
. . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . |
. 1月 2日 辛巳 . 吾妻鏡 |
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※甘縄神明宮:60年後の宝治元年 (1247) 4月、隠棲中の高野山から
25年ぶりに鎌倉に戻った 安達景盛 (盛長の嫡子) に弱腰を叱咤された嫡子 義景と嫡孫 泰盛が三浦一族を討つため 西御門近くの三浦邸を目指して出陣したのもこの邸である。
.. 皆殺しにした三浦一族の怨霊を鎮めるため安達邸の裏山に大仏を建立した、そんな伝承も残っている。 関連して 極楽寺坂から小町口へ (別窓) も参考に。 . 右は「安達盛長邸跡碑」が建つ甘縄神明宮参道入口。 画像をクリック→ 甘縄神社と安達邸跡のレポート(別窓)へ . ※年令: 平家一門は能登流罪となった 平時忠や壇ノ浦で救われた 建礼門院徳子 (死没した 安徳天皇の 生母) を除く大部分が死没した。平家一門と同行した 守貞親王 (Wiki、安徳天皇の異母兄であり後鳥羽天皇の同母兄、 (本来なら後鳥羽より順位の高い皇位継承者) は救出された。 .. 源頼朝 38歳、 源行家 6月に追討 (享年40) 、 源範頼 35歳、 阿野全成 32歳、 源義経 26歳、 . 北條時政 47歳、 北條政子 28歳、 北條義時 22歳、 北條時房 11歳、 . 千葉常胤 67歳、 千葉胤正 44歳、 三浦義澄 58歳、 足利義純 9歳、 安達盛長 50歳、 大江広元 37歳、 畠山重忠 21歳、 梶原景時 45歳、 宇都宮朝綱 63歳、 土肥実平 60歳、 岡崎義実 73歳、 加藤景廉 29歳、 佐々木定綱 43歳、 藤原秀衡 61歳、 藤原泰衡 30歳、 藤原基成 64歳、 . 後白河法皇 58歳、 安徳天皇 前年4月に崩御 (享年7) 、 後鳥羽天皇 5歳、 九条兼実 36歳、 吉田経房 43歳、 土御門通親 35歳、 丹後局 34歳、 一条能保 38歳、 藤原定家23歳、 慈円 30歳、 法然 50歳、 . (全て1/1時点の満年令、一部の年齢は推定) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
. . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . |
. 1月 3日 壬午 . 吾妻鏡 |
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去年従二位に叙※された頼朝はまだ直衣 (高位の平服、詳細は Wiki) のままで、着初めの儀式をしていない。 .義経の謀反によって世の中は落ち着いていないが、民衆を安堵させるため今日この儀式を行なった。 . 左典厩 一條能保と平時家を伴って鶴岡八幡宮に参拝、武蔵守 (平賀) 義信、宮内大輔 (藤原) 重頼、駿河守 伏見 (藤原) 広綱、散位 源頼兼、因幡守 (大江) 広元、加賀守 (源) 俊隆、筑後権守 藤原俊兼、安房判官代高重 (?) 、籐判官代 藤原邦通、所雑色基繁 (?) 、千葉介常胤、足立右馬允遠元、右衛門尉朝家 (八田知家) 、 散位 (千葉常胤の六男、東胤頼) ら、および武装の随兵十人(下記)が従った。 . 武田兵衛尉有義、板垣三郎兼信、工藤庄司景光、岡部権守泰綱、渋谷庄司重国、江戸太郎、 市河別当行房※、小諸太郎光兼、下河辺庄司行平、小山五郎 (長沼) 宗政 . 還御後に会食。参拝の際に供の者は前庭の左右に分かれて列座し、胤頼は父 常胤に相対して少し下座に寄って座った。見る人は感心しなかったが、これは頼朝の意向である。 . 朝廷が父の常胤を六位、子の胤頼を五位に叙しているのは 平家が全盛の頃に大番役で京にいた胤頼は平家に頼らず、遠藤左近将監持遠の推挙を得て 上西門院に仕え五位を得た。 . また同じく持遠の縁で神護寺 文覚上人の仏弟子となり、文覚伊豆流罪の際に二人が心を合わせて挙兵を進言、父の常胤を真っ先に参陣させた功績は兄弟六人の中で最も優れている、と頼朝は語った。 . ※従二位: 叙位は4月27日、鎌倉には5月11日に通知が届いた。平宗盛を捕え引き渡した功績、と。 . ※市河別当行房: 甲斐源氏の一族。武田義清の末弟 覚義阿闍梨の嫡孫として平塩寺別当を継承、子孫は 戦国時代まで足跡を残している。詳細は 常陸武田郷から甲斐市河荘へ の末尾で。 . | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
. . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . |
. 1月 5日 甲申 . 吾妻鏡 玉 葉 |
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前中将 平時実朝臣が流刑地に行かないのみならず義経と行動を共にして罪を重ねたため鎌倉に連行し、西御門※の美濃籐次安平宅に拘禁している。尋問しても説明も謝罪もないのは承服していないのだろうが関東で公卿の罪は決められず、京に送り返す旨を決定した。
. また師中納言 吉田経房が院の使者として下向するとの情報がある。特に重要な案件でなければ来る必要はないし、去年の冬に送った公式書類に対する院の聖断を待つのみ、との通知を送った。 . ※西御門: 頼朝法華堂跡の約 100m西に石碑 (右画像) あり。 . . ※玉葉の記事: 未の刻 (14時前後) に蔵人次官定経が来訪、「この冬に派遣された宇佐和気使が途上で狼藉 を受けて任務に支障をきたした件を (非公式に) 北條時政に連絡して武士を派遣し鎮圧したが、更に播磨国 (兵庫県南部) で武士らの乱行を受けた。 (奉幣の) 神馬や神宝等などを放棄して逃げ帰った、と。 .※宇佐和気使: 天長十年 (833) に第54代仁明天皇が即位する際に、和気清麻呂の子息 真綱が勅使として 宇佐神宮 (公式サイト) に奉幣した。以後は (途絶もあったが) 即位の奉幣使を和気氏が務めるのが通例となり、宇佐和気使と呼ばれるようになった。 . | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
. . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . |
. 1月 7日 丙戌 . 吾妻鏡 |
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北條時政の飛脚が京都から到着。去る 12月26日に入洛して申し入れた件 (前中将 平時実の処分) 、翌 27日に朝廷の沙汰が届いた。解官 (解任) と配流について蔵人宮内権少輔親経が宣下を受け、別当の家通と籐宰相の雅長が除目※ (任免の書類) を書いた。 .
参議に源雅賢 (元の蔵人頭、右中将) 右大弁に籐原行隆 (元の右中弁) .左中弁に籐原光長 (元の権右中弁) 右中弁に源兼忠 (元の権右中弁) 権右中弁に平基親 (元の左少弁) 左少弁に籐原定長 (元右少弁) 右少弁に籐原親経 (元の蔵人、宮内権少輔) 左大史に小槻広房 (元の算博士、日向の守、38歳) 大蔵卿に籐原宗頼 (前の伯耆守) 右馬頭に籐原公佐 (元の侍従) 和泉守に籐原長房 (光長朝臣が譲る) 陸奥守に籐原盛実 (前の中納言雅頼卿が譲る、元の近江守) 近江守に籐原雅経 (参議雅長が譲る) 越中守に籐原家隆 (元の侍従、前中納言光隆卿が譲る) 越前守に籐原公守 石見守に籐原業盛 因幡守に源通具 (権中納言通親卿が譲る) 伊豫守に源季氏 (右大臣が譲る) 美作守に籐原公明 (左衛門督実家卿が譲る) 蔵人頭に籐原光長 (従四位上) 源兼忠に従四位下 . 解官は 参議平親宗 左大史小槻隆職 刑部卿籐原頼経 左衛門少尉籐知康 (大夫尉) 左衛門少尉信盛 (検非違使) 中原信貞 左馬権頭平業忠 兵庫頭籐原章経 . 配流は 前大蔵卿 高階泰経 (伊豆へ) 前刑部卿籐原 (難波) 頼経 (安房へ) . 議奏 (政策の奏上)に任じる公卿 右大臣は九条兼実 内大臣は徳大寺実定 皇后宮大夫 (三条実房) 中御門大納言 (宗家) 堀河大納言(中山忠親) 権中納言(吉田経房) 源中納言 (土御門通親) 左衛門督 (河原実家) 籐原宰相(籐原雅長) 左大弁 (籐原兼光) . ※除目: 前職を「除」して新職を「目録に載せる」から「除目」なんだって。 私は長い間「叙目」だと思っていた。馬鹿だねぇ。 . | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
. . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . |
. 1月 8日 丁亥 . 吾妻鏡 |
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. . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . |
. 1月 9日 戊子 . 吾妻鏡 |
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高野山の僧から苦情があったため 北條時政が指示を下し、更に寺領での不法行為阻止のため雑色を派遣した。 . 紀伊国高野山の荘園などに関し「兵糧米徴収と地頭職の配置を停止する件は高野山の意向に任せる」との下命が既に出ている。雑色守清を派遣し武士の狼藉を禁じる内容の命令書を発行するから遵守せよ、と。 .. 文治二年正月九日 時政の花押「平」 あり | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
. . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . |
. 1月10日 己丑 . 吾妻鏡 |
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摂津国貴志の輩が御家人に加えられた。但し鎌倉に出仕して番役を務める義務は課さず、京で左馬頭一條能保の警護に任じるよう定めた。 .. ※貴志の輩: 貴志義茂が一族郎党を率いて鎌倉に入ったとの記録がある。摂津国南部 (三田市 (地図) を 本拠とした武士団で、この年三月に時政と交替して京都守護に任じた一條能保の指揮下に入った。
元々の出自は紀伊国貴志荘 (現在の紀の川市貴志川町 (地図) らしい。 . | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
. . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . |
. 1月11日 庚寅 . 吾妻鏡 |
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高瀬庄については武士の関与を禁じる旨の命令が下され、更に時政が意見を添付した書類を師中納言 吉田経房に提出した。その内容は次の通り。 .高瀬庄 (現在の南砺市高瀬、地図) の件、既に兵糧米を拠出しているのだが新たに地頭惣追捕使を任命した。ただし狼藉事件が起きれば任命は撤回する、と。 . | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
. . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . |
. 1月17日 丙申 . 吾妻鏡 玉 葉 |
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吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ .. 昨年冬に鎌倉に下向していた左大臣吉田経房の使者が今日帰洛する。頼朝の返書が遅れたためだが、使者を派遣した成果はそれなりにあった。 . まず (頼朝追討の) 官符を義経らに与えたのは吉田経房の提案と聞いたため頼朝の怒りを招いたのだが、もしも宣下がなかったら 行家と 義経は洛中で謀反の決起をしただろう。官符を与えたからこそ彼らは九州を目指し、結果として君臣が共に安全だった、これがなぜ不義なのか。頼朝はこの主張を了解する結果となった。 . ※吉田経房の使者: 12月23日に「師中納言 吉田経房が使者として鎌倉に下向する、既に 後白河法皇も 認可した、との噂が鎌倉に届いた。」との記載があったが、経房ではなく使節の派遣 (職位と姓名は不詳) だったらしい。なぜか、吾妻鏡には使節到着に関する記事が載っていない。 .※玉葉の記事: 午の刻 (正午前後) に蔵人頭右中弁の兼忠朝臣が院 (後白河) の使者として来訪し曰く、 「前の少将 平時実は平家が (壇ノ浦で) 滅亡した際に捕虜として入洛し流罪に処せられたが配流地に行かず、賊徒 (行家と義経) と共に西を目差して逃げ、強風のため捕縛され関東に送致された。源二品 (二位に叙された頼朝) は札を付けて彼を送り返した。
. 曰く「罪科を定めたのに配所に赴かず鎌倉に送られた。私の職権で (公卿の) 処分はできないから送り返す、勅定により処置されたし。」と。 . | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
. . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . |
. 1月19日 戊戌 . 吾妻鏡 |
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. .部下は各々後任に就く願書を提出したが、朝廷の管理役である公卿の親宗と光雅が収賄し、同月 25日に能隆朝臣を補任した。これは規定を飛び越す人事であり、しかもこの二人は平家に与した逆臣である。奸計は既に露見しているから神慮にも悖る、と。これは光倫神主 (伊勢神宮の権禰宜) の訴えである。頼朝は事件の経緯や真偽を知らないため、そのまま朝廷に取り次いだ。 . ※伊勢神宮の人事: 養和元年 (1181) 10月20日に「光倫神主が鎌倉に入った」との記載あり。 利権か猟官に絡むトラブルの匂いもするが、そのうち追加の情報が出てくるかも。 .. . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 1月21日 庚子 . 吾妻鏡 . |
後白河法皇は今年 60歳の宝算 (天子の年齢の尊称) である。祝賀を述べると共に絹、白米、斑幔 (色違いの布を縫い合わせた幕) などを京都に送った。 .また去年申し入れた流刑などについて早急の処理を求め、三善康信がこれを処理した。 . . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 1月23日 壬寅 . 吾妻鏡 . |
頼朝は諏方 (諏訪) の上宮と下宮に神馬を寄進した。 ..
※諏訪大社: 公式サイトを参考に。上社は諏訪湖の南岸、下社は
は北岸の東側にひっそりと鎮座している。 .. 諏訪を通ったらまず下社 (秋宮) に参拝して 新鶴 (しんつる) で塩ようかんを購入。品切れ多くて特に美味でもないが、御土産には向いてるからね。 . それから諏訪湖東岸の甲州街道を南下して上諏訪の旧道沿いにある 宮坂醸造へ寄り道し 「真澄」 を試飲してから上社に向かうのが習慣だった。 . 私は運転担当のため 「真澄」 の試飲は主に妻の役目。最後に立ち寄った十数年前はガラスの猪口を 500円で買ってから数種類を自由に呑むシステムだった。妻曰く、「恥ずかしくて少ししか呑めない」、と。 . 時間が許せば、南岸の 片倉館 (豪華) か北岸の ロマネット (低価格で快適) でひと風呂浴びるのも楽しい。片倉館はかつての片倉製糸が、野麦峠を越えて来た飛騨出身の女工の福利厚生に建てた温泉施設が母体である。「女工哀史」の副産物か。 . 右上は秋宮宝物殿の裏手にある新鶴本店 (Pあり) 。クリック→ 別窓で拡大表示。 ※念のため: 諏訪湖北岸に近い下社には 秋宮 (神楽殿が重文) と春宮 (拝殿が重文) 、南岸に近い上社には 本宮 (総本社と拝殿が重文) と前宮 (まえみや、諏訪大社最初の本殿跡) がある。
.. 下社秋宮〜春宮のルート地図 と 上社本宮〜前宮のルート地図 を参考に。 . 鎌倉幕府とは鷹狩に関する接点が多い。寛元三年 (1245) 11月10日の記事も参照を。 . . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 1月24日 癸卯 . 吾妻鏡 . |
比叡山日吉の塔下彼岸衆の訴訟に関し、頼朝は鎌倉で処理する事例ではないため京都に取り次ぐ決定をした。吉田経房に宛てた書状の内容は次の通り。 . 法性寺領である小橋庄の三ヶ村を押領された。重家は 近衛基通から小橋庄を管理する業務を委ねられているのに衆徒は重家の押領だと主張している。いずれにしろ小橋庄内部の利権争いなので私が決裁する範囲ではなく、道理に従った処理をお願いしたい。 .. ※比叡山日吉: 現在の 日吉大社 (公式サイト) 。平安遷都に伴い都の鬼門を守る延暦寺が創建され、 天台宗の護法神として日吉を祀った。比叡山延暦寺と並んで、僧兵や神人 (じにん) による再三の強訴や高利貸や更には乱倫などの腐敗も名高い。
.. 法性寺の詳細は Wikiで。小橋庄は現在の大阪城南側一帯 (地図) を差す。 . . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 1月26日 乙巳 . 吾妻鏡 . |
摂録 (摂政の交代) について早く宣下されるよう京都に申し入れた。現在の摂政である 近衛基通※は義経反逆に関与した責任があり、 (更迭が遅れれば) 余計な噂も発生するだろう、と。 .. ※近衛 (藤原) 基通: 義経に院宣を発行した張本人と見られているが、前後の経緯を見ると平家との関係 より 九条兼実との政争に比重を置いた様に思える。頼朝追討の宣下に関与して弾劾された人物の記事 (前年1月10日と12月5日) にも基通の名は載っていない。 .. . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 1月28日 丁未 . 吾妻鏡 . |
一條能保と室 (頼朝の同母姉妹、坊門姫) が帰洛するため宿泊していた 足立遠元の屋敷を出発、それより前に頼朝と御台所政子が出向いて待機し餞別を贈った。帖絹※、白布、紺布、藍摺などの布と豪華な食事である。 .. また従者ためにも様々な絹布、羽皮などを持ち込んだ。夜を徹して宴を催し、更に備後国信敷庄※など数ヶ所の地頭職を室に贈与した。 . ※帖絹: 帖が単位 (例えば海苔一帖は10枚) なら貨幣経済に代用できる一定量の絹布の可能性がある、と 思うが無知蒙昧なので詳細は判らない。専門家の分野か。 .※備後国信敷庄: 現在の広島県庄原市峰田町一帯 (中国道庄原IC周辺、地図)、後世の毛利領。 . . . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 1月29日 戊申 . 吾妻鏡 . | . . . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 2月 1日 己酉 . 吾妻鏡 . |
吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
.. 一條能保夫妻と娘と息子※が鶴岡八幡宮に参拝して神楽を見物し 別当、供僧、職掌らが其々贈与を受けた。 近日帰洛するための措置である。 今日、北條時政が六条河原で群党(群盗?)18人を斬首に処した。このような犯罪に対しては検非違使に渡さず直ぐに処刑するべきとの判断による。 . ※娘と息子: 長女 (後の九条良経※室、19歳) と嫡子の 高能 (10歳) の二人だろう。 . ※九条良経: 摂政関白 九条兼実の二男。兄の良通が早世したため兼実の嫡子として従一位、摂政、関白 太政大臣に昇った。 .. . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 2月 2日 庚戌 . 吾妻鏡 . |
頼朝は諸国の国司任命についての条を京都に申し入れた。 (宛先は吉田経房)
.. 一.散位源邦業 前の対馬守親光を還任すべきである。関東への忠節のみならず朝廷にとって功臣でもある。 在任中は宣旨に従って神事と祈祷を行ない、八幡宮以下の神社を修復し復興に多大な寄与を果たした。
.一.散位源邦業※について。功績を挙げた源氏の一族で、下総国は私に任命権のある関東御分国である。 . 一.毛呂太郎藤原季光の国司について。太宰権師 季仲卿の孫で、穏やかな人柄は朝廷の賢慮にも適う。 同様に、御分国である豊後国司を推薦する。 .一.鎌倉御家人の任官について。遠国に住むため官職に就くのは慎むべきと考え、辞表八通を添付する。 . ※源邦業: 清和から四代後の醍醐天皇を始祖とする醍醐源氏の末裔。申し入れ通り下総国司に就任して いる。建久三年 (1192) には大江広元と共に政所別当に就任する。
.※豊後国司: 前任の 難波頼経は義経派として文治元年 (1185) 12月に安房流罪となり、翌年 3月の赦免後 も節を変えずに再び伊豆流罪、解官のまま建保四年 (1217) に死没 (従四位下) 。 .長男 宗長の子孫は難波家、次男 雅経の子孫は飛鳥井家として続き、蹴鞠と和歌の名家として鎌倉との交流を深めていく。今回は頼経の後任として藤原季光の補任を求めたらしい。毛呂季光は申し入れ通り豊後国司に着任している。 . . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 2月 3日 辛亥 . 吾妻鏡 . |
武蔵国の真慈悲寺※は源氏にとって祈祷を担う名刹だが荘園を持たず、本尊には仏具の備えもなく僧は衣食の蓄えさえも失っている。 .今日住僧の有尋が参上し、一切経の寄進と堂宇の修繕を申請したため、直ちに院主職 (住職) に補任した。 . ※真慈悲寺: 現在の日野市三沢の百草園 (地図) 一帯にあった巨刹 (詳細資料) 。平安時代末期に開基した 幻の古刹とも言われるが、不明な点も多いらしい。 .. . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 2月 4日 壬子 . 吾妻鏡 . |
御所の北側の山麓※で狐が子を産み、その子が頼朝の寝所に入り込んだ。占いに拠れば不吉の兆しで、去年から再三の変事が起きている。更に頼朝の夢に高位の僧が現れ「上皇を重んじるか、慎みを深くするかの思いを深くせよ」と語った。このため八幡宮別当の円暁が荒神供養の法業を行った。 .. ※北側の山麓: 大倉幕府跡の位置を考えると現在の頼朝の墓か 北條義時の法華堂跡付近で産まれた子狐 だろうか。まぁ、今でも狐が棲んでいても不思議じゃないような地域だけど。 .. . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 2月 6日 甲寅 . 吾妻鏡 . |
一條能保卿が室 (坊門姫) と姫二人※を伴い帰洛。昨夜頼朝は馬10匹を、御台所は室と姫に長絹 300疋を餞別にした。頼朝は能保の権中納言 昇進や、室を後鳥羽天皇の乳母に任じる件などを朝廷に申し入れている。 .. 今回の帰洛には鎌倉駐在の御家人や在国の御家人に警護兼任の供を命じた。岩原平三、中村次郎、比企籐次、土肥弥太郎、小楊士籐三、横地太郎、勝田三郎らであり、他にも宿場ごとの衛兵を手配してある。 . 能保が鎌倉にいれば打ち合わせや相談などが可能だが、京には事の大小に関わらず媒介できる人物がいないため、急ぎの帰洛を促したものである。また神仏への信仰の事、帝や院の事、朝廷の行事や義経の事、公卿への申し入れなどの様々を具体的に書き出して手渡した。 . ※室と姫二人: 吾妻鏡の 2月1日には「能保と室と男女御子息が鶴岡八幡宮に参詣」と書いている。 単純な編纂ミスか、それとも幼い末娘(後の西園寺公経の室、全子)を含めた坊門姫の家族全員の鎌倉訪問だったか。 .. . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 2月 7日 乙卯 . 吾妻鏡 . |
北條時政の使者が鎌倉に到着。先月23日に前の中将 平時実配流※の官符が下った。周防国を変更し上総国。 .今日、大江広元に肥後国山本庄を与えた。義経 行家謀反への対応 (守護の配置など) が優れていた事による。 . ※平時実 配流: 文治五年 (1189) に赦免され帰京し復権、建暦元年 (1221) に 60歳で従三位に叙され.る。 . . . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 2月 9日 丁巳 . 吾妻鏡 . |
吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ .. 北條時政の飛脚が京都から到着し院宣を届けた。定長の奉書に拠れば今春中に熊野詣を行いたいとのこと、熊野三山に納める供米を手配せよとの内容である。これは去る三日の夜に吉田経房から届いたものだが、今月中の返答を厳しく求められたため、直ちに手配したとの内容である。 上皇の熊野詣ではこの六、七年中断している。実施を思いつつ天下騒乱のため実現できなかったのは実に残念であると頼朝に伝えよ。 今月中に可否を知りたいから飛脚を送れと時政に命じた。また供物がないため米を手配せよとの仰せである。時政にもこの仔細を良く伝えるようにとの意向でもある。 .. 二月三日 左少弁定長 同日 師中納言 吉田経房 .
