
. . 82代 後鳥羽天皇 . |
. 月 日 . 「袖書」として |
この年の 1月1日から 建久十年 (1199) 2月3日までの約三年一ヶ月の間は吾妻鏡の記載なし。何らかの理由で逸失した、或いは抹消&廃棄されたと推定される。他の史料に見られる事件を、目に留まる限り列挙する。 . 建久七年一月〜建久十年一月まで約 37ヶ月の欠落について、一文を添えて置く。 . . 吾妻鏡の欠落については古くから諸説があり、一般的には 「原本が長い戦乱の中で失われた」 と考えられており「為政者である北條氏が都合の悪い部分を廃棄した」 と考える専門家はそれほど多くない。 . 欠落した三年間は鎌倉将軍が代替わりした特異な例で、「残せなかった理由」が散見されるから面白い。 以下は妄想 (笑) に依拠する私説である。妄想とした理由は、状況証拠は提示できるが物証が皆無だから。 . 頼朝の死没後に二代将軍を継承するのは 頼家。頼朝は建久六年 (1195) の上洛の際に、後継者としての頼家を朝廷に披露しているから、御家人への正式告知のタイミングは鎌倉に戻った同年夏〜翌建久七年の可能性が高いのだが、吾妻鏡の建久七年は欠落している。 . 更に面白いことに、本来なら建久五〜六年に催された筈の頼家元服についての記載が見られない事実。。一つ年上の 北條泰時の元服は建久四年 (1193) の 2月 2日に記載があるが、頼家元服の記事が載る筈の建久五年と六年は存在しない。 「なぜ頂点を極めた頼朝の跡を継ぐ頼家の公式行事記録が二つも欠落しているのか?」 . もう一つ気になるのは、頼家の嫡子 一幡の誕生 (建久九年 (1998) 、頼朝の生存中) に関する記述も失われている事。 「子煩悩な頼朝が溺愛する初孫を嬉々として披露する姿を吾妻鏡が載せない方が異様」 である。 . ここから想像できるのは、北條得宗の指示を受けた吾妻鏡の編纂者が、頼朝による「二代目鎌倉殿の頼家と三代目鎌倉殿に予定した溺愛する一幡を後継者として公式に披露した部分」を消すために 「三年間の記録を廃棄または最初から記録に載せなかったのではないか?」 という疑念だ。 . もちろん裏付けになるべき記録類は皆無だから所詮は想像に過ぎないのだが、頼朝の遺言が失われている事を含めて明白な意図が介在している、と私は考える。 . 頼朝の遺言が存在した事は、吾妻鏡の正治元年 (1199) 10月25日に 結城朝光が雑談の中で語った記事がある。 . 忠臣は二君に仕えずという。幕下に多大な恩を受けながら遷化の際の遺言に従って出家を遂げなかったのが悔やまれる。今の世の中を見ると、まるで薄氷を踏むような思いがする。 と。 .幕臣に対して「私の死後に出家してはダメだ」との遺言は残したけれど、「私の後継者に忠義を尽くせ」 とか 「頼家と 一幡を守って体制を維持せよ」とは言い残さなかったなんて有り得ない。遺言はあったのだが全部は公開せず、問題のない部分だけを伝えたのが事実だろう。 . 頼朝の遺言が公開に至らなかった理由、誰が隠したかを推理するのもまた、面白い。誰が何のために鎌倉殿の遺言を隠蔽したのか。近臣の仮面を付けた舅の時政か、或いはベターハーフを装った尼御前 政子か。 . 幕府の実権を掌握した北條執権は「初代鎌倉殿の意思に背き」更に「頼家と実朝の二代 (厳密には一幡を含む三代の鎌倉殿 ) に対する主殺し」を犯した記録を改竄または廃棄した、全て纏めて抹消させた奴がいる。 そう考えれば話の辻褄が合う。それが私の妄想である。 . 吾妻鏡の編纂時期 (吾妻鏡を読むために、を参照) は概ね正応三年 (1290) 〜嘉元二年 (1304) の頃と考えられているから、九代執権 貞時 か 十代執権 師時 (Wiki) の時代で、悪役のイメージとしては貞時っぽい。性格なら二代執権 義時 か 五代執権 時頼 なら...そんな先入観はあるが、編纂した年代には既に死没している。 . 時政か義時が執権の時代に「記録を残さなかったか、全て廃棄した」と考えたのが私の結論である。 . |
. . 82代 後鳥羽天皇 . |
. 6月25日 . 明月記 |
京都守護一条能保の兵が平知忠※を討ち取った。
.. ※平知忠: 平知盛の二男。都落ちの際は幼児 (満3歳、7歳説あり) のため父に同行を許されず、伊賀の 乳母の元で成長、一條能保の暗殺計画が露見して追討された。享年17歳、21歳説あり。 .. ※年令: 源頼朝 48歳、 万寿 (後の頼家) 13歳、 大姫 16歳、 三幡 (後の乙姫) 9歳、 千幡 (後の実朝) 3歳、
阿野全成 41歳、 .. 北條時政 57歳、 北條政子 38歳、 北條義時 32歳、 北條時房 21歳、 北條泰時 11歳、 千葉常胤 77歳、 千葉胤正 54歳、 三浦義澄 68歳、 足利義兼 42歳、 足利義純 19歳、 安達盛長 60歳、 大江広元 47歳、 畠山重忠 31歳、 梶原景時 55歳、 宇都宮朝綱 76歳、 宇都宮頼綱 17歳、 岡崎義実 84歳、 加藤景廉 39歳、 佐々木定綱 53歳、 二階堂行政 ??歳、 二階堂行村 39歳、 中原親能 49歳、 . 後鳥羽天皇 15歳、 九条兼実 46歳、 吉田経房 53歳、 土御門通親 45歳、 丹後局 44歳、 一条能保 47歳、 藤原定家 32歳、 定豪 43歳、 慈円 40歳、 法然 60歳、 親鸞 22歳、 . (全て1/1時点の満年令、一部の年齢は推定) |
. . 82代 後鳥羽天皇 . |
. 9 月 日 . 史料 |
.
