
. . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 |
. 1月 1日 乙亥 . 吾妻鏡 |
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吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ . 朝方に少々の雪、巳刻 (10時前後) に霽 (晴) 。相模守 北條時頼の沙汰による椀飯※があり、宰相中将土御門顕方卿が御簾を上げた。前右馬権頭 北條政村が御剣を、武蔵守 北條朝直が弓箭を、尾張前司 北條時章と下野前司 宇都宮泰綱が御行騰と沓※を献じた。 . 一の御馬は 遠江六郎北條教時 と 同、七郎時基 二の御馬は 薩摩七郎左衛門尉伊東祐能※ と 同、伊東九郎祐朝※ 三の御馬は 遠江次郎左衛門尉佐原泰盛 と 同、佐原十郎頼連 四の御馬は 新左衛門尉三村時親 と 同、兵衛尉三村三郎 五の御馬は 北條六郎時定 と 右衛門尉工藤次郎高光 . 椀飯後に将軍家 宗尊親王の御行始め(外出初め)があり、申一刻 (10時過ぎ) に相模守時頼邸に入御。 (将軍家への) 御引出物は通例の通り、中務権大輔 足利家氏が御剣、砂金、鷹の羽、御馬を献じた。 . 供奉人 装束は裾を絞った布衣 (略礼服の狩衣) (装束の画像は前年7月8日を参照) . 前右馬権頭北條政村 武蔵守北條朝直 尾張前司北條時章 相模式部大夫北條時弘(時広) 越後右馬助北條時親 中務権大輔足利家氏 陸奥弥四郎北條時茂 遠江六郎北條教時 遠江太郎清時 足利上総三郎(吉良)満氏 上野前司畠山泰国 伊豆前司若槻(森)頼定 参河前司新田(世良田)頼氏 能登右近大夫仲時 安芸前司親光 佐渡前司後藤基綱 出羽前司小山長村 下野前司宇都宮泰綱 大蔵権少輔加藤景朝 出羽前司行二階堂行義 前太宰少弐狩野為佐 壱岐守後藤基政 伊賀前司時家 壱岐前司佐々木泰綱 薩摩前司伊東祐長※ 右衛門尉梶原景俊 弥次郎左衛門尉親盛 左衛門尉大須賀次郎胤氏 左衛門尉武藤景頼 左衛門尉伊東八郎祐光 左衛門尉小野寺四郎道時 右衛門尉三善康長 右衛門尉三善康義 五郎左衛門尉狩野為広 兵衛尉武藤次郎頼泰 右衛門尉足立三郎 右衛門尉加地七郎氏綱 常陸次郎兵衛尉二階堂行雄 長雅楽左衛門尉 式部兵衛太郎光政 武石三郎朝胤 右衛門太郎梶原景綱 左衛門三郎加藤景経 鎌田三郎義長 左衛門尉宇都宮五郎泰親 壱岐次郎左衛門尉宍戸家氏 この二人は無断欠席 . . ※椀飯 (おうばん) :饗応のための献立、食事を摂る儀式や行事。大判振る舞い、の語源。 . ※行騰 (むかばき) と沓: 乗馬の際に着ける袴カバーと靴。 画像 (Wiki) を参考に。 . ※伊東祐長: 伊東祐時の弟。信濃国坂木 (現在の坂城町、地図) に所領を得て薩摩守に補任され 信濃伊東氏 (工藤) の祖となった。薩摩+「祐」の名を持つ武士は彼の系累と考えて良い。また陸奥国安積郡 (福島県郡山市一帯) にも所領を得て安積六郎左衛門を名乗っている。ただし系図の錯綜も見られ、二の御馬を下の手綱を引く祐朝は早川次郎とは別人だろう。 .. ※年令: 六代将軍 宗尊親王(第88代後嵯峨天皇の第一皇子)は建長四年(1252)4月に着任、11歳、 五代執権 北條時頼 27歳、
連署は六波羅北方から転じた北條(極楽寺)重時 56歳、 .後任の六波羅北方は重時の嫡子で後に六代執権になる 北條(赤橋)長時 23歳、 後の七代執権 北條政村 49歳、後に評定衆として長時を補佐する 北條(金沢)実時 29歳、 八代執権になる北條時宗は今年の6月で満4歳。 . 安達義景 前年6月に死没 享年43、 安達泰盛 23歳、 千葉頼胤 14歳、 足利泰氏 38歳、 小山長村 38歳、 結城朝光 2月に死没 (享年84) 、 結城朝広 63歳、 宇都宮泰綱 52歳、 . 浄土真宗 親鸞は81歳、 天台宗寺門派 (園城寺) の隆弁は45歳、 真言律宗 叡尊 53歳、 天台宗寺門派 (園城寺) の隆弁は45歳、 真言律宗 忍性は37歳、 法華宗 日蓮は32歳、 . 89代 後深草天皇は12歳、 先帝の 後嵯峨上皇は33歳、摂政太政大臣 鷹司兼平は27歳、 太政大臣 西園寺実氏は60歳、関東申次は西園寺家の世襲となる。関白の 二条良実 (38歳) は宮騒動 (Wiki) の余波で辞任となったが、弘長元年 (1261) には関白に復帰する。 . 朝廷は 五摂家 (近衛家、一条家、九条家、鷹司家、二条家) による合議分担体制となる。 . (表示は全て 1/1時点の満年齢) . ※ 宝治合戦 (1247年) で三浦一族が滅亡した後に執権 時頼 は極楽寺流の祖 北條重時を六波羅の 北方から呼び戻して連署に任命した。 .六波羅北方の後任は (赤橋) 長時。重時は建長八年 (1256) に出家して政界を退き、時頼の後継は六代 (赤橋) 長時と七代 政村を経て八代 時宗 (建長三年、1251年誕生) に続く。 . 強権を握った時頼は弘長三年 (1263) 11月に36歳で死没、5年後の文永五年 (1268) 3月に次期執権に就かせる時宗の道筋を見届ける如き最期を迎える。それにしても、三代泰時 (58歳で病死) 以後の義時直系 (北條嫡流) 執権の寿命は驚くほど短い。 . 四代経時 23歳、五代時頼 36歳、八代時宗 33歳、九代貞時 40歳、十代師時 35歳。本当に激務の故か、繰り返した血族結婚の弊害か、怨みを抱きつつ滅ぼされた人々の祟りだろうか。 . 嫡流以外の執権および鎌倉陥落と運命を共にした高時と貞顕と守時の没年は次の通り。 六代長時 34歳、七代政村 68歳、十一代守宣 52歳、十二代煕時 36歳、十三代基時 46歳、十四代高時 29歳、十五代貞顕 56歳、十六代 守時 37歳 、 |
. . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 |
. 1月 2日 丙子 . 吾妻鏡 |
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晴。右馬頭入道※の沙汰による椀飯あり。 武蔵守 北條朝直が御剣を、尾張前司 北條時章が弓箭を、和泉前司 二階堂行方が御行騰と沓を献じた。 . 献上の役人 . 一の御馬は 上総三郎吉良満氏※ と 太平太郎左衛門尉 (土佐の国人領主、藤原秀郷の末) 二の御馬は 右衛門梶原太郎景綱 (景時-景茂-景俊-景綱と続く) と 同、三郎景茂 (弟? 息?) 三の御馬は 筑前次郎左衛門尉二階堂行頼(行泰の子。政所執事、弘長二年 (1262) に引付衆)と 同、三郎行実(行頼の弟、文永二年 (1265) に政所執事、引付衆)
四の御馬は 遠江十郎佐原頼連 と 同、七郎泰連、五の御馬は 上野三郎畠山国氏(泰国の嫡子、政所執事、弘長二年 (1262) に引付衆)と日揮三郎、 . .
