
. . 82代 後鳥羽天皇 . |
. 1月 1日 己巳 . 吾妻鏡 |
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吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
.. 将軍家 (頼朝) が鶴岡八幡宮に御参詣。還御の後に椀飯※の儀あり。千葉介常胤がこれを差配した。源氏門葉と江間殿 (北條義時) と御家人らが庭に控えて列座し定刻に将軍家が出御。上総介 足利義兼が立ち上がり、御簾を引き上げた。 . 相模守 大内惟義が剣を、右衛門尉 八田知家が弓箭を、左衛門尉 梶原景季が行騰を持ち、千葉大夫胤頼が砂金を、千葉介常胤が鷲の羽を捧げた※。次に常胤の息子三人 (師常、胤信、胤道) と孫二人 (胤秀 (父は誰だ? もう一人は? 奥州千葉氏の系か?)が馬五疋を引き出した。また頼朝自筆による御家人の席順が定められた。 . ※椀飯(おうばん): 饗応の献立、その食事を摂る儀式、行事も意味する。大判振る舞い、の語源。 . ※儀礼について: 年を追って虚飾の傾向が深まり、頼朝が京都への原点回帰を深めている様に見える。 二度に亘る上洛と 大姫の入内工作は 平清盛の轍を踏むつもりか...治承の合戦から行動を共にした古参の御家人がそんな危惧を感じたか、感じなかったか。
.. 5日の記事にも記載したが吾妻鏡は所詮は後世の編纂。もしも「玉葉」や「愚管抄」のような識者の日記であれば微妙な空気まで記載された可能性が高い、のだろうが。 . ※年令: 元暦二年 (1184) 4月に平家が、文治五年 (1189) 8月に奥州藤原氏が滅亡している。 .
源頼朝 45歳、
万寿 (後の頼家) 10歳、
大姫 13歳、
源範頼 42歳、
阿野全成 38歳、 .. 北條時政 54歳、 北條政子 35歳、 北條義時 29歳、 北條時房 18歳、 千葉常胤 74歳、 千葉胤正 51歳、 三浦義澄 65歳、 足利義兼 39歳、 足利義純 16歳、 安達盛長 57歳、 大江広元 44歳、 畠山重忠 28歳、 梶原景時 52歳、 宇都宮朝綱 73歳、 岡崎義実 81歳、 加藤景廉 36歳、 佐々木定綱 50歳、 二階堂行村 37歳、 中原親能 49歳、 . 後白河法皇 前年3月13日に崩御 (宝算64) 、 後鳥羽天皇 12歳、 九条兼実 43歳、 吉田経房 50歳、 土御門通親 42歳、 丹後局 41歳、 一条能保 45歳、 藤原定家29歳、 慈円 37歳、 法然 57歳、 . (全て1/1時点の満年令、一部の年齢は推定) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
. . 82代 後鳥羽天皇 . |
. 1月 5日 戊寅 . 吾妻鏡 |
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左衛門尉 工藤祐経の家に怪鳥が飛び込んだ。名前は判らないが、形は雄の雉 (キジ) に似ているらしい。占った結果は慎み深くあれとのこと、神仏に祈って加護を願った。 .. ※工藤祐経: 今年の 5月28日、富士山西麓で曽我兄弟の仇討ちにより落命する。吾妻鏡は日誌形式では あるが、様々な記録を取捨選択して西暦 1,300年頃 (鎌倉時代末期近く) に編纂された。 .過去に起きた事件の予兆とか改竄だとか捏造とかは、編纂者が好き勝手に書き込める。 予知を匂わせる記事には作為が働いている可能性を違って読む方が良い。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
. . 82代 後鳥羽天皇 . |
. 1月10日 戊寅 . 吾妻鏡 |
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南御堂 (勝長寿院) で修正※が行われ、将軍家も参席した。 .. ※修正会: 新年に3日または7日間続けて催す法会で、国家や朝廷の安泰、五穀豊穣などを祈願する。 正式には修正月会、略して修正。鎌倉では建久三年 (1192年) の一月に初めて開催された。 . | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
. . 82代 後鳥羽天皇 . |
. 1月14日 壬午 . 吾妻鏡 |
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高雄 神護寺の 文覚上人から連絡があった。内容は以下の通り。. 後白河院の支配地から備前国を割いて文覚に預け、その年貢分を東大寺修造に充てるよう京都に申し入れて下さい。 .. 東大寺の大仏殿造営作業が間に合いそうもない、と舜乗房※が愁訴しています。後白河院の時代には料米 (費用に充てる米) として二万石が寄進されていましたが、国司の押領が頻発して効果が乏しいのです。関東が介入しない限り成功しないでしょう。 頼朝は荒廃した荘園を保元の時代 (1156〜1158年)以後に再生させた分については拠出に応じるよう土御門通親卿を通じて 後鳥羽天皇への奏上を申し入れた。 . ※舜乗房: 東大寺復興の大勧進職 (総責任者) に任じた 重源上人 (Wiki) を差す、と思う。俊乗房の名を 使うのが一般的だが、舜は当て字だろう。 .右上は伊豆の国市 那古谷の古刹 国清寺 (別窓) から更に南西の山中に残る「文覚の護摩石」 (地図) 。頼朝と面談して挙兵を薦め護摩を焚いて戦勝を祈ったと伝わるが、実際には授福廃寺の礎石らしい 。 .画像をクリック→ 毘沙門堂とその周辺 (別窓) へ | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
. . 82代 後鳥羽天皇 . |
. 1月20日 戊子 . 吾妻鏡 |
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三浦一族の中に、惣領である 義澄の支配に背く※者がいるとの噂がある。義澄に従うべき旨の仰せがあった。 .. ※義澄に背く: 元々義澄と 和田義盛は惣領の座についての確執※もあり円満な関係ではないが 、20年後 の建暦三年 (1213) の和田合戦で敵対するまでは特に問題を起こしていない。 .※両者の確執: 和田義盛の父 杉本義宗 (三浦義明の長男) は長寛元年 (1163) の秋に安房国平北郡にある 所領の争奪戦に出陣。敵対していた長狭六郎常伴の居館金山城 (鴨川市、地図) を攻めるため軍船で出撃したのだが上陸地点で迎撃を受けて負傷、三浦に撤退して 100日未満に没した、と伝わる。
.. この時の義明は 72歳で義宗は 39歳、父の死没前に家督を相続したと思われる嫡子義盛は 17歳、義明は若い嫡孫よりも次男の義澄 (当時37歳) に家督を継承させるのが順当と考えたのだろう。三浦の惣領は義澄が継承し、義盛は分家して三浦半島西海岸の初声 (はつせ) の 和田郷 に本拠を置いて和田を名乗っていた。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
. . 82代 後鳥羽天皇 . |
. 1月26日 甲午 . 吾妻鏡 |
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去年の12月30日に銭 (貨幣、宋銭) ※の使用を禁じる命令が朝廷から発せられた。一條能保からの連絡である。 .. ※貨幣経済: 今年の2月29日の 玉 葉 (Wiki、九条兼実の日記) に該当記事があったので同日に転記した。 吾妻鏡と一ヶ月の時差がある理由は判らない。 .. 和銅元年 (708) 鋳造の 和同開珎から天徳二年 (958) 鋳造の乾元大宝(共に Wiki) まで12種類の貨幣 (皇朝十二銭) が発行されている。交換比率は乾元大宝一枚に対して旧銭十枚と定めたが品質が劣悪で流通せず、応和三年 (963) に鋳造廃止となった。 . その後は既存の流通銭が少々と絹などの物品による交換経済がメインとなり、貨幣経済が定着するのは鎌倉時代中期以降となる。 . 当時の銅銭 (劣悪なものを除く) が全て同じ価値だったのは面白い。100円や 500円硬貨の様な一枚当りの価値差がなく、違う種類が混在していても「銭○○枚」での取引できた。 ※余談数点: 銭の穴に紐を通して千枚にした束が一貫文 (連) 。当初は時連と名乗っていた 北條時房が 建仁二年 (1202) に元 検非違使の 平知康から「連は銭を連想させるから良くない」と言われ (6月25日) 、それを聞いた当時の二代将軍 頼家に改名を勧められ「時房」に改めた。 .. この平知康は北面の武士で鼓の名手だった事から「鼓判官」と呼ばれ、平家を追い落として入京した 木曽義仲に院の使者として軍兵の狼藉防止を申し入れた際に 「鼓判官とは多くの人に打たれたためか」 と言われ 後白河法皇に 「義仲は馬鹿です、排除すべき」 と進言した。 . これが契機となって法皇が義仲に京都からの退去を要求し 怒った義仲が寿永二年 (1183) 11月19日に院の御所に攻め込んで法住寺合戦を引き起こした、と平家物語が伝えている。 どこまで信用できる話なのかは判らないが...。 . ついでに。時代により異なるが、一文は現代の45円程度の価値だった。連 (一貫文=千枚) で 45,000円、150kgの米を購入できる程の価値があったらしい。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
. . 82代 後鳥羽天皇 . |
. 1月27日 乙未 . 吾妻鏡 |
. . . ※安房平太: 摂津源氏の末裔を称しているらしいが詳細は不明。建久六年 (1195) の頼朝随兵の名簿に ある野瀬判官代か安房判官代が該当するか。新恩は追加で与えられた所領を意味する。 . | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
. . 82代 後鳥羽天皇 . |
. 1月28日 丙申 . 吾妻鏡 |
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南御堂 (勝長寿院) の近くに御山庄※を建てる旨の沙汰があった。 ..
※御山庄: 通常の話なら山荘だが大倉御所から1km弱
(地図) の
距離なので別宅とでも受け取るべきだろうか。 .. 気になるのは 30年後の嘉禄元年 (1225) 6月16日の、政子が 68歳で死没する 45日前の記載である。 . 辰の刻 (午前8時前後) に政子が突然意識を失ない人々が参集したが、暫くして回復した。 .容体は日増しに悪化し、昨15日に新邸に移るとの仰せは日取りが悪く、陰陽師の意見により21日に延期となった。 この新邸とは勝長寿院の境内に建てた御堂御所を差す。吾妻鏡の記述に重複があるため完成時期は確定できないが遅くとも承応二年 (1222) の末に完成していたのは間違いない。 . 政子は6月21日に御堂御所に移り、20日後の7月11日に息を引き取った。6年前には 実朝の遺髪を葬った勝長寿院で荼毘に付され埋葬されるのだが、生前の政子の意識に「頼朝が南御堂近くに山荘を構えた」との記憶が影響していたか、どうか。 . 右は南御堂があった谷津の北側からの鳥瞰。滑川から一番奥 (黄色の●) まで約560m、廃寺の位置や遺構は全く不明である。 画像をクリック→ 別窓で拡大表示 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
. . 82代 後鳥羽天皇 . |
. 2月 3日 庚子 . 吾妻鏡 |
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吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
.. 旧院 (前の上皇 後白河) の周関 (一周忌) 法事用に御家人が拠出した長絹五百疋 (一疋は二反) を京に送った。 朝廷への取り次ぎは左衛門尉 佐々木四郎高綱※に命じ、因幡前司 大江広元の差配により今日出発した。 . ※佐々木高綱: 文治三年 (1186) に長門国と備前国の守護に任じている。二年後の建久六年 (1195) に家督 を嫡子の 重綱に譲り、念願の高野山で出家隠棲を遂げる。
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※なぜ高野山: 真言密教に拠れば 56億7千万年後に弥勒菩薩が
地上に降臨し、地球上の三ヶ所で説法を施して合計200億の人々を救済する、と言う。 .. その一ヶ所が 弘法大師 空海を葬った奥の院で、弥勒菩薩の言葉を空海が通訳する。その場に居合わせたいと望む多くの人が奥の院参道に墓地を求めている。参道の風景 (別窓) も参考に。 . 財力のある者は大きな墓地を、貧しい者は墓石の替りとして参道脇に小石を置いて菩薩の降臨を待つ、と。真言密教と空海が組み立てた壮大なフィクションである。講釈師、見てきたような嘘を言い...とまでは言わない:けど。 右は高野山奥の院に続く参道。空海は今も生者として扱われ、一日二度の食事が運ばれている。高野山の根幹はこの奥の院と、俗世間との結界を示す高野大塔だけ。残念ながら全ての宗教は経年と共に組織として形骸化し「衆生の救済」を二の次にして組織の維持拡大に専念していく。 . | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
. . 82代 後鳥羽天皇 . |
. 2月 7日 甲辰 . 吾妻鏡 |
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来る三月三日の鶴岡八幡宮法会 (上巳の節句) での神楽について、従来は伊豆山権現と箱根権現の稚児を招いていた。しかし大勢の供僧と門弟や御家人の子息から然るべき少年を選んで練習させるべしとの指示が頼朝から若宮の別当法眼 円暁に下された。これに従って大江広元の子息 息摩尼珠、判官代 藤原邦道の子息藤一、筑後権守 藤原俊兼の子息 竹王らが応じた。 . | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
. . 82代 後鳥羽天皇 . |
. 2月 9日 丙午 . 吾妻鏡 |
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武蔵国の丹党※と兒玉党※との確執が合戦にまで発展する気配ありとの噂により、これを説得し鎮めさせよと 畠山次郎重忠に命令を下した。 ..