※熊野詣: 最多は 後白河上皇の 33回、後鳥羽上皇の 29回、
鳥羽上皇の 23回がそれに続く。 .承元の乱 (1221年) による配流がなければダントツで後鳥羽が最長不倒記録を樹立していただろう。 . 浄土に見立てた熊野本宮を目指すには、参詣ルート「中辺路」の出発点として三途の川に見立てる岩田川 (今の富田川、渡河地点) → 熊野本宮→ 熊野川を下って速玉大社→ 那智大社→ 山道を再び熊野大社に戻るのが正規らしい。 全体図 (別窓) も参考に。 . 車で移動し徒歩区間を減らして美味しい所を摘まみ食いした我が家の 熊野三山巡拝記録 (別窓) も、お口汚しにどうぞ。 右は熊野速玉大社の熊野御幸碑 (クリック→別窓で拡大表示) 。揮毫は当時の侍従長 入江氏。 . . . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 2月13日 辛酉 . 吾妻鏡 . |
北條時政の書状を携えた雑色が到着。静女を鎌倉に連行する、と。 .. また 1月23日と28日に洛中で群盗事件が発生、これを鎮圧して犯人を捕え 18人を斬首し首を晒した。日が過ぎて処分が甘くなるのを避けて検非違使には渡さず、即刻の処分を行なった、と。 . . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 2月18日 丙寅 . 吾妻鏡 . |
義経が多武峯に隠れているとの噂がある。これによって義経の (牛若丸時代の) 師である鞍馬の東光坊阿闍梨と南都の周防得業※が共謀した疑いがあり、彼らを鎌倉に召喚する。 .. ※多武峯: 前年11月17日に吉野で静が捕縛され 同月 22日には 「義経は吉野山の雪を越えて多武峰 (現在 の 談山神社、公式サイト)に向かった」 との記載がある。今頃になって 「噂がある」 なんて、情報が遅すぎる。 .※周防得業: 奈良興福寺の高僧聖弘。召喚を受け頼朝の前で兄弟の争いは不合理と、堂々と主張した。 . . . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 2月19日 丁卯 . 吾妻鏡 . |
供御の甘苔※が伊豆国から鎌倉に到着した。伊豆の名産で、通例の通り専使によって京に届けさせた。
..
※供御の甘苔: 上皇、皇后、皇子のために献上する食品で年貢
の一種で 供御人 (Wiki) がこれを扱う。 .現代で言えば「皇室御用達」 みたいなものか。 . 甘苔はたぶん岩海苔、外海に面した岩場に着く天然の海苔で磯の香りが強く、寒い時期に採れる。空き缶のフタなどを使って掻き取っている風景を今でも (極く稀に) 見掛けるよ。 . 右は「城ヶ崎海岸」の岩海苔採取風景。 今では珍しくなった、伊豆の冬の風物詩だ。 クリック→ 別窓で拡大表示。 . . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 2月21日 己巳 . 吾妻鏡 . |
弓削庄での地頭による兵糧米徴収※は停止せよと、院から 吉田経房を経て (在京の) 北條時政に命令が下った。 「徴収者を調べる」 との返答を受け、問題になる可能性を危惧した経房は取り敢えず院への報告を保留した。 .. ※兵糧米徴収: 武士による荘園公領の侵害事件が頻発している。義経に頼朝追討の宣旨を与えた弱点を 突いて (前年12月に) 守護地頭の設置を認めさせたが治安は安定せず、後白河は粘り強く苦情を申し立てて失地回復を図り始める。結果として地頭の全国配置は延期され、文治二年 (1186) 10月には「地頭は平家の没管領のみ」と、大巾に後退する。 .. . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 2月22日 庚午 . 吾妻鏡 . |
神崎庄※での地頭による兵糧米徴収は停止せよと、院から吉田経房を経て北條時政に命令が下った。太宰府の命令を確認し (九州惣追捕使の)
天野籐内遠景※に問合わせてから鎌倉に連絡すると答えた。
.. ※神崎庄: 肥後国 (現在の佐賀県神埼市) 旧神埼郡 (Wiki) の概ね全域だった皇室領で、この時点では . ※天野遠景: 歴戦の勲功により九州惣追捕使の地位を得たが荘園領主とのトラブルが多かったらしい。 最終的に建久四年 (1194) 前後に解任され鎌倉に戻っている。 .勲功で得たその他の所領も公収されて貧しい晩年を送ったとの記録が残る。 . . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 2月23日 辛未 . 吾妻鏡 . |
前の大史隆職宿祢※は不忠の逆臣として解職されたにも関わらず知行していた土地を専有し公文書などを隠匿している件について、朝廷への申し入れを指示した。大夫史広房が密かに訴え出たためである。 .. ※大史隆職: 前年12月5日の吾妻鏡の記事、朝廷への申し入れの一部に隆職に関しての記載がある。 更に 1月7日には隆職の解官が記載されている。 .. 左大史(太政官の職位)に関して、日向守広房を任命されし。現職の小槻隆職は頼朝追討の宣旨を書いたため、新しい政治の草創に不適である。 .ちなみに、解官された隆職の兄 永業の子が新たに任官した広房。従って親族の猟官運動も絡んでいたらしい。建久二年 (1191) に隆職が復権して左大史に任じ更に子の国宗が左大史を継承、国宗の没後は広房の孫が任じられ、広房の太政官復活は成らなかった。 . . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 2月25日 癸酉 . 吾妻鏡 . |
北條時政は去年から在京して武家に関する業務を執行し、その適正な処理は貴賎の賞賛を受けている。 .このたび或る者が時政の命令と称して七條細工の鐙 (あぶみ) を奪おうとしたため訴えられた。検非違使の担当が問合わせたため、驚いた時政は 今日以下の通り即刻の説明を陳べた。 入道鍛冶※が訴えている鐙については全く関知しておりません。もし身分の低い者に何か言い分があるのなら直接時政に問い合せれば済みます。些細な事を訴訟して蔵人を煩わせるのは誠に残念です。 .. ※入道鍛冶: 事件の詳細は判らないが時政を 「於事賢直 貴賎之所美談也」と賞賛しているのは吾妻鏡編纂 者の曲筆っぽい。時政は義経失脚後の前年 11月から京都守護に任じている。 .. . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 2月26日 甲戌 . 吾妻鏡 . | . . ※藤原時長: 伊佐郡 (茨城県筑西市) を本拠に伊達氏の祖となった伊佐氏棟梁朝宗 (常陸入道念西) 。 尊卑分脈は伊達蔵人藤原頼宗と記録している。しかし天下の史書「吾妻鏡」が最高権力者が女房 (女官) に手を付けた事を「日来有御密通依露見...」と書くのかね。 .※長門景遠: 政子の嫉妬は更に続いたため乳母も付けられず、景遠は赤子を連れ深澤付近に隠れ住んだ と伝わる。赤子は七歳の建久三年 (1192) 春に上洛し、仁和寺 (公式サイト) の隆暁 (一條能保の養子) の弟子として出家した。頼朝は出立の夜に密かに深澤を訪れ太刀を与えている。深澤は 梶原景時所縁の 御霊神社 の付近である。 .. . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 2月27日 乙亥 . 吾妻鏡 . |
安達新三郎が飛脚として上洛。その内容は 九条兼実を摂政に任じる提案も含んでいる。兼実は法住寺殿 (藤原忠通) の三男であり、その才能も知識も抜き出ている。
.. 現在の摂政 藤原 (近衛) 基通は以前から平家に近い立場であり、関東とは疎遠である。去年の義経謀反に伴う(頼朝追討の)宣旨にしても彼の提案が発端だったとの噂さえある。摂政着任に関しては以前から兼実にも提案していたところ、まだ時期が早いと遠慮する立場だったが、敢えて法皇の許諾を瀬踏みする意図らしい。 . また、北條時政には関東の懸案について相談すべき事が多いため早急に帰参するよう申し伝えた。京都守護職は既に 一條能保に指示しているためである。 . ※安達新三郎: ず〜っと前の読売夕刊の小説 宇田川心中 にこの名前があった。鎌倉時代から江戸時代を 経て現代まで、輪廻で固く結ばれた壮大な恋物語だった。単行本を探さなきゃ。 .. . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 2月28日 丙子 . 吾妻鏡 . |
頼朝が朝廷に申し入れた件 (2月2日) について、決裁が次の通りに下された。 .. 一.全国の荘園に対し、今後の兵糧米を免除する旨を命じて農民を安堵させること。今回の徴収により農家の 疲弊が甚だしい。既に徴収の理由もないから、その旨を各国に周知させるよう北條時政に指示されたし。
.一.肥前国神崎荘に於ける武士の横暴行為を停止させるよう(九州惣追捕使の)天野遠景に指示されたし。 . 一.後白河法皇の灌頂 (密教の儀式。詳細は Wiki で) の費用などの拠出を指示されたし。 . 一.筑後介に着任の兼能※は職務を果たさず叡慮に背くとの仰せが再三である。長く召し使わないように。 . 最後の二件は師中納言 吉田経房経由での処理が望ましい。 . ※筑後介兼能: 4月10日に吉田経房がこの件について私信を送っている。後白河の叡慮 (笑) かも。 . . . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 2月29日 丁丑 . 吾妻鏡 . |
中原信房※は造酒正※宗房の孫として優遇され、今日近江国善積庄を与えられた。これは圓勝寺領ではあるが信房が特に望んでいるため、宗房が重ねた功績に報いた結果である。 .. ※中原信房: 宇都宮氏初代とされる藤原宗円の二男中原宗房の長男または孫。造酒正は宗円だと考えて . ※造酒正: 新酒品評会に出そうな名前だ。造酒司は律令制で宮内省に属する官職で酒、甘酒、酢などの 醸造を司る部署で佐 (次官) は置かず 正 (かみ) 、佑 (じょう) 、令史 (さかん) が各一名。
.. . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 3月 1日 己卯 . 吾妻鏡 . |
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.. 諸国に惣追捕使と地頭を任命した中で 七ヶ国分の権利は 北條時政が朝廷から得たが、御家人との公平性などに配慮して地頭職を辞する旨を師中納言 吉田経房に文書で申し出た。 . その中で百姓を救済する一助として地頭の権限を保留にする事、横領行為を糺すため継続して惣追捕使の任を果たす事を申し述べている。経房は参議の藤原定長を経由してこれを奏聞した。 . 今日、義経愛妾の 静女が時政の命令に従って鎌倉に到着、母の磯禅師が同行している。藤原 (二階堂) 行政の差配により 安達新三郎宅に入った。 . ※守護と地頭: 前年 11月に朝廷が時政の申請に応えて守護 (惣追捕使) と地頭の設置を認めている。 時政が七ヶ国地頭の返上を申し出たのは取り敢えず荘園領主の反発を避けるためだが、後白河法皇には御家人の妬みなどを誘って鎌倉の混乱を招く意図があったのだろう。 .. 時政と頼朝は惣追捕使 (守護) は返上せず軍事と警察権を確保し、地頭の権限は先送りにして余分なトラブルを避けたらしい。利権を巡る鎌倉と朝廷のせめぎ合いは 承久の乱 (1221年) で力の差が圧倒的になるまで繰り返される。 . . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 3月 2日 庚辰 . 吾妻鏡 . |
昨日、師中納言 吉田経房が 今南庄 (神戸市東部) と石負庄 (兵庫県丹波市) の兵糧米徴収を止めよ、との院宣を 北條時政に伝え、今日それが文書で届いた。また時政が提出した (辞任などの) 件は院に伝えた、と 藤原定長 (後白河の側近) から経房を経由して時政に伝えられた。詳しい内容は次の通り。 . 時政の申し出は奏聞した。七ヶ国の地頭を辞退した件は感心だが、惣追捕使を辞さないのは何故か。 .農業を振興するために地頭職を停止して百姓の愁いを云々は兵糧米未納の件と同じで、先送りにしただけではないのか。また平家没官領の調査については頼朝から何らの申し入れもない。委細を確認して処理せよとの仰せで、非公式ではあるが不機嫌な御様子である。 先月、前宰相 (参議) 藤原光能の後室 (出家) の比丘尼阿光が鎌倉に使者を送り、代々相続してきた所領の丹波国栗村庄が武士の妨害を受けていると訴えた。今日、頼朝は早急に狼藉を停止するよう下命した。 . また、南都の大仏師 成朝を鎌倉に招いて勝長寿院仏像を造立させているが、同僚の仏師が留守を狙って成朝の職位を求めていると嘆いている。もしその様な様子があれば処理して頂きたいとの内容を書いて師中納言 吉田経房に依頼の書状を送った。成朝が訴えている内容は次の通り。 . 南都の大仏師成朝※が申し上げます。興福寺での造像について、早く他の仏師による作業を止めさせ代々の習慣に従い全てを成朝の造像に任せて頂きたい。この大仏師職は成朝の先祖から連綿と続き 定朝、覚助、頼助、康助、康朝と引き継いでいるものです。 .. 覚助と頼助の時代には興福寺の火災はありましたが (寺に専従する ) 大仏師を置きながら他の仏師に任せた例はありません。まして覚助と頼助は功績により開眼供養の際に綱位 (位階) を受けています。 . 今は成朝が伝統に従って造像に任じるべきなのに、他の仏師がそれぞれ職を望み勝手に造像を行なっているのは例えようもなく嘆かわしいことです。平家の時代に伝統が乱れたためでしょう。 . 中には定朝の弟子を称する仏師もいますが、比べてみれば優劣は明らか、伝統も技量も成朝を越える者はありません。成朝のみに任せるとの指示をお願いします。東金堂の造像など宣下を守って作業していたところ、鎌倉殿から御堂の造像を命じられたため突然関東に下向し、留守の間は院性※が希望して従事しているとの事、もし事実なら私に替ろうとしているのでしょう。道理に従っての判断をお願いします。 .
※成朝の苦情: 吉記 (吉田経房の日記) に拠れば、平家の都落ち以前の
の治承五年 (1182) にも院に訴え出ている。 .「興福寺の造像と補修は代々の奈良仏師が任じており院尊率いる院派仏師には何の権利もない」と。 ※院性: 同名の仏師は存在せず、院派の院尚 (仏師の系図を参照) かと 考えられる。成朝は院派仏師の進出を以前から恐れていた。 . 偉大な父 康朝と新進気鋭の康慶グループに囲まれて苦しみ続けた凡庸な仏師だった可能性もある。彼には謎が多く、下記の疑問点を調べてみたいと思う。 . 1.康朝の嫡流なのに作品が残っていない。私の知る限り、 関東では安田義定の菩提寺 甲斐放光寺の金剛力士像 (右画像、クリック→ 別窓で拡大表示)のみで、 私には特に秀でた大仏師による造像には見えない。 .更に詳細は前年 (文治元年) 10月21日に記述してある。 2.興福寺の造像途中で鎌倉に下向したのは本当に頼朝の招請によるのか。しかも興福寺には 成朝造像の記録さえ残っていないのは何故か。 .3.法橋に叙されたのは父 康朝の弟子康慶 (興福寺造像の指揮者) よりも 17年遅い建久五年 (1194) 、しかもこの時の康慶は一つ上の法眼に叙されている。康慶の嫡子 運慶は成朝より遥かに年下の筈だが、翌 建久六年に法橋になった。放光寺の像を見るたび、実力が伴わない職位に就いた者の哀れさを感じてしまう。腹側斜筋なんか稚拙に過ぎるもの。
.. . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 3月 4日 壬午 . 吾妻鏡 . |
朝廷の 主水司 (Wiki) の供御所 (供給地) である丹波国神吉※から、地頭職配置のため煩わしい問題が起きているとの訴えがあり、地頭職を免除するように北條時政に連絡した。大江広元がこれを差配した。
.. ※丹波国神吉: 現在の南丹市八木町神吉 (地図) の一帯。神吉の氷室神社を合祀した 幡日佐氷室両神社 (地図) もある。大堰川→ 保津川→ 桂川の水運を利用して氷や野菜を朝廷に納めていた。特に氷室で保存した氷は、朝廷にとっては夏の貴重品である。 .. . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 3月 6日 甲申 . 吾妻鏡 . |
静女を呼び、藤原俊兼と平盛時 (政所の官吏で頼朝の右筆) を介して義経の件を問い質した。以前に答えた吉野山※逗留は信用できないと問い詰めると、次のように答えた。 .. 逗留したのは山中ではなく僧房である。僧兵が襲ってくると聞き、僧の案内で山伏を装い大峯に入った。私は一の鳥居※まで従ったが、僧に女人禁制だと叱られて京を目指した。 .その後は従っていた雑色が金品を奪って逐電し、私は雪の中を蔵王堂に迷い出た。僧の名は忘れた。 頼朝は京で話した内容と違う部分があるから更に聴取せよ。大峯に入った、或いは多武峯を経由して逃げたなどの情報もあるから虚偽の可能性もある、と命じた。 . ※吉野山: 義経の逃走経路と静が彷徨った吉野山の地図や蔵王堂の画像などは 吉野山系の山岳信仰 (別窓表示) で。 .※一の鳥居: 神仏習合の金峯山寺には四つの門がある。一の鳥居は発心門 (銅の鳥居) 、次に金峯山と 書いた扁額の架かる仁王門を潜り山上ヶ岳まで 発心、修行、等覚、妙覚の三つの門を通って神仏の存在を感じつつ自然の胎内に入る。信仰心ゼロの私が書くのは笑止だが。
..