※右馬頭入道: 右馬権頭なら北條政村だが、彼の出家は死没
直前の文永十年 (1273) だから該当しない。 .. どうやら種本 「伏見本」 の転写ミスで正解は多分「左馬頭」の足利三代当主 義氏(仁治三年 (1241)に出家して正義) と思われる。 . 1月1日の供奉人名簿の、最初の行にあった「前右馬権頭 政村」に騙されてしまった。 . 右は義氏の菩提寺 足利の法楽寺本堂。 銀閣寺に似せた姿で建造された。 画像をクリック→ 訪問記 (別窓) へ . 通称 銀閣寺 (正式には東山慈照禅寺、公式サイト) は足利一族の後裔で室町幕府の八代将軍 足利義政 (Wiki) が長享三年 (1489) に建立した。 法楽寺には義氏の墓所がある事から、昭和五十七年の本堂再建には銀閣寺のイメージが転用された。至近距離には鎌倉時代初期の 鑁阿寺 (別窓) も現存する。 ※吉良満氏: 足利義氏の庶長子で三河吉良氏の祖となった長氏の嫡子。 . |
. . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 |
. 1月 3日 丁丑 . 吾妻鏡 |
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. . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 |
. 1月 4日 戊寅 . 吾妻鏡 |
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御的初めの射手を選出したが、兼ねて(出場を)了承した薩摩十郎伊東祐広、出羽七郎二階堂行頼、武田五郎七郎、桑原平内らが支障を申し出たためその他の11人が二射づつ五度、的を射た。
. 一番 渋谷六郎 vs 佐々宇左衛門三郎 二番 佐貫七郎 vs 松岡小三郎 三番 諏方四郎兵衛尉 vs 海野矢四郎 四番 周枳兵衛四郎 vs 勅使河原小三郎 五番 南條左衛門次郎 vs 布施三郎 六番 秩父弥五郎 . |
. . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 |
. 1月 7日 辛巳 . 吾妻鏡 |
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来る10日の将軍家 宗尊親王の鶴岡八幡宮参宮に伴う供奉人の名簿を回覧した。椀飯の際に出仕した者の中から選び出している。 . |
. . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 |
. 1月10日 甲申 . 吾妻鏡 |
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晴、強い西風あり。卯一点 (朝6時過ぎ) に浜風に煽られて大町の辺りが焼亡、名越山王堂※までの人家数百軒が被災した。日の出の後に鎮火したが焼死者は数十人、この穢により今日の将軍家の参宮は延期となった。 . . ※名越山王堂: 建長四年 (1252) 2月8日の大火事でも、この名前が載っている。 詳細の位置などは当日の吾妻鏡で。 . |
. . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 |
. 1月14日 戊子 . 吾妻鏡 |
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御所で御的初めが催された。先日支障を申し出た者も呼び出して10人が二射づつ五度、的を射た。 . 一番 武田五郎七郎政平 vs 渋谷六郎盛重 二番 海野矢四郎助氏 vs 平嶋弥五郎助経 三番 布施三郎行忠 vs 周枳兵衛四郎頼泰 四番 佐々宇左衛門三郎光高 vs 佐貫七郎広胤 五番 多賀谷弥五郎重茂 vs 横溝七郎五郎忠光 . |
. . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 |
. 1月22日 丙申 . 吾妻鏡 |
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晴。将軍家 宗尊親王が鶴岡八幡宮に御参宮。
. 行列 前駈 能登右近大夫北條仲時 安芸前司親光 判官代長井泰秀 . 御車 壱岐新左衛門尉後藤基頼 式部兵衛太郎光政 左衛門大須賀四郎胤信 小野寺新左衛門尉行道 右衛門太郎梶原景綱 薩摩十郎伊東祐広 兵衛尉武藤次郎頼泰 武藤七郎兼頼 足立左衛門四郎 肥後弥籐次 以上は直垂を着して帯剣、御車の左右に列す。 . 御剣役人 前右馬権頭北條政村 御調度役 左衛門尉武藤景頼 . 御後 尾張前司北條時章 武蔵守北條朝直 陸奥掃部助北條実時 相模右近大夫将監北條時定 越後右馬助北條時親 遠江六郎北條教時 陸奥弥四郎北條時茂 中務権大輔足利家氏 足利次郎兼氏 上総三郎足利(吉良)満氏 佐渡前司後藤基綱 出羽前司二階堂行義 出羽前司小山長村 上野前司畠山泰国 下野前司宇都宮泰綱 和泉前司二階堂行方 伊賀前司時家 大隅前司嶋津忠時 壱岐守後藤基政 参河前司新田(世良田)頼氏 左衛門尉大須賀次郎胤氏 弥次郎左衛門尉親盛 左衛門尉狩野五郎為広 左衛門尉伊東八郎祐光 左衛門尉小野寺次郎道時 左衛門尉壱岐次郎家氏 長次右衛門尉 長雅楽左衛門尉 右衛門尉三善康長 左衛門尉三善康義 和泉次郎左衛門尉二階堂行章 紀伊次郎左衛門尉為経 左衛門尉加地次郎氏綱 . |
. . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 |
. 1月26日 庚子 . 百錬抄 |
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. . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 |
. 1月28日 壬寅 . 吾妻鏡 |
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. . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 |
. 2月 2日 乙巳 . 吾妻鏡 |
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. . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 |
. 2月 3日 丙午 . 吾妻鏡 |
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晴。武蔵守北條時直が奉幣使として二所詣に出発※した。
. . ※奉幣使として: 重時と時直が一日違いで出発し二日違いで帰着。何か意味があるのか? . |
. . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 |
. 2月 4日 丁未 . 吾妻鏡 |
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. . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 |
. 2月 6日 己酉 . 吾妻鏡 |
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晴。陸奥守 北條重時が二所詣から帰着した。
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. . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 |
. 2月 8日 辛亥 . 吾妻鏡 |
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晴。辰刻 (8時前後) に武蔵守 北條時直が二所詣から帰着した。
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. . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 |
. 2月12日 乙卯 . 吾妻鏡 |
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. . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 |
. 2月19日 壬戌 . 百錬抄 |
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※百錬抄: 午刻 (昼12時前後) に法成寺※が炎上。また同日戌刻 (20時前後) に地震あり。 . .
