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文治五年(1189年)
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西暦・天皇・上皇
和暦・月日・史料
吾妻鏡に記載してある内容の意訳、関連する情報、補足事項など
西暦1189年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治五年
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1月 1日 壬辰
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吾妻鏡
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頼朝は例年の通り鶴岡八幡宮に参詣した。
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   ※年令: 元暦二年 (1184) 4月に平家が滅亡。能登に流罪となった 平時忠や壇ノ浦で救い上げられた
建礼門院徳子 (死没した 安徳天皇の生母) らを除き大部分が死没、平家一門と同行した 守貞親王 (安徳天皇の異母兄、 後鳥羽天皇の同母兄、本来の正当な皇位継承者) は救出された。
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源頼朝 41歳、 万寿 (後の頼家) 6歳、 源範頼 38歳、 阿野全成 35歳、 源義経 29歳、
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北條時政 50歳、 北條政子 31歳、 北條義時 25歳、 北條時房 14歳、
千葉常胤 70歳、 千葉胤正 47歳、 三浦義澄 61歳、 足利義純 12歳、 安達盛長 53歳、
大江広元 40歳、 畠山重忠 24歳、 梶原景時 48歳、 宇都宮朝綱 69歳、 土肥実平 63歳、
岡崎義実 76歳、 加藤景廉 32歳、 佐々木定綱 46歳、 二階堂行村 33歳、 中原親能 45歳、
藤原秀衡 前々年10月 死没 (享年64) 、 藤原泰衡 33歳、 藤原基成 67歳、
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後白河法皇 61歳、 後鳥羽天皇 8歳、 九条兼実 39歳、 吉田経房 46歳、 土御門通親 38歳、
丹後局 37歳、 一条能保 41歳、 藤原定家26歳、 慈円 33歳、 法然 53歳、
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      (全て1/1時点の満年令、一部の年齢は推定)
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西暦1189年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治五年
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1月 3日 甲午
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吾妻鏡
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例年と同様に 椀飯 (Wiki) の儀あり。数巡の献杯後に 「新年の弓始めを」との仰せがあり、まず下河辺庄司行平を召した。行平は弓箭を取って弓場に進み、片肌を脱いで蹲踞 (そんきょ) した。
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(弓矢の技に)堪能な者が立ち会えとの仰せがあり、修理少進季長が起って行平の後に蹲踞したが行平は蹲踞のままで立ち上がって構えようとしない。
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頼朝はその気配を察して 榛谷四郎重朝を召し、重朝は行平と季長の間に蹲踞した。
ここで行平は座を起って弓を取り直し立射を始めた。季長は元の席に戻れず、その場から逃げ去った。
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   ※下河辺行平: 頼朝挙兵の当初から各地を転戦し功績を挙げた弓の名手。修理進季長は京下りの絵師で
建久三年 (1192) の永福寺完成の際に扉と壁に仏画を描く人物。弓に関しては素人に近かったため行平は「競う相手として役不足である」との意思表示をしたのだろう。
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重朝は行平と同じ弓の名手。犬追い物、小笠懸けなどの射手を再三務めている。
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西暦1189年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治五年
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1月 9日 庚子
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吾妻鏡
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若君の弓始め儀式あり。射手は 10人、小御所の南面で行われた。
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一番  下河辺庄司行平 曽我太郎祐信
二番  小山七郎朝光  和田三郎宗実 (義盛の弟)
三番  藤澤次郎清親  橘次公成
四番  三浦十郎義連  海野小太郎幸氏
五番  榛谷四郎重朝  和田小太郎義盛
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   ※小御所: 後継者またはそれに準じる者の御所。東宮御所みたいな存在か。曽我物語も 伊東祐親が流人
頼朝のために建てた屋敷を「北の小御所」と書いている。
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西暦1189年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治五年
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1月13日 甲辰
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吾妻鏡
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夜に入り、一條能保の使者 (小舎人 荒四郎) が鎌倉に到着した。送り届けたのは去る五日付の叙位の正式書類で、頼朝は正二位に叙せられた。
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   ※頼朝正二位: 文治元年 (1185) 4月に従二位に叙されて以来の昇叙。建久三年 (1192) 3月には頼朝の昇叙
を是認しなかった 後白河法皇が崩御し、同年 7月に頼朝は征夷大将軍に任する。
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西暦1189年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治五年
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1月19日 庚戌
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吾妻鏡
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若君 (後の 頼家) の御方 (近臣) が発案し、大臣大饗の儀 (大臣就任祝賀の宴) を模した催しを開いた。
故実に詳しい 籐判官 邦通が準備を整えたが、模擬に加わった近衛兵の装備を判断できなかった。
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三浦介義澄が囚人として預かっている 武藤小次郎資頼 (平氏の家人 監物太郎頼方の弟) なら詳細を知っているだろう との話が出た。義澄は頼朝の顔色を窺いつつ 「目出度い儀式に囚人を加える訳にもいかぬ」 と続け、頼朝は「彼の罪は許す、差配させよ」と命じた。資頼は愁眉を開き、故事に従って執り行なった。
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   ※近衛兵の装備: 原文は「平胡簶 差樣と丸緒付樣」つまり 弓を携える近衛兵が右の腰に付ける矢の容器
平胡簶 (ひらやなぐい) に矢を差す様子と丸緒の付け方が不明だった、らしい。
風俗博物館のサイトを参考に。
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   ※武藤資頼: 平知盛の武将で一ノ谷合戦後に 梶原景時を頼って投降していた。後に頼朝に重用されて
九州各地の守護を務め、御家人として初の大宰少弐 (大宰府の次官) に任じた。
壇ノ浦合戦の直前に産まれた知盛の三男 知宗を庇護して養子に迎え、正治二年 (1200) には太宰大監 (三等官) に着任させている。
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西暦1189年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治五年
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1月24日 乙卯
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吾妻鏡
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御台所政子が鶴岡八幡宮に参詣した。
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西暦1189年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治五年
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1月25日 丙辰
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吾妻鏡
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若君の御方が勝負事を行なった。
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   ※勝負事: 数え年 9歳の若君を入れて側近が何かの勝負事をした、との意味か?双六か?
ほんと、つまらない記事を載せるもんだ。私が文句を書いても無意味だが。
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西暦1189年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治五年
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2月12日 甲申
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吾妻鏡
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京都守護職 一條能保の使者が到着。義経に協力した輩が残っている (頼朝の) 疑惑への対応 である。また大内裏修造については既に決定し、治承年間の記録を根拠にして関東に命じるらしいとの噂がある、との事。
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   ※大内裏: 千本丸太町の一帯 (地図鳥観図) に 内裏内廓回廊跡
太極殿跡朱雀門跡豊楽殿跡 などが点在している。
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永保二年 (1082) に焼失した内裏の再建には約19年を要し、やがて天皇と上皇が外戚の邸宅などで暮らす 「里内裏」 が院政時代 (白河上皇の応徳三年 (1086) ~後白河法皇崩御の建久三年 (1192) までの常態となった (ただし諸説あり) 。
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ちなみに現在の京都御所は 藤原邦綱 (Wiki) の屋敷を拡張し整備して土御門東洞院殿とした、その一画である。
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その後の大内裏は焼失と修復を繰り返し、承久元年 (1219) に勃発した承久の乱の兵火で大部分が焼失、更に再建する途中の安貞元年 (1227) に再び焼失して遂に放棄された。
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  右画像は全盛期の大内裏の配置図。画像をクリック→ 別窓で拡大表示
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東西 1.2km×南北 1.4kmの範囲に行政施設と儀典施設と天皇の居住区である内裏が建ち並んでいた。全体の規模が維持管理の能力を超えていた事も放棄の一因だったらしい。
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西暦1189年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治五年
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2月21日 癸巳
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吾妻鏡
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頼朝に召された箱根権現の稚児らが昨夜到着。来月3日に鶴岡八幡宮で奉納する舞楽を演じるためである。
童形(稚児姿)が八人。増寿、筥熊、寿王、閇房、楠鶴、陀羅尼、弥勒、伊豆石丸らである。
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   ※童形八人: それぞれ担当する歌舞の担当部分らしいが、それ以上の詳細は不明。
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西暦1189年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治五年
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2月22日 甲午
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吾妻鏡
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使者の雑色 時澤を京都に派遣した。義経が逃亡した後の朝廷の対応は頗る厳しさを欠き悪事を助長するような状態だったと思われるため、速やかな是正を求めるためである。
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一.奥州の 藤原泰衡は疑いなく義経を匿い謀反に与している。朝廷の許可を得て誅罰したいと願う。
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一.藤原 (難波) 頼経は義経に与した廷臣であり、解官のうえ朝廷から追放すべきと申し入れている。
勅勘があったのに今も在京しているのは実に遺憾である。
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一.按察大納言 葉室 (藤原) 朝方、左少将藤原宗長、出雲侍従朝経、出雲目代兵衛尉政綱、前兵衛尉為孝
らは義経に与した罪によって現職から解任して頂きたい。
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一.比叡山の悪僧らが武器を整えて義経に与しているのを譴責して頂きたいと申し入れ、その旨の宣下が
あったと聞いているが、未だに 弓矢、太刀、刀を整えているとの噂あり。
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一.上皇が夢のお告げを得て 平家に縁坐して流罪に処された者の帰洛を許す事、僧や 平時実、 平信基朝臣
らについては支障なし、召し返す勅命は了とする。
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一.累代の源氏が崇敬する六條若宮は御所から近い。祭礼の際の狼藉は、まことに恐縮の至りである。
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   ※藤原頼経: 刑部卿頼経は文治元年 (1185) 12月27日に配流の宣下を受け安房流罪、翌年3月に許されて
帰洛した。頼朝はこの措置が不満で今年の3月には再び伊豆流罪に処された。
義経援助の姿勢を改めなかったのが理由らしいが、その具体的な行為は明らかではない。
また帰洛した記録がないため、流刑地の伊豆で生涯を終えた可能性もあるが、建保四年 (1217) 12月死没の時点では既に二男は赦免され更に大江広元の娘を娶って鎌倉将軍との交流も記録されているから赦免されたと考えて良い、だろう。もちろん流刑に処した頼朝は建久十年 (1199) 1月に死没している。
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長男の宗長の消息は下に述べたが面白いのは次男の雅経で、父に連座して19歳で鎌倉に送られ、頼朝から和歌と蹴鞠の才能を高く評価されて猶子 (相続権のない養子) となった。
大江広元の娘を娶り、罪を許されて建久八年 (1197) に帰洛している。
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その後は後鳥羽上皇の近臣として従三位まで昇っている。二代将軍 頼家や三代将軍 実朝とも親交を深めて再三鎌倉を訪れ、実朝に定家や鴨長明を紹介するなどしている。
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   ※按察大納言: 能書家として知られた藤原 (葉室) 朝方を差す。吾妻鏡の文治元年 (1185) 12月6日の日付
で頼朝が朝廷に申し入れた中に「院の御厩別当に関して、葉室朝方卿が本来の職責者である。この任に復帰されたし」との文面がある。
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朝方は鳥羽と後白河の上皇二代に仕えた近臣で、特に後白河の信任が篤かった。寿永二年 (1183) 末には 木曽義仲の圧力で解任されたが義仲失脚後に復権、文治四年 (1188) 10月には大納言に任じた。義経に与したとの疑いで頼朝の圧力を受けて解任され後白河の庇護で再び復権、文面の通り頼朝が (生理的に) 嫌った印象があるけれど、ひょっとすると頼朝が院近臣の弱体化を図る意図を持っていたのかも知れない。
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   ※藤原宗長: 藤原 (難波) 頼経の長男。文治元年 (1185) に父と共に流されたが後に復帰して刑部卿となり
建保二年 (1214) には従三位に叙されている。
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   ※平信基: 日記 兵範記 (Wiki) で知られた正三位の公卿。清盛の正妻 時子 (二位の尼) の従兄弟だったため
平家一門の縁者として出世した後白河の近臣。都落ちに同行し壇ノ浦で捕虜となった。.
備後流罪となるが、今回の頼朝申し入れもあって赦免され帰洛している。以後は任官せずに蟄居し弟の子を養子に迎えて後継とした。建保二年 (1214) には従三位に叙されている。
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西暦1189年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治五年
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2月25日 丁酉
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吾妻鏡
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藤原泰衡の反応を窺うため、使者 (雑色の里長) を奥州に派遣した。
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   ※泰衡の反応: 前年の12月11日、義経追討の宣旨を携えて平泉に向かう使者が鎌倉に立ち寄った。
宣旨を受けた泰衡がどう出るか、捕えた鼠を弄ぶ猫の余裕と残酷さを思わせるね。
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西暦1189年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治五年
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2月26日 戊戌
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吾妻鏡
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去年奥州に派遣された官使の守康が京都に戻る途中で鎌倉に入った。八田右衛門尉知家に命じて彼を饗応、守康が語る内容は「義経の所在が判明したので早急に捕らえて差し出す、と泰衡が返状を書いた」との事。
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頼朝は「泰衡は何を考えているのか。前回は勅命に背いて義経を差し出さなかった癖に、今回は取り敢えずの言い逃れをしているのだろう。全く信用できない。」と判断した。
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西暦1189年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治五年
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2月27日 己亥
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吾妻鏡
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鶴岡八幡宮での臨時の祭礼が行われた。頼朝は回廊に出御し、太刀持ちを 佐々木三郎盛綱が務めた。
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   ※八幡宮回廊: 2年後の建久二年 (1191) の3月4日、小町大路から燃え広がった大火災で鶴岡八幡宮から
大倉御所周辺の家屋が全て焼け落ちる。
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13日には「鶴岡若宮の上の地」つまり現在の八幡宮本殿がある大石段の上に仮宮を建てて祀ることになるが、それまでは現在の舞殿の場所が本殿で回廊が廻らされていた。
文治二年 (1186) 4月8日に静女が舞ったのもこの回廊だった。
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西暦1189年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治五年
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2月28日 庚子
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吾妻鏡
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深夜2時に住吉小大夫昌泰が参上し、異様な星が見えた、彗星だろうかと報告。頼朝は寝所から庭に出てその光景を見た。三浦十郎義連小山七郎朝光が御前に控え、梶原源太景季八田太郎朝重 (知重) (知家の長男で小田氏の祖) が帯刀して背後に侍った。常に夜間の警護を務める近臣である。
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   ※住吉昌泰: 頼朝挙兵の直前、治承四年 (1180) 7月23日に頼朝に拝謁し祈祷役に任じる旨を申し出た
のが住吉社の神官 佐伯昌助と弟の昌長。昌泰と昌長で同じ住吉、同一人物じゃないかな。当時の吾妻鏡は次のように記述している。
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佐伯昌助という者は筑前国住吉社の神官で、去年5月3日に伊豆国に流罪となっていた。
その前の治承二年 (1178) 1月3日に同じ神社の神官だった昌守も伊豆国に流されていた。昌助の弟の住吉小大夫昌長が初めて頼朝に拝謁し、更に伊勢神宮神官の子孫で最近は
波多野義常の許に滞在していた永江蔵人大中臣頼隆も共に拝謁した。
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最近になって義常と疎遠になったため訪れた者である。この二人は普段から源氏に尽くす立場を守っており、神職として頼朝の祈祷に任じる意思を抱いている。
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西暦1189年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治五年
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2月30日 壬寅
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吾妻鏡
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長門国阿武郡は平家から没収して得た所領であり恩賞として土肥弥太郎遠平に与えたが、内裏修造の木材を切り出すため勅命により地頭撤収を命じた土地である。にも関わらず遠平の代官がそのまま駐留している旨の噂が届いたため、改めて命令を下した。内容は次の通り。
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長門国阿武郡 前地頭 土肥遠平の代官は早く郡内を退去せよ。
この件の地頭職は停止する旨、院庁の御下文が下った。遠平の代官が継続駐留し今も違法を行っている状態は著しく不当である。早急に郡内から退去するよう命令を下す。
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              文治五年 2月30日
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また 安房、上総、下総などの国々には耕作を放棄された荒地が多くあり、国にも庶民にも全く利益をもたらさない。
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土地を持たない輩を集めて開発に従事させ年貢を納める体制を整備するよう、地頭に申し付けた。
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   ※阿武郡: 現在の山口県萩市と阿武町を含む広大なエリア。画像左半分、山口市の一部を含む西側が
長門国、山口市の東側大部分を含むのが周防国。
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西暦1189年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治五年
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3月 3日 乙巳
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吾妻鏡
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鶴岡八幡宮で節句の法会が始まった。巳の刻 (10時前後) に 頼朝が参詣。宮寺の別当法眼 圓暁と供僧らが着座し 舞楽、馬場の流鏑馬 15騎、相撲 10番なども同じく始まった。
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   ※3月3日: 上巳 (上旬の巳の日) の節句を意味する。元々の中国では川で身を清める祓の風習がある悪日
なのだが、平安時代には曲水の宴として定着した。後に「上巳(じょうし)の祓」となり、形代 (ひとがた) を流して不浄を祓う流し雛などの風習として残った、とされる。
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西暦1189年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治五年
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3月 5日 丁未
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吾妻鏡
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前の大納言 平時忠卿が先月 24日未刻 (14時前後) に能登の配所で没したとの報告が鎌倉に届いた。知恵の豊かな廷臣として、平家が繁栄していた 安徳天皇の時代には政治を補佐していた人物である。
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頼朝は朝廷にとって惜しい人物だった語り、享年が違っていないかと周囲に尋ねた。年齢は誰も知らず、三善康信が 62歳と答えた。
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   ※能登の配所: 奥能登珠洲市に 平時忠の墓所と伝わる一画が
ある。時忠の能登配流は元暦二年(1185) 9月だから、流刑地で暮らしたのは僅かに3年半か。
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ここは実際に子孫の墓地であり、時忠の一族がこの付近に定住したのは事実らしい。子孫は庄屋を務めつつ海運業で財を成し江戸時代には「時国家」として苗字帯刀を許された。更に詳細は関連サイト 月刊 風まかせで。
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  右上画像をクリック→ 珠洲の墓所明細 (別窓) へ。
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   現地の説明版は次の様な由来を記録している。
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伝承ではこの石塔群は平時忠一族の墓と伝承され、最も背の高い五輪塔が時忠の墓とされている。
時忠は代々朝廷に仕えた公家で智略家として知られていた。
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姉 時子は平清盛の妻、妹 慈子は後白河天皇の女御となり憲仁親王(のちの高倉天皇)を産んだことから権勢をふるい、正二位 権大納言まで昇った。また義経は娘婿でもあった。
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寿永四年 (1185) の壇ノ浦合戦で捕縛され能登国配流となった。「吾妻鏡」によれば文治五年 (1189) の2月24日に配所にて没し、源頼朝もその死を惜しんだという。
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これに対し時忠の末裔としてこの墓所を護持してきた則貞家の伝承では「源氏方の監視を逃れ当地に居を定めて子をなし、元久元年 (1204) 4月24日に没した」としている。則貞家住居跡と当墓所の発掘調査の結果、住居跡は鎌倉時代初頭まで遡るが、墓所は室町時代後半に整備されたもの、と判断された。
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西暦1189年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治五年
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3月10日 壬子
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吾妻鏡
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片岡次郎常春には奇怪な行動の噂があるため領所 (下総国三崎庄、舟木、横根) を没収されていた。
このたび元通りに返却を受けたが、担当官らが処理をせず放置していると常春が訴え出たため、改めて手続きをするように命じられた。
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   ※片岡常春: この時点での常春は義経と行動を共にしているから、所領の返却は理屈に合わないのだが
常春は奥州合戦で滅亡したらしく (この辺の情報は確認が取れない) 、所有権は 千葉常胤の五男 東胤頼に移っている。
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三崎庄は銚子市三崎町~猿田町一帯 (地図) 、横根郷は南側の旭市飯岡地区 (地図) 。
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西暦1189年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治五年
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3月11日 癸丑
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吾妻鏡
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大内裏の門、廻廊、築地垣などの破損部分を補修せよとの先月17日付の院宣が今日到着。師中納言 吉田経房が病気になっていたため今に至ったものである。
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   ※建物の破損: 一連の補修工事は文治地震、正確には元暦二年 (1185) 7月9日の正午前後に発生した
マグニチュード 7以上と推定される大地震と余震による被害だったらしい。震源は琵琶湖西岸説と南海トラフ説があり、吾妻鏡も7月19日に京都の被害状況を記載している。
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   ※文治地震: 元暦から文治への改元は地震の約一ヶ月後の 8月14日、これが改元の主な理由らしいが、
異説もある。当初は本命だった建久の年号は、摂政の 近衛基通 が次点候補の文治を推奨したため逆転した。基通は 「武力」 が天下を支配した治承 (1177~81) と寿永 (1182~84) 年間の混乱を指摘し 「文治」 が国政の基本である事を主張した、と伝わる。
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西暦1189年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治五年
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3月13日 乙卯
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吾妻鏡
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鶴岡八幡宮本殿の傍らに塔婆を建て 今日九輪を上げた。頼朝が直接監察し主計允 二階堂行政が工事を差配した。御所に戻ってから去る11日に届いた院宣を了承する旨の返状を準備した。詳細は次の通り。
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2月17日の指示書が3月11日に到着、二件の仰せについて畏まって承った。
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一.大内殿舎の門、廻廊、築垣について
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来年正月より前に修造を終えるようとの 頭の弁の奉書を拝見、このような場合こそ私に命令して頂きたい。先例に任せて諸国に割り当てるべきであり、頼朝が知行している八ヶ国の分は別紙で割り当てを書き出しすべきである。里内裏の修理であれ六條殿の再建であれ、例え連続した責務であっても辞退の考えは持たず、朝廷の大事も雑事も頼朝の任務なのだから全力で処理しようと思う。
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諸国では年々荘園が増えて国衙領が減っているため国司の苦労も推察されるが、例え国衙の分を補うような命令であっても、頼朝が知行する国々については是非を問わず御意に従って対応する。
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一.熊野権現領の播磨国浦上庄について
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梶原景時の代官から、年貢は全て湛政 (24代熊野別当) が徴収し納入が済んだ旨の報告が届いているが、嘆かわしい事に神社への責務を怠っている可能性がある。
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その中の一ヶ所は敢えて地頭を廃止せよとの修理大夫の指示内容はやむを得ないと思われ.る。景時の地頭職を停止する旨を荘家に直接下命し、命令に応じない場合には重ねて命令を下して頂きたい。
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また長門国阿武御領は元の平家領であり、土肥実平が平家追討の合戦後に下向する際に知行していた。それを 土肥遠平が継承していたのだが、院の意向が退去せよとの内容であれば背くつもりはない。
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まず直接命令があり、次いで鎌倉からも命令を下した。鎮西の三猪庄地頭である 和田義盛を解任したのも同様の経緯である。院の意向については全てこのような措置を執っている事実を伝達して頂きたい。
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                       頼朝 恐惶謹言 三月十三日  頼朝 請文
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   ※塔婆と九輪: 一般的には多宝塔や五重塔と、その頂上を飾る相輪を差す。
ただし塔婆には木製の卒塔婆から法塔まで広い範囲を含む事、五重塔の建造について事前の情報が全くなく、その後も「層塔」ではなく「塔婆」の表現に終始している事に要注意だ。
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5月と 6月にも塔婆についての記事が載っているから、いずれ改めて述べてみたい。
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 右上は享保十七年 (1732) に描かれた鶴岡八幡宮境内図。
   画像をクリック→ 別窓で拡大表示

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確認できる改修記録から更に 100年を遡る寛永元年 (1624) の古文書だが、この絵図が鎌倉時代から受け継いだ姿を最も如実に伝えているようだ。
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 右下は明治元年 (1864) 11月に英国人が撮影した画像に多少の処理を加えたもの。
 左隅に見える大屋根は上の絵図右奥の薬師堂か。 画像をクリック→ 別窓で拡大表示