※丹党: 武蔵七党の一つ。秩父五郎を称した丹基房が児玉
郡の神流川流域 (現在の神川町、地図) を本拠にして勢力を固めていた。 .. その子と孫の世代が入間郡 (毛呂山町と越生町を中心にした埼玉県中部、 . 児玉党と勢力を接する場所の一つが基房の子直時が本領とした児玉郡勅使河原 (地図) で、この辺の境界か水利権が紛争になった、と思う。勅使河原直時は吾妻鏡の文治五年 (1189) 7月1日の放生会に登場している。勅使河原の詳細はそちらで。 . 余談。丹党に属する安保氏の子孫「安保入道」は北條氏滅亡の命運を定めた 関戸河原の合戦で総大将の北條泰家を逃がすため殿 (しんがり、退却の最後尾) を守って討ち死にしている。 . 右上画像は武蔵国 (埼玉県) の行政区分地図 クリック→ 別窓で拡大表示 ※児玉党: 同じく武蔵七党の一つ。武蔵国最北部 (現在の本庄市〜上里町一帯、地図) を本拠にして秩父 や入西郷 (入間郡の西=坂戸市付近) まで勢力を広げた記録が残る。 .. 七党の中では最大の勢力を培っていたが、鎌倉幕府滅亡後の丹党と児玉党は 本領が利根川を挟んで隣接していた上野国の 新田義貞に味方し、鎌倉幕府の滅亡後は南朝の敗北と共に衰退を余儀なくされる。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
. . 82代 後鳥羽天皇 . |
. 2月10日 丁未 . 吾妻鏡 |
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毛呂太郎季綱 (毛呂季光の嫡子) が恩賞として武蔵国和泉 (現在の滑川町和泉、地図) と、南西に隣接する勝田 (現在の嵐山町勝田、地図) を与えられた。頼朝が伊豆国の流人だった頃、貧しさに困窮した下人が季綱の所領近くまで迷い歩いた、これが毛呂氏と頼朝の接点になったらしい。 .. 源氏の困窮を恐れ多い事と考えた季綱は下人に食料などを与えて伊豆に送り返してくれた。当時の頼朝は身寄りもない境遇だったが、受けた配慮には必ず報いようと考えた、その忠義心の結果である。 . ※季光の本領: 入間郡毛呂郷は現在の毛呂山町 (地図) 。新領の和泉と勝田は20km北側で重忠の菅谷館に 隣接し、3kmほど東に鎌倉街道 (上道、かみつみち) が通っている。 .. 伊豆韮山からは160kmも離れているから頼朝の下人が迷い出たとは考えにくいし、頼朝流刑地近くには源氏の縁者も多いから飢えるほどの境遇ではない、と思うが。 . 頼朝の乳母 比企の尼の在所 (地図) から毛呂山までは約 20kmだから、可能性としては例えば比企の尼を訪ねた折に、などの接点が考えられそうだ。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
. . 82代 後鳥羽天皇 . |
. 2月18日 己卯 . 吾妻鏡 |
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畠山次郎重忠が報告、丹党と兒玉党が合戦に至りそうだった状態を制止するため双方を説得した。両党とも和平に同意して互いに兵を退いた。 .. ※重忠の立場: 重忠の本領は両党の南東側に接する畠山 (現在の深谷市畠山、地図) だった事 (ただし、 現在の居館は約 13km南東の菅谷、地図)で、河越重頼が持っていた秩父氏惣領家伝来の武蔵国留守所総検校職(本来は武士の動員権を持つ一種の名誉職)を重忠が引き継いでいた事が仲裁に適任と判断されたのだろう。その河越重頼は娘が 義経に嫁した事を理由に連座して、文治元年 (1185) 11月に誅殺されてしまった。頼朝の意向に従った婚姻だったから、連座と言える筋合いではなかったのだが。 . | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
. . 82代 後鳥羽天皇 . |
. 2月25日 壬戌 . 吾妻鏡 |
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平六左衛門尉 北條時定※が京都で死没した。時定は北條時政殿の腹心であり、目代と使節を兼ねて在京し多くの功績を挙げた。人々の惜しむ人物である。 .. 前左衛門尉平朝臣 (49歳) 、北條介時兼の息子。文治二年 (1186) 7月18日左兵衛尉に任ず。同五年 (1189) 4月10日左衛門尉 (賀茂の臨時祭と祈祷の功績) に任ず。建久元年 (1190) 7月18日に職を辞す。 . ※時定の詳細: 時政は保延四年 (1138) 生まれの54歳、時定の方が5〜6歳ほど年下になる。時政と時兼は 兄弟 (時政の甥が時定とされている) だから当然ながら時兼は時政より20歳ほど年上の兄になる。しかし時定は北條時兼の子、または兼時の子、時政の甥、時政の従弟など諸説あって確定できない。 .北條氏の系図は時政の親の世代から曖昧で、系図の正統性には疑問が生まれてしまう。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
. . 82代 後鳥羽天皇 . |
. 2月27日 甲子 . 吾妻鏡 |
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先般から決まっていた鶴岡八幡宮の宮寺舞殿※の建造が始まった。奉行は二階堂行政、将軍家 (頼朝) がこれを視察した。
. ※舞殿 (舞台) : 建久二年 (1191) 3月4日に焼け落ちるまでの八幡宮本殿は現在の大石段の下にあり左右 . | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
. . 82代 後鳥羽天皇 . |
. 2月28日 乙丑 . 吾妻鏡 |
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京都の警衛 (大番役※) に任じる御家人の褒賞は関東近辺での任務に従っている御家人よりも手厚くするように指示が下された。
. ※京都大番役: 地方の武士に京都の警護を負荷 (旅費を含めた経費は全て自費負担) させたシステム。 東国武士には大きな負担となる反面、地方の武士が公家や朝廷との結び付きにより官位を得て支配権の権威を強めたり、都の文化を郷里に持ち帰り伝播する側面もあった。
.. それとは逆に、惣領の在京中に同族に支配権を収奪される例 (工藤祐経の在京中に葛見荘の支配権を 伊東祐親が収奪した)や、大きな事件の際に決裁ができない例 (畠山重能が在京中で勝手な決裁ができず重忠は平家に従う道を選んだ) などの弊害も起きた。 . 覇権を握ってからの頼朝には御家人の負担軽減と共に朝廷と御家人を軽い関係に留める目的もあり、任期は平安時代後期の3年→ 半年→ 三ヶ月に短縮された。ただし「御恩と奉公」の一端として鎌倉での警護などに任じる「鎌倉大番役」が新設される。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
. . 82代 後鳥羽天皇 . |
. 2月29日 丙丑 . 玉 葉 |
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今日、銭貨の使用禁止の件で評定が行なわれた。 . | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
. . 82代 後鳥羽天皇 . |
. 3月 1日 戊辰 . 吾妻鏡 |
. . . ※小笠懸: 埒 (馬場の柵) の左1杖(2〜3m 前後)の地上に据えた4〜8寸 (12〜24cm) の的を射る。 頼家は満10才と6ヶ月、元服※はまだだが当時の感覚では児童の範疇を越えつつある。 .※頼家元服: 一才年下の 北條泰時は建久五年 (1194年) 2/2に元服する。頼家は建久六年 (1195年) 〜建久 七年 (1196年) が元服時期だが、吾妻鏡は建久七年 1月〜建久十年 1月まで欠落している。 .. 頼朝にとっては二代目の棟梁 頼家を全国に告知し幕府と源家の繁栄を宣言した記録が抹消された事になり、筆者は、三年間の記録は意図的に抹消されたと考えている。 . 頼家の元服に伴う頼朝の発言や世襲宣言、御家人に対する 「将軍への忠節の命令」 は、頼朝没後の北條時政の行動と全く相容れないし、北條執権による独裁の正統性を否定する。 「抹消して誤魔化す以外に策はない」 と考えたのだろう。遺言さえ公表なし、だからね。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
. . 82代 後鳥羽天皇 . |
. 3月 2日 己巳 . 吾妻鏡 |
. . . ※周防国: 画像の左半分、山口市を含まない西側が長門国で、 山口市を含む東側が周防国だった。 .. 周防国の国府は佐波郡 (現在の防府市国衙、地図) 。すぐ近くの 国分寺 (防府市のサイト) は平安〜室町時代の仏像数十体の保存で知られている。 . 右は周防と長門の区分図。クリック→ 別窓で拡大。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
. . 82代 後鳥羽天皇 . |
. 3月 3日 庚午 . 吾妻鏡 |
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鶴岡八幡宮で法会 (上巳の節句※) が行われ将軍家も参席。神楽の奉納は従来の通りだが 八幡宮別当、供僧、門弟ならびに御家人の子息らがこれを演じた。
.. ※上巳の節句: 3月3日は五節句の一つ、上巳 (じょうし) の節句。禊 (みそぎ) 行事と宮中の雛遊びが習合 して穢れを人形に託して流す「流し雛」に変化したらしい。この時代は「女の子の節句」ではない。 . | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
. . 82代 後鳥羽天皇 . |
. 3月 4日 辛未 . 吾妻鏡 |
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来月13日は後白河法皇の一周忌法要である。鎌倉で千僧供養※を行なうため、当日は各々参上せよとの命令を寺々に告知した。 .鶴岡八幡宮、勝長寿院、永福寺、伊豆山権現、箱根権現、高麗寺、大山寺、観音寺※などである。 . ※寺の名: 前年の5月8日に後白河院の四十九日法要を行なった寺院 (永福寺は未完成) と重複する。 . | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
. . 82代 後鳥羽天皇 . |
. 3月 9日 丙子 . 吾妻鏡 |
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那須太郎光助※が下野国北條※の一村を拝領した。これは来月に那須野での遊猟を予定しているため、その費用を賄うための措置である。
.. ※那須光助: 那須氏の系図は錯綜が激しいため殆どが信頼に値しない。一応は資隆の十男または十一男 宗隆が与一とされており、その異父弟 頼資の子が光助 (系図では光資) らしい。 .※下野国北條: 那須一族の本拠である与一所縁の 那須神社から約 25km北、現在の那須高原別荘地に 北条の地名が残る (地図) 。もちろん北條氏とは無関係の普通名詞である。 . | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
. . 82代 後鳥羽天皇 . |
. 3月12日 己卯 . 吾妻鏡 |
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江間殿 (北條義時) ※が病気で静養していた伊豆国から鎌倉に戻った。
.. ※江間の義時邸: 韮山の北條邸から狩野川を超えた西側に伝 義時邸の跡 (別窓) がある。痕跡も皆無だが 一族の菩提寺とされる 北條寺 (別窓) から僅か 300m、時間があれば訪問を。 . | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
. . 82代 後鳥羽天皇 . |
. 3月13日 庚辰 . 吾妻鏡 |
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後白河院一周忌法要の千僧供養である。布施は一人に白布二反、藍染の布一反、象牙一袋、武蔵守平賀義信がこれを差配した。まず宿老の僧十人を決めて頭とし、各々が百人の僧を伴いて道場で法要を行なった。饗応と布施を差配するため百人毎に二人の担当者を派遣している。 .