※法成寺: 別名を無量寿院、平安時代の中期に晩年の 藤原
道長が創建した摂関期最大級の寺院。
鎌倉時代に起きた再三の火災と兵火で荒廃し、室町時代に廃絶したらしい。 .. 南北朝時代には 吉田兼好が徒然草の中で「九体の丈六仏と法華堂のみが残っているのは諸行無常の典型」と書いている。仙堂御所に近い府立鴨沂高校のグラウンド隅に「従是東北 法成寺跡」の石柱が立っている。 地図画像をクリック→ 別窓で拡大表示。 石柱の画像 (別窓) も載せて置いた。 |
. . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 |
. 2月20日 癸亥 . 吾妻鏡 |
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. . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 |
. 2月24日 丁卯 . 吾妻鏡 |
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晴。酉刻 (18時前後) に前上野介従五位下藤原朝臣 結城朝光※法師 (法名日阿) が没した。享年87。 . . ※結城朝光: 吾妻鏡の初出は治承四年 (1280) 10月2日、上総を制圧した 頼朝が墨田 (隅田) 川を 渡り武蔵国に入った際に 小山政光 (大番役で在京※) の後妻で頼朝の乳母の一人だった 寒河尼 (後の名乗り) に伴われて訪れたのが最初の面会である。 .. 政光の本領は先妻の産んだ嫡子 朝政による相続が既に決まっており、彼女としては我が子の将来を乳母子の頼朝に託したのだろう。爾来74年、様々なシーンに登場してきた。740年後の現代から、哀悼の思いを込めて、合掌。 .
晩年の朝光は浄土真宗の祖 親鸞に帰依して敬虔な仏教徒として信仰の世界を過ごしている。. 右画像は結城市の称名寺に残る朝光の墓標。 クリック→ 本領 結城に残した足跡 (別窓) へ . 吾妻鏡への登場が朝光より数年早く年令も生きた時代も同じ頃の 海野幸氏は建長二年 (1250) 3月1日の末尾近くに 「海野左衛門入道」 の名で載ったのが最期となる。享年82前後か。 ※政光在京: 記録では、寒河尼の夫で地域最大の兵力を擁する小山政光は嫡子で朝光の異母兄 だった 朝政 (当時25歳前後) と共に大番役 (平清盛政権下) で在京していた。 .夫が長期不在中の妻は夫の権限を代行する権限を持つのが慣習だったらしいが、平家の支配下にある夫 政光とは逆の立場にある頼朝に息子を預けるのは大きな決心が必要だったと思われる。優れた判断力を備えた女性だったらしい。 |
. . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 |
. 3月 7日 庚辰 . 吾妻鏡 |
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. . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 |
. 3月12日 乙酉 . 吾妻鏡 |
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特別の仰せを受けて、善波太郎入道 (?) の子息又次郎が小侍所衆 (将軍身辺に仕える側近) に加えられ奉行の 武藤景頼から担当部署に通達された。 . |
. . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 |
. 3月16日 己丑 . 吾妻鏡 |
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. . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 |
. 3月20日 癸巳 . 吾妻鏡 |
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. . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 |
. 3月24日 丁酉 . 吾妻鏡 |
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晴。戌刻 (20時前後) に北側の金星と南側の木星が八寸 (24cm) の距離で重なった。 . |
. . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 |
. 3月26日 己亥 . 吾妻鏡 |
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. . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 |
. 3月29日 壬寅 . 吾妻鏡 |
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晴。二つの星が重なった事に関し加持祈祷を催すよう政所に指示があった。天地災変には前大膳亮為親朝臣、三万六千神は前陰陽大允安倍晴茂朝臣、属星祭は陰陽少允晴宗が担当する。
. . ※天地災変祭: 陰陽道で行われる祭祀のひとつ。天変地異や怪異、厄年などの時に行う。 ※三万六千神祭: 陰陽道で行われる祭祀のひとつ。天変地異を排除し天下泰平を願う。 ※属星祭: 国土安穏と五穀豊饒を祈祷する星供養 (星祭) が個人の守護星を供養する属星祭に 発展した。 . |
. . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 |
. 4月 4日 丙午 . 吾妻鏡 |
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吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ .. 晴。巳刻 (10時前後) から雨。亥刻 (22時前後) 、特別の御願により安倍為親朝臣が天地災変祭を行なった。将軍の使者は安芸右近大夫重親、祈願文の起草は前大内記茂範朝臣、清書は厳恵法印が任じた。 . 強い雨の日に祭祀の開催は好ましくないと言う者もいたが、当院 (現在の後嵯峨上皇) が天皇だった寛元三年 (1245) 3月の北遊御祭 (彗星の件か?) に対応して良光朝臣が祭祀を催した日は豪雨だったが実施した、と。 |
. . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 |
. 4月18日 庚申 . 吾妻鏡 |
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. . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 |
. 4月27日 己巳 . 吾妻鏡 |
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鎌倉中の庶民および非御家人が奉行人の命令に従わない場合は厳罰に処す法令を定めるよう政所に指示した。 . |
. . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 |
. 4月29日 庚午 . 吾妻鏡 |
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評定があり、西国の荘園および公領の地頭所務 (権限) についての検討がされた。 . 本地頭 (承久の乱以前から任じていた地頭) の権限は旧来の基準に従い新たな規則を追加してはならず、新補地頭 (承久の乱と、それ以後の没収地に補任された地頭) は規則に定めた定率※以外の過徴を行なってはならない。この内容に従って訴訟事務にあたるよう、五組の引付衆に通達した。 . また唐船の数※は五艘と定め、それ以外は早急に破却するよう命じた。命令者は評定衆、発行者は問註所奉行人の勧湛、実綱・寂阿 (得宗被官) 、宛先は筑前前司 二階堂行泰 (この時点では政所執事で五番引付頭人) と大田民部大夫 三善 (太田) 康連 (この時点では問注所執事) 。 . .
※納付の定率: 新補地頭の取り分は反当たり五升と、十一町
あたり一町分の収穫と定められている。 .※唐船の規制: 唐と交易する日本の貿易業者が所有した大型 外洋船の和賀江寄港を制限する規制らしい。 .. 貞永元年 (1232) 7月12日の吾妻鏡には「勧進聖の往阿弥陀仏が和賀江島の堤防を補修する許可を得た (8月9日に完工)」 と記載がある。 . 極楽寺僧正に就いた忍性が和賀江島の運営権を得て港湾施設を拡充し管理を開始したのが1280年前後と推定されるから、和賀江島は既に貿易港としてある程度は機能していたのだろう。 . ただし幕府が組織的に唐または元と交易していたのではなく、寺社を復興するために派遣した交易船 (いわゆる寺社造営料唐船) の運営主体は博多商人で、寺社や幕府は注文者に過ぎなかった可能性が高い。 . 右上は沈没船と博多と太宰府の位置鳥瞰図(クリック→ 別窓で拡大表示) .
