
. . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 |
. 1月 1日 庚辰 . 吾妻鏡 |
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吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ . 晴。相模守 北條時頼の沙汰による椀飯※の儀あり。陸奥守 北條重時および多くの御家人が出仕した。定刻に将軍家 宗尊親王が御所南面に出御し、宰相中将土御門顕方卿が御簾を巻き上げた。 献上の役人、前右馬権頭 北條政村が御剣を、武蔵守 北條朝直が弓箭を、秋田城介 安達義景が御行騰と沓※を献じた。 . 一の御馬は 遠江六郎北條教時 と 同、七郎時基 二の御馬は 遠江次郎左衛門尉佐原 (蘆名) 光盛 と 同、十郎頼連 三の御馬は 薩摩七郎左衛門尉伊東祐能 と 十郎伊東祐広 四の御馬は 左衛門尉大曽祢太郎長泰 と 同、左衛門尉大曽祢次郎盛経 五の御馬は 北條六郎時定 と 左衛門尉工藤次郎頼光 . . ※椀飯 (おうばん) :饗応のための献立、食事を摂る儀式や行事。大判振る舞い、の語源。 . ※行騰 (むかばき) と沓: 乗馬の際に着ける袴カバーと靴。 画像 (Wiki) を参考に。 . ※年令: 六代鎌倉将軍 宗尊親王 (第88代後嵯峨天皇の第一皇子) は前年4月に着任、10歳、 四代将軍 藤原頼経は寛元二年 (1247) に京に追放、建長八年 (1256) 8月病没 (享年38) 、 .五代将軍 藤原頼嗣は解任され前年3月に京に送還、建長八年 (1256) 9月病没 (享年17) 、 . 五代執権 北條時頼 26歳、 連署は六波羅北方から転じた北條 (極楽寺) 重時 55歳、 後任の六波羅北方は重時の嫡子で後に六代執権になる 北條 (赤橋) 長時 23歳、 後の七代執権 北條政村 48歳、評定衆として長時を補佐する 北條 (金沢) 実時 28歳、 八代執権になる北條時宗は今年の6月で満3歳。 . 安達義景 6月に死没 享年43、 安達泰盛 22歳、 千葉頼胤 13歳、 足利泰氏 37歳、 小山長村 37歳、 結城朝光 83歳、 結城朝広 62歳、 宇都宮泰綱 51歳、 . 浄土真宗 親鸞は80歳、 天台宗寺門派 (園城寺) の隆弁は44歳、 真言律宗 叡尊 52歳、 真言律宗 忍性は36歳、 法華宗 日蓮は31歳、 . 89代 後深草天皇は11歳、 先帝の 後嵯峨上皇は32歳、摂政太政大臣 鷹司兼平は26歳、 太政大臣 西園寺実氏は59歳、関東申次は西園寺家の世襲となる。 関白の 二条良実 (37歳) は宮騒動 (Wiki) の余波で辞任となったが、弘長元年 (1261) には関白に復帰する。以後の朝廷は 五摂家 (近衛家、一条家、九条家、鷹司家、二条家) による合議分担体制となる。 (表示は全て満年齢に換算) . ※ 宝治合戦 (1247年) で三浦一族が滅亡した後に執権 時頼 は極楽寺流の祖 北條重時を六波羅の 復北方から呼び戻して連署に任命した。 .北方の後任は (赤橋) 長時。重時は建長八年 (1256) に出家して政界を退き、時頼の後継は六代 (赤橋) 長時と七代 政村を経て八代 時宗 (建長三年、1251年誕生) に続く。 . 強権を握った時頼は弘長三年 (1263) 11月に36歳で死没、5年後の文永五年 (1268) 3月に次期執権に就かせる時宗の道筋を見届ける如き最期を迎える。それにしても、三代泰時 (58歳で病死) 以後の義時直系 (北條嫡流) 執権の寿命は驚くほど短い。 . 四代経時 23歳、五代時頼 36歳、八代時宗 33歳、九代貞時 40歳、十代師時 35歳。本当に激務の故か、繰り返した血族結婚の弊害か、怨みを抱きつつ滅ぼされた人々の祟りだろうか。 . 嫡流以外の執権および鎌倉陥落と運命を共にした高時と貞顕と守時の没年は次の通り。 六代長時 34歳、七代政村 68歳、十一代守宣 52歳、十二代煕時 36歳、十三代基時 46歳、十四代高時 29歳、十五代貞顕 56歳、十六代 守時 37歳 、 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
. . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 |
. 1月 2日 辛巳 . 吾妻鏡 |
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晴。左馬頭入道 足利義氏の沙汰による椀飯の儀あり。宰相中将土御門顕方卿が御簾を巻き上げた。献上の役人、武蔵守 北條朝直が御剣を、陸奥掃部助 北條実時が弓箭を、和泉前司 二階堂行方が御行騰と沓を献じた。 . 一の御馬は 上野三郎畠山国氏 と 刑部次郎左衛門尉国俊 二の御馬は 筑前次郎左衛門尉行頼 と 伊勢次郎行経 三の御馬は 新左衛門尉平盛時 と 同、四郎兵衛尉 四の御馬は 足利太郎家氏 と 同、次郎兼氏 五の御馬は 三村新左衛門尉時親※ と 同、三郎兵衛の尉親泰 . 明日は相模守 北條時頼邸に御行始め (将軍の外出初め) があり、今夕その供奉人として元日の儀式に着庭した者を選んだ。 小侍所司 (別当の下、次官) の平岡左衛門尉実俊が朝夕 (常勤) の雑色に名簿を回覧させた。 . . ※平盛時: 泰時の代から北條氏に仕えた得宗被官で通称は三郎。盛時の系譜では兄弟の存在も 確認できないのだが盛時が三郎だから下の手綱を引いた「同、四郎兵衛尉」は息子の 平頼綱だろう。弘安八年 (1285) の霜月騒動で安達氏五代当主 泰盛を滅ぼすことになる得宗被官である。 .. 頼経の生年も父の盛時同様不明確で、仁治元年 (1240) 前後とする説を根拠にすればこの時12歳前後、弘長三年 (1263) 8月9日の吾妻鏡に記載がある「平左衛門入道子息一人」も盛時の子息 頼経 (推定24歳前後) と考えて良い、と思う。
※三村時親: 三村氏も同様に系譜が不明確で、小笠原氏の傍