閑話休題...吾妻鏡の前年11月17日に、. 「亥の刻 (22時前後) に義経の妾女 静が吉野山の藤尾坂から蔵王堂に下ってきたのを怪しんだ衆徒が」 とあるため「地蔵堂より奥の大和本舗辺で捕らわれたか」と書いたのだが、3月6日の供述では「一の鳥居まで従って引き返した」とある。 . 一の鳥居より蔵王堂の方が約 17mも高地だから、少し矛盾するのは間違いない。 . まぁ些細な違いで特に問題ではないけれど「蔵王堂に下ってきた」の部分が気になってしまう。 道に迷ったと考えれば何の矛盾もないのだが。あ、藤尾坂は不浄坂の転訛、結界を示す。 . 現在は旧道 (石段) の上に建つ銅 (かね) の鳥居 (発心門、一の鳥居) 、高さ約 7.5m、兵火で焼失した南北朝時代の1248年の再建だが、最初は天平勝宝四年 (752) の東大寺大仏鋳造で余った銅を使って建立した、と伝わっている。 . 画像をクリック→ 上側から見た「銅の鳥居」の拡大画像 (別窓) へ . . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 3月 7日 乙酉 . 吾妻鏡 . |
(3月1日に) 北條時政が申し出た地頭辞任などの件は既に奏聞し、定長から 吉田経房を経て時政に渡された。 .奉書の内容は次の通り。 . 一.地頭を辞退する件、領民の愁いを防ぐため辞任するのは殊勝である。 . 一.惣追捕使の件、呼称を改めるだけでは地頭と変わらない。国ごとに又は広い荘園ごとに惣追捕使を置けば 義経と行家の探索にも役立つだろう。狭い土地に置けば騒乱が頻発し訴訟も無くならない。 .一.未納の兵糧米徴収の件、道理に従って処理するべきである。 . 一.没官領の件、頼朝に異論がないのなら特に申し述べることはない。 . 以上の趣旨で処理されたい。仔細には触れないから内容は斟酌せよ。 (田植えが始まる) 春までに農事を阻害したら全てが無為になり、寛容の心で処理すれば天意にも叶う。 . . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 3月 8日 丙戌 . 吾妻鏡 . |
源頼兼 (頼政の二男) が思い悩んでいる丹波国五箇庄について、頼朝は朝廷への申し入れを決めた。 .これは元々は 三位頼政の家領であり、治承四年の挙兵と敗死の後は 平宗盛が所有していた。今回の平家没官領の中から頼兼に与えられたが、後白河院が所有権を言い出したためである。 . ※丹波国五箇庄: 現在の南丹市日吉町 (地図、旧五ヶ荘村) 。頼政の妻 菖蒲は「逃げるのは五箇庄か、 故郷の伊豆か迷った」とあり、出典は忘れたが、詳細は 頼政挙兵の項 (別窓) で。 .. . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 3月 9日 丁亥 . 吾妻鏡 . |
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. 武田太郎信義が死没した。享年59、元暦元年 (1184) の嫡子 忠頼謀殺※など不幸が続いた失意の晩年だった。 .
. ※忠頼の謀反: 元暦元年 (1184) 1月16日に御所の酒席で謀殺。 もちろん謀反の露見などではなく甲斐源氏を分裂させて弱体化し統治する頼朝の計画である。 .. 嫡子を殺され甲斐源氏棟梁の地位も失った信義は失意の中でその生涯を閉じた。 . 右は山梨県韮崎市の鳳凰山願成寺に残る伝 武田信義の五輪塔。更に詳細は画像をクリックして、武田の郷の紹介 (別窓) の後半部分で。 . . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 3月10日 戊子 . 吾妻鏡 . |
かねて伊勢神宮領の地頭に指示していた年貢納付を精勤する件、今日正式に命令を下した。これは伊勢神宮に対して他と異なる信仰心を抱いている故である。
.伊勢国の神宮御領の御園 (畑) と御厨 (田) の地頭らに下す。 .神領での狼藉を停止し、領主および神官への納入分に関与※せず、領家と神官らの取り分に逆らわず、先例に従って納付せよ。不作により納付の不足が生じれば地頭の取り分から補填し、神への義務を欠かしてはならない。御園と御厨を管理する武士はこれを承知し、緩怠するべからず。 . ※納入分に関与: 前年11月28日に京都守護の 北條時政が 吉田経房卿を経由して朝廷に申し入れた。 「諸国の全てに守護地頭を置き、領家の地位や荘園の種類に関係なく、軍事用の糧食として一反当り五升の拠出を義務付ける。」 と。
.. 年貢から差し引いて徴収するため、換算すると領主には実質 5%程度の減収になる。11月12日に 大江広元が地頭の設置を建議したのが始まりだが、利権が絡むと簡単には定着せず、減収になる方も既得権の放棄に抵抗してトラブルが頻発する。 . . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 3月12日 庚寅 . 吾妻鏡 . |
小中太光家が使節として上洛。一條能保の息子が元服を迎えるため馬を三頭と砂金や絹などを収めた長持二棹を贈るためである。
また頼朝の知行国のうち年貢を滞納している荘園のリストが朝廷から届き、併せて管理者に催促せよとの内容である。 .三カ国 (下総、信濃、越後) について . 下総国 三崎庄 ( 藤原長者領)、 大戸神崎 (同)、千田庄、玉造庄 (三井寺領)、匝嵯南庄 (熊野領)、 印東庄 (成就寺領)、白井庄 (延暦寺領)、千葉庄 (八條院領)、船橋御厨 (院領)、 .相馬御厨(前)・下河辺庄(八條院領)、豊田庄、松岡庄 (按察使家領)、 橘と木内庄 (二位大納言)、八幡 信濃国 伊賀良庄(尊勝寺領)・伴野庄(上西門院領)・郡戸庄(藤原惣領家領)・江儀遠山庄・ 大河原鹿塩・諏訪南宮上下社(八條院領)・白川郷(諏訪上下社領)・小俣郷・熊井郷・ .落原庄(藤原惣領家領)・大吉祖庄(宗像少輔領)・黒河内藤澤(諏訪上下社領)・ 棒中村庄・棒北條庄・洗馬庄(蓮華王院領)・相原庄(相)・麻績御厨(大神宮領)・ 住吉庄(院領)・野原庄(同)・前見庄(雅楽頭濟盆領)・大穴庄(元左大弁師能領・ 近年忠清法師領)・仁科御厨(太神宮領)・小谷庄(八幡宮御領)・石河庄(御室領)・ 四宮庄南北(同)・布施本庄・布施御厨・富都御厨・善光寺(三井寺領)・ 顕光寺(天台山末寺)・若月庄(證菩提院領)・太田庄(殿下御領)・ 小河庄(上西門院御領)・丸栗庄(御室領)・弘瀬庄(院領)・小曽禰庄(八條院領)・ 市村庄(院領)・芋河庄(藤原惣領家領)・青瀧寺・安永勅旨・月林寺(天台末寺) ・ 今溝庄(松尾社領)・善光寺領(阿居・馬島・村山・吉野)・天台山領小市・ 東條庄(八條院領)・保科御厨・橡原御庄(九條城興寺領)・同加納屋代四箇村・ 浦野庄(日吉社領)・莢多庄(藤原惣領家領)・倉科庄(九條城興寺領)・ 塩田庄(最勝光院領)・小泉庄(一條大納言家領)・常田庄(八條院御領)・ 海野庄(殿下御領)・依田庄(前齋院領)・穀倉院領・佐久伴野庄(院領)・ 千国庄(六條院領) ・桑原余田(前堀河源大納言家領)・大井庄(八條院領)・ 平野社領(今八幡宮領。浅間社・岡田郷)・左馬寮領・笠原御牧・宮所・平井弖・岡屋・ 平野・小野牧・大塩牧・塩原・南内・北内・大野牧・大室牧・常磐牧・萩金井・高井野牧・ 吉田牧・笠原牧(南條)・同北條・望月牧・新張牧・塩河牧・菱野・長倉庄・塩野・桂井庄・ 緒鹿牧・多々利牧・金倉井 越後国 大槻庄(院領)・福雄庄(上西門院領)・青海庄(高松院領)・大面庄(鳥羽十一面堂領)・ 小泉庄(新釈迦堂領、預所中御門大納言)・豊田庄(東大寺)・白河庄(藤原惣領家領)・ .佐橋庄(六條院領、一條院女房右衛門佐局沙汰)・奥山庄(藤原惣領家領)・ 比角庄(穀倉院領)・宇河庄(前齋院領、預所前治部卿)・大島庄(藤原惣領家領)・ 白鳥庄(八條院領)・吉河庄(高松院領)・石河庄(賀茂社領)・加地庄(金剛院領・ 堀河大納言家沙汰)・ 於田庄(院領、預所備中前司信忠)・佐味庄(鳥羽十一面堂領・ 預所大宮大納言入道家)・菅名庄(六條院領、預所讃岐判官代惟繁) ・波多岐庄・ 紙屋庄(藤原惣領家領、預所播磨局)・弥彦庄(二位大納言家領)・ 志度野岐庄(二位大納言家領)・天神庄(前齋院領)・中宮(上西門院御領、預所木工頭殿) . ※荘園名簿: あ〜面倒くさい。そのうち時間ができたら詳細を調べることにして... 旅行で知っている地名が出ると何となく嬉しいね。例えば下総の玉造や下川辺、印東、信濃の遠山、白河、小谷、塩田、海野、依田、越後の青海、吉河、弥彦などなど。
.. . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 3月13日 辛卯 . 吾妻鏡 . |
関東御分国の年貢が平家討伐のため頗る停滞している。その分は免除を受け、今年から期日通り納入する旨を京都に申し入れた。文面は以下の通り。
. 治承四年の蜂起から文治元年まで (戦乱が続いて) 世間が落ち着かず、諸国の年貢が停滞している。農民が農業を忘れ平家の陣に加わり、関東の武士は合戦のため戦場をも往復し領国を管理する余裕もなかった。 .私が知行している相模、武蔵、伊豆、駿河、上総、下総、信濃、越後、豊後については去年までの年貢納入を免除して窮民を安堵させ、今年から前例通りにすべしとの宣旨を頂けるよう願う。 帥大納言(吉田経房)殿 頼朝 . ※関東御分国: 鎌倉将軍が国司任命権と徴税権をを持つ知行国主となり国衙領 (公領) を支配して国衙領 から収入を得る制度。文治二年時点では駿河、武蔵、伊豆、相模、上総、信濃、越後、下総、遠江 の 9ヶ国だが近年は三河を含む10ヶ国と考えれている。
. . . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 3月14日 壬辰 . 吾妻鏡 . | . . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 3月15日 癸巳 . 吾妻鏡 . |
伊豫前司 義経が各地を転々としている。今日、頼朝は所願成就の為として黄金造りの太刀を伊勢神宮に奉納した。この太刀は頼朝が度々の合戦に際して帯びていた一振りである。 .. . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 3月16日 甲午 . 吾妻鏡 . |
山城介久兼※が伊勢神宮御厨の年貢横領事件を処理するため使節として上洛した。また、頼朝は諸国の兵糧米徴収を暫く中止せよと 北條時政に命じた。現地の管理者から武士の狼藉を受けているとの訴えがあったためで、この件を上奏するよう師中納言 吉田経房に申し入れた。文面は下記の通り。 .諸国の国衙と荘園に関し、押領や狼藉を止めさせるため下文を発行し告知している。武士の中で特に目に余る者がいれば更迭し、廷臣の不正であれば院の決裁に委ねるつもりである。 .ただし、法皇は関与※していないと言っても既に宣旨を発行した例もあり、必ずしも根拠がないとも言えない。この旨も奏上して頂きたい。 師中納言殿 頼朝 . ※大江久兼: 前年 7月22日に下記の記載がある。 山城介久兼が頼朝の招きを受け京都から参着した。著名な神社の祭礼などで活動する優れた楽人で鎌倉でも必要になった専門職である。と。
幕府の官僚として伊勢国治田御厨の紛争※調査などに関与した。後に伊勢常楽寺荘の地頭に任じたとの説もある。 .※治田御厨: 三重県四日市の伊勢神宮領。畠山重忠が地頭に任じたが現地の目代が領家の伊勢神宮と 紛争を起こした。吾妻鏡の 9月27日に下記の記載がある。 .. 畠山重忠が囚人として 千葉胤正に預けられた。代官の悪事を伊勢神宮の神官 長家が訴えたためである。重忠は代官の行為を知らなかったと謝罪したが所領四ヶ所を没収された。 ※法皇の関与: 不勉強なので文面の内容は良く判らない。「鎌倉に苦情ばかり言うけど、あんただって 頼朝追討の宣旨を出したじゃないか」の意味ならば、嫌味の一つも言いたい気持ちは理解できる。「それを伝えろ」って言われた吉田経房の立場も辛いけど。 .. . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 3月18日 丙申 . 吾妻鏡 . |
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.. 加賀守俊隆※は去年の秋から召抱えた人物で、当時は儀式の際に頼朝の前駆過 (行列の先頭を進む前触れ) を務める知識と経験のある人物がいなかった為である。 . 義経反逆に対応して御家人を派遣した際に俊隆の所領の一つ 尾張国中島郡で予期せぬ押領があったと俊隆が 嘆き訴えた。頼朝は 「俊隆は在国の御家人と同じ。狼藉は認めない」 と該当する御家人に厳しく言い渡した。 . ※加賀守俊隆: 素性が判らない。「去年の秋」 には該当の記録なし、吾妻鏡の初出は今年 1月3日の頼朝の 鶴岡八幡宮参詣行列で、村上源氏の大蔵卿源師隆の息子の可能性もあるが、そうすると 70歳近い高齢で鎌倉に転職した事になり、やや不自然に感じる。素直に受け取って構わないかどうか。 .. . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 3月21日 己亥 . 吾妻鏡 . |
全国の兵糧米徴収を停止せよとの後白河宣旨が発行された。これは神社、寺院、摂関 (藤原長者一門 ) 、公卿ら領家の全てから苦情が殺到したため協議を重ねた末の結論で、朝廷には既に通告済みである。
.. また法皇の 灌頂 (Wiki) に関わる費用※は俊兼が差配し、駿河と上総の頼朝所領から玄米を千石、各地の所領から白布千反と絹百疋を拠出する、と。 . ※灌頂の費用: 2月2日に頼朝から朝廷に数件の申し入れがあり、その返事が 28日に届いている。 . . . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 3月22日 庚子 . 吾妻鏡 . |
静女の件、詳細を問い詰めても義経の居所は知らないと答え続けている。義経の子を妊娠※しているため、出産後に釈放するとの命令が下された。
.. ※静女の出産: 男子を産んだのは閏 7月29日 (西暦 9月14日) だから、受胎したのは前年の10月20日前後 (西暦の 11月10日前後) の計算になる。土佐房昌俊が六條室町の義経邸を襲撃したのが 10月17日だから (理論上は) その直後だね。当時の静は 18歳、短い後半生が始まる。 .. . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 3月23日 辛丑 . 吾妻鏡 . |
北條時政が関東に帰る旨を奏上した。後白河法皇は時政の在京が気に入っており引き止めたが、頼朝の命令に従うことになる。 京の治安※を誰に任せるのかとの勅問があり、吉田経房を通じて返事を奏上した。内容は以下の通り。 . 勅問の内容は謹んで預かり早急に鎌倉に伝えます。時政の下向は再三命じられているため、25日には出立しなければなりません。院の天王寺御幸や京都の守護は武士を駐留させ、一條能保様も在京しますから心配は無用ですが、この二点には重ねて申し継ぎをしておきます。 平時政 請文(上位者への報告) .. ※京都守護: 吾妻鏡では着任の記事が確認できないが、時政の後任は一條能保が建久八年 (1197) まで 務めた。後任の高能 (能保の長子) が約一年勤めてから平賀朝雅が継いでいる。 .. ちなみに、頼朝は京都守護に任じた高能との縁談 (建久五年 (1194) 8月に) を進めようとして 大姫に「そんなことしたら死んでやる!」 と拒絶されている。 格調高く原文を引用すると、「及如然儀者可沈身深淵」、然る儀に及べば身を深淵に沈めるべし、か) 。 . 別に高能の魅力云々ではなく、原因は 志水義高との辛い別離の思い出に起因する。 . そして建久八年 (1197) 、頼朝は長く盟友だった 九條兼実を切り捨てるという大きな犠牲を払って兼実の政敵だった 土御門通親と 丹後局 (高階栄子) 連合と手を握り、大姫の入内(後鳥羽天皇妃)を計画するが...晩年の計画は何一つ実現しなかった。 翌 建久九年7月に大姫は病没、その翌年には頼朝も死没してしまう。 . . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 3月24日 壬寅 . 吾妻鏡 . |
前の摂関 近衛基通の所領を現在の摂関 九條兼実に移すか否かを頼朝が検討している。これを聞いた近衛基通が書面で後白河に愁訴し、今日 吉田経房が 北條時政に詳細を問い合せた。時政は鎌倉の確認を急ぐと返答した。また播磨国守護人の 梶原景時)について訴え※があった在庁官人からの二件および梶原景時からの一件は、景時が差配して解決せよとの命令があった。
.. 近日中に北條時政が帰国するため、後白河が名残を惜しんでいると吉田経房が伝えてきた。私心を忘れて公務を執った事への評価である。下向に際しても穏当な代官を任命して地頭らの管理に当たらせるべきだと求めたが、適任者がいないし安易に任命したら後顧の憂いとなると固辞し続けた。ただし治安維持に関しては頼朝の指示に従って北條(平六)時定※を任命した。 . ※訴えの処理: 守護である景時に対する訴えを景時に処理させるとは面白いね。東電経営陣の原発事故 責任を問う訴訟を起こしても検察が不起訴にする、そんな結果になるんだと思う。官僚機構の互助関係は平安末期から進歩していない、という事か。誤助奸計だね。 .※北條時定: 兼時 (時政の兄弟) の子とされているが、時政以前の北條氏系図は信用できない。 時政と兼時の関係も、長序か同腹か異腹かも判らず、そもそも時政の父親が時方か時兼か或いは別人かも不明だ。 .. . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 3月26日 甲辰 . 吾妻鏡 . |
紀伊権守 豊島有経を使者として丹波国篠村庄を松尾の 延朗上人に寄進した。 元々は 平重衡卿の所領で、後に恩賞として得た義経が延朗上人に寄進した土地である。 .. 上人は領内の年貢を廃止し念仏宗の布教に務めたが、寄進してくれた義経が謀反を起こしたため返上を申し出ていた。上人は源氏の祖である 源満仲の血を継ぐ対馬太郎義信の子であり、仏典に秀でた人物である。 . ※丹波篠村: 源氏に縁の深い、現在の亀岡市篠町篠上中筋。詳細は こちらのサイトで (別窓) 。 . . . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 3月27日 乙巳 . 吾妻鏡 . |
北條時政は関東に出発するにあたって洛中を警護するため優れた武士を選び、名簿※を 吉田経房に提出した。 内容は下記の通り。 . 平六兼仗時定、あつさの新大夫、の太の平三、やしはらの十郎、くはヽらの次郎、ひせんの江三、 さかを四郎、同八郎、ないとう四郎、彌源次、ひたちほう、へいこの二郎、ちうはち、ちうた、 うへはらの九郎、たしりの太郎、いはなの太郎、同次郎、同平三、やわたの六郎、のいらの五郎六郎・ 同三郎、同五郎、しむらの平三、とのおかの八郎、ひろさわの次郎、同弥四郎、同五郎、同六郎、かうない、 大方の十郎、平一の三郎、いかの平三、同四郎、同五郎 以上三十五人 三月二十七日 平(判) . . ※名簿: 記載は概ね原文通り。平仮名が多いのは時政を含む東国武士の識字レベルなのか、他に理由が あるのかは判らない。識字レベルについては 新田義重の置き文 も参考になる。 .玉葉の記事:左馬頭 一條能保が来訪、関東に関する情報を伝えてくれた。 . . . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 3月29日 丁未 . 吾妻鏡 . |
去年、鎌倉の要求により (義経に関与などで) 罪を受けた人々について、朝廷では刑の減免を求めて頻りに協議を巡らしていた。特に前大蔵卿 高階泰経の嘆きは大きく、大江広元に使者を送って窮状を訴えた。これに同情した広元は遠流の中止を上申し、頼朝の許可を得て返状を送った。 .処罰に関しては院からも再三の要請があり、原因となった叡慮 (頼朝追討の宣旨発行) を怒ってはいるものの近臣に大きな罪がないのは理解し、遠流は取り敢えず中止になったのを喜ぶべきか。所領などについては未定だが院に奏上して善処を頂くのが宜しかろう。詳細は使者から聞いて頂くように。 前因幡守広元 .. ※高階泰経: 頼朝追討の宣旨を義経に与えた責任者として前年 12月29日に大蔵卿豊後権守を解任。 1月7日にはさらに伊豆流罪を宣下されているが、同17日には「頼朝が 吉田経房の使者による事情の説明などを理解した」旨の記載があり、処分の中止は既に決まっていた。 .. . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 4月 1日 戊申 . 吾妻鏡 . |
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.. 京を出発した 北條時政は尾張国萱津宿※に到着した。ここで先月 26日の頼朝書状を携えて鎌倉から来た使者に出会い、自分の書状 (内容は以下に) を添えて師中納言 吉田経房卿の許に送った。 1日に萱津宿※に到着、ここに届いていた頼朝からの書状に同封する。大蔵卿 高階泰経も刑部卿 難波頼経も北面の人々 (院を警護する武士) も、死罪も当然であるという自覚に欠けている。 .今回の件は後白河法皇の叡慮に非ずと言っているが、頼朝は院の判断だったと考えている。この旨は確実に院に奏上するべきだと考える。 平 (北條) 時政 大夫屬殿 .