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なぜ三重塔や五重塔ではなく多宝塔なのかは浅学なので説明できない。
頼朝時代から明治初年の神仏習合時代までの東国には圧倒的に多宝塔が多かったのが事実である。
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古都足利の 鑁阿寺 多宝塔 、高野山の 根本大塔も 参考に。
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   ※頭の弁: 蔵人所別当に次ぐ職位で定員は二名。近衛中将から任じた頭中将
と弁官から任じた頭の弁で構成される太政官直属の事務局で 下級機関からの上申書受理と申達、太政官命令を下達し発給する。
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   ※播磨国浦上庄: 揖保郡浦上郷が該当する。揖保川の流域で たつの市揖保町
地図)~下流域の御津町までの、かなり広範囲な一帯。
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   ※長門国阿武御領:2月30日に地頭撤退などについての記載がある。
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   ※請文: 上位者への報告あるいは約束する目的の上申書。
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西暦1189年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治五年
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3月20日 壬戌
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吾妻鏡
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亥の刻 (22時前後) に 一條能保の使者が到着し、去る 13日付の書状を提出した。去る 9日に奥州の 藤原基成藤原泰衡の (宣旨に対する) 返状が到着、義経を捕らえて差し出すとの内容である。
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後白河法皇は先月 22日に法事のため天王寺に行幸していたためこの請文を届けたところ「義経については早く差し出すように」と再び 九条兼実を経て命じられた。
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また 12日には 前刑部郷を配流し子息の少将宗長を解官せよとの宣下があり、その他の申し入れについてもそれぞれ勅裁があった。師中納言 吉田経房からの意見は次の通り。
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先月 22日付の書状が今日到着、内容についての詳細は院に申し上げた。出雲目代右兵衛尉政綱については即日の身柄拘束を按察大納言に命じている。
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疑いを解くために大納言の主張を併せて送るが、どんな理由で自分を嫌うのか、思い当たる節はないと驚いているのが現状である。覚えがない事には具体的に正否を指摘し調査と確認を願いたい、と。
政綱の所行に関しては、それが事実であれば明らかに罪科なので当然の措置である。
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前刑部卿の 難波頼経については証拠となる書類を確認した。論議の余地はないため早急に配流し、息子の宗長は解官する。朝廷への不忠を放置する理由はない。
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また一昨年に拘留した民部卿禅師は調査の結果赦免した。去年に千光七郎が担当して比叡山に拘束を命じたが行方不明の返答があり、更に追求した末に差し出したので流罪に処した。
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流人とは朝廷の災厄を除くために必要か否かの判断である。院が配流は不要であると判断したのに 鎌倉で赦免の判断をしなかったのは不当である。臼杵惟澄らの件も前兵衛尉為孝の件も、元々朝廷が召し抱えた者ではない。一條能保に問合わせたら既に関東に下向しているとの返状があり、それを同封する。
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そもそも悪企みをする者がいても院に仕えているから遠慮云々の表現は納得できぬ、それが法皇の意向である。院に不忠をなし民に悪事を企む者を見逃しても何の益もない、相応の措置あるべき、と。
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先日から天王寺 (四天王寺、公式サイト)に参籠しているのは長年の念願ではあるが、政務については摂政の 九条兼実に指示してあるし兼実からの報告も届いている。これは話の折に伝えよ、と指示された。
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奥州から献上の砂金について、来年に控えた 後鳥羽天皇の元服費用や院の経費など様々な出費があるにも関わらず 藤原泰衡による過怠は不当である。早く納付を催促すると共に国司にも同様の命令をせよ。
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     以上、懸案の事々についての院宣である。    三月十日  太宰権師 吉田経房
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重ねて、追伸
(狼藉事件のあった)六條若宮が御所の近くだった事を恐れ多く思っている件は院に伝えた。影響などないから気にするな、遠慮は要らないとの御所存である。これらの内容を記した書状は 27日に届き、頭の弁が天王寺に祗候して届けた後の7日に帰洛し、院の御意向を持ち帰った。その内容を按察使が書き出し、更に天王寺に届けて奏覧を経たため遅くなってしまった。御不審なさらぬように。
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   ※頼朝の申し入れ: 2月22日に記載してある。重複するためここには書かないので参照されたし。
さすがに能吏として評価の高い吉田経房、簡略で要所を正確に掴んだ通知だ。
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西暦1189年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治五年
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3月22日 甲子
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吾妻鏡
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成勝寺 執行僧の法橋 昌寛が師中納言 吉田経房宛の書状を届ける任務を受け、使節として上洛する。これは (宣旨に対する) 藤原泰衡の身勝手な返状は到底許されるものではない、速やかに討伐の宣旨を発行するべきと重ねて申し入れる為である。またそのついでに、鶴岡八幡宮の塔落成供養の祈願文作成を内々に指導して頂きたい旨を付け加えた。また然るべき僧を一人、落成供養の導師として紹介して頂きたい、と。
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   ※八幡宮の塔: 幾つかの事例での五重塔建造工期は 3年~5年、用材の手配を含むと当然それ以になる。
発願から完成まで、吾妻鏡に一言の記載も見られないのはどう考えても不合理だ。
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西暦1189年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治五年
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3月30日 壬申
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吾妻鏡
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快晴を経て、白い帯状のものが北斗魁星を貫くように見えた。その長さは五丈 (15.15m) 。
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   ※北斗魁星: 魁は北斗七星の第一星または杓の器部分を構成する四つの星を差す。2月28日に出現した
現象を「今夜異星見 爲彗星」つまり彗星かと書き、白い帯状とは表現が異なる。何だろ?
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西暦1189年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治五年
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4月 3日 乙亥
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吾妻鏡
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   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
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鶴岡八幡宮で祭礼、頼朝も参拝した。馬場での儀式は馬長 10騎、流鏑馬 15騎、競馬 3番が行われた後に廻廊の内側で相撲 15番。次いで三嶋社の祭礼あり。流鏑馬 10騎、競馬 3番、相撲 10番。
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   ※馬長: 前年 2月23日にも記載あり。着飾った小舎人童など
を乗せ馬場を練り歩く。あげうま、うまおさ とも。
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   ※競馬: 当時の競馬は二頭の馬によるマッチレースで距離は
不明。八幡宮境内を東西に横切る馬場は200m強で片道だけでは短すぎるから往復か。競走中の打擲や妨害が認められていたのが実戦みたいで面白い。
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   ※三嶋社: 鎌倉市内の三嶋社は深沢だから無関係。八幡宮の
境内摂社として存在したと考えるべきか。或いは本殿の近くに何ヶ所かあった遥拝所だった可能性もある。  右画像は平安時代の競馬を描いた平成 14年発行の 80円切手。
      上賀茂神社の神事を描いた原画が見つからない。クリック→ 別窓で拡大表示
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西暦1189年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治五年
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4月18日 庚寅
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吾妻鏡
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北條時政の三男 (14歳の時連、後に改名して時房) が御所で元服、夕暮れに西の侍所で儀式を行った。
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武蔵守 平賀義信、駿河守 伏見広綱、遠江守 安田義定、参河守 源範頼、江間殿 (北條義時) 、新田義兼千葉介常胤三浦介義澄三浦 (佐原) 十郎義連畠山次郎重忠小山田三郎重成八田右衛門尉知家足立右馬允遠元工藤庄司景光梶原平三景時和田太郎義盛土肥次郎実平岡崎四郎義実宇佐美三郎祐茂らが東の上座に列座した。
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頼朝が出御し先ず義時の酌で献盃を三度、次に 千葉小太郎成胤 (胤正の嫡子で五代当主) がその役を務めた。
続いて童子が呼ばれて御前に正座し、三浦義連が加冠の役を命じられた。
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義連は再三の辞退をしたが、頼朝は「古参の上席者が多い中では一度の辞退は当然だが、昔 三浦に遊行した際に 上総広常と岡崎義実が争論し、義連が宥めて無事に収まった、その時の気配りは見事だった。 (元服する) 童子は 政子が特に可愛がっており、将来まで頼れる人物を選んだのだ。」と語った。
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更に辞退する理由はなく、小山七郎朝光八田太郎朝重が燭台を取り進み寄った。梶原源太左衛門尉景季と平次兵衛尉 景高 (景時の二男) が元服式の準備を揃え、義連が加冠を行なった。命名は時連、北條五郎である。
今夜の加冠役は事前に決定がなく、自分が選ばれるのかと考えた輩も多かったが、頼朝の判断は妥当だった。
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   ※頼家の元服: 頼朝の嫡子 頼家の元服記録は吾妻鏡に載っていない。誕生は寿永元年 (1182) の8月12日
だから、承久四年 (1193) から建久七年 (1196) の頃に元服した筈なのだが...残念な事に吾妻鏡の原本は建久七年 (1196) 1月から建久十年 (1199) 1月までが欠落している。
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私は、北條執権の指示を受けた吾妻鏡原本の編纂者が 「この部分を意図的に廃棄した」 と考えている。子煩悩な頼朝が溺愛する初孫を 「源家の棟梁、二代目の征夷大将軍」 として、嬉々として披露する姿を披露していた筈だ。
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修禅寺で頼家を殺した事の正統性は主張できるが、頼朝が直言した 「後継者宣言」 は誤魔化せない。頼朝が公式に披露した部分を消すために三年間の記録を廃棄、又は最初から創らなかった事にするしかない、そう考えたのだと思っている。
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   ※広常と義実: 治承五年 (1181) 6月19日に頼朝の水干拝領を巡って争っている。その前も頼朝に対して
下馬の礼を取らない事件があった。寿永二年 (1183) 12月、広常は頼朝の命令を受けた梶原景時に殺されている (謀反の冤罪) 。傍若無人な態度を殊更に描写したのは吾妻鏡の編纂者が殺害の正当性を匂わせたいのかも。頼朝ってかなり根に持つタイプだから。
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西暦1189年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治五年
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4月19日 辛卯
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吾妻鏡
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梶原景時の郎従で京都に駐在している者が飛脚として到着、師中納言 吉田経房の 8日付書状を持参した。
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難波頼経卿親子と藤原(葉室)朝方卿親子の件は要求された通りに処置した。また出雲政綱が義経に与している証拠の書状を院に確認して頂く。次に比叡山僧兵の武装については天台座主に禁止を指示した。奥州追討の件は摂政以下の公卿に検討を指示してあり、追って勅答を下す旨の仰せがあった。
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また 一品房昌寛から、先月19日に按察大納言と侍従朝経が蟄居処分を受け、同じく13日には按察大納言親子と左兵衛尉政綱が解任された、との報告があった。
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   今回の連絡はいずれも2月22日に雑色時澤を派遣して朝廷の対応を促した書状の返事になる。
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西暦1189年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治五年
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4月21日 癸巳
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吾妻鏡
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出雲国目代兵衛尉政綱の件、頼朝は院宣への返状を自筆で書いた。 内容は次の通り。
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4月8日の書状を 19日に拝読しました。政綱の件については無実の者を訴えているのではなく、朝方卿が解任を嘆いているのも杵築の社 (出雲大社) の遷宮を成し遂げられないのも不憫ではありますが、自分の言動が起こした結果だと知るべきです。
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出雲国を元のように沙汰したいのなら政綱ではない別の目代を召し使うように強く命じて頂ければ、重い罪に問うつもりはありません。 為則の下向については承知しました。今までの鬱憤が晴れる思いがしております。             四月二十一日 頼朝
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このように恐れ多く言上するのは、申し上げなければ逆に恐れ多い事だと考えるからです。きちんと申し上げておけば貴賎を問わず私を恨む事はないと考えます。どんな場合にも院が正しい判断を下せるよう何事につけても再々に言上するつもりであります。
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西暦1189年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治五年
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4月22日 甲午
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吾妻鏡
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奥州追討について、法皇の天王寺行幸中も蔵人大輔定経の主催で去る 9日に会議があり、法皇が決裁された。
師中納言 吉田経房が法皇の仰せに従って書状を送付してきた。内容は次の通り。
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奥州追討の件は朝廷にとって大事な問題なので太政官らが会議を行ない、祈祷なども手配していたため回答が遅くなった。支障なく官符を発行するべきとの決裁がある前に言上したのは良い対応である。
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泰衡の説明は辻褄が合わない部分が多いため更に使者を派遣しており、現状では宣旨を下すことはできない。また (誅伐の) 出発はいつ頃を想定しているのか。朝廷では宣旨を用意し、泰衡からの返事が届くのを待機している。
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次に伊勢遷宮に関する賦役について、上棟の予定は 8月に決まっている。東大寺の大柱を運び込む事など朝廷の重要案件が重なっているから慎重に配慮されたし。また追討の祈祷は神仏への配慮があれば助けが得られる、その事を考えて対応するように。
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西暦1189年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治五年
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4月24日 丙申
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吾妻鏡
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鶴岡八幡宮の臨時祭礼について、閏月である来月は避けるのが通例なのだが、頼朝から敢えて挙行するようにとの命令があった。
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   ※臨時祭礼: 閏四月には祭礼挙行の記録なし。六月上旬の塔落成供養予定は載っているのだが...。
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閏月とは
 
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当時の陰暦では季節とのギャップ調節のために3~4年に一度閏 (うるう) 月が入る (ここでは4月の次が閏4月)。西暦と陰暦には一ヶ月前後のズレがある事にも留意が必要、例えば静女が八幡宮で舞った文治二年 4月 8日は西暦では 4月28日になる。陰暦→ 西暦の変換は こちらのサイト(外部)が利用できる。
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更に付け加えると、閏月が入った以後の暫くは最大で二ヶ月近い季節性の差異が発生する事になる。

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西暦1189年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治五年
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閏4月 1日 庚寅
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吾妻鏡
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   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
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京都守護 一條能保の使者が到着。先月 20日に大内裏の修造工事が始まり 籐中納言兼光、左少弁棟範、大夫史廣房らがこの差配に任じた。頼朝が知行している御管領八ヶ国が費用を負担することになる。太政官符は届いていないが内々に命じておくとの院宣を受けた。
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また院から御厩司 (別当、長官) への着任を打診された。これまで任じていた按察大納言藤原 (葉室) 朝方が鎌倉からの申し入れで解官されたためである。たとえ頼朝の縁者であっても認可も得ずに了解しては、通知が届いた時に私が希望したのかと思われる、従って着任は辞退した、と。
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   ※御管領八箇国: 鎌倉が国司任命権を持ち国衙領からの収入を得る。時代により増減があり、この時点
では 駿河、伊豆、武蔵、相模、上総、下総、信濃、越後、だと思う。
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西暦1189年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治五年
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閏4月 2日 辛卯
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吾妻鏡
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御台所 政子が若公 (後の 頼家) と共に鶴岡八幡宮に参拝した。
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   ※閏4月2日: 西暦に換算すると5月18日。閏4月30日は6月15日になる。念のため。
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西暦1189年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治五年
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閏4月 4日 癸巳
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吾妻鏡
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一條能保宛に返状を送った。大内裏の修造費用などに関しては了解した、早々に措置せよ。御厩司着任に関しては、院から正式の命令があれば辞退するべきではない。御厩が管理しているのは御津牧だと聞いている。後の支障が出ないように、ここで明確に申し付けておく。能保の使者はこれを携えて帰洛した。
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   ※御厩司: 御車や牛馬を管理して行幸に供奉し、別当は行幸の後騎を務める。平安時代後期からは概ね
軍事貴族の指定席となり、法皇と接する機会が多いため頼朝も掌握したい職種だったか。
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康治二年 (1143) からは忠盛 → 清盛 → 藤原信頼 → 清盛 → 重盛 → 宗盛 → 藤原 (葉室) 朝方 → 木曽義仲 → 義経 → 頼朝 → 光朝 → 一條能保、が歴任している。
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西暦1189年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治五年
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閏4月 8日 丁酉
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吾妻鏡
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頼朝が鶴岡八幡宮に参拝、概ね完成に近づいた塔の造営工事の状況を覧るためである。工匠を呼び、「来る6月上旬が落成供養だから遅延せぬように」と命じ、それぞれに白布二反を与えた。
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左の鶴岡八幡宮境内図 (部分) は最も古い画像資料で享保十七年 (1732) の銘がある。
中央は元治元年 (1864) にイギリスの写真家ベアトの撮影した画像 (厚木市立郷土資料館 蔵) 。
右は大塔の平面図。軒までのサイズは一階で約11.3m四方、相輪を除いた全高は約18mか。
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  画像をクリック→ それぞれ、別窓で拡大表示
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また寛政九年 (1797) 刊行の東海道名所圖會は「多宝塔は若宮の前にあり、二層の塔なり。五智如来 (Wiki) を安ず。」と記載している。「創建時は五重塔だった説」の原典については調査中だが根拠は存在しないような気がする。
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   ※塔婆の変遷: 文治五年 (1189) 6月に再建供養、建久二年 (1191) 3月4日の大火で社殿全てが焼失、頼朝
死没後の建仁三年 (1230) 2月に再建工事に着手したが同年12月3日に政子が不吉を理由に工事中止を命じた。理由は「最初の建造から 2年後に焼けたこと、再建工事開始直後に頼家が 3月頃から発病 したこと」。いずれも表現は塔婆で、五重塔の記載はない。
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江戸時代初期に再建された多宝塔 (大塔) は大鳥居や大仏と並ぶ三大名物と称された。
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   ※鎌倉大塔: 八幡宮は室町&戦国期には荒廃したが後北条氏綱が再建 (1520年頃か) 、徳川家光の時代に
に堂塔群が整備再建され、多宝塔もこの時代にも再建されている。吾妻鏡に塔婆として載っている場所と同じらしい。家光以前の塔が五重塔か多宝塔かは確認できないが、反証できる資料は皆無だから当初から多宝塔だったと考えるべきだと思う。
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西暦1189年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治五年
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閏4月21日 庚戌
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吾妻鏡
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朝廷では 藤原泰衡が義経を匿っている事実を穏やかに処理したいと考えているらしい。
一方の頼朝は以前から申し入れている追討の宣旨を早く発行してくれれば、大塔の落慶供養が済んだ後に宿願を果たすことができる。重ねての院宣発行を求める書状を師中納言 吉田経房に宛て送った。
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   ※頼朝の宿願: 義経の追討は勿論だが、源氏の偉大な先祖だった 頼義や、軍神の如き 八幡太郎義家
さえも実現できなかった奥州支配の夢。平家を滅ぼし朝廷と対等以上の交渉が可能になった今、奥州征服は頼朝に残された宿願の一つである。「奥州を片付けたら大姫の入内を実現して天皇の舅になるぞ」と考え始めていたのかも知れない。
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西暦1189年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治五年
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閏4月30日 己未
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吾妻鏡
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今日、陸奥国で 藤原泰衡義経を襲撃した。これは勅定の内容であり、頼朝の意向に従った行動である。
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義経の館は民部少輔 藤原基成の衣河館の敷地にあり、泰衡の従兵数百騎が攻め入って合戦となった。 義経の家人が防戦したが悉く討ち果たされ、義経は持仏堂に入って先ず妻 (22歳、河越氏の娘) と娘 (4歳) を殺してから自殺した。
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前 伊豫守従五位下 源朝臣義経 (義行また義顕と改名、31歳) 。左馬頭義朝の六男、母は九條院の雑仕女 常盤。寿永三年 (1184) 8月6日 左衛門少尉に任じ平家追討使の宣旨を受ける。
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9月18日 検非違使に叙され 10月11日に昇殿を許された。25日に大甞會で帝の禊ぎを警護、元暦元年 (1184) 8月26日に平氏追討使の官符を受ける。同二年 (1185) 4月25日に神鏡を西海から取り戻して朝廷に納め、同27日に院の御厩司に任じた。同8月14日伊予守、文治元年 (1185) 11月18日解官。
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   ※衣河合戦: 義経最後の地=高舘説は論理的に成立しない。平泉高館と金鶏山 (別窓) で説明してある。
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          右画像は北側から見た衣川と関山中尊寺の一帯(画像をクリック→ 別窓で拡大表示)
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西暦1189年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治五年
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5月 8日 丁卯
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吾妻鏡
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   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
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鶴岡八幡宮の宮寺に新造した塔婆を朱丹 (鉱物系顔料) で塗り上げた。
差配は 二階堂行政と筑後権守 藤原俊兼、八幡宮別当や供僧らが大勢集まって見守った。
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   ※八幡宮供僧: 最盛期には北側の谷に二十五の僧房 (御谷二十五房、臨終に極楽浄土から阿弥陀如来と
共に迎えに来る二十五菩薩に因む) と、宮寺別当の屋敷があった。
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建保七年 (1219) 1月27日に八幡宮で 実朝を殺した 公暁が首を抱えて逃げ込むのも、後見を務めていた北谷の備中阿闍梨宅。詳細は 八幡宮の北 御谷 (別窓) で。
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当初は宗教に対して真摯に向き合っていた御谷二十五房の僧も時を経るに従って既得権の擁護と組織防衛に専念し、衆生の救済など二の次になってしまう。
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全ての権力は腐敗する。権力が強ければ強いほど、既得権の美酒は捨てがたい。腐敗と堕落を避けられるのは、優れた指導層を持ち不断の努力を続けられる組織のみ。
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警察と検察の堕落と腐敗と自己防衛、与党政治家の堕落と腐敗、二世&三世政治家の無能と強欲、巨大カルト (創価学会と公明党が典型例) の狂気と腐敗と政権との癒着。
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後進国ほど権力と組織の腐敗は深刻、その意味で日本は、絵に描いたような後進国だ。
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西暦1189年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治五年
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5月17日 丙子
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吾妻鏡
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伊豆国に流されている前 律師の 忠快 (Wiki) を釈放し京に帰還させよとの宣旨が届いた。先月15日に 宮内大輔資実 (Wiki) が司会し、源中納言通親左大弁宰相 親宗 (Wiki) と少納言 重継朝臣と左少弁 定経らが集まって会議が開かれた結果である。同時に召し返す流人 (と流刑地) は下記の通り。
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前内蔵頭信基朝臣 (備後国) 、前中将 平時実朝臣 (畿内) 、前僧都全眞 (Wiki、安芸国)、前法眼能圓 (Wiki、法勝寺前上坐、備中国) 、前法眼行命 (Wiki、熊野前別当、常陸国) 。
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   ※流人の赦免: 奥州追討の宣旨を望んでいる 頼朝には赦免を拒んで臍を曲げられたくない弱みがある。
互いに相手の弱みを突いて実利を狙う頼朝と 後白河の駆け引きが面白い。
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西暦1189年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治五年
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5月19日 戊寅
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吾妻鏡
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鶴岡宮寺の塔の落慶供養が来月の 9日に決まり、導師と願文などの手配は前もって師中納言 吉田経房に依頼してある。従って唱和する僧や供養の供僧に渡す布施などについては既に指示してあり、今日は先ず龍蹄八疋を御所公邸の南面で閲覧した。
二階堂行政藤原俊兼平盛時らがこれを差配し、武蔵守 平賀義信が馬を引いた。
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一疋 河原毛 千葉介常胤 進す   一疋 葦毛 小山兵衛尉朝政 進す
一疋 黒 信濃守加賀美遠光 進す  一疋 栗毛 源蔵人大夫頼兼 (三位頼政の次男) 進す
一疋 鴾毛 三浦介義澄 進す    一疋 糟毛 佐々木四郎高綱 進す
一疋 黒栗毛 遠江守安田義定 進す 一疋 黒 相模守大内惟義 進す
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   ※龍蹄: 背高四尺 (約121cm) 以上の馬が龍蹄である。
四尺を越えると一寸、二寸と呼ぶ。鎌倉時代にも五尺 (152cm) を超える大型馬はいたが、四尺台が一般的なサイズだった。
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乗馬クラブなどの馬は150~170cm、147cm以下はポニー種となる。在来種の馬は小型だが、速さよりも耐久性が顕著だったらしい。
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また蹄が固くて強いため国内では蹄鉄が不要で、これが使われ始めたのは明治時代から。
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それと、在来種は右の前後足を同時に、次に左の前後足を同時に動かす「側対歩」の調教をしていたらしい。速度を上げても上下動が少ないため、騎射での命中率が優れていた、という。
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我が家の犬 (ゴールデン・レトリーバミックスの牝、左側) も側対歩することがあったっけ。犬を飼ってる人は時々確認してみよう 、蛇足じゃなく犬足の話) 。
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右上は花巻の 宮沢賢治記念館の受付前でのスナップ。2010年より少し前かなぁ。
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西暦1189年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治五年
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5月22日 辛巳
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吾妻鏡
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申の刻 (16時前後) に奥州からの飛脚が到着して報告、先月30日に民部少輔 藤原基成の館で義経を誅殺した、首級を届ける手配中である、と。事の詳細を奏上するため直ちに飛脚を京都に派遣、書状の内容は次の通り。
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去る閏4月30日に奥州平泉の前民部少輔藤原基成の屋敷で義経を殺したとの 藤原泰衡の知らせがあった。このため、来月9日の予定だった塔の落慶供養は延期した。この旨を奏上して頂きたい。
                                頼朝 恐々謹言
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また 板垣三郎兼信が勅命に背いたとの指摘を受けたため、頼朝は今日その返状を送った。
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太皇大后宮の御領である駿河国大津御厨の地頭である兼信が非法を行なった件は謹んで承った。
院のみならず宮からの指摘まであり、地頭職は直ちに更迭の措置を取った。兼信の罪は軽くないが私の一存で決めるわけにもいかず、妥当な罪科を考えて決めて頂きたい。配流であれば別に使者を派遣して拘留し処分されたし。大宮からの命令であれば罪科の軽重に異議は申し立てない。  恐々謹言
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   ※太皇大后宮: 先々代の帝の正妻 (皇后) または当代の帝の祖母を差す。今回の場合は第76代近衛天皇
および第78代二条天皇の「二代の后」だった藤原多子 (Wiki) が該当するか。
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   ※大津御厨: 伊勢神宮領の島田市大井川左岸 (地図) 。
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西暦1189年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治五年
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5月29日 戊子
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吾妻鏡
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師中納言 吉田経房の使者が到着し塔供養の願文一通を提出した。草稿は 新籐中納言兼光卿 (Wiki) で 清書は堀河大納言忠親卿 (Wiki) である。また錦の被物一重と綾織の被物二重が共に贈られた。
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   ※塔供養の願文: 中尊寺を建立した 藤原清衡中尊寺供養願文 が名高い。
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西暦1189年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治五年
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5月29日 戊子
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玉 葉
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今日、一條能保朝臣から連絡。平泉で 藤原泰衡が 九郎 (義経) を追討した、と。天下の悦び、神仏の助け、
頼朝卿の運の強さで、言葉に出来ない程である。
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西暦1189年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治五年
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6月 3日 辛卯
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吾妻鏡
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   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
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左衛門尉 佐々木高綱と共に、中納言法橋観性が京都から鎌倉に到着。天台座主僧正全玄の代官として鶴岡八幡宮寺の塔供養導師を務めるためで、兼ねて滞在先に決めていた八田右衛尉知家の屋敷に招き入れた。
先ず 三浦平六義村を使者として金光索餅 (小麦粉と米粉の揚げ菓子で厄除けなどに供した) で饗応した。
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   ※佐々木高綱: 元々は近江国が本領だが平家滅亡後は長門国や備前国の守護に任じ、主として山陽道に
新領を得て在京の御家人として西国の管理に当っていた。
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   ※天台座主: 全玄は民部卿 藤原実明 (Wiki) の子。天台宗総本山延暦寺 (天台法華宗) 59代座主として末寺
を統括する。延暦寺の創建当初は延暦寺内での役職だったが、三世円仁 (慈覚大師、Wiki ) からは太政官が任命する公職となった。
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勢多橋に近い 三井寺 (公式サイト) も天台宗総本山だが、宗派の異なる「天台寺門宗」。
共に根本経典は妙法蓮華経なのだけれど、所謂「解釈の違いによる差」である。
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西暦1189年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治五年
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6月 4日 壬辰
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吾妻鏡
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佐々木高綱が御所に参上し北面 (私邸部分) で頼朝と対面した。東大寺大仏殿造営の柱材を周防国で切り出す作業に尽力した様子を聞き及んでいたためで、戦場で軍功を挙げるのみならず仏の道で善行を積むのは殊勝であるとの言葉を受けた。高綱は「重源上人の催促が厳しいため先月18日に柱に使う丸太15本を河口まで流した。他の15本も早く切り出すよう代官に命じてある」と言上した。
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   ※周防の材木: 文治二年 (1187) 4月23日と11月10日、同三年3月17日に関連記事あり。
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西暦1189年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治五年
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6月 5日 癸巳
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吾妻鏡
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八幡宮別当 円暁が稚児と宮寺の供僧を伴って 八田知家邸の法橋観性を訪ね、酒盃を重ねて稚児に延年の舞を演じさせた。頼朝から内々の指示があったためである。夜に入り検非違使の 大江公朝が院の使者として鎌倉に着いた旨を 大江広元が報告、まず屋敷に迎え入れてから御所に報告した。
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   ※延年の舞: 平安中期から流行した芸能で、下級の僧侶や稚児が余興や儀式の際に演じた。曽我物語に
拠れば、大庭景親の追手に館を焼かれた 土肥実平「焼くなら何度でも焼け、源家繁栄の炎ぞ」と延年を毎って敗残の味方を励ました事になっている。
湯河原の 五所神社例大祭の出陣祭では今も演じられている(と思うが) 。
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西暦1189年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治五年
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6月 6日 甲午
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吾妻鏡
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早朝に 大江公朝が御所に参上して「御塔供養のため院から神馬などの引き出物を携え参上した」と、白い鞍を置いた葦毛の馬を引いて南門に立ち、駿河守 源広綱が名代として受け取った。
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また錦の布 (1枚は赤地紅裏、1枚は青地の一重) と院の女房三品局 (三位 高階栄子後白河法皇 の愛妾で政治的手腕に長けた) からの贈り物として、銀の箱に納めた扇 20本を公朝から 新田蔵人義兼里見冠者義成に引き渡した。これらは頼朝が御軽服のため御所には入れず、宮寺での布施に使うことになるのだろうか。
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その後に公朝は佩いていた劔を外し、頼朝と対面のため寝殿 (私邸) の南面に移った。 北條時政は 宿願である奥州征伐の成就を祈るため、伊豆国北條に新たな寺を造営する。
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吉日である今日を選び柱を立てて上棟し、工事の仕事始めとした。寺の名は願成就院、本尊は阿弥陀三尊像と不動明王と多聞天の像で既に完成している。
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時政は現地に赴いて更に周到な装飾を加え、細かい指示を与えた。
敷地は田方郡の中で南條、北條、上條、中條が境を接している。先祖の事蹟が残る地を選んで伽藍造営を計画したものである。
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  右は願成就院周辺の鳥瞰 クリック→ 願成就院の詳細レポート
   (別窓) へ。  最盛期は満願寺~堀越御所までが寺域だった。