流か、または小笠原氏と縁戚関係にあった小田氏の本領筑波郡三村郷 (この時代の当主は 小田知重) の所領周辺を開墾した開拓領主と考える説がある。 .. さて、師 叡尊 (Wiki) の宿願を継ぎ 真言律宗の布教と非人救済のため東国に下った 忍性が知重の庇護を得て建立したのが三村郷の 清冷院極楽寺 (別窓、既に廃寺)。併せて、忍性師弟の布教と社会事業を援助した側である小田一族の拠点 小田城址 訪問記も参考までに。 . 右上は小田城址 (三村郷) に近い民家の庭に無造作に置かれた石碑、清冷院極楽寺一帯を殺生禁断の地とした忍性の意思を告示する。 クリック→ 別窓で拡大表示 . 刻まれた月日は「建長五癸丑 (1253年) 三村山不殺生界 九月十一日」。礎石を除き高さは約130cm、廃寺となった室町時代前後に参道から移されたらしい。 . 更に詳細は つくば市文化財紹介サイト (pdf ファイル) で。 弘長元年 (1261) 、忍性は 北條重時の招聘を受け鎌倉に入って幕府中枢 (重時、時頼、実時)の帰依を受け、後に極楽寺の開山を務めて律宗と念仏宗の指導者となり法華宗の 日蓮と競いつつ鎌倉の仏教界と非人や病人の救済に大きな実績を残していく。 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
. . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 |
. 1月 3日 壬午 . 吾妻鏡 百錬抄 |
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細雨。陸奥守 北條重時の沙汰による椀飯の儀あり。宰相中将土御門顕方卿が御簾を巻き上げた。 前右馬権頭 北條政村が御剣、尾張守 北條時章が弓箭、下野前司 宇都宮泰綱が御行騰と沓を献じた。 . 一の御馬は 遠江六郎北條教時 と 同、七郎時基 二の御馬は 武蔵四郎北條時仲 と 同、五郎時忠 三の御馬は 遠江太郎北條清時 と 同、次郎時通 四の御馬は 城九郎安達泰盛 と 同、四郎時盛 五の御馬は 陸奥弥四郎北條時茂 と 同、七郎業時 . 椀飯の後に将軍家 宗尊親王の御行始め (外出初め) があり 御車、御烏帽子、直衣で南門より出御。 . 供奉人 (布衣) 御剣役は前右馬権頭 北條政村 . 尾張前司北條時章 武蔵守北條時直 相模式部大夫北條時弘 .陸奥掃部助北條実時 越後右馬助北條時親 足利太郎家氏 佐渡前司後藤基綱 出羽前司二階堂行義 秋田城介安達義景 前大蔵権少輔結城朝広 前太宰小弐狩野為佐 伊豆前司若槻頼定 大蔵少輔加藤(遠山)景朝 和泉前司二階堂行方 大隅前司嶋津忠時 参河前司新田(世良田)頼氏 安芸前司親光 日向右馬助親家 薩摩前司伊東祐長 伊賀前司時家 伊勢前司二階堂行綱 壱岐守後藤基政 三浦介三浦(佐原)盛時 弥次郎左衛門尉親盛 右衛門尉梶原景俊 左衛門尉大曽弥長泰 豊後四郎左衛門尉島津忠綱 昨日の散状 (回覧) には入っていなかったが、今朝追加した者。 .
左衛門尉武藤景頼 壱岐三郎左衛門尉二階堂行氏 和泉五郎左衛門尉天野政泰 .左衛門尉小野寺四郎通時 左衛門尉大須賀胤氏 阿曽沼小次郎光綱 筑前次郎左衛門尉二階堂行頼 常陸次郎兵衛尉二階堂行雄 孫四郎左衛門尉佐々木泰信 左衛門尉加藤景経 左衛門尉三善五郎康家 左衛門尉狩野五郎為廣 式部兵衛伊賀太郎光政 左衛門尉長谷部次郎義連 伯耆左衛門葛西三郎清経 鎌田兵衛三郎義長 小町大路を経て相州時頼邸の南門に入御。奥州重時 (布衣、下括り) らが予め庭上に控え、宰相中将土御門顕方卿が御車を寄せた。寝殿妻戸の部屋には果物、菓子 (八種、十二種) 、酒の瓶子、鯉 (爼板に置き、刀と箸を副える) を置いた。また色染めの革と鷹の羽などを積み上げてある。 . 盃酒数巡の後に御遊びがあり、次いで寝殿東向きの座に出御、御簾を上げられ (役人は前と同じ土御門顕方卿) 三献。両国司(重時と時頼)および前の右典厩北條政村らが陪膳 (給仕) 役、次いで御引出物を献上。 . 献上の役人 御剣は足利太郎家氏 砂金は相模八郎北條時隆 鷹羽は伊勢前司 二階堂行綱 一の御馬は 陸奥四郎北條時茂 と 同、七郎業時 二の御馬は 尾張次郎北條(名越)公時 と 左衛門尉諏方三郎盛経 三の御馬は 城九郎安達泰盛 と 同、四郎時盛 . 次に相公羽林 (土御門顕方卿)が御簾を降ろした。 御剣は役人 (足利家氏) に預け御車を寄せて還御、帰路では松明を灯した。 . . ※百錬抄: 主上 後深草天皇 が御元服 (御年11歳) 。加冠役は摂政太政大臣の 鷹司兼平、御理鬢 は左大臣 は二条道良、理髪 (前髪) は内蔵頭資平朝臣。 . | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
. . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 |
. 1月 8日 丁亥 . 吾妻鏡 |
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. . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 |
. 1月 9日 戊子 . 吾妻鏡 |
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吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ . 前浜※に御弓初めの射手を務める候補を選考するため招集を掛けたが支障を申し出る者が多かった。 . 武田五郎七郎政平は弓場には来たが灸による治療中、二宮弥次郎時光は難病に罹っている、桑原平内盛時も弓場には来たが病後何日も過ぎていない、右近三郎も同様、薩摩十郎工藤祐広は病気、佐々宇左衛門三郎光国と横溝七郎五郎忠光と平井八郎清頼は各々は所領に駐在しており今朝には戻るとの報告があった。 . そんな経緯で残った人数で試射を行ない、一射づつを五度繰り返した。早河次郎太郎、山城次郎左衛門尉、佐々宇左衛門五郎、海野矢四郎、佐貫弥四郎、眞板五郎次郎、佐貫七郎、周枳兵衛四郎、多賀谷弥五郎が弓射を終え、散状 (回覧) の奥書に書き加えた。 . 右は明後十一日の御弓場始めの射手として卯刻 (朝6時) 前に参集する事。 将軍家の仰せに依って回覧する。 建長五年正月九日 . .