一方の頭は若宮別当法眼(百僧が従う)奉行は 大和守重広と 大夫属入道善信 .一方の頭は法橋行慈(百僧が従う) 奉行は 主計允行政 と 堀籐太(堀親家の庶兄) 一方の頭は法眼慈仁(百僧が従う) 奉行は 筑後守俊兼 と 広田次郎 一方の頭は法眼厳耀(百僧が従う) 奉行は 法橋昌寛 と 中四郎惟重※ 一方の頭は法眼定豪(百僧が従う) 奉行は 民部丞盛時 と 小中太光家 一方の頭は密蔵房賢□(百僧が従う) 奉行は 左近将監能直 と 前武者所宗経 一方の頭は阿闍梨行実(百僧が従う) 奉行は 籐判官代邦通 と 九郎籐次 一方の頭は阿闍梨義慶(百僧が従う) 奉行は 比企籐内朝宗 と 玄番助成長 一方の頭は阿闍梨求佛(百僧が従う) 奉行は 左衛門尉足立遠元 と 法橋義勝房成尋 一方の頭は阿闍梨専光(百僧が従う) 奉行は 善隼人佐康清 と 前右馬允宗長 . ※中四郎惟重: 同じく治承四年8月20日の頼朝挙兵名簿に載っている中八惟平の兄、その他は不明。 . | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
. . 82代 後鳥羽天皇 . |
. 3月14日 辛巳 . 吾妻鏡 |
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東大寺の修造工事について、文覚上人に播磨国 (兵庫県南西部) ※の管理を委ね、その年貢を充当させるようにとの命令が将軍家から下された。工事全体の進捗が滞っている事への対処である。 .. ※播磨国: 元暦元年 (1184) 〜建久十年 (1199) の播磨国守護は 梶原景時、国主は未確認。 . | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
. . 82代 後鳥羽天皇 . |
. 3月15日 壬午 . 吾妻鏡 |
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近日中に那須野で遊猟を行なう予定があるため駿河国の藍澤※に設けてある屋形などを解体し下野国に運ぶよう、宿場の人足らに命令が下された。 .. ※藍澤原: 足柄峠西麓一帯、現在の御殿場市東部。28年後に勃発する承久の乱 (1221) で後鳥羽上皇の . | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
. . 82代 後鳥羽天皇 . |
. 3月16日 癸未 . 吾妻鏡 |
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平家に与していた越中次郎兵衛尉盛継※らが (京都の) 近国に潜伏しているとの噂がある。早急に見付け出して追討せよとの命令を兵衛尉 後藤基清に下した。 .. ※越中 (平) 盛継: 平家の侍大将で屈指の武者と呼ばれた盛俊 (一の谷で猪俣範綱に騙し討ちされた) の 二男。歴戦の末に壇ノ浦から但馬国に落ち延びて隠遁生活を送っていたのだが、建久五年 (1194) に発見されて捕縛、由比ヶ浜で斬首された。
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. . 82代 後鳥羽天皇 . |
. 3月21日 戊子 . 吾妻鏡 |
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故 後白河院の一周忌が済むまでは諸国の狩猟を禁止していたが、その期間は既に過ぎ去った。将軍家は下野国那須野や信濃国三原※などの猟場を訪れるため、今日鎌倉を出立した。 .. 以前から狩猟に熟達している者を招集し、その中から騎射に優れ忠義心の篤い御家人 22人を選んで弓箭を携帯させた。他の全員には弓箭の携帯を許さず騎馬による勢子に任じるように定めた。その 22人は次の通り。
江間四郎 武田五郎 加々美次郎 里見太郎 小山七郎 下河辺庄司 三浦左衛門尉 .和田左衛門尉 千葉小太郎 榛谷四郎 諏訪太郎 葛西兵衛尉 望月太郎 藤澤次郎 渋谷次郎 佐々木三郎 梶原左衛門尉 工藤小次郎 新田四郎 狩野介宗茂 宇佐美三郎 土屋兵衛尉 . ※信濃国三原: 浅間山の北麓、現在の群馬県吾妻郡長野原(地図)。古来から西吾妻一帯は三原と呼ばれ 上野国ではなく信濃国に含まれていた。川原湯温泉は頼朝の巻狩りの際の発見と伝わっているが、吾妻鏡の記述では頼朝一行は三原に行かず、4月末に那須野から鎌倉に帰還している。 . | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
. . 82代 後鳥羽天皇 . |
. 3月25日 壬辰 . 吾妻鏡 |
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武蔵国の入間野※で鳥の追い出し猟※を行なった。藤澤次郎清親が百発百中の腕を見せ 雉5羽と鶴 (マナヅル) 25羽を射て名を揚げた。将軍家は感心して乗っていた馬 (名は一朗) を自ら引いて清親に与えた。 .. これは祖先の 源頼義将軍が 安倍貞任を討伐した後に遊猟を楽しみ、その際に 清原武則が一本の矢で二羽を射落し、頼義が自ら馬を引いて与えた※故事を思い出したもの。騎射の極意とは鳥猟の見事さに現れる、と。 . ※入間野: 奥州街道が現在の狭山市を通っていた。義仲の息子 清水冠者義高が鎌形を目指して逃げた 道筋 (義高最期の地 を参照) であり、元弘三年 (1333) 5月に鎌倉北條氏の討伐を目指した 新田義貞の大軍が 小手指ヶ原の合戦場を目指して入間川を渡った場所でもある。 .入間野はこの奥州街道 (後の鎌倉街道) に沿った狭山市と入間市のエリアだろう。 ※鳥の追出し猟: 私が若い頃の知人の実家が栃木県の大田原で、鳥撃ち (当然、弓箭じゃなく散弾銃) に 同行した事があった。藪に隠れている野鳥 (キジなど) を見付け、主人の準備を確認してから獲物を追い出すのは近隣でも知られた名犬 (名前、忘れた) なのだが、二度続けて撃ち損なうと主人を置いて家に帰っちゃうんだよね。犬もこの位になると名犬の域を超えているんだな、と感動した。遠い昔の思い出。 .※頼義が与えた: 前九年の役で安倍貞任を倒せなかった頼義は「出羽の清原氏に臣下の礼を以て援軍を 懇請」したことになっている(陸奥話記を参照)。歴史の流れから見れば「贈った」であり、「与えた」は一種の曲筆、編纂者あるいは源氏の見栄に過ぎない。 .
※晴耕雨読: 諸事多忙のため園芸レポートが手つかず状態。
この場を借りて現状報告します。興味のない方は無視して素通りして下さい、興味のある方は、厳しく叱咤激励を! .. いま育てている野菜は...大玉トマト 四株 (他にテストとして大鉢で一株) 、ナス 四株、キュウリ 四株 (居間の日除け兼用) 、トウモロコシ (まだ発芽した段階) 10本、リーフレタス多数、インゲン、オクラ、シシトウ、小カブ多数。小ネギは収穫中、さやえんどうは食べ切れないほど収穫中。 . 果樹の状況は...梅の木2本が間もなく収穫、プラム2本も順調、レモン と温州ミカンは花盛り、富有柿と次郎柿は間もなく開花、ブルーベリー2株は結実が始まりました。 . 右画像は順調に生育中のナス苗 (手前) とトマト苗 (奥)、 そろそろ開花が始まりました。 クリック→ 別窓で拡大表示。 週末の雨が過ぎたら、エンジン刈払機で咲き終わった水仙やムスカリの残り葉を一気に片付ける予定です。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
. . 82代 後鳥羽天皇 . |
. 4月 2日 戊戌 . 吾妻鏡 |
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吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
.. 頼朝は那須野を巡覧し、昨夜のうちに勢子※を配置しておいた。 左衛門尉 小山朝政と 左衛門尉 宇都宮朝綱と 右衛門尉 八田知家が各々千人の勢子を、那須太郎光助が食事を手配した。 . ※勢子: 原則は猟場の風上から射手が待機する風下へ獲物を追い立てるのが勢子の役目。昔 住んでいた 南熱海でも、冬になると猪の追い込み猟 (昔で言う巻狩り) が行われていた。 .. 農業被害を防ぐのが主な目的だが、傷ついた猪が猟犬に囲まれて悲鳴を挙げる、その声を聞くのは決して楽しいものではない。 庭の菜園が荒らされたり、ウリ坊 (猪の子供) が庭を走り回っていたり、ハクビシンや猿やスズメバチが出没したのも転居の引き金になった。自然との共存は理屈で言うよりもむづかしい。 | . . 82代 後鳥羽天皇 . |
. 4月11日 丁未 . 吾妻鏡 |
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住吉神社の神主昌助※が 頼朝不在の御所を訪れ女房 (女官) に伝言を残した。先月の故 後白河院一周忌に際して赦免の官符 (太政官布告) が発行されたとの報告である。去る治承三年 (1179) 5月3日に伊豆国配流となり、赦免の手続きがないまま頼朝に仕えていた人物である。 .. ※佐伯昌助: 治承四年 (1180) 7月23日の吾妻鏡に次の記載がある。 . 佐伯昌助は筑前国 住吉社 (公式サイト) の神官で去年の5月3日に伊豆国に流罪となった。その前の治承二年 (1178) 1月3日に同じ神社の神官だった昌守も伊豆国に流されていた。 .. 昌助の弟の住吉小大夫昌長が初めて頼朝に拝謁、また 伊勢神宮(公式サイト)神官の子孫で最近は 波多野義常の許に滞在していた永江蔵人大中臣頼隆も共に拝謁した。 . 最近になって波多野義常と疎遠になったため、頼朝を訪れたこの二人は普段から源氏に尽くす立場を守っており、神職として頼朝の祈祷に任じる意思を抱いている。 . その後もどこかで名前を見たような気もするが...10年ぶりの懐かしい名前。 |
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. . 82代 後鳥羽天皇 . |
. 4月13日 己酉 . 吾妻鏡 |
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二男の若公 千幡 (後の実朝、約七ヶ月) が急病で大騒ぎになったが間もなく回復した。
.. ※実朝: 病弱な体質で前年12月に疱瘡を患ったためか子種も無かったらしい。頼家は健康だが、大姫も . | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
. . 82代 後鳥羽天皇 . |
. 4月19日 乙卯 . 吾妻鏡 |
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昼間の12時前後に左衛門尉 工藤祐経の家※が全焼した。類焼はしなかったが新築して 38日しか経っていない建物である。主人の祐経は頼朝の遊猟に従い下野国に出掛けて留守にしていた。 .. ※祐経の家: 材木座の弘延山実相寺 (地図) 境内が祐経の屋敷跡と伝わっている。文永八年 (1271) に 日蓮 の直弟子 日昭 (Wiki) が創建した寺で、日昭は祐経の孫とも言われるが系図上の確認は取れない。、宗教団体なんて改竄と捏造の巣みたいな組織だから信憑性も乏しいし。 . | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
. . 82代 後鳥羽天皇 . |
. 4月23日 己未 . 吾妻鏡 |
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那須野などでの遊猟がようやく終わり、藍澤から運んだ宿舎は再び解体して駿河国に運ぶことになる。 .. ※藍澤: 3月15日に場所などを記載してある。那須野から奥州街道経由で 260km前後だろうか、解体も 移動も大仕事だ。 . | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
. . 82代 後鳥羽天皇 . |
. 4月28日 乙丑 . 吾妻鏡 |
. . . ※新田館: 大田市寺井町 (地図) 付近と伝わるが、義国と義重に関する史跡は約 10km南の新田荘の南部 地区 (世良田〜岩松地区) に集中しており、特に義重が石清水八幡宮を勧請した 岩松八幡宮 .(地図) の周辺や、義国の墓所がある 青蓮寺 (地図) 一帯の可能性が高いと思う。 . 北の渡良瀬川と南の利根川に挟まれた緩やかな南傾斜で赤城山からの伏流水が網の目のように流れている。公共の交通機関が貧弱なことを除けば永住するのも悪くない。本気で売家を探した場所の一つである。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
. . 82代 後鳥羽天皇 . |
. 4月29日 乙丑 . 吾妻鏡 |
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先月12日の恩赦により流人の赦免が行われた。左衛門尉 佐々木定綱もその中に含まれていると 一條能保から連絡が届いた。また彼の弟 経高と 盛綱らも同様である、と。将軍家の喜びは大きかった。 .. 治承四年に挙兵してから多くの勲功を重ねた貴重な御家人だったが、比叡山の訴えを受けて一昨年から薩摩国に流罪となっていた者である。 . ※定綱の流罪: 事件の詳細は建久二年 (1191) 5月8日の院宣を参照されたし。定綱は薩摩、嫡子の広綱は は隠岐へ流罪、定綱の次男 定重は比叡山衆徒に引き渡されて梟首 (晒し首) となった。 .記事の文面では経高と盛綱も流刑の様に見えるが、この二人は処分を免れている。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
. . 82代 後鳥羽天皇 . |
. 5月 1日 丙寅 . 吾妻鏡 |
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常陸国の 鹿島神宮は 20年に一度の式年遷宮が決められているが、去る安元二年 (1176) に遷宮してから去年で 20年が過ぎている※。多気太郎義幹※ら神領を知行する輩の過怠により造営が著しく遅延しているため、将軍家が特に気を配り造営奉行の伊佐為宗※と小栗重成※らに不快の意を示している。 .右衛門尉八田知家に命じて、来る7月10日の例祭の前に工事を完成させるよう指示を下した。 .