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   ※軽服: 遠戚 (この場合は義経を差す) が死没の際に着す喪服。
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   ※仏像: 私は 願成就院の仏像は 運慶の真作ではない、と考えている。理由の一つは、運慶の真作なら
北條氏の権威に拘泥する吾妻鏡の編纂者が「運慶」と表記しなかったから、だ。
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運慶の円熟期は承元二年 (1208) から建暦二年 (1212) 、屈指の腕を持ち功成り名を遂げた運慶はその後の最晩年には鎌倉幕府要人の注文を受け、実朝の持仏堂や 政子の勝長寿院五大尊像や 義時の大蔵薬師堂など、北條氏向けの造像を多く手掛けている。
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願成就院の仏像の場合は胎内銘の「運慶」が真贋を決める決定的な要素になったのだが、江戸時代の解体修理記録で書き換えた可能性がある。北條氏に阿る傾向の強い吾妻鏡の編纂者が、
「運慶作と知りつつ運慶作と書かなかった」ことについて合理的な説明ができていない。
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原文は「名而号願成就院。本尊者阿弥陀三尊。并不動多聞形像等也。是兼日造立之尊容云々」
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西暦1189年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治五年
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6月 7日 乙未
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吾妻鏡
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仏塔の落成供養について頼朝が検討し、八幡宮での行事は義経の件 (殺害と服喪) によって延期すると朝廷には伝えたのだが導師は既に鎌倉に入り、院からも馬などを下賜されているため供養は実施すると決めた。
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頼朝の服喪は既に 30余日が過ぎており、奉幣や社殿内陣に入っての行事ではないから問題にはならないが、義経の首級を鎌倉に入れるのは憚られる、暫く途中に留めるよう命じる飛脚を奥州に派遣した。
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   ※義経の首級: 義経が殺されたのは閏4月30日(西暦6月15日)で腰越到着は6月13日 (同 7月27日) 。
閏 4月が絡んでいる関係で実質43日を要している事から 「藤原泰衡が故意に首の到着を遅らせ、腐敗が進んで判別できないように細工した」 のが根拠の一つという 「義経生存説」 が生まれたのだが、遅延は閏月の関係と頼朝の指示に従っただけの単純な話だった。
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ちなみに、西暦の6月15日は岩手県ではそろそろ梅雨入りのシーズンになる。
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西暦1189年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治五年
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6月 8日丙申
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吾妻鏡
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頼朝が中納言法橋 観性が滞在している 八田知家邸に渡御して歓談した。夜になって京都に派遣した飛脚が師中納言 吉田経房の書状を携えて鎌倉に戻った。書状の内容は次の通り。
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「義経討伐を聞いた院からは喜ばしい」とのお言葉があった。「義経の滅亡により国中が静謐になるだろう、 今は弓箭を袋に納めるべき時である。」と。
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   ※弓箭を袋に納める: 「鉾をおさめる」と同様に戦いを止める、の意味。後白河としては奥州藤原氏を
温存して頼朝一強体制を牽制したいが、頼朝は偉大な先祖の誰も成し得なかった奥州支配を夢見ている。 「弓箭を袋に納める」 なんて 「美食を前にして箸を置く」 のと同じ、飛んでもない話だ。
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西暦1189年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治五年
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6月 9日 丁酉
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吾妻鏡
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御塔の落慶供養が行われた。導師は法橋 観性、呪願は八幡宮別当の法眼 圓暁、招かれた僧は七人 (四人は導師の伴僧、三人は若宮の供僧) 。神楽が演じられ、頼朝が出御した。ただし服喪の件があるため宮寺には近寄らず、垣の辺りに桟敷を設けて儀式の観覧にとどめた。隼人佐梶原景時らが儀典の進行を司った。
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出御の先陣の随兵
小山兵衛尉朝政 土肥次郎実平 下河辺庄司行平 小山田三郎 (稲毛) 重成 三浦介義澄
葛西三郎清重 八田太郎)朝重 (八田知家の嫡子で小田氏の祖)
江戸太郎重継 (秩父重綱の末子で重長の父、江戸氏の祖)  二宮小太郎光忠 (朝忠 (友忠) か?)
熊谷小太郎直家 (熊谷直実の嫡子)  信濃三郎 (南部) 光行 徳河三郎義秀 新田蔵人義兼
武田兵衛尉有義 北條小四郎 (義時)  武田五郎信光
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次いで御歩の頼朝 (御束帯)
御劔は佐貫四郎大夫広綱 (籘姓足利氏)   御調度は佐々木左衛門尉高綱  御甲は梶原左衛門尉景季
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次いで御後の人々(各々布衣)
武蔵守平賀義信  遠江守安田義定  駿河守伏見広綱  参河守源範頼  相模守大内惟義
豊後守毛利季光   越後守安田義資 (義定の嫡子)  因幡守大江広元  籐判官代藤原邦通
皇后宮権少進伊佐爲宗 (平国香子孫)   安房判官代源隆重 (安房国一宮神領の武士)
紀伊権守豊島有経  千葉介常胤  八田右衛門尉知家   足立右馬允遠元  畠山次郎重忠
岡崎四郎義実  橘右馬允公長 千葉大夫胤頼 (常胤の六男、東氏の祖)   安達籐九郎盛長
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後陣の随兵
小山七郎朝光  北條五郎時連(時房の旧名)  千葉太郎胤正 (胤政)    土屋次郎義清
里見冠者義成  浅利冠者遠義(義成または義遠)  三浦十郎義連  伊藤四郎家光 (出自不明)
曽我太郎祐信  伊佐三郎行政 (常陸国伊佐郡 (茨城県筑西市) の武士で伊達氏の祖)
佐々木三郎盛綱  新田四郎忠常  比企四郎能員  所 (伊賀) 六郎朝光  和田太郎義盛
梶原刑部丞朝景
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落慶供養の式典が終り布施の贈与。まず錦の被物三枚。その一枚 (赤地) は駿河守伏見広綱が、一枚 (青地、院の下賜) は皇后宮権少進が、一枚 (紫地、吉田経房卿の贈与) は安房判官代高重が持った。他にも多数あり。
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次に布施の馬と、その引手
一の御馬(葦毛、院の下賜)を畠山次郎重忠と小山田四郎重朝(榛谷重朝
二の御馬(河原毛)を工藤庄司景光と宇佐美三郎祐茂
三の御馬(葦毛)を安達籐九郎盛長渋谷次郎高重重国の二男で嫡子)
四の御馬(黒)を千葉次郎師胤(常胤の二男相馬師常)と同、千葉(大須賀)四郎胤信
五の御馬(栗毛)を小山五郎宗政(朝政の次弟長沼宗政)と下河辺六郎(系累不明)
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   ※呪願: 法会の際に施主の願意を唱える短い祈り。
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   ※隼人佐: 官職の 隼人司 (Wiki) の四等官で 三善康信の弟三善康清を差す。治承四年 (1180) 6月19日に
病気と称して公務を欠勤し、伊豆韮山の北條邸に頼朝を訪ねて「平家による源氏追討令が発布されたから嫡流の貴方は最も危険、奥州へ逃げるべき」と進言した人物だ。む。
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   ※徳河義秀: 吾妻鏡だけに現れる人物で、新田義重の四男世良田義季と同一人物と考える説が多い。
得川郷を継承して得川を名乗ったのは義季の長男頼有が最初で、徳川家康は「徳川の始祖は得川頼有、遠祖は世良田義季」との系図を作り厚顔にも新田源氏の末裔を称している。
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ただし、家康が松平姓を捨てて徳川を名乗り始めたのは織田信長と同盟を結んだ永禄九年 (1567年、家康24歳) 以降で、当然ながら勅許は得られず藤原氏や豊臣氏を称した秀吉の死後になって (つまり権力の座に登ってから) 改姓が認められ、晴れて源氏の末裔となった。捏造した結果 歴史に恥を晒して、何の意味があるのだろうか。
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「征夷大将軍に任ずる要件として源氏の系図を必要とした」などは俗説に過ぎないが、権力の次に欲しがるのが家柄と出自なのは洋の東西を問わない。新田荘には幕府の補助金が投入され、義季が創建した長楽寺の隣に東照宮 (その末尾に記載) まで建ててしまった。
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群馬県の歴史学者も郷土史家も、家康の偉大さと観光資源に配慮して系図の捏造には触れようとしない。まぁ補助金獲得の優先順位は真実の探求より遥かに高い、という事ね。
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ちなみに、得川郷は徳川町と名前を変えて長楽寺の南東 1.5km (地図) に現存している。
ご丁寧に此処にも ミニ東照宮 (別窓画像) があるから笑っちゃう:けど。
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   ※世良田義季: 老境を迎えた 新田義重は譲り状を二通書いて
愛児の頼王御前 (義季) に新田荘の 六郷を与え「らいわうこせのハハ」つまり義季の生母に十九郷を与えている (置文=遺言書) 。
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当時の新田荘は富裕だったが全体では六十郷前後、つまり約四割をこの母子に与えた。
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異腹の兄三人 (山名義範と里見義俊 (義成の父) と新田義兼 (宗家を継承) と弟一人 (糠田経義) がいるのに 頼王御前とその母 (後妻) に遺す領地としては異例の分配内容である。
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更に「たのさまたけあるへからす」 (他の者は異議を申し立てるな ) と念を押した。
詳細は 新田義重の置文で。
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  右画像は新田荘に残る義重夫妻の墓石。クリック→ 廟所の詳細へ (別窓)
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西暦1189年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治五年
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6月11日 己亥
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吾妻鏡
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中納言法橋 観性が頼朝に招かれて御所に参上し塔供養が無事に終わった祝賀を述べた。献盃があり、砂金十両と銀造りの劔一腰と染絹五十端の贈与を受けた。八幡宮別当法眼 圓暁も同席して終日の談話が続いた。
検非違使の 大江公朝も帰洛にあたって馬五疋の餞別を受け、御厩舎人の武廉が絹十疋の褒賞を受けた。
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    五重塔か多宝塔かは疑問のままだが、二年後の建久二年 (1191) 3月4日の大火で鶴岡八幡宮の堂塔伽藍
は灰塵に帰する。本殿はすぐに現在置に再建されたが、他の建造物については確認できる史料なし、全体の姿を見られるのは江戸時代初期の古文書のみ。
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西暦1189年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治五年
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6月13日 辛丑
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吾妻鏡
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藤原泰衡の使者である新田冠者高平が 義経の首級を腰越浦に持参し事の経緯を申し述べた。首実検のために 和田義盛梶原景時らを派遣、それぞれ鎧に直垂姿で甲冑の郎従 20騎を従えて赴いた。
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義経の首は黒漆の首桶に収めて美酒に浸し、高平の従僕二人が担って運んできた。中国古代の蘇公は倒した敵を自ら担い、今は高平が義経の首を従僕に担わせる。見る者は哀れさを感じて涙を流した。
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   ※首実検: 単純に真贋の確認だけではなく、死者に対する礼儀や詳しい手順が決めてあるのが面白い。
義盛と景時が甲冑姿で出向いているのにも理由があり、右手を柄に置いて斜に構え太刀を抜きかける姿で首と対面する。更に詳細は こちら (Wiki) で。
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   ※続 義経の首: 実検後に由比ヶ浜に捨てられた義経の首は上げ潮に乗って片瀬川を遡り、現在の藤沢駅
近くで拾い上げられた。この首を弔い祀ったのが藤沢駅近くの 白旗神社 (別窓) 。
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万が一本当の話だとしても波や石に洗われて白骨状態になっているだろうし、名札が付いている訳でもないだろうし、いくら上げ潮でも川を 6kmも遡る筈ないだろうが。
でも寺の住職としては「この話は寺の名を広める金の卵だ」と考えたわけで。
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たぶん この辺 (地図) で引き上げたと言いたいんだろう。陸路を ルート地図で表示すると約10km、江の島を避けて境川 (当時の片瀬川) に入るのに苦労すると思うけど (笑) 。
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西暦1189年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治五年
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6月15日 癸卯
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吾妻鏡
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杵築大社 (出雲大社) 神主の資忠が御所に参候した。頼朝には立願すべき事柄があり、大社の本殿に於いて丹念な祈祷をせよとの仰せを受け、御厩の神馬一疋 (名は澤井黒) を与えられて今日帰路に就いた。
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   ※丹念な祈祷: 当然ながら、奥州藤原氏征伐が無事に成功する立願だろう。
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西暦1189年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治五年
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6月18日 丙午
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吾妻鏡
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塔供養の導師を務めた中納言法橋 観性が京都へ出発した。謝礼の駿馬や金銀などの宝物に供養の布施や後日の贈物を含めると膨大な量になり、その荷物を運ぶ人夫は長蛇の列をなした。
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   ※法橋観性: 白河法皇の近臣 葉室中納言 顕隆の孫で61世天台座主顕の弟 (59世は全玄、60世は公顕)。
墓所は京都西山の 善峰寺に五輪塔が残っている。法橋観性は善峰寺北側の峰にある 三鈷寺 (公式サイト、京都一の景観だと) を中興した事でも知られる (地図) 。
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西暦1189年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治五年
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6月20日 戊申
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吾妻鏡
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鶴岡八幡宮で臨時の祭礼があった。長馬 (飾り立てた馬、二騎) 、流鏑馬十六騎、競馬三番、相撲十六番は今までの例と同じ。頼朝は服喪中のため参拝は避けて奉幣の使者も送らず、差配は宮寺に任せる旨を命じた。
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   ※頼朝の服喪: 憎み合う関係にあった異母弟の死没にも喪に服す、習慣とは言え面白い。
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西暦1189年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治五年
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6月24日 壬子
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吾妻鏡
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奥州の 藤原泰衡が以前から義経を庇護し匿っていた罪は反逆に等しい。従って討伐の出陣を予定しており、そのための御旗を準備せよと 千葉常胤に命じた。旗に用いる絹は 小山朝政が命令を受けて準備した。
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夜になり、一條能保の書状が到着、奥州追討に関する朝廷の対応を内々に知らせてきた。会議を重ねている様子である、と。追討を急いでいる関東の動きを無視はできないが、肝心の義経は既に誅殺されている。今年は伊勢神宮の式年遷宮や東大寺大仏殿の造営などが予定されており、奥州追討は延期して然るべきだろう。その旨は既に関白 藤原兼実も意見書を提出しようとしている。
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また頼朝から御厩司に任じる許可を得たため、朝廷に任命を受ける旨を文書で申し送った旨の記載があった。
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   筆者 注:これは閏 4月 1日に載った「頼朝のアドバイス」を容れた結果だ。
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西暦1189年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治五年
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6月25日 癸丑
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吾妻鏡
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奥州の 藤原泰衡について、更に追討の宣旨を発行するよう重ねて申し入れた。
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   ※追討の宣旨: 後白河法皇の思惑としては鎌倉の一強体制を避け、朝廷と頼朝と奥州藤原氏が共存する
状態を維持したい、泰衡追討の宣旨発行は何とか避けたいのだが...。
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西暦1189年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治五年
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6月26日 甲寅
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吾妻鏡
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奥州で合戦があり、泰衡が弟の泉三郎忠衡 (23歳) を殺した。忠衡が義経に与していたため義経追討の宣下に従った行動である。