※前浜: 若宮大路の東側 (逗子方面) の海岸を西浜、西側 (江の島方
面) を前浜と呼ぶ習慣だった。現在の材木座1-13 (地図、海抜7m) 付近に「上河原」の古い地名が残っている。
.. ここから若宮大路を越えた鎌倉保健所 (海抜12m) を結ぶラインが当時の (満潮時の) 海岸線と考えるのが一般的らしいが、それならばそのラインより約150m南の簡易裁判所 (海抜9m) 建設の際に出土した千体を超える人骨の説明ができない。満潮に冠水する場所を集団埋葬地に使うなんて有り得ないだろう。 . 滑川河口付近の地形はかなり複雑で、西側がやや高く東側が低地になっている。西側の低地は下馬橋の近くまで伸びており、鎌倉時代には東側から荷を積んだ小舟が漕ぎ寄せられる入り江になっていた、と考える説もある。 . 右に、数ヶ所の標高を書き入れた地図を載せておいた (クリック→ 別窓で拡大表示) 。 取り敢えず点と線で地形を想像し、継続して使えそうな資料を探そうと思う。 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
. . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 |
. 1月11日 庚寅 . 吾妻鏡 |
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四寸 (約12cm) ほどの降雪あり。今日評定衆による会議始めがあり、全員が出仕した。 . . ※降雪四寸: 弓初めは14日に順延となった。雪の影響か、射手を揃えられなかったためか。 . | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
. . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 |
. 1月14日 癸巳 . 吾妻鏡 |
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御弓始めがあり、将軍家 宗尊親王が簾中から御観覧。射手10人が二射づつ五度、的を射た。 . 一番 平井八郎清頼 vs 早河次郎太郎祐泰 二番 佐貫弥四郎広信 vs 眞板五郎次郎経朝 三番 佐々宇左衛門五郎 vs 海野矢四郎助氏 四番 佐貫七郎広胤 vs 須枳兵衛四郎頼泰 五番 多賀谷弥五郎重茂 vs 山城三郎左衛門尉 . | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
. . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 |
. 1月16日 乙未 . 吾妻鏡 |
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来る21日の将軍家 宗尊親王の鶴岡八幡宮参宮に伴う供奉人を選出した。 太宰小弐 狩野為佐と筑前前司 二階堂行泰が支障を申し出たため、再度選び直した。 . 御禊ぎの奉行は (空欄) 、陪膳は (空欄) 、能登右近大夫北條仲時が役送(膳部の取り次ぎ)に任じた。 (将軍家は)西門から若宮大路に出御。 . 行列 . 御車 遠江十郎三浦 (佐原) 頼連 式部兵衛太郎伊賀光政 右衛門尉梶原太郎景綱 新左衛門尉小野寺行通 海上弥次郎胤景 左衛門尉大須賀次郎胤氏 伊賀四郎景家 武藤七郎兼頼 土屋新三郎光時 大泉九郎長氏 左衛門尉内藤肥後三郎 . 御劔役人 (布衣) 武蔵守北條朝直 左衛門尉武藤景頼 . 御後 (布衣) 尾張前司北條時章 遠江前司北條時直 相模左近大夫将監北條時定 相模式部大夫北條時弘 越後右馬助北條時親 北條六郎時定 遠江六郎北條教時 陸奥弥四郎北條時茂 尾張次郎北條(名越)公時 越後五郎北條時家 武蔵太郎北條朝房 遠江太郎北條清時 足利太郎家氏 伊豆前司若槻頼定 出羽前司小山長村 佐渡前司後藤基綱 秋田城介安達義景 下野前司宇都宮泰綱 和泉前司二階堂行方 参河前司新田(世良田)頼氏 前大蔵権少輔結城朝広 壱岐守後藤基政 能登右近大夫仲時 安芸前司親光 壱岐前司佐々木泰綱 日向右馬助親家 大隅前司嶋津忠時 伊勢前司二階堂行綱 備後前司町野(三善)康持 伊賀前司小田時家 薩摩前司伊東祐長 城九郎安達泰盛 三浦介(佐原)盛時 遠江次郎左衛門尉佐原光盛 右衛門尉梶原景俊 出羽次郎左衛門尉二階堂行有 上野五郎兵衛尉結城重光 豊後四郎左衛門尉島津忠綱 左衛門尉伊賀次郎光房 左衛門尉大曽弥長泰 隠岐三郎左衛門尉行氏 左衛門尉大須賀胤氏 筑前次郎左衛尉二階堂行頼 和泉五郎左衛門尉天野政泰 同、六郎左衛門尉天野景村 伊豆太郎左衛門尉実保 左衛門尉小野寺時通 伯耆四郎左衛門尉葛西光清 弥次郎左衛門尉親盛 出羽籐次郎左衛門尉頼平 左衛門尉足立太郎直元 左衛門尉押垂基清 右衛門尉三善康長 紀伊次郎左衛門尉為経 薩摩七郎左衛門尉祐能 左衛門尉渋谷武重 左衛門尉加地七郎氏綱 常陸次郎兵衛尉行雄 伯耆左衛門三郎清経 . 以上供奉人について将軍家 宗尊親王の了解を得て告知し、壱岐前司佐々木泰綱と左衛門尉足立直元は参上したが小侍別当職の掃部助 北條実時はこれを知らず、供奉の途中で「別の指示を受けたのか」と尋ねたが明快な返答は得られなかった。
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. . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 |
. 1月26日 乙巳 . 吾妻鏡 |
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晴。宗尊親王が二所詣に備えて精進潔斎を始めた。
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. . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 |
. 1月28日 丁未 . 吾妻鏡 |
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晴。戌刻 (8時前後) に相模守 北條時頼の室家が男子を平産した。加持祈祷は若宮別当僧正 隆弁、験者 (修験道の行者) は清尊僧都。僧正隆弁は出産に間に合い、清尊と医師と陰陽師はいずれも出産後となったが各々に褒賞として御剣、衣、御馬が与えられ、陸奥守 北條重時からも別に褒賞があった。 使者は左衛門尉藤原次郎泰経。また、これによって二所詣の御精進が延期となった。 . . ※出産の: 臣下の妻の出産蝕穢で将軍の公務が延期となるのは理解しがたいが...。 . ※男子平産: 時頼の三男、幼名福寿丸 (後の宗政) を差す。八代執権に任じる 時宗には唯一の同 母弟で腹心として信頼を置いた傑物だったと伝わる。 .宗政は弘安の役終結直後の1281年8月に28歳で病没、強権独裁を目指していた時宗は信頼の置ける唯一の同志を失なう事になる。 「信頼できる唯一の同志が実弟の他にいなかった 」 のであれば、時宗の方にも問題があった 、と思うのだが。 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
. . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 |
. 2月 3日 辛亥 . 吾妻鏡 |
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吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
. 晴。子刻 (深夜0時前後) に強風と豪雨、雷鳴が三度ほどあった。 今日、相模守 北條時頼の (新たに産まれた) 若公の幼名を若宮僧正 隆弁が福寿※と名付けた。 . .