昭和51年 (1976) に韓国の全羅南道新安郡智島邑道徳島沖で大量の荷を積んだまま港の近くで沈没した交易船から積荷が回収された。. 積荷には白磁や青磁の天目茶碗など18,000点の陶磁器や800万枚の銅銭や346点の積荷木簡 (明細記録) があり、京都の 東福寺が堂塔の再建を目的にして幕府の認可を得た貿易唐船と推定される。ただし、積荷の半数近くは特定の商人が利潤を目的として買い付けた商品だったらしい。 . 右下画像は清朝時代のジャンク船 (クリック→ 別窓で拡大表示) 。 さらに詳細は Wikiによる解説 で確認を。 |
. . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 |
. 5月 1日 壬申 . 吾妻鏡 |
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吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ . 人質 (人を質草にする事) についての法令が発布となった。この法令以前に質入れして流れた場合も法令発布後の訴訟を経て借り入れと等倍 (無利息) を納めれば弁済を認め、それ以上の要求は認めない。 また、今後の人質行為は全面的に禁止する旨が相模守 北條時頼から問注所に命令された。 . 勧湛、実綱、寂阿が5月1日付で署名し、宛先は大田民部大夫 三善 (太田) 康連※殿としている。 . . ※三善康連: この時点の康連は訴訟事務を担当する問注所執事 (運営責任者) に任じている。 . |
. . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 |
. 5月 5日 丙子 . 吾妻鏡 |
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晴。鶴岡八幡宮での (節句に伴う) 神事は通例通りだが下の廻廊※の巽方(南東) で闘乱があり、負傷者が3人と死者が1人出た。また流鏑馬の矢を受けた者が2人と馬蹄に踏み殺された者も1人、尋常な事件ではない。 . . ※下の廻廊: 鶴岡八幡宮の大石段の下側境内の広い範囲を回 廊が囲んでいた。天正十九年 (1591) に秀吉が徳川家康に鶴岡八幡宮の修理を命じた際の 修営目論見絵図には全体の配置と構造が詳細に記録されている。 .. その絵図を土台にして創ったジオラマの復元模型が八幡宮の 鶴岡文庫に展示されており、少々の誇張はあるが鎌倉時代の姿を再現する材料になっている。頼朝に命じられた白拍子 静が舞ったと伝わる回廊も書き込まれている。 . 右上画像、クリック→ 別窓で拡大表示) .
江戸時代の絵図 (右下、クリック→ 別窓で拡大)に比較すると若宮大路から見て太鼓橋の奥に三の鳥居があるなど細かな差異はあるが何よりも回廊がなくなった部分に堂塔伽藍が散文的に建ち並ぶ姿が何とも無秩序な印象である。. 神仏習合思想の、双方が妥協したくない部分を露呈した醜悪な結果、とでも言おうか。 . 鶴岡文庫は境内北側の県立美術館前 (地図) 、承久の乱で流刑になった後鳥羽、土御門、順徳の三柱を祭神として祀る今宮 (新宮神社) の入口にある。 . 次の鎌倉訪問でゆっくり観覧する予定だったが、実行する前に熱海から茨城県の筑西市に転居してしまった。 鎌倉も京都も静かに歩ける雰囲気が感じられない。若かった頃の散策は本当に楽しかったけれど。 |
. . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 |
. 5月 7日 戊寅 . 吾妻鏡 |
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曇。一昨日の鶴岡八幡宮廻廊の殺害事件による触穢に対応し 建て替えの是非について評議を開いた。 また陰陽師らを呼び評定所で殺害の影響を占わせ 安倍晴茂、為親、晴宗が各々別紙により答申した。 . |
. . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 |
. 5月 8日 己卯 . 吾妻鏡 |
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聖福寺※の神験宮 (寺院と一体の鎮守社と守護神社を差す) に於いて舞楽を奉納した。 . . ※聖福寺: 創建の経緯と地図などは建長四年 (1253) 2月3日を参照されたし。 . |
. . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 |
. 5月 9日 庚辰 . 吾妻鏡 |
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晴。先般、石清水八幡宮で僧の自殺があった旨を石清水の宮使 (律令制での官司) から報告があった。 . |
. . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 |
. 閏5月 1日 壬寅 . 吾妻鏡 |
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吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ . 北條時頼 が下若 (酒) などを携えて御所に参上、将軍家 宗尊親王が御所の広間に出御した。 . 酒宴が数献に及び、近習の人々も呼んで酒宴となった。各々が酔ってから相州時頼が「近年は武芸が廃れ、誰もが武士に似合わない芸を好み武家の本分を忘れているのは残念だ。弓馬の腕は改めて試すとして、まずここでは相撲をとって勝負の結果次第で将軍家から配慮を頂ければと思う。」と語り、将軍家も興味を示した。 . 逃げ出したり誇示したりする者が多かったが、陸奥掃部助 北條実時から「勝負に応じなかった者は今後は召し使わないことにする」との説得もあって10余人が衣装を付けたまま取り組むこととなった。相撲の名手である長田兵衛太郎が近くに呼ばれて審判役を務めた。 . 一番 三浦遠江六郎左衛門尉佐原時連の優勢勝ち 上野十郎結城朝村 二番 左衛門大須賀四郎朝氏 引き分け 波多野小次郎定経 三番 左衛門尉渋谷太郎武重の優勢勝ち 検収中務三郎 四番 橘薩摩余一の勝ち 肥後弥籐次 五番 広澤余三の勝ち 加藤三郎景綱 六番 兵衛尉常陸次郎二階堂行雄の優勢勝ち 土肥四郎実綱 . 勝ちと優勢勝ちは御前に召されて御剣と御衣を雲客 (公卿) を介して与えられた。負けは否応なしに大盃で酒三杯、北條一門の若者が酌に任じて興を誘い、将軍家も大いに楽しんだ。 . |
. . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 |
. 閏5月 5日 丙午 . 吾妻鏡 |
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三種の神符 (護符) について、去年の五月五日 壬午の支干に際して将軍家が身に付けたものだが、今月の五日が再び丙午なので改めて神符を求める必要があるかを京都に問合わせていた。 閏月に際しては恒節 (通常の節句の例) に倣う必要はない、とのこと。 . . ※壬午の支干: 前年5月4日に仙洞 (院の御所) から送られた記録あり。鎌倉時代は迷信だらけ。 . |
. . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 |
. 閏5月11日 壬子 . 吾妻鏡 |
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. . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 |
. 6月 3日 癸酉 . 吾妻鏡 |
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吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ . 晴。故 城介入道 安達義景 (法名 願智) の周関 (一周忌) の墓塔婆※を建てて供養を行なった。導師は左大臣法印厳恵、真言密教に基づいた供養である。 布施は南庭 (銀の板) 十枚、馬一疋 (銀の鞍を置き厚総の鞦※を装備)、銀造り剣 (袋入り) 、単重一着。 更に錦の被物一重、布衣 (狩衣) 、顕方卿がこれを渡した。布施を運んだ者は25人である。 . また 北條時頼邸で頼兼、審範、房源、兼位、頼乗、定圓胤、経幸、範快による法華八講※が始められた。 . . ※墓塔婆: 五輪塔か、或いは宝篋印塔か。始祖の 籘九郎盛長を葬ったと伝わる墓所は 数ヶ所に . . ※法華八講: 法華経八巻を八座に分け、通常は朝夕二座を講じて4日間で完了する法会。 . ※厚総の鞦: 馬具の一種 「あつふさのしりがい」 。画像は goo国語辞書 を参照。 . |
. . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 |
. 6月 5日 乙亥 . 吾妻鏡 |
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. . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 |
. 6月10日 庚辰 . 吾妻鏡 |
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同御第 (時頼邸を差す) で御祈祷などがあった。 . |
. . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 |
. 6月15日 乙酉 . 吾妻鏡 |
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晴。今日、前武州禅室 北條泰時の十三回忌を迎えて墳墓である青船御塔※で供養を行なった。 導師は信濃僧正道禅、真言密教による法要である。 . 供僧に加わった中納言律師定圓、葉室光俊朝臣 (後鳥羽上皇の忠臣葉室光親の子) 、備中已講経幸、蔵人阿闍梨長信らは御追福を願って法華八講を行うため京都から招いた諸僧である。 . 相模守 北條時頼も聴聞された。仏事が終わり時頼が山内の御亭※に戻る際に鎌倉中で騒動があった。行き交う者の多くが武装しているため、時頼はそのまま鎌倉の屋敷※に戻った。 . .