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   ※藤原忠衡: 秀衡の子は長男 国衡 (母は蝦夷の娘か) 、二男泰衡 (母は 藤原基成の娘) 、三男忠衡 (母は
不明) 、四男高衡 (泰衡の同母弟) 、五男通衡 (忠衡の同母弟?) 、頼衡 (泰衡の同母弟) の六人。家督継承は泰衡、義経派だった忠衡、通衡、頼衡の 3人は義経と同日に殺された。
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国衡も本来は義経擁護派だったが妾腹の負い目と内紛を避けるため家長の泰衡に従わざるを得なかったらしい。泰衡の行動は宣下への服従ではなく、頼朝への恐怖心だ。
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一族には京下り公家 基成の孫である泰衡より国衡の擁立を願う声があったが、歴史は奥州藤原氏の滅亡を選択した。更に詳細は「奥州藤原氏の系図」で。
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忠衡の妻は現在の飯坂温泉西の 大鳥城に本拠を置いた湯の庄司 佐藤基治 (義経の郎党 継信と忠信の父) 。
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婿が泰衡に討たれ、更に本領の飯坂を見捨てる事を拒んだのだろう、基治の一族は 「阿津賀志山防塁」 の合戦に加わらず本領南の石那坂で鎌倉軍を迎え討つ。
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但し石那坂は大軍を迎えての防衛線には全く不向き、私は本拠の大鳥 (鳳) 城で戦ったとの異説が正しいと思う。詳細は8月の「阿津賀志山合戦」の項で。
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泰衡が忠衡 (泉三郎) 追討の軍勢を送ったのが 6月26日だったのは史実で、鎌倉に「奥州で兵乱」の知らせが届いたのは早くても 7月頭になる筈だ。従ってこの記事は後年の吾妻鏡の編纂の際に加筆したものと判断できる。
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右は秀衡時代の平泉館。忠衡の館は更に 500mほどに南に泉屋の地名が残っている。
      画像をクリック→ 別窓で拡大表示。
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西暦1189年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治五年
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6月27日 乙卯
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吾妻鏡
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最近は奥州征伐の準備の他には特に命令はない。宣旨の発行を待つと共に軍勢を整えており、鎌倉には既に千人の武士が集結している。和田義盛梶原景時が届けを受け付け、前図書允 清原清定が書き出した名簿を頼朝が閲覧した。
武蔵国と下野国は進軍の順路である。両国の住人は準備を整えて追討軍の途上に加わるように命令を下した。
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西暦1189年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治五年
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6月28日 丙辰
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吾妻鏡
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鶴岡八幡宮の放生会は来月 1日に開催するとの沙汰があった。恒例の放生会である 8月15日には恐らく奥州平泉にいるだろうし、泰衡征伐が無事に完了する祈祷にもなると判断しての決定である。
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   ※泰衡征伐: 頼朝率いる追討軍は宣旨を待たず 7月19日に出発、泰衡の生き残り策は水泡に帰する。
どうせ滅亡するのなら義経と共に戦うべきなのに暗愚の将にはその決断ができなかった。義経に指揮を任せ、Hit and Away のゲリラ戦に持ち込んで冬を待てば生き延びる可能性も...なんて考えるのは現代人だから、だね。
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西暦1189年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治五年
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6月29日 丁巳
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吾妻鏡
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日頃から頼朝が崇敬している愛染明王像を武蔵国の慈光山に送った。この像を本尊として奥州征伐のために祈祷せよと別当の厳耀ならびに衆徒らに申し付けた。
この寺は以前から頼朝が帰依しており、去る治承三年 (1179) 3月2日には伊豆国から使者 安達盛長を派遣して鐘を鋳造させ、鐘の面に頼朝の名を刻ませたという。
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   ※慈光山: 現在の比企郡 ときがわ町 (地図) にある古刹 慈光寺 (公式サイト)。残念ながら寺宝の中に頼朝
寄進の鐘はなく、寛元三年 (1245) 鋳造の鐘 (重文) があるのみで愛染明王像も残っていない。ただし 10km圏内には 畠山重忠旧跡や義仲の父 帯刀先生義賢の遺跡 義仲誕生の地などが点在するから、平安~鎌倉期の史跡の宝庫ではある。
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また慈光山の 20kmほど東には頼朝の乳母 比企尼の本領もあり、慈光寺が彼女の縁だった可能性もある。治承三年 (1119) 3月は、伊東祐親の討手を逃れた頼朝が伊豆山を経て北條館に入り込み、当主が大番役で留守だった娘の 政子大姫を産ませた翌年、 「曽我物語」 に拠れば、この時点の頼朝にはアンチ平家の挙兵のなど全く考えていなかった、らしいが。
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西暦1189年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治五年
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6月30日 戊午
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吾妻鏡
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大庭平太景能 (景義) は古参の御家人である。兵法の故実に詳しいため彼を呼び奥州征伐の件を話し合った。
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「奥州征伐については宣旨の発行を求めているのだが未だに勅許が得られない。御家人の軍勢は既に集結しており、どう動くべきか考えている」と。景能は間を置かずに即答して曰く、
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「軍陣にあっては将軍の命令を聞き、天子の詔を聞く事はない。既に奏聞が済んでいるのだから結果を待つ必要はない。そもそも泰衡は源氏の御家人だった者の子孫である。宣旨や綸旨が得られずとも家臣を罰する事に支障はない。集結している軍士が無駄に日を過ごすより早急の出陣を選ぶべき」と。
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我が意を得た頼朝は御厩の馬に鞍を置き景能に与えた。小山 (結城) 朝光が馬を庭に引き出して手綱の端を景能の前に投げ、景能は座したまま綱を受け取り郎従に渡した。
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頼朝が奥に入ってから景能は朝光を近くに呼んで礼を述べた。「私は老齢に加えて保元の合戦で受けた疵のため歩行に支障がある。馬を拝領しても庭に降りて受け取ることができず、綱を投げてくれたのは本当にありがたかった」と。頼朝もまた、朝光の配慮に感動した。
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   ※御家人の子孫: 奥州藤原氏初代に当る清衡の父 藤原 (亘理) 経清は前九年の役当初には 八幡太郎義家
頼義に従っていたから、御家人の子孫と強弁はできる。
でも将軍 頼義は 安倍貞任を滅ぼした際には、後に清衡の養父になる出羽の清原一族に「臣下の礼を尽くして援軍を懇請」 している。安易に御家人の子孫とも言えない。
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   ※保元合戦の疵: 崇徳上皇の御所 白河北殿の攻防で 義朝に従って為義勢と戦い、鎮西八郎為朝の強弓で
左の膝を砕かれた。合戦には勝ったが景義は歩行困難となり、家督を弟の 景親に譲って所領の懐島に隠居。頼朝挙兵後に景親は斬首され、景義が家長に復帰した。
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景義と次弟の豊田景俊の生母は横山隆兼(愛甲三郎季隆の父)の娘だが三男の 大庭景親と四男の 俣野景久とは異母兄弟、源平に分かれて治承の兵乱を戦った裏には家督を巡る葛藤があったのかも知れない。景宗の墳墓である 大庭塚も参考に。
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西暦1189年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治五年
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7月 1日 己未
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吾妻鏡
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鶴岡八幡宮で放生会を開催、頼朝も出御した。供として従う者は先月 9日と同じ人数だが、弓箭を帯する供奉は勅使河原三郎である。
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まず法会があり次に神楽、稚児 8人が左右に分かれて舞った。次は馬場で馬長 (着飾った馬10騎) 、競馬 (老翁による 5番)、流鏑馬 16騎、相撲 16番。頼朝は黄昏になって御所に還御した。
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   ※勅使河原三郎: 秩父丹五基房を祖とする武蔵七党丹党の武士
で秩父平氏とは別流とされる。基房の子直時が児玉郡勅使河原(地図)に住み、草月流で知られる勅使河原氏の祖となった。
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一族は直時→ 弥四郎直兼→ 権三郎有直 (今回の弓箭担当) と続き、源平盛衰記は有直と弟の四郎有則が京都から北陸を目指して落ち延びる 木曽義仲を追い掛けて合戦する事や、太平記は南朝に味方して敗れ本領を去る事、などを描いている。
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勅使河原一帯は円墳 20基が残る帯刀古墳群、丹生神社、大日堂、奈良時代初期の五明廃寺跡など、終日歩き廻っても楽しめるスポットが点在している。
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右画像は勅使河原有直の館跡と伝わる大光寺の山門。クリック→ 別窓で拡大表示
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西暦1189年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治五年
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7月 5日 癸亥
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吾妻鏡
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奥州征伐の成功を祈祷するため駿河国冨士御領帝尺院に水田を寄進、江間小四郎 北條義時が差配した。
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   ※冨士御領: 駿河国一宮の 富士浅間神社を差す。帝釈院は神仏習合時代の宮寺だろう。
拝殿右奥の湧玉池には富士山の伏流水が豊富に湧き出て境内右側を清流が流れ下る。
我が家の犬が健在だった頃は大好きな水浴び場の一つだった。
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西暦1189年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治五年
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7月 8日 丙寅
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吾妻鏡
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千葉介常胤が新調の御旗を献上。長さは入道将軍頼義が掲げた御旗に倣って一丈二尺 (3.6m) を 2枚。
上に伊勢太神宮と八幡大菩薩、下に向き合う鳩二羽を白糸で刺繍してある。奥州追討の象徴である。
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治承四年 (1180) 9月13日に 千葉常胤が軍勢を率いて頼朝の旗下に加わり、その後に諸国の武士が全て従った吉例を考えて常胤に旗の制作を命じた。旗の絹布の献上を 小山朝政に命じたのは朝政の先祖 藤原秀郷が朝敵の 平将門を滅ぼした好例に倣ったものである。
この御旗は三浦義澄が鶴岡八幡宮別当坊に運び、宮寺で七日間の加持祈祷を加えよとの命令が下された。
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また 下河辺庄司 行平が命令を受けて新しく鎧を威し、今日自らこれを持参して鎧櫃の蓋を開け御前に置いた。鎧の下に着す紺地錦の直垂上下を添え、兜の後には笠標を付けている。
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頼朝は「笠標は鎧の袖に付けるのが本来ではないか」と言うと、行平はそれに答えて「これは先祖である藤原秀郷の吉例である。武士の本意は先登 (一番乗り) であり、敵は名乗りを聞いて相手を知り、後続の味方は笠標を見て先登した者を知る。ただし、どちらに付けるかは御意のままに」と答えた。
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甲冑のような物を整える際には一族の故事習慣を重んじるべきだろう、頼朝はそう答えて満足の意を表した。
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   ※入道将軍頼義: 鎮守府将軍として前九年の役で 安倍貞任らを討伐した 源頼義を差す。頼義と息子の
義家は敵対した安倍一族と清原一族を討伐したが、奥州は手に入らなかった。頼朝は「奥州を得て源家の宿願を達成し偉大な先祖を越えるぞ」なんて考えたんだろうね。
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   ※二羽の鳩: 八幡宮扁額の「八」は、ナメクジみたいな白い鳩のデフォルメ(クリック→ 拡大表示)。
鳩は八幡大菩薩のシンボル、豊島屋の「鳩サブレー」の始まりもこの扁額のデザインからスタートしている。  画像をクリック→ 別窓で拡大表示
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西暦1189年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治五年
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7月 9日 丁卯
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吾妻鏡
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前の大蔵卿 高階泰経朝臣は義経に与していた関係から頼朝に嫌われ罪に問われた人物である。しかし義経は既に敗北し落命したのだから泰経の罪も許したらどうか、後白河法皇がその意向を師中納言 吉田経房に伝え、その旨の御教書が今日鎌倉に到着した。その内容は次の通り。
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泰経卿の赦免については再三頼朝卿に申し入れを行なっているが、未だに同意されていない。罪科を考えて許容しないのだとは思うが、同様の罪に問われた者の多くが赦免されている上に義経の件は既に過ぎた事。適当な折を見て許したらどうか、それが院の御意向である。 七月一日 左中弁 謹上 太宰権師
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   ※高階泰経: 史料は「年内の出仕が許された」としているが出典は確認できず。吾妻鏡にも記載なし。
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西暦1189年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治五年
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7月10日 戊辰
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吾妻鏡
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伊勢神宮領の伊勢国沼田御厨の農民ら訴状を持って鎌倉を訪れた。以前は 畠山重忠に与えられていた土地なのだが、郡司である員弁家綱の訴えによって没収されて吉見次郎頼綱に与えられた。しかしその頼綱が不正を企んで民家に押し入り財物を強奪したとの訴えが発生し、今日決裁が出されたものである。
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今回は 平民部丞盛時の差配により、頼綱の違法行為を止めさせる措置をとるよう山城守久兼に命令を下した。
奥州征伐の祈祷が差し迫っているため裁決を急いだ事案である。
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   ※重忠所領: 文治三年 (1187) 10月13日に重忠代官の非法が発覚している。単純な事件だったが11月15日
梶原景時の口出しでトラブルが拡大、同21日には重忠謀反を疑う騒ぎにまで発展した。
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   ※吉見頼綱: 吉見氏系図 (の一部) では 比企尼から吉見庄を継承して吉見姓を名乗ったのが最初とする。
一方で尊卑分脈は 範頼の次男範圓と三男源昭 (共に出家) が 比企の尼の懇願により助命され吉見の地を与えられて土着したのが最初、としている。
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吉見氏の初見は沼田御厨の管理権が重忠→ 頼綱に移った文治三年 (1187) 10月13日なので以前から吉見に土着していた可能性が高く、範頼の子孫云々の信憑性は低い。
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また比企氏は建仁三年 (1203) 9月の政変で滅亡した際に比企氏の与党である筈の吉見氏が連座しなかった可能性も乏しい。つまり文治五年 (1189) の時点では、範頼とも比企一族とも無関係の吉見氏が存在していた、と考えるべき、だろう。
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また 7月19日の奥州追討軍出陣リストのやや上位に吉見次郎頼綱の名前が確認できる。
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西暦1189年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治五年
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7月12日 庚午
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吾妻鏡
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飛脚を朝廷に派遣した。書状に曰く、奥州の 藤原泰衡追討に関し、宣旨が発行されると考えていたため軍勢を集めてから既に数日が過ぎた。院の使者による宣旨送達では間に合わないため、左兵衛督藤原隆房に指示して頂き、彼の飛脚により届けて頂くよう願いたい、と。
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   ※藤原隆房: 正室は 平清盛の娘で平家とも親しかった廷臣。平家の都落ちには同行せず、後白河近臣と
して政治的な影響力を維持すると共に平家滅亡後の 建礼門院を庇護したとも伝わる。
この時点では従三位で権中納言、頼朝は院近臣の影響力に期待したのだろうか。
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西暦1189年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治五年
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7月14日 壬申
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吾妻鏡
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奥州征伐出陣を控えた頼朝は 波多野五郎義景に従軍を命じた。義景は了承すると共に所領を幼い息子に相続させた。これは本領への帰還を考えず戦場に赴く覚悟である。頼朝はこれを聴いて感動を覚えた。
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   ※幼い息子: 三郎盛通を差す。建暦三年 (1213) 5月6日発行の和田合戦での戦死者名簿に波多野三郎、
同太郎、同弥次郎」の名前がある。波多野氏には横山党や岡崎氏、土屋氏、和田氏との深い縁戚関係があり、一族を挙げて義盛に味方した結果である。
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ちなみに、波多野義景は建永元年 (1206) 6月21日に催された御所での相撲に出場したとの記録がある。享年は不詳、これが吾妻鏡に義景が登場した最後で、奥州合戦から生きて帰還したのは間違いない。
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西暦1189年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治五年
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7月16日 甲戌
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吾妻鏡
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右武衛 一條能保の使者 兵衛尉 後藤基清と、鎌倉から先日上洛した飛脚が鎌倉に入った。
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基清の曰く、「泰衡追討の宣旨について摂政 九条兼実と上位の公卿らが再三議論した結果、義経の所在と死没が明らかになった。このうえ更に泰衡追討を重ねれば天下の大事となる、今年は猶予するべきとの院宣が去る 7日に下った。早急に仔細を知らせよと師中納言 吉田経房が申し入れている。対応は如何に」との事。
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これを聞いた頼朝は激怒して次のように命令を下した。
  「多くの将士が集結し既に費用も嵩んでいるのに、来年に延期できる筈がない、必ず出陣する」 と。
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   ※後藤基清: 「平治物語の中巻四章 義朝敗北のこと」の中に次の記載がある。
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(比叡の僧兵と戦った後に) 龍下の麓 (地図) に下って馬を休めた 義朝は後藤兵衛実基を呼び「預けておいた私の娘 (坊門姫) はどうした」と尋ねた。
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実基が「私の娘に良く言い含めて預けました、心配は要りません」と答えると 「お前はこれから都へ戻って姫を育て、尼にでもして私の後世を弔わせよ」と仰せになった。
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「この後もお供して行く末を見届けてから京に戻ります」と申し上げても「考えがあるから早く行け」と命じられて仕方なく都へ帰った。その後は姫君を育て、源氏の世になってから二位中将 一條能保卿に嫁がせた。実基は頼朝が覇権を握ってから世に出たという。
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実基のその後は不明だが、彼の養子となった武士が基清。藤原秀郷流の子孫である 西行法師 (俗名 佐藤義清) の兄弟である佐藤仲清の息子と伝わっている。
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元暦二年 (1185) の屋島合戦後に無許可で任官して「鼠みたいな目をしやがって官位など飛んでもない話だ」と頼朝に罵倒された人物だ。
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基清は御家人の身分のまま坊門姫と一條能保に仕えて京に駐在、承久の乱 (1221) では 後鳥羽上皇に従って敗北し、鎌倉方で軍奉行を務めた息子の実務官僚 基綱が処刑を担当した。
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この基綱 (康元元年 1256年没) が遺した多くの覚え書きが吾妻鏡の編纂に流用された、と考えられているのも面白い。
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西暦1189年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治五年
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7月17日 乙亥
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吾妻鏡
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   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
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奥州追討への出発を控えて一日中様々な準備を行なった。まず、軍勢は三手に分かれて進軍する。
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東海道の大将軍は 千葉介常胤八田右衛門尉知家。それぞれ一族および常陸と下総両国の武士を引き連れて宇大と行方を経て岩城岩崎を廻り、逢隈河の湊を渡って本隊と合流せよ (ルート地図)。
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北陸道の大将軍は比企四郎能員宇佐美平次実政。下道を経て上野国の高山、小林、大胡、佐貫などに土着する武士を傘下に加え、越後国から出羽国念種関へと北上して合戦を遂げよ (ルート地図)。
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頼朝は大手の軍勢を率いて中路 (奥州街道) から陸奥国を目指す。先陣は畠山次郎重忠ルート地図)。
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次に合戦の下準備として、今までの合戦で最前線を務めた歴戦の勇士らは従う郎党が多くない。このままでは勲功を挙げにくいから手勢を増やしてやろう。 武蔵国と上野国に土着する武士は 加藤次景廉葛西三郎清重 の指揮下に入って戦うよう、和田義盛梶原景時 に指示を与えた。
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次に、奥州遠征中の鎌倉を差配する留守役は大夫属入道三善康信。康信の弟隼人佐康清、藤判官代 藤原邦道佐々木次郎経高大庭平太景義義勝房成尋 が留守役を補佐せよ、と。
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   ※宇大と行方: 宇大は宇多郡 (現在の相馬郡新地町、地図)とするのが一般的だが、北上する場合は現在
の行方 (水戸街道) と順路が逆になる。
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   ※岩城岩崎: 現在のいわき市小名浜岩出岩崎 (地図) で、国道ルートから西に逸れるが理由は不明。
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   ※逢隈河の湊: 宮城県岩沼市の阿武隈 (地図) 。川の南が亘理、奥州藤原氏の初代 清衡 の父で前九年の役
で頼義軍と戦った 亘理 (藤原) 経清が本拠とした官衙遺跡 (鳥瞰図) がある。
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   ※出羽国念種関: 越後 (新潟県) と出羽 (山形県) 隔てる念珠の関(地図)、詳細は 鼠ヶ関 (Wiki) で。
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西暦1189年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治五年
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7月18日 丙子
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吾妻鏡
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頼朝が 伊豆山権現の住僧専光房を呼んで命令を与えた。
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私は奥州征伐のため内密の立願をしている。汝は戒律を厳しく守る僧として、私が留守の間に鎌倉で祈祷に従事せよ。私が出陣して20日目に大倉亭の裏山に私の念持仏である正観音像を祀る堂を建てよ。工匠に任せず 自ら柱のみを建てれば良い、造作については改めて沙汰を下す。 専光房は内容を了解した。
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また奥州征伐の成功を祈り伊豆国北條に寺を建てる立願をした。今日、比企能員が北陸道の大将軍として奥州を目指して出陣した。
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   ※正観音像: 石橋山で敗れた治承四年 (1180) 8月24日、頼朝は
髷に隠した二寸の銀の正観音像を洞窟の中に隠し土肥実平の問いに答えて次の様に語った。
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「三歳の時に乳母が清水寺に参籠して得た像だ。
大庭景親に首を見られた時、源氏の大将軍に相応しくない所業だと思われたくないためである。」
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   ※寺の立願: 吾妻鏡に再三記載される北條の寺 願成就院は、
この日の記事を除いて全て「北條時政の立願」 と述べている。頼朝の立願と書いたのは単純ミスか、それとも何かの意図が含まれているのか。
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吾妻鏡の原文は「於伊豆國北條可立伽藍之由御立願同為彼征伐御祈祷也 云云」
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右画像をクリック→ 正観音像を隠した伝承の残る土肥の しとどの窟 の詳細 (別窓) へ
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西暦1189年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治五年
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7月19日 丁丑
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吾妻鏡
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巳刻 (10時前後) 、頼朝は奥州の 藤原泰衡 征伐に出陣した。その際に 梶原景時が 「城四郎長茂 は無双の勇士である。預かり状態にある捕虜の身分だが、このような時こそ連れて行くべきと思う。」と言上した。
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頼朝はそれに同意し長茂にその趣を伝えた。長茂は喜んで参上し、囚人の立場ながら自らの旗を掲げる許可を得た。傍輩に向って「この旗を見て (昔の敗北で) 逃亡している郎従が再び集まるだろう。」と語った。
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頼朝出陣の先陣を務めるのは 畠山次郎重忠。まず匹夫 80人が馬前に立ち、その中の 50人はそれぞれ雨衣で包んだ実戦用の矢を三腰 (一腰は24本) 担ぎ、30人には鋤鍬を携帯させた。続いて替え馬を 3疋、次に重忠、軍兵が 5騎 (長野三郎重清、大串小次郎、本田次郎、榛澤六郎、柏原太郎) である。
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次に騎馬の頼朝(馬前に弓袋に納めた弓箭と甲冑あり)、鎌倉出陣に従う軍勢は次の通り。
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武蔵守義信  遠江守義定  参河守範頼  信濃守遠光  相模守惟義  駿河守廣綱  上総介義兼
伊豆守義範  越後守義資  豊後守季光  北條時政  同、義時  同、時房  式部大夫親能
新田蔵人義兼  浅利冠者義遠  武田兵衛尉有義  伊澤五郎信光  加々美次郎長清
同太郎長綱  小山兵衛尉朝政  同五郎宗政  同七郎朝光  下河辺庄司行平  吉見次郎頼綱
南部次郎光行  平賀三郎朝信  三浦介義澄  三浦平六義村  佐原十郎義連  和田太郎義盛
同三郎宗実 小山田三郎重成  同四郎(榛谷重朝)  籐九郎盛長  足立右馬允遠元
土肥次郎実平  同弥太郎遠平  岡崎四郎義実  同先次郎惟平  土屋次郎義清  梶原平三景時
源太左衛門尉景季  同平次兵衛尉景高  三郎景茂   刑部丞景友  兵衛尉定景
波多野五郎義景  中山四郎重政  同五郎為重  渋谷次郎高重  四郎時国
古庄 (大友) 能直  河野通信  豊嶋清光 (Wiki)   葛西三郎清重、同十郎
江戸重長、次郎親重、四郎重通、七郎重宗 (弟、Wiki)   山内三郎経俊  大井実春
宇都宮左衛門尉朝綱、次郎業綱  八田右衛門尉知家  太郎朝重  主計允行政  民部丞盛時  豊田兵衛尉義幹  大河戸太郎広行  佐貫四郎広綱、同五郎、同六郎広義  佐野太郎基綱  阿曽沼次郎広綱  波多野余三実方  小野寺道綱  工藤庄司景光、次郎行光、同三郎助光
狩野五郎親光  常陸次郎為重、  三郎資綱  加藤太光員  同籐次景廉  佐々木三郎盛綱
同五郎義清  曽我太郎助(祐)信  橘次公業  宇佐美三郎祐茂  二宮太郎朝忠
天野右馬允保高、同六郎則景  伊藤三郎  同四郎成親  工藤左衛門尉祐綱  新田四郎忠常
同六郎忠時  熊谷小次郎直家  堀籐太  堀籐次親家  伊澤左近将監家景
江右近次郎  吉香小次郎  中野小太郎助光、同五郎義成  渋河五郎兼保  春日貞親
藤沢次郎清親  飯富源太宗季 (wiki)   大見家秀  沼田太郎   糟屋籐太有季
本間右馬允義忠  海老名四郎義季  所六郎朝光 (Wiki)   横山時広  三尾谷十郎
平山季重 (wiki)   師岡兵衛尉重経 (Wiki)  野三刑部丞成綱  中条家長   岡辺六野太忠澄
小越右馬允有弘  庄三郎忠家 (Wiki)   四方田三郎弘長 (Wiki)  浅見太郎実高
浅羽五郎行長  小代八郎行平 (Wiki)  勅使河原三郎有直  成田七郎助綱  高鼻和太郎
塩屋太郎家光  阿保次郎実光  宮六兼仗国平 (Wiki)  河匂三郎政成  同七郎政頼
中四郎是重(詳細不明)  一品房昌寛  常陸房昌明  尾藤太知平  金子小次郎高範
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   ※加々美太郎長綱: 加賀美遠光の長男長清は小笠原氏の祖となり加賀美氏は四男の光経が継承したが
太郎長綱の該当者は見当たらない。
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   ※吉見次郎頼綱: 7月10日の条に吉見氏関連の記事を記載してある。
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   ※平賀朝信: 平賀(大内)義信の三男で北條時政の婿・朝雅の弟。
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   ※同三郎宗實: 杉本義宗(三浦義明の長男)の五男で和田義盛の末弟。
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   ※先次郎惟平: 土肥 (小早川) 遠平の長男で岡崎義実の猶子。後に和田合戦で討ち死にしている。
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   ※重政と為重: 秩父平氏系の武士だと思うが確認が取れない。継続して調査する。
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   ※渋谷時国: 渋谷重国の次男。兄と共に建暦三年 (1213) の和田合戦で義盛に与して戦死した。
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   ※葛西十郎: 葛西清重の子または弟の一人と推定されるが系譜は不明。
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   ※江戸親重、重通、重宗: 江戸重長の弟。頼朝が武蔵国に入った際に兄に従い重忠や重頼と共に帰服。
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   ※宇都宮業綱: 後に成綱と改名。朝綱の嫡子で第四代当主、五代頼綱の父。四男朝業は塩谷氏の祖。
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   ※豊田義幹: 常陸平氏大掾氏の多気義。建久四年 (1193) 6月に八田知家の讒言が元で失脚した。
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   ※大河戸広行: 三浦義明の娘婿で本拠は大河戸御厨(現在の北葛飾郡松伏町、地図)。
当初は平家に従い、頼朝挙兵後に弟らと共に帰服し平家追討に転戦している。治承五年 (1181) 2月18日、寿永三年 (1184) 2月5日 (三草山の合戦) にも記載がある。
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   ※佐貫五郎、六郎広義: 広綱の弟で共に籘姓足利氏に仕え、後に頼朝に従って転戦した。
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   ※阿曽沼広綱: 籘姓足利氏の庶流佐野氏一門の武士。佐野八幡宮 (地図) の一帯を本拠にした。
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   ※波多野実方: 頼朝が滅ぼした 波多野義常の父で義朝に従っていた 義通の末弟。
秦野市北西部の堀川一帯 (地図) を領有した大沢実方を差す。
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   ※小野寺太郎道綱: 藤原秀郷の末裔を称する。源為義に従って東国を転戦した藤原義寛が下野国都賀郡
の小野 (現在の小野寺、東北道岩舟JCT一帯) の地を得て大慈寺を建てたのが始まりで、一時期は平家に従い平知盛旗下の宇治川合戦で 源頼政と戦った。
東北道の東側々道沿いに道綱の墓石 (地図) が残り、東500mの住林寺 (時宗) は承久の乱で戦死した道綱の菩提を弔って親族が建てたと伝わる。
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   ※工藤行光、助光: 景光の長男が行光。助光は次男の資光か?
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   ※常陸為重、資綱: 常陸入道念西 の息子で伊佐為宗の弟たち。念西と為宗本人と末弟の為家も従軍し
ている筈だが名前が見当たらないのは東海道の軍勢に加わったか。為宗は本領の伊佐郡 (茨城県筑西市) に留まり承久の乱 (1221) で戦死、念西と為重以下の兄弟は恩賞として得た奥州伊達郡に土着して伊達氏の祖になった。
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   ※二宮朝忠: 中村宗平の四男で 二宮郷を相続した友平の嫡子 (中村氏の系図参照) 。
正妻 (後の花月尼) は曽我兄弟の異父姉に当たる。
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   ※新田六郎忠時: 忠常の弟。上に五郎がいる。三人とも建仁三年 (1203) 9月6日の比企の乱に絡んで
不慮の死を遂げている。
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    天野右馬允保高、六郎則景、伊藤三郎、四郎成親は判らない。継続して追跡する
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   ※工藤左衛門尉祐綱: 工藤祐経の間違いじゃないかな、と思う。左衛門尉は他にいない。
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   ※熊谷直家: 直実の嫡子。建久三年 (1192) の直実出家に伴い23歳で家督を継承した。墓所は父母と共
熊谷寺にあるが墓域は公開していない。長男直国は承久の乱で戦死、次男直重は三河熊谷氏、三男は陸奥熊谷氏 (南三陸町) の祖となった。
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   ※堀籐太: 名前などから考えると堀親家の父か兄だと思うが明確な系図が存在しない。
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   ※伊澤家景: 京下りの文官。葛西清重と共に大河兼任の乱後の奥州総奉行に任じ陸奥国留守職を世襲。
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   ※江右近次郎: 大江広元の系譜につながる可能性はあるが、根拠となる資料はない。
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   ※吉香小次郎: 駿河国吉香郷 (清水区吉川) の武士。梶原景時一族を狐ヶ崎を討伐したことで有名。
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   ※中野助光、同義成: 信州北部の住人なのは間違いないが、それ以上は判らない。
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   ※渋河兼保: 上野国渋河の武士。毛利氏系累の渋河氏 4人が和田合戦 (1213) で戦死者している。
同族の一部を除き承久の乱で滅亡、その後は源姓足利氏に吸収されたか?
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   ※春日貞親: 信濃の名族 祢津滋野氏の庶流で当初は義仲に従い、義仲の滅亡後は頼朝に臣従した。
現在の佐久市春日 (地図) を本拠にした武士。
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   ※沼田太郎: 本拠は上野国利根郡沼田 (沼田市) 。相模国愛甲郡古庄郷の近藤能成の子が土着か。
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   ※本間義忠: 武蔵七党の横山党の庶流で武蔵国小野郷 (府中市谷保、地図) の多摩川流域が本領。
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   ※海老名義季: 本領は相模国高座郡(現在の海老名市)、出身は横山党で本間氏の本家筋にあたる。
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   ※横山時広: 武蔵国多摩郡 (八王子一帯) を本拠にした強力な武士団の棟梁。和田義盛との縁戚関係
が深く、和田合戦 (1213年) に敗れて滅亡した。
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   ※三尾谷十郎: 出自は不明、美尾屋または水尾谷とも称し、現在の比企郡川島町の広徳寺 (地図) が
館の跡と伝わっている。平家物語 (巻11の5 弓流) では屋島合戦で悪七兵衛景清と戦い辛うじて逃げた記載があり、吾妻鏡の文治元年 (1185) 10月17日には「土左房昌俊が水尾谷十郎ら 60余騎の兵を率いて義経の六條室町亭を襲った」との記録がある。
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   ※野三刑部丞成綱: 小野成綱 の通称。平家追討の功績で阿波国麻殖保の地頭職を得たが、文治四年
(1183) 3月14日に保司の平康頼に年貢の押領を訴えられた。建久六年 (1195) から尾張国守護を務め、建暦元年( (1211) の死没以後は息子の盛綱が世襲しており、康頼の訴えで特に処罰や左遷はなかったらしい。
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   ※小越右馬允有弘: 秩父児玉党の武士で越生有行の嫡子、藤原北家の末。八高線越生駅近く (地図) に
有弘が復興したと伝わる報恩寺 (公式サイト) がある。
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   ※浅見太郎実高: 秩父児玉党の武士で庄三郎忠家の甥か。奥州合戦の軍功で上野と越後に新領を得た。
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   ※浅羽五郎行長: 秩父児玉党の武士。吾妻鏡の治承五年 (1181) 3月13日の条に「遠江国守護
安田義定の使者が到着、平家来襲に備える作業に浅羽庄司宗信と相良三郎らが協力しなかった」との記述がある。
土着の武士だと思っていたら軍功で庄司に抜擢された児玉党だったらしい。
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   ※勅使河原三郎有直: 7月1日の八幡宮放生会で頼朝の供をした記載あり、詳細はそちらで。
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   ※成田七郎助綱: 小野姓横山党の資孝の子成任が成田に土着したのが最初らしいが藤原北家の末説も
ある。助綱は奥州合戦の恩賞として鹿角郡 (秋田県北東部) に所領を得ている。
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   ※高鼻和太郎: 浦和市北部から大宮市南部 (さいたま市) の高鼻郷 (高埇郷) を領した。子孫の高埇氏
はこの地域の地頭を世襲し、氷川大明神の大檀那を務めている。
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   ※塩屋太郎家光: 武蔵国児玉党の本宗家三代目 家行の次男家遠が児玉郡塩谷郷 (本庄市児玉町) を
継承して塩谷 (吾妻鏡では塩屋) を名乗ったのが最初。
児玉郡誌は「家遠の子 塩屋五郎維弘は一ノ谷合戦に加わり奥州合戦で戦死」と書いており、維弘の兄弟民部大夫家経は「承久の乱 (1221年) の宇治川合戦で戦死、71歳」とある。奥州合戦では40歳だから詳細は判らないが、家光も同じ時代を生きた系累だったらしい。
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   ※阿保次郎実光: 姓は「安保」が一般的。武蔵七党 丹党の父親 丹綱房から賀美郡安保郷 (現在の神川
町元阿保、地図)を継承して安保氏の祖となった。一ノ谷、奥州合戦、承久の乱を戦い、すぐ上に書いた塩屋家経と共に宇治川渡河の戦いで溺死した、と伝わる。享年はなんと、80歳。鎌倉幕府の命運を決した関戸の合戦で新田勢を食い止めて鎌倉軍の総大将・左近入道 (北條泰家) を救い討死した「安保入道親子」は子孫だろう。
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   ※河匂三郎政成: 武蔵七党の猪俣党に属する武士。児玉郡阿那志の間の川輪に住んで河匂を名乗った。
氏神とした河輪神社の一帯 (地図) である。横浜市青葉区の鴨志田の板碑 (横浜市のサイト) にも河匂七郎三郎の名が残っており、所領があった可能性がある。
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   ※常陸房昌明: 第62代村上天皇の第七皇子具平親王から9代目に当る名和氏一族の僧。元暦三年
(1186) 5月25日の吾妻鏡に「12日に和泉国小木郷で常陸房昌明らが行家を討ち取った」との記載がある。昌明はこの功績により但馬国多田荘と葉室荘を与えられ、承久の乱では鎌倉側に付いて但馬国守護職に任じた。
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   ※尾藤太知平: 建暦三年 (1213) 頃から三代執権 泰時に近侍し初代家令に任じた尾藤景綱 (Wiki) の父が
知景、その兄弟または近親と考えられるが、史料に現れない。
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   ※金子小次郎高範: 武蔵七党の一つで多摩郡村山郷 (入間川付近) を本拠にした村山党の武士。
本領は現在の入間市金子の一帯。高範は後に承久の乱で討死し、嫡子の小太郎が
南畑 (富士見市下南畑に難波田城公園がある) の地を得て難波田氏の祖となった。
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西暦1189年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治五年
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7月25日 癸未
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吾妻鏡
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頼朝が軍勢を率いて下野国古多橋の驛に到着。まず宇都宮に奉幣して立願を行なった。今回の奥州征伐が無事に終われば捕虜にした者を一人神職 (として奉仕する奴婢) に進呈すると述べ鏑矢を奉納した。
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その後宿舎に入り、小山下野大掾 政光入道が食事を献じた。この時、紺の直垂上下を着た者が御前に控えていたため政光がその素性を尋ね、頼朝は 「無双の勇者 熊谷小次郎直家」と答えた。政光が無双の勇者を称する理由を問うと、「一ノ谷などの戦場で父の直実と共に命を惜しまず、再三の合戦を行なったため」との事。
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政光は大きく頷いて、「主君のため命を惜しまず戦うのは勇者の所業であり、直家らに限った事ではない。ただしこの者たちは従う郎党がいないため自ら勲功を挙げて忠義を尽くす。政光のような立場になれば郎従を派遣して結果を出すのが常ではあるが、今回の合戦では自ら勲功を挙げて無双の勇者と称して頂けるよう務めよ」と息子の (小山) 朝政(長沼)宗政(結城)朝光 および猶子の (宇都宮) 頼綱 らに命じた。頼朝はこの遣り取りが面白かったらしい。
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   ※古多橋の驛: 宇都宮 (二荒山神社) の南東山裾、市街地の東を
を流れる田川の西岸 (地図) にあった。
南西 500mに宇都宮城址がある
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   ※宇都宮: 現在の二荒山神社。宇都宮氏初代の藤原宗円 (藤原
北家 関白道兼の曾孫)は石山寺座主を経て常陸から下野に移り、宇都宮座主として勢力を広げた。
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石山寺は現在の 大谷寺 (Wiki) 説と、大津の 園城寺 (三井寺) 説があり、私は大谷寺説を支持する。
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宗円→ 宗綱に続く三代目の 朝綱が拓いた益子地蔵院の 宇都宮氏歴代の廟所も参考に。
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          右画像は市街の中心地、宇都宮(二荒山神社、音読みで「日光」に転訛)の鳥居前。
                画像をクリック→ 二荒山神社の公式サイトへ。

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西暦1189年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治五年
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7月26日 甲申
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吾妻鏡
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宇都宮を出立しようとした際に 佐竹四郎隆義が常陸国から兵を率いて旗下に加わった。頼朝は隆義が掲げた無紋の白旗が源氏と同じなのを咎め、月を描いた扇を与えて旗の上に付けよと命じ、隆義はこれに従った。
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   ※佐竹四郎隆義: 治承四年の頼朝挙兵当時の佐竹氏当主 隆義は在京中のため
頼朝挙兵に呼応できず、富士川合戦後の 10月に鎌倉軍の総攻撃を受けて滅亡した。 一族は助命されたが所領は没収され、八田知家らに与えられた。
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吾妻鏡に記載されている四郎隆義は寿永二年 (1183) には既に死没しており、この場面で合流したのは同じ四郎を名乗っているが次男の 佐竹四郎秀義である。
    右は佐竹氏の「五本骨扇に月丸 紋」 (拡大なし)
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西暦1189年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治五年
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7月28日 丙戌
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吾妻鏡
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新渡戸の驛に到着。奥州入りが近付き、軍勢の詳細を確認するため御家人らに命じてそれぞれの手勢を報告させた。その名簿の中に 城四郎長茂の郎従 200余人との記録があり、頼朝を驚かせた。
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梶原景時が事情を説明するため 「長茂に従う者は元々数百人だったが、長茂が囚人になった際に多くが分散した。いま鎌倉の軍勢に加わったとの噂を聞いて集まったのだろう。この辺は彼の本領の近くである。」と答え、頼朝は彼らの忠義心に感心した。
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   ※新渡戸の驛: 旧五千円札で知られた新渡戸稲造の父祖の地は盛岡だが、奥州征伐に従軍した 千葉常胤
の孫の (境) 常秀が、藤原泰衡の送った刺客の遠田三郎を新渡戸驛で討ち取り、その功績で下野国の新渡戸郷、高岡郷、青谷郷を得たのが最初らしい。常秀の子孫が下野に定住し、後に陸奥に移って代々の盛岡藩主に仕えたと伝わっている。
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ただし千葉常胤らは下総から常陸の海沿いを北上して多賀城に入っているから、頼朝と同じく下野の新渡戸駅を通った話には疑問が残る。新渡戸駅の正確な位置は不明、白河の関に向う奥州街道か陸羽街道沿いなのは確かだろうが、場所については諸説ある。
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那須町伊王野の芋淵 (地図) 、 更に 5kmほど南の大田原市寒井 (地図) 、或いは那須塩原市杉渡戸 (地図) 、更に 40kmほど南の真岡市水戸部 (地図) などが候補地だが、吾妻鏡のみを根拠にすれば翌日通過している白河の関から約 90km離れた水戸部は考えにくい。20km離れた寒井か杉渡戸か、15km離れた芋淵だろう。
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   ※城四郎長茂: 養和元年 (1181) 6月の 横田河原の合戦で寡兵の 木曽義仲に惨敗し、会津まで逃亡して
いた。長茂は奥州合戦での軍功により御家人に列せられるが、正治二年 (1201) に景時が北條時政の策で討たれると翌三年 (1202) に兵を率いて上洛し、景時糾弾に同調した小山朝政邸を襲撃、最後は吉野で追討された。恩義を受けた景時に殉じた報復である。
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西暦1189年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治五年
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7月29日 丁亥
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吾妻鏡
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頼朝は関の明神に奉幣し、軍勢は 白河の関 (別窓) を越えた。 頼朝は 梶原景季を呼んで問いかけた。
  「今は同じ初秋である、能因法師の歌を思い出さぬか」と。
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景季は馬を止めて一首を詠んだ。  秋風に 草木の露をば 払はせて 君が越ゆれば 関守もなし
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   ※関の明神: 一般的には旧 陸羽街道 (奥州街道) の下野国と陸奥
国の境にある 境の明神を差し、後世の松尾芭蕉も奥の細道でここを経て白河の関を見物しているが、このルートでは相当の回り道になる。
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頼朝の大軍が白河の関を通過ったのなら、旧々陸羽街道が通っていた現在の県道 76号で兵を進め、追分の明神、住吉玉津島神社を通らなければ話の筋に狂いが生じてしまう。
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中世以後は西側の旧陸羽街道 (R294) が本道となり江戸時代になって松尾芭蕉が訪れた頃には地元の人が使うだけの脇道で関所跡を訪ねる人もない存在になっていた、と思う。
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念のため「伊王野~関の明神~芭蕉が辿ったルートを経て~白河の関跡~峠の明神」までの ルート地図 (24.7km) と、伊王野から県道 76号で「追分の明神」を経て「白河の関」に至る ルート地図 (13.8km) を併記して置く。
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   ※歌碑、その他: 能因法師の歌や芭蕉の旅日記などを含めて上記の「白河の関」に記載してある。
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   ※景季の歌: 自民党議員に通じるような見事な太鼓持ちだ。関所跡の発掘調査に拠れば、数十人規模の
兵士も駐屯していたらしいが、関守たちは緊急避難して無人状態だったらしい。
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右画像は白河の関の鳥瞰。 画像をクリック→ 白河の関の詳細 (別窓) へ。
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西暦1189年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治五年
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8月 3日 庚寅
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玉 葉
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今日、東大寺聖人の重源が来訪。「御柱 150余本を伐採し、そのうち 10余本は既に東大寺に届いている。
今の状況を維持すれば三年のうちに完成するのだが、最近では周防国の荘園が提供を約した人夫の提供もないような状態が他の荘園数ヶ所にも及んでしまった。このままでは予定の完成が期待できず、更なる指示徹底をお願いしたい」、と。
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西暦1189年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治五年
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8月 7日 甲午
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吾妻鏡
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   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
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頼朝の軍勢は陸奥国伊達郡の阿津賀志山に近い国見の驛に到着。夜半に雷鳴と共に宿舎に落雷があり、鎌倉勢は主従共に不吉な予兆を感じて恐怖した。
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一方で 藤原泰衡は鎌倉軍の出陣を聞き阿津賀志山に城壁を築いて防衛線を構えていた。国見の宿と阿津賀志山の間に五丈 (約15m) 巾の堀を穿ち、逢隈河 (阿武隈川) に堰を設けて水を引き込んだ
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泰衡の異母兄である西木戸 (錦戸) 太郎 国衡を大将軍に、金剛別当秀綱、子息下須房太郎秀方ら二万騎の軍兵で防塁を守った。
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阿津賀志山から逢隈河までの三里に軍兵を配し、更に苅田郡にも砦を構えた。
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名取川と広瀬川には大縄を張って騎馬での渡河を防いでいる。
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 右は防塁の断面図 (資料館から転載) 。
        画像クリック→ 別窓で拡大表示

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泰衡は本陣を国分原の鞭楯に置き 栗原、三迫、黒岩口、一野には郎党の若九郎大夫と余平六らの指揮下に数千の兵を配置、また田河太郎行文と秋田三郎致文を送って出羽国を守らせた。
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夜、頼朝は歴戦の将士に対し明日早朝の泰衡先陣への攻撃を命じた。畠山重忠は連れてきた人夫 80人を呼び、持参の鋤鍬で土石を運ばせて人馬の進撃を妨げないように堀を埋めさせた。神の如き事前の配慮である。
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小山七郎朝光は近習として控えていた頼朝の宿舎を離れ、異母兄 小山朝政の郎従を引き連れて阿津賀志山に向かい一番乗りの栄誉を手に入れようと考えた。
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   ※合戦の経緯: 下記リンク先の「阿津賀志山」に地図を含めた詳細を記述してある。
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   ※国見の驛: 頼朝は現在の東北本線藤田駅に近い水雲神社 (地図) に本陣を置いた。阿津賀志山防塁から
約 3km西南西に位置し、周囲から 10mほど高い丘の中腹 (標高 94m)にある。防塁の位置よりも 10~30m高いのは戦略上の配慮だろう。
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    右下は阿津賀志山から阿武隈川に至る防塁と周辺のポイント。 画像をクリック→ 別窓で拡大表示。
       阿津賀志山の戦況と前後の経緯は 阿津賀志山防塁とその前後の合戦 (別窓) に詳細を記述した。