※福寿: 隆弁は自らの法名)である聖福寺殿から 時頼の二男
で嫡子もある 時宗の幼名を聖寿 (正寿とも) 、今回産まれた三男 (後の宗政) を福寿と名付けた。 .. 庶長子 時輔の幼名は宝寿、吾妻鏡 建長六年 (1254) 4月18日には以下の記載がある。 . 聖福寺鎮守の神殿12社 (神験、武内、平野、稲荷、住吉、鹿嶋、諏訪、伊豆、箱根、三嶋、富士、夷社) を上棟。これら全ては関東の繁栄に加えて息子二人の息災延命を祈るため、兄弟の名を寺号に充てている。 .相模国大庭御厨に含まれる土地を選び、若宮別当僧正 隆弁が大勧進を務めた。 「聖福寺ヶ谷」は極楽寺のある谷 (古名を地獄谷※) から尾根を隔てた西側 (地図) 、当時の行政区分も極楽寺ではなく「稲村ヶ崎」に含まれる。極楽寺の北側から徒歩で抜ける道が通じている。 . 右上は聖福寺跡の碑が残る正福寺公園の東端 (クリック→ 別窓で拡大表示) 。 廃寺跡の碑を確認するためだけに稲村ヶ崎駅から標高差40mの坂道を約1kmも 歩くのは余り楽しくない。 . 北條重時が 忍性による極楽寺建立を認めたのは更に五年後の正元元年 (1259) で、それまでの地獄谷は死者の亡骸を遺棄した、半ば風葬の地だったとも伝わっている。 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
. . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 |
. 2月25日 癸酉 . 吾妻鏡 |
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晴。午刻 (正午前後) に大地震あり、地の神が動いたか。 .. 先日、評定 (評定衆による会合) の際に例外的な事件に関し法家 (明法家、代々法学の家系) から質問があった。子供が争論をした際に12、3歳 (満年令なら1~2歳若い) の子供が片方の味方をして保恵打ち (大包丁のような刃物との但し書きあり) の刃傷に及んだ。この罪科をどう考えるべきか。 . この加害者を罪科に問うのならば、論争の当事者も罪に問うのかどうかを条文化するべきで、関東はこれを定めていないため (律令の) 式目を基本として対応するべきだろうか、と。 . 今日、この件が協議に取り上げられた。(律令の) 前例では16歳以下は賠 (銅銭などの賠償) によって処理し身柄の拘束などは行わない。また原因となった子供も傷害の程度を参考にして同様の賠銅 (賠償金) を課すのが当然の措置である、と。 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
. . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 |
. 2月30日 戊寅 . 吾妻鏡 |
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. . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 |
. 3月 1日 己卯 . 吾妻鏡 |
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吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ . 晴。御所の鞠の御壺 (蹴鞠を楽しむ小庭) で童舞 (稚児舞) を観覧された。これは明日の鶴岡八幡宮法会※の調樂 (予行演習) である。 . . ※明日の法会: 上巳節句 (3月3日) は八幡宮の神事で舞楽の奉納が通例。明日→明後日だろう。 . | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
. . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 |
. 3月 4日 壬午 . 吾妻鏡 |
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. . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 |
. 3月 8日 丙戌 . 吾妻鏡 |
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晴。二所詣の奉幣使 (代参) に任じた右近大夫将監 北條時定朝臣が出発。
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. 3月14日 壬辰 . 吾妻鏡 |
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晴。二所詣での先達および奉幣使らが鎌倉に帰着した。 . | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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. 3月18日 丙申 . 吾妻鏡 |
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. . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 |
. 3月21日 己亥 . 吾妻鏡 |
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. 4月 3日 庚戌 . 吾妻鏡 |
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吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ . 晴。申刻 (16時前後) に雷鳴と降雨、地震あり。 . | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
. . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 |
. 4月17日 甲子 . 百錬抄 |
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内大臣の 西園寺公相 卿が左大将に転任した。 . | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
. . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 |
. 4月20日 丁卯 . 吾妻鏡 |
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. . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 |
. 4月25日 壬申 . 吾妻鏡 |
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西国の守護および地頭に任じた御家人が命令に従わない場合は報告して厳しく対処せよと六波羅に指示した。 . | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
. . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 |
. 4月26日 癸酉 . 吾妻鏡 |
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晴。相模守 北條時頼が息子二人のため彫らせた七仏薬師像※の開眼供養があった。導師は若宮の僧正 隆弁。また信濃国善光寺も修造の完成供養を行なった。こちらの導師は善光寺学頭 (筆頭講師) の大夫堅者維真、檀那 (寺院や僧尼の経済的庇護者) は陸奥守 北條重時、観養坊が勧進役 (布施、寄付を集める専従者) に任じた。 . . ※七仏薬師像: 衆生救済のため七体に姿を変える薬師如来像を意味する。この場合は息子二人 のためとあるから、2月3日に記載のある聖福寺の本尊だろう。 .この年の11月25日に落慶供養する建長寺に祀る脇侍仏だった可能性も、僅かにあるかも知れない。 ※参考: 天平十七年 (745) 開創と伝わる千葉県印西市の 医王院 松虫寺の本尊 (左側メニューの 松虫寺の文化財をクリック) が七仏薬師像なので紹介しておく。平安末期の作で造像した仏師は不明、画像と詳細の説明は 教育委員会のサイト で確認されたし。 . | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
. . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 |
. 4月28日 乙亥 . 史 料 |
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※清澄寺々伝: 建長五年 (1253) 、是生房蓮長は朝日に向かって南無妙法蓮華経と唱え名を 日蓮