※青船御塔: 大船の 粟船山 常楽寺 (別窓) を差す。仏殿裏に
残るやや劣化した「北條泰時の墓」 (右) の拡大画像は別窓の常楽寺解説ページの中に置いた。 .. 晩年に建長寺住職を務めた円通大応国師 南浦紹明の墓 (劣化が激しい) と並んでいる。 「青船」は山号の「粟船山」の転記ミスだろう。 . また、この法事が (前年に時頼が開基した建長寺の) 臨済宗ではなく真言密教で催された事は興味深い。常楽寺の前身は泰時の妻が生母追善のため営んだ密教系の粟船御堂である。建長寺の創建 (建長五年、1253年) 前後には臨済宗に改めていたと思われるが、「真言密教による法要」だったのは亡き夫妻への配慮だった事を窺わせる。
※山内邸: 現在の 明月院 (鎌倉観光サイト) の地にあった。
平治の乱 (平治元年 (1160) 12月) で 源義朝に従って四条河原で戦死した山内首藤俊通の菩提を弔うために嫡子の 首藤経俊が建立した仏堂の敷地に時頼が別邸を造営し、邸内の持仏堂を改築して最明寺と改めた。 .. 右画像は明月院の山門に登る石段の参道。 画像をクリック→ 別窓で拡大表示 . 紫陽花で有名だが植え始めたのは太平洋戦争の敗戦後で、物資不足のため杭の代用として比較的手入れの楽な紫陽花を植えたのが最初だった、と伝わっている。 . 時頼の死後は廃絶していたが嫡子の八代執権 時宗 が再興して神興寺と改め、後に現在に続く明月院となった。境内には 時頼の墓 宝篋印塔 (別窓) がある。 . 参考までに、伊豆長岡の 東光山 最明寺 (別窓) にも時頼の分骨墓がある。また同じ伊豆の国市南江間の 巨徳山 北條寺 (別窓) には二代執権 義時の分骨墓があり、これはどちらも郷土出身の偉人として記憶に留めたい地元の人々が幕府に願い出て許された経緯に拠る、と伝わっている。 ※鎌倉の屋敷: 代々の執権邸は現在の 宝戒寺 (別窓) の位置にあった。元弘三年 (1333) の春に . |
. . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 |
. 6月16日 丙戌 . 吾妻鏡 |
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鎌倉中が落ち着かないまま昨日の夕刻から昨夕より多数の御家人が御所に集まり、相模守 北條時頼が出席者の名簿を確認した。
. 遠江前司北條時直 陸奥掃部助北條実時 同、太郎(庶長子実村) 相模式部大夫北條時弘(時広) 遠江六郎北條教時 陸奥六郎北條義政 同、北條七郎時基 備前三郎北條(名越)長頼 上総三郎吉良(足利)満氏 参河前司新田(世良田)頼氏 壱岐前司後藤基政 和泉前司二階堂行方 同、次郎左衛門尉二階堂行章 周防前司島津忠綱 安芸前司(藤原親実? ) 小山七郎宗光 下野七郎宇都宮経綱 遠江六郎左衛門尉佐原時鍊 城次郎安達頼景 同、三郎安達景村 阿曽沼小次郎光綱 信濃四郎二階堂行忠 大曽祢次郎左衛門尉 隠岐三郎左衛門尉二階堂行氏 宇都宮五郎左衛門尉 左衛門尉武藤景頼 同、右近将監武藤兼頼 完戸次郎左衛門尉家氏 和泉五郎左衛門尉天野政泰 右衛門尉三善康長 右衛門尉三善康義 同、五郎左衛門尉 同、六郎兵衛尉 肥後次郎左衛門尉藤原為時 渋谷次郎左衛門尉 左衛門尉小野寺四郎通時 同、八郎左衛門尉 新左衛門尉山内成通 同、太郎左衛門尉 山内籐内左衛門尉通重 進三郎左衛門尉 常陸太郎左衛門尉 右衛門尉田中知継 肥後次郎左衛門尉天野景氏 同、四郎兵衛尉大見行定 左衛門尉紀伊次郎為経 左衛門尉足立太郎直元 同、三郎 眞壁平六 薩摩七郎伊東祐能 左衛門尉狩野五郎為広 同、四郎 狩野帯刀左衛門尉 中山左衛門尉 長内左衛門尉 右衛門尉加地七郎氏綱 大泉九郎長氏 兵衛尉蒲田三郎義長 同、次郎兵衛尉行俊 同、図書左衛尉信俊 遠藤右衛尉 宇間右衛門次郎 . 今夕月蝕があり、左大臣法印厳恵が祈祷を催した。雲に遮られながらも何回か確認できた。 . |
. . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 |
. 6月23日 癸巳 . 吾妻鏡 |
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晴。鶴岡八幡宮で最勝王経講が行われた。壇主は別当法印の 隆弁、相模守 北條時頼も結縁のため西の経所に入御した。 .経講に加わる僧は10人 三位法印頼兼、弁法印審範、宮内卿法印房玄、宮内卿律師親遍、三位律師兼伊、治部卿律師頼乗、中納言律師定圓、備中已講経幸、蔵人阿闍梨長信、侍従阿闍梨等である。 |
. . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 |
. 6月25日 乙未 . 吾妻鏡 |
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. . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 |
. 7月11日 辛丑 . 吾妻鏡 |
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吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ . 暴風雨で人家が倒壊し穀物も大損害を受けた。古老の話では最近20年にこの様な例はなかった、と。 . . ※日付変換: 建長五年7月1日は西暦7月27日、早めの台風か。最近20年云々は話の盛り過ぎ。 . |
. . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 |
. 7月 5日 乙巳 . 吾妻鏡 |
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来月の鶴岡八幡宮放生会に将軍家が御参宮の際に参加する随兵など、供奉人の選抜招集を行った。 . |
. . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 |
. 7月14日 甲寅 . 吾妻鏡 |
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放生会での供奉を通告された佐渡前司 後藤基綱が障り (一般的には支障、病気を差す例もある) を申し出た。大きな支障ではないと聞いたため重ねて参加を求めたが考えは変わらなかった。 . また回廊で待機する人々の中で備後前司 町野 (三善) 康持が障りを申し出た。 . .