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   ※泰衡の準備: 吾妻鏡には 「泰衡は鎌倉軍の出陣を聞き」とある
が、防塁は少なくとも一年以上前から造り始めていたのだろう。目的が義経追討ではなく奥州征服にある、そう気付いても既に遅いのだが。
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   ※水を引き込む: 阿武隈川の北岸 500mほどは北傾斜地である。
北へ 3%前後の勾配で高くなり、合戦の中心となった森山地区では阿武隈川の川水面と防塁には 30m前後の高低差となる。実際に阿武隈川の水を引き込むのは不可能だ。
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吾妻鏡の記述は根拠が薄弱で、実際には阿津賀志山の裾から流れ下る滑川を利用してその東側沿いに防塁を築いたのだろう。
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   ※金剛別当秀綱: 名取熊野三社 (Wiki、地図) の棟梁で先代 秀衡に仕え、泰衡の後見も務めた。
現在の仙台市南部一帯を支配した太白山(太白区)修験僧の総帥と伝わっている。
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   ※刈田郡: 現在の白石市から大河原町にかけての一帯 (地図) 。
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   ※鞭楯: 仙台市宮城野区の榴岡公園 (地図) が鞭楯跡と考えられている。藤原氏時代の遺構は既になく、
現在は 仙台市歴史民俗資料館が建っている (民俗資料がメインで余り面白くなかった) 。
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   ※地名: 栗原は現在の栗原市、三迫は同市の北部、黒岩口は白石市鷹巣 (地図) 、一野は阿津賀志山防塁
の 2km北の白石市市野 (地図) か。いずれも奥州街道ルートにある。
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西暦1189年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治五年
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8月 8日 乙未
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吾妻鏡
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金剛別当秀綱は数千騎を卒いて阿津賀志山の南麓に布陣した。卯刻 (朝6時前後) 、頼朝畠山次郎重忠小山七郎朝光加藤次景廉工藤小次郎行光、同、三郎祐光らを派遣し鏑矢を放って合戦を開始、秀綱の軍勢は防戦したが大軍の波状攻撃を支えきれず、巳刻 (午前10時前後) には敗れて撤退した。
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秀綱は大木戸 (本陣) に駆け戻って大将軍の国衡に敗北を報告、国衡軍は態勢の立て直しを図った。
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一方で泰衡の郎従信夫庄司 (湯の庄司) 佐藤基治 (継信忠信らの父) は叔父の河辺太郎高綱、伊賀良目七郎高重らを率いて石那坂の上に布陣し、堀に阿武隈川の水を引き込んで柵を設け石弓 (石を投げ落す仕掛け) を備えて鎌倉軍を迎え討った。
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常陸入道念西の子息常陸冠者為宗、同次郎為重、同三郎資綱、同四郎為家らは甲冑を餌桶に入れて水に潜り伊達郡澤原に進んで矢戦を開始、佐藤庄司らは必死で抗戦し為重、資綱、為家が負傷、為宗の活躍によって佐藤庄司の他に主な武士 18人を討ち取り、阿津賀志山の経岡に首を晒した。
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今日の早朝、鎌倉では専光房が頼朝の指示に従って大倉亭の裏山に登り堂の造営を始めた。 まず更地に仮の柱四本を建てて観音堂とした。これは頼朝出陣から 20日後との指示だったが、夢のお告げがあってこの日になった。ちょうど阿津賀志山合戦で矢合わせがあった時刻で、これは奇特な符合と言うべきか。
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   ※国衡軍敗北: 膨大な労力を費やして築いた阿津賀志山防塁は僅かに4時間で陥落した。大軍を正面に
受けて戦った事、戦線を広げ過ぎた事 (阿津賀志山麓から阿武隈川まで約 3.6km) などが指摘されるが、最大の要因は戦闘意欲の有無とと兵の熟達度か。幾多の合戦を戦い抜き目の前に恩賞がぶら下がっているのが鎌倉軍の強みである。
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   ※石那坂: 阿津賀志山防塁から約 20km南の高台で東麓沿いに
頼朝が率いた奥州遠征軍 主力部隊の進軍ルートだった奥州街道が南北に通じていた。
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南の石那坂を落としてから北の阿津賀志山に向かうのが順序なのだが、石那坂を落とさなくても東と西を迂回すれば北進できるのだから、鎌倉軍を食い止める役には立たない。
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また阿武隈川から奥州街道までの距離は 500m強で標高差 30m以上、「堀に阿武隈川の水を引き込んで」は、現実にはあり得ない。これは阿津賀志山防塁と全く同じ描写で、吾妻鏡の編纂者が現地の地勢を全く知らずに描いたのが原因だろう。吾妻鏡の根本的な欠陥部分だ。
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  右は石那坂 (井楽公園南の丘陵) 周辺の鳥瞰図。 画像をクリック→ 別窓で拡大表示
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東北本線石名坂トンネルの上り線入り口の北側 (地図 ②) にある古戦場碑は 明治時代に出土した武具から推定した場所で、その後の調査で古墳時代の遺構と確定している。
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更に南部の平石小学校付近(地図 ③)、北部の井楽公園周辺(地図①) が古戦場と推定されているが、可能性の高い説として 基治の本拠 飯坂の古名が「石那坂」だった史実もある。
寡勢の佐藤基治なら一族の本拠 大鳥 (鳳) 城に籠って鎌倉の大軍を迎え討った筈だ、と。
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大鳥城は阿武隈川に流れ込む摺上川に囲まれており、すぐ北側は伊達郡。鎌倉軍本隊が阿津賀志山防塁を攻め、その前に別働隊の常陸冠者為宗らが 13km南東の大鳥城を囲む川又は堀を泳いで大鳥城を攻撃したと考えればれば、吾妻鏡の記述との整合性はある。
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写本の原文は「常陸入道念西子息 常陸冠者為宗 同二郎為重 同三郎資綱 同四郎為家等 潜相具甲冑於株 (秣) 之中 進出干 伊達郡澤原辺先登 発矢石...」、文節の余白は筆者の責、株は秣 (まぐさ桶) の誤記と推測。総じて安易な伝聞を筆録した可能性が高いようだ。
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   ※背景と経過: 佐藤基治は 基衡の弟 清綱の娘 (乙和子) を継室に
して得た男子 (継信と忠信) を 義経に従わせて失なったが、先妻の男子二人が跡を継いでいる。
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また長女の藤の江は義経擁護派のため泰時に殺された三郎忠衡の室で、娘婿だった忠衡も義経追討と同日に泰衡に殺された。
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その状態なのに、本領の飯坂を放棄し北側の阿津賀志山で戦うなど承服できる筈もない。本来なら泰衡を見捨てて頼朝に服従しても不思議ではないような関係である。
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  右画像は佐藤氏の菩提寺、飯坂の医王寺。 クリック→ 医王寺の詳細 (別窓) へ。
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吾妻鏡の10月2日には「捕虜になっていた佐藤庄司と名取郡司と熊野別当 (金剛別当秀綱) らが赦免されそれぞれ本領に帰った」とあり、8日の記録「阿津賀志山の経岡に首を晒した」とは食い違っている。佐藤一族はその後も信夫郡北部を領有しており、一族の滅亡ではなく和解成立と考えるべき、なのかも知れない。
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   ※経岡: 防塁から約 500m北の国道西側に地名が残る。国道が防塁を横切る地点より約 20m高い。
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西暦1189年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治五年
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8月 9日 丙申
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吾妻鏡
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夜になり、明日の早朝に阿津賀志山を越えて合戦を終わらせよとの命令が下された。
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ここで 三浦平六義村葛西三郎清重工藤小次郎行光、同三郎祐光狩野五郎親光藤澤次郎清近、河村千鶴丸 (13歳) の七騎が密かに (最前線の) 畠山重忠の陣を通り抜け、阿津賀志山を越えて一番乗りを果たそうとした。夜が明けてから大軍と共に行動したのでは功績が望めないと判断したためである。
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重忠の郎従成清が気付いて、「この合戦では先陣を承り抜群の栄誉を担っている。彼らが一番乗りを狙うなんて黙視できないから行動を阻止するか訴え出るかして止めさせ、先陣として行動するべき」と重忠に申し出た。
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重忠は「私が先陣を承っているのだから、先に合戦しても全て重忠の勲功である。加えて、一番乗りを狙う輩への妨害は武士の本分ではなく、自分だけの手柄を求める如き行為だ。好きなようにさせよ」と答えた。
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七騎は夜を徹して山道を越え敵陣の木戸口に馳せ着いた。それぞれが名乗りを挙げ、泰衡郎従の部伴籐八らの強者と戦った。
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ここで工藤小次郎行光が一番乗りを果たし狩野五郎親光が討死した。部伴籐八は陸奥六郡きっての強者である。行光と籐八は馬を並べて組み合い、命を賭して戦った末に行光が勝ちをおさめた。
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行光は籐八の首を鞍に付け、木戸口を目指して馬を進めたところで馬から降りて組み合っている二人の武者に遭遇、馬を止めて武者の姓名を問うと「藤澤次郎清近、敵を討とうとしている」と答えたため助太刀して敵を倒し、二人で暫しの休息をとった。
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藤澤清近は行光の助けに喜んだ挙句に「行光の息子を婿に迎えよう」と、軽率な約束を交わしてしまった。
彼らの活躍に続き葛西清重と河村千鶴丸らが数人を討ち取った。
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中原親能の猶子である左近将監古庄 (大友) 能直は側近として常に頼朝の近くに仕えている。親能は普段から宮六兼仗国平に「能直は今回が初陣、手を貸してやってくれ」と頼んでいた。
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国平はこの言葉に従い、昨夜頼朝の寝所で宿直の能直を密かに呼び出して共に阿津賀志山を越え、国衡縁戚の郎党である佐藤三郎秀員父子を討ち取った。
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この宮六は斎藤別当実盛の外甥で、実盛が平家に与して死んだ後は囚人として 上総広常が預かり、広常の死後は中原親能が預かっていた。著名な勇者なので頼朝の許可を受け能直に付き添わせていた経緯がある。
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   ※工藤祐光: 工藤祐経祐時 (幼名犬房丸) → 祐光と続き、伊東氏を継承して嫡流となる。
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   ※山道を越えて: それほど大きな迂回は必要ない筈、現在の東北道ルートの北側、程度だろう。
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西暦1189年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治五年
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8月10日 丁酉
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吾妻鏡
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卯刻 (朝6時前後) に頼朝は阿津賀志山防塁を越えた。鎌倉の大軍が (国衡本陣の) 木戸口に猛攻を加えたが国衡軍も引き下がらず、激しい戦いが続いた。畠山重忠、小山朝政、小山朝光、和田義盛、下川辺行平、成広、三浦義澄、佐原義連、加藤景廉、豊島清重らが死を恐れずに戦い、雄叫びは山野に響き渡った。
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前夜に 小山朝光宇都宮朝綱の郎従である紀権守 波賀次郎大夫ら七人が安籐次を案内人として甲冑を馬に載せ密かに宿舎を出発し、伊達郡の藤田宿 (現在の国見市街) から会津方面を目指した。
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土湯の嵩 (高い山) や鳥取越 (小坂峠 ) などを過ぎ、大木戸を見下ろす国衡軍背後の山から鬨の声を挙げ矢を射掛けた。国衡の本陣は混乱して搦手からの攻撃と思い込み、国衡の将士は対抗策も取れず敗走した。
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晴天ではあったが深い霧のため辺りは薄暗い上に朝露で滑りやすく、敵味方の区別も出来ない状態に国衡勢には逃げ出す者が続出した。その中で額が白い毛の黒馬に跨った金剛別当の子息の 下須房太郎秀方 (13歳) は踏み止まって防戦に務めた。駆け寄った 工藤小次郎行光を郎従の籐五男が制して秀方と組み合った。
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まだ童顔の幼い武者で、姓名を問うても名乗ろうとしない。一人で留まったのはそれなりの覚悟だろうと考えて討ち取った。幼いながら力が強く、時間が掛かってしまった。
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また、小山朝光が金剛別当を討ち取った。退却した国衡の軍兵は泰衡の本陣に駆け戻って阿津賀志山での敗戦を報告、泰衡は北を目指して逃亡し、同様に国衡も逃げ出したため頼朝軍は泰衡らの後を追って逃げる国衡勢を追う形になった。その中で 和田義盛は先陣を駆け抜け夕刻には芝田郡の大高宮付近まで敵を追尾した。
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一方で 西木戸国衡は出羽街道を通って大関山を越えようと考え、大高宮前の水田を右に向かうところで義盛と遭遇、義盛は「戻って戦え」と声を掛けた。国衡も名乗りながら馬を返し互いに敵を左手に見て、国衡は 14束の矢をつがえ、義盛は 13束の矢を放った。
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国衡が弓を引くより早く義盛の矢が国衡の鎧の袖を射抜いて腕に刺さり、国衡は痛みのため構えを解いて逃げようとした。名のある大将と知った義盛は遠矢で仕留めようと考えて二の矢を構えたところに後続の重忠勢が到着、両者の間を隔てる形になり、重忠勢の大串次郎が国衡に向かい合った。
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国衡の馬は奥州第一の駿馬として名高い高盾黒 (九寸) で、肥満体の国衡を乗せ毎日三回も平泉の山に駆け登って汗もかかないほどの名馬である。国衡は義盛の二の矢を恐れ、更に重忠の大軍を避けて深田に乗り入れて鞭を入れても抜け出せなくなった。大串らは間髪を入れず国衡を討ち取った。
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泰衡の郎従らは金十郎、勾當八、赤田次郎らを指揮官として根無藤の近くに防御の陣を構え、三澤安藤四郎、飯富源太らが追いすがって合戦となった。
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泰衡の家臣らも降伏せず、根無藤と四方坂の間で七度も交戦したが金十郎が討ち死にした後に敗北した。勾當八、赤田次郎以下の捕虜は30人、この合戦で死傷者が少なかったのは偏に三澤安藤四郎の作戦による結果である。
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今日、鎌倉で 御台所政子が御所の女房数人を連れ八幡宮に百度詣を行なった。奥州追討の成功祈願である。
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      右上は国衡の逃走ルートと石那坂以北の合戦場所 画像をクリック→ 別窓で拡大表示
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   ※土湯と鳥取越: 阿津賀志山の大木戸 (本陣) 背後を衝く経由地ではない。土湯は方向違いだし鳥取越え
では 30km以上の強行軍になる。吾妻鏡編纂者の土地勘の欠如が原因だろう。
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   ※大高宮: 宮城県柴田郡大河原町にある現在の 大高山神社 (Wiki、地図。阿津賀志山から 28km。
すぐ近くに「馬取田」の字名があり、国衡が首を獲られた場所なのかも、と思わせる。
翌11日に舟迫宿 (地図) で国衡の首実検が行われた。
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   ※大関山: 現在の国道 286号 (笹谷街道)の笹谷峠 (地図) を差す。出羽国は既に北陸道を経由した 比企
能員 宇佐美実政の軍が征圧している筈だから大高宮を逃逃れても助かる可能性は乏しい。
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   ※九寸の馬: 文治三年 (1187) 3月25日に詳細を載せた。要するに背高4尺9寸 (160cm) の大型馬。
「平泉の山に駆け登っても汗をかかない馬、高盾黒」で少し気になったのは...
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義経が自刃したのは 「高舘」 ではなくて 「藤原基成の衣河館 (中尊寺のある関山の北側だ)」 と 平泉高館と金鶏山の項で書いたけれど、 「平泉で山と言えば高舘だから、国衡が「馬 (高盾黒) で駆け登っていたのは高舘だろう」 と考えて義経を連想した可能性もある、か。
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高舘山は奥州藤原氏館のすぐ近くだし、義経の館があったのではないのだから馬で駆け登っても不思議じゃないし、金鶏山は聖域だから除外するべきだろうし。
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   ※14束: 矢の長さは四本指の巾を 1束として 14束は約 120cmになる。現代の和弓の矢は咽 (のど) の
中央部から真っ直ぐ伸ばした指先までの長さ (矢尺) +10cm前後が基準らしい。
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   ※根無籘: 蔵王町にある。前九年の役で敗れた 安倍貞任が鞭に使った籘の枝を銀杏の木の根元に差し
それが大木に育ったとの伝承が残る (地図) 。四方坂は更に 2km弱北にある古い字名。
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西暦1189年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治五年
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8月11日 戊戌
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吾妻鏡
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頼朝は船迫の宿に入り 畠山重忠が献じた 藤原国衡の首を確認して御感の仰せがあった。ここで 和田義盛が御前に進み「国衡は私の矢を受けて落命する事になった、重忠の手柄ではない」と申し出た。重忠は笑って「義盛の言葉は絵空事だ、殺したと言う根拠は何か。私が国衡の首を持ち込んだのは事実なのに」と答えた。
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義盛は更に「首についてはその通りだが 剥ぎ取った国衡の鎧を確認して欲しい。大高宮の前で私と国衡は弓手に向き合い、私の矢が国衡に当った。鎧の左袖の上から二、三枚目の小札 (こさね) に矢が刺さった穴がある筈だ。鎧は赤糸縅、黒馬である。」と主張した。
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頼朝が国衡の鎧を持ち込ませて調べると、左袖小札の三枚目やや後部に鏨 (タガネ) を通した如き跡があった。頼朝は国衡に矢を射掛けたかと重忠に問い、重忠は「否」と答えた。
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重忠の矢でなければ義盛の矢で、義盛の申し立てが全て符合する。
ただし重忠は清廉な人柄で詐称するような性格ではないから、今回の件は偽装ではないと結論づけた。
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先頭を進んでいたのは郎従、重忠はその後方にいて国衡が矢に当ったのは全く知らず、大串が首を持ち込んで重忠が受け取り討ち取ったと知った。問題にするような事ではない。
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  右画像は赤糸縅鎧の左袖部分。小札3枚目のやや後にマークを付けた。傷は肩に近い腕か...痛そう。
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西暦1189年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治五年
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8月12日 己亥
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吾妻鏡
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一昨日の阿津賀志山合戦で若年の千鶴丸が敵陣まで攻め入り、再三矢を放って河村千鶴丸と名乗りを挙げた。
頼朝が初めて聞く姓名なので船迫の驛で父親の名を尋ねると、山城権守 河村秀高の四男、と答えた。
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頼朝は 加賀美次郎長清を烏帽子親に四郎秀清と名付けて元服させた。去る治承四年 (1180) 8月の 石橋山合戦で兄の 河村義秀大庭景親に味方した後に蟄居となり、母親 (頼朝の官女 京極局) が身近に匿って過ごした。
今回の出陣では譜代の勇士を称して従軍しすぐに武勲を顕した、良い運を開いた若者である。
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夜になって多賀国府 (地図) に入城、海道の大将軍 千葉介常胤八田右衛門尉知家らと参会。千葉太郎胤正、次郎 (相馬) 師常、三郎 武石胤盛、四郎 (大須賀) 胤信、五郎 国分胤通、六郎大夫 東胤頼、小太郎成胤、平次 (境) 常秀八田太郎朝重、多気太郎、鹿嶋六郎、真壁六郎らも常胤と知家と共に逢隈の湊を渡って参上した。
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   ※河村秀高: 波多野氏の庶流で藤原秀郷の後裔を名乗る。宗家は遠義→ 義通義常 → 有常と続く。
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義通は源義朝に仕え、義通の妹は側室として次男朝長を産んだが、頼朝誕生などによって疎遠となり、相模国の本領秦野に帰国した。頼朝挙兵の際には援軍を求めた使者の藤九郎盛長に当主の波多野義常が暴言を吐き、富士川合戦直前に追討軍を受けて自殺。家督は波多野義景(義常の庶兄または従兄弟)が継承した。
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義常の長男有常 (生母は 大庭景義の妹) は景義の預かりとなり、文治四年 (1188) 4月3日の
八幡宮流鏑馬で妙技を見せ御家人に列し父の遺領 松田郷を得て松田氏の祖となった。
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河村秀高は遠義の子 (つまり義通の弟) で河村郷 (足柄上郡山北町、地図) を領有したが義常に連座して没収された。彼もまた建久元年 (1190) 8月16日に八幡宮流鏑馬で妙技を見せ、本領に復帰している。この二人は同族で、境遇まで似ているのが面白い。作り話か?
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千鶴丸改め秀清の方は 今回の恩賞として岩手郡、斯波郡、摩耶郡の三ヶ所に領地を獲得、子孫は東北地方で長く繁栄している。
資料では治承元年 (1177) 誕生だから、千鶴丸は掛け値なしの満12歳。
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西暦1189年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治五年
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8月13日 庚子
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吾妻鏡
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(北陸道の大将軍)比企能員宇佐美 (大見) 実政は出羽国 (山形県) に攻め込み、泰衡の郎従 田河太郎行文と秋田三郎致文らを討ち取って首を晒した。今日、頼朝は多賀国府に滞在している。
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   ※泰衡の郎従: 秋田致文は出羽国秋田郡 (秋田市) の郡司、田河行文は田川郡 (鶴岡市) の郡司。
出羽国北部 (現在の秋田県) は藤原氏の支配下にあり、南部 (山形県) は間接的支配だったと考えるのが定説。しかし山形県中部の田川郡司が泰衡の郎党として鎌倉軍と戦ったのなら、間接的支配以上の縁戚関係だった可能性も考えるべきか。
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西暦1189年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治五年
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8月14日 辛丑
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吾妻鏡
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   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
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泰衡は玉造郡に隠れているとの噂がある。あるいは国府中山の北、物見岡に布陣したとの報告もある。
取り敢えずは玉造を捜索するため多賀国府から黒河経由で軍勢を送る手配を済ませた。
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これに加えて 小山朝政、同 五郎 (長沼) 宗政、同七郎 結城朝光下河辺庄司行平らを派遣して物見岡を包囲させたが、泰衡は既に逃亡して陣の幕だけが残り、防戦した郎従 40~50人は梟首あるいは捕虜とした。
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小山朝政は「我らは北上して本隊に合流するべきか」と尋ね、下川辺行平は「玉造郡の合戦は些細な小競り合いだろう、早く本隊に合流すべし」と答えて鞭を挙げた。
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   ※玉造郡: 玉造柵 (名生館官衙遺跡、宮城県のサイト) のある大崎市中央部 (地図) から北西に20km離れた
鳴子温泉までを含んでいた。
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   ※物見岡: 陸羽街道 (国道4号) から松島へ抜ける峠道の途中 (地図) 、多賀城の北 10km付近と推定される
が正確な合戦場は確認されていない。頼朝の宿舎 船迫駅からは約 50km北東の一帯。
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   ※黒河: 黒川郡大和町 (地図) か。玉造柵へ約 50km、鳴子へ約 70kmの羽後街道 (現代の国道 457号)
ルート上が該当する。
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西暦1189年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治五年
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8月15日 壬寅
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吾妻鏡
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鶴岡八幡宮の放生会である。先月一日に行なったが、定例の日取りであるために改めて開催の運びとなった。箱根権現の稚児八人が参上して神楽の奉納を行ない、長馬と流鏑馬も通例の通り。
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西暦1189年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治五年
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8月18日 乙巳
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吾妻鏡
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安達籐九郎盛長が預かっていた囚人の 筑前房良心は盛長に従って今回の合戦に加わった。去る 14日に物見岡で泰衡の郎従らと戦った際に敵を討ち取る功績を挙げたため、功績に免じて赦免するとの御意があった。
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筑前房良心は刑部卿忠盛朝臣 (平清盛の父) から四代後の孫、筑前房良心の息子である。屋島合戦で前の内府 平宗盛が討たれた後に預けられた者で、僧ではあるが武芸に秀でているため今回は同行させていた。
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   ※屋島合戦: 「内府 (内大臣) 宗盛が 屋島合戦で戦死」は編纂のミス。近江国篠原宿で斬首が正しい。
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   ※筑前房良心: 該当者なし、尊卑分脈には「筑前守時房の孫で諸系図には載っていない」とある。忠盛
の曽孫 (=清盛の孫) で最年長なのは重盛の長男で保元三年 (1158) 生れの維盛 (惟盛) で、その長男は承安三年 (1173) 生れの高清(通名「六代」で16歳)。その「六代」より若年なのだから「武芸に秀でて」はあり得ない。
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該当名がなくて、宗盛の死地が間違いで、年令が無理スジではガセネタか人違いだ。
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西暦1189年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治五年
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8月20日 丁未
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吾妻鏡
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卯刻(午前6時前後)に頼朝は玉造郡(8月14日に記載)に向かった。泰衡の多加波々城を包囲したが泰衡は既に逃げ去っていた。残留の郎従は抵抗せず投降したため葛岡郡に出て平泉を目指した。
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戌刻 (20時前後) に書状を先陣の将士に送り、小山一族と 三浦 (佐原) 義連和田義盛小山朝政畠山重忠、和田三郎 (義盛の三男 朝比奈義秀) 、更に武蔵七党の武士が確認した。内容を理解して計画を立てよ、と。
書状の詳細は下記の通り。
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それぞれ敵を追い (要衝の) 津久毛橋付近まで行っても泰衡らは平泉の拠点に兵を集めて待ち構えているだろうから、千か二千の軍勢で攻めてはならない。
二万騎の軍兵を整えて攻めるべし。既に敵の敗北は決まった。一人であっても無益な損害を出さぬよう心掛けよ。
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   ※多加波々城: 北羽前街道 (国道 47号) の大崎市岩出山にある
葛岡城跡 (地図) と推定されている。
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   ※葛岡郡: 該当する郡は見当たらない。文脈では多加波々城
と津久毛橋の間 (約 30km) の筈なので 5km北東の葛岡、また葛岡郡=多加波々城説もある。
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   ※津久毛橋: 宮城県栗原市金成津久毛 (地図) 、陸奥国を南北に走る陸羽街道が三迫川を渡る交通上の
要衝で平泉まで残り 20km。
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右上は三迫川を渡る国道 4号 (陸羽街道、遠景は栗駒山) 。クリック→ 別窓で拡大表示。
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西暦1189年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治五年
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8月21日 戊申
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吾妻鏡
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暴風雨。 頼朝勢は 泰衡を追って岩井郡平泉を目指した。泰衡の郎従らは準備を整え栗原 (三迫川の南) と三迫などの防衛線で戦ったが強力な攻撃軍を防げず、指揮官の若次郎は 三浦介義澄の軍勢が、同じく九郎大夫は所六郎 (伊賀 (所) 朝光) の軍勢が討ち取った。他の郎従も殆どが殺され、残った 30余名は生け捕りとなった。
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頼朝は松山道を経て津久毛橋に到着、梶原景高が一首の和歌を献じ、頼朝は祝賀の言葉を楽しんだ。
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  陸奥(みちのく)の 勢は御方(みかた)に 津久毛橋 渡志て懸けん 泰衡が頚
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泰衡は平泉館を過ぎて更に逃げた。自邸の門前を通りながらも立ち寄る事さえできず、郎従だけを館に残して火を放った。栄華を極めた藤原氏三代の旧跡は焼け落ち、宝物の大部分も灰塵に帰した。
質素を旨とする者は栄え奢る者は滅びる、人は慎み深くあるべきなのだろう。
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   ※伊賀朝光: 藤原秀郷の子孫で妻は 二階堂行政の娘。朝光の娘は 北條義時の後妻で、後に夫を毒殺
した噂まで流された 伊賀の方。伊賀氏一族の勢力拡大を危惧した 政子が謀反の嫌疑を捏造して失脚させたが、政子の死後に復権した。復権が許されないまま毒殺されたらしい伊賀の方の墓石は伊豆長岡の 北條寺にあり、義時の分骨墓と並んでいる。
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   ※梶原景高: 景時の二男。兄の 景季は白河の関で、弟は津久毛橋でおべんちゃら、か。
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   ※奢る者は: 吾妻鏡の編纂は鎌倉時代末期の1290年代前後、平家物語は仁治元年 (1240) より更に前、
と推定されている。だからこの言い回しは完全に平家物語のパクリだね。
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祇園精舍の鐘の声、諸行無常の響きあり。娑羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。おごれる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。猛き者もつひには滅びぬ、ひとへに風の前の塵に同じ。
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西暦1189年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治五年
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8月22日 己酉
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吾妻鏡
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激しい雨の中、申刻 (16時前後) に 頼朝泰衡の平泉館に着いた。主人は既に逃げ出し家も煙になった。
数町 (数100m) 先まで人の気配はなく、土塁に囲まれた館は静まり返って地面だけが広がっている。吹き渡る秋風が幕を揺らす音はするが、夜の雨が窓を打つ音は聞こえる筈もない。
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ただし坤 (南西) 方向に一棟の倉庫が焼け残っており、葛西三郎清重と小栗十郎重成に内部を調べさせた。
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中には紫檀など唐木の厨子が数脚、牛玉、犀角、象牙の笛、水牛の角、紺瑠璃などの笏、金沓、玉幡、玉で飾った金華鬘、蜀江錦の直垂、上縫帷、金造の鶴、銀造の猫、瑠璃の灯爐、金の器に盛った南廷 (銀の延べ板) 百ヶなど多数の財宝が残っている。
象牙の笛と上縫帷は希望通り清重に、玉幡と金華鬘は氏寺を飾りたいと望んだ重成に与えた。
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         右下は平泉南部の鳥瞰画像。画像をクリック→ 別窓で拡大表示
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   ※平泉館: 秀衡生前の公邸は 柳の御所 (地図) 、南西の方角
とは高屋 (高床式の倉庫) が並んだ 観自在王院の前 (地図) 、つまり奥大道 (現在の国道 7号)から 毛越寺に続く道沿い、観自在王院跡の筋向いの倉町を差す。 近年の発掘調査で多数の倉庫が並んでいた痕跡が確認された。
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   ※宝物いろいろ: 60年以上も前に読んだ アラン・ポーの
「黄金虫」を思い出す。主人公のルグランが発見した財宝のリストに子供心を踊らせたっけ。我が家は貧しかったから、庭から金貨やら宝石やら色々出てきたらどうしよう、なんて小学生の私は考えた (笑) 。
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   ※銀造の猫: これ、文治二年 (1186) に鎌倉を訪れた 西行法師が頼朝から贈られた 「銀造りの猫」 を想い
出すね。吾妻鏡の同年8/16には 「門を出てから遊んでいた幼児に与えた」 と書いてある。
その後の西行は平泉に赴き、秀衡に東大寺大仏殿再興の喜捨を求めた事になっているからひょっとして喜捨の記念として秀衡に贈った物、かも知れない。
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   ※氏寺を飾る: 中尊寺や毛越寺や観自在王院の豪壮華麗な佇まいに感激した東国武者の頭領たちは凱旋
してから本拠の土地に平泉の再現を試みる。頼朝による 永福寺 (外部サイト) 、足利義兼による 法界寺庭園 (樺崎寺) 、宇都宮朝綱による益子の 地蔵院庭園、などなど。
いずれも遠い昔に廃墟と化してしまったが...  
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西暦1189年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治五年
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8月23日 庚戌
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吾妻鏡
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飛脚の時澤を京都に派遣した。一條能保に送った書状の内容は次の通り。
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8月8日と10日の両日に合戦を遂げ、昨日 (12日) 平泉に入った。しかしながら藤原泰衡は山奥に逃げ込んだとの知らせがあったため続けて追跡する予定である。
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西暦1189年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治五年
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8月25日 壬子
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吾妻鏡
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泰衡が逃げ去ったため軍兵を方々に派遣して捜させているが未だに行方が判明せず、更に奥地まで捜索範囲を広げるよう命令が下された。
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今日、千葉六郎大夫胤頼 (千葉常胤の六男で東氏と遠藤氏の祖) を衣河の館に派遣し、前の民部少輔 藤原基成父子を召喚した。
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胤頼は彼等を生け捕って捕縛する予定だったが、基成は武器を持たず降伏したため本陣に連行、子息三人もそれに従った。
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   閏 4月30日に書いた通り、藤原基成邸 「衣河の館」 は現在の
衣河北岸、義経親娘が最期を迎えた場所でもある (地図) 。
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  右上は衣河北岸 (中尊寺の北) 発掘調査の参考画像。 画像をクリック→ 別窓で拡大表示
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西暦1189年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治五年
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8月26日 癸丑
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吾妻鏡
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日の出の頃、一人の下人が頼朝の宿舎近くに現れ、一通の書状を投げ入れて立ち去り行方知れずになった。
御家人がこれを確認すると表書きに「鎌倉殿に進上 侍所 泰衡敬白」とあり、中原親能が御前で読み上げた。
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伊豫国司 (義経を差す) を庇護したのは父 秀衡入道で、私は全く関与していない。父が卒去してからは貴命を受けて討伐したのは勲功に値する筈なのに 、追討を受けるのは何事だろうか。累代の館を去って山林に入らざるを得ないのは甚だ不合理である。陸奥と出羽の両国は既に鎌倉殿の支配下にあるのだから泰衡は許しを得て御家人に列したい、さもなくば死罪に問わず遠流に処して頂きたい。もし恩恵を頂けるのであれば御返報を比内郡の辺りに置いて貰えれば内容次第で駆け付けるつもりでいる。
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この書状について、土肥実平が意見が述べた。
試みに返状を比内辺りに置き、強い武士を数人配置して来た者を捕縛し泰衡の居場所を吐かせては?
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頼朝がそれに答えて命じた。
その必要はない。比内郡に書状と書いてあるのだから軍兵を派遣してその郡内を探させれば良い。
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   ※比内郡: 秋田県北部の大館市にある「道の駅ひない」の一帯。「比内地鶏」で有名だったが一時期の
「ブランドの詐称事件」で地名が (悪い方向に) 広まってしまった。
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奥州合戦後に甲斐源氏の武田義成 (浅利与一) が奥州合戦の恩賞として支配権を得て、本領の富士川中流域に惣領家の一部を残して移住している。
元マラソンランナーの浅利純子氏は秋田北部の出身だから間違いなく与一系統の子孫だね。
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浅利与一についての詳細は 浅利與市と板額で。また、同様に奥州合戦に従軍して陸奥国の広範囲に勢力を扶植して繁栄した甲斐源氏の一人 南部光行加賀美遠光の三男)の本領については 南部一族発祥の地 を参照されたし。
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西暦1189年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治五年
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9月 2日 己未
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吾妻鏡
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   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
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頼朝は平泉を出て岩井郡厨河近くに移動した。これは泰衡の隠れた地域を捜索させるためであり、同時に五代を遡る先祖の鎮守府将軍 源頼義が朝敵を追討するため陸奥に赴いた事蹟に倣ったものである。
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12年続いた合戦の末に頼義は厨河 (くりやがわ) の柵で 安倍貞任らの首を獲った、その良き例に倣い この場所で泰衡を討ち首級を挙げるべきだろうと心の中で考えた。
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   ※12年の合戦: 前九年と後三年を併せて概略 12年だが、後三年戦役が
始まったのは永保三年 (1083) 、頼義は承保二年 (1075) に死没して、後三年で主役を演じたのは 義家藤原清衡、敵役は 清原家衡である。
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吾妻鏡が「12年間各地で合戦し...」と書いたのは間違いだが、そう書いた背景には前九年を引き起した頼義への敬意が含まれている。
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   ※厨河: JR盛岡駅北西 2kmの天昌寺町 (地図) 一帯には厨河柵など安部
氏の城郭や居館群が建ち並んでいた。
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奥六郡を掌握した安倍頼時 (貞任の父) は衣河上流域の本拠から北に勢力を伸ばし、統治の拠点として北上川と雫石川が合流する要所に厨河柵を含む城砦群を築いた。嫗戸柵は六郡の北部を管理する頼時の私邸と考える説が有力らしい。
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頼朝は、前九年戦役で安倍氏を滅ぼした最後の合戦地で頼義親子が得た勝利を再現しようと考えた。安倍貞任と 藤原 (亘理) 経清 (奥州藤原氏の初代 清衡の父) の滅亡を描いた陸奥話記の記述を下に紹介して置く。
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   ※奥六郡: 胆沢郡(奥州市西半分と金ケ崎町) 、江刺郡(奥州市東半分)、和賀郡(西和賀町と北上市)
紫波郡(矢巾町と紫波町)、稗貫郡(花巻市の大部分)、岩手郡(雫石町と八幡平市と滝沢市+岩手町+葛巻町+盛岡市)...右上画像の地名にマークを添付した。
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康平五年 (1062) 9月17日の昼過ぎ、頼義の命令を受けた兵士が近在の家屋を壊して柵の周囲の壕を埋め、更にススキを刈って川岸に積み上げた。官軍は多くの矢を射ると共に積み上げたススキに放火、炎が激しく飛んで柵の建物に燃え移り、立て籠っていた数千人が川に飛び込んだり自殺したりした。
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やがて官軍が川を渡って攻め込み、安倍軍が必死に抗戦したため多くの死傷者が出た。清原武則は囲みを解くように命じ、それに誘われた敵兵は逃げようとして抵抗が弱まり、官軍は思いのままに敵を殺した。
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嫗戸柵合戦で 藤原経清を捕獲した。頼義は経清を引き据え 「お前の先祖は代々我が源氏の下僕である。それなのに朝廷に逆らい主家を愚弄するのは筋が通らぬ、今も白符 (私的な税の徴収票) を使えるか。」と罵った。頼義は苦痛を長引かせるため鈍刀で経清の首を少しづつ斬らせた。
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   ※鈍刀: 錆びた刀あるいは刃こぼれした刀、あるいは鋸を差す。後世の鋸挽きの刑に準ずるか。
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   ※藤原経清: 妻の有加一乃末陪は安倍貞任の姉妹。夫を失なった彼女は息子 (後の清衡) を連れて戦勝者
である出羽清原氏の嫡子 武貞に再嫁した。これは陸奥の実力者である安倍一族との融和を図る意味もあったが、成長した清衡は清原一族の内紛に乗じて 八幡太郎義家を味方にして寛治元年 (1087) 11月に清原氏を滅ぼし、奥州藤原氏の初代となった。詳細は「奥州藤原氏の系図」などを参考に。
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別ページに纏めた 陸奥話記の全訳文と前九年の役の詳細 も参考に。
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安倍貞任は太刀を振るって多くの官兵を殺した。官軍は鉾で貞任を突き刺し大きな楯に乗せ、六人で担ぎ頼義の前に置いた。
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身長は六尺以上で腰周り七尺四寸、容貌は立派で太った色白の体だった。頼義は貞任の罪科を罵り貞任は一瞥して絶命した。
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貞任の弟 重任は斬殺、宗任は深い泥に隠れて逃げ延びた。
貞任の子 千世童子 (13歳) は整った顔立ちで甲冑を着け勇敢に戦った。これを哀れんだ頼義は助命を考えたが武則が「小さな事が大きな害を招きます」と諌めたため、その言葉に納得して斬り殺した。
絹を纏い艶やかに化粧した柵内の美女数十人は泣き悲しんでいたが、外に引き出され将兵に与えられた。則任の妻だけは落城する時に子を抱き、夫に先立って淵に飛び込んで自殺した。その後に貞任の叔父 安倍為元、貞任の弟 家任と宗任ら 9人も投降した。
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  右上は厨河柵があった現在の盛岡市街地。  画像をクリック→ 別窓で拡大表示
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西暦1189年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治五年
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9月 3日 庚申
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吾妻鏡
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藤原泰衡は数千の軍兵に囲まれ、何とか助かろうとして鼠のように隠れ貎のように逃げ回り、夷狄嶋 (蝦夷地、北海道) を目指して糠部郡に向かった。肥内郡贄の柵に着いた時に累代の家臣である河田次郎が主人を裏切り、郎従に泰衡を囲ませて首級を挙げた。この首を頼朝に献じるため馬で参上するとの連絡が届いた。
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   陸奥押領使藤原朝臣泰衡(25歳)  鎮守府将軍兼陸奥守秀衡の次男、母は前民部少輔藤原基成の娘
   文治三年十月、父の遺跡を継いで出羽と陸奥の押領使となり六郡を支配した。
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   ※貎: 読みは 「げい」 だが種類は判らない。齧歯類だろうが、貂 (テン) の仲間か、ミンクか (笑) 。
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   ※糠部郡: 前九年戦役で覇権を握った清原氏が、後三年戦役が始まる前に蝦夷の支配地域を侵略して
奥六郡 (胆沢郡、江刺郡、和賀郡、紫波郡、稗貫郡、岩手郡) の北に更なる六郡 (糠部郡、鹿角郡、比内郡、津軽平賀郡、津軽田舎郡、津軽鼻和郡) を設けたらしい。
糠部郡は青森県東部から岩手県北部、現在の五戸から九戸一帯だろう。
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   ※肥内郡贄の柵: 現在の大館市二井田 (地図) 。周辺には大館、蝦夷館下などの地名がある。
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西暦1189年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治五年
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9月 4日 辛酉
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吾妻鏡
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頼朝は志波郡に到着。泰衡の縁戚である俊衡法師は驚き恐れて当郡内の比爪館を焼き陸奥の奥地に逃げ去った。頼朝は追討するために 三浦介義澄佐原義連三浦義村らを派遣した。
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今日、頼朝は陣岡蜂社 (9/6 に記載) に本陣を置いた。北陸道の追討使 比企能員宇佐美実政らが出羽国の武士を従えて合流、軍勢は郎従まで加えると 28万4千騎を数えた。それぞれが旗を靡かせている様子に秋の尾花が色を添え、見事な眺めを呈している。
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   ※志波郡比爪館: 現在の岩手県中央部、紫波郡紫波町の一帯
で果樹の栽培が盛んな地域。道の駅 紫波に立ち寄った思い出がある。比爪 (樋爪) 館は発掘調査で現在の東北本線日詰駅に近い明石小学校の一帯と確認されている。
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   ※俊衡法師: 二代 藤原基衡の弟だろう。湯の庄司 佐藤基治の後妻 乙和子の兄弟である可能性が高い。
奥州藤原氏の系図を参照されたし。
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右エは志波郡比爪館の推定エリア。  画像をクリック→ 別窓で拡大表示
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西暦1189年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治五年
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9月 6日 癸亥
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吾妻鏡
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河田次郎が主人である 泰衡の首を携えて陣岡に参上、梶原景時を介して首を献じた。和田義盛畠山重忠が首実検し、囚人の赤田次郎を呼んで間違いないと確認し、義盛が預かった。
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頼朝は景時を介して次のように河田に申し伝えた。「この行為は功績に見えるが、既に手中に在る泰衡を殺す必要はない。捕縛などの方法を講じれば済むのに、譜代の恩を忘れて首を落としたのは大逆である。見せしめとして死罪に処する」として 結城朝光に預けて首を刎ね、その後に泰衡の首を丸太に懸けた。
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康平五年 (1062) 9月、鎮守府将軍 源頼義安倍貞任の首を獲った際に 横山野大夫経兼に命じて客分の貞兼が首を受け取り、郎従 惟仲の手により 八寸の鉄釘で丸太に打ち付けた。
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この前例に倣い、経兼の曾孫である 小権守時広に命じて梶原景時から時広の息子時兼が首を受け取り、惟仲の子孫である郎従の七太広綱を呼んで首を懸けさせた。釘もまた、昔の例と同じである。
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   ※陣岡蜂社: 比爪館から約 3km北西の高台で周辺との標高差
は約 10mの紫波町宮手陣ケ岡 (地図) 。
ここには安倍貞任と藤原泰衡の首を洗った井戸と首級を晒したと伝わる痕跡が残されている。
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右上は現在の蜂神社参道  画像をクリック→ 別窓で拡大表示
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西暦1189年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治五年
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9月 7日 甲子
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吾妻鏡
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宇佐美平次実政が泰衡の郎従由利八郎を生け捕って陣岡に参上した。ここで天野右馬允則景が「生け捕ったのは私である」と主張して口論になった。頼朝は 二階堂行政に命じ、まず両人の馬と甲冑の色を記録した上で事実を囚人に確認させる旨を景時に伝えた。
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景時は由利八郎に向かって尋ねた。
汝は泰衡郎従の中でも名のある武士だ。余計な言葉を挟まず事実だけを述べよ。何色の甲冑を着た武士が汝を生け捕ったのか。
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由利八郎は大いに怒って景時を罵った。
汝は兵衛佐殿の家人か。それは例えようもないほど無礼な物言いである。私の主人は秀郷将軍の嫡流として三代鎮守府将軍の栄誉を継承している。汝の主人であってもそんな言葉を発するべきではないし、汝と私の立場は対等で優劣はない。運悪く囚人となったのも武士として恥ずべき事ではないし、汝こそ鎌倉殿の家人に有るまじき態度だ。聞かれても答えるものか。
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景時は赤面し「この男は悪口しか言わないので事実の究明ができない」と言上した。頼朝は「景時の無礼を囚人が咎めたのも無理ではない。早々に 重忠が質問せよ」と命じた。
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重忠は自ら敷き皮を持ち込んで由利八郎を座らせ、礼を正して問いかけた。
武士の常として、敵に囚われるのは極く当然で恥辱ではない。かつて左典厩 源義朝も横死したし、私の主人 頼朝も囚人として六波羅に連行され伊豆流罪となり、運を得て天下を手中に収めた。貴方は奥六郡で知られた武勇の誉高い武士であり、だからこそ鎌倉方の武士は貴方を捕えた勲功を争って口論し、甲冑と馬の色の確認が必要になった。明らかにするため教えて頂きたい。
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由利八郎はこれに答えて、
貴方は畠山殿か。礼を重んじる様子は先ほどの男とは似ても似つかない。仔細を申し上げよう。黒糸威の甲冑で鹿毛の馬に跨った武士が最初に私を馬から引落した。その後に追って来た者は多勢だったため甲冑の色は判然としない。
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重忠は戻って仔細を報告し、甲冑と馬の色は宇佐美実政であると判別した。頼朝から「言葉から察すると勇気のある武士だ。聞きたいことがある。」 との言葉があり、由利八郎は重忠に従って参上し頼朝の問を受けた。
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汝の主人泰衡は陸奥と出羽に威勢を振るっていたため追討に苦労するかと考えていたが良い郎従に恵まれなかったらしく河田次郎一人に殺されてしまった。両国を支配し17万騎を指揮しながらも僅か 20日で一族の滅亡を迎えたとは、世に言われている程ではなかったな。
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由利八郎はそれに答えて、
良い郎従が多少いても有能な将士は各地の要所に派遣され、年老いた将は思った様には動けないため自殺する結果となった。私のような不肖の輩は生け捕りになり最期まで従う事もできなかった。
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故 左馬頭 (義朝) 殿も 15ヶ国を領有し数万騎を率いていたが平治の乱では一日の防戦もできず敗れ、長田庄司に殺されてしまった。昔も今も甲乙は言い難いし泰衡が支配していたのは僅か二ヶ国の軍勢である。数十日ではあっても戦って敵を悩ました、これは不覚として言い捨てるべきものではない。
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頼朝はそれ以上を語らず御簾を降ろした、由利八郎は重忠に預けられ、鄭重に処遇せよと命じられた。
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   ※由利八郎: 鳥海山北麓の由利原一帯を支配した維平を差すが正確な出自は判らない。同年12月に勃発
した大河兼任の乱にその後について記載があり、所領の一部を安堵され御家人に加わったらしい。15年後の和田の乱 (1213年5月) に連座して「由利中八太郎が所領没収のうえ放逐」との記載がある。
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   ※天野則景: 一般的な系図では「天野遠景 の子が 政景」だが「遠景→ 則景→ 政景」の系図もある。
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西暦1189年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治五年
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9月 8日 乙丑
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吾妻鏡
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安達新三郎が飛脚として上洛。合戦の仔細を師中納言 吉田経房に伝えるためである。主計允 二階堂行政が記した書状の内容は次の通り。
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奥州の 泰衡を討伐するため去る 7月19日に鎌倉を出陣し、同29日には白河関を越えて攻め込んだ。
8月8日には厚加志山の防塁で合戦して敵を打ち破った。同10日に厚加志山を越えて 秀衡法師の嫡男で大将軍の西城戸太郎 国衡と合戦し、これを討ち取った。泰衡は多賀の国府より北にある玉造郡の高波々に城郭を構えて迎え討とうとしたらしいが、20日の攻撃前に城から逃げてしまった。
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ここは平泉まで数日の距離で 秀衡の郎従は途中で防戦したが指揮する将を討ち取り平泉に押し寄せると、泰衡は21日に逃げ去っていた。私は翌日の申刻 (16時前後) に平泉に入って泰衡を追い続け、今月の 3日に討ち取った。
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首を差し出すべきかと考えたが特に身分の高い人物ではなく、 私にとっては譜代の家臣に過ぎないため取り止めた。また出羽国で 8月13日に合戦し残兵を平定した。以上 報告する。
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   頼朝恐々謹言 九月八日 頼朝 進上 師中納言殿