と改めた (立教開宗) 。この日の正午には清澄寺の持仏堂で初説法を行ない、中院の尊海僧正から恵心流の伝法灌頂を受けた。 .清澄寺 (公式サイト) および Wiki の情報 も参考に。 . 一応 付記して置くと、清澄寺の開創は宝亀二年 (771) とも言われるが、確認できる史料に依拠すれば承和三年 (836) に 慈覚大使が再興した天台宗寺院で、元和四年 (1618) に真言宗に改めている。その後 300年間は「法華山門不入」(法華宗 つまり日蓮宗は立入り禁止) となり、昭和24年 (1949) に清澄寺30世の 玉瀧義秀が「法華山門不入」を解除して宗派を法華宗に改めた。清澄寺はこの時から「日蓮宗の聖跡」になっちゃうんだから面白い。日蓮さんの生存中は 「この寺は日蓮とは無関係ですよ」 と主張してた癖に、ね。 . 昭和24年は創価学会二代会長 戸田城聖の指揮で「本格的な折伏活動」を開始した年だ。醜い布教活動が平然と行われた時代があった事は記憶しておこう。 . この機会に一言、付け加えておく。私は創価学会の悪口を散々書き連ねてきたが、創価学会の根本的な理念を否定しているのではない。 「政治権力と癒着してギブ&テイクの関係を続ける事は宗教のあるべき姿ではない。」 と考えるから、創価学会の方向性を非難し続けてきた。 1950年前後から2025年までの約75年間は醜い布教活動と醜い権力志向の行動を取り続けてきた、その事実を非難している。 . 今、政治権力 (自民党) との連立を解除して本来の理念に戻ろうとしている事は、全面的に支持する。今まで書いてきた悪口雑言を取り消すつもりはないが新しい方向性を非難する意思は少しも持っていない。 . ※日蓮、鎌倉へ: 正嘉元年 (1257) に鎌倉に入った日蓮は10月9日に大地震 (由比ヶ浜の沖 数km を震源とするМ7~7.5の直下型地震) に遭遇、広がる社会不安を背景に辻説法で他宗を攻撃し始める。 .「念仏は無間地獄、禅は大魔、真言は亡国、律は国賊である」と。 . 一方で真言律宗の僧 忍性は 北條時頼、重時、実時らの招聘を受けて弘長元年 (1261) に鎌倉に進出、念仏宗を含めた律宗の中心人物として、布教と共に非人や貧困者の救済および幕府の委託を受けて土木工事と港湾事業の組織をスタートさせる。 . 日蓮には「権力と結託して大衆を惑わす偽善者」に見えたのかも知れない。 「宗教者と政治の結託はダメ」と言いたかったのかな。じゃあ 「公明党なら同じことをしても許される」の? | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
. . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 |
. 5月 2日 己卯 . 吾妻鏡 |
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吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ .. 晴。秋田城介 安達義景は喘息と脚気と食事を受け付けないなどの状態が重なっている。今日は病状がやや落ち着いた中で (病の穢を払う)沐浴を行なった。 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
. . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 |
. 5月 4日 辛巳 . 吾妻鏡 |
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今年の端午は良辰 (吉日) の壬午に当たり、慎みが求められる。故諸陵頭の賀茂時定が撰んだ勘文 (上申書) 一通と三種の護符が仙洞 (院の御所) から内々に送られてきた。これは古代中国皇帝の秘術を説いた内容で、昨夜女官の許に届いた書類を今朝高覧に及んだ。その概略内容は※次の通り。 . . ※ 赤紙を用いて作った護符を躯につければ百年の寿命を得る。刀剣も害を与えられず、立ち向 かう者は必ず滅びる。盗賊、病気、飢饉なども恐れる必要はない...などがダラダラと書いてある。馬鹿らしいので以下は省略する。 . | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
. . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 |
. 5月 5日 壬午 . 吾妻鏡 |
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鶴岡八幡宮で端午節句に伴う神事。越後右馬助 北條時親が奉幣使に任じた。 .今日御所で和歌の御会あり。 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
. . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 |
. 5月13日 庚寅 . 吾妻鏡 |
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. . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 |
. 5月16日 癸巳 . 吾妻鏡 |
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晴。権少僧都最信が勝長寿院の別当職に補任された。 . | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
. . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 |
. 5月21日 戊戌 . 吾妻鏡 |
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晴。炎暑が続いている。祈雨のため霊所御祓い※を催し、申刻 (16時前後) に小雨が見られた。 . . ※霊所御祓い:「七瀬祓い」に同じ。建長四年 (1252) 5月7日を参照されたし。 5月21日は太陽暦の6月29日、田植え後の酷暑と水不足は凶作を招く。 . | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
. . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 |
. 5月23日 庚子 . 吾妻鏡 |
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晴。鶴岡八幡宮の破損箇所修理に伴って仮殿の工事を開始し、上棟を行なった。 .今日、勝長寿院の前任別当で前権僧正良信が死没 (81歳) 。 . 炎旱に対応した祈雨について、阿闍梨道禅、定清、尊家、観源、良基らに祈祷を命じた。 . . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 . 6月 2日 己酉 . 吾妻鏡 . |
吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ . 晴。鶴岡八幡宮仮殿の立柱と上棟を行なった。嘉禄元年 (1225) に修理※してから29年が過ぎている。 . . ※嘉禄の修理: この年の後半に宇都宮辻子に新らしい幕府庁舎が完成していた。八幡宮修理の 記録にはないが庁舎を解体した材を再用か。神社の修理に古材を使うのは不謹慎ではない。 .. . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 . 6月 3日 庚戌 . 吾妻鏡 . | . . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 . 6月 8日 乙卯 . 吾妻鏡 . |
晴。鶴岡八幡宮の仮殿への遷宮あり。 . . ※仮殿遷宮: 7月6日の記事と重複する。6月は仮殿への遷宮、7月は仮殿からの遷宮か。 . . . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 . 6月10日 丁巳 . 吾妻鏡 . |
晴。未刻 (14時前後) に近年には稀な大地震があった。また暫くして小さな揺れが 1、2回あった。 .. . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 . 6月13日 庚申 . 吾妻鏡 . |
小雨。地震に対応した祈祷として御所で泰山府君祭※を催した。担当は安倍為親朝臣、 (将軍家の代理として立ち会う) 使者は壱岐前司 後藤基政。 . . ※泰山府君祭: 仏教の護法善神「天部」の一人焔摩天に従う眷属で陰陽道の主祭神。生命を司 る神でもある。天曹と地府を中心とした十二座の神に金幣、銀幣、素絹、鞍馬、撫物などを供えて無病息災と延命長寿を祈祷する。
.. . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 . 6月25日 壬申 . 吾妻鏡 . | . . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 . 7月 6日 戊午 . 吾妻鏡 . |
吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ . 晴。寅刻 (16時前後) に鶴岡八幡宮の (仮殿からの) 遷宮※あり。 . . ※仮殿遷宮: 5/23の破損箇所修理、6月8日の仮殿への遷宮、そして7月の仮殿からの遷宮と続 いた。鶴岡八幡宮は建久二年 (1191) 3/4の大火で平地に立っていた旧殿が焼失し、同年 4/26に大石段の上に新しい神殿の建造を開始、11/21に新しい八幡宮神殿への遷宮を果たしている。既に完成後60年が過ぎているから補修が必要な個所も頻発しているのだろう。
.. . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 . 7月 8日 甲申 . 吾妻鏡 . | . . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 . 7月 9日 乙酉 . 吾妻鏡 . |
随兵などの明細について、今日名簿を回覧した。 . 右(の者は)八月の放生会に御社参あるべし。各々布衣を着しての供奉は仰せによる。 右(の者は)八月の放生会に御社参あるべし。各々随兵としての供奉は仰せによる。 右(の者は)八月の放生会に御社参あるべし。各々予め廻廊に参向する事、仰せによる。 . . ※詳細: 実際の回覧には姓名が記入してあり、吾妻鏡はそれを省略したらしい。 . . . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 . 7月10日 丙戌 . 吾妻鏡 . |
直垂を着した供奉人の名簿回覧は昨日と同様。 .. . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 . 7月15日 辛卯 . 吾妻鏡 . |
晴。鶴岡八幡宮正殿の立柱と上棟を行なった。 .. . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 . 7月17日 癸巳 . 吾妻鏡 . |