※式年遷宮: 前回が安元二年ならば 遷宮は建久七年 (1196) に
なる。この誤解の原因は判らないが、頼朝に何らかの意図があった可能性を考えるべきか。 .※多気義幹: 常陸平氏大掾氏の惣領。頼朝挙兵当初の多気一族 は越後平氏 (城一族) や佐竹氏と共に平家に属したが、佐竹氏の敗北後は頼朝に帰服した。 .. 義幹の祖父致幹 (多気権守宗基) の娘が 源頼義の娘を産み、成長した彼女は海道 (常陸) 平氏から 清原真衡 (出羽国司 平安忠の次男) の養子に入った成衡に嫁した。 . 清和源氏と常陸平氏双方の血脈を受け継いで家格を挙げる目論見だったが、これは同時に清原氏の血脈を継がない事でもあり、結果としてこの婚姻は後三年戦役の引き金となってしまう。 詳細は 後三年の役と金澤の柵 (別窓) を参照されたし。 . しかし元々八田氏と多気氏の勢力エリアは重複しており、常陸からの多気氏駆逐を狙った八田知家の讒言などにより、多気一族は分家の一部を残して失脚することになる。 . ※伊佐為宗: 常陸国伊佐郡 (茨城県筑西市) に本拠を置いた 常陸入道念西 (貞暁を産んだ大進局の父) の 息子。父と共に奥州合戦で勲功を挙げ、一族は恩賞の伊達郡 (福島県北部) に土着して伊達氏の祖となった。為宗自身は伊佐郡に留まり、承久の乱 (1221年) に従軍して宇治川合戦で討死しているから、陸奥国での一族の繁栄を見る事はなかった。 .※小栗重成: 常陸大掾氏の庶流で筑西市北西端の小栗城 (地図) に本拠を置いた武士。治承と寿永の戦乱 以後は概ね多気氏と行動を共にしており、建久四年以後の消息は明確でない。 .. 右上画像は茨城県 (旧 常陸国) の行政区分地図。 クリック→ 別窓で拡大表示 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
. . 82代 後鳥羽天皇 . |
. 5月 2日 丁卯 . 吾妻鏡 |
. . . ※狩野介: 宗茂の祖父工藤祐隆が駿河から伊豆に入り狩野川東岸の日向館に本拠を置いた。祐隆または 嫡子の 狩野茂光が対岸の柿木に移って要害の 柿木城 (狩野城) を構えて狩野を名乗った。 .. 現在見られるのは大部分が南北朝時代以後の遺構だが、茂光が伊豆韮山の流人だった 頼朝を招いて観月の宴を催したと伝わる「古屋敷」の地名などが残っている。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
. . 82代 後鳥羽天皇 . |
. 5月 7日 壬申 . 吾妻鏡 |
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所衆※の大江行義の娘が美作国※に所有している土地の年貢を 梶原刑部丞友景 (景時の末弟、「秩父平氏の系図」参照) に奪われた旨の訴えがあり、中納言吉田経房の口添えもあったため友景を呼んで決裁を下した。
.. 友景の陳述には違法行為は認められないが「友景はこの土地を失っても困らないけれど訴人は侘際 (貧困) であり、まして中納言の意向もある。理屈を忘れて代官を撤去させるべきだろう」と友景に指示した。 . 友景は直ちに了承し、特に拘わる様子も見せなかったため潔癖な姿勢であると褒められ、訴人である大江行義の娘も悩み事が解消した。 . ※所衆: 天皇家の家政全般を取り扱う 蔵人所 (Wiki) に属する職員。別当、頭、五位蔵人、六位蔵人の 四等官と下位の職員で構成する。 .※美作国: 岡山県北部。平家全盛の頃は平氏知行国で、梶原景時の守護→ 和田義盛の守護を経て北條氏 の所領となった。足利氏の管理記録がある荘園が多く散在する。 . | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
. . 82代 後鳥羽天皇 . |
. 5月 8日 癸酉 . 吾妻鏡 |
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将軍家は富士野と藍澤での夏の遊猟を楽しむため駿河国に赴いた。 .. 江間殿、上総介、伊豆守、小山左衛門尉、同五郎、同七郎、里見冠者、佐貫四郎大夫、畠山次郎、三浦介、 同平六兵衛尉、千葉太郎、左衛門尉三浦十郎、下河辺庄司、稲毛三郎、和田左衛門尉、榛谷四郎、浅沼次郎、 工藤左衛門尉、土屋兵衛尉、梶原平三、同源太左衛門尉、同平二、同三郎兵衛尉、同刑部丞、同兵衛尉、 糟屋籐太兵衛尉、同平次、岡部三郎、土岐三郎、宍戸四郎、波多野五郎、河村三郎・愛甲三郎、加藤太、 同籐次、海野小太郎、藤澤次郎、望月三郎、小野寺太郎、市河別当、沼田太郎、工藤庄司、同小次郎、 祢津二郎、中野小太郎、佐々木三郎、同五郎、渋谷庄司、小笠原次郎、武田五郎らが供として従った。 その他にも射手に任じる者が多数集結している。 . ※他の武士: 浅沼次郎は佐野氏(藤姓足利氏)の阿曽沼広綱、父は足利俊綱の弟有綱の子 佐野基綱。 基綱が寿永元年 (1182) に築いた阿曽沼城 (佐野市、地図) に本拠を置いて佐野氏に仕え、藤姓足利氏滅亡後は鎌倉御家人となった。 .. 三郎兵衛尉は景茂、梶原景時の三男で景季と景高の弟。刑部丞は朝景、景時の末弟。兵衛尉は景定(役野景貞)で朝景の嫡子。 . 岡部三郎は 武蔵猪俣党の岡部氏系か、工藤氏系の駿河国岡部郷の武士か判別できず。 土岐三郎は美濃源氏の武士だが詳細は不明。宍戸四郎は八田知家の四男で宍戸氏の祖。 . 小野寺太郎は道綱、本拠は下野国都賀郡小野寺 (地図) で当初は 知盛に従って 宇治川合戦で 三位頼政と戦い、後に鎌倉御家人となった。承久の乱の 宇治川合戦で戦死、享年68。 . 市河別当は行房。武田義清の末弟 (源義光の末子) で圓城寺 (三井寺) の覚義阿闍梨が父が国司に任じた縁のある甲斐国に土着して平塩寺 (地図) の隆盛に寄与し、嫡子の覚光と嫡孫の行房が平塩寺別当職として義清の甲斐土着を援助した。詳細は 甲斐市河荘 (別窓) の末尾を参照されたし。 . 沼田太郎は上野国利根郡の沼田城 (地図) を本拠にした武士。文治元年 (1185) 10月24日と建久元年 (1190) 11月7日の随兵に記載がある。 . 祢津二郎は信濃国小県郡祢津 (東御市祢津、地図) を本領とした武士で海野氏や望月氏と並ぶ信濃の名族 滋野三家の一つ。結束が強く、勇猛な武士を輩出したことでも知られる。 . 中野小太郎助光は信濃国中野の武士で建久十年 (1190) 11月7日の頼朝上洛の随兵に記載がある。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
. . 82代 後鳥羽天皇 . |
. 5月10日 乙亥 . 吾妻鏡 |
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前少将従四位下 平朝臣信時が鎌倉で死去した。 .日頃から将軍家が配慮を加えていた人物で、大納言 平時忠卿の息子である。平氏が滅亡する前に継母の讒言によって安房国に左遷されていたが、一族の滅亡後に頼朝に仕えていた。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
. . 82代 後鳥羽天皇 . |
. 5月15日 庚辰 . 吾妻鏡 |
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藍澤での遊猟が終わり、将軍家は富士野の仮宿※に入御した。 .南に面して五間 (五スパン) の仮屋を建て、御家人の宿舎も軒を連ねている。狩野介宗茂は途中で合流し、北條時政殿は前もって到着し食事の準備を済ませていた。 . 今日は齋日※に当るため狩りは行わず、終日の酒宴である。手越宿と黄瀬河宿※周辺の遊女が大勢集まり、頼朝は里見冠者義成※を呼んで「遊君別当」を申し付けた。少し騒々しくなったため別の場所に集めさせ、歌舞に長じた者を選んで招きに応じさせよ、と命じた。この後は遊女に関する問題は全て義成が取り仕切る。 .
※仮宿: 今も狩宿の地名が残る (地図)、曽我の仇討ちの舞台で
である。曽我兄弟の足跡 の後半を参照されたし。
.※齋日: 仏教思想により殺生を禁じる日。8日、14日、15日と 後半の23日、29日、30日が該当する。 .※里見義成: 新田義重の庶長子でこの時は26歳。遊君別当は 言葉遊びで 宴会奉行と遊女の割当を担当する。 .※手越と黄瀬河: 共に東海道の宿驛。当時から江戸時代末期 まで (その後も、か? ) 多数の遊女がいた。 .. 狩宿から約 50km離れた 手越と、約 40km離れた 黄瀬川 (共に地図) で結構な距離があるから、遊女さんの生活も色々と大変だね。 . 右画像は頼朝の宿舎跡「狩宿」の鳥瞰。画像をクリック→ 別窓で拡大表示 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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. 5月16日 辛巳 . 吾妻鏡 |
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富士野の遊猟で将軍の家督を継ぐ若君 (頼家) が初めて鹿を射止めた。愛甲三郎季隆が巧みに鹿を追い込んだ、その結果である。頼朝はこれは勲功に値すると、左近将監 大友 (古庄) 能直を経て内々に季隆に伝えさせた。 .. この事で今日の狩りは終わり、夜になって山神に矢口 (狩りの始まりを意味する儀式) を祀り、江間殿 北條義時が三色の餅を献じた。折敷 (盆) の左に黒色の餅を三つ、中に赤色を三つ、右に白色を三つである。長さ八寸、巾三寸、厚さ一寸の (餅を載せた) 折敷が三組である。 . 狩野介宗茂が勢子に渡す餅を献じ、将軍家と若公は行騰 (袴の覆い) を篠の上に敷いて座した。上総介 足利義兼、江間殿、三浦介義澄らが列座した。ここで鹿狩りの際に眼に留まった射手三人を選び矢口餅を与えた。 工藤景光、愛甲三郎季隆、曽我太郎祐信である。源太左衛門尉 梶原景季、左衛門尉 工藤祐経、海野小太郎幸氏が餅の膳を御前に並べて置いた。 . 先ず工藤景光が呼ばれて御前に進み、蹲居して白餅を中に置き、赤餅を取って右に置いた 。その後に三色を各一つ取って重ね (黒が上、赤が中、白が下) 、中→ 左→ 右の順に三口食べ、小さく矢叫びを発した。続いて愛甲季隆、作法は景光と同じだが餅の置き方は最初の通りで並び替えをしない。 . 次に祐信を召し、「最初の二口は特に優れた射手を選んだが、三口目はどうするべきか」と問うた。祐信はそれに答えず、同じ作法で三口の餅を食べた。頼朝は「私の問いに気の利いた返事をしてから食べるべきなのにそれをせず勝手に食べたのは残念である」と仰せられた。 . 次に三人に各々鞍を置いた馬と直垂を褒美として与え、三人は馬と弓と狩りの矢と行騰と沓 (くつ) を若公に献上した。やがて列座した者に酒が行き渡って全員が酩酊、勢子などを務めた者たちを呼んで各々十字の付いた饅頭を配って労をねぎらった。 . ※伝承: 頼朝は白糸の滝を見物し、水面を流れる花を見て一首を詠んでいる。出典不明、なんだけど。 . . | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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. 5月22日 丁亥 . 吾妻鏡 |
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将軍家は若公が鹿を射止めた事が嬉しくて平次左衛門尉 梶原景高を鎌倉に送り、御台所 政子に報告させた。 .景高は鎌倉に駆けつけ、女房を通じて御台所に報告したが特に喜びの言葉はなく、使者は面目を失った。 . 「武将の後継者として原野の鹿や鳥を射止めるのは騒ぐ程のことではない、そんな使者は煩わしいだけ」※が返事だった。景高は富士野に戻り、今日その内容を報告した。 . ※政子の対応: このクールさが政子の真骨頂なのだが、頼朝には「始祖の逸話」という背景がある。 . 清和天皇の第六皇子 貞純親王の子 六孫王 経基は文武の道に優れた才能を発揮した。 .武将の才覚があると考えた帝は源の姓を下賜して臣籍降下を許し、皇子は源経基と名乗って清和源氏の祖となった。後に経基は内裏に侵入した怪しい鹿を射止め、更に謀反の首魁 藤原純友を討伐して武名を挙げた。 . 頼朝はこの逸話を前提にして将軍を継承する「頼家の天賦の才」を伝えたかったのだが田舎育ちの政子が 250年も前の逸話なんか知る筈がない。木で鼻をくくるような返事になったというお話。育った環境の違う夫婦間の溝...現代なら価値観の違いとかで離婚の伏線になる、かも知れない (笑) 。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
. . 82代 後鳥羽天皇 . |
. 5月27日 甲午 . 吾妻鏡 |
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未明から勢子を配置して終日狩猟を行い、射手は各々競って自慢の技を披露した。 .. ここで、見た事もないほどの大鹿が頼朝の馬前に走り出た。作與美 (粗く織った麻布) の水干を着し鹿毛の馬に乗った 工藤庄司景光が頼朝の左方で「この鹿は景光の獲物、私が射取ります」と望み、頼朝が許した。 . もとより手練の射手なので周辺の者は馬を抑えて見守り、景光は少し体を開いて弓手の鹿に最初の矢を放ったが当たらず、鹿は一段 (約10m) ほど前を駆け抜けた。景光は馬に鞭を入れて鹿を追い掛け二の矢と三の矢を放ったが、これも当たらない。景光は弓を捨て、馬を止めて語った。 . 11歳の頃から狩猟をして暮らし既に七旬 (70年) を越えたが、弓手の獲物を射損じたことはない。 .しかし今は心身が定まらず甚だ落ち着けなかった。これは山神※が跨った鹿か、私の運もこれまでか。 見ていた者も奇異の念に囚われたが、夕暮れに景光が発病した。頼朝は「奇怪だ、狩りを中止して帰るべきか」と言い、宿老たちはそこまで考えなくても、と応じたため明日から七日間は巻狩りにしようと決めた。 . ※山神: ひょっとして 「もののけ姫」のあのシーンを思い出した人がいる、かもね。 . | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
. . 82代 後鳥羽天皇 . |
. 5月28日 癸巳 . 吾妻鏡 |
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子刻 (深夜) 、故 伊東次郎祐親法師の孫である 曽我十郎祐成と 同 五郎時致が富士野の神野の狩宿 (地図) に推参し、左衛門尉 工藤祐経を殺した。同宿していた備前国の住人 吉備津宮の王籐内※も共に殺された。
.. 同宿していた遊女 手越の少将と黄瀬河の亀鶴※らが泣き叫び、祐成兄弟は大声で「父の敵を討った」と名乗ったため、周辺は大騒ぎになった。宿泊していた大勢の侍が様子が判らないままに飛び出して暗闇の中を走り回り、祐成兄弟によって多くの者が負傷した。平子野平右馬允、愛甲三郎、吉香小次郎、加藤太、海野小太郎、岡部弥三郎、原三郎、堀籐太、臼杵八郎が疵を負い、宇田五郎が命を落とした。 . 十郎祐成は 新田四郎忠常と斬り合って落命、残る五郎時致は頼朝の狩宿を目指して走った。頼朝は剣を取って立ち向かおうとしたが、左近将監 大友 (古庄) 能直がこれを制した。 . この間に小舎人童の 五郎丸が曽我五郎を捕獲し、大見小平次に召し預けられて騒ぎが鎮まった。和田義盛と 梶原景時が頼朝の指示を受けて祐経の死骸を検分。左衛門尉 藤原朝臣祐経、工藤瀧口※祐継の息子である。 .
