部光行、小山三郎 ※、三浦兵衛尉 義村、梶原源太左衛門尉 景季、下河辺四郎 政義、佐々木三郎 盛綱らが供として従った。 .
終日逗留し供奉人らの中で献盃があり安達盛長が御劔を献上、供の男女にも同様に贈物があった。女房二人に各々小袖を一着、相模次郎以下には各々染めた革を一枚である。
亥刻 (20時前後) に一行は御所に還御した。 .
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※小山三郎: 宇都宮朝綱 の孫 頼綱を
寒河尼が預かり、夫 小山政光の猶子として弥三郎を名乗らせた。
文治五年 (1189) 7月25日に「猶子」として記載がある当時20歳の小山三郎が 宇都宮頼綱に該当する。宇都宮氏の系図は、初代の藤原宗円→ 二代八田 (中原) 宗綱→ 三代朝綱→ 四代業綱(成綱、建久二年 (1192) に早世)→ 五代頼綱と続いている。
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建久五年 (1194) 7月に朝綱と孫の頼綱と朝業の三人は公田押領の罪により流罪となったが、実際には頼朝が犯した手続き上のミスだった。 .
頼綱と朝業は短期で帰国 (配流地に行かなかったとの説あり) となったが、朝綱の赦免は2年後の建久七年 (1196) となり、帰国と共に現在の益子町上大羽の綱神社 (地図) に隠棲した。 .
この前後に小山氏の猶子から復姓した頼綱が宇都宮の家督を継承する事になる。 .
右画像は朝綱が創建した綱神社。
画像をクリック→ 綱神社と宇都宮氏の廟所 (別窓表示) へ。.
ここには朝綱の別邸跡と小規模な浄土庭園の跡も残る。彼も平泉で影響を受けた一人だ。 .
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西暦1192年 . .
82代 後鳥羽天皇 .
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建久三年 .
11月13日 壬午 . 吾妻鏡 |
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二階堂 (永福寺) の池に配置する石について不満が残っているため、頼朝は静玄を呼んで配置を修正させた。
畠山次郎、 佐貫大夫、 大井次郎が石を動かし、頼朝は三人が見せた百人にも匹敵する働きに感動した。 .
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西暦1192年 . .
82代 後鳥羽天皇 .
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建久三年 .
11月15日 甲申 . 吾妻鏡 |
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朝廷に献上する馬五疋が京都に向かった。御厩舎人の家重が同行している。 .
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西暦1192年 . .
82代 後鳥羽天皇 .
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建久三年 .
11月20日 己丑 . 吾妻鏡 |
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永福寺の建造が完了した。 (原文は 「雲軒月殿 絶妙無比類」、雲の如く聳える軒と月の如く美しい金堂)か。
阿弥陀の西国浄土九品 ※の荘厳な姿を二階の堂として関東に再現した姿である。
今日、 御台所政子も参詣に訪れた。 .
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※九品: 浄土への往生は生前の行為により九段階の蓮台に生まれ出る。転じて浄土の姿を表現する。 .
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西暦1192年 . .
82代 後鳥羽天皇 .
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建久三年 .
11月22日 辛卯 . 吾妻鏡 |
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鶴岡八幡宮に御神楽の奉納があった。これは御堂 (永福寺) の落慶供養が滞りなく進むための御祈祷である。相模守 大内惟義が奉幣の使者として派遣された。 .
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西暦1192年 . .
82代 後鳥羽天皇 .
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建久三年 .
11月25日 甲午 . 吾妻鏡 |
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早朝に 熊谷次郎直実と 久下権守直光が頼朝の御前で対決した。これは武蔵国熊谷郷と久下郷の境界についての争いである。武勇では一騎当千と言われる程の直実だが論争に関しては十分な説明ができず、頼朝から何回も質問を受ける有様だった。ついに直実は、 .