※萱津宿: 愛知県の旧海部郡甚目寺町。平成10年に七宝町、美和
町、甚目寺町が合併して 「あま市」 になった。 .鎌倉街道 (後世の呼称) が五条川を東西に横切り、西岸を美濃街道が南北に通っている (地図) 。 . 少し南、臨済宗妙心寺派の 長光寺は 小野篁 (Wiki) が地蔵を安置したのが創建で、平治三年 (1161) には 平頼盛が六角堂を寄進した、更に若い頃の織田信長の遊び場だったと伝わる古刹である。 . 右画像をクリック→ 別窓で拡大表示 . 建久六年 (1195) 2月には上洛途中の頼朝一行が、嘉禎四年 (1238) 2月には四代将軍 藤原頼経が、建長四年 (1252) 3月には六代将軍となる 宗尊親王が、それぞれが萱津に宿泊することになる古代からの要衝である。 . . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 4月 2日 己酉 . 吾妻鏡 . |
前刑部卿 難波頼経と前大蔵卿 高階泰経らには流刑の官符※が下され、両人とも今後は誤りをしないと頻りに陳謝している。難波頼経については帰京を認める旨を朝廷に申し入れる。また北面の武士に関しては朝廷での恩恵に甘んじて驕り昂ぶる傾向があるから厳しく戒めて召し使うように、と。 .. ※流刑の官符: 高階泰経の方は赦免されず、文治五年 (1189) 8月に再出仕が許されるまで 3年8ヶ月を 流刑地の伊豆で過ごしている。伊豆の何処だろう? 帰京の二年後には従三位から正三位に昇叙しているから、やはり官僚としては優秀な人材だったらしい。
.. . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 4月 3日 庚戌 . 吾妻鏡 . |
安楽寺※別当の安能僧都は平家のために祈祷をしたとの情報があるため調査せよと京都守護職 (一條能保) に指示した。宇佐大宮司公通の書状などを添付した。 .. ※安楽寺: 太宰府天満宮を差す。菅原道真 (Wiki) は太宰府に左遷された翌々年には死没。道真の遺骸を 運ぶ牛車が安楽寺の門前で動かなくなったため道真の遺志と考えてその境内に葬った。 .. その後の都では天変地異や疫病が発生し、道真の祟りと考えた朝廷は醍醐天皇の勅使として藤原仲平を派遣し、廟所の上に社殿を建てて安楽寺天満宮と称し道真の怨霊を鎭めようと考えた。これが太宰府天満宮の創建である。 . 宗との交易も含めて太宰府と平家の関係は古く、新興の武士団だった平家は大宰府を根拠地にして九州に勢力圏を築いていた。義仲に追われた平家の九州入りは、太宰府で政務を執らせていた原田種直 (前年2月1日に記載) らと共に九州を制圧して源氏に対抗しようと考えたのだが、結果としては見捨てられた末の滅亡に至ってしまった。 . そんな経緯が背景にあって安楽寺別当安能は平家のために祈祷を行なったのだろう。宇佐八幡宮の宇佐公通 (元暦二年5月8日には嫡子公房が平家のため祈祷した件を叱責されている) も平家側で対馬守や豊前守に任じられているから、添付した書状は密告ではなく二人の協議記録だったと考えられる。 . . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 4月 4日 辛亥 . 吾妻鏡 . |
三条の宮 以仁王の侍だった右兵衛長谷部信連は、配流の官符を受けた宮を拘束するため乱入した検非違使らと戦って宮を三井寺に逃がす功績を挙げた。そして今、頼朝に臣従するために参向し、過去の功績により御家人とする旨を西国に駐在している土肥実平から連絡を受けたが、現在は安芸国司から検非違使の任務と荘園の公務を命じられているため暫くは手を離せない、と連絡があった。 .. ※信連の奮戦: 治承四年 (1180) 5月15日の吾妻鏡に、以仁王邸で検非違使と戦った時の経過が載って いる。今回 御家人の処遇を望んで接触したのは実平の窓口で、実平が鎌倉との仲介を能動的に務めた可能性が高い。
.. . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 4月 5日 壬子 . 吾妻鏡 . | . 兼能の件※は実に残念ですが特に気を悪くする事ではないと考えます。周辺に確認しても 後白河法皇の苦言だけで特に失策は見られず、このまま召し使って構わないと考えます。院での連絡や訴訟も無難に処理して人に嫌われる事も見えません。私の印象では聖人や若い荒武者のような任務ではなく重要な案件を委ねれば良いと思います。彼を召し使わないのは院にとっても当人にとっても損失であります。 .. ※兼能の件: 前年 10月27日に 「朝廷への使者 筑前介兼能 (村上源氏の文官) が京に向かった 」 との記載が ある。ところが後白河に嫌われたらしく 「筑後介として着任の兼能が職務を果たさず叡慮に背くとの情報が再三あり長くは使えない。」との通知が 吉田経房経由で頼朝に届いていた。以後の処遇は不明だが、好き嫌いの激しい後白河の性癖が原因だと思う。 .. . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 4月 7日 甲寅 . 吾妻鏡 . |
後白河法皇の灌頂 (※、Wiki) 費用は京に送る旨を決めた。筑後権守 藤原俊兼と 三善康信の差配とし、雑色を使者として派遣する。 (約束の) 供米は既に発送し、その他の絹などは陸路を搬送させてある。 .. ※灌頂の費用: 2月2日と28日と3月21日に関連する記載がある。 . . . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 4月 8日 乙卯 . 吾妻鏡 . |
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.. 頼朝と御台所 (政子) が鶴岡八幡宮に参拝し、舞曲を演じさせるため静女を回廊に召し出した。これは以前からの仰せにも関わらず (3月1日に鎌倉入りしてから) 病気を理由に演じなかったためである。今の境遇では断れないのだが (謀反の罪で追われている) 義経の妻として公の場に出るのは憚られる、と言い逃れていた。 . しかし静女は天下に知られた舞の名手で、間もなく鎌倉から去ることになる。その芸を見られないのは無念であると御台所が繰り返して奨めるため、彼女を召す運びとなった。八幡大菩薩の御意にも沿うだろう、と。 . 今は別離の悲しみが深くとても舞曲を披露する気持ちではないと更に固辞したが、再三の命令を受けて白い袖を翻して黄竹の歌※を演じた。武勇の一族ながら六位の蔵人として朝廷に務めた経験のある 工藤祐経の鼓と 畠山重忠の銅鼓が拍子を合わせ、これに続いて静女が歌い始める。 . 吉野山 峯の白雪 踏み分けて 入りにし人の あとそ恋しき 次に別の曲を演じ、再び和歌をくり返し吟じた。 しつやしつ しつの をたまき くりかえし むかしをいまに なすよしもかな .社殿の梁の塵さえも震える程の素晴らしさに観衆は上下を問わず感動に浸ったが、頼朝は怒った。 八幡宮の神前で芸を披露するなら関東の繁栄を祝うべきなのに、私の前で謀反人の義經を慕う歌を演じるとは奇怪である。
.御台所政子は頼朝に語り掛けた。 . 貴方が流人として伊豆に住んだ時に契を結んだのに、父の時政が平家を憚って私を閉じ込め、私は貴方を慕って暗夜に迷い豪雨に耐えて貴方の元に逃げた※。また石橋山合戦の際には独り伊豆山に残り、貴方の生死も知らず魂が消える思いをした。 .それは今の静女の心と同じ、義経への思慕を忘れるのは貞女の姿に非ず。舞姿の内に風情を表し動きに中に心情を露すのは実に幽玄である。枉 (ま) げて賞翫されよ。 頼朝は怒りを鎮め、暫くして卯花重の御衣※を御簾から押し出し褒美として与えた。 .
※黄竹の歌: 詳細は こちら から本文へ、「しつのおだまき」の由来
も書いておいたからご笑覧を。 .. 話のついでに書くと、頼朝は建久四年 (1193) 5月に勃発した「曽我の仇討ち事件」が勃発する直前に現場近くの白糸の滝を見物し、流れてきた苧環 (おだまき) の花を見て歌を詠んだ。 この上に いかなる姫や おはすらん おだまき流す 白糸の滝 . 頼朝が見た苧環と静女が歌った「おだまき」、関連は私説 曽我の仇討ちと白糸の滝 (別窓) で。 . 右上は日本の在来種 「深山おだまき」。機織りの糸巻きに似た姿からの呼び名らしい。 画像をクリック→ 似て非なる、我が家の庭を彩る西洋オダマキ (別窓) へ。 ※政子の恋愛: 曽我物語の影響を受けて鎌倉時代中盤以降に編纂された話だ。ましてや、既に 大姫を 産んでいた政子が 平兼隆との婚礼から逃げたなんて、吾妻鏡は週刊誌か?(笑) . .※卯花重の御衣: 埼玉県栗橋市の伝承では、静女は現在の利根川 近くで病没した。彼女の遺品は古河の光了寺にあり、後白河法皇から拝領した蛙蟆龍 (あまりょう、幼い龍) の御衣※が保存されている。 .. 将軍 頼朝が与えた卯花重の御衣はない (捨てたか、売り払ったか) 、静女の愛と誇り、だね。 . 栗橋に残る静女の史跡 (別窓) を参照されたし。 ※蛙蟆龍の御衣: 後白河が静女に御衣を与えた話は 神泉苑祈祷会 および本文に詳細を記載してある。 .右画像は幕末の安政二年 (1855) 編纂の地誌 利根川図志 (Wiki) に載っていた静女の遺品に関する絵図と記事。 画像をクリック→ 「静女の墓所と遺品が残る光了寺」へ。
.. 現在は現物の撮影禁止 (ケチ臭いね) 、一点のみ 朝日新聞 (外部サイト) で確認できる。 . . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 4月13日 庚申 . 吾妻鏡 . |
京から戻った北條時政が参上し、頼朝の質問を受けて詳細の報告を行なった。特に義経と行家に与して謀反した輩の所領検査を建議したが、これは認められなかった。 .次に前摂政 近衛基通の家領を 現摂政の 九条兼実に譲る件は、色々言い繕って結論に至っていない、と報告。 . 次に播磨国守護人梶原景時の国衙領横領容疑の件は在庁官人と景時の主張が異なり、結論が出ていない。 次に今南と石負の両庄と弓削杣の兵糧米について、再三中止せよとの院宣が出ているため早急に地頭を召喚※すると奏上した。いずれも先月 24日に出した頼朝の命令通りである。 . . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 4月15日 壬戌 . 吾妻鏡 . |
小中太光家が左典厩 一條能保からの返状を携えて京都から戻った。先月の 25日に息子 (高能) が元服、理髪 (前髪を落とす役) は右中将 実教朝臣、加冠 (烏帽子親) は内府
徳大寺実定 (Wiki) が務めた、と。 .. ※高能が元服: 3月12日に頼朝の命令を受けた 中原光家が祝賀の品を京に運んでいる。 後に頼朝は高能と大姫の縁組を計画するが、志水義高が殺されたトラウマを抱えている大姫に 「そんなことしたら死んでやるからね!」 (原文は「可沈身於深淵之由被申云々」、身を深淵に沈めるべし)と脅かされて中止になった。 .徳大寺実定は頼朝の信頼を受け 能保の腹心として活躍し建久二年 (1191) に死没する。 . . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 4月20日 丁卯 . 吾妻鏡 . |
新しい摂政 九条兼実一族の所領について、頼朝が朝廷に申し入れた。その趣旨は、下記の通り。 .前摂政 近衛基通の妻 (故平清盛の娘 盛子) の所領と称して興福寺領 (春日大社所領を含む) 以外を全て占有している。政治を司る任務を担う摂政が摂政家の所領を継承しないのは異常である。前の摂政は祖父 忠実の娘 (鳥羽天皇妃) が継承した荘園 50ヶ所を家領として知行すれば良い、それが道理に沿った手法である。 .. また、義経と行家が今も洛中にあり比叡山の悪僧らを巻き込んで謀反を企んでいるとの情報があった、武装兵を派遣して捜索すべきだろうと師中納言 吉田経房に申し入れるため源刑部丞為頼 (元 知盛卿の家臣で故 為長の縁戚)) が使節として京に向かった。 . ※源為頼: 満快 (経基の五男、下野守) →満国 (長男、甲斐守) →為満 (長男、甲斐守) → 為公 (長男、信濃 守) →為基 (五男、蔵人) →為行→為遠→為長→長清→と続く家系。 .. 為公は信濃国伊那郡上ノ平城 (地図) に本拠を置いて勢力を伸ばし、為基は所領の一部 片桐郷 (地図) を継承して片桐 (片切) を名乗った。為遠の弟 為重は保元の乱で 源為義に従って戦死、平治の乱でも 義朝に従って所領を没収されたが、為長 (又は長清) の代に頼朝から所領を安堵された。源刑部丞為頼は為遠の兄弟から八代後の子孫。 . 蛇足だが秀吉と柴田勝家が戦った「賤ヶ岳の七本槍」の一人 片桐且元は為頼の子孫である。 ※蛇足の蛇足: 治承四年 (1180) 9月10日、頼朝と同様に以仁王の令旨を受けた 武田信義の軍勢は伊那に 進み、大田切郷の平家与党を討っている。その16km南が片桐郷だからね、この時点で 平知盛の家臣だったら片桐且元の先祖も討たれた可能性もあった、のかも。 .. . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 4月21日 戊辰 . 吾妻鏡 . |
遠江守 安田義定が遠江国から参上し、湖や岩室※周辺などで義経を捜索しているが発見に至っていない、と。頼朝は御前に召して酒宴を催し、遠江国での様子を尋ねた。 .. 義定は「勝田三郎成長※が去る六日に玄蕃助に任じたのが最も慶事、次に狩猟のため二俣川に行ったところ 9頭の鹿が一列になって走るのを弓手 (左手) に見た。私と息子の 義資と浅羽三郎※が馬で追い、これを悉く射て取った。皮を持参している。」と語ったため頼朝は喜んだ。 . 5枚を頼朝に、3枚を若公 (後の頼家) に献じ、別の1枚を酌をした 小山 (結城) 朝光に贈った。頼朝は「成長の任官について、前もって相談もせず独断での申請は不遜である、是正の手続きをせよ。」と申し付けた。義定は赤面し軽率に語った事を悔やんだ。 . ※湖や岩室: 遠江国 (静岡県西部) で湖と言えば浜名湖のこと、岩室は磐田市北部の獅子ヶ鼻で平安〜 室町期に繁栄した密教系の巨刹。巨大な礎石や堂塔跡が発掘され、北側の谷からは大日如来像の頭部 (120cm) などが出土し獅子ヶ鼻公園として整備された (地図) 。「岩室廃寺」で検索すると資料や画像など多数あり。有志による調査レポート (別窓) も参考に。 .※勝田成長: 保元の乱では義朝の与党として「遠江国の勝田」の名が見られ、義定の系累ではなく源氏 累代の郎党らしい。建久六年 (1195) 3月10日、頼朝上洛の随兵の中に勝田玄番助の記載がある。玄蕃助は戸籍や儀礼などを統括する治部省に属し、僧尼名簿の管理や仏事や使節の饗応などに任じる玄蕃寮の二等官。 .. 蛇足・・・都に近い琵琶湖がある近江国、都に遠い浜名湖 (今は汽水湖) がある遠江国。 ※浅羽三郎: 遠江国の豪族として頼朝に協力し、養和元年 (1181) に浅羽荘 (袋井市浅羽、東小学校と 円明寺の周辺 (地図) が館跡らしい) の庄司を安堵された宗信の子。弟に小三郎行光と五郎行長がいる。吾妻鏡の養和元年3月13日に「平家に備えた防御線構築に (在庁官人) 浅羽庄司宗信と相良三郎らが協力しない」と義定が頼朝に訴えた記載がある。その後に関係を修復したらしい。 .. . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 4月24日 辛未 . 吾妻鏡 . |