※王籐内: 平家の家人 瀬尾太郎兼保 (備前国で 義仲軍と激戦を
繰り返して討死 ) に与した嫌疑から拘留されていた武士で吉備津宮の神官。祐経の協力で嫌疑が晴れ、没収されていた本領の返還を得たため、狩宿に立ち寄り謝礼を兼ねた酒宴の後に同宿していた。 .※黄瀬河の亀鶴: 沼津の黄瀬川に 亀鶴姐さんの後日談が伝わっ ている。真偽は不明なのだが、黄瀬川の風景(別窓) の末尾に詳細を載せておいた。 .※他の情報: 仇討事件に関しては曽我物語が虚実を取り混ぜて
※滝口: 朝廷警護は近衛府の任務だが、九世紀末に平城上皇と
嵯峨天皇の兄弟が争った 薬子の変 (Wiki) を契機に蔵人所を設け、庭などを警護する武士組織を配した。 .. 武者の詰所を設置したのは清涼殿東庭北東にある排水の落ち口 (滝口と称す) の近くなので、滝口または滝口武者と呼んだのが名称の発端である。 . やがて近衛府の武者と同様に武器を携帯して宮中に入るのを許されるようになり、その勤務を経て六位程度の衛府武官を目指すのが東国武士の栄誉と考えられるようになった。 . 上皇の私兵として設けられた北面の武士や 後鳥羽上皇が更なる手勢の強化を目指して創設した西面武士などの原型である。 . 右は現在の京都御所清涼殿 北東にある滝口の一画。 画像をクリック→ 別窓で拡大表示 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
. . 82代 後鳥羽天皇 . |
. 5月29日 甲午 . 吾妻鏡 |
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辰刻 (朝 8時前後) に曽我五郎を狩宿前の庭に引き出し、頼朝が出御した。幔幕二間を引き上げ、主だった御家人 10数人が列座した。 .. 一方は 北條時政、伊豆守 山名義範、上総介 足利義兼、北條義時、豊後前司 毛呂季光、里見冠者義成、三浦介義澄、畠山次郎重忠、左衛門尉佐原十郎義連、伊澤五郎信光、小笠原次郎長清、 . 一方は 左衛門尉 小山朝政、下河辺庄司行平、稲毛三郎重成、長沼五郎宗政※、榛谷四郎重朝、千葉太郎胤正、弥三郎頼綱※らである。 . 結城七郎朝光と左近将監 大友 (古庄) 能直が御前の左右に、和田左衛門尉義盛と 梶原平三と 狩野介宗茂と 新開荒次郎※らが両座の中央に控えた。その他にも数え切れないほどの御家人が集まった。 . まず、狩野介宗茂と新田荒次郎を介して夜討ちの本意を尋ねさせたが五郎は「祖父 伊東祐親が殺されてから子孫は零落したが、最後の所存を申し述べるのに汝らを介する必要はない。直接言上するから早く退け」と怒った。将軍家は思う所があって言い分を直接聞くことにした。 . 五郎は次のように語り、聞いていた者は舌を鳴らして感動した。 . 祐経を討ったのは父が殺された恨みを雪ぐためで、ついに志を遂げることができた。祐成が九歳で私 (時致) が七歳の時から片時も仇討ちの思いを忘れず、遂に宿願を果たした。その後に御前を目指したのは祐経が寵臣であるのみならず祖父の祐親を排斥したなどの恨みを言上してから自殺※するためである。
.次に 新田四郎忠常が祐成の首を運んで五郎に見せ、兄に間違いないと認めた。五郎の勇気に感動した頼朝は赦免も考えたが、祐経の幼息 (犬房丸、後に伊東家を継いだ 祐時) が泣いて願い出たため五郎 (数え20歳) を引き渡し、鎮西中太郎なる者が首を斬った※。 . この兄弟は 故 河津三郎祐泰 (祐親法師の嫡子) の息子である。祐泰は去る安元二年 (1176) 10月の頃に伊豆奥野の狩場※で郎党の矢に当り落命した。祐成が五歳で時致が三歳、成人して祐経の指示だったと知り恨みを晴らした。それまでは狩りを催す度に従者の中に紛れ込み、影のように祐経の隙を伺っていた、と。 . また、手越の少将らを召し出して前夜の子細を尋ねた。祐成兄弟の所為であり、見聞した全てを申し述べた。 . ※長沼宗政: 小山政光の五男で 朝政の同母弟、結城朝光の異母兄。下総長沼 (現在の成田市) を本拠に 下総長沼氏の祖となった。承久の乱の勲功で淡路守護に任じ、陸奥国 (須賀川) と武蔵国 (稲毛) にも所領を得ている。
.※弥三郎頼綱: 後に宇都宮氏五代棟梁を継承する頼綱。三代当主 朝綱の孫で四代 頼業の嫡子。 . ※新開荒次郎: 土肥実平の次男実重で、大里郡豊郷村 (深谷市新戒、地図) の土豪新開忠氏の養子。 新開忠氏は頼朝が土肥から安房へ舟で逃れた「七騎落ち」の一人とされるが真偽不明。 .※自殺の計画: これは信用できない。兄弟は祐経を殺し機会があれば頼朝も、と考えていたと思う。 . ※時致斬首: 曽我兄弟の墓などの遺跡は曽我兄弟の事跡 (別窓) に詳細を記述してある。参照されたし . | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
. . 82代 後鳥羽天皇 . |
. 5月30日 乙未 . 吾妻鏡 |
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申刻 (16時前後) 、雑色の高三郎高綱が飛脚として富士野から鎌倉に到着。これは祐成らの狼藉を御台所に報告するためである。また祐成が時致最後の様子を母親の許※に送る書状を見たところ、幼い頃から父の仇を討つ願いを抱いていたと書いてあった。頼朝は感涙を拭ってこれを読み、長く文庫に保管せよと命じた。 ..
※母親の許: 曽我祐信の所領。館跡をはじめ様々な史跡やら
偽物やら、玉石取り混ぜて様々に残っている。 .. ちなみに、曽我物語によれば仇討の際に兄弟は「我らは曽我に非ず、河津の子」と名乗った、としている。養父や母に累が及ぶのを避けたのか、それとも河津一族としての矜持か。 . そもそも 「曽我の仇討ち事件」が起きた原点は何か、その詳細経緯は【 鎌倉時代を歩く 壱 】の曽我物語の原点 奥野の巻き狩り から御覧あれ。長い長い、悲しい物語になる。 . | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
. . 82代 後鳥羽天皇 . |
. 6月 1日 丙申 . 吾妻鏡 |
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.. 曽我十郎祐成の愛人 大磯の遊女 (名は虎) を呼び出して調べたが、特に罪に問うような疑いはなかった。 また曽我兄弟には父の 祐泰が死んだ 5日後に生まれた弟がおり 九郎祐清 (祐泰の弟) の妻 (比企の尼の娘) が養育し既に出家していた。 . 祐清が平家軍に加わり北陸道の合戦で討死した後に、妻はその幼児を連れて武蔵守 平賀義信に再嫁し武蔵国府にいる。祐経の妻子が曾我兄弟との共謀の可能性を訴えた事から、取り調べのため出頭※を命じた。 . また兄弟の養父である 曾我太郎祐信は連座に問われるのを酷く恐れていたが、共謀の事実なしと判明した。 . ※僧の出頭: 実際は武蔵国府ではなく、越後の国上寺 (道の駅「国上」の後半を参照) で仏道修行中の ため鎌倉への出頭は7月になる。 . | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
. . 82代 後鳥羽天皇 . |
. 6月 3日 戊戌 . 吾妻鏡 |
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遊猟の際に供として従っていた常陸国久慈郡※の御家人は、祐成らの夜討ちの際に怖れて逃亡した。そのため所領などの没収処分を受けた。
.. ※久慈郡: 現在の茨城県太子町と常陸太田市が該当する。茨城県の行政区分地図 (別窓) を参照。 . | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
. . 82代 後鳥羽天皇 . |
. 6月 5日 庚子 . 吾妻鏡 |
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曽我兄弟の事件を知った近隣の御家人が鎌倉に集結したため近国が騒がしくなった。常陸国の大名である右衛門尉 八田知家と多気太郎義幹は特に険悪な仲ではないが、領地を接して互いに権勢を競う関係である。 .. 事件を知って鎌倉に向かおうとした際に知家は策略※を企み、下人を使って「知家が軍勢を集めて義幹を討とうとしている」と義幹に伝えさせた。 . 義幹は防戦を準備し一族を纏めて多気山城 (地図) に立て籠ったため常陸国が騒ぎになった。 . 知家は再び雑色を派遣し「富士野の狩宿で事件があったため推参するが同道されるか」と申し入れた。義幹は警戒してこれを断り、更に防御を固めた。 . ※知家の策略: 5月1日に鹿島神宮の関連で多気義幹の名前が挙がっている。単純な八田知家の謀略では なく、頼朝も事前に承認した粛清だろう。下野国 (栃木県) は小山氏と宇都宮氏と足利氏の勢力に、常陸国 (茨城県) は八田氏と小田氏と結城氏の勢力に任せて政権の不安定要素を排除したいのが頼朝の本音である。 . | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
. . 82代 後鳥羽天皇 . |
. 6月 7日 壬寅 . 吾妻鏡 |
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頼朝は駿河国から鎌倉に還御した。その途中で 曽我太郎祐信に供としての同行を免除※し、更に曽我庄の年貢を免除し「祐成兄弟の菩提を弔う費用に宛てよ」と命じた。兄弟の勇気に深く心を打たれたためである。
.. ※同行の免除: 御家人の義務を免除し兄弟の菩提を弔えとの指示で祐信夫婦は剃髪して供養の生涯を 送った事になっているが、嫡子は前妻の産んだ祐綱がいる。後妻の連れ子である祐成は下男同様の扱いを受け、弟の元服費用も出さなかった。 . 祖父の北條時政が費用を負担して烏帽子親を務めた関係で五郎時致 (兄は父の一字を使って十郎祐成) を名乗った。貧しさと環境が仇討決行の一因、と指摘する説もある。 . 兄弟の仇討には祖父と父の怨みに加えて「耐え難い貧困」の側面もあった、と。祐信の遺跡を見る限り屋敷跡も粗末ではないし所領も結構広いし、兄弟の扶養に支障があったとは考えにくい。ひょっとしてただの吝嗇オヤジだった、かも知れない。 . | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
. . 82代 後鳥羽天皇 . |
. 6月12日 壬寅 . 吾妻鏡 |
. . . ※頼朝の疑念: 覇権を握っても弱小御家人の謀反を疑う。「独裁者の宿命」に加えて性格の悪さ、か。 . | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
. . 82代 後鳥羽天皇 . |
. 6月18日 癸丑 . 吾妻鏡 |
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故 曽我十郎祐成の愛人 大磯の虎は剃髪はしていないが、墨染の袈裟を着している。祐成三七日の忌日を迎えて箱根山の別当行実※の坊で法事を催し、仮名文字の諷誦文 (死者を追善する文) を奉じた。読経の布施は生前の最後に祐成が与えた葦毛の馬一疋である。今日出家を遂げ、信濃国 善光寺 (公式サイト) に向かった。
.. このときの虎女は19歳、のちに曽我兄弟の話※を聞いた者は緇素 (僧も俗人も) の誰もが涙を流した※。 .
※別当行実: 石橋山合戦に敗れた頼朝を匿った箱根権現の僧。
頼朝は 土肥実平に 「世が落ち着いたら行実を箱根の別当に」と薦められ、その約束を守った。 .治承四年 (1180) 8月24日の条を参照。 ※仇討ちの話: 吾妻鏡が編纂された鎌倉時代中期以後には事件 の詳細は東国に広がっていたはず。 .. 「この時の虎女は...」以下の部分は史料の転記ではなく、吾妻鏡の編纂者が当時の世相を追記したものだろう。 虎女が語った兄弟の生涯が箱根権現の僧や布教の遊行僧や瞽女などにより全国に広まるのだが、これは南北朝時代以後になる。 . 右は信濃善光寺の近くにある虎ヶ塚。 画像をクリック→ 別窓で拡大表示。 . 彼女はここ (地図) に庵を結び大きな石を置いて兄弟の菩提を弔った、と伝わる。 まぁ真偽は判らないけれど、ね。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
. . 82代 後鳥羽天皇 . |
. 6月20日 乙卯 . 吾妻鏡 |
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10日以上も日照りが続き 農民が降雨を乞い願っているため、鶴岡八幡宮と勝長寿院と永福寺の供僧が雨乞いの祈祷を行なった。三善康信が差配し各々に願書を渡した。 .. ※6月10日: 建久四年のこの日は西暦の7月10日に該当する。田植え直後の水不足は深刻だ。 . | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
. . 82代 後鳥羽天皇 . |
. 6月22日 丁巳 . 吾妻鏡 |
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多気義幹※が呼び出しに従って参上し、三善康信と 藤原俊兼らが奉行として 八田知家を呼び対決させた。 .. 知家は「富士野の事件が起きたことを今月4日に知り、参上する際に義幹を誘ったのだが義幹一族は郎従と共に多気山城に立て籠って謀反を企てた。」と述べた。 . 義幹は陳謝したが明確な弁明はできず、城郭を構えて兵を集結させた事実は否定しなかったため、常陸国の筑波郡と南郡と北郡等などの所領を没収し、身柄は岡部権守泰綱※の預かりとした。所領は今日のうちに馬場小次郎資幹※に下賜され、因幡前司 大江広元がこれを差配した。 . ※多気義幹: 筑波山南東麓の小田城を領有する八田知家と所領を接する武士。頼朝の支配圏が常陸に 及ぶと共に八田知家が小田に進出したため 両者の確執が起き、結果として頼朝によって駿河に追放され同地で生涯を終えたらしい。 .. 供養墓は多気山城の南麓にあり、小田城址とその周辺 (別窓) の末尾近くに訪問記を併記して置いた。小田氏の庇護を受けて律宗の布教と非人救済に生涯を捧げた 忍性が拠点を置いた 三村山極楽廃寺 (別窓) と併せて参考に。 ※岡部泰綱: 駿河国志太郡の朝日山城 (地図) に本拠を置いた藤原南家 駿河工藤氏の武士。工藤祐経や 狩野一族の遠戚に当る。 .※馬場資幹: 多気氏の同族。義幹の所領と常陸大掾職を継承し、のちに水戸城を築いて本拠とした。 多気氏の所領を狙った八田知家は思惑が外れたことになる。蛇足だが、義幹の次男茂幹の子孫に新撰組創立者の芹沢鴨(出自は行方市玉造町)がいる。
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. . 82代 後鳥羽天皇 . |
. 6月25日 庚申 . 吾妻鏡 |
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文覚上人が東大寺造営の費用※として管理している国衙領を 重源上人 (東大寺再建の指揮者) が弟子や布施をした旦那を称する知人に分け与えているとの風評が届いた。事実であれば仏法に叛く行為である。 .. 将軍家の推挙を得て管理に任じている立場でそのような行動があれば世間の嘲りと責任は鎌倉に負わされる、そう考えた頼朝は注意を喚起するため刑部丞 梶原朝景 (景時の末弟) と 安達新三郎清恒を京都に派遣した。 . ※造営の費用: この時代の摂政関白だった 九条兼実の日記「玉葉」には費用捻出範囲を取り決めた曖昧 さを指摘する記載がある。頼朝の意向に従って 一條能保が国司に任じている備前国 (岡山県南東部) の収入を重源上人に付与する事は決定したのだが、税の納付負担は国司側なのか重源側なのかなどの具体的な合意がない事からトラブルが発生したらしい。
.. 個人的には 頼朝の疑惑癖、重源上人や唐の工人陳和卿と東大寺の齟齬などの複合的な弊害が発生し幾つかのトラブルを引き起こした原因だと考える。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
. . 82代 後鳥羽天皇 . |
. 7月 2日 丙寅 . 吾妻鏡 |
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.. 武蔵守 平賀義信が呼び出した養子の僧 (僧位は律師※) が昨夜鎌倉に到着した。彼は 曽我十郎祐成の弟だが、日頃は越後国久我窮山(現在の国上寺 (公式サイト) で修行していたため到着が遅れたものである。 . しかし斬首に処されるとの噂を聞き、甘縄の付近で念仏を唱えた末に自殺してしまった。梶原景時がこの旨を報告し、頼朝はこの結果を悔やんだ。元より斬首の意図などなく、ただ兄と同じ意志を持っていたか否かを確認しようと考えたに過ぎなかった。 . ※律師: 僧尼の位階の一つ。律令制では 僧正、僧都、律師の三つだったが 平安時代には僧正、僧都、 律師、法印、法眼、法橋の六位になった。 . | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
. . 82代 後鳥羽天皇 . |
. 7月 3日 丁卯 . 吾妻鏡 |
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小栗十郎重成の郎従が鎌倉に駆け付け、梶原景時を介して申し出た。 .. 主人の重成は現在鹿島神宮造営の差配に任じていますが、先頃から疲労が激しくて物狂いの状態になり、神託と称して意味不明の言葉を発しています。 .去る文治五年 (1189) に奥州平泉で泰衡の倉庫を開き重宝などを確認した際に 玉幡※の下賜を願って拝領し氏寺に飾っていたのですが、毎夜夢の中に数十人の山伏が枕元に現れて玉幡を欲しがるのだそうです。この夢に十日以上も悩まされ続け、心に異常を来たしたようです。 これによって小栗重成の造営差配の任を解き馬場小太郎資幹に交代を申し付けた。彼は多気義幹の所領を拝領し、現在は既に常陸国の大名の立場である。 . ※玉幡: 玉座や仏堂の内陣などの軒先に提げる装飾 (参考画像)。重成は奥州合戦の文治五年 (1189) 8月 22日に平泉を放棄して逃亡した 藤原泰衡の平泉館の倉庫調査を命じられ、見つけ出した玉幡と金華鬘などを「氏寺の装飾に」と望んで与えられた。 .小栗重成は 5月1日に 鹿島神宮 (公式サイト) 修造工事の遅延について注意を受けていた。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
. . 82代 後鳥羽天皇 . |
. 7月10日 甲戌 . 吾妻鏡 |
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凉しい海風に誘われて将軍家は小坪※の辺りを周遊した。長江や太田和の者が干潟に仮屋を建てて迎え入れ、鮭と食事を献じた。供の人々は漁師と共に釣りや弓射を楽しんだりして秋の日を過ごし、黄昏に還御した。 ..