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右は北から見た亘理郡官衙遺跡周辺 クリック→ 別窓で拡大
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   ※秀衡の嫡男: 秀衡の長男は國衡だが、嫡男となったのは従五位上だった 藤原基成の娘が産んだ次男の
泰衡。國衡の生母が蝦夷または蝦夷の混血だったのが理由ともされている。武将としての評価や一族での人望は國衡の方が高かったらしい。
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   ※数日の距離: 平泉館から陣ヶ岡まで奥州街道で約 70km、ルート地図 を参考に。
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   ※譜代の家臣: 源氏と奥州藤原氏の主従関係は 亘理郡 (宮城県南部の亘理町と山元町 (地図を参照) の
官衙 (地図発掘資料) を拠点に、在庁官人として多賀国府に勤めた亘理 (藤原) 経清 (初代清衡の父) が、陸奥守に赴任して多賀城に入った源頼義に仕えた期間だけ、つまり永承六年 (1051) から天喜四年 (1056) までの 5年間に限定される。
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従って「譜代の家臣」とは言えず、頼朝が吉田経房に宛てた書状で触れた理由は奥州征伐の正当性の主張と、追認する宣旨を求める布石と見るべきだろう。
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西暦1189年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治五年
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9月 9日 丙寅
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吾妻鏡
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鶴岡八幡宮は (重陽の節句に伴う) 臨時の祭礼である。流鏑馬などの催しは通例の通り。
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頼朝は (9月4日から) 引き続き 陣岡蜂社に滞在している。近くの高水寺は第48代 称徳天皇の勅願として諸国に1丈 (10尺) の観自在菩薩を祀らせた寺の一つである。その住僧 禅修房ら 16人が頼朝の宿舎に訴えて来た。
頼朝が野営している際に御家人の従者が寺に乱入し、本尊への配慮もなく金堂の壁板 13枚を剥ぎ取った。早急に糾明して頂きたい、と。 頼朝は驚愕し、早急に調べるよう 梶原景時に命じた。
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調べにより犯人は 宇佐美平次実政の従僕と判明、直ちに呼び付け衆徒の前で両手を切り落として板に打ち付けさせ、寺のため他に望みがあるか尋ねた。僧は愁いを即決処断して頂いた事で充分、として寺に帰った。
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また、比企籘内朝宗を岩井郡に派遣し 清衡基衡秀衡が建立したと聞く数ヶ所の堂塔について、泰衡は征伐したが僧侶を困窮させるつもりはない、堂宇の数を書いて申告すれば数に応じて灯明の費用に充当する旨をそれぞれに伝えさせた。
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夜になり、一條能保の使者が陣岡に到着して去る 7月19日付の宣旨を届けた。一旦は奥州征伐を制止したが重ねて求めてきた内容を了承する、との内容である。
7月24日に奉行の蔵人大輔から師中納言 吉田経房に渡され、同26日に吉田経房から能保に届けられた。同28日に京都を出て陸奥に向かった、と。宣旨の内容は次の通り。
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文治五年七月十九日      宣旨
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陸奥国の住人泰衡らは邪心を抱いて辺境に勢力を広げた。朝廷に逆らう者を比護し威光を忘れるような行為は既に反逆に等しい。更に加えて陸奥と出羽の両国を支配して納税を怠り、神仏や領主への義務を全うしないなど罪科は明白である。よって正二位源朝臣 (頼朝) に命じて征伐し、違法の根源を断つ事とする。
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                      蔵人宮内大輔 藤原家実 (奉る)
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   ※高水寺: 創建は神護景雲二年 (768) 、最盛期には 40以上の僧坊があったが、文治五年には半分以下に
衰退していたらしい。天正十六年 (1588) になって日詰 (岩手県紫波町一帯、地図) を支配していた斯波氏は南部氏との抗争に敗れて滅亡し高水寺を含む数軒の寺は盛岡に移転、やがて廃寺となった。
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高水寺の跡地は片山寺となり、現在は片山寺の材木で建てた観音堂が残っているらしい。
紫波に寄った時は時間がなくて探せなかったので、いつの日かリターンマッチを。
場所は陣岡と直線で東 2km (地図) 、地名も紫波町高水寺古屋敷である。
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西暦1189年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治五年
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9月10日 丁卯
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吾妻鏡
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鶴岡八幡宮の末社 熱田社の祭礼である。流鏑馬十騎、競馬三番、相撲十番が奉納された。
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今日、平泉関山中尊寺経蔵の別当大法師心蓮が頼朝の宿館を訪れ、悩みを訴えて次のように述べた。
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中尊寺は 藤原清衡が経蔵の他にも仏堂や塔を建て、鳥羽院の祈願所として寺領を寄進され祈祷料も与えられてきた。
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経蔵には金銀泥で交互に書いた一切経を納める由緒深い寺院である。従って運営に困窮する事のないよう御配慮をお願いしたい。また寺領の農民らが合戦を恐れて逃亡したので、これも安堵して戻れるような布告を頂きたい、と。
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頼朝はその僧を御前に呼び、藤原氏三代の間に建立した寺院について質問した。僧は明確に回答し、詳細は文書で報告する旨を答えた。
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頼朝はまず経蔵領の境界 (東は鎌懸、南は岩井河、西は山王窟、北は峯山堂馬坂) を認める書類を与え、農民は元に戻るように指示した。中原親能の差配である。
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   右画像は現在の中尊寺 経蔵。 クリック→ 別窓で拡大表示
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    元は二階建て、鎌倉幕府滅亡後の建武四年 (1337) に焼け落ちた廃材を再用して平屋に作り直した。
    一切経はここに収められていた(現在は宝物館の讃衡蔵に収蔵)。
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   ※中尊寺: 天台宗の東北大本山。興廃を繰り返し、現在は平泉世界遺産の中心的存在になっている。
本尊など貴重な文化財を継承する多くの支院を含む 関山全体が 中尊寺である。
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嘉禄二年 (1226) 11月8日に「毛越寺が焼け落ちた」旨の記載が、また建暦三年 (1213) 4月4日には「僧形の人物が政子の夢に現れて平泉の堂塔荒廃を嘆いた」との記載があり、共に政子が修復の指示を発している。中尊寺の公式サイト、別窓の 中尊寺 訪問記も、参考までに。
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   ※一切経: 仏の教えである経、僧が守るべき規則の律、教義の解説である論、その三つ「三蔵」に注釈
などを加えた経典の全て。別称は大蔵経、全部で2,920タイトル とされる。
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   ※岩井河: 平泉の 5km南を西から東に流れて北上川に合流する現在の磐井川 (地図)を差す。
中流に 厳美渓 (Wiki) 、更に西には 骨寺村荘園遺跡 (公式サイト) がある。
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厳美渓の入口にある 一関市博物館 (公式サイト) は現存する中で最も古い 「舞草銘」 を持つ太刀を収蔵している。 (博物館→ 「館蔵品」から進む)、残念だが文寿時代の作ではない、けれど。
古い作刀遺跡 (炉の跡) が残る 舞草神社 (別窓) も参考に。
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   ※山王窟: 骨寺村遺跡の 4km西 (地図) 、つまり一関博物館から約 14km。詳細は上記 骨寺村荘園遺跡
サイトで確認を。
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   ※峯山堂馬坂: 骨寺村荘園北部の稜線を差すらしい。峯山堂はかつての山岳信仰の拠点で、既に廃墟と
なって長い年月が過ぎている。
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西暦1189年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治五年
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9月11日 戊辰
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吾妻鏡
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   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
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平泉にある寺々の住僧である 源忠已講、心蓮大法師、快能らが参上した。寺領について、清衡の時代に朝廷の勅願に任じた寺には従来の寺領を保証すると共に今後もその処遇を継続する旨の下文を与え、寺領については荒廃している場合でも地頭などによる関与を禁じる旨も書き加えてある。
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今日、既に 7日間も逗留した陣岡を引き払った。高水寺には鎮守として走湯 (伊豆山) 権現を勧請した。その横の大道祖という小社は清衡の勧請で、背後に槻 (ケヤキ) の大木がある。頼朝はその樹下に向かい、走湯権現に奉ると称して鏑矢を二本射たてた。陣岡を出発して厨河柵までは行程 25里、黄昏の前に到着した。
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   ※陣岡から厨河柵: 通常の行程で約 16km、律令制により1里を約 540mに設定している。厨河柵は現在
の盛岡駅の西、雫石川と北上川に挟まれた台地 天昌寺町一帯 (地図) にあった広大な城砦で、安倍一族の支配地域最北端の拠点だった。
厨河次郎を名乗った 安倍貞任が滅亡した場所でもある。
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西暦1189年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治五年
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9月12日 己巳
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吾妻鏡
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岩井郡厨河で卜占を催し、西南の角を宿館に定めた。今日、工藤小次郎行光が杯酒と椀飯を献じた。
岩井郡は行光に恩賞として与える旨の仰せがあったため特別の献上である。
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   ※岩井郡: 磐井郡 (現在の奥州市) の南西部は既に 葛西清重が拝領しているので北西部だろう。.
西暦1189年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治五年
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9月13日 庚午
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吾妻鏡
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陸奥と出羽両国の戦乱によって庶民は困窮し、ある者は子供を失なったり夫婦が別れたりした末に野山に避難して耕作を放棄せざるを得ない状態になった。彼らを集め元の暮らしを安堵させよとの仰せがあった。
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更に加えて、古参の農民には綿入れを一着と駿馬を一疋与えるよう指示が発せられた。
また、由利八郎が抗戦の罪を許された。これは勇士としての栄誉に配慮した措置だが、武具の所持は禁じた。
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   ※綿入れと駿馬: この部分が良く判らん。原文は「加之於宿老之輩 面々賜綿衣一領 龍蹄一疋」
宿老とは地元の古老と判断し、綿入れと共に良い農耕馬を与えた、と訳してある。
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西暦1189年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治五年
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9月14日 辛未
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吾妻鏡
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頼朝は陸奥と出羽両国の省帳と田文の提出を求めたが平泉館と共に焼失し、詳細は調べられなかった。
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古老に尋ねたところ、陸奥国の住人豊前介実俊と弟の橘籐五実昌が故実に詳しいとの答えを得て両名を呼び出し質問した。兄弟は両国の絵図および諸郡の所有権などに関する書類を提出した。郷と里、山野、河と海などが悉く記載してあり、余目の三ヶ所を書き漏らしている他には脱落していない。頼朝は感心し、直ちに召し使うよう定めた。

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   ※省帳: 律令制で中央省庁、特に民部省の土地台帳などを差す。
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   ※田文: 荘園と公領の耕地面積や領有関係などを詳しく記載した田籍簿。
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   ※余目: 最上川に沿った現在の山形県庄内町の中央部。後に酒田市か鶴岡市と合併 (地図) したか。
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   ※民部省: 太政官が統括する八省の一つ。八省とは、宮中の政務を司る中務省、文官の人事や教育など
を司る式部省、姓氏や官人の戸籍および賓客の接待を司る治部省、戸籍と国土の管理や租税賦役を司る民部省、軍事全般を司る兵部省、訴訟や処罰を司る刑部省、貢物を管理し通貨や租税や度量衡を司る大蔵省、皇室の庶務や建設を司る宮内省、を差す。
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西暦1189年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治五年
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9月15日 壬申
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吾妻鏡
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樋爪太郎 俊衡入道と弟の五郎季衡が降伏して厨河の宿舎に出頭。俊衡は子息三人 (大田冠者師衡、次郎兼衡、河北冠者忠衡) を、季衡は子息一人 (新田冠者経衡) を伴っている。頼朝は彼らを呼んで風体を確認した。
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俊衡は既に 60歳ほどで白髪、年老いた姿が哀れなので 八田右衛門尉知家の預かりとした。知家は彼を連れ宿舎に戻ったが法華経を唱える他は何も語らない。知家も元々仏教に帰依しており、この結果を深く喜んだ。
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   ※河北忠衡: 頼朝の赦免を受け、遊佐郡 (山形県最北部) の郡司として同郡の大楯 (地図) に住んで遊佐氏
の祖になった、との伝承もある。この信頼性は兎も角として、河北は寒河江と天童に挟まれ名産は紅花、最上川の舟運で栄えていた。忠衡の本領がこのエリアだった可能性はありそうだ。
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大田冠者の本拠が鶴岡市大半田大田の可能性もあり、大田と遊佐が 20km圏内なのも興味を惹く。訪問記録の 道の駅 河北も参考に。
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西暦1189年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治五年
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9月16日 癸酉
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吾妻鏡
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八田知家が参上し、俊衡入道が法華経を転読して過ごしている旨を報告。頼朝は従来から法華経を大切に思っているため俊衡の罪を決められず、本所の比爪を安堵する決定を下した。法華経に帰依しているため十羅刹女 (鬼子母神と共に法華経を守る善神。詳細は Wiki で) の功徳に拠る結論であると伝えよ、との仰せである。
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西暦1189年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治五年
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9月17日 甲戌
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吾妻鏡
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藤原三代の間に建立した堂塔について、源忠已講と心蓮大法師らが書類で報告し、中原親能比企朝宗がこれを確認した。信仰心を催した 頼朝は全ての寺領を従来通りに認め祈祷と修行に励むよう命じて以下の壁書を 圓隆寺南大門に張り出すよう指示を下した。僧たちはこれを読み、改めて信仰の志を強くした。
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平泉の寺領については従来通りに寄付する。たとえ堂塔が荒廃した状態であっても仏に仕える業務を続けている限り地頭らが寺領の権利を妨げてはならない。
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  右は浄土庭園を含む 旧 毛越寺の復元想像図。
       クリック→ 別窓で拡大表示