陸奥守 藤原秀衡入道の書状が到着。朝廷に献上する馬や砂金は先ず鎌倉に送るから中継して京都に送るよう依頼する内容で、先頃に送った書状への返事である。頼朝が送った書状の内容は以下の通り。 .秀衡は奥六郡の主で頼朝は東海道の惣官。魚水の関係にあるべきだが距離を隔てるため意思の疎通がままならない。国土の献上品である馬と金は私が差配し鎌倉を経て朝廷に送るのが勅命に沿うことになる。 .. ※ 西の平家と東の鎌倉と北の秀衡が鼎立した時代は終わり、頼朝の覇権を阻むのは奥州藤原氏のみ。 頼朝は秀衡を格下に扱って圧力を加え始める。そもそも馬や金は鎌倉経由なんて勅命は存在しない。 .. . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 4月30日 丁丑 . 吾妻鏡 . |
朝廷での議論が喧々諤々として鎮まらない。頼朝は内府 徳大寺実貞ら太政官の議決を奏上する立場の公卿に書状を送り、誠実に議論を重ねて善政を行なうよう求めた。 . 天下の政道は集まった公卿の審議によって高潔を保ちます。 .それぞれが私心も諂いもなく、賢慮のみに従って行われるべきです。私は武士の家に生まれ朝敵を倒す功績を挙げましたが、長く遠国にあったため未だに政治の詳細を理解しておりません。 . もし理解していても、政務を担う立場ではないため口出しする事はできませんが、人の悩みを散じるため一度決裁した事は、頼朝の申し出であっても理不尽な変更や撤廃を行うべきではなく、正しい判断が求められます。勅宣や院宣が下されても、それが朝廷や世の中の騒乱を招くものであれば、何度でも訂正の奏上をするべきです。奏上を恐れて躊躇するのは忠臣の務めではありません。 左大弁宰相殿 頼朝 . 別紙 追伸 以上は摂政家 (九条兼実) から周知願います。朝廷の中枢として忠節を尽くすべきです。 . . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 5月 1日 戊寅 . 吾妻鏡 . |
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.. 先日から黄蝶が飛び回り、特に八幡宮に群れているのは怪異、凶兆である。そのため通常の行事のついでに 判官代 藤原邦通の差配として臨時の神楽を奉納、この時 八幡神が巫女に憑依して託宣※した。 反逆者あり。西から南に周り、南からまた西に戻り、西から更に南に至り、南からまた東に向かい、昼夜を問わず頼朝の運を窺う気配がある。神と朝廷を崇って正しい政治を行えば二、三年で水泡の如く消え去るだろう。 .邦道を介して神馬を奉納し、改めて感謝の参拝を行なった。 .. ※託宣: 例えば 九条兼実の日記「玉葉」なら 「予知や予告」も信頼できるが、吾妻鏡は後世に編纂された 文書。鎌倉時代末期の1280年代〜1290年代の編纂と考える説が主流だ。つまり、既に結果が判っている事件だから八幡大菩薩じゃなくても「予知した」と書き込める .悲しい事に日本には 司馬遷 (Wiki) の様に史実を忠実に記録する傑物が現れなかった。 . 権力に媚びる御用学者やエセ宗教者 (創価学会と公明党に限らず) はウンザリする程いるのに。 . . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 5月 2日 己卯 . 吾妻鏡 . |
前対馬守 親光は「私を前職に戻すべき」と重ねて朝廷に申し入れた。都落ちした平家が (私の管理する) 九州に軍兵を送り「屋島に参上せよ」と命じたが従わなかった。この時に 少弐 原田種直の郎従らが追討に向かって来たので私は高麗国に逃れた。平家滅亡後に頼朝の指示に従って上洛したのが事実であり大きな功績である。 .. 更に在任中は朝廷のためや朝敵追討のため祈祷を催したり、八幡宮を始め 60余ヶ所の社殿を修造し放生会の装束や装飾などの整備にも尽力した。これらは目録として鎌倉に届いている。国司の任にある時にこれらの業績を残した者は再任か遷任を受けるのが通例だから、同じ扱いをするよう申し入れた。 . 更に上賀茂斎院と伊勢神宮への奉仕実績によって重任または遷任の宣旨を受けている。貧しい対馬ではなく普通の国の国司に着任できるよう、頼朝も内々の要求をしていた。しかし空いている国がないため元の対馬国拝領を奏上し、除目の際に任命しようとの勅答を得たのに、昨春の除目の際には別人が任じてしまった。 . これについて検非違使 大江公朝は鎌倉の意向を受けて処理したと主張しているが、証拠文書が存在しない。 親光が鎌倉の書状を提出したと主張しても希望は実現せず、再度の推挙を願って今回の申し入れとなった。 . ※対馬前司親光: 国司の藤原 (宗) 親光を差す。縁戚関係の詳細は不明なのだが、頼朝の生母 由良御前が 熱田神宮 大宮司の 藤原季範の娘だから、多分その関係だと思う。 .. 平家の都落ち後に親光は上京を図ったが平家の勢力が九州を制圧していたため対馬を出られなかった。更に 宗盛の招集を拒み、追討軍を派遣されて高麗へ逃げ、この年 6月に対馬に戻った。 (前年 3月13日の他に 6月14日、12月23日に関連記事あり) . 行動と報告の内容を見る限り特に有能な人物とは思えないのが残念だが。 . . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 5月 3日 庚辰 . 吾妻鏡 . |
出雲国の杵築大社※惣検校職について、出雲則房を解任し同族である資忠を任命する手配をした。 .. ※杵築大社: 明治四年 (1871) に改称した、現在の出雲大社。惣検校職は管理の長官 (CEO)。出雲則房の 解任で 出雲国造家の世襲職だった惣検校職は平家追討に功績を挙げた中原資忠に移った。 .. 建久元年 (1190) 6月の遷宮の際には出雲則房の還任申請が認められたが、中原氏はその後も四代に亘って職に留まり、次の義孝の代に国造家に戻され現在に至っている。 . 財産 (特に膨大な不労所得) が絡むと神仏の下僕も必死に争い続ける。これは2018年正月に起きた 富岡八幡宮事件を引き合いに出すまでもない。世襲議員が多いのは、議員報酬以外の莫大な収入に群がる一族郎党が多いからだ。数所帯、時には十数所帯が砂糖に群がる蟻の様に甘い不労所得で生活しているから、絶対に手放す訳にはいかないのだ。 . そして第 84代出雲国造家当主が出雲大社宮司の千家尊祐氏、その息子が高円宮家の次女典子女王と結婚した千家国麿氏。生母の千家礼子氏の実家は出雲大社北西の御碕神社の宮司を務める小野一族で全員が旧華族の男爵家だから、絵に書いたような既得権集団だ。 . . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 5月 8日 乙酉 . 吾妻鏡 . |
大倉御所に於いて薬師経百巻の転読※を催した。鶴岡八幡宮の供僧※らがこれを担当した。
.. ※転読: 大般若経と薬師経の違いはあるが様式は変わらない。「これ、ズルじゃないの!」などと言わず YouTube の画像を参考に。どの宗派でも同じような催しがあるらしい。 .. 私はチベット仏教にある マニ車の発展型だと思っていたが、マニ車と同じ物(呼び名を輪蔵、Wiki画像)は真言宗、天台宗、浄土宗にもあるんだね。これは不勉強で知らなかった! ※供僧: 供奉僧の略。明治新政府の太政官布告による神仏判然令 (神仏分離令) まで神社に共存し続け、 別当僧は神官より上位にあった。八幡宮の北側にあった僧房群「北谷 (御谷)」が有名。
.. . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 5月 9日 丙戌 . 吾妻鏡 . |
それぞれ前任の大蔵卿 高階泰経と刑部卿 藤原 (難波) 頼経は流罪に処されているが、頼朝は去る 3月 29日に記録あり)に「赦免して帰京を許す」旨の奏上を行なって後白河法皇を非常に喜ばせた。 .一條能保が奉書を受け、今日それが届いた。内容は下記の通り。 . 頼朝の書状を院に奏聞した。泰経と頼経らの赦免については再三鎌倉に申し入れたが頼朝の考えが判らず今回の奏聞を受け心が晴れた。院の警護を担う武士は今後とも注意して召し使う、それが院の考えである、と。 四月二十六日 左少弁定長 .. ※赦免: 高階泰経は前年 12月に伊豆流罪となっていた。帰京の日程は未確認だが、同月に安房流罪に なった。難波頼経が 3月に許されて帰京しているから少し遅れて赦免されたのだろう。 . 難波頼経の方は義經支持の姿勢を改めず、文治五年 (1189) に伊豆国へ再び配流となった。 筋を通す気骨のある公卿だったらしい。 . . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 5月10日 丁亥 . 吾妻鏡 . |
陸奥守 藤原秀衡入道から (朝廷への) 貢馬三疋に加えて長持三棹が到着。併せて京都に献上したい旨を右衛門尉朝家に伝えた。
.. . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 5月13日 庚寅 . 吾妻鏡 . |
飛脚の紀伊刑部丞為頼が京から院宣を携えて到着。昼夜を徹して至急に届けよと、師中納言 吉田経房の命令である。北條時政が鎌倉に帰ってから洛中で狼藉事件が頻発し、先月 29日夜には七ヶ所で群盗があった、と。 . 世間の騒乱は既に耳にしていると思う。鵜呑みにはできないような風説も、必ずしも無駄ではない。 .北條時政が在京中は院も安心されていた。代理の武士に警護を任せると申し出た時も、時政が任じるのが最善であると当人にも再三仰せられた。それにも関わらず下向してしまった結果がこの状態である。 . 比叡山衆徒の中に義経に与する者がいるとの説もあり、事実であれば朝廷にとっての一大事である。以前から捜索を命じているが比叡山に隠れている証拠はなく、仏法に逆らって天台宗と騒乱を起こすのも憚られ、院にとっての禍にもなり兼ねない . 先月 20日の書状は一昨日為頼から受け取った。その返事として、院の意向正しく伝えて疑念を晴らすため、以上の仰せを承っているとお知らせする。 五月六日 吉田経房 源二位殿 . ※20日の書状: (源) 為頼の出自などと併せて 4月20日の条に記載してある。併読が必要。 . ※時政の実績: 北條系の権力者を有能に描くのは吾妻鏡の常套手段だ。経房の書状などは残っていない だろう。吾妻鏡の曲筆を指摘する歴史学者は多いが、その歴史学者が戦前の皇国史観をバックアップした方が遥かに恥ずかしい曲筆である。
.. 更に安倍晋三の歴史修正主義や右傾化に警句さえ発しないのも、謂わば「曲筆」だ。まぁこんな事を書いても「馬の耳に念仏」だろうが。 . . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 5月14日 辛卯 . 吾妻鏡 . |
吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ .. 左衛門尉祐経、梶原三郎景茂、千葉平次常秀・八田太郎朝重、籐判官代邦通らが下若※を携えて静女の宿舎を訪れ酒宴を催し俗曲を歌い 静女の母磯禅師も歌舞を演じた。酩酊した景茂が言い寄り、静女が落涙した。 . 義経は鎌倉殿の弟、私はその妻である。あなたは御家人として普通の男女と同じ立場と考えるのか。義経が元の身分であれば同席することもなく、まして酒席でそんな態度をとれる筈もないだろうに、と。 .今日廷尉(検非違使)大江公朝が院宣などを携えて到着、八田知家の屋敷に宿泊した。 . ※下若: 中国浙江省長興県の地名。銘酒を産するため酒の別称に転じた。富山県射水市にも下若の地名 があるが、酒造問屋は見当たらないから、この場所は酒とは無関係か。 .※名簿: 梶原景茂は景時の三男、正治元年 (1200) 1月に駿河国狐崎で殺されることになる。千葉常秀は 胤正の二男で嫡子 成胤の弟、八田朝重は 知家の嫡子。 .いずれにしても酒癖の悪いセクハラ男として歴史に名を残している(笑)。 しかし (吾妻鏡をそのまま信じれば) 静は凄いねぇ、これで 18か 19歳だもの。 . . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 5月15日 壬辰 . 吾妻鏡 . |
北條時政の雑色が京から到着、去る六日に 一條能保の室が女子 (後の
西園寺公経の正室) を平産したと報告。 .また能保の伝言では、去る七日に京都守護※に任じる院宣を受け、世の騒々しさを鎮めよと指示された。 . ※京都守護: 鎌倉幕府の役職だから頼朝の任命だと思ったが院宣が必要なのか。新任大使の認証の様な 手続きか? いずれにしろ在京の御家人を統括し警察権と司法権を握る職種で、幕府と鎌倉の調整窓口を務める部署だ。承久の乱 (1211年) 後は六波羅 (後に探題が付く) となり、平家の六波羅邸跡の西側に庁舎を置くことになる。 .. . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 5月17日 甲午 . 吾妻鏡 . | . . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 5月18日 乙未 . 吾妻鏡 . |
前摂政 近衛基通の家領について先月詳細の勅答があり、師中納言 吉田経房の書いた奉書が今日鎌倉に届いた。 . 先月 20日付の書状が 4日に到着し、直ちに摂政の家領についての内容を院に奏上した。摂政退任と共に籘原の氏長者を譲らせる予定は当人の不承知によって撤回した。退任と同時に家領も分与せよとは、前摂政にとって甚だ不都合である。関白 松殿基房退任の際にも同様の措置はなかったし、ましてや現在の摂政 九条兼実には皇嘉門院※領などの知行もある。思った事は遠慮なく仰せられるべしとの事なので、院宣に従って申し送る。 五月五日 経房 .. ※皇嘉門院: 九条兼実の異母姉で 崇徳天皇の中宮となった藤原聖子。藤原(九条)兼実を猶子とし、 . . . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 5月25日 壬寅 . 吾妻鏡 . |
一條能保と 北條時定および常陸房昌明の飛脚が到着し、前備前守 新宮十郎源行家の首を持参した。まず使者を御所に呼び、仔細の経緯についてのを受けた。 . 先日来、行家が和泉と河内一帯にいるとの噂があったため捜索していたところ、去る 12日に和泉国の在庁官人 日向権守清実宅にいるとの知らせがあり、小木郷※の家を取り囲んだ。行家は直前に背後の山に入って民家の二階に逃げ込んだ。昌明が正面から討ち入って防戦した供の 2名を捕縛し、背後から討ち入った時定が加わって行家の首を挙げた。また翌 13日には行家の息子 光家を討ち取った。 . 一條能保の書状には行家を殺した旨を定長を介して奏上したところ「関与せず。摂政に報告せよ」との仰せであり、摂政も同じ対応だったため鎌倉に送った、との事である。 頼朝の喜びは大きく、恩賞もそれに伴うほどと思われる。 .