※小坪: 昭和30年代 (1950〜60年) に鎌倉霊園 (約17万坪、地図) を
造成し、その残土で小坪の岩礁地帯を埋め立てた場所が現在の逗子マリーナ地域である。 .. 埋め立てが完了するまで現在の小坪港前の信号から海前寺の崖下を通って六角の井に続く道路の部分 (地図) が崖下を通っていた「小坪路」で今回頼朝が周遊したのは和賀江島 (鎌倉時代中後期に造成した港湾施設) から小坪漁港のある浜辺周辺なのだろう。 . また現在の小坪隧道 (地図の ● 印) が三浦と鎌倉を結ぶ古道の「小坪坂」で、平家物語が描いた小坪合戦の「鐙摺に入った 三浦義澄も小坪浜に取って返した」ルートだと思う。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
. . 82代 後鳥羽天皇 . |
. 7月18日 壬午 . 吾妻鏡 |
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鶴岡八幡宮の陪従 (楽人) である大江右近将監久家が多好方の薫陶を受け神楽の秘曲を会得するため、事前に申し入れた上で上洛していた。今日更に多好方※に書状を送り、宮人の曲が秘蔵なのは承知しているが、久家に伝授するのは頼朝に伝授するのと同様に考えて欲しいとの申し入れを行なった。 .. ※多好方: 建久二年 (1191) の10月25日、11月19日、同21日と22日、12月19日に関連記事あり。 . | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
. . 82代 後鳥羽天皇 . |
. 7月24日 戊子 . 吾妻鏡 |
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横山権守時広※が一疋の異様な馬を引いて御所に参上した。足が九本、つまり前足が五本で後足が四本ある。 .これは所領の淡路国国分寺 (現在の南あわじ市役所近く、地図) 辺りで去る五月に産まれたとの報告を疑いながら取り寄せた、との事。頼朝は伊沢左近将監家景に命じて陸奥国外浜※に放すよう申し付けた。 . 周の国に伝わる三十二蹄は八疋の馬を合わせた寓話だが、一疋で九本の足は実に珍しい。しかし吉兆とも不吉とも判断はできないから千里の彼方に放すのが妥当だろう、と考えた。 . ※横山時広: 横山氏は武蔵七党の一つで本領は現在の八王子市、多摩丘陵の横に位置したのが横山の姓 になった、と伝わる。八幡太郎義家に従って後三年の役を戦った小野経兼が恩賞として武蔵国多摩郡横山庄と相模国下足柄郡を得て横山を名乗ったのが最初で、守護神社は八王子市横山町の 八雲神社 (地図)。奥州合戦の文治五年 (1189) 9月6日に次の記載がある。 .. ※陸奥国外浜: 狭義には津軽半島東部の陸奥湾沿岸全域、広義には当時の支配北限を示す。 . | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
. . 82代 後鳥羽天皇 . |
. 7月28日 壬辰 . 吾妻鏡 |
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刑部丞 梶原朝景が京都から鎌倉に帰参し、文覚上人からの書状を提出した。東大寺造営に資する供米を人に与えているとの訴えがあった件についての説明である。
.. 東大寺再興の志は意味深いものですが備前国の民は策を弄して納税を怠り命令にも従いません。そのため縁者を兵として国衙領に派遣し徴税に従事させました。恐らくはこれが讒訴に及んだ原因でしょう。 .そんな連中は現世の救済も受けられず、来世では無間地獄に落ちるでしょう。 そのような悪口が並べてあった。これは説明として充分ではなく、将軍の意には沿わない※対応である。 . ※意に沿わない: この件を続けて検討した形跡は見られない。文覚は私利私欲を求めるタイプではない のだが、協調性に欠ける激しい性格は頼朝の死没と共に庇護者を失ない、やがて失脚を招いてしまう。今回は 信頼すべき相手を信頼しない頼朝の嫌な性格が原因だろう。
.. 例えば、些末な讒言があるとあの律義な 畠山重忠さえ疑ってしまう猜疑心の強さと、冷静に考えれば疑って然るべき時政や政子の言葉には無条件に全幅の信頼を置いてしまう、愚かで短絡的なダブル・スタンダード。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
. . 82代 後鳥羽天皇 . |
. 8月 2日 丙申 . 吾妻鏡 |
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.. 参河守範頼が起請文を書いて将軍に提出した。これは謀反※を企てているとの噂について質問されたためである。起請文の内容は次の通り。 . 私は鎌倉殿の代官として再三戦場に赴き、朝敵を追討し忠義を尽くして以来全く二心を持っていません。 .子孫の将来についても忠節を尽くす考えです。御意に叶うべく行動してきたのは御存知の通りであり、疑いを受けるのは思ってもいません。過去も未来も不忠を抱かず、それは子孫にも固く伝えるものです。 . 万が一にも違背すれば 上は梵天や帝釈天、下界では伊勢や春日や賀茂、更に氏神である正八幡大菩薩などの神罰を受けるでしょう。謹慎して起 請文を提出いたします。 建久四年八月日 参河守源範頼 この起請文を因幡守 大江広元を介して見た頼朝は特にその内容を咎め、広元に指示を与えた。 . 源の字を載せ一族を名乗るのは頗る立場を弁えておらず、起請文の体を成していないと使者に伝えよ。 . 広元は使者の大夫属重能を呼んで内容を伝え、重能は次のように答えた。 . 参州 (範頼) は故 左馬頭殿 (源 義朝) の息子であり、御舎弟であるのは御存知の通りです。 .去る元暦元年 (1184) の秋に平氏を討伐するため上洛した際には「舎弟の範頼を西海の追討使として派遣する」旨が書状に書かれており、後白河院に奏聞して官符に載せているのですから、勝手に一族を称した事実はありません。 頼朝からはそれ以上の言葉はなかった。重能は退いて遣り取りの内容を伝え、範頼は狼狽した。 . ※謀反の嫌疑: 保暦間記※には「曽我兄弟の仇討の際に頼朝が討たれたとの誤報が届いた。嘆く政子に 範頼が「私がいる限り鎌倉は安泰」と慰めた、これが頼朝の後継を狙う発言とされたのが発端」と記載している。これは保暦間記だけに見られる記述で、仇討と起請文の提出には二ヶ月の間隔があるから直接の関連は乏しく、外的要因が働いた可能性が高い。 .. 単純な頼朝の粛清路線か、或いは彼の猜疑心を利用した排除計画があった、と考える。 . 問題とすべきは、範頼に謀反を起こすだけの必然性が有り得たか、という事。比較的冒険心の乏しい行動に終始した範頼が勝算の乏しい謀反を計画する可能性は皆無だ。 ※保暦間記: 保元元年 (1156) の保元の乱から、後醍醐天皇が崩御した暦応二年 (1339) 前後までの事件を 記述した歴史書。著者は不明だが 足利尊氏に近い武士で、南北朝時代以前の成立と推定される。例えば頼朝の死因などで根拠の乏しい記述があるなど、全面的な信頼は置き難い。 . | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
. . 82代 後鳥羽天皇 . |
. 8月 6日 庚子 . 吾妻鏡 |
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宇佐美三郎祐茂が伊豆国より参上した。言いつけるべき事があって呼ばれたものである。
.. 祐茂は頼朝が気に入っている御家人で、左衛門尉 工藤祐経が横死したため近くに仕えるように命じられた。 この他にも信頼できる武士を周囲に集めたのは身辺に用心する必要※ありと考えたためである。 . ※用心の必要: これは次に起きる事件への布石だ。吾妻鏡の編纂者は「警戒したら案の定 勃発した」と | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
. . 82代 後鳥羽天皇 . |
. 8月 9日 癸卯 . 吾妻鏡 |
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頼朝は由比ヶ浜に出御し、日程が近づいた放生会流鏑馬の射手を集めてそれぞれの射芸の腕を観覧した。 .. 北條五郎時連 (後に改名して 時房) が初めて射手を務めるために 下河辺庄司行平が手順を教えたのたが、弓の構え方について兵衛尉 武田有義と 海野小太郎幸氏らが違う考えを述べた。行平は先祖からの口伝や故実を語り、頼朝はその内容に感心したのは勿論のことである。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
. . 82代 後鳥羽天皇 . |
. 8月10日 甲辰 . 吾妻鏡 |
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寅刻 (早暁4時前後) に鎌倉中が大騒ぎになった。武士たちが甲冑姿で幕府に駆け付けたが間もなく鎮まった。これは範頼の家臣である當麻太郎が頼朝寝所の床下に忍び込んだのが発端である。 .. まだ眠っていなかった頼朝は気配を感じて密かに 結城七郎朝光と 宇佐美三郎祐茂と源太左衛門尉 梶原景季らを呼んで當麻を発見し拘束した。夜が明けてから尋問したところ次のように供述した。 . 起請文を提出して以後は何も仰せがなく、主人の範頼は将軍の御意向が判らず思い悩んでいます。 .どのような処遇になるのかを確かめたいため忍び込んだのであり、決して謀反の企てではありません。 範頼に問い合わせた結果は「知らなかった」との事。當麻は言葉を尽くして陳謝したが所行は尋常ではなく、範頼に対して抱いた疑念にも符合する。更に當麻は範頼の側近で武名の高い強者である。疑念は深まり、許す理由もない。範頼との合議の有無を詰問したが、その後の當麻は心を閉ざし一言も発しなかった。 . ※當麻の拘束: 通常でも警戒が厳しい筈の将軍寝所、警護を強化したのに床下に侵入されたなどあり得 ない。それが事実なら近習の中に内通者がいる可能性まで疑うのが筋だ。 .この事件は捏造か、當麻の行動を意図的に拡大解釈したと考えるべきだと思う。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
. . 82代 後鳥羽天皇 . |
. 8月12日 丙午 . 吾妻鏡 |
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大姫が体調を崩している。 .. ※大姫: 政子の初産による頼朝の長女で治承二年 (1178) 生まれの満15歳、蒲柳の質 (病弱) である。 . | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
. . 82代 後鳥羽天皇 . |
. 8月15日 己酉 . 吾妻鏡 |
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. . 82代 後鳥羽天皇 . |
. 8月16日 庚戌 . 吾妻鏡 |
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鶴岡八幡宮の馬場で流鏑馬を開催し、将軍家は昨日と同様に参席した。 .. その射手、 平六兵衛尉三浦義村 北條五郎時連(時房) 小山又四郎朝長 下河辺六郎(行平の一族だろうが、詳細は不明) 和田三郎宗実 (義盛の末弟) 氏家五郎(宇都宮朝綱の三男で氏家氏の祖) 海野小太郎幸氏 望月三郎重隆 榛谷四郎重朝 千葉平次兵衛尉常秀 小笠原次郎長清 武田五郎信光 兵衛尉梶原次郎景茂 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
. . 82代 後鳥羽天皇 . |
. 8月17日 辛亥 . 吾妻鏡 |
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参河守 範頼朝臣が伊豆国に下向※させられた。狩野介宗茂と 宇佐美三郎祐茂らが護送、帰参の時期は決めず配流に等しい処分である。
. 當麻太郎は本来なら斬られるべきだが、姫君 (大姫) の病気に伴い減刑され、薩摩国に流罪となった。 これらは陰謀の計画が露見し、起請文を提出したとはいえ當麻の所業は許されるものではなく、このような処分になったものである。 .