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毛越寺の金堂 圓隆寺は南大門から中島を渡った正面にある。
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本尊として大仏師 雲慶 (吾妻鏡には 「運慶」 ではなく 「雲慶」 とある) が 藤原基衡の注文を受けて造像した薬師如来を祀っていたとされるが、史料に拠り 毛越寺の造営は基衡在世中の久安六年 (1150) ~保元元年 (1156) と考えられている。
「雲慶」を名乗る仏師は (資料を調べる限り) 存在しない。
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運慶の長男 湛慶の生誕が承安三年 (1173) である事、運慶の没年が貞応二年 (1224) 年1月) である事実などから推定して、運慶の誕生は1140~1150年前後と考えられる。
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運慶の名が初見される 運忍辱山 円成寺 (公式サイト) の大日如来坐像 (1176年) の台座銘には父の大仏師康慶の次に実弟子 (実子の弟子) 運慶の花押があり、この頃に独立して造像活動を開始していたらしい。
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従って 年代的に、運慶が毛越寺の本尊を彫った可能性は否定される。下記 毛越寺の項に書かれた 「雲慶云々」 の挿話も、衆徒か吾妻鏡の編纂者かの誤解か作為に拠って運慶を捏造した、と考えざるを得ない。
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衆徒が書き出した堂塔は次の通り。
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一.関山中尊寺について      中尊寺の公式サイト および 当サイトの訪問記 も参考に。
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(寺域内の) 寺塔は四十余、禅坊は三百余。清衡が陸奥六郡を管領して最初に創建した寺である。
白河関から外浜 (津軽半島) まで 20余日の行程の一町 (100m 強) ごとに笠卒都婆を建て、その面に金色の阿弥陀像を描いた。
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陸奥国の中心に位置する 山の頂上に寺域を設けて中央に 多宝塔 (Wiki) を置き、釈迦如来像と多宝如来像を本尊として左右に安置した。その中間には関道を通して旅人の往還路とし、釈迦堂には百余体の釈迦如来像を祀った。また両界堂 (金剛界と胎蔵界) の諸仏は全て木造金箔である。
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また二階大堂 (大長寿院と称す) は高さ五丈 (50尺、15m 強) で本尊は三丈 (15尺) の阿弥陀如来坐像、脇士は丈六 (8尺) 九体。また上下と四壁が全て金箔の金色堂には螺鈿の三壇を設け、定朝が刻んだ阿弥陀三尊像、二天像、六地蔵を祀っている。鎮守として南に日吉社、北に白山社を勧請した。
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他には宗から取り寄せた一切経を収めた経蔵、建物内部の荘厳な有様、付属する堂塔などは書き出せないほどある。清衡が暮らした 30年の間に我が国の延暦寺、園城寺、東大寺、興福寺などから震旦 (中国) の天台山に至るまで、それぞれに千僧供養の費用を寄進した。清衡は死期を迎えて自らの生前供養を行ない百ヶ日結願を迎え合掌して阿弥陀の仏号を唱え、病気もないのに眠る如く没したという。
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一.毛越寺について      毛越寺の公式サイト および 当サイトの訪問記も参考に。
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寺塔は四十余、禅坊は五百余。基衡が創建した寺である。金堂は圓隆寺、金銀と紫檀や赤木を豊富に用いて豪華に飾っている。本尊は丈六の薬師如来と十二神将 (雲慶の作、像には玉眼を初めて採用) を安置した。寺域には講堂、常行堂、二階惣門、鐘楼、経蔵等が並んでいる。九條関白 藤原忠道卿自筆の扁額を掲げ、参議 教長卿が堂内を飾る色紙を書いている。
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この本尊は仏師雲慶に造仏を依頼したもので、雲慶は上中下の三段階を提示し、基衡は中品を依頼して費用を仏師に送った。金百両、鷲羽百組、水豹 (アザラシ) の皮六十余枚、安達の絹千疋、麻布二千反、糠部の駿馬五十疋、白布三千反、信夫の摺絹千反など、他にも山海の珍品を添えた。三年の造仏期間中はその品物を運ぶ荷駄が東山道と東海道を絶えず行き交っていたという。
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また別途に生絹を船三艘に積んで送った際には仏師が喜びのあまり冗談で「練絹なら更に良かったのに」と言った、使者からそれを聞いた基衡は驚き悔いて練絹を三艘に積んで送ったという。
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この話が鳥羽法皇の耳に入って仏像を拝したところ確かに比類ない出来栄えのため 「洛外に持ち出してはならぬ」 と宣下した。基衡は心痛の余り持仏堂に閉じ籠って七昼夜も飲食を断ち、九条関白に窮状を訴えた。関白は院の機嫌が良い時を選んで勅許を受け、やっと平泉に安置できたという仏像である。
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また吉祥堂の本尊は洛陽 (京都の別称) の補陀洛寺の本尊 (観音) を模した像を祀る。観音の生身を伝えているとの託宣があった霊像なので別に造った丈六の観音像胎内に本尊を収めている。千手堂には金銀で彩った木像の二十八部衆 (千手観音の眷属) 、鎮守として惣社金峰山を東西に配している。
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次いで観自在王院 (阿弥陀堂を称す) 、基衡の妻 (安倍宗任の娘) の建立である。四方の壁に洛陽の霊地名所を図絵し仏壇は鍍銀、高欄 (周囲の欄干) は鍍金で仕上げてある。 次いで小阿弥陀堂、基衡の妻の建立なり。障子 (襖) の色紙形は参議 教長卿の筆により和歌を書いてある。
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一.無量光院 (新御堂と称す) について。
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秀衡の建立による。その堂内は四方の壁の扉に観無量寿経の教えを絵に描き、更に秀衡の狩猟姿を描いている。本尊は丈六の阿弥陀で三重の宝塔と仏堂内部の装飾は全て宇治平等院を模している。
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一.鎮守について。
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中央に惣社、東側に日吉社と白山社、南側に祇園社と王子社、西側に北野天神社と金峰山、北側に新熊野社と稲荷社を祀っている。全てが本社の様式を模している。
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一.年間通例の法会について。
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二月に常楽会、三月に千部会と切経会、四月に舎利会、六月に新熊野会と祇園会、八月に放生会、九月に仁王会。 導師および唱和する僧は三十人か百人、または千人。舞人と楽人は各三十六人である。
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一.両寺で行なう年間の問答講について。
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長日延命講と弥陀講、月次問答講、正月と五月と九月に行う最勝十講などである。
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一.秀衡の館について。
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金色堂の西側で無量光院の北に宿館 (平泉の館と称す) を構えている。西の木戸に嫡男 国衡の家と四男 隆衡の家が並び、三男 忠衡の家は泉屋の東にある。無量光院の東門には 伽羅御所と呼ぶ館を構えて秀衡が居館 (私邸) とし、泰衡がそれを継いで居館としている。
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一.高屋について
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観自在王院の南大門前を南北に走る大路の東西数十町が倉町で、数十棟の高屋が軒を並べる。観自在王院の西側には数十台の牛車を停める車宿がある。
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   ※笠卒都婆: 奈良 般若寺(公式サイト)の 重文 笠塔婆(別窓で拡大画像)が著名。弘長元年 (1261) の
建立で高さ 4.8m、かなり巨大だが陸奥国の笠卒都婆の詳細は不明。
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   ※関道: 清衡時代の「関道」は現在の中尊寺の参道 月見坂。奥大道を兼ねており、旅人は両側に堂塔を
を眺めつつ関山を北に下り、当時の平泉中心部だった 衣河北岸の接待館 (別窓) に入った。
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   ※二階大堂: 現在の大長寿院の右側、関山地区の別院地図 (別窓で表示)にあったが既に失われた。
二層の巨大な建造物は当時の鎌倉には存在せず、強い衝撃を受けた頼朝は無量光院や毛越寺の庭園配置と二階大堂を組み合せて二階堂 永福寺の建造に取り掛かった。
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二階堂は地名としてそのまま転用され、この近くに居館を構えていた 工藤 (藤原) 行政が地名としての二階堂を名乗るようになった。このサイトでは (面倒臭いので) 最初から二階堂氏云々と書いているけれど、厳密には永福寺が完成してから使うのが正しい。
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   ※立像と坐像: 釈尊の身長は丈六 (16尺、約 485cm) とされ、立像を造る基準はその半分、等倍、5倍、
510倍となる。坐像は半分の八尺が基準となるが、この場合も呼称は丈六である。
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   ※金色堂: 手元にある資料は 中尊寺訪問記 (別窓) の下部に記載した。参照されたし。
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   ※千僧供養: 文字通り千人の僧を招集して行なう供養で権力者の権威の象徴。文禄四年 (1595) に秀吉
が催した方広寺大仏殿千僧供養が有名だが、京都日蓮宗妙覚寺十九世の安国日奥は不受不施論を主張して出仕を拒否し、以後は徳川時代末期まで弾圧を受けた。
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不受不施は 日蓮が唱えた「他宗の者から布施を受けず、他宗の者に供養を施さない」との教義。「平和の党」を称しつつ権力に擦り寄って宗祖を裏切る公明党の嘘が際立つ
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旅行先の 道の駅くりもと(の末尾を参照)で壊された墓碑を見て初めて知った。
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   ※玉眼: 内側に薄く削った水晶板を当て実物に近い迫力を出す技法。
最初に採用した作例は仁平元年(1151) の作銘がある天理市長岳寺の 阿弥陀三尊像 (公式サイト) で仏師は不明。
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毛越寺に関する記述が正しければ、作者は 運慶ではない。運慶最初の作は安元二年 (1176) に彫った奈良円成寺の 大日如来像、明らかに時代が異なる。
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 右は運慶の処女作とされる大日如来像、 忍辱山円成寺 蔵
     画像をクリック→ 別窓で拡大表示

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保元元年 (1156) に崩御した鳥羽法皇 (1103~1156年) が 「洛外持ち出しを禁じた」 のなら、1140~1160年の範囲に産まれた運慶がその仏像を彫る事は絶対にできない。
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では毛越寺の本尊を彫ったのは誰か、雲慶とは何者かという話になるのだが、これは皆目判らない。想像では、玉眼からみで長岳寺の阿弥陀像との関連がある、かも知れないけれど現物がないのだから話にならない。ずっと前に 「伊達政宗が仙台に持ち去った」とか「実は瑞巌寺にある」 (笑) なんて話を聞いたが真実か否かを確かめられない。。
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玉眼ついでに (タイトルなし、だが) 長岳寺阿弥陀仏 (木造漆箔、像高142cm) の 全体画像顔の拡大画像を掲載する。何かの参考に。
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   ※観自在王院: 現在は発掘 整備された庭園 (別窓) のみだが往時の姿は想像できる。毛越寺の東に隣接
する。無料開放しているから休憩を兼ねた散策にも利用できる。
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   ※無量光院: 個人的には秀衡の信仰の集大成と思う。復元の想像図など、秀衡の気持ちになって金鶏山
に沈む夕陽を背景にした極楽浄土を想い浮かべよう。
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   ※平泉の館: 一族の屋敷と政庁が集中していた一帯である現在の 柳之御所。この名称は史書に記載が
なく、平泉駅から 500mほど北にある柳之御所の地名を館の通称名として使っている。
設備の整った 平泉文化遺産センターと、すぐ近くには道の駅 平泉 黄金花咲く理想郷 (共に公式サイト) が開業した。平泉の北上川沿いエリア散策の根拠地として最適だ。
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   ※泉屋の東: 平泉駅東に泉屋の地名がある吾妻鏡の「在于泉屋之東」だ。上記「柳之御所」を参照。
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   ※秀衡の居館: 柳之御所の南側に伽羅御所の地名が残るが(略図)、痕跡は全く見られない。
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   ※倉町と車宿: 観自在王院を参照。位置は鳥瞰図 (共に別窓) に記載した。 蛇足だが本来の車宿史跡の
位置を占有していた土産物雑貨兼豆腐店は平泉文化遺産指定獲得運動の役員だった。
文化遺産にも色々と利害が絡む、嫌な世の中だ。
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西暦1189年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治五年
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9月18日 乙亥
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吾妻鏡
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秀衡の四男 本吉冠者 高衡が降伏し、下河辺庄司行平に連行されて出頭した。泰衡を後見する一人の名取熊野の別当 秀綱は上総介 足利義兼が連行した。これで泰衡軍の残党の殆どを捕えたことになる。
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昔を考えると、康平五年 (1062) 9月17日に 陸奥守頼義がこの廚河の柵で貞任、宗任、千代童子の首を得た、その良き例に倣って宿願を遂げた。これらの仔細を書いて書状を朝廷に送った。その内容は次の通り。
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泰衡を追討した件は先日飛脚によって報告した。その与党である比爪俊衡法師と息子の五郎季衡は比爪の館に放火して逃げたが厨河と呼ぶ館まで追い掛け、降伏して出頭した。書面でこれを報告する。
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その中で俊衡法師は年老いている上に法華経を信仰しているため元の居館に戻し、その他の輩は鎌倉に連行する予定である。その後は身柄を京都に送るか、或いは囚人として関東の御家人が預かるか、指示を頂きたい。来月中には鎌倉に戻り改めて連絡する予定である。この旨を上奏して頂きたい。
                     九月十八日 頼朝  進上 師中納言殿
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私信として。
今年は追討を見合わせよとの仰せは、既に軍勢を集めて中止ができず、やむを得ず攻め込んで泰衡を追討する結果となった。その後に宣旨を頂いたので問題はないと思うが、院の御意向は気になるので公卿の会議の内容と共に内々に教えて頂きたい。
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今回は前民部少輔 藤原基成と息子三人も併せて捕獲した。特に問題とするような地位の者ではないが、平家追討の時も今回も朝廷の意思を軽んじた行為には間違いない。彼の姓名を報告に含んでいないのは、さして名のある侍ではないためである。
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降伏した者。
本吉冠者高衡(秀衡法師 四男)、比爪俊衡法師の息子三人(大田冠者師衡、次郎兼衡、河北冠者忠衡)  比爪五郎季衡(俊衡法師の弟)、新田冠者経衡  これらを残らず捕らえて取り調べたのは九月十八日。
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   ※藤原基成: 頼朝の運がもう少し弱かったら、奥州藤原氏を育て上げ朝廷と平家と奥州が鼎立する可能
性さえあった時代を造った人物である。頼朝は格下に見捨てた発言をしているが、基成の感性は飛び抜けていた、と私は考えている。都へ送還された基成親子の消息は全く記録にない (当時は70歳前後) のが実に残念だ。
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西暦1189年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治五年
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9月19日 丙子
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吾妻鏡
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厨河の柵を出立し、平泉に戻った。厨河に滞在したのは七日間である。
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西暦1189年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治五年
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9月20日 丁丑
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吾妻鏡
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陸奥国と出羽国を支配下に収めての吉書初め (仕事始めの儀式) を済ませ、合戦の勲功を確認し恩賞の下文を与えた。合戦の当初に書いたもの、そして新たに書き加えたものもある。
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恩賞を最初に与えたのは 千葉介常胤、これは治承の合戦以来の決め事である。そして国中の寺社への寄進は通例に従って行ない、恩沢に浴した者も金の採掘や精錬に携わる者に妨害を加えてはならない旨を指示した。
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畠山重忠は葛岡郡を与えられたが、これは狭い土地である。重忠は周囲に語って曰く、「先陣を承っていたにも拘らず大木戸の合戦では一番乗りを他人に奪われた。抜け駆けを敢えて止めなかったのは勲功は周囲の者が得れば良いと考えたからで、実際に広い土地を彼らが得たのは重忠の好意に因るものだ。」と。
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その他、恩賞を得た者は数えられないほど多かった。次に、紀権守と波賀次郎大夫らの勲功は特に褒められた。ただし所領を得るほどではなく、旗2枚を与え「子孫の誉れにせよ」との言葉を受けた。
小山政光入道の郎党 保志黒次郎と永代六次と池次郎らは同じく旗と弓袋を得た。「勲功の賞として下賜する」との言葉が 平盛時の代筆によって、文治五年九月二十日と銘に書き加えわれた。
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   ※葛岡郡: 該当する郡はなく、津久毛橋北側の玉造郡の葛岡 (地図) を差すと思うが、確証はない。
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   ※紀権守と波賀次郎大夫: 阿津賀志山合戦で背後に迂回し大木戸を奇襲した武士。
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西暦1189年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治五年
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9月21日 戊寅
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吾妻鏡
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   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
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伊澤郡鎮守府八幡宮 (第二殿と呼ぶ) に詣でて玉垣を寄進した。
坂上田村麻呂将軍が蝦夷討伐に下向した時に崇敬する霊廟を勧請して奉納した弓箭と鞭などを保存している事もあって頼朝も深く崇敬し、今後の神事は全て頼朝の祈願として執行せよとの仰せがあった。
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   ※鎮守府八幡宮: 伊澤郡は胆沢郡。平安時代初期の延暦21年に
(802) に坂上田村麻呂が奥州市北部の胆沢城 (地図) と盛岡市南部の志波城 (地図) を築いて盛岡以南を支配下に置き、多賀城から東北北部に軍事拠点を移す形になった。
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やがて胆沢城には鎮守府が置かれ、胆沢郡以北を統括する存在に変貌する。
鎮守府八幡宮 (公式サイト) は胆沢城址の北 500mの胆沢川近くにある。
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西暦1189年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治五年
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9月22日 己卯
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吾妻鏡
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陸奥国の御家人に関しては 葛西三郎清重が差配せよ。鎌倉の御家人として仕えたい者は清重に仔細を申し出るように、との命令が告示された。
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   ※葛西清重: 阿津賀志山合戦の勲功で多くの所領を獲得し、更に奥州総奉行に任じた。陸奥国と出羽国
には守護を置かなかったため、治安維持を兼ねた臨時の職責に任じたらしい。
子孫は本領の武蔵国から陸奥の広範囲に扶植し、豊臣秀吉に滅ぼされるまで繁栄した。
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西暦1189年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治五年
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9月23日 庚辰
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吾妻鏡
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秀衡が宇治平等院を模して平泉 (の私邸近く) に建立した無量光院に参拝、豊前介 (9月14日に記載のある地侍清原豊前介実俊) が案内人として同行した。
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清衡の継父 武貞 (鎮守府将軍 清原武則の子、荒河太郎) が没して 藤原 (清原) 清衡が奥六郡 (伊澤、和賀、江刺、稗抜、志波、、岩井) を引き継ぎ、康保年間に江刺郡にあった豊田の館を岩井郡平泉に移して居館とした。出羽と陸奥にある一万余の村ごとに寺を建て管理の費用を寄進し、33年統治して没した。
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(次代の) 基衡は両国を 33年間支配して父の時代よりも更に裕福に築き上げて没した。 (三代目の) 秀衡は父の跡を継いで廃寺などを復興し、鎮守府将軍の宣旨 (嘉応二年 (1170) の発行) を受けてからは官位も禄も父祖を越えた。栄華は一族に及び、33年間を統治して没した。
奥州藤原氏三代 99年の間に建てた堂塔は幾千万か、その数を知らず。
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   ※無量光院: 堂内は四方の壁の扉に観無量寿経の教えを絵に描き
更に秀衡が狩猟する姿を描いている。
本尊は丈六の阿弥陀で三重の宝塔と仏堂内部の装飾は全て宇治平等院を模し、更に一回り大きい。
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   ※豊田の館: 胆沢城址から見て北上川対岸、奥州市江刺区岩谷堂
に清衡の旧邸 豊田館跡 (地図) がある。
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後三年戦役 終盤の応徳三年 (1086) 、相続に不満を持った清衡の異父弟 清原家衡が留守中に館を襲撃し清衡の家族系累を皆殺しにした場所である。
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清衡が平和な宗教都市として平泉を造ろうと考えた、その原点が豊田館の悲劇だった。
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 右上は平泉と豊田館の位置を示す鳥瞰。画像をクリック→ 別窓で拡大表示
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後三年の戦役最後の地 金沢の柵と、清衡が書き記した 中尊寺願文( 関山中尊寺の冒頭から少し下)および奥州藤原氏の系図を参照されたし (それぞれ 別窓) 。
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西暦1189年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治五年
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9月24日 辛巳
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吾妻鏡
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平泉郡内に検非違使の庁を置き治安維持に務めるよう、葛西三郎清重に下文を与えた。郡内に於ける違法行為を防ぎ犯罪はこれを糾弾して対応せよ、と。奥州合戦での清重の勲功は抜群であり、この重職を担うと共に伊澤郡、磐井郡、牡鹿郡に数ヶ所の所領を得た。
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   ※清重の勲功: 阿津賀志山合戦で抜け駆けして大木戸に攻め込んだ記録しか残っていない。軍の先鋒は
畠山重忠と決めていたのだから普通なら軍律違反だろ。それに清重は治承四年 (1180) 11月10日に若妻を夜伽に差し出した男、勲功に値しない。私が怒っても意味ないけど。
「頼朝が羨ましい」との潜在意識が「清重憎し」に転嫁したか。雑念、雑念 (笑)
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   ※郡のエリア: 伊澤郡は胆沢郡の間違い、北上川以西の奥州市+金ケ崎町、磐井郡は現在の一関市+
平泉町+奥州市の南部、牡鹿郡は現在の石巻市+女川町。
それぞれ 岩手県の行政区分地図 宮城県の行政区分地図を参照されたし。
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西暦1189年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治五年
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9月26日 癸未
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吾妻鏡
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囚人となっている前の民部少輔 藤原基成父子の四人は鎌倉に連行するべきだが、合戦に係わった武士ではないため処分の理由もない。その旨を京都に連絡した上で暫く拘留し改めて処遇を考えようとの仰せがあった。
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   ※藤原基成: 釈放後は京都に戻ったと思われるが、記録には全く残っていない。気になるねぇ...。
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西暦1189年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治五年
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9月27日 甲申
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吾妻鏡
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頼朝は安倍頼時(初名は頼良)の衣河の遺跡を見回った。館の土地だけが虚しく残り、秋の草が数十町に生い茂って礎石も既に百余年の苔に埋もれている。頼時が陸奥国を支配した頃の館がここにあった。
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息子は盲目の井殿厨河次郎貞任、鳥海三郎宗任、境講師官照、黒澤尻五郎正任、白鳥八郎行任で娘は有加一乃末陪と中加一乃末陪と一加一乃末陪。八人の子女の家が軒を並べ、郎従の家が門を囲んでいた。
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西は国境の白河関まで 10日の行程で東は外浜まで 10余日、その中央に函谷を思わせるような衣の関を設けていた。左は高山に接し右は大河、南北には同じように峰々が連なっている。
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海と山の物産は豊かで平泉を囲む (駒形嶺の麓) 30余里には桜樹の並木が続き、峰の残雪は四月から五月まで消えないため駒形嶺と呼ばれている。
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その麓には南に向かって北上河が流れ衣河が北から合流している。官照の小松の柵、成通 (貞任後見) の琵琶の柵などの旧跡はその (衣河岸の) 青い岩の間に点在していた。

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右画像は自製の平泉史跡地図、必要な箇所は全て落とし込み概略コメントを加えてある(別窓表示)。
巾は2800ピクセル、今後もポイントを追加する予定で、平泉駅と中尊寺を中央に置いてある。
次に平泉を歩く際にはこのスポット全てを綿密に記録するつもりであるが...。
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   ※安倍頼時: 旧名は 「頼良」、読みが源頼義と同じだった事を憚って 「頼時」 と改めた。前九年戦役の初期
に負傷し鳥海柵で没した。更に詳細は 陸奥話記から見た前九年の役で。
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   ※盲目の井殿: 頼時の長子 安藤太郎良宗、早世とも殺されなかったとも伝わるが、詳細の史料なし。
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   ※衣河の遺跡: 安倍一族が築いた最初の根拠地。衣川の上流部、国道四号から 6km西北西 (ルート地図)
に位置する。勢力拡大と共に北上川の平地に進出した。左メニュー 「鎌倉時代を歩く 弐」 「その拾五 奥州の悲劇 前九年の役で安倍一族が滅亡」 も参考に。
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   ※頼時の娘: 一人は中加一乃末陪、頼義の武将平永衡に嫁したが永衡は内通を疑った頼義に斬られた。
姉の有加一乃末陪を妻にしていた 藤原 (亘理) 経清 「次は同じ立場の自分も殺される」 と恐れて安倍氏側に寝返り、頼義の強い憎しみを受けた。
戦後に経清は刑死。有加一乃末陪は幼児を連れて戦勝者の 清衡武貞に再嫁、その幼児 (経清) が長じて清原氏を滅ぼし、奥州藤原氏の初代 清衡となる。
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   ※白河と外浜: 平泉柳之御所から白河関は約 270km、外浜 (津軽湾) までも同じく 270km。
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   ※駒形嶺: 根拠なしに義経館跡とされた高舘の北上川対岸にある束稲山の別称。画像は 平泉高舘で。
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   ※小松の柵: 衣川区山口 (地図) 、琵琶柵の 500m北。西側に後期の 安倍氏館跡がある。
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   ※琵琶の柵: 貞任の弟宗任 (鳥海三郎) の腹心藤原業近の柵または和泉ヶ城。衣川北岸、衣の関の比定地
から 300m西で、陸奥話記の記述に符合する (地図) 。
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西暦1189年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治五年
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9月28日 乙酉
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吾妻鏡
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頼朝は思い通りに泰衡の作戦を打ち破り、俊衡らの帰伏を確認して鎌倉に帰還する。拘束した囚人たちの多くも各所で放免し、残るのは 30余人である。
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平泉を出た途中に見えた青山の名前を問うと「田谷の窟」 坂上田村麻呂と利仁が勅命を受けて蝦夷討伐に赴いた際に首魁の悪路王と赤頭らが拠点を構えていた窟である。
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この前を北に向かえば 10余日で外浜で、田村麻呂将軍はこの窟の前に九間四面の堂を建て鞍馬寺を模して多聞天像を祀り、西光寺と名付け水田を寄進した。
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寄進状には「東は北上河まで、南は岩井河まで、西は象王岩屋 (達谷窟を差す) まで、北は牛木長峰まで」とある。これに従えば、東西が 30数里で南北が 20数里である。
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   ※青山: 聖地、霊地、霊廟墓所など 様々な使い方がある。「人生いたるところ青山あり」 は「骨を埋める
場所」 の意味で、この場合は「霊廟」と考えて良いか。
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   ※田谷の窟: タコク→ 達谷窟 (公式サイト) を差す。毛越寺前を西へ、厳美渓に向かって走ると約6km先
で嫌でも目に入る。無料駐車場あり、拝観料は 300円だが外からでもある程度は見えるし、何回も焼失して昭和36年の再建だから有難みに欠ける。坂上田村麻呂が悪路王を討伐の際に建てた」のだから、当然ながら悪路王=「アテルイ」になる。
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   ※利仁: 平安時代前期の西暦 900年代に活躍した貴族で武将。坂上田村麻呂、藤原保昌、源頼光と共に
中世の伝説的武将として扱われているが、758年生誕~811年死没の坂上田村麻呂とは年代が異なる。吾妻鏡 写本の原文は「是田村麿利仁等将軍奉綸命征伐夷之時賊主悪路王併赤頭等構塞之岩屋也」だが、話を面白く描いたに過ぎないのか少々筆が滑ったのか。
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   ※牛木長峰: 田谷の窟→ 北上川は約 7km、磐井川からその 3分の2なら約 4.5kmで太田川付近 (地図) が
北限だが、牛木長峰の欠片も見付からない。
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西暦1189年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治五年
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10月 1日 丁亥
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吾妻鏡
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   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
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多賀国府で郡と郷および庄園の業務についての様々な指示を地頭らに下した。国衙や郡衙の蓄えを浪費して農民に負担をかけないよう再三言及し、更に一枚の指示書を国府庁舎に掲示させた。その内容は次の通り。
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地頭などの権威を利用して道理に合わない行為をなすべからず。国内の管理については秀衡と泰衡の先例に従って処理すること。
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鎌倉を発ってから帰路に向かう今まで、奥州に滞在中の頼朝は毎日三度の食事と酒と湯浴みを欠かさなかったが、庶民に (拠出などの) 負担は強要せず上野と下野両国の年貢 (自分の取り分) を運ばせていた。
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これらは庶民を特に喜ばせた。食事に使ったのは河野四郎通信に運ばせている粗末な食器である。
また榛谷四郎重朝は毎日必ず乗馬を洗っていた。これらは(遠征中の権力者の)稀有な事例と噂になった。
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   奥州藤原氏の豪奢な暮らし振りを描いた後の描写だから編纂者による多少の作為はあっただろうが。
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西暦1189年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治五年
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10月 2日 戊子
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吾妻鏡
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囚人となっていた 佐藤庄司基治と名取郡司と熊野別当らは赦免され、それぞれ本領に帰された。
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   ※赦免云々: 吾妻鏡は「佐藤庄司は石那坂合戦で戦死 (8月8日) 、熊野 (金剛) 別当は 小山朝光が討ち取り
(8月10日) 」と書いている。名取郡司は確認できない。これは編纂者のミスではなく異なる情報を単純に併記した、そんな気がする。
佐藤庄司はその後の史料にも表れるから、助命されて本領に帰った可能性が高い。
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西暦1189年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治五年
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10月 5日 辛卯
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吾妻鏡
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手越平太家綱は奥州征伐の間を通して頼朝に近侍を続けた。その功績として恩賞を得たい旨の上申があった。
「駿河国麻利子 (丸子) の一村を得て無職の者らを集め、驛家を建てて運営したい」 、と。
頼朝はこの申請を許可し、中原親能の差配として早急に手配せよとの仰せがあった。
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   ※手越家綱: 手越は安倍川西岸で家綱が支配していた宿駅だった。当時の東海道は駿河湾沿いに日本坂
を越えて手越驛に下る道 (富士川合戦で 平惟盛が東進したルート) の利用頻度が高く、平安初期に開かれながら整備の遅れた「蔦の細道」(宇津ノ谷峠) はサブとして使われていた。
家綱は麻利子 (丸子) 驛の開創によって宇津ノ谷峠を含めた活性化に眼をつけた、か。
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丸子驛の開設に伴って徐々に宇津ノ谷峠ルートの利用が進み、秀吉の小田原征伐の際には軍道に使える規模の新ルートが整備されて東海道の本道となった (周辺の概略地図) 。
そして江戸の開府と共に東海道五十三次として利用が進む時代に移る。
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   ※蔦の細道: 平安時代から使われた古道、伊勢物語 (wiki) の九段
「あずま下り」に載ったことでも知られている。
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  駿河なる 宇津の山べの うつつにも
     夢にも人に あはぬなりけり