前の備前守 従五位下源朝臣行家、大夫尉為義の十男で本名義盛。治承四年四月九日に八條院蔵人に補され行家と改名、寿永二年八月七日、勲功により備後守、同十三日に備前の守に遷任。 .検非違使従五位下 左衛門権少尉同朝臣光家、前備前守行家の長子。 寿永二年十一月九日、蔵人 左衛門権少尉に任ず。勲功により宣旨を受け元暦二年六月十六日、叙留。 . ※小木郷: 大阪府貝塚市畠中周辺 (地図) で、近木または近義の地名がある。元々は朝廷に櫛を納める 職人が給免田を得て土着、周辺には社寺も点在していた。 .. . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 5月27日 甲辰 . 吾妻鏡 . |
夜、静女が 大姫の希望に従って南御堂に入り、歌舞を演じて褒賞を得た。大姫の参籠は明日で二七日となり、寺を退出するために催したものである。 . . ※大姫の希望: 数え9歳、現在なら小学校三年か。幼馴染の 清水義高 を父親の 頼朝に殺された病弱な娘が自由で健康で誇り高い生き方を貫く静女に憧れたのも無理はない。 .右は北斎が描いた白拍子図。クリック→ 別窓で拡大表示。 .もちろんモデルとして静女を想定し、金の立烏帽子に白の直垂と朱の長袴に巻鞘の太刀を佩いた男装で描いている。 . 本文「鎌倉時代を歩く 弐」の 北斎が描いた白拍子図 (別窓) に少々の情報を添付してある。 . 本物は北信濃の 小布施 北斎館 (別窓) が収蔵する。下世話な話だが海外の収集家から数千万円で購入したとか。 . 個人的にはもう少し細い線の繊細なタッチで、面長じゃなく柔和な丸顔の方が好きなのだけれど。 . . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 5月28日 乙巳 . 吾妻鏡 . |
去る 16日発行の院宣が一通到着、院は行家が討たれ首が既に入洛した事を、天下のために特に喜んでいる。 .25日に着いた 一條能保の書状では院が不機嫌らしく書かれていたため頼朝は疑念を抱いたが、この院宣で不信感を解消させた。この院宣の発行は能保の配慮によるものか、と。 . . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 5月29日 丙午 . 吾妻鏡 . |
美濃籐次安平が美濃国石田郷 (現在の滋賀県長浜市石田町、地図) を横領している旨を、領主である刑部卿典侍 (女官) が左典厩 一條能保に訴え出た。 能保がこれを鎌倉に送り、折り返し横領の停止命令を能保宛に送った。また筑前介兼能が上洛し後白河院に嫌われている事について弁解したいと申し述べている、との事。 .. また寺社の運営などについて日頃から気に掛けていた頼朝は京都に申し入れると共に、東海道では守護らに命じて惣社や国分寺の破壊および霊跡や由緒の深い寺の被害を報告するよう指示した。その資料を奏上して状態に応じた修復を加える為である。 . 三善康信、藤原俊兼、 藤原邦通、二階堂行政、 平盛時らの差配として各地に命令書を下した。 . ※刑部卿: 本来は司法全般を統括する刑部省の長官だが 平安末期には検非違使の業務拡充に伴い形骸化 していた。文治元年 (1185) 12月に刑部卿 難波頼経が義経に与した罪で解官されており、この訴訟時点の長官が誰かは確認できない。父と共に流罪に処された嫡子宗長はその当時豊後守、赦免を受けた承元元年 (1208) には刑部卿に任じている。 .. 彼は承久元年 (1219) 1月の 実朝暗殺の際には 坊門忠信と共に鎌倉に派遣され、八幡宮の事件現場に居合わせることになる。 ※筑前介兼能: 前年 10月27日に「朝廷への使者 筑前介兼能 (村上源氏、文官) が京に向かった。」との 記載がある。ところが 後白河法皇に嫌われたらしく、「筑後介として着任の兼能が職務を果たさず叡慮に背くとの情報が再三ある、長く召し使わないように」との通知が吉田経房経由で頼朝に届いた。 .. ただし、今年の 4月5日には「解任したら朝廷も鎌倉も損失である、任務を忖度して使うべき」云々の意見が同じ吉田経房から届いているから、後白河の評価が正当ではない事に気が付いたのかも。「叡慮」必ずしも叡慮たりえず、か。 . . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 6月 1日 丁未 . 吾妻鏡 . |
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.. 今年は (戦乱などのため) 国力が疲弊し、農民も農作業に専念できなかった。頼朝はこれを憐れみ、三浦介義澄と 中村宗平に命じて相模国の主な農家に一人宛に米一斗 (約18リットル、15kg) を支給した。これは災いを祓う意味も兼ねている。 . 夜になって、昨日武蔵国から鎌倉に入った豊後守 毛呂季光が献酒に参上した。 . . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 6月 2日 戊申 . 吾妻鏡 . |
刑部卿の典侍が所領について (5月29日に) 訴えた件、頼朝が下文を発行した。
. 美濃国大野郡内石太郷の住人に下す。安平が非法を行なっているとの訴えがある。早急に美濃籐次安平の横領を停止させ、刑部卿典侍の命令に従わせよ。
.. . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 6月 7日 癸丑 . 吾妻鏡 . |
神祇権大副 (源) 公宣が書状を提出、義経が伊勢国に現れて伊勢神宮に参詣し、奈良付近に隠れているとの噂があると報告。神宮の祭主 (神官の長) 能隆が義経に内通し祈祷を行なっている可能性あり、と。 .. ※源公宣: 養和元年 (1181)10月20日に「光倫神主が鎌倉に入った」との記載がある。この人物は今年の 1月19日にも死没した神祇官副長官の後任人事を巡って不正があり、平家に与した能隆が着任したのは神慮に悖る、と訴えている。要するに、猟官に絡む不当な密告らしい。
.. . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 6月 9日 乙卯 . 吾妻鏡 . |
今年 4月、参議を介して政道に関する提言を 後白河院に上奏した。その勅答文書が師中納言 吉田経房を通じて鎌倉に到着した。以下の各項である。 . 一.諸社諸寺の修復について。 .神社については、概ね全ての国衙に修復の指示を出した。貴重な諸寺については東寺を始め大部分が跡形もなく、申し出は尤もである。これは摂政に早急の処理を命じてある。
.一.記録所については、提言を受けた際に訴訟に関する処理を摂政に命じた。重ねて指示しておく。 .一.光雅朝臣※については、聞き置く。 .一.各地の荘園については、追って検討する。 .一.播磨国(守護は梶原景時)の武士らによる押領について。 .対応して処理したことは重々の喜びであり、人々の悩みは解消したと思われる。ただし五ヶ所の荘園については未処理であり、「代官の責任」とする景時の弁解も更なる確認を要する。寄進して誤魔化したり勝手に横領して相続を偽る類もある。安田庄は領家の若狭局からの預かりを称しているが、全く事実と相違している。ここから推測すると彼らは国務を侮っているから、早く叱って戒めさせるべきである。ここで見逃せば一旦は逃れ、隙を狙って違法を繰り返すだろう。 .一.備前国の件について。 .頼朝下文の施行後に判断するが管理は全て国衙に任せ、武士には一ヶ所も治安を委ねる事はせず、全て法勝寺の塔を再建する費用に宛てる。来年は伊勢遷宮祭最初の山口祭が催されるから、その前に仏寺の件を終わらせる必要がある。 .一.美濃国の件については、在庁官人の申し立ての件は既に沙汰が済んでいる。仔細は追って通告する。 .一.諸国の荘園に送った下文ついて。 .配布と告知は済んだが葦名為保が不満を漏らしている。阿波国久千田庄は父為清法師から相伝の所領なのに、なぜ地頭が他人なのか。この仔細は報告書が届いている。また山田庄については改めて述べるが前左馬権頭平業忠の件はどう処理するつもりなのか。高橋庄を横領した武士が虚偽の申告を以て済ませるのは納得できる処理に非ず、仔細を報告すべきである。
.一.高連島については、詳細を調査して処理されたし。 .一.春近(一條能保領)および郡戸庄の年貢について。 .過怠なく納付するよう指示されたし。今後はその年貢を院の衣服に宛てるため早急の措置を。 .一.富士浅間神社領の件。 .院領である事は既に通知してある。早く年貢を納付せよ。 .. . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 6月10日 丙辰 . 吾妻鏡 . | . . ※甘縄の家: もちろん 安達盛長の屋敷、妻女は頼朝の乳母を務めた 比企の尼の娘 丹後内侍である。 盛長に嫁す前の彼女は 惟宗広言 (Wiki) に嫁して惟宗 (後の 嶋津忠久) を産んだ。 .. 島津家系図は (島津家系図のみが) 忠久が実は頼朝の落胤だと主張しており、それが事実なら頼朝 (1147年5月9日誕生) は平治の乱勃発 (1159年12月9日) 以前に (つまり満12歳7ヶ月未満で) 惟宗広言の妻 丹後内侍を妊娠させた事ことになる。 . いくら早熟の時代でも周辺環境を考えれば可能性は乏しく、江戸時代になって家格を挙げるために源氏の血筋が欲しくなった島津氏の系図捏造だろう。心の卑しい連中だ。 . ただし頼朝と丹後内侍が実の姉弟のように睦みあって成長したのは事実で、鎌倉までも男女の関係を引き摺っていた可能性は高い。謂わば政子公認の関係だった、と。 . 安達氏は盛長→ 景盛→ 義景→ 泰盛と続き、次の棟梁宗景が「曽祖父の景盛は頼朝の落胤だから私は源氏だ」と主張し、弘安八年 (1285) の 霜月騒動 (Wiki) で討伐を受ける端緒になった、と 「保暦間記」は記載している。 . 保暦間記...貴重な史書だが ヨタ話も沢山載せているので信頼性は case by case。 . . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 6月11日 丁巳 . 吾妻鏡 . |
藤原 (宗) 親光が書状で報告、先月の 28日に対馬守に復帰した。これは偏に頼朝の推挙の結果である、と。 .. また、熊野別当は上総国畔蒜庄を知行しているが、これは頼朝が地頭職を分割して与えたものである。代官に任じた 足利義兼と 和田義盛の両者とも、熊野の指示に従わず年貢も怠っていると鎌倉に訴え、更に京都にも報告を計画中との連絡が届いた。驚いた頼朝は 二階堂行政に処理を命じ、義兼と義盛に命令書を送った。 . ※上総国畔蒜庄: 現在の君津市小櫃川流域 (地図)の全域、JR久留里線の全域と書く方が早い、か。 江戸時代には久留里藩として繁栄している。 .近縁の義兼と近臣の義盛が共に非法を行なっていれば頼朝も言い訳が困難になる。 . . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 6月13日 己未 . 吾妻鏡 . | . . ※河崎観音堂: 鴨川西岸 (上京区梶井町、この辺) に一演法師が建立した感応寺の境内にあった。 創建は貞観年間 (859〜877年) 、享禄四年 (1531) に兵火で焼失した後に一演法師所縁の 清和院に併合された、らしい。常盤の (現在の) 夫一條長成の邸は一條通にあり、常盤は邸から近い河崎観音堂を信仰していた可能性がある。 ..
義朝の側室 常盤が産んだ長男 今若は 阿野全成 として鎌倉で頼朝に仕え、二男の乙若は義円を 名乗り、既に美濃墨俣合戦で戦死している。. 吾妻鏡は義経捜索の際に常盤 (48歳前後か) についての記事は載せているが、鎌倉は 「拘束する必要はない」と判断したらしい。 . 後妻であっても相手は正四位下大蔵卿 (今なら財務副大臣クラスか?) 一條長成の正室 (長成は生没年不詳、既に死没かも) 、簡単に拘束できないような気もする。同行していた義経の妹は 清盛の娘 廊御方とも 長成の娘とも言われるが、これを裏付ける史料はない。 . 長成は生没年不詳で足跡が何も残っていない。 清盛 と近かったらしいから平家滅亡と共に没落したか、或いは既に老齢だったか。 . 右は河崎観音堂があった一條河原町の了徳寺の路地 (地図) 。観音堂は享禄四年 (1531) の兵火を受けて焼け、上京区観音町の清和院 (地図) に併合となった。 . これが常盤の名が見える最後の公式記録となる。彼女が産んだ長成の嫡子 能成は義経と行動を共にし、前年 文治元年 12月に頼朝の圧力で侍従職を解かれている。 . 一度は失脚した能成だが、頼朝死没後の承元二年 (1208) に復帰し、建保六年 (1218) には父を超える従三位に昇進する。 . 常盤も公卿 (主に従三位以上) の生母として恵まれた晩年を送ったと思いたいが保延四年 (1138) の生まれだと伝わるから建保六年には 80歳、ちょっと無理かも。 . 義経と奥州平泉の接点は一條長成にある。奥州藤原氏三代当主 秀衡の継室として四代 泰衡を産んだのは 藤原基成の娘で 、基成は長成の母方の従兄弟の息子、当時としては比較的近い血縁関係にある。義経が鞍馬山から平泉に逃げたのも、頼朝に追い詰められて平泉で自刃したのも、共に母の常盤とその再婚相手の長成が軸になって動いていた。 . . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 6月14日 庚申 . 吾妻鏡 . |
丹後内侍※が平癒した。病床に就いていた間は頼朝が願掛けをしていたが、これで一段落した。 .. ※丹後内侍: 頼朝主従が挙兵を相談したと伝わる函南の 高源寺 寺伝は 「愛妾の丹後局が懐妊した折に 頼朝が安産を祈って参籠し、子育て地蔵尊に祈った」 と主張している。週刊誌ではないから、もちろん現在の夫である 安達盛長のコメントなんか載っていない。 .. . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 6月15日 辛酉 . 吾妻鏡 . |
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.. 大宰府天満宮の宮寺である安楽寺の別当僧 安能は平家に与していたと情報があり、頼朝はそれを憤って解任させようとした。この発端は安能と同族の珍全が別当職就任を望んで朝廷に画策したためである。 . 安能は使者を送って 籘判官邦通に仔細を述べ、永久年間 (1113〜1117) の起請文や保延年間 (1135〜1141) の宣旨などを鎌倉に提出した。 「寺の職務を果たし、時の権力者に申請して横領などを受けぬよう願った。これらには証文もある」 、と。 . ※ 面倒なので提出書類の明細は省略した。長々と主張の明細を述べ、同時に「規則や長幼の順や前例を 無視して籘氏長者の推薦も得ず猟官運動をする者を排除するように 」 と願っている。 .同時に右中弁源 (俊雅) 朝臣がこの内容を追認し太宰府に通告している。 . . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 6月16日 壬戌 . 吾妻鏡 . |
頼朝と御台所は比企の尼邸に渡御した。緑が樹陰が多く涼しい場所で、花園も楽しめると誘った為である。終日に亘って宴を楽しんだ。
.. ※比企尼邸: 流人時代以来の貢献により与えられた屋敷で現在の比企ヶ谷にある 妙本寺 (別窓) 一帯。 吾妻鏡のどこかに「菊を見に比企邸へ云々」の記事があったと記憶しているが...。 .. 比企の尼の夫 比企掃部守は既に没し、男子のいなかった比企家の跡は甥と伝わる 能員が継承した。頼朝の没後には歴史の転換点となる 「比企の乱」が勃発し、比企一族は滅亡する。 . . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 6月17日 癸亥 . 吾妻鏡 . |
梶原朝景※の使者が京都から参着、内大臣家※の訴えとして家領が武士の非法行為を受けていると報告した。 .. 越前国で北條時政の目代 越後介高成が国衙の業務を妨害しており、般若野庄※は籐内 比企朝宗※が、瀬高庄は 籐内 (天野) 遠景が、大島庄は土肥次郎実平が、三上庄は佐々木三郎秀能※が、それぞれ 3年から 2年間の年貢から規定を越える量の横領を行なっている、と。 . 頼朝は非常に驚き、速やかに停止させよとの指示を各人に下した。 . ※梶原朝景: 景時の末弟 友景 (または朝景) 。正治二年 (1200) 1月20日の駿河狐ヶ崎での一族滅亡の際は 記載がないが 「伴党 36人の首を晒した」とあるから討死したのだろう。狐ヶ崎は伊豆から比較的近いのに、訪問しないまま茨城に転居してしまった、心残りの場所の一つだ。 .※般若野庄: 寿永二年 (1183) 4月、倶利伽羅峠合戦直前に磐若野 高岡市の弓の清水 (地図) に着いた平家 . ※内大臣家: 当主は徳大寺実定、頼朝の信頼を受け 九条兼実の片腕として働いていた。 . ※籐内朝宗: 比企能員の弟か近親者で妻は政子の官女 越後局。才色兼備で名高い娘は頼朝の女官の頃に 北條義時に嫁して男子二人 (朝時と重時) を産み比企の乱に連座して離縁となった。 .. 義時が一年も口説き続けても落ちず、頼朝の仲介で 「決して離縁しない」 旨の誓紙を入れての婚姻だったのに....離縁後は朝廷の官人で歌人として名高い 源 具親 (Wiki) に再嫁して男子二人を産み、承元元年 (1207) 3月に没している。 . そうそう、肝心の朝宗は比企の乱での死没者リストに載っていないため義時の親族としてとして殺害を免れた可能性は残る。 ※佐々木秀能: 秀綱と記載する写本もある。頼朝に仕えた佐々木四兄弟の父で三上庄 (近江国野洲郡) を 本領とした 佐々木秀義 (秀能) とは別人で別系統。秀綱は所謂 「本佐々木氏」で、安土の 沙沙貴神社 (Wiki) を本拠とする神職系の実力者、野洲郡との関連は存在しない。 .. 平家追討により本領の佐々木荘を回復した秀義 (秀能) は元暦元年 (1184) 7月の三日兵士の乱で討死して近江権守を贈られ、嫡子 定綱は文治三年 (1187) に近江守護に任じた。吾妻鏡の編纂者が秀綱と定綱を混同した可能性もある。 . . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 6月18日 甲子 . 吾妻鏡 . |
水尾谷籐七※が使者として京に向かった。去る二日に前池大納言 平頼盛卿が没し、その弔問の為である。 .. ※水尾谷籐七: 前年の 10月17日に土佐房昌俊に従って義経の六條室町邸を襲った武士団の中に 美尾谷 十郎の名前がある。また「平家物語巻十一の五 弓流」にも 悪七兵衛景清と組み合った美尾屋十郎の名が載っている。本領は比企郡川島町、詳細は前年 10月17日の頁で。 .. . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 6月21日 丁卯 . 吾妻鏡 . |
行家と義経を捜索するため近畿一帯の諸国に守護と地頭を配置したが、彼らが兵糧米の徴収を理由に無法を働くとの訴えが頻発し民の愁いで国の疲弊も進んでいる。従って諸国の守護と地頭を更迭するが、平家から没収した所領についてはその措置を除外する、と頼朝は朝廷に申し入れた。 . 師中納言 吉田経房を通じて奏聞するよう、大江公朝が帰洛するついでに書状を預けた。また 大江広元が使節として上洛することになる。後白河院が天下を鎮めるための院宣を発行したためである。 . 非道を糺断し武士の非法を停止させるべき国々 .. 山城国 大和国 和泉国 河内国 摂津国 伊賀国 伊勢国 尾張国 近江国 美濃国 飛騨国 丹波国 丹後国 但馬国 因幡国 伯耆国 出雲国 岩見国 播磨国 美作国 備前国 備後国 備中国 安藝国 周防国 長門国 紀伊国 若狭国 越前国 加賀国 能登国 越中国 淡路国 伊豫国 讃岐国 阿波国 土佐国 . この三十七ヶ国々に院宣を下さる。武士の非法を糾し正常な姿に戻すためである。ただし鎮西の九ヶ国は吉田経房の指示に委ね、伊勢国では平氏に与する謀反があるため平氏に替わる地頭を補任した。 . しかし新任の守護が 頼朝の下文も帯びず社寺や公卿の所領で勝手に横領しているのは驚くべき状態である。今となっては諸国に院宣を下し、あるべき状態に戻すしかない。 . 伊勢国に限らず、謀反人がいた国々などには地頭を置いているが、荘園は本家や領家の賦役を・国衙は国の賦役を、先例通りに行うよう命じる。もし本家や国衙に従わず不当な行為があれば処分となる。 . 謀反人に対応するためとの理由で地頭を配置した場所であっても停止の命令に従い院宣には背かないと、師中納言を通じて奏上する為である。 文治二年六月二十一日 御判 . . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 6月22日 戊辰 . 吾妻鏡 . | . . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 6月25日 辛未 . 吾妻鏡 . |
歓喜光院※領の播磨矢野別府の事、海老名四郎能季が地頭と称して歓喜光院の指示に従わない旨の院宣が下され、頼朝は今後の非法を禁じる命令を下した。
.. ※歓喜光院: 変遷を経て、現在の 菅原院天満宮神社 (Wiki) に変った。矢野荘は正三位 修理大夫の藤原顕 季から孫の美福門院得子 (鳥羽上皇后) が相続して立荘した荘園 (兵庫県相生市) で、矢野は飛び地。美福門院は祈願寺として歓喜光院を創建し、矢野荘を寺領とした。
.. 永暦元年 (1160) に彼女が没すると娘の 八条院 (ワ子内親王) を経て得子の乳母 伯耆局が譲り受け領家とし、その一部 (矢野別府) を歓喜光院の寺領と定めた。 ※海老名能季: 村上源氏の子孫を称する。現在の神奈川県海老名市を本拠とした武士で 武蔵横山党から 迎えた男子 (季兼) → 源八季貞 (義朝の配下として保元の乱に参戦) → 有季→ 能季と続いている。季兼の弟 家季は矢野荘に土着して地頭に任じたとの資料もあり、補任との断定はできない。 .. . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 6月28日 甲戌 . 吾妻鏡 . |
(京都守護職の)一條能保の飛脚が到着、去る 16日に北條時定が大和国宇陀郡で義経の婿 伊豆右衛門尉源有綱と合戦。敗れた有綱は山に入って自殺し、郎従三人も負傷して落命した。残党の 5人を捕縛し、有綱の首と共に役人に引き渡した。有綱は伊豆守仲綱の息子である。
.. ※義経の婿: 軍記物語では奥州にいた頃の義経の妻が産んだ娘の婿と書いているが、これは年齢の面で . ※大和国宇陀郡: この地域は散々歩いた。興味があれば 八咫烏神社 や 道の駅 宇陀路大宇陀 や 宇賀神社 なども参考に。 なつかしいなぁ...。 .. . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 6月29日 乙亥 . 吾妻鏡 . |
伊勢国林崎御厨の件、平家に与した家資の所領として没官領に含めた地域だが、領家である伊勢神宮の訴えにより地頭を置かぬよう院宣が下されたため 宇佐美実正 (大見実政) による知行を中止させた。 また成勝寺※の再興についての配慮を朝廷に求めた。下文は次の通り。 . 伊勢国林崎御厨の住人に下す . 宇佐美平次実正の地頭職を停止し伊勢神宮の管理に委ねること。この御厨は謀反人家資の知行地であり先例に従い実正を地頭職に補任したが、伊勢神宮神官の訴えにより実正の職務を停止する。 .元に戻す (家資に戻す、の意味?) のは不都合なので当分は神宮が管理し諸事の手配を行うように。 . また成勝寺の修造は早急に行わないと更に破損して大規模な作業が必要になる。修造が天下静謐の祈りであり全国の寺社復興も続いての指示をお願いしたい。 頼朝 師中納言 吉田経房 殿 .