※伊豆に下向: 伊豆の伝承に拠れば、範頼は修禅寺の東に隣接
する信功院 (修禅寺八塔司の一つ) に幽閉され、間もなく 梶原景時率いる追討軍を迎え信功院に放火して自害したと伝えている。 .. 吾妻鏡は範頼の最期を載せておらず、保暦間記や北條九代記が「三河守範頼が誅された。」との内容を記述している。 . 右は頼家の住居と伝わる 信功院の跡 (伝承) 。 画像をクリック→現在の 信功院と範頼の墓所、近隣の風景などを別窓で。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
. . 82代 後鳥羽天皇 . |
. 8月18日 壬子 . 吾妻鏡 |
. . . ※浜の宿舘: 範頼邸は由比ヶ浜近くにあり、家人と郎党を皆殺しにした、という事か。 ただし範頼には多くの生存伝説があり、最も知られるのは舅 (妻の父) である 安達盛長に庇護され所領の安達郡石戸 (埼玉県北本市石戸宿) で生きた云々だが、信頼に値しない。 .. 範頼の妻は安達盛長の娘 (祖母は頼朝乳母の一人 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
. . 82代 後鳥羽天皇 . |
. 8月20日 甲寅 . 吾妻鏡 |
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故 曽我十郎祐成の同腹の異父弟である京の小次郎※が追討された。参州 (範頼) の縁坐である。 ..
※京の小次郎: 曽我兄弟の生母 満江は 狩野親光の娘 (横山時重
の娘説あり) 。彼女は 河津三郎と婚姻する前に伊豆国司代の源左衛門仲成※に嫁して一男一女を産み、4年目に離別して河津祐泰に再嫁した。 .. 狩野親光は任期を終えて京に戻る仲成に愛娘と孫が同行するのを許さなかった、ともされる。 . この男子が京の小次郎で 源信俊と名乗った形跡があり、範頼の猶子だった可能性もある。 . 一方の女子は二宮朝忠 (土肥実平の弟 二宮友平の嫡男) に嫁し、夫の死没後に剃髪して 知足寺を建立した。夫 朝忠、 知足尼、異父弟だった曽我兄弟の供養墓が残っている。 ※源仲成: 源三位頼政の子。養子、嫡男仲綱の乳母子などの諸説あり、宇治川合戦で頼政と共に戦死。 . 右の詳細系図を参照(クリック→ 別窓で拡大表示) . | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
. . 82代 後鳥羽天皇 . |
. 8月23日 丁巳 . 吾妻鏡 |
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姫君 (大姫) の病状が好転し、回復後の湯浴み始めが行われた。
.. ※大姫: 政子の初産による頼朝の長女で治承二年 (1178) 生まれ、病弱な15歳。 . | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
. . 82代 後鳥羽天皇 . |
. 8月24日 戊午 . 吾妻鏡 |
. . . ※各々が老齢: 大庭景義は大治三年 (1128) 生れの65歳で、岡崎義実は天永三年 (1112) 生れの81歳。 景義は保元の乱で受けた矢傷で歩行困難であり、既に嫡子景兼(建保元年 (1213) の和田合戦で没したか) に家督を譲っている。 .両者の出家剃髪の理由に違和感は乏しく、曽我兄弟の仇討または範頼失脚に関連付けて考える説もあるが、これは無理筋だと思う。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
. . 82代 後鳥羽天皇 . |
. 8月29日 癸亥 . 吾妻鏡 |
. . . ※岩殿観音堂: 曹洞宗で山号は海雲山、坂東三十三観音札所の二番。政子と 大姫が深く信仰していた。 . 参拝は大姫の病状が回復した謝礼だろう。岩殿寺は名越切通しを下り 大切岸と法性寺の横を抜けた高台 (地図) にある。 .大姫に対しては盲目的な愛情を注いでいた政子が 頼家や 実朝には冷淡だったのは彼女の内面を垣間見るようで、少し興味がある。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
. . 82代 後鳥羽天皇 . |
. 9月 1日 甲子 . 吾妻鏡 |
. . . ※義幹の所領: 6月22日の記事に「八田知家の訴えにより没収され同族の馬場資幹に与えた」と記載が あり、「重ねて」は残余の所領または地頭の職責を追加で剥奪したと理解するべきか。 .. . 82代 後鳥羽天皇 . . 9月 7日 庚午 . 吾妻鏡 . |
故 後白河法皇の御所だった宣陽門院※は無住になっており、盗賊による狼藉が危惧されると 一條能保が心配している。今日、その措置について指示があり、畿内近国の御家人に命じて宿直させるよう
佐々木経高と 盛綱および 後藤基清らに手配が命じられた。
.. ※宣陽門院: 長講堂 (後の三十三間堂を含む) などを差す。法皇の愛妾だった丹後局 (高階栄子) の娘で 後白河院第六皇女の 覲子内親王が所領を含めて相続し、宣陽門院を名乗っている。 .. . 82代 後鳥羽天皇 . . 9月11日 甲戌 . 吾妻鏡 . |
伊豆国江間郷にいた 北條義時の嫡男※である童子が昨日鎌倉に入った。去る17日の卯刻 (朝 6時前後) に伊豆国で射獲った子鹿一頭を携えて御所に参上、義時は初の矢を射た儀礼の餅を準備して詳細を聞いていた。 .. 頼朝が出御し、上総介 足利義兼と 伊豆守 山名義範ら数輩の御家人が列座した。まず十字※を供えて最初に 小山朝政に与え、朝政は御前に跪き最初の十字を一口食べて叫声を発し次に無言で二口目と三口目を食べた。 . 次に三浦義連が次の十字を三口食べ三度声を発した。三人目は意図して逡巡し遅らせた後に諏訪祝盛澄を召し、盛澄は無言で三口を食べた。頼朝は十字を食べる三口の習慣は様々であると感心し以後は酒宴となった。 . ※義時の嫡男: 幼名は金剛、建久五年 (1194) 2月2日に頼朝を烏帽子親に元服して頼時を名乗り、頼朝の 没後に泰時と改名した。寿永二年 (1183) の生まれだから満10歳前後になる。 .頼朝の溺愛ぶりと 贔屓具合は元服式の記録と、建久三年 (1192) 5月26日の吾妻鏡に記載され「実は頼朝の落胤だ」説を生んでいる。 ※十字: 蒸した饅頭。十字に割いて食べた中国の習慣から赤い十字や点をつける風習が生まれたとか。 狩猟を開始して最初の矢を射る儀式(矢口)には面倒くさい手順があったようで、曽我兄弟の仇討があった富士野の狩宿でも同じような儀式が行われている (5月16日の記述を参照) 。 .. . 82代 後鳥羽天皇 . . 9月18日 辛巳 . 吾妻鏡 . | . . 82代 後鳥羽天皇 . . 9月21日 甲申 . 吾妻鏡 . |
頼朝の外舅である憲実法眼※の子 玄番助大夫仲経が美濃国土岐多良庄※を下賜された。これは他とは異なる縁戚の誼による。
. ※頼朝の外舅: 頼朝の生母 由良御前の父親が熱田大宮司の藤原季範で、その弟が頼朝の外舅で大叔父に 当たる憲実、その次男が頼朝の甥にあたる仲経。 .※土岐多良庄: 現在の大垣市上石津町 (地図) の一帯。明智光秀出生地ともされる (真偽は不明) 。 . . . 82代 後鳥羽天皇 . . 9月26日 己丑 . 吾妻鏡 . |
御外舅 (大叔父) 憲実法眼の後家が御所に参上した。故 藤原季範朝臣との縁は黙止できないため特に歓待し、加えて故上綱※の遺領を継承して管理するように指示を与えた。 .. ※上綱: 寺に置かれた三種類の役僧が三綱 (上座と寺主と都維那、宗派や時代により異なる)。 上綱は「上位の僧」を意味し、ここでは故 憲実法眼を差す。 .. . 82代 後鳥羽天皇 . . 9月27日 庚寅 . 吾妻鏡 . |
来月に実施する御堂 (勝長寿院) 法要の導師を京都から招く件について、手配等の詳細を宮内大輔 (藤原) 重頼※に命じた。
. ※藤原重頼: 元は京都の実務官僚。源三位頼政の娘を妻にした関係から頼政の遺児である 頼兼や 広綱ら と共に頼朝に仕えた。文治元年 (1185) 10月の勝長寿院落慶供養では会場の設営などを差配し、頼朝の没後は側近の文官として 頼家に仕えている。 .. . 82代 後鳥羽天皇 . . 9月30日 癸巳 . 吾妻鏡 . | . . ※勝長寿院法要: 11月27日の永福寺薬師堂供養には京から下向した前権僧正の眞圓が導師を務めるが、 御堂 (勝長寿院) 法要の記録は見当たらない。実は翌 建久五年にも同様の食い違いがあり、12月15日には「御堂供養の導師が近日下着」、12月26日には「永福寺に新造した薬師堂供養を行なった。導師は前権僧正勝賢、云々」とある。 .. 更に翌年1月16日には「眞如院僧正眞圓が帰洛、云々」の記事があり、御堂供養の記事も御堂供養の導師が帰洛した記事も見当たらない。 . 導師の名前から判断すると、何らかの記事の混同と判断される。「2年続けて永福寺に薬師堂を新造する」のも整合性に欠けるしね。 . . 82代 後鳥羽天皇 . . 10月 1日 甲午 . 吾妻鏡 . |
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.. 家督の若公 (家督を継ぐ若公、頼家を意味する) が江間殿 (北條義時) が新たに建てた花亭※に渡御し、御馬や御劔などの献上を受けた。 . ※花亭: 一般的には東屋を差す言葉だが「花(桜)が見事な建物」の意味にも受け取れそうだ。 当時の義時邸は大倉 (地図) にあった。後に執権邸として使った小町亭 (現在の 宝戒寺の地) も .既に建っていた可能性もあり (実朝が殺害された建保七年 (1219) 1月27日には「体調が良くないので小町亭に帰った」との記載あり)、建久四年の政庁は大倉御所に集中していた筈だ。 . 時政に従属する存在に過ぎなかった 30歳の義時が大倉亭と小町亭の二軒を構えるのは不自然だし、元服を翌年に控えた泰時もまだ独立する立場ではないし。 . . 82代 後鳥羽天皇 . . 10月 2日 乙未 . 吾妻鏡 . |
朝廷に献上する馬や砂金を京に送るため御家人にこれを拠出させて準備を整えている。 .. . 82代 後鳥羽天皇 . . 10月 3日 丙申 . 吾妻鏡 . |
勝長寿院法要の導師が京都から下向する件について、東海道の宿駅の手配や人員の確保などを御家人に割り当て、雑色らに指示書を届けさせた。来る20日に京を出発する予定で、中原仲業と 二階堂行政と 武藤頼平 (彼の養子が 武藤資頼) らがこの業務を差配した。
.. . 82代 後鳥羽天皇 . . 10月 7日 庚子 . 吾妻鏡 . |
多好節が頼朝の招きに従い、来月の鶴岡八幡宮祭礼で御神楽を演じるため京都から参着した。また神楽の秘曲を習得するため上洛していた右近将監山城久家※も同道して鎌倉に帰参した。 .. 官人の曲を全て習得したと報告したのみならず、好方 (好節の父) もその旨を書状に載せている。弟子でなければ教えないのが本来だが、頼朝の厳命に従って全てを伝授した結果である。 . ※山城久家: 建久二年 (1191) 12月19日に「鶴岡八幡宮の神事のため山城江次久家ら 13人を京都に派遣 した。神楽の秘曲を習得すべく書状を携え多好方の許に行く任務である。」との記載あり。約 2年間の特訓が成果を見せた、か。
.. . 82代 後鳥羽天皇 . . 10月10日 癸卯 . 吾妻鏡 . |
野本の 齋藤左衛門大夫尉基員の子息※が幕府で元服の儀式を行ない鎧などを献上した。将軍家からは重宝などが下賜された。
. ※基員の子息: 下川辺政義の息子を養子に迎えた時員 (野本氏の祖) を差す。 . . . 82代 後鳥羽天皇 . . 10月21日 甲寅 . 吾妻鏡 . |
鎌倉将軍の御領に関する年貢計算に携わる奉行人らが私宅でその業務を行なっているとの噂がある。これは決め事に反する行為であり、今日以後は政所での処理を行なうよう指示が下された。
.. . 82代 後鳥羽天皇 . . 10月28日 辛酉 . 吾妻鏡 . |