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うつつ (現実) と宇津を掛け言葉にして「現実にも夢にもあなたに会えない嘆き」を詠っている。
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現在では 道の駅 (静岡市側の 宇津ノ谷峠 下りと、岡部町側の 宇津ノ谷峠 上り を利用 (駐車可能) して整備された古道を散策するハイカーも多い。
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古道「蔦の細道」と明治中期まで利用された東海道が概ね併行しており、足に自信があれば往路と復路を異なるルートで歩く (合計約 4km) のも面白い。一つ東側の丸子宿まで戻れば丁子屋とろろ汁 が食べられる。
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「蔦の細道」ではなく、明治期までの古道を歩いた 宇津ノ谷峠のレポートも、参考に。
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  右は西側の岡部宿から登る「蔦の細道」の入口。(クリック→ 拡大表示)
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西暦1189年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治五年
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10月11日 丁酉
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吾妻鏡
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大倉御所の厩舎人を勤める平五新籐次が若駒 10疋を曳いて昨夜鎌倉に到着した。頼朝帰還に先立って若公の万寿 (頼家) への贈り物である。万寿は御所の南面 (公式の場所) でこれを観覧した。
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また 、佐々木次郎経高が差配して御所中を清掃した。平五らが間もなく還御の予定を伝えたためである。
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西暦1189年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治五年
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10月17日 癸卯
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吾妻鏡
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御台所政子鶴岡八幡宮および 甘縄神明社に参詣した。これは報賽 (祈願成就の御礼) の参拝である。
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西暦1189年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治五年
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10月19日 乙巳
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吾妻鏡
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頼朝は下野国宇都宮社に奉幣した。通常の参拝ではなく、偏に報賽 (祈願成就の御礼) のためである。荘園を一ヶ所寄進し、加えて樋爪太郎俊衡法師の一族を宇都宮社の職掌 (雑務担当の下級官吏) として引き渡した。
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   ※樋爪俊衡: 基衡の末弟 和泉十郎清綱の嫡子が俊衡、姉妹の乙和子は 佐藤基治の後妻になっている。
9月15日に降伏し、子息三人と弟の季衡親子を伴って厨河の頼朝宿舎に出頭した人物で、一言も話さず法華経を読むだけの姿に感銘した頼朝は本領の樋爪 (現在の岩手県紫波町日詰) の領有を安堵し、親族のみを降人 (捕虜) として連行した。同日の記載内容と奥州藤原氏の系図を参照されたし。
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親族の処遇に関しては 12月6日に配流地の記載があるが、俊衡の三男忠衡の名が見当たらないため彼が宇都宮社の職掌となった可能性がある。
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宇都宮社々伝は「樋爪五郎季衡および息子の経衡」と記録しており、市内の三峰山神社 (地図) には五輪塔も残っているから安易な結論は出せない。
下に五輪塔に添えられた銘文の全文を添付する。
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樋爪氏の墓  右は宇都宮の三峰山神社
 クリック→ 「参考資料 樋爪氏の墓」 (別窓) へ
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ここ三峰山神社の中の二つの五輪塔は、文治五年 (1159) 源頼朝が奥州の藤原氏 (東北の豪族) 一族を攻めたとき、祈願成就のお礼の 生贄として二荒山神社に献納された、樋爪俊衡と弟 季衡の墓と伝わっている。この墓を樋爪季衡とその子 経衡のものとする説もある。
なお、この二つの墓には、二荒山神社にかかわる悲話 (参考資料) が伝えられている。
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生贄の表現は特に強く奴婢に近い扱いだった可能性が高いか。敗者の運命は常に悲しい。
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西暦1189年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治五年
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10月22日 戊申
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吾妻鏡
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愛染明王の御供米を慈光山に送り、長絹百疋を寺僧に下賜した。いずれも祈願成就の御礼である。
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   慈光山には出陣前に愛染明王を送って祈願を命じている。詳細は 6月22日の記事を参照されたし。
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西暦1189年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治五年
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10月24日 庚戌
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吾妻鏡
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申刻 (16時前後) 、頼朝が鎌倉に帰着。御所に入り座も暖まらない内に 大江広元を呼び 書状を京都の師中納言の 吉田経房 一條能保に送った。
「奥州の泰衡を追討し、彼の党類を引き連れ今日 (24日) 鎌倉に帰還した」との内容である。
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雑色がこの書状を携え飛脚として上洛した。その後御家人から予め御所に用意してあった献杯の儀があった。
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出羽国の田畑検査を済ませよと留守所に命じて出発したが、地頭から「留守所が門田 (屋敷に付属した農地) も同様に扱うべきと主張して困惑している」との連絡があった。頼朝は 「除外せよ」 として書状を手配した。
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土地台帳の作成に関し、地頭の門田に課税するのは驚きである。出羽や陸奥は蝦夷の土地だったから、朝廷も従来の風習を尊重して新しい制度は導入しなかった。従って公領以外の門田は従来通りに扱うのが鎌倉殿の仰せである。  十月二十四日   前因幡守(広元)  出羽留守所
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   ※門田: 制度の固定化は時として既得権の拡大と保護を招く。門田除外制度も同様で、屋敷前の良田を
課税対象から除外する例が増えて在地領主が支配を強め、定めた制度が形骸化していく。
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   ※留守所: この年末に奥州藤原氏の遺臣 大河兼任の乱が勃発、藤原氏時代から引き続いて職務に就いて
いた留守所が大河兼任に与力したため、乱が鎮まった翌 文治六年 3月に旧職を罷免し、官僚職の御家人 伊沢家景が奥州全体を管理する陸奥国留守職として国府の多賀城に赴任した。
彼の子孫は留守職を世襲し、やがて留守氏を名乗るようになる。
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西暦1189年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治五年
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10月25日 辛亥
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吾妻鏡
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鶴岡八幡宮の別当法眼が頼朝の召しを受け、供僧らを伴い参上した。僧たちが祈祷に励んだため奥州征伐が無事に終った事に謝するためである。砂金と帖絹、藍摺の絹などが謝礼として贈られた。
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   ※帖絹: 貨幣に代用する精錬絹、らしい。従来の物々交換に近い状態から貨幣経済に移行する端緒か。
米に換算した例が判れば労働の価値や仏師の報酬などが判ってくるんだけどね。
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西暦1189年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治五年
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10月26日 壬子
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吾妻鏡
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奥州から帰還する途中で 葛西三郎清重の母親が病気であると聞きこれを見舞うため使者を清重の屋敷に派遣していた。今日その使者が鎌倉に着き、特に危急の状態ではないと報告した。
清重は奥州の治安維持や民生の安定などの任務を受けて引き続き滞在している。
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   ※葛西清重: 秩父平氏豊島清元の三男だから畠山、稲毛、小山田などのやや遠い親戚に当たる。清元が
現在の葛飾区と江戸川区の一帯を開墾し、領内の 33郷を伊勢神宮に寄進して葛西御厨を立荘、清重はそれを継承した。
館の跡は四ツ木一丁目の 西光寺 (外部サイト) 、ここには墓所もあるらしい。
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西暦1189年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治五年
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10月28日 甲寅
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吾妻鏡
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梶原景時「安芸国の大名葉山介宗頼は 伊澤五郎信光の誘いに従い、奥州討伐の軍勢に加わるため郎党を率いて鎌倉に向かったが、駿河国藁科河の辺りで 既に出発したと聞き帰国してしまった。あまりに勝手過ぎるから何らかの措置をしないと仲間の御家人がどう思うだろうか」と言上、宗頼の所領などの没収が定められた。
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   ※葉山宗頼: 伊澤 (石和、武田) 信光と梶原景時は共に裏工作と讒言のプロだが、宗頼の素性は不明。
一部の史料は「信光が安芸国に軍勢派遣の催促をした」と書いており、この時点で安芸国守護に任じていた可能性もある (1231年説あり) が、今回の遠征には西国の武士は安芸国を含め加わっていない筈だ 。藁科川は西から安倍川に合流する清流で、上流には 玉露の里という静かな (と言うか、何の面白みもない) 道の駅もある、静岡茶の本場。
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西暦1189年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治五年
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11月 1日 丁巳
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吾妻鏡
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   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
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供御の甘苔十合を朝廷に納めるため発送した。これは伊豆国の名産である。
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   ※供御の甘苔: 上皇、皇后、皇子のために献上する食物で年貢の一種で扱うのが 供御人 (Wiki) 。
文治二年 (1186) 2月19日にも同様の記載があるが「十合」とは書いていなかった。
合は10分の1坪、この場合は一坪分の海苔と考えて良い、のかな。
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甘苔はたぶん岩海苔だと思う。外海に面した岩場に着く天然の海苔で磯の香りがとても強く、寒い時期に採れる。空き缶のフタなどを使って掻き取っている風景を今でも見掛けるよ (今、と書いたのは 2000年頃、の意味) 。供御の地名も各地に残っている。
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西暦1189年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治五年
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11月 2日 戊午
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吾妻鏡
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牧六郎政親頼朝を怒らせ、北條時政が身柄を預かることになった。日頃から 藤原泰衡と懇意にして連絡を取り合っていたとの噂があったためである。
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   ※牧政親: 時政の後妻 牧の方の父または兄弟とされる宗親の弟。宗親は忠盛 (清盛の弟) の五男で 池禅尼
の息子 頼盛に仕え、頼盛領の駿河大岡牧の荘官を務めていた下級貴族。その関係で奥州藤原氏と接点があったのだろうか。時政に預けたのは面子に配慮したため。
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西暦1189年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治五年
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11月 3日 己未
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吾妻鏡
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一條能保の飛脚と、遠征中の奥州から朝廷に派遣した使者が共に鎌倉に入った。御感 (お褒め) の院宣が下され降伏した者の処遇や恩賞について感想の言葉が併記してあるため頼朝は抃悦 (手を打って喜ぶ) した。
気に掛けていた奥州追討の件が早く済んだことなどは極めて満足、それが院の思いだと書かれている。
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降人の処分は鎌倉が決裁せよ。廷臣としての処分が必要であれば連行しなくても官符を送付する。また賞については望みがあれば配慮する。按察使に空席があるが如何か、など師中納言 吉田経房の署名である。
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一條能保からの書状の内容は下記の通り。
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追討が無事に完了したのは喜ばしい。また頼朝の怒りを受け解官されていた者に赦免の沙汰があった。
8月1日に前大蔵卿の 高階泰経 と前木工頭 藤原範季 (wiki) に出仕を許す旨の下命があり、9月1日には前大納言 藤原朝方 (Wiki) の復職を認め、出雲守朝経の昇殿を許している。
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   ※按察使: 陸奥国と出羽国だけを任地として巡察する官職で、大納言と中納言に限って兼職する。
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西暦1189年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治五年
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11月 5日 辛酉
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吾妻鏡
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朝廷から届いた書状に返状を出すため、その内容の検討を行なった。
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西暦1189年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治五年
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11月 6日 壬戌
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吾妻鏡
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一條能保から来た飛脚が師中納言 吉田経房への返状を携えて京に向かった。頼朝の恩賞についてはこれを辞退し、勲功を挙げた御家人については追って報告する旨を記載してある。
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西暦1189年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治五年
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11月 7日 癸亥
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吾妻鏡
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因幡前司 大江広元が正式な使節として上洛する。以前から検討していた上での決定で、奥州征伐の後に処理すべき事柄の数々を申し述べる予定である。
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まず、頼朝への恩賞は固くこれを辞退する。御家人の恩賞も辞退するから説明の必要はないのだが、武士の本分は戦場での一番乗りにある。その名を上奏すれば栄誉ではあるけれども、朝廷の記録に姓名が載らなかった者の子孫は「先祖が功績を挙げなかった」と考えて嘆くだろう。
従って名簿の提出は辞退する旨を吉田経房卿と一條能保に面会した際に伝えよ、と命じた。
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   ※御家人の恩賞: 朝廷の恩賞は官位だろう。御家人が官位を得るメリットとデメリットを考えての辞退
である。陸奥と出羽の両国を手に入れた事実は、官位と比較できないほど大きい。
朝廷の権威を高めるだけの官位に何の意味があろうか...そう考えたのだろうね。
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この頃の頼朝はまぁまぁ冴えていたのだが...建久二年 (1191) 頃に大姫の入内を考えた頃から 明らかに判断が曇り始める。
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西暦1189年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治五年
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11月 8日 甲子
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吾妻鏡
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大江広元が使節として京に向かった。多勢に見送られ餞別と献上の龍蹄100余疋を伴い、更に頼朝は公卿らに贈る準備として鞍を置いた馬10疋を与えた。
また 後白河法皇には駿河国富士郡の貢物である綿千両を献上する。
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葛西三郎清重は総奉行として奥州に留まり国務を行う任務を与えられているため頼朝の鎌倉還御には同行せず今日幾つかの命令を伝えさせた。まず今年は不作になる心配があり、鎌倉の軍勢が数日間も滞在して落ち着ける状態ではなかった。平泉の周辺には特に配慮して農民の窮状を救うようにせよ。
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岩井郡と伊澤郡と柄差郡は出羽仙北郡から、和賀郡と稗貫郡は秋田郡から種籾などを手配せよ。早い方が良いのだが未だ雪が深いから、明春の三月中には届けさせるよう、前もって農民に告知させよ、と。
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次に、故 佐竹義政の息子を称して泰衡に与していた者がいて、合戦に敗れてから行方不明になっている。
各地の宿場に手配して捕縛せよ、と。また泰衡の幼い息子の居場所が確認できていない。名が若公と同じ万寿 (頼家の幼名) なので、これは改名させよ。
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次に大田冠者師衡が乗馬 (鴾毛) を失なってしまったと頻りに嘆いている。捜し出すよう清重に命じておいたら、既に見付けたとの連絡が鎌倉に届いていた。この対応は見事である。
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次に所領に市を設けたとの件は優れた着想である。国中が鎮まり落ち着いた状態になっている噂も聞こえている。老母の病気については気に懸ける必要はない。帰国しようなどと考えず国務に専念せよ、と。
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   ※龍蹄: 大型の馬。文治三年 (1187) 3月25日を参照。
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   ※佐竹氏: 新羅三郎義光を祖とする常陸源氏の嫡流 佐竹氏の当主
佐竹隆義の庶長子。
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隆義が平家の郎党として在京していたため嫡男 秀義は頼朝の帰順勧告に従わず金砂城で抗戦、義政は縁戚関係にある 上総広常に誘い出され、治承四年 (1180) 11月4日に謀殺された (吾妻鏡の記事を参照) 。
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秀義は落城後に逐電し、今年の7月26日に宇都宮で帰順して奥州遠征軍に加わっている。佐竹氏の本領は陸奥国に接する奥七郡、奥州藤原氏と交流があり同族の一部が泰衡に与しても不思議はない。
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佐竹氏没落後の常陸国支配権は 八田知家から小田氏に続いた一族が維持したが、鎌倉時代後期には北條氏に接近した佐竹貞義が逆転勝利、更に南北朝時代になると北朝側に転じた貞義によって八田氏系統は概ね駆逐されてしまう。
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   ※奥七郡: 那珂東郡と西郡=常陸大宮市、那珂市、ひたちなか市、東海村、
多賀郡=北茨城市、高萩市、日立市、
久慈東郡と西郡=大子町、常陸太田市、
佐都東郡と西郡=常陸太田市南部と日立市南部、
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右画像(クリック→拡大)の茨城県行政区分地図を参照されたし。
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   ※大田冠者師衡: 9月15日に降伏して出頭した樋爪俊衡入道の子息の一人。10月19日に宇都宮社の職掌
(雑務担当の下級官吏) に任命している。馬を失くしたのを嘆く立場でもなかろうに。
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西暦1189年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治五年
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11月17日 癸酉
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吾妻鏡
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頼朝は鷹狩りの猟場を見るために大庭の付近に出掛け、散策を楽しみつつ渋谷庄に至った。薄暗くなった夕刻に馬前を一匹の狐が走ったため数十人の郎党が馬で囲い込んだ。頼朝が鏑矢を構えたとき 千葉 (大須賀) 四郎胤信の郎従で弓の名手である篠山丹三が頼朝の右側に進み、頼朝と同時に矢を放った。
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頼朝の矢は外れたが丹三の矢は狐の腰に命中し頼朝は声を挙げた。丹三はすぐ下馬し頼朝の矢と交換して狐に刺して献上、頼朝は姓名を胤信に尋ねてから渋谷庄司邸に入った。 渋谷重国は豪華な宴を用意していた。
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   ※大庭の辺: 御厨の中心部は 大庭城址公園として保存されている。市街地に近く便利で静かな場所。
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   ※渋谷庄: 渋谷氏の本拠は綾瀬市の目久尻川一帯で 重国の本領の範囲内 (地図) 、だが鎌倉時代の初期
とは異なる可能性もあるため再確認が必要か。鎌倉の大倉御所から大庭城址まで 約15km、大庭と渋谷の距離は約10kmだから特に違和感はないけれど。
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   ※声を挙げた: これは「やったぞ!」という意味か「くそっ」の声と解釈すべきか。
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西暦1189年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治五年
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11月18日 甲戌
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吾妻鏡
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頼朝は渋谷重国の引き出物 (献上品) を受けて鎌倉に還御し夕刻に御所に入った。御馬一疋、鷲の羽、桑の脇息一脚などが引き出物である。その後に千葉四郎胤信に命じて篠山丹三を呼び今後も胤信に忠勤を励むよう申し付けた。これは昨日の件に心を打たれたためである。
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西暦1189年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治五年
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11月23日 己卯
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吾妻鏡
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一日中強風が吹き荒れ、夜になって大倉観音堂が失火により焼失した。別当の浄台房は煙と炎を見て泣き叫び堂の軒下まで近寄って嘆き悲しんだ後に本尊を救い出すため炎に飛び込んだ。
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薬王菩薩は仏を供養するために我が身を焼き、この浄台聖人は仏像を救うために身を捨てた。火事を見ていた人々は間違いなく焼け死んだと思ったが僧衣が僅かに焦げただけで無事に仏像を運び出した。信仰心は炎にも焼かれないという事か。
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   ※大倉観音堂: 二階堂の 大蔵山杉本寺(公式サイト)。鎌倉で最古の仏教寺院であり、寺伝に拠れば
「観音像が自ら避難した」と主張している (笑) 。心頭滅却しても熱いものは熱いのに。
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裏山は和田義盛の父 椙本 (杉本) 義宗の居館跡で、「平家物語 小坪合戦の段」では石橋山の手前から撤退した三浦義澄勢が 畠山重忠勢と合戦になった経緯を描いている。
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義盛の下人が椙本館に立ち寄っていた義盛の弟義茂の元に駆け付けて「合戦だ!」と告げたものだから義茂が重忠勢に飛び込んで殺し合い...となったらしい。吾妻鏡には治承四年 (1180) 8月24日に記載してある。詳細は 小坪の合戦で。
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境内には南北朝時代に北畠顕家と戦って死んだ 足利尊氏の武将 斯波家長主従数百人の墓石がある。開山は行基上人、苔むした石段 (今は通行禁止の筈) も落ち着いた美しさで広く知られている。
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西暦1189年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治五年
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11月24日 庚辰
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吾妻鏡
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北條時政が伊豆国に下向した。奥州征伐が成功した後に伽藍 (完成後の 願成就院) を建立するとの立願をしており、既に工事に取り掛かっている。この差配をするための下向である。
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   ※建立の立願: 6月6日に立願の記載。運慶作 (異説あり) の本尊阿弥陀三尊像と不動明王像と多聞天像は
6月には既に完成している。つまり実際の建立計画は奥州討伐計画の数年前にスタートしていた。頼朝の意思と書いた記事もあるが、北條時政による氏寺の建立計画だった。
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西暦1189年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治五年
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12月 1日 丙戌
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吾妻鏡
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頼朝の若公 (万寿、後の 頼家) が鶴岡八幡宮に騎馬で参拝、宮寺に神馬二疋を奉納した。三浦十郎 (佐原義連) と 和田三郎義盛の三男 (朝比奈) 義秀)がこれを曳いた。
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   ※若公万寿: 寿永元年 (1182) 8月12日の誕生だから、満で数えると 6歳と9ヶ月弱。
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西暦1189年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治五年
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12月 6日 辛卯
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吾妻鏡
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藤原泰衡征伐の勲功を賞したいとの院宣が中納言 吉田経房を経て届いたが、再び (書状で) 辞退した。ただし、頼朝は陸奥国と出羽国の支配権については明春までに決めるよう申し入れており、同時に降伏した者を配流する官符 (太政官布告) の発行を求める件も同じ書状に載せている。これを伝えるため今日飛脚を派遣した。内容は下記の通り。
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相模国は 高衡、師衡、経衡、隆衡 を拘留している。配流地は以下に。
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相模国には高衡 (秀衡の四男)、師衡 (樋爪俊衡の長男)、経衡 (樋爪季衡の子)、隆実 (基成の子?)
伊豆国には景衡 (不詳) 駿河国には兼衡 (樋爪俊衡の次男)
下野国には季衡 (樋爪俊衡の次弟)
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   ※陸奥と出羽: 当時の陸奥国は現在の福島県、宮城県、岩手県、青森県、秋田県の鹿角郡、
出羽国は鹿角郡を除く秋田県と 山形県。概ね現在の東北地方を東西に区分していた。
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西暦1189年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治五年
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12月 9日 甲午
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吾妻鏡
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御所に 15間 (柱間が 15スパンの意味) の厩を建ち上げた。奥州から連れてきた馬の中でも特に優れた 30疋を選び、その馬のために設置した厩である。梶原景時が管理の別当に任じると申し出た。
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今日、永福寺が着工。平泉で泰衡が管理する寺を見て建立を思い立ったのは (長く続いた合戦で失われた) 霊魂数万の菩提を弔い、三界に迷っている者の苦悩を救うためである。
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堂宇が建ち並ぶ関山中尊寺に大長寿院と呼ぶ二階大堂があった。これを模して建立するため通称は二階堂、雲に届くほど青空高く聳え金銀と珠玉と絵画で飾り立てる目的は衆生の救済である。
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また 伊豆国願成就院の北畔に頼朝の宿館を建てるため土を掘った際に、願成就院と書いた古い扁額が出土した。星の動きは測り知れないが眼前の美しさは消え去らない。この寺は泰衡征伐の成就を祈るため時政が草創した。反逆の輩は白刃によって早々に倒れ、陸奥と出羽に平和が実現したのも丹念な祈りの結果である。
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寺の名も心に願っていた通り一字の違いもなく出現した、早急に美しく補修して寺の扁額に用いると定めた。これは大きな瑞兆であり、寺が末永く興隆し武家が繁栄を続けるのはこの額の字の通りだろう。
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   右はCGの永福寺復元図。クリック→ 発掘調査サイト (別窓) へ
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頼朝の宗教心は、奥州藤原氏初代 清衡が関山中尊寺を建立した際に献納した「中尊寺供養願文」に感動したためで内容は完全に清衡のパクリである。頼朝は「平泉の中尊寺」に感動しただけ、清衡の心には全く触れていない。
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清衡が建立した関山中尊寺で供養願文を参照されたし。
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   ※三界: 生き物が生死流転する三つの世界。下から書くと、
性欲と食欲と睡眠欲を持つ生き物が住む 「欲界」 、欲界を離れた生き物が住む清浄な「色界」、全ての物質を超越した精神の領域「無色界」の三界があり、「欲界」には地獄、餓鬼、畜生、修羅、人、天 (欲界の神々) の六種の領域がある。私はどうせ「欲界」だけど、餓鬼と畜生の世界は嫌だな (笑) 。仏教の坊主って、こんな馬鹿な話を本気で信じているのかね。
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   ※頼朝の宿館: 現在の光照寺が宿館の跡と伝わる。信光寺と光照寺を参照、見るべき物は皆無だけど。
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   ※願成就院と書いた古い扁額が出土: いくら鎌倉時代でもこんなヨタ話が通用するのかねぇ。
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西暦1189年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治五年
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12月16日 辛丑
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吾妻鏡
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亥刻 (20時前後) に月蝕があった。
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西暦1189年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治五年
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12月18日 癸卯
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吾妻鏡
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御台所政子鶴岡八幡宮に参詣、これは奥州征伐に向けて無事を祈った頼朝が立願した、その願成就に謝するためである。些末な支障のため延期し今日に至った。北條五郎時房が供奉し、宮寺で神楽の奉納があった。
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   ※些末な支障: 義経死没の影響とも考えられるが死穢としても 170日は長過ぎる。別の理由か。
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西暦1189年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治五年
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12月23日 戊申
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吾妻鏡
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奥州の飛脚が昨夜到着して報告。義経木曽義仲の息子および 秀衡入道の息子と名乗る者らがおり、力を併せて鎌倉を攻めようとしているとの噂がある。対応して軍勢を北陸道に派遣するべきかとの沙汰があった。
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雪の季節ではあるが準備せよとの命令書を小諸太郎光兼佐々木三郎盛綱以下、越後と信濃などの御家人に送った。これは藤原俊兼の差配である。
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   ※小諸光兼: 文治二年 (1186) 1月3日の八幡宮参拝随兵の中に名前がある、滋野氏傍流の武士。
島崎藤村 (Wiki) と 懐古園で有名な小諸城は木曽義仲の武将で養和元年 (1181) 6月の 横田河原の合戦にも加わった記録のある小室義兼が館を構えたのが最初と伝わっている。
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光兼は翌年1月22日にも「老齢で持病がある」との記載があり、同じ太郎なので同一人物と推定できる。北陸道に近い御家人として選ばれたか。
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西暦1189年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治五年
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12月24日 己酉
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吾妻鏡
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工藤小次郎行光、由利中八維平、宮六兼仗国平らが奥州に向け出陣した。陸奥と出羽はまだ落ち着かず、戦乱の恐れもあるとの報告があり、合戦に備えて準備を整えるのが目的である。
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   ※戦乱の恐れ: 不穏な動きは間もなく現実となる。奥州藤原氏の遺臣、大河兼任の乱である。
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西暦1189年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治五年
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12月25日 庚戌
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吾妻鏡
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伊豆国と相模国の国司を決める件、早急に推薦せよとの申し入れがあった。頼朝は既に了解の返事を送っており、それに加えて近々上洛するとの意向も伝えてある。奥州征伐が終った今となっては院に見参する以外に気に掛けている事はない、来年には上洛する予定である、と。
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   ※伊豆と相模: 文治元年 (1185) 8月の徐目で 山名義範が伊豆守、大内惟義が相模守に任じている。
従って「早急に推薦せよ」は理解できない。見落としはない筈だが...
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西暦1189年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治五年
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12月26日 辛亥
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吾妻鏡
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奥州で囚人となった者の配流について、今月の18日に院宣が下された。実務担当は蔵人大輔家実、実務の責任者は検非違使別当の藤原隆房、総括は権右中弁棟範朝臣である。鎌倉から派遣した飛脚が17日辰刻 (8時前後) に入洛し、師中納言 吉田経房が直ちに奏聞した結果、翌日には決裁となった。また、陸奥と出羽の支配権については明春に決裁するとの事。
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西暦1189年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治五年
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12月28日 癸丑
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吾妻鏡
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平泉 無量光院の供僧 (名は助公) が囚人として鎌倉に到着した。藤原泰衡に忠義を尽くすため関東に叛こうとしている噂により捕縛されていた。今日、梶原景時らに命じて尋問し、謝ると共に次のように申し述べた。
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師から弟子へ教えを受け継ぎ、藤原清衡以来四代の帰依を受けて仏法を伝えてきた。
しかしながら去る 9月3日には泰衡が討たれ、曇り空となった十三夜の名月は見られなかった。
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     むかしにも あらすなるよの しるしには こよひの月も くもりぬるかな
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この歌は現状を受け入れないとの意味ではなく、懐旧の思いを吐露しているに過ぎない。そう考えた景時は経緯を頼朝に報告した。頼朝も感動して赦免し、褒美を与えたという。
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西暦1189年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治五年
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 月 日   
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吾妻鏡
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西暦1189年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治五年
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 月 日   
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吾妻鏡
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西暦1189年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治五年
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 月 日   
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吾妻鏡
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