※日蓮宗資料: 前年4月に安房国 清澄寺 (公式サイト) で法華
宗を立教開宗した 日蓮が鎌倉に入ってこの頃に辻説法を始めた、と伝わる。 .. 本格的な布教と他宗への激しい誹謗中傷は正嘉元年 (1257) 10月の大地震に伴う社会不安以後らしいが、この年から 「辻説法」 を始めたのは史実と思われる。 . 日蓮が布教の根拠地にした松葉ヶ谷の草庵 (岩窟説あり) が現在の 安国論寺 (公式サイト) の前身と伝わっている。日蓮はこの草案で 立正安国論 (Wiki) を執筆して文応元年 (1260) 7月16日に執権 北條時頼に提出し、後に弟子の日朗が草庵の近くに安国論寺を建てた。寺伝は建長五年 (1253) に日蓮が開いたとしているが、それでは大地震と時期が合わない。 . また小町大路を説法跡 (地図) としたのは推定で明確な根拠はないし、いくら何でも幕府庁舎の 2~300mの至近距離で幕府批判の演説はムリだろうし... . 実際には本覚寺の前 (地図) にあった蛭子神社が明治維新の「神仏判然令」により約200m北に移転した、その旧蹟辺りで本覚寺山門の付近だったのは間違いない。聖跡に相応しい空き地が確保できないため現在の場所を「説法の跡」と定めた、とか。信者には聖地だけど所詮は「鰯の頭も信心から」だからね。 . 右上は小町通の宇都宮辻子幕府に近い「日蓮辻説法の跡」、 クリック→ 別窓で拡大表示 |
. . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 |
. 7月17日 丁巳 . 吾妻鏡 |
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相模守 北條時頼邸で加持祈祷が始められた。 . |
. . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 |
. 7月20日 庚申 . 吾妻鏡 |
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供奉人の参加について更に催促があった。支障を申し出ている者は下記の通り。 . 布衣 (略礼服の狩衣) . 右馬権頭北條政村 尾張前司北條時章 駿河四郎北條兼時 佐渡前司後藤基綱 新田太郎※ 出羽前司小山長村 下野七郎宇都宮経綱 左衛門大須賀次郎胤氏尉 左衛門尉土肥三郎維平 伊豆太郎左衛門尉実保 左衛門尉加地七郎氏綱 左衛門加籐三郎景経 常陸次郎兵衛尉二階堂行雄 (少し気に懸かる事がある、とのこと) . 随兵 . 陸奥六郎北條義政 (七郎 (異母兄の業時の通称が五郎または七郎) を代理とする、と) 千葉介頼胤(支障あり、と) . . ※新田太郎: 寛元二年 (1244) 6月17日の吾妻鏡に、惣領 新田政義の無断出家により所領の一部 が没収された、との記事がある。更に政義の持つ新田惣領権は 新田義重の四男 世良田 (得川) 義季と岩松時兼 (新田義兼の外孫) が引き継ぐとの処分を受けて隠居を余儀なくされた。 ..
従って新田本宗家は既に一族の惣領権を奪われているのだが、新田本宗家の当主 (つまり新田太郎) の立場を継承したのは政義の嫡子 政氏と考えて良い。
. ちなみに 、文永九年 (1272) に勃発した北條氏の内紛 「二月騒動」(Wiki)で北條時宗が異母兄の 時輔を殺した際に謀反を企んだ嫌疑で討伐された 北條教時の妹を妻にしていた世良田義季の嫡子頼氏が佐渡流罪となり、父の正義に替って政氏が新田氏惣領として復権を許されている。 右は新田政義が建立した新田荘 円福寺の一族廟所。 画像をクリック→ 政義失脚の経緯や遠因を書いた 金剛院円福寺 にリンク。 |
. . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 |
. 8月 5日 乙亥 . 吾妻鏡 |
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吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ . 晴。彼岸の初日。御所の御持仏堂で法華懺法 (コトバンクを参照)が始められた。僧の数は12人。 . |
. . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 |
. 8月10日 庚辰 . 吾妻鏡 |
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雨、夜になって晴。丑刻 (深夜2時前後) 、東方に白い虹 (兵乱の兆しとされる) が見えた。 . |
. . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 |
. 8月11日 辛巳 . 吾妻鏡 |
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晴。彼岸懺法の結願日を迎えた。 導師は左大臣法印、花山院中将師継と尾張少将清基と中御門少将公仲から各々法華経を唱和した僧への布施が贈られた。渡し役は那波左近大夫政茂と能登左近蔵人仲時ら。 . |
. . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 |
. 8月15日 乙酉 . 吾妻鏡 |
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曇。鶴岡八幡宮で放生会あり。巳刻 (10時前後) に小雨。将軍家 宗尊親王が南面の階の間に出御し、為親朝臣が御祓いに任じた。 陪膳 (給仕) は伊豫中将公直朝臣、運んだのは右近大夫那波政茂。 . 御出の行列 . 先陣の随兵 . 武田三郎政綱 南部次郎実光 三浦介(佐原)盛時 遠江十郎佐原頼連 大曽祢次郎左衛門尉盛経 出羽三郎二階堂行資 越後右馬助北條時親 備後三郎北條長頼 遠江六郎北條教時 陸奥七郎北條業時 . 次いで前駈 . 能登左近大夫北條仲時 那波左近大夫政茂 . 次いで殿上人 . 次いで(将軍家の)御車 . 小野寺新左衛門尉行道 土肥四郎実綱 山内籐内左衛門三郎通廉 右衛門次郎三善康有 紀伊四郎右衛門尉 左衛門大曽祢太郎長経 梶原上野次郎 狩野左衛門四郎景茂 平賀新三郎惟時 肥後弥籐次 以上は直垂を着して帯剣、御車の左右に列す。 . 御劔役人 遠江前司北條時直 御調度 . 御後(布衣) . 相模右近大夫将監北條時定 尾張三郎北條時章 武蔵太郎北條朝房(朝直の長子) 中務権大輔足利家氏 参河前司新田(世良田)頼氏 出羽前司二階堂行義 壱岐前司後藤基綱 和泉前司二階堂行方 壱岐前司佐々木泰綱 大隅前司嶋津忠時 伊賀前司時家 周防前司嶋津忠綱 長門前司笠間時朝 遠江守佐原光盛 上野介梶原景俊 城九郎安達泰盛 和泉次郎左衛門尉二階堂行章 上野太郎梶原景綱 左衛門尉大曽祢長泰 佐渡五郎左衛門尉後藤基隆 和泉五郎左衛門尉天野政綱 筑前次郎左衛門尉二階堂行頼 隠岐三郎左衛門尉二階堂行氏 左衛門尉小野寺四郎道時 肥後次郎左衛門尉狩野為時 城次郎安達頼景 右衛門尉三善康長 薩摩七郎左衛門尉伊東祐能 左衛門尉伊賀次郎光房 狩野五郎左衛門尉 紀伊次郎左衛門尉為経 足立三郎左衛門尉 左衛門尉加地七郎氏綱 肥後四郎兵衛尉大見行定 弥善太右衛門尉 左衛門加藤三郎景経 鎌田兵衛三郎義長 . 後陣の随兵 . 相模八郎北條時隆 武蔵八郎北條頼直 長井五郎時秀 上野三郎畠山国氏 河内三郎左衛門尉祐氏 肥後次郎左衛門尉天野景氏 小田左衛門尉時知 右衛門尉田中知綱 阿波四郎兵衛尉政氏 阿曽沼小次郎光綱 . |
. . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 |
. 8月16日 丙戌 . 吾妻鏡 |
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晴と曇、夜になって激しい雨。将軍家 宗尊親王の出御は昨日に同じ。 . |
. . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 |
. 8月17日 丁亥 . 吾妻鏡 |
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快晴。相模守 北條時頼は風邪気味で暫く蟄居していたが今日初めて出仕した。 . |
. . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 |
. 9月 4日 癸卯 . 吾妻鏡 |
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吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ . 降雨と強風、巳刻 (10時前後) に静まった。連日の雨で農地が被害を受けたため雨を止めるための祈祷があり、前浜 (由比ヶ浜) で安倍宣賢、為親、廣資、晴憲、晴定、泰房、文元らによる七瀬祓い※を行なった。 . 各々が海に向かって列座 (東が上座) し 二階堂行義と 行方が立ち会った。七人の中で文元を上首 (筆頭者) と指定したが、各々が席順の不満を申し立てた。 将軍家からは列座せよとの指示があり、文元は西側に移動し一町 (約100m強)を隔てて着座した。 . . ※七瀬祓い: 雨乞いは七ヶ所で行うのが通例 (寛喜二年 (1230) 11月13日を参照) だが、雨が降り 止むのを祈るのは稀な事例か。 . |
. . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 |
. 10月 2日 辛未 . 吾妻鏡 |
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吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ . 西国での土地の境界争いについての決裁があった。荘園領主である本所の決裁に委ねるべきであり、訴訟があっても審議する必要はない。ただし鎌倉の支配下にある所領 (平家没官領など) に関しては訴訟を受け付けるよう、六波羅に指示した。 . |
. . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 |
. 10月 4日 癸酉 . 吾妻鏡 |
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快晴、戌刻 (20時頃) に突然豪雨、雷鳴に霰 (あられ) が混じり暁に再び耳を驚かす雷鳴が数回あった。 . |
. . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 |
. 10月 6日 乙亥 . 吾妻鏡 |
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. . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 |
. 10月10日 己卯 . 吾妻鏡 |
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鎌倉中の保々の管理人が守るべき規則について、厳しく守るよう指示があった。また政所の下部や侍所の小舎人 (共に下級職員) が鎌倉での騎馬を禁じることも併せて命じた。 .次に押買 (市価より安く強引に買い取る) などの禁止も万年九郎兵衛尉に指示した。壱岐前司 後藤基政と小野澤左近大夫入道光蓮が担当奉行に任じる。 |
. . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 |
. 10月12日 辛巳 . 吾妻鏡 |
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公家 (京都朝廷) から申し入れのあった六波羅の検断 (刑事事件の処理) についての判断があり、今日御教書 (命令書) が発行された。内容は以下の通り。
. 御成敗式目の発布以後は命令書を根拠としない武士の派遣および狼藉は無条件に禁止している。 .どうしても必要な場合は事情を報告し、改めて許可を得ること。また人倫売買 (人身売買) については延応の宣下状※を守って全面的に禁止されている事を再確認せよ。 . ※延応の宣下状: 延応元年 (1239) 4月14日の吾妻鏡に以下の記載がある。 勾引人 (かどわかし犯) 及び人倫を売買 (人身売買) を行なう輩を捕らえ禁止させる事。嘉禄元年 (1225) 10月29日の宣旨を守るよう命じる。 . |
. . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 |
. 10月17日 丙戌 . 吾妻鏡 |
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. . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 |
. 11月 5日 甲辰 . 吾妻鏡 |
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吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ . 熊野本宮の造営※に関し、雑掌※の訴訟参加について決裁があった。また熊野本宮領の美濃国垣富など各地の地頭等、色代※を止めて現物 (米) を納付せよとの仰せが下された。 . .
※熊野本宮造営: 建長三年(1251)2月27日に百錬抄の記事、
「戌刻に熊野本宮が焼失」 が載っている。4年近く過ぎて再建の話が出るのも変だが。 .. 当時の熊野本宮は現在地ではなく直線で約1km南の熊野川の中州 「大齋原」 (地図)にあった。現在地に遷ったのは明治二十二年 (1889) の熊野川洪水で神域が流失し被害を免れた四つの社殿が現在地に再建 (と言うか、移設?) されたという経緯がある。 . 右は大齋原に続く高さ34mの大鳥居。 画像をクリック→ 大齋原を含めた 熊野三山巡拝記 (別窓) で。 ※雑掌: 一般的には国衙の下級官人。この記事の場合は熊野本宮の代理人として荘園に関する 訴訟や年貢の徴収に任じていた下級荘官。 .※色代: 租税の納付を米など既定の品ではなく他の産物や銭で納付すること。既定の品が不足 した場合の他に代替品との交換比率の違いによって利益を得るのを目的としたケースもあり、平安時代の中~末期から室町時代まで行なわれていた。
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. . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 |
. 11月16日 乙卯 . 吾妻鏡 |
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晴。足利左馬頭入道正義 (義氏の法名) の病状が重篤であるとの連絡があった。相模守 北條時頼が見舞いのため足利邸※に入った。 . .