三善康信が備後太田庄※の地頭職に任じた。
.. ※太田庄: 現在の広島県世羅郡世羅町甲山一帯 (地図) 、平家全盛の頃は橘一族の所領だったらしい。 . |
. . 82代 後鳥羽天皇 . |
. 11月23日 . 史料 . |
. . . ※強制退去: 去年の8月13日に皇女 (昇子内親王) を出産した。同年の11月1日 (12月2日説あり) に 土御門 (源) 通親の養女在子が男子 (後の後鳥羽天皇) を産んだため、父 兼実の失脚に伴って中宮 (皇后) の地位を追われた。 . |
. . 82代 後鳥羽天皇 . |
. 11月25日 . 史料要約 . |
.
九条兼実が関白を罷免された。必要な上表 (天皇への上奏) も行われず、後任には 源 (土御門) 通親に近い立場だが 「無能」 の評判が高い 近衛基通が任命された。愚管抄 (慈円の著した史論書) は通親が兼実の流罪を主張し、後鳥羽天皇が「そこまでの罪はない」と押し止めた、と書いている。 .. 兼実の弟 慈円は天台座主を、もう一人の弟 兼房は太政大臣を、それぞれ辞任。兼実に近い勢力は朝廷から一掃され、土御門通親が全ての人事権を掌握した。いわゆる 建久七年の政変 (Wiki) である。 |
. . 82代 後鳥羽天皇 . |
. の政変 史料要約 |
.
11月23日、土御門 (源) 通親との政争に敗れた 九条兼実は上表 (帝への奏聞書) も許されず関白を罷免された。後任は 「無能」 の評価が高かったが通親が擁立した 近衞基通 (Wiki) 。 .兼実の弟 藤原兼房 (Wiki) は太政大臣を辞任、弟の 慈円は天台座主を辞任となった。 . 兼実の家司 (概ね執事) 三条長兼は「兼実の屋敷を訪れる人は鎌倉殿の咎を受ける用心を」と書き残している。慈円は「愚管抄」の中で「通親は兼実の流罪を主張したが、後鳥羽天皇 (満16歳) が「そこまでの罪ではない」と制止した」と書いている。兼実が失脚した理由の一つは政治的な工作や駆け引きが不得手だった事、生真面目で融通に乏しかった事が挙げられる、らしい。 . 土御門 (源) 通親は、京都守護で 頼朝の従兄弟だった 一條能保の嫡子 高能を参議に、高能の義弟 西園寺公経 を蔵人頭に任じて頼朝と折り合いをつけたのだが、入内を容認した 大姫が建久八年 (1197) 7月14日に死没したため、頼朝の目算は白紙となった (続けて二女乙姫の入内を狙うのだが...) 。 . 更に同年10月13日には一条能保が、翌年10月19日には高能が相次いで病死。既に兼実も失脚していたため、次女 乙姫の入内計画を進めたい頼朝は信頼の置ける朝廷の窓口を失ってしまう。 . 盟友だった九条兼実失脚の犠牲を払ったのに結果として得る物がなかったため (今頃になって) 危機感を抱いた頼朝※は兼実に書状を送って改めての提携を申し入れ (玉葉の建久九年 (1198) 1月7日の記載) 、兼実も頼朝の動きに期待したのだが...同年12月の落馬事故が原因で翌年1月に肝心の頼朝が死没してしまう。 . 土御門通親は建仁二年 (1202) 10月に急死するまでの6年間 一強独裁を続け、以後 承久の乱が勃発する1221年 (頼朝存命なら74歳) までの約20年間は周囲を忖度集団で固めた 後鳥羽上皇の独裁が続くことになる。 . ※頼朝の危機感: この時期の頼朝が何を考えたのか。単純に娘の幸せを願った入内工作と、平清盛に 倣って帝の外祖父を狙った夢、加えて自らの京都回帰願望を叶えるという一石三鳥。頼朝が考えた優先順位が何だったのか、兼実を見捨てる以外に方策はなかったのか、は想像するしかない。 .それにしても、また「玉葉」を読み直さなければならない。解説書を探そう。 |
. . 82代 後鳥羽天皇 . |
. 11月27日 . 史料 |
.
和泉国の御家人に内裏大番役 (警護の任務) ※が命じられた。 .. ※内裏大番役: 史料では建久七年 (1196) から建仁三年 (1203) の和泉国守護は 佐原義連とされた。 九条兼実排斥に伴う朝廷内のトラブルに鎌倉の意思を反映させるため 佐原義連の手勢に内裏警護を命じた可能性は、あるか? . |
. . 82代 後鳥羽天皇 . |
. 月 日 . 史料 |
.
記事
.. ※: |
. . 82代 後鳥羽天皇 . |
. 月 日 . 史料 |
.
記事
.. ※: |
. . 82代 後鳥羽天皇 . |
. 月 日 . 史料 |
.
記事
.. ※: |
. . 82代 後鳥羽天皇 . |
. 月 日 . 史料 |
.
記事
.. ※: |
. . 82代 後鳥羽天皇 . |
. 月 日 . 史料 |
.
記事
.. ※: |
. . 82代 後鳥羽天皇 . |
. 月 日 . 史料 |
.
記事
.. ※: |
. . 82代 後鳥羽天皇 . |
. 月 日 . 史料 |
.
記事
.. ※: |
. . 82代 後鳥羽天皇 . |
. 月 日 . 史料 |
.
記事
.. ※: |