※成勝寺: 山城国愛宕郡 (京都市左京区) に建てた「勝」の字
を含む六山の祈願寺 六勝寺 (Wiki) の一つ。 .. 所在は右の地図を参照。もちろん現在は小さな石碑が往時を物語るのみ。 . 成勝寺は崇徳天皇の祈願寺で、崇徳院の鎮魂を祈る法要も行われた。現在の左京区岡崎成勝寺町の京都市勧業館 (地図) の地にあり、東西二町 南北一町 (220×110m) の規模と伝わる。 . 全ての六勝寺 (法勝寺、尊勝寺、最勝寺、円勝寺、成勝寺、延勝寺) は院政の衰退と再三の災害や戦乱により、応仁の乱 (Wiki) つまり西暦1477年前後には全てが廃寺となった。 右画像をクリック→ 別窓で拡大表示 . . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 7月 1日 丙子 . 吾妻鏡 . |
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.. 頼朝は北條時定※を兵衛尉に任じるよう京都に申し入れた。再三の勲功を上げたのが理由である。また伊勢国の伊勢神宮領 林崎御厨※の地頭は廃止するとの書状を左中弁光長宛に送った。これは奏聞のためである。 . . ※北條時定: 時政の甥、従兄弟、弟の諸説あり (時政の 7歳下)。当サイトでは甥として扱っている。 . ※林崎御厨: 所在は鈴鹿市林崎 (地図) 、伊勢鉄道 鈴鹿駅の東側に広がる肥沃な水田地帯。 . . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 7月 7日 壬午 . 吾妻鏡 . |
諸国に置いた地頭について、平家から没収した所領と謀反を企む輩の所領以外、つまり摂関家など (有力な) 公卿の領地に限定して停止する旨を朝廷に連絡した。
.. ※地頭の停止: 中学時代の日本史では 「義経搜索の名目でスタートし幕政安定に大きな成果を挙げた 」 と 教わったが利権を手放したくない朝廷の抵抗も一筋縄では抑えられなかったのも事実。 .. . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 7月 8日 癸未 . 吾妻鏡 . | . . ※北面の武士: 白河法皇 (第72代天皇) が院の衛兵として採用したのが始まり。上皇に権力が集中するに 従って肥大し、やがて官僚も含めて「法皇の私兵または直属部隊」に近い存在として既得権擁護集団になってしまう。法皇の抗議は低レベルな私権の主張に過ぎない。
.. . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 7月11日 丙戌 . 吾妻鏡 . | . . ※僧の位階: 法印 (大僧正、僧正、権僧正) 法眼 (大僧都、僧都、少僧都、権少僧都) 法橋 (大律師、中律師、権律師) の 10階があり、その下に位階を持たない凡僧 (法師) があった。行慈法橋は吾妻鏡の催事記録に頻繁に現れ実務を担当していたらしい。
.※蛇足: 政情が安定すると既得権擁護に動くのは世の常、宗教界にも蓄財に走り女を囲う輩が現れる。 鶴岡八幡宮でも供僧の腐敗は深刻だったらしく、慶応四年 (1868) 発布の神仏判然令 (神仏分離運動) の際に神職や檀家などから積年の恨みを晴らす例が多発したという。
.権威を背景にして 800年も搾取し続けたのだから無理もないが...供僧は放逐されて車夫などに零落し、この時に膨大な仏像、仏具、文書 (今なら国宝級も多かったはず ) が海外に流失した、と伝わっている。 . 「平和」を党是としながら安倍政権に迎合し続け、しかも「我々が努力したからここで食い止められた」と毎回のように嘘を吐いて自己弁護し、結局は海外派兵まで容認した「こうもり党」も創価学会も、いずれは仏罰 (笑) を受けるだろうね。 . . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 7月15日 庚寅 . 吾妻鏡 . |
盂蘭盆※ (うらぼん) を迎え勝長寿院で萬灯会※。頼朝と御台所が渡御し両親ら祖霊の得脱菩提を祈った。
.. ※盂蘭盆: 起源は中国の盂蘭盆経 (経典) で、死者の魂を救うための仏事である。 日本では神道と習合して祖霊を供養する盆の仏事に変化した。神道では死霊は三十三年回忌を迎えると各々の個性を失なって祖霊の集合体 (祖神) と同化する、と考えている。
.. 神となった祖霊は毎年の盂蘭盆に子孫の家を訪問して供応を受け繁栄を守護する、これが大きな神社の境内社として祀られる祖霊社である。 ※萬灯会: 燈明を供えて罪を懺悔し四恩 (三宝、国家、父母、衆生) に謝する法要。闇を除き、智恵と 福徳と涅槃を得る。真言宗では天長九年 (832) に勅許を得た空海が高野山で萬燈会を催したのを最初とし、毎年の春と秋に「別命ろうそく祭り」の名で催される。
.. . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 7月18日 癸巳 . 吾妻鏡 . |
出雲国 園山庄で前の下司職の任にあった師兼は、現在は朝夕祇候人※を務めている。 .特に功績はないが、任憲大徳※と昵懇な関係にあり優遇を受けている。当人は園山庄下司職への還任を望んでいるため、今日 頼朝から 吉田経房に渡すための推薦状を与えられた。 . ※朝夕祇候人: 元暦元年 (1184) 6月4日に記載のある「朝夕官仕」と同じ。所領を持たず御所に常駐して 1日に玄米 5升相当のの俸給を受ける勤務体系。食住を保証された住み込み、か。 .※任憲大徳:「任憲」は頼朝の母 (熱田大宮司 藤原季範の娘) の弟 祐範の子で大徳は「清廉な僧」との意味。 . . . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 7月19日 甲午 . 吾妻鏡 . |
駿河国の富士領※の社務を担当する福地社に神田を寄進、江間四郎※がこれを差配した。
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※富士領: 富士山信仰の原点 富士浅間大社 (公式サイト) を差す。. .参拝者用の広い無料駐車場があり気軽に境内を散策できる。飼い犬が元気だった頃は、本殿裏手の湧玉池から流れる清冽な神田川 (巾2m、深い場所で40cmほど) で水浴びを楽しませていた。悲しい思い出の一つ。 . 福地 (ふじ) 社は浅間大社以前からこの地にあり、浅間大社の摂社を経て現在の富知神社になった。 祭神は大山津見神、浅間大社の祭神 木花之佐久夜毘売命 (コノハナノサクヤヒメ) の父神 (地主神) で福地明神社や不二神社とも呼ばれ、現在は浅間大社の北西 500mに三峯神社と同居している。 ※江間四郎: 北條時政 の二男 義時を差す。長男の 宗時が治承四年 (1180) 8月の 石橋山合戦から敗走する 途中で討たれたため、その時点から嫡子となった。 .. 個人的には、時政の本領である北條より江間 (北條から狩野川を渡った西側) の方が広いことに疑問を持っている。伊豆の伝承では頼朝の愛人だった八重 (伊東祐親の娘) は義時に再嫁した事になっており、解消できない時系列の迷路に踏み込んで結論に至れない。 . 「鎌倉時代を歩く 弐」の 田方盆地鳥瞰図を含む周辺記事 (別窓) を参照されたし。 . . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 7月24日 己亥 . 吾妻鏡 . |
後白河院の祈願として平家の怨霊を鎮めるため高野山に大塔※を建立した。去る 5月1日から荘厳な法要を行ない、維持管理の費用として証書を添え、平家没官領の備後国大田庄※を寄進した。 .. ただし地頭の 土肥弥太郎による年貢の横領がある旨の訴えがあり、朝廷からの地頭停止申し入れによって頼朝が地頭退去の命令を下した。 .
※備後国大田庄: 元は仁安元年 (1166) に 平重衡が 後白河法皇に寄進した
荘園で 現在の広島県世羅郡世羅町一帯 (地図) 。 .※高野大塔: 別称を「壇上伽藍」、空海と二世の真然大徳が二世代 (816〜 887年前後)を費やして築いたと伝わる高野山のシンボル的存在の多宝塔で ある。 .. 創建当初は高さ 16丈 (48.48m)、記録に残るだけでも 5回焼失しており、何回目かに後白河が再建し寄進したのだろう。 . 現在の多宝塔は昭和十二年 (1937) の落慶で、高さなどは創建当初の記録に準じている。 右は現在の高野大塔(クリック→ 別窓で拡大表示) . . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 7月25日 庚子 . 吾妻鏡 . |
大夫尉伊勢守 平盛国※入道は去年鎌倉に連行され、岡崎義実 (三浦介義明の弟) が預かったが日頃から法華経を唱えて食を絶ち、今日死没してしまった。頼朝はこれを聞き彼を囚人として処遇したことを恥じた。盛国の出自は明確ではないが 伊勢平氏の始祖に近い平家一門とされる。承安二年 (1172) 10月19日に出家、享年74。 .. ※平盛国: 平氏の傍流ながら清盛の側近。清盛から見て祖父正盛の従兄弟に当たる存在だったらしい。 治承五年 (1181) 閏2月4日の吾妻鏡に「夜半に入道相国 (平清盛) が九條河原口にある盛国邸で死去。先月の 25日から病床にあった」との記事がある。 .. 盛国邸については文治元年 (1185) 7月25日の吾妻鏡に屋敷跡の画像と共に掲載してある。 . . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 7月27日 壬寅 . 吾妻鏡 . |
去る 19日、因幡前司 大江広元が平家から没収した京都市街の土地目録を提出、頼朝が閲覧した。
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木曽義仲の領三ヶ所の内 信兼家地一ヶ所 (楊梅)、 友実家地一ヶ所 (仁和寺) .平家領一ヶ所 (正親町の重衡卿領) .烏丸御局の領一ヶ所 (左女牛南 東洞院西) 中原親能の領一ヶ所 和泉守信兼家地 (楊梅南 朱雀西) 北條時政の領一ヶ所 宗盛の家人 景高領 (綾小路北、河原東) 土肥実平の領一ヶ所 平信兼領 (楊梅) 後藤実基の領一ヶ所 近衛局の領一ヶ所 平経盛卿領 (二条南 室町東) 南無阿房の領一所 堂敷地の故平内尉領 (高倉東 八條北) 以上十箇所 在判(広元) . . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 7月28日 癸卯 . 吾妻鏡 . |
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.. 後白河の意向を記した師中納言 吉田経房の奉書が到着。新日吉領 (法住寺殿の鎮守社) の武蔵国河肥 (河越) 庄※の地頭が一昨年から年貢を滞納している件、および同じく長門国向津奥庄での武士の狼藉押領の件、現地の庄司の詳細報告を添え、早急の処理を申し入れる 6月1日付の内容である。 . 向津奥の件は直ちに 下川辺行平に調査を命じた。河肥庄については領主が幼少で手続きに齟齬があったため、担当者を改めて正確に納付せよと武蔵守 大内義信宛に書状を送った。これは 藤原俊兼の差配である。 . ※河肥 (河越) 庄: 河越重頼は義経謀反に連座※して文治元年 (1185) の末に失脚し、嫡子重房と共に討伐を 受けた。重頼の室 (比企の尼の二女) は出家した。
.. 遺族を哀れんだ頼朝は文治三年 (1187) 10月に河越荘を河越尼に与え、彼女に従うよう領民に命じている。その間は「尼の預かり」としたため、今回の滞納4引き継ぎの際に生まれた空白時期が原因だろう。河越庄の明細は 河越氏館跡と重頼墓所 (別窓) で。 ※謀反に連座: 河越重頼の娘 (郷御前) が 義経に嫁した経緯に問題あり。吾妻鏡の元暦元年 (1184) には 「この婚姻は頼朝の指示により兼ねて約束を交わしたものである」と記載しているから、「義経の縁戚として連座と追討」は明らかに筋の通らない処遇だった。
.. 個人的には、権力掌握後の頼朝の偏向した独裁指向が結果として御家人の離反と源家の滅亡を招く一因となった、と考えている。 . 同様に重頼の娘婿だった 下河辺政義も所領を没収され、名目上の徴兵権を持つ武蔵国留守所惣検校職は河越氏から 畠山重忠に移った。 . 元久二年 (1205) 6月にはその畠山重忠も 二俣川合戦で殺され、武蔵国の支配権は北條義時に移っている。相模に続いて武蔵国を狙う北條氏の深謀遠慮による結果だ。 . |
当時の陰暦では季節とのギャップ調節のために3〜4年に一度閏 (うるう) 月が入る (ここでは7月の次が閏7月)。西暦と陰暦には一ヶ月前後のズレがある事にも留意が必要、例えば静女が八幡宮で舞った文治二年 4月 8日は西暦では 4月28日になる。陰暦→ 西暦の変換は こちらのサイト(外部)が利用できる。 .. . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 閏7月 2日 丙午 . 吾妻鏡 . |
頼朝が草野大夫永平が望む職に推挙するのは彼の勲功が理由である。吉田経房宛の書状は以下の通り。
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平家が朝廷の権威に背いて謀反を企てた際、鎮西武士の大部分は平家に従ったが筑後の住人草野大夫永平は二心を持たず朝廷に従って忠義を尽くした。彼ら在庁の官人は元の職務に復するべきと考えるが、私の決裁権には含まれない。奏聞のうえ永平を復職されるよう依頼する。 頼朝 師中納言殿 .. ※草野氏: 文治二年 (1186) 12月10日に松浦郡 鏡神社 (外部サイト、地図) の宮司に補任され、松浦郡の 東郷に所領を得た。子孫は土着して館を構え松浦川東側一帯の草野庄を領有、草野党は天正十五年 (1587) の秀吉の島原征伐への参陣を拒んで滅亡した。
.. アナウンサー&キャスターの草野仁氏は島原の出身で草野党の子孫だとか。 . . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 閏7月10日 乙卯 . 吾妻鏡 . |
一條能保の飛脚が到着。義経の小舎人童五郎丸を捕縛し尋問したところ去る 6月10日の頃まで比叡山に隠れていたと白状した。比叡の悪僧 俊章、承意、仲教らの協力があった、と。 .従ってその内容を天台座主 (59代全玄) と法印 (九条兼実の弟 慈円) に連絡し、更に院に奏上した。 . なお「義経」の読みは三位中将殿 (九条兼実の二男 良経) と同じなのを憚る習慣に従って義行に改めている。 . . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 閏7月19日 甲子 . 吾妻鏡 . |
先日来上洛していた 大江広元が鎌倉に戻った。諸国の守護と地頭などについて 後白河法皇の下問に答えて所存を申し述べた。また播磨国と備前国での武士の非法行為を文書で指摘され、糾明せよと指示された。 .「広元は頼朝の腹心として随一の人物である」との評価を受けて面目を施した。 . . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 閏7月22日 丁卯 . 吾妻鏡 . |
前廷尉 平康頼法師 (Wiki、元は平家の家人で散位) が恩沢に浴し阿波国麻殖保 (おえほ) の保司※となった。 ..
尾張国野間庄※の故 義朝公の墳墓は訪れる者もなく草に覆われていたが国司目代として赴任した平康頼が水田 30町を寄進して堂を建て日頃から6人の僧に念仏の供養を続けさせていた。上洛の際にこれを知った頼朝が彼の功績に酬いた結果である。. ※保司: 庄司と同じく 所領を管理する職。保は国主の承認を得て 開発した土地の単位を表す。 .. . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 閏7月26日 辛未 . 吾妻鏡 . |
一條能保の書状が到着。義経に協力した比叡山の僧を出頭させる件を天台座主に申し入れたところ、逃亡したとの返答あり。しかし去る 11日には延暦寺に隠れ続けているとの噂があり、仔細を御白河院に報告した。 .. 16日に院の御所で会議があり、該当する 3名を出頭させよと延暦寺と横河※の末寺や荘園など全ての関連ヶ所に命令が下った。それに伴って逃亡した連中の仲間として 3人が出頭し、彼らを検非違使に引き渡した。 . しかし安易な軍兵派遣は天台宗との紛争や仏教の弊害になる恐れもあり、取り敢えず仔細を座主に知らせるよう諸卿の意見が纏まった。17日にその旨の院宣を左少弁定長から師中納言 吉田経房に届けた。 . ※横河: 延暦寺中心部から 5km弱北、三世座主慈覚大師円仁が開いた横川中堂を中心としたエリア。 平治物語は平家軍との合戦に敗れた義朝を討ち取ろうとした 「横河 (よがわ) の法師が身分の上下を併せて 4〜500人、龍下越に逆茂木を引いて待ち構えた」と書いている。 .. 頼朝の異母兄 朝長が股に矢を受けて負傷したのもこの戦いだった。義朝の逃走ルートは別頁の「洛北から堅田へ」 (別窓) に記載してある。 . . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 閏7月28日 癸酉 . 吾妻鏡 . |
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. 伊勢神宮の禰宜長重が召されて衣冠の正装で御所に参上し、駿河国の方上御厨※を内宮に寄進すると頼朝から言い渡された。下文は既に 22日に発行されているが長重の到着が遅れたためこの仕儀となった。 義行 (義経) ※が神宮に参詣して祈ったとの噂があり、 (その祈りを帳消しにして) 彼の反逆心を無力にするための措置である。 . ※方上御厨: 現在の焼津市方ノ上 (地図) 。 「御厨を寄進する」 の意味は伊勢神宮に対するペナルティでは なく、一村を寄進して義経の祈りを無効にする意図があったらしい。 .※義行 (義経) : 鎌倉側は義経の行方が知れるように「義行」、早く顕れるように「義顕」とした。 迷信が横行した時代とは言え、何とも馬鹿々々しい。 . . . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 閏7月29日 甲戌 . 吾妻鏡 . |
静女が 義経の息子である男児を出産した。これまで帰洛を禁じられ鎌倉に留められていたためで、父親は関東に背いて謀反を企み行方不明になっている。赤子が女だったら母親に渡す、もし男であれば今は産着の中に居ても将来は危険の種になる可能性があり、幼いうちに殺すと定められていた。 ..
その経緯があって、命令を受けた 安達新三郎が今日、赤子を由比ガ浜に
沈めて殺した※。静女は数時間も泣き叫び赤子を抱きしめたまま渡さず譴責を受けた母の磯禅師が赤子を無理やり抱き取って新三郎に渡した。
. この件については御台所政子が赦免を勧めたが、頼朝は応じなかった。 . ※幼子を殺す: 頼朝の頭には平治の乱で助命された自分が平家を 滅ぼした、その認識があったのか。 経験だけに依拠すれば同じ過誤を繰り返す。その愚かさを悟っても良い時期なのだが。 . 右画像はJR宇都宮線 栗橋駅前にある静の廟所。 . 平泉を訪ねる途中で旅人から義経の死没を聞いて病に倒れ間もなく死去したと伝わる。 栗橋周辺に残る幾つかの史跡は 画像をクリックして→ 静女 その後の消息 (別窓) で。 . . . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 8月 3日 丁丑 . 吾妻鏡 . |
先月の 20日頃、義経に協力していた悪僧の仲教および承意の母親を捕えたとの報告が、比叡山から朝廷を経て 一條能保
に届いた。 (上皇からは) 更に義経の居所を確認せよとの仰せがあった。 .. ※悪僧捕獲: 原文は 「生虜同意豫州悪僧仲教及承意母女之由」 だから、悪僧二人と母親二人じゃなくて 仲教+承意の母なんだろうな。すると 「仲教の母と承意の母」 の場合はどう書くの? .あ〜、高校時代の漢文教師の顔を思い出す。かと言って今更勉強するのも真っ平だけど。 . . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 8月 4日 戊寅 . 吾妻鏡 . | . . ※熊野御幸: 速玉大社には歴代皇族の 熊野参詣記録の碑がある。最多は 後白河法皇の 33回で、天皇位と 上皇の在位期間を合算すると 7.6ヶ月に一度の熊野詣は何ともクレイジーだ。 .浪費するだけで何の生産性も持たず享楽に明け暮れる平安貴族の浅ましさ。 . 後白河に続いて 後鳥羽上皇の 29回と鳥羽上皇の 23回が続く。後鳥羽の場合は 41歳で隠岐に流されるのだから、承久の乱がなければ後白河の記録を破っただろう。 . 帝と院は合計 23人が 141回、彼らの熊野詣は延喜七年 (907) の宇多法皇から最後は弘安四年 (1281) の亀山上皇まで 374年間も続いた、限りなく無益な浪費。 . 現代なら国会議員の海外視察旅行が該当するか。フランスで豪遊した エッフェル姐さん、遂にはラブホ不倫の翌朝に直行した予算委員会で 居眠りした女傑 まで現れた。 . 権力を握り続けて腐敗し切った自民党、そして自民党の腐敗を知りながら共に権力の美酒に酔って堕落を続けた公明党と創価学会、更に彼らを「支持し続けた」愚かな日本人。 そして「バラマキの財源も提示できない嘘吐き玉木」に傾倒する、更に愚かな日本人。 . . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 8月 5日 己卯 . 吾妻鏡 . | .