※足利邸: 足利氏の系譜は当代の正義(義氏)→ 泰氏→ 頼氏
→ 家時→ 貞氏→ 高氏 (尊氏) と続いている。 .. 鎌倉時代後期の 足利高氏邸は亀ヶ谷坂を東に下った角、現在の 宝亀山長寿寺 (別窓) の場所にあった。 . 五代を遡る正義の頃から足利邸がここにあったとする物証または記録は見当たらないが、可能性もあるという事で紹介しておく。 観音堂裏手の「やぐら」には尊氏の遺髪を葬ったらしい古い石塔が保存されている。 . 右は鎌倉街道から登る 長寿寺 (紹介サイト) の山門。亀ヶ谷坂側に面した脇門からも庭園を眺められる。世俗臭のない、清々しい寺域だ。 画像をクリック→ 長寿寺訪問の頁 (別窓) へ。 |
. . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 |
. 11月17日 丙辰 . 吾妻鏡 |
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. . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 |
. 11月18日 丁巳 . 吾妻鏡 |
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晴。酉刻 (18時前後) に大地震があった。 . |
. . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 |
. 11月21日 庚申 . 吾妻鏡 |
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晴。入道正四位下行左馬頭源朝臣 足利義氏 (法名正義) が死去した。 . |
. . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 |
. 12月 1日 己巳 . 吾妻鏡 |
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吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ . 五組の引付(裁判担当事務)の再編成を行なった。 . 一番 前右馬権頭北條政村 佐渡前司後藤基綱 備後前司町野(三善)康持 . 二番 武蔵守北條朝直 出羽前司二階堂行義 式部大夫入道伊賀光西 縫殿頭(新加) 左衛門尉清原満定 越前兵庫助政宗 .皆吉大炊助文幸 対馬左衛門尉仲康 三番 尾張前司北條時章 掃部助北條実時 常陸入道二階堂行久 大曽祢左衛門尉長泰 城次郎安達頼景 民部大夫大江以基 .大田太郎兵衛尉三善康宗 長田兵衛太郎広雅 四番 和泉前司二階堂行方 武藤左衛門尉武藤景頼 対馬前司三善(矢野)倫長 前太宰少弐狩野為佐 那波左近大夫将監(新加) 深澤山城前司俊平 .甲斐前司宗国 山名中務丞俊行 雑賀太郎(新加) 五番 筑前前司二階堂行泰 参河前司教隆 民部大夫三善(太田)康連 長井太郎時秀(新加) 明石左近将監兼綱 進士次郎蔵人 .三善刑部丞 (新加) 越前四郎経朝 対馬左衛門次郎 |
. . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 |
. 12月12日 庚辰 . 吾妻鏡 |
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今日、御所に於いて評定があった。その後に相模守 北條時頼が将軍家 宗尊親王に召されて御前に参上し準備された酒肴を受けた。北條一門の若輩および佐渡前司 後藤基綱、和泉前司 二階堂行方、前太宰少弐 狩野為佐以下の宿老多数が列席し、魚や鳥などを持ち込ませて調理して振舞った。 .. 相州時頼は大いに楽しみ、酒宴は歌舞演芸のような有様だった。 |
. . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 |
. 12月17日 乙酉 . 吾妻鏡 |
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今日、内記兵庫允祐村が染鞦※の故実を言上した。別の仰せに依ったもので、祐村の家は代々上総国で染鞦を管理している。 . . ※染鞦 (しりがい) : 馬の尻飾り (染物) 。画像は goo国語辞書で。上総国 (千葉県中部) の特産だ ったらしいが、どんな故実があったのかは確認できない。 . |
. . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 |
. 12月18日 丙戌 . 吾妻鏡 |
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御所で光源氏物語についての講話があった。解説者は河内守親行※。 . . ※河内守親行: 村上源氏の 源光行の嫡子。親子共に源氏物語の著名な研究者。祖父光季は平家 に与したため死罪になる筈だったが、光行の嘆願により 頼朝の赦免を受けた (吾妻鏡の寿永三年4月14日と22日を参照) 。鎌倉期には「光源氏物語」の呼称は普通だったらしい。 .. 光行は頼朝に才能を愛されて政所別当に就任、鎌倉と京都を往復する生活を続け幕府と朝廷の双方に重用された。承久の乱 (1221) では逡巡の末に 後鳥羽上皇に味方し、嫡子親行の嘆願と光行の才能を惜しんだ人々の努力により助命の許しを得た。 . 親子二代が才能により助命の運に恵まれた (吾妻鏡の承久三年8月2日を参照) 。親行は父と交替する形で鎌倉に下向し 実朝、藤原頼経、宗尊親王の三代に仕えて和歌奉行を担当、父の跡を継いで源氏物語研究にも足跡を残している。 |
. . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 |
. 12月20日 戊子 . 吾妻鏡 |
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今日の評定で御家人の官職について追加の決定があった。本来は特に秀でた才能や功績が推薦する前提だが、将軍近習の場合は臨時の申請も考慮し人柄を見極めるのが必要である、と。担当奉行は左衛門尉清原満定。 . |
. . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 |
. 12月23日 辛卯 . 吾妻鏡 |
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評定衆および然るべき大名以外の者は公私の別を問わず外出の際に騎馬の従者を伴ってはならない。 そもそも公務の儀式でない場合には従者の数を減らすように、と侍所司等に指示を下した。 . |
. . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 |
. 12月25日 癸巳 . 吾妻鏡 |
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. . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 |
. 12月26日 甲午 . 吾妻鏡 |
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頼朝法華堂の別当僧に命じて (非公式に) 不動護摩を開催。費用負担は相模守 北條時頼、(前日の) 法華堂震動への対処である。 . |
. . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 |
. 12月30日 甲戌 . 吾妻鏡 |
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新年の御行始め (外出初め) の供奉人について、庭の筵 (むしろ) に設けた座席に置く名札を書き出して将軍家 宗尊親王の許諾を得た後に該当者に通告した。 . |
. . | . 12月17日 . 晴耕雨読 |
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15時 30分、建長六年 (1254年) が終了。昨日の買い物は順調だったし、車検の手配 (来年の連休明け) も廉価版の予約がスムーズに確保できた。 .
ブルーベリーの根元の雑草を抜いていた妻が芽を出している水仙の集団を発見、早速立ち入り禁止の保護エリアに指定した。私が掃除すると雑草も球根も一緒に除去差されるからね。撮影した状態のスポットが数ヶ所あったようだ。天然か?それとも前の住人が植えたものか?. 今日は妻のホウレン草の畝に手入れが必要との事で、夕飯の準備を依頼された。買い置きの 「丸美屋 舞茸山菜 釜めしの素」 に油揚げと干しシイタケを三合の米に炊き込むだけだから 30分で済む簡単料理だ。 . 漬け物は赤カブのキムチと白菜漬け、汁はワンタンスープで済ませる、らしい。 . 正月用に、3リットルの 「大関のものも」 を二本とアルコール8%のビールを 1ダース買って来たから、自家製の梅酒 (ソーダ割り、またはお湯割り) で楽しい正月を迎える。それまでに吾妻鏡の校正が住むかどうか、微妙だね。ま、今夜は日本酒の味を確認する。 . |
. . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 |
建長六年 . 月 日 . 吾妻鏡 . |
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