「これは立ち会い人の 梶原平三景時が直光に味方して予め主張の手順などを教え、そのために私が何度も質問を受けているのだ。直光が有利な裁決を得るに違いない、書類など何の意味もない。」と叫んで証拠の品や書類を投げ捨てて座を立ち、怒りが鎮まらないまま西の侍所で自ら髻 (もとどり、髪を頭上で束ねた部分) 切り落とし 「殿の侍に登った果てに」 と叫んで南門から走り出し、自宅にも帰らず行方不明になった。 .
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※勅使河原有直: 武蔵七党の丹党に属する武士。秩父武綱の曾孫 丹基房 (重忠の父 重能) と同じ世代) の
長男 直時が埼玉県北西部上里町の勅使河原 ( 地図) を本拠にしたのが一族の最初。
平家物語 巻九の三 河原合戦に次のような一節がある。 .
義仲が六条河原に出てみると東国勢三十騎ほどが現れ、武者二騎が進み出た。
一騎は塩屋五郎維広、一騎は勅使河原五三郎有直である。
塩屋は「応援の到着を待つべきか」と言い、勅使河原は「一ヶ所を突破すれば残党は崩れる、突撃!」と叫んで突っ込んだ。義仲は背水の陣で防戦し、東国勢は我こそが討ち取るぞと攻めかかった。 .
神流川東岸の大光寺は有直が建保三年 (1215) に創建した、と伝わる。鎌倉幕府滅亡後の丹党は 新田義貞に従って南北朝時代を戦い、南朝の没落と共に衰退した。 .
※加賀守俊隆: 文治二年 (1186) 3月18日にも記載されている人物だが素性が判らないし、歴代加賀守の
リストにも見当たらない。なぜだ? .
※兵衛判官代義資: 元暦元年 (1184) 6月4日に記載がある、源義家の四男 義時の曽孫。鎌倉で朝夕官仕
の身分 (住み込みで1日玄米五升の俸給を受ける勤務体系) に就いた。 .
※村上判官代義国: 清和源氏頼清流の信濃村上氏 経業の系累だと思うが、系図に見当たらない。
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※源判官代高重: 社伝に拠れば、文治二年 (1186) に安房判官代高重の訴えに基づいて安房一宮の安房
神社 (洲崎明神、 地図) 社殿の造営修復を頼朝が厳命している(吾妻鏡には該当する記載なし)。治承四年 (1180) に安房に落ちた頼朝は洲崎明神に戦勝を祈願した (9月5日と12日に記載) 。高重は神官を兼ねた土着の武士か。 .
※修理亮義盛: フルネームは関瀬修理亮義盛、随兵など各所に現れているのに素性が判らない。
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※奈胡蔵人義行: 甲斐源氏 黒源太清光 の八男 (浅利余一の次兄) で巨摩郡奈胡荘 (南アルプス市南湖、
地図) を本領とした。この一帯は清光の三男 小笠原長清が継承し、数多くの史跡が点在している 小笠原郷 (別窓) の東南、 秋山光朝 (別窓) 領の北東に隣接している。 .
※所雑色基繁: 判りません、降参! .
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西暦1192年 . .
82代 後鳥羽天皇 .
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建久三年 .
11月29日 戊戌 . 吾妻鏡 |
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誕生した若君 千萬 (後の 実朝) の五十日 百日祝賀の儀があり、北條時政 殿がこれを沙汰した。
給仕などは女房 (女官) ではなく 江間義時殿が担当した。献上した贈物は御劔、砂金、鷲の羽などである。 .
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※藤原範信: 熱田大宮司 藤原季範の次男。季範の跡は生前に五男範雅が継ぎ、季範の没後に長男の範忠
が継いでいる。範信は従四位下 式部丞。 .
※十字: 蒸した饅頭。十字に割いて食べた中国の習慣から赤い十字や点をつける風習が生まれた、と。 .
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西暦1192年 . .
82代 後鳥羽天皇 .
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建久三年 .
12月 2日 庚子 . 吾妻鏡 |
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吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ .
本覚院 ※の宰相僧正公顕が京都に向け出発した。すでに二度の要請 (勝長寿院と永福寺の落慶供養法要) に応じてくれたのは有難い対応である。
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※本覚院: 比叡山の西塔、釈迦堂や法華堂、常行堂などが集まっている一角 (地図) 。 .
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西暦1192年 . .
82代 後鳥羽天皇 .
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建久三年 .
12月 5日 戊申 . 吾妻鏡 |
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※誕生披露: 11月2日の「頼家の子」 に書いた通り頼家を継承する筈の 一幡が誕生した建久九年 (1198) の
の吾妻鏡には実朝誕生に関する物と同様の記事が残っているべきなのだが 吾妻鏡は頼朝の遺言が載っている筈の建久十年 (1199) 1月末まで、全て欠落している。
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「頼朝が頼家と一幡を鎌倉殿の継承者として全ての御家人に告知し忠節を誓わせた」部分の欠落は何故か?その記録が逸失して利益を得るのは誰か? 記録を「逸失」できたのは誰か? .
冷静に考えれば陰湿で凄惨な謀略の全景が見えてくる。 .
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西暦1192年 . .
82代 後鳥羽天皇 .
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建久三年 .
12月10日 戊申 . 吾妻鏡 |
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女房の大進局が先日拝領した伊勢国三箇山の内容について不明を申し出たため改めて政所の下文を発行した。担当は民部丞 二階堂行政 である。 .
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※大進局: 文治二年 (1186) 2月26日に頼朝の男子 (後の貞暁) を産んだ常陸入道念西の娘。御台所の嫉妬
が激しいため、頼朝は建久二年 (1191) 1月23日に仁和寺の隆暁法眼 ( 一条能保の養子) の弟子として上洛させ伊勢国に所領を与えていた。母親はまだ鎌倉に残っていたらしい。 .
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82代 後鳥羽天皇 .
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建久三年 .
12月11日 己酉 . 吾妻鏡 |
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走湯山 (伊豆山権現) の住僧専光房が使者を派遣して報告。内容は次の通り。 .
熊谷直実に関する指示を頂いた件で直ちに東海道の様子を窺ったところ、京都に向かう直実に出会うことができました。既に僧形であり、様子が変なので鎌倉殿の仰せと称して引き止めましたが承知せず、とりあえずは出家した功徳を褒め私の僧坊に誘って浄土宗の教えなどを語るうちに何とか落ち着きました。 .
私が書状を書いて遁世逐電を強く諌めたため上洛を思い直す気持ちになったようです。
その書状の下書き※を同封いたします。 .
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※下書き: 武士の本分である主従の道理を捨てて出家をするのは神仏の意思にも沿っていない、等の
内容を 故実を引用して説得に当っている、との内容。美辞麗句を駆使しているが 「権威に従え、長い物には巻かれろ」 と言っているだけで、取りたてての意味はない。 .
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西暦1192年 . .
82代 後鳥羽天皇 .
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建久三年 .
12月14日 壬子 . 吾妻鏡 |
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一條能保からの書状が到着、亡妻 坊門姫の遺産 20ヶ所の所領を子供たちに分与したとの報告である。 .
将来の意見が乖離することのないよう先月 28日に宣旨の発行を願い、権中納言 (兼光卿) が勅を奉じ、右中弁棟範朝臣を経て勅旨を得た。平家没官領 (平家から没収した所領) の内、下記の諸処との内容である。 .
摂津国福原庄、武庫御厨、小松庄、尾張国高畠庄、御器所松枝領、美濃国小泉御厨、椎庄、津上良領、
近江国今西庄、粟津庄、播磨山田領、下端庄、大和国田井、兵庫庄、丹波国篠村領、越前国足羽御厨、
肥後国八代庄、備後国信敷庄、吉備津宮、淡路国志築庄。 .
以上の20ヶ所、先日将軍家の御妹である亡妻から一條能保が譲渡を受けたものである。 .
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西暦1192年 . .
82代 後鳥羽天皇 .