去る八日から再三の名簿回覧で進奉 (了承) した者を選出、将軍家に提示した。支障の申し出は以下。 . 那波左近大夫政茂※ 筑前前司二階堂行泰(持病再発) 大隅前司嶋津忠時 .備後前司町野 (三善) 康持 伊賀前司小田時家 左衛門尉武藤景頼 (灸、御調度(弓箭)携帯に支障) 豊後四郎左衛門尉島津忠綱 (帰国) 左衛門尉足立三郎元氏 (病気) 大泉次郎兵衛尉 (軽い服喪) 東図書助 (回覧の前に帰国) 伊賀四郎景家 遠江次郎左衛門三郎 土屋弥三郎 左衛門土肥四郎実綱 左衛門足立三郎 (重複?) . ※那波政茂: 大江広元の三男で上野国那波郡 (群馬県 前橋、伊勢崎、玉村一帯) の地頭だった 那波宗元の子、生母は 藤原秀郷流 藤姓足利氏の末である。 .. . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 . 8月 2日 戊申 . 吾妻鏡 . |
吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ .. 御教書 (命令書) に何度も違背を繰り返した科により所領を分割して没収するため、領地の詳細を書き出して報告するよう該当する者に命令を下した。 . . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 . 8月13日 己未 . 吾妻鏡 . |
放生会の供奉人に関しての決定があった。左衛門尉 武藤景頼が御調度懸け (将軍家の弓箭携帯) を辞退したため弥次郎左衛門尉親盛に命じられた。また現在まで供奉人に招集されなかった伊豆前司若槻眞兼から参加の希望があり、人数に加えることとなった。
.. . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 . 8月14日 庚申 . 吾妻鏡 . | . . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 . 8月15日 辛酉 . 吾妻鏡 . |
晴。鶴岡八幡宮の放生会があり 将軍家の御参宮に伴って供奉人らが出仕したが、尾張前司 北條時章は定刻になって体調不良を訴え、更に伊勢前司と遠江次郎左衛門尉らも欠席を申し出た。 更に布衣 (略礼服、狩衣) の組に入っていた信濃四郎左衛門尉行忠は人数の不足を補うため装束を改めて随兵に合流した。 . 将軍家が御所南面(公式の場)に出御し、まず束帯姿の安倍晴茂朝臣が御祓いを行なった。陪膳 (給仕) は花山院中将師継、役送 (運び役) の能登右近大夫北條仲時が大麻※を取って花山院中将に手渡したのは去年の御参宮の際と同様である。 ここで安倍晴茂朝臣が「前年は失念して役送人から渡してしまった、これを前例としてはならない」と弁解し、改めないまま進行した。 その後に半蔀の御車※に御束帯で西門から出御し※若宮大路を北へ、赤橋の手前で下車された。 . 出御の行列 . 先陣の随兵 . 次いで前駈 . 次いで殿上人 花山院中将師継 伊豫中将 .公卿 宰相中将土御門顕方卿 . 次いで御車 式部兵衛太郎伊東光政 左衛門大須賀四郎朝氏 海上弥次郎胤景 .右衛門太郎梶原景綱 新左衛門尉三村時親 右衛門三善次郎康有 武藤七郎景頼 次郎兵衛尉武藤頼泰 加藤三郎景経 新左衛門尉小野寺行通 肥後弥籐次 以上直垂を着し帯劔、御車の左右に候す。 御剣役人(布衣、略礼服の狩衣) 前右馬権頭北條政村 . 御調度懸け 弥次郎左衛門尉親盛 . 次いで御後 (布衣) 武蔵守北條朝直 遠江前司北條時直 相模右近大夫将監北條時定 .相模式部大夫北條時広 陸奥掃部助北條実時 中務権大輔足利家氏 駿河四郎北條兼時 上野前司畠山泰国 参河前司新田(世良田)頼氏 能登右近大夫仲時 伊豆前司若槻(森)頼定 出羽前司二階堂行義 壱岐守後藤基政 和泉前司二階堂行方 壱岐前司佐々木泰綱 越中前司宇都宮(横田)頼業 佐渡五郎左衛門尉後藤景隆 出羽次郎左衛門尉二階堂行有 右衛門尉梶原景俊 右衛門尉三善康長 和泉五郎左衛門尉天野政泰 太宰肥後次郎左衛門尉為時 肥後次郎左衛尉矢野景氏 左衛門尉狩野五郎為廣 左衛門尉加地七郎氏綱 左衛門尉小野寺四郎通時 左衛門尉長谷部朝連 長次右衛門尉 常陸次郎兵衛尉二階堂行雄 後陣の随兵 相模八郎北條時隆 千葉介頼胤 上野五郎兵衛尉結城重光 .伊豆太郎左衛門尉実保 大須賀次郎左衛門尉胤氏 壱岐次郎左衛門尉宍戸家氏 氏江余三 土屋新三郎光時 南部次郎実光 武石四郎胤氏 御奉幣の式次第が終わって将軍家は廻廊に入御し舞曲を観覧。 陸奥守 北條重時、相模守 北條時頼、前太宰少弐 狩野為佐、佐渡前司 後藤基綱、前大蔵少輔 結城朝広、 内藤肥後前司盛時、安芸前司親光らは予め回廊に待機した。 また前右馬権頭北條政村、武蔵守北條朝直、出羽前司二階堂行義らは、更に召しに応じて合流した。 . . ※大麻: 麻の繊維で織った布巾らしい。 ※半蔀車: 網代車の一種で窓の上半分を外側へ吊り上げる形になっている。Wiki 画像を参照。 ※西門から出御: 一般御家人は若宮大路に面して門を儲けるのを禁止されていた。無論、御所 は例外。 .. . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 . 8月16日 壬戌 . 吾妻鏡 . | . . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 . 8月30日 戊午 . 吾妻鏡 . |
下総国下河辺庄※の堤防強化を図る指示があり、清久弥次郎保行 (下河辺行平の孫) 、鎌田三郎入道西佛、対馬左衛門尉仲康、宗兵衛尉為泰らを奉行人に定めた。 . . ※下河辺庄: 現在の千葉県西北部と埼玉県東部に跨る広大なエリア。 藤原秀郷の子孫で開発領主だった下河辺氏が 源三位頼政を介して 八条院に寄進 (異説あり) し、平安時代末期に立荘した。 .. JR古河駅近くに頼政神社 (地図) があるのは立荘の経緯による。渡良瀬川の改修に伴って現在地に移転したが、旧蹟は既に不明である。 .
建長年間後の下河辺氏は北條得宗家の被官になり、幕府滅亡後は鎌倉公方足利氏満の支配下に入った。1455年の享徳の乱により第五代鎌倉公方の足利成氏は下河辺荘内の古河城に移って古河公方を名乗り、やがて戦国時代を迎えることになる。. 鎌倉時代の下河辺庄には古利根川、古荒川、渡良瀬川、古隅田川などの流路が入り組んで流れていた。江戸時代の大規模な治水工事 (利根川東遷) によって利根川の流路が北東に移動し、河口は当時の江戸湾から現在の銚子に変わった。 当時は灌漑用水のメインだった利根川の古い流路が今の古利根川 . 利根川東遷により治水が進んだため下川辺の正確なエリアは想像するしかないが概ね古河市の渡良瀬川と利根川の合流地点の北側から越谷市周辺までを含んでいたと思われる。 . 右は利根川東遷と荒川西遷の概略図。画像をクリック→ 別窓で拡大表示。 . . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 . 9月14日 己丑 . 吾妻鏡 . |
吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ .. 雨、雷鳴が数回あり。城介入道 安達義景の百ヶ日の仏事が甘縄の旧宅で催された。導師は若宮の僧正 隆弁。 . . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 . 9月16日 辛卯 . 吾妻鏡 . |
晴、午刻 (正午前後) に地震、夜になって小雨。
今日、新らしい法令を定め 延応の法※に十三ヶ條を加えた。関東の御家人および鎌倉に居住する人々過差 (不相応な贅沢) を禁止する内容である。
.. これは去る7月12日に宣下された内容で、担当奉行の蔵人頭宮内卿平時継朝臣を介して10月1日から宣下の遵守を布告する。なおも従わない場合は法によって糾弾し罪科に問う旨の仰せがあった。 . . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 . 9月26日 辛丑 . 吾妻鏡 . |
三善 (矢野) 倫長の奉行として御所に於いて幾つかの決裁があった。まず20日の評議で山門 (比叡山) 領の地で山僧 (衆徒) を預所職 (荘園の管理者、荘官) に補任する事を禁止した。 . これは去る延応元年 (1239) 7月26日に決定して六波羅にも通達したもので、能登国の御家人高畠太郎式久が準備した案文と照合するため御教書 (命令書) を備後前司 町野 (三善) 康持に渡したが禁忌※の最中で取り扱えなかった。同23日に東入道唯明に指示して書写させたところ相違が見られず、評定の際に本文を届けるよう改めて指示があった。 . . ※禁忌: 物忌み、習慣などの何かを控える事によって穢れを避けること。 . . . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 . 10月 1日 丙午 . 吾妻鏡 . |
吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ . 晴。今日、奴婢と雑人に関する法を定めた。田畑に付属している百姓の子息や従者を使役する事は、既に長い期間が経過していても当人の意思確認を必要とする、と。 . また新しい法を制定し、今日以後はこれを厳守するようにとの仰せがあった。中でも法家(法学を修め伝える家系)の女房装束については五衣練貫※などの贅沢は禁止した。 . . ※五衣練貫: 五衣は五領の重ね衣 (紹介サイト、少しモデルが気に入らないが) 、練貫は縦糸に 生糸を、横糸に練り糸 (精練したツヤのある生糸) を用いた 平織りの絹織物。 .. . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 . 10月 2日 丁未 . 吾妻鏡 . |
若宮別当僧正 隆弁が上洛へ。如意寺※を復興するため、とのこと。 . . ※如意寺: 園城寺 (三井寺) の別院。 洛東の鹿ヶ谷奥から最短距離で三井寺に向かう山中にあった広大な山岳寺院。創建の経緯は不詳だが、800年代後半に第五代延暦寺座主だった 智証大師円珍 (Wiki) が開いた、と伝わっている。 .. 治承四年 (1180) 5月に 源三位頼政と平家討伐の兵を挙げた 以仁王が三条高倉邸から鹿ヶ谷を経て討手を避けながら園城寺に逃れたルートでもある (ルート地図 も参考に) 。 . 右上画像は三条高倉邸跡 (地図) の石碑。 クリック→ 別窓で拡大表示 .