佐々木左衛門尉定綱が鎌倉に参着、薩摩国に流罪※となっていたが去る3月13日の故 後白河院の一周忌法要に伴って赦免となった。この流刑は頼朝にとって悩みの種だったため喜びは大きく、直ちに御前に呼び近江国守護職に復帰し職務に励むようにとの仰せがあった。 .. ※定綱流罪: 建久二年 (1191) の4月5日、6日、16日、30日、5月1日、2日、3日、8日、20日に関連記事 が載っている。 . . . 82代 後鳥羽天皇 . . 10月29日 壬戌 . 吾妻鏡 . |
幕府の蔵に納めるべき米百石と大豆百石を遠国から鎌倉に出仕している御家人等に分与、二階堂行政がこれを差配した。 .. . 82代 後鳥羽天皇 . . 11月 4日 丁卯 . 吾妻鏡 . |
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.. 鶴岡八幡宮の神事である。将軍家が参詣し、最初に問答講※を行なった。次いで深夜になって御神楽の奉納があった。多好節が宮人曲※を歌った時に突然空が曇り、雨が瑞籬 (玉垣) に降り注いだが、暗い冬空にも関わらず神殿の上には星が現れていた。神威は今までなかった程に明白である。 . ※問答講: 仏教の教義や解釈について相互に問答を交わす、修行のための八幡宮寺供僧の法会。 . ※宮人の曲: 大火で焼け落ちた八幡宮再建の儀式 (建久二年 (1191) 11月21日) の際に京から招致した楽人 (多好節の父 多好方) が演じたのが鎌倉での最初である。 .. 現在の鶴岡八幡宮では毎年12月16日の 御鎮座記念祭 (公式サイトの十二月→ で表示) で演じている。原型は歌なのだろうが、演じるのは往時の姿を想像した神楽の様式である。 「薪能に似た幽玄な雰囲気を強調した観光イベントに過ぎない」との酷評もあるようだが。 . . 82代 後鳥羽天皇 . . 11月 5日 戊辰 . 吾妻鏡 . |
右近将監大江久家※が去る夜の鶴岡八幡宮に降臨した星の図を描いて御所にて献じた。将軍家 (頼朝) はこの件に深い信仰を寄せている。 .. ※大江久家: 頼朝側近の奉行人。文治五年 (1189) の奥州合戦に従軍記録あり。建久二年 (1191) 12月19日 の吾妻鏡に「鶴岡八幡宮の神事のため山城江次久家ら 13人を京都に派遣した。これは神楽の秘曲を習得すべく書状を携えて多好方の許に行く任務である。」との記載がある。 .. . 82代 後鳥羽天皇 . . 11月 8日 辛未 . 吾妻鏡 . |
前権僧正眞圓 (亮を称す) が京都から着いた。これは永福寺の寺域に堂を建てて薬師如来像を安置するため供養の導師として招聘した人物である。右衛門尉 比企能員の屋敷を宿舎として提供した。また仏に捧げる願文も到着、文章の起案は式部大輔藤原光範卿※、清書は按察使 葉室朝方卿※である。 .. ※藤原光範: 民部卿 (民政をつかさどる民部省の長官) で、代々文章博士を出す家系の人物。 . ※按察使: 地方行政を監督する令外官の官職。葉室朝方は鳥羽法皇と 後白河法皇の二代に仕えた院の 近臣で正二位 大納言。義経に与した嫌疑で頼朝が提出した文治五年 (1189) 2月22日の解官要求に名が載っていた。 .. . 82代 後鳥羽天皇 . . 11月11日 甲戌 . 吾妻鏡 . | . . . 82代 後鳥羽天皇 . . 11月12日 乙亥 . 吾妻鏡 . |
右近将監多好方が神楽に力を尽くした件で恩賞を受けた。今日、飛騨国荒木郷※の地頭職に任じる旨の政所御下文を発行、国衙に納める課役は従来の例に従うように載せている。因幡前司 大江広元と民部大夫 二階堂行政らがこれを差配した。 .. ※飛騨国荒木郷: 現在の高山市国府町の荒城川流域 (地図) 、高山市より飛騨古川 (飛騨市) に近く、昔の 旅行で食事に立ち寄った道の駅 アルプ飛騨古川から約 5km西の山間地にある 安国寺(貞和三年 (1347) に足利尊氏が全国に建立) の古い地名が荒木郷だと伝わっている。 .当時はそんな事は露ほども知らなかった。 . 蛇足だが、飛騨古川は諏訪の製糸工場で働いた女工哀史で知られた娘たちの供給基地でもあった。「アルプ飛騨古川」から更に東の山間部の道の駅 飛騨たかね工房の末尾に「野麦峠訪問記」を載せてある、参考までに。 . . 82代 後鳥羽天皇 . . 11月15日 戊寅 . 吾妻鏡 . |
亮※僧正眞圓が鶴岡八幡宮と勝長寿院を巡覧してから幕府に参上し、将軍家に面談して御贈物を受けた。 .畠山次郎重忠が陪膳 (食膳の接待役) を務めた。 . ※亮: 「権」と同様に次官の意味を持つ。 . . . 82代 後鳥羽天皇 . . 11月18日 辛巳 . 吾妻鏡 . | . . ※太田庄鷲宮: 現在の宮代町を中心に北西から南東に流れる 古利根川沿いの久喜、白岡、宮代町一帯の肥沃な土地 (八条院領) が該当する。 .. 鷲宮は太田庄北西部 (地図) にある現在の 鷲宮神社 (公式サイト) が該当する。 . 右画像は埼玉県の行政区分図 画像をクリック→拡大表示 . . 82代 後鳥羽天皇 . . 11月19日 壬午 . 吾妻鏡 . |
神馬 (鹿毛) を鷲宮に奉納し、また社壇を美しく厳かに飾るように命じた。使者は 榛谷四郎重朝※である。 .. ※榛谷重朝: 太田庄の北東に隣接する同じ八条院領 下河辺荘の庄司下川辺行平に命じた方が話が早いと 思うが、これは余計なお世話だね。 .. . 82代 後鳥羽天皇 . . 11月23日 丙戌 . 吾妻鏡 . |
上総国小野田郷※の住人である本掾太国廉が 姨母 (おば、母の姉妹) を刃傷した罪により召喚され、伊豆大島に流すよう 北條時政が命じられた。 .. ※小野田郷: 現在の千葉県長生郡長南町下小野田 (地図)。 . . . 82代 後鳥羽天皇 . . 11月27日 庚 . 吾妻鏡 . |
永福寺の薬師堂 (着工の) 供養である。将軍家が渡御し、南門の外で行列を整えた。千葉小太郎成胤が御劔を持ち、愛甲三郎季隆が御調度 (弓箭) を携えた。 .. 先陣の随兵 畠山次郎重忠 葛西兵衛尉清重 蔵人大夫頼兼 村上左衛門尉頼時 氏家五郎公頼※ 八田左衛門尉知重 三浦介義澄 和田左衛門尉義盛 下河辺庄司行平 後藤左衛門尉基清 . 後陣の随兵 北條五郎時連 小山七郎朝光 梶原源太左衛門尉景季 同刑部左衛門尉定景※ 相馬次郎師常 佐々木左衛門尉定綱 工藤小太郎行光 新田四郎忠常 . 将軍が出御してから午刻 (正午前後) になって導師の前権僧正眞圓が参加する僧を伴って堂に入り、法要が終ってから布施が配られた。 . 導師に 錦被物 二十重 綾被物 百重 砂金 五十両 帖絹 二百疋(四百反) 白布 二百反 藍摺 三百反 綿 五百両 色革 百枚 鞍置きの馬 十疋 .加えて、五衣一領 水晶念珠 金作り劔一腰 請僧に 各々 錦被物 五重 綾被物 三十重 帖絹 五十疋(百反) 染絹 五十反 紫絹 二十反
白布 百反 藍摺 百反 綿 三百両 色革 三十枚 鞍置きの馬 三疋 .将軍が御所に還御の後に 巻絹百反、染絹百反、宿衣一領、米百石 (目録。近江国での引渡しを指示) などを僧正の宿舎に送った。比企籐内朝宗が使者である。 . ※氏家公頼: 下野国氏家 (現在のさくら市、地図) を本拠にした武士。出自には諸説あるが 宇都宮朝綱の 二男とする説が最も有力。弓の名手として多くの流鏑馬や頼朝随兵として登場している。 .. 子孫の一部は奥州に入って大崎 (宮城県北部) に土着し奥州氏家氏として続いたが、下野の氏家氏は南北朝時代に滅びたらしい。 ※梶原定景: この名前は系譜になく、刑部尉に任じている同族は 景時の弟 朝景 (友景) だけの筈なので 定景は間違いだと思う。朝景は正治二年 (1200) の景時追討の際には降伏して生き延びたが建暦三年 (1213) の和田合戦で接点の深い 義盛に味方して討死する。 .. . 82代 後鳥羽天皇 . . 11月28日 辛卯 . 吾妻鏡 . |
僧正(導師を務めた前権僧正眞圓)が鎌倉から京に向かった。 .. 今日、越後守安田義資が女の件で梟首された。命じられたのは加藤景廉である。父の遠江守安田義定も義資の縁坐で頼朝の勘気※を受けた。義資は昨日の御堂供養の際に聴聞所の女房 (女官) に艶書を渡し、女房は事件になるのを恐れ隠していたが梶原景季の妾(龍樹と称す)が景季に話し、景時を経て将軍に言上された。 . 真偽を糾明したところ女房たちの言葉と符合したためこの措置となった。中国の故事にある通り三年の忠節も一日の失敗で無為となる。 従五位下越後守源朝臣義資、遠江守義定の長男、文治元年八月十六日任叙。 . ※頼朝の勘気: 御家人として無条件に心従せず、将来敵対するかも知れない (と、頼朝は考えている) 。 甲斐源氏は建久四年の時点では安田義定が生き残るのみ。実際には身内である筈なのに最も危険なのは 北條時政なのだけれど、頼朝は妻と妻の一族を露ほども疑っていない。 .. 既に甲斐源氏の実権は 石和信光や 加賀美遠光と 小笠原長清の親子が掌握しているから義定の存在を警戒する根拠なんか皆無なのだけれど、独裁者の疑念は狂気に転じる。 ※甲斐源氏 興亡: 左目次の「鎌倉時代を歩く 弐」の「その九」に長い物語を載せてある。 安田義定に関する史跡は「その九」の後半に「自刃の地 小野田山」、「墓所 雲光寺」、 .「廟所 放光寺」などに纏めてある。後世の甲斐武田氏滅亡の詳細は「その九」最後尾の「躑躅ヶ崎 舘跡」と「勝頼終焉の地 天目山」に記述した。 . 「吾妻鏡を読む」に載せる長さではないため別掲、関連する物語として御愛読を。 . . 82代 後鳥羽天皇 . . 11月30日 癸巳 . 吾妻鏡 . | . . ※恩沢: 安田義資追討以外には特に事件が起きていないから、義資の所領没収→ 他の御家人や女房への 分与と考えるべきだろう。当時の習慣では不祥事で没収された資産は不祥事に関与していない親族に分与するのが原則だった (この通例はは和田合戦の前までは生きていた筈) 。12月5日の前触れか。 .. . 82代 後鳥羽天皇 . . 12月 1日 甲午 . 吾妻鏡 . |
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.. 相模守 大内惟義が頼朝の奉幣使として尾張国熱田社※に参拝し神馬 (黒栗毛) を奉納した。また頼朝は別途の奉納を大宮司の藤原範経※に贈った。これは特別の祈祷を行なうためである。 . ※藤原範経: 熱田大宮司職は変遷を繰り返しており手元の資料では確認できない。判別できる大宮司職 は尾張員職→ 外孫の季範 (1114年) → 季範の五男範雅 (1137年) → 季範の長男範忠 (1155年) → 再び範雅 (1161年) → 再び範忠 (1170年) → 範忠の孫忠兼 (1178年) → 再び範忠 (1181年) まで。範忠の没年は不詳だが、その次または次の次が範経だろう。 .. いずれにしろこの大宮司変遷は激しい内部抗争などがあった経緯を想像させる。 ※熱田社: 現在の 熱田神宮 (公式サイト) 。オリジナル・レポートも参考に。 . . . 82代 後鳥羽天皇 . . 12月 5日 戊戌 . 吾妻鏡 . | . . ※浅羽庄: 旧 遠江国磐田郡、現在の袋井市浅羽地区 (地図) 、天竜川東岸の要衝である。 . . . 82代 後鳥羽天皇 . . 12月13日 丙午 . 吾妻鏡 . | . . ※下妻弘幹: 今年の6月22日に粛清された多希義幹の弟で現在の下妻市一体を本拠にしていた。敵意云々 なんか関係ない、常陸国から多気氏一族系類を排除する一環である。 .. . 82代 後鳥羽天皇 . . 12月20日 癸丑 . 吾妻鏡 . |
左衛門尉 佐々木定綱が流罪の前に支配していた領地は全て元通りに返還し、その七ヶ国には各々一ヶ所づつを追加して加えてある。. 隠岐国では他者の関与を一切排除し全域の地頭職を与え、長門国と石見国※に関しては守護職に補任された。 . ※長門と石見: 長門国は現在の山口県の半分 (北西側一帯、地図)。 石見国は現在の島根県南西部で、出雲国 (出雲市、雲南市、奥出雲町、松江市、安来市) を除く範囲。 .. 右は島根県の行政区分地図。 画像をクリック→ 別窓で拡大表示 . . 82代 後鳥羽天皇 . . 月 日 . 吾妻鏡 . | . ※: . . 82代 後鳥羽天皇 . . 月 日 . 吾妻鏡 . | . ※: . . 82代 後鳥羽天皇 . . 月 日 . 吾妻鏡 . | . ※: |