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建久三年 .
12月20日 戊午 . 吾妻鏡 |
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渋谷重国の一族は誰もが勇敢で常に頼朝の意思に応える働きをしている。公事の負担を軽くするため、所領の相模国吉田荘 (渋谷荘) の地頭として領家圓満院に申請し、定額の納付と定め幕府の倉からの納付で決済するよう処理した。
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前右大将家政所 運上 相模国吉田庄の年貢に関する件。
内容は布、染布、上絹、藍染の布、荷駄に用いる馬、人夫、加工した紅花、熨斗鮑、染革、など。 .
建久三年十二月二十日 平盛時 (頼朝の花押)
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82代 後鳥羽天皇 .
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建久三年 .
12月23日 辛酉 . 吾妻鏡 |
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この一両日、若公の万寿 (後の 頼家) の体調が悪く、今日になって疱瘡※が発症した。都でも僻地でも広く流行しており、尊卑にも関係なく罹病している。 .
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※疱瘡: 現在では撲滅した天然痘、罹病の致死率は約40%。北米大陸の先住民族駆逐のため罹病者の
毛布や衣類を意図的に配布したなどの記録もあり、民族浄化の手段とされた例も多い。 .
日本でも大流行の記録が数回あり、奈良時代の天平九年 (737) には政権を担っていた藤原氏の四兄弟 (不比等の息子 武智麻呂、房前、宇合、麻呂) が天然痘で死没し大混乱になった。
天平十五年 (743) に始まった東大寺大仏造営はこの天然痘流行が契機の一つだったらしい。 .
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西暦1192年 . .
82代 後鳥羽天皇 .
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建久三年 .
12月28日 丙寅 . 吾妻鏡 |
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伊勢神宮領の武蔵国大河戸御厨 (現在の松伏町から越谷に至る古利根川流域、地図) の納税については課税額を増やし、代償として神主に対し多くの水田を追加して与えた。平家が知行していた頃の神宮に納める分は絹113反の他にはなかったが、公私 (朝廷と幕府 ) の安泰を祈祷する費用が正税と共に免ぜられる。 .
旧領は水田一町に対して絹を二疋四丈で、新田には一町に対し二石。公田は一町に対し一石三斗である。
大江広元と 二階堂行政 がこれを差配する。 .
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西暦1192年 . .
82代 後鳥羽天皇 .
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建久三年 .
12月29日 丁卯 . 吾妻鏡 |
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佐々木定綱※から問い合わせがあった。東大寺の修造に関して周防国の材木を早急に運搬せよとの催促を受けたが、重ねての仰せが出された意味は何か、と。 .
また今日、走湯山 (伊豆山権現) の専光房から年末に実施した読経の数の報告と共に、熊谷直実の様子について報告があった。直実法師の上洛は専光房の説得で何とか思い止まったが、簡単には幕府に戻らないつもりらしい。暫くは武蔵国に引き籠る旨を語っている状態である、と。 .
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※佐々木定綱: 建久二年 (1191) 3月に起きた佐々木庄での日吉神社との紛争が原因で同年の5月20日に
薩摩国流罪に処されている。赦免されたのは建久四年 (1193) 3月12日、鎌倉に帰還したのは10月28日だから、この日の記事は整合性に欠ける。長男広綱、次男定重・ー、三男定高の三人も同様に流罪とされており、処分を受けなかったのは11歳の四男信綱以下だけだった。 .
事件発生直後に定綱の弟 三郎盛綱と 五郎義清が佐々木庄に向かい、定綱は流刑が決まるまで出奔しているから、定綱流罪中に問合わせてきたのは二人の弟だろう。
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西暦1192年 . .
82代 後鳥羽天皇 .
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建久三年 . 月 日 . 吾妻鏡 |
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82代 後鳥羽天皇 .
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建久三年 . 月 日 . 吾妻鏡 |
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82代 後鳥羽天皇 .
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建久三年 . 月 日 . 吾妻鏡 |
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