三井寺収蔵の重文「園城寺境内古図」には本堂の他に60を越える堂塔が建ち並ぶ姿が描かれているほど巨大な寺院だったが、建保七年 (1219) 1月に園城寺で修行した 公暁 (二代将軍 頼家の遺児) が三代将軍 実朝を殺した事件以後は幕府の庇護と経済的な支援を失い、園城寺 (三井寺) と同様に如意寺も零落状態にあった。. この如意寺と園城寺の復興こそが、園城寺で出家し修行を重ねた隆弁の宿願だった。彼は全力で幕府と執権に協力し、少しづつ信頼を取り戻していく。 . 功成り名を遂げた隆弁は弘安六年 (1283) に死没し、復興して繁栄を取り戻した如意寺も南北朝時代初期の建武三年 (1336) に兵火で焼失しそのまま廃絶した、或いは応仁二年 (1468) に焼失したまま廃寺となった、とも言われる。 . 右画像は如意寺の伽藍配置を示した園城寺境内古図 画像をクリック→ 別窓で拡大表示)。 . 如意寺の総門は霊鑑寺から東に登った山道 (地図)にあったらしいが、これは定かでない。踏破ルートは 京~近江を結ぶ古道 如意越 が詳細を紹介している。ただし、僻地の山道を歩くにはそれなりの体力と根性が必要となる、単独行は避けよう。 . . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 . 10月11日 丙辰 . 吾妻鏡 . |
利売直法 (小売の公定価格※) を定め更に押買 (押し売りの逆、脅して仕入れる事) を厳しく禁止した。 奉行は小野澤左近大夫入道と内島左近将監盛経入道ら。 . 薪と馬蒭 (まぐさ) などの公定小売価格 (一駄は馬一匹に積んだ量) 炭一駄代金は百文 薪三十束(三束分) は百文 萱 (かや) 一駄 (八束分) は五十文 藁(わら)一駄(八束分)は五十文 糠 (ぬか) 一駄 (俵は一文) は五十文 . これら雑物の異常な高直については商人に命令する必要がある。また和賀江津※を経由して鎌倉に入る材木は基準を満たさず問題があるため寸法を定めた。(榑板、くれいた、用語説明) は長さ八尺 (242cm) または七尺 (212cm) 、不足していれば押収して管理者に報告すること、その他である。 . 今日、六波羅に指示する件があった。諸国の荘園などの新補地頭 (承久の乱での没収領に任命した地頭) の所務 (職務に対する取り分) については従来の命令に従い 不法な徴収をしてはならない、と。 . . ※公定価格: 翌年10月17日には撤廃している。私は流通量不足などの支障が続いたため撤廃を 迫られたのかと思ったが、吾妻鏡は「炭、薪、萱、藁、糠については制定以後は高騰が見られなくなったため元に戻す」と記述している。 .貨幣の流通と共に、世情は安直な規制が通用しないレベルに深刻化している。 ※和賀江津: 和賀江島の港湾施設。三代執権 北條泰時時代の貞永元年 (1232) に勧進聖の往阿弥 陀仏が幕府の後援を得て簡易な埠頭を建設したが経年の劣化により大型の唐船が複数係留できる本格的な施設の稼働は 忍性が極楽寺の長老として和賀江島の管理運営の権利を得た弘長年間 (1261) 以降になる。
.. 忍性は和賀江津で得た手数料などを貧民や非人の救済に注ぎ込むのだが、日蓮は彼の行為を「国家権力と結託した宗教にあるまじき腐敗」と判断、「念仏は無間地獄、真言は亡国、律は国賊」と罵倒して法華宗に依拠した政治改革を求めた。 . もし日蓮が現代に生きていたら、政治権力と結託して (つまり自民党の政権維持に協力して) 長期政権の腐敗を招いた創価学会と公明党を見たら何と言うだろう。しかも彼らは日蓮を宗祖としているのだから、まさに鉄面皮の極みである。 . 以上の書き込みは2025年12/16の加筆である。公明党は連立を解消したが、この内容はそれ以前の姿勢を評価したものだから取り下げはしない。 . . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 . 10月13日 戊午 . 吾妻鏡 . |
西国の荘園、郷、保の地頭などの所務 (職務に対する取り分)については通例に従って職務を果たしており、過剰な押領 (取り立て) をした事実はないと確認できた。その旨を周知させよとの指示が六波羅に通告した。 .. 今夜戌刻 (20時前後) 、月に五色の笠が掛かった。将軍家 宗尊親王がこれを覧て驚かれたが 司天 (天文担当) からは「変異ではない」との報告があった。 . . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 . 10月19日 甲子 . 吾妻鏡 . | . . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 . 10月23日 戊辰 . 吾妻鏡 . |
伊達八郎が小侍 (将軍家の身辺に仕える側近) の名簿に加わった。 . . . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 . 10月25日 庚子 . 吾妻鏡 関連史料 . |
吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ . 霰 (あられ) あり、辰刻 (朝8時前後) からは小雨になった。 . 建長寺の落慶供養。中尊 (本尊) は丈六 (485cm) の地蔵菩薩、更に千体の地蔵菩薩を安置した。相模守 北條時頼は造作に精緻を凝らし、去る建長三年 (1251) 11月8日に着工して今日の竣工に至った。 願文の起草は前大内記茂範朝臣、清書は時頼、導師は宋朝の僧 道隆禅師である。 . また今日一日で五部の大乗経を書写し供養の一環とした。この作善の趣旨は、上は朝廷と将軍家および重臣の繁栄と天下泰平を祈り、下は源氏三代の将軍、二位家 (政子) と物故した北條一門の菩提を弔う目的である。 . . ※保暦間記: 相模守 北條時頼が 巨福山 建長寺 (公式サイト) を建立、将軍の御願として供養を 遂げた。 .※源氏三代: 吾妻鏡は 頼家の死後は一度も彼を二代将軍とは記載していない。 今頃に「源氏三代」と書くのは何故か。主殺しから 60年が過ぎて罪悪感も薄れ、事情を知る者も減ったためか。 .
※建長寺: 創建以来 数回の火事や地震で被災し当初の本尊
早くに失われた (現在の本尊は室町時代の作) 。 .. 禅宗寺院の本尊は釈迦如来が多いが建長寺は地蔵菩薩。建立した場所は処刑場の跡地で、普段は「地獄ヶ谷」 と呼んでいたエリアである。。 . ここには刑死者の魂を救済する地蔵菩薩を本尊とした 伽羅陀山心平寺があった事に由来する(建長寺の記録に拠る)。 . 現在の仏殿にある本尊の後には建立の際に心平寺から移設した数体の地蔵菩薩が祀られている。手前には歴代の住職像に遮られているが 訪問の際には頑張って背後を確認されたし。住職像よりは貴重だからね。 . 右は建長寺仏殿に祀られた地蔵菩薩坐像。左背後には歴代住職像が並んでいる。 画像をクリック→ 別窓で拡大表示 . . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 . 11月29日 甲辰 . 吾妻鏡 . |
晴。諏方兵衛入道蓮佛 (諏訪盛重の法名) が山内※に建立した仏堂が今日落慶供養を行なった。これは武州前刺 (中国の官職で前武蔵守を差す) 禅室 北條泰時を追善供養するためである。 . 今日は甲辰で、「辰日の追善仏事は先例にない」と言う者もいたが、参河守教隆眞人※からその言葉に異議が呈された。「入道中納言能保 (一條能保) 卿が後白河法皇御追福のため建てた小堂の落慶供養は甲辰の日で宇治平等院の阿弥陀堂 (現在の鳳凰堂) 供養もまた辰の日だった。これらも追善である。」と。 . .
※山内: 当時の山内は常楽寺の北、鎌倉街道の鎌倉女子大附
属の付近 (地図) まで含まれていた。 .. この地域の代表的な古刹なら生前の泰時が妻の建てた仏堂を寺に改め、後に自分も葬られた 常楽寺を挙げるべきだが、入道蓮佛が関与した仏堂に関する情報は見つからない。 . 右は粟船山常楽寺の、茅葺き四脚門。 クリック→ 常楽寺の詳細レポート (別窓) へ。 ※教隆眞人: 姓は清原眞人、天武天皇の皇子舎人親王を祖とする 一族で平安時代には中級貴族 だった。親王の九代後に清少納言がいる。後三年の役に登場した出羽清原氏も子孫を称しているが真偽は不明、同様に 清原清定一族との関係は、調べていない。 .. . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 . 12月 8日 壬子 . 吾妻鏡 . | . . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 . 12月 9日 癸丑 . 吾妻鏡 . |
晴。従五位下 藤原朝臣 二階堂行盛法師 (行然) が死没 (73歳) 。 .. . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 . 12月21日 乙丑 . 吾妻鏡 . |
晴。前甲斐守正五位下 大江 (長井) 泰秀朝臣が死没 (42歳) 。
.. . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 . 12月22日 丙寅 . 吾妻鏡 . |
吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ . 晴。前和泉守藤原二階堂行方が四番引付の頭人(上位者)に補任された。死没した行盛法師の後任である。前筑前守藤原二階堂行泰が五番の引付頭に補任された。(6月3日に)死没した安達義景入道の後任である。 . 引付人 . 一番 前右馬権頭北條政村 佐渡前司後藤基綱 備後前司町野(三善)康持 . 二番 武蔵守北條時直 出羽前司二階堂行義 式部大夫入道伊賀光西 左衛門尉清原満定 越前兵庫助政宗 大炊助皆吉文幸 対馬左衛門尉仲康 .三番 尾張前司北條時章 陸奥掃部助北條実時 常陸入道行日(二階堂行久) 城次郎安達頼景 左衛門尉大曽祢長泰 民部大夫大江以基 .大田太郎兵衛尉三善康宗 兵衛長田太郎広雅 四番 前太宰少弐狩野為佐(新任) 和泉前司二階堂行方(今日頭人に新任) . 五番 筑前前司二階堂行泰 参河前司教隆 大田民部大夫三善康連 進士次郎蔵人 左近将監明石兼綱 越前四郎兼朝 .申刻 (16時前後) に御所で終日の尊勝陀羅尼と御本尊供養。担当奉行は和泉前司 二階堂行方。 .丑刻 (深夜4時頃) に経師ヶ谷口※で失火、北風に煽られ浜の高御倉前まで延焼し10余人が焼死した。 . ※経師ヶ谷: 材木座二丁目の長勝寺東側に延びるのが経師ヶ谷 (地図) 。正応六年 (1293) 4月に 勃発した 平禅門の乱 (Wiki) で安達一族を滅ぼし、後に九代執権 北條貞時に滅ぼされた内管領 平頼綱の屋敷があった、と伝わっている。浜の高御藏は和賀江の物流施設だろうから、来迎寺→ 実相寺→ 補陀洛寺のルートで火の粉が飛んだか。 .. . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 . 12月28日 壬申 . 吾妻鏡 . |
若宮別当僧正の 隆弁が京都から帰着した。去る10月に如意寺 (10月2日を参照) の鎮守諸社を勧請するために上洛していた。 .. . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 . 12月30日 甲戌 . 吾妻鏡 . |
新年の御行始め (外出初め) の供奉人について、庭の筵 (むしろ) に設けた座席に置く名札を書き出して将軍家 宗尊親王の許諾を得た後に該当者に通告した。 .. . . 12月16日 . 晴耕雨読 . |
朝 9時 00分、建長五年 (1253年) が終了。このページは修正と加筆が多くて結構 楽しめた (笑) 。 要するに、じっくりチェックしてその過程を楽しめるかどうかでその日の値打ちが決まってくる。 . 今日は午後から結城まで外出。ガソリン価格が下がったから給油と車検の予約、 「カインズ」 に寄ってビールと日本酒の追加、帰り道の 「業務スーパー」 と 「トライアル」 と 「たいらや」 に寄って妻の買い物、帰宅して庭の整理ができるかどうか。 . . . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 建長四年 . 月 日 . 吾妻鏡 . . |
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.. ※: . . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 建長四年 . 月 日 . 吾妻鏡 . . |
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