6月1日の御教書が 7月28日に届き、謹んで拝見。新日吉社領の武蔵国河肥庄は元々請所※として年貢を納めていたが、去年領家 (河越重頼) 逝去※の知らせがあって年貢の納付先が確認できず、両家からの報告を待っているうちに返書が遅れてしまった。
.. 地頭 (この時点では河越尼の預かり) が意図した滞納ではない、現在は領家の孫 禅師君※に領家を継がせるので遅滞なく処理できる筈である。 . また同じく (指摘のあった) 長門国向津奥庄の地頭職は平家の与党である豊西郡司弘元を罷免し景国※を補任したもので、景国が悪行を重ねているのが事実なら論じる必要もなし、上洛して仔細を報告し裁決を仰げば良い。取り敢えずは非法を止めさせ日吉社の指示に従うよう命令を下した。 頼朝 . ※請所: 収穫の善し悪しに関係なく、荘官などの管理者が徴収した年貢から一定額を荘園領主に納める システム。領主側には定額収入が見込めるが、不作の年には係争が起きる原因にもなる。 .※重頼失脚: 義経に連座して所領の伊勢国香取五ヶ郷は紀氏系の御家人 大井実春に与えられ、本領の 河越荘のみが尼の預かりとなった。尼が正式に地頭職を継承できたのは文治三年 (1187) 10月になる。重頼と嫡子重房は文治年間に殺され、後に二男重時が地頭職を相続した。
.. 嘉禄二年 (1226) には空白だった秩父一族 河越氏相伝の名誉職 武蔵国留守所検校職は三男重員に与えられたが、既に武蔵国司は北條時房が任じている。河越氏は北條氏の分断政策によって重時系と重員系に分かれ、更に弱体化された。 ※禅師君: 重頼の嫡男重房 (1169年誕生、当時16歳) には子の記録がなく、孫として可能性があるのは 後に家督を継ぐ二男重時 (当時14〜15歳) の嫡子 (成人して泰重) のみだろう。後に三代執権の泰時から 「泰」 の字を与えられ、北條氏に取り込まれている。 .※長門景国: 吾妻鏡の今年10月23日に次の記載がある。 . 長門江太景国が御台所の怒りを受けた。頼朝が側妾 (御所の侍女 大進局、常陸入道念西の娘) に産ませた男児 (当年 2月誕生、後の 貞暁) を養育しているのが露見したためで、今日 景国は若公を抱いて深沢 (鎌倉の西部、地図) の辺りに逃げ隠れた。
.景国は向津奥庄の地頭職を解任され、鎌倉に戻っていたと推定される。 .. ところで、政子さんの場合は単純な男女間の嫉妬ではなく 「北條一族の権力や将来の繁栄に影響する様な状況に対する憎悪」 の様に思える。頼朝とは男女間の愛による絆ではなく北條一族の繁栄に資するか否かでの判断だったような。だから実子の 頼家や 実朝や内孫の 一幡まで切り捨てる事に何の逡巡も持たなかったのだろうね。 . . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 8月 6日 庚辰 . 吾妻鏡 . |
(閏7月2日に) 草野大夫永平の所望を推挙した件に院の勅許があり、師中納言 吉田経房の書状が届いた。
.平家が朝廷に背き都を離れた際、鎮西の武士は殆どが平家に従ったのに永平が彼らに与せず忠節を保った事は院にも届いている。よって筑後の在国司 (国司の筆頭代官) と押領使の両職に任じる旨を 後白河法皇の意向通りに通達する。 閏 7月26日 太宰師 (吉田経房) .. . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 8月 7日 辛巳 . 吾妻鏡 . |
鎮西の住人草野次郎大夫永平(今年の閏7月2日を参照)は栄誉ある言葉を受けて本領の安堵を得た上に更なる勲功も得ることになる。これは平家に従わず源家に尽くした結果である。
.. . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 8月 9日 癸未 . 吾妻鏡 . |
勝長寿院の山門が風によって破損したため今日修理を実施、頼朝がこの様子を確認に訪れた。 .. . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 8月15日 己丑 . 吾妻鏡 . |
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.. 頼朝が鶴岡八幡宮に参詣、一人の老僧が鳥居の付近を歩いているのを怪しんで 梶原景季に素性を確認させると 佐藤兵衛尉憲清法師、現在の 西行法師※である。頼朝は参詣を済ませたら落ち着いて面談し和歌の話などを交わしたい旨を伝え、承諾を得た。頼朝は早々に参詣を済ませて御所に戻り西行と面談し、和歌や弓馬について色々と質問を重ね、西行は次のように語った。 . 弓馬の事は出家する前に家風を受け継いだに過ぎず、家に伝わった兵法書などは保延三年 (1137) 8月に俗世界を離れた際に焼き捨てて心にも留めていない。和歌については、花鳥風月に心を動かした折に三十一文字を並べるだけで全く奥義など知らず、申し上げたいような事はない。 .それでも色々と話すうちに弓馬についても詳しく語り、藤原俊兼が書き止めた。歓談は終夜に及んだ。 . ※西行と面談: 諸国を巡リ歩いた漂泊の歌人。この時は奈良東大寺再建の勧進を求め奥州平泉に向かう 途中だった。鎌倉の喜捨 (再建の協賛) を乞うために頼朝を待っていた、と思われる。 .. . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 8月16日 庚寅 . 吾妻鏡 . |
午の刻 (正午前後) に西行上人が退出した。頼朝は熱心に引き止めたが、西行は応じなかった。頼朝は銀造りの猫を贈り物とし、西行は門を出てから遊んでいた幼児にこれを与えた。 .西行は重源上人の依頼を受け東大寺再建の砂金拠出を依頼するため奥州に赴くついでに鶴ヶ岡に立ち寄ったもので、陸奥守 秀衡入道は同じ一族である。 . ※銀造りの猫: 文治五年 (1189) 8月22日、奥州征伐の際に平泉に入った頼朝は 葛西清重らに焼け残った た蔵を調べさせ、金造りの鶴や瑠璃の灯爐など宝物の中から「銀造りの猫」を見つけたとの報告を受けることになる。 .. 本当に門前の幼児に与えたのか、西行が平泉に持ち込んだか、偶然同じ銀の猫があったのか、吾妻鏡編纂者の創作か。既に確かめる術のない話ではある。 . ちなみに、奥州から戻った西行は伊勢を経て河内に隠居し、鎌倉に立ち寄ってから4年後の建久元年 (1190) 2月に没している。定住と漂泊を繰り返した、良寛や芭蕉の先駆者でもある。この生き方には憧れるなぁ...才能の有無なんか考えずに (笑) . . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 8月18日 壬辰 . 吾妻鏡 . |
鎮西の安楽寺 (天満宮の別当寺) (詳細の紹介サイト) の別当僧 安能には (平家に与した) 罪があり、頼朝は朝廷に処分を申し入れていたが 去る 6月26日に死没。このため次席の全珍を補任するよう朝廷に申し入れた。
.. ※全珍補任: 参考・・・4月3日と6月51日の吾妻鏡に安能を糾弾する記載あり。 . . . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 8月20日 甲午 . 吾妻鏡 . |
小御所の東側を改築、今日転居の儀式あり。上野国の負担とし、守護の 安達盛長がこの作業を差配した。
.. ※小御所: 私的な空間を意味する場合と、幼い嫡子などの居住空間を意味する場合もある。例えば、 . . . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 8月26日 庚子 . 吾妻鏡 . |
蓮花王院領の紀伊国由良庄で、京都七條の銅細工師 紀太が違法行為を行なっている件が、領家の藤原範季に .よる報告書と院宣で届いた。これに伴って今日命令書を発行、銅細工師 紀太の謀計を止めさせ院宣に従って 両家が荘園の業務を司るよう命令を下した。藤原範季の報告書と院宣は次の通り。 由良庄での非法について報告。七條の紀太丸の謀計は特に悪質で、重罪に処して頂きたい。領家は平基親朝臣と称して詳しい事情を知らない田舎者と侮り、悪質な企みを行なっている。 .. しかも後白河院の熊野詣でを前にして荘園に問題が起きれば、垰田郷が務めてきた桧の食器の献上にも支障が起きかねない。高尾寺 (神護寺) 領の荘園に変更されたのも一因であり、早急の処理を願いたい。 閏 7月24日 木工頭 範季 . 蓮花王院領由良庄の違法行為について領家 藤原範季※提出の報告は、子細の調査が院の意向である。 閏 7月29日 太宰権師 経房 . ※藤原範季: 後白河に仕えた公家。近江守、常陸介、上野介など受領職を歴任、応保元年 (1161) 頃には 頼朝の異母弟 範頼を庇護し養育した(経緯は不明)。 .九条 (藤原) 兼実の家司を務めながら平家にも近く、平清盛の養女を妻に迎えている。 . 謀反人となった義経を擁護し 興福寺で接触した事が 11月5日に露見し、12月11日に解官されている。この行動は陸奥守に任じた際の 藤原秀衡との関係に基づくものか、或いはその後の復権と昇進を考えれば 後白河法皇の意向に依るものか。 . 娘が 後鳥羽天皇の子 (後の土御門天皇) を産んだ事などから建久八年 (1197) に従三位、没後 5年の承元四年 (1210) に孫が 順徳天皇として即位した際には従一位 左大臣を遺贈された。 . . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 8月27日 辛丑 . 吾妻鏡 . |
土佐守 源国基※は頼朝の同族で断ち難い関係にある。伊勢神宮領の伊勢国 玉垣御厨の領主職の他にも多くの所領を与えた。また家人の刑部丞景重は鎌倉で頼朝に仕えるよう命じられた。渡辺党の武士である。 .. ※源国基: 摂津源氏 頼国の四男 実国から五代後の武士で 頼政の系に近い。清和源氏の系図を参照。 . . . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 9月 5日 戊申 . 吾妻鏡 . |
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.. 諸国の荘園と公領の地頭らが領家の指示を無視しているとの情報が多発している。地頭に定められた収益以外に介入してはならず、年貢や労役の義務を怠ってはならない。これを守らない輩は罪に問う旨を定めた。 . また 賀茂別雷社の所領について院宣が下され地頭 の業務を停止し賀茂別雷社の管理に任せるよう下命した。同じ社領の備後国 有福庄も 土肥実平の年貢収奪を停止する、と。 近江国安曇河御厨※に下す .佐々木定綱による業務を直ちに停止し、従来通り領家である賀茂別雷社の管理に戻す事。定綱の違法行為によって神社の業務に支障が起きているとの訴えがあり、院から命令が下ったものである。 武士による違法行為は直ちに奏聞を経て裁定を受けねばならない。 文治二年九月五日 . ※有福庄: 現在の広島県府中市上下町有福 (地図)。土肥実平が守護所を置いていた、と伝わる。 . ※安曇河御厨: 賀茂神社 (Wiki 、上賀茂と下鴨両社) の所領で現在の高島市安曇川町。 . . . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 9月 7日 庚戌 . 吾妻鏡 . |
頼朝は由比ガ浜から深澤の一帯を巡覧、岡崎義実が駄餉 (外出先での食事) を手配して献上した。
.. ※巡覧コース: 2月26日に 「頼朝の若公が誕生、生母は常陸介籘時長の娘で産所は長門江七景遠の 浜の 家、云々」 の記事がある。鎌倉で 「浜」 と言えば由比ヶ浜、中心部から離れた稲瀬河付近、更に限定すれば 大太刀稲荷神社 辺りに景遠宅があったと考えても違和感はない。
.. まして 10月23日の記事には「この件が御台所 (政子) に露見し、景国は若公を抱き深沢の辺りに逃げ隠れた」、とあり、深澤は坂ノ下の北西に隣接するエリアだから、傍証にもなり得る。 頼朝の由比ヶ浜巡覧は赤子を見るのが目的、だろう。 . . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 9月 9日 壬子 . 吾妻鏡 . |
重陽節※にあたり、判官代 藤原邦通が菊花を献上。中国の故事に倣って御所北側の庭に植えた。香りが庭に溢れ艶やかな花が垣根を彩った。毎年秋にはこの花を献上せよと邦通に申し付けた。枝に結びつけた紙を開いて見ると絶句 (漢詩) が書かれていた。 .. ※重陽節: 中国では陽数の「九」が重なる九月九日を「重陽」とした。日本では菊を飾り、菊酒を嗜む 行事として宮中に定着した。最古の記録は天武天皇十四年 (朱鳥元年、685年) だが、崩御が翌年の 9月9日だったため国忌として廃止され、106年後の延暦十年 (791) に再開となった。
崩御以後の元号は、西暦701年に「大宝」が定められるまで空白である。 .. . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 9月13日 丙辰 . 吾妻鏡 . | . .最勝寺領の越前国大蔵庄に関し、北條時政の代官 時定と常陸房昌明らが年貢を押領している旨、寺の報告書を添えた院宣が発行された。頼朝の沙汰を経て、今後は地頭 時政の知行であっても最勝寺※の業務を侵害せず従来の手順に従って年貢や賦役の勤めを行なうべしとの命令が下された。 . ※最勝寺: 山城国愛宕郡 (京都市左京区) に建てた六勝寺 (勝の字を含む六山の祈願寺) の一つ。 最勝寺は鳥羽天皇の祈願寺で創建は元永元年 (1118) 、現在の京都会館の東 (地図) にあって一町四方 (約 110m四方)の規模だったと伝わる。 .6月29日にも六勝寺の一つである成勝寺の年貢について、地図を含め同様の記載がある。 . 全ての六勝寺 (法勝寺、尊勝寺、最勝寺、円勝寺、成勝寺、延勝寺) は院政の衰退と災害や戦乱により 応仁の乱 (Wiki 、1477年〜) 以後に廃寺となった。 ※最勝寺領大蔵庄: 丹生郡大蔵庄は現在の鯖江市西部の大倉町一帯 (地図) 。日野川西岸にはその水利を . . . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 9月15日 戊午 . 吾妻鏡 . |
刑部丞 梶原朝景※が昨夜京都から鎌倉に戻った。去年御家人を選んで 26ヶ国に派遣した中で土佐国を担当し命令に従って治安の維持を保った武士である。頼朝は御所に召して京都の情勢などを質問し、朝景はまず 義経逃亡後の朝廷の対応と義経に協力した輩などについて報告した。 .. その他、3月に群盗の主魁である平庄司 (丹波国の住人) を捕らえて左獄 (左京の獄 (東獄) 、対して右獄 (西獄) もある) に拘禁したが仲間が襲撃して獄を破り、庄司らは全て逃亡した。検非違使別当の家通らに捜索させたが発見できず、8月11日に私が捕獲し21日に再び検非違使に引き渡した、と。 . ※梶原朝景: 当主景時の末弟 (異説あり)で朝景または友景を名乗る。正治二年 (1200) に駿河国 狐ヶ崎 (旧清水市) で一族が討伐された際には降伏して許され、建暦三年 (1213) の和田合戦で 義盛方に参戦、戦死者の中に梶原刑部、同太郎、同小次郎の名がある。一族の殆どが北條氏に討たれた遺恨は深かったか。 .また、一族の一人が酒匂氏の祖となった、とも伝わっている (これも異説あり) 。 . . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 9月16日 己未 . 吾妻鏡 . |
吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ .. 静女と母の磯禅師が釈放され、京へ。御台所政子と 大姫は彼女の境遇を憐れんで多くの宝物を与えた。 源義経の所在を尋問するため鎌倉に呼び出したが、吉野山で別れた後は行方を知らない、と陳述した。 鎌倉に留める理由は既になかったが、産後の回復を待って逗留していたものである。 .
※ これが記録に見る 静の最後となる。. 伊豆韮山の 真珠院 (別窓) の
寺伝では 静女は自分と同様に愛児を殺された頼朝の愛人 八重姫の生涯を悼み入水自殺した八重を葬った満願寺に立ち寄って堂 (現在の静堂) を寄進したとれる。 .. 果たして静女に他者の菩提を弔うほどの精神的余裕があったかどうかは疑わしいのだが。 . 更に頼朝の異母弟 阿野全成は静堂の物語に心惹かれ、満願寺の近くに真珠院を建立した、と。満願寺は遠い昔に廃寺となり、残れた少々の遺物は全て真珠院に移されている。 それ以外は捏造の匂いが芬々として、正直言って信用できる話じゃないけどね。 . 私は、静女は京都には戻らず義経がいる筈の奥州平泉を目指したと思う。最も信頼できる話として、 栗橋周辺に残る静御前の足跡 を記述した。画像をクリックして史料を御覧あれ。 . 右画像は下総国下辺見 (現在の古河市) の小川に架かる現在の思案橋 (クリック→ 別窓の詳細へ) 。 静女はここで旅人から「奥州平泉で義経が自刃した」との話を聞き、平泉を目指すべきか京都に戻ろうかと思い迷った。だから、橋の名を「思案橋」と。 . . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 9月20日 癸亥 . 吾妻鏡 . |
女房 (京都朝廷の女官) 少将局の使者が鎌倉に到着。蓮華王院※法華堂領の伊勢国釈尊寺で武士による違法行為があり、早急に止めさせて欲しい、と。
.. ※蓮華王院: 後白河の離宮 法住寺院殿の中心部に建てたのが 蓮華王院本堂 (三十三間堂公式サイト) 。 清盛に資材の提供を命じて長寛二年 (1165) 12月に完成した。当初は北殿と南殿の他に最勝光院、熊野社、日吉社、五重塔、法華堂などを併設した本格的な巨大寺院だったが建長元年 (1249) に焼失、文永三年 (1266) に本堂 (現在の三十三間堂) のみが再建された。 .. 現在は天台門跡の一つで 最澄が開いた 妙法院 (外部サイト) の管理下にある。 法住寺院殿敷地周辺の復元推定地図などは 京都旅行のサイトを参考に。 . . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 9月22日 乙丑 . 吾妻鏡 . |
糟屋籐太有季※が京に隠れていた義経の家人 堀弥太郎景光を捕えた。また中御門東洞院で同じ家人 佐藤忠信を殺した。忠信は強者なので簡単には討てず、大勢の寄せ手で襲った結果 郎従二人と共に自殺した。 .. 忠信は以前から義経に従っていたが宇治の辺りで別れて洛中に戻り、馴染みの青女 (若い女) に書状を送った。女はそれを夫に見せ、その夫が有季に知らせて討手が向かう結果となった。 . 忠信は鎮守府将軍 藤原秀衡の縁戚※で、治承四年 (1180) に義経が平泉から関東に向かう際に秀衡が武勇に優れた武士を選び、継信と忠信の兄弟を付き添わせたのが経緯である。 . ※糟屋有季: 相模国大住郡糟屋荘 (伊勢原市) の庄司。石橋山合戦では 大庭景親に従い、その後は頼朝に 従って御家人に列している。比企能員の娘を妻とし、比企の乱 (建仁三年、1203年) の時は頼家の子 一幡を守り、比企館 (現在の 長興山 妙本寺) の小御所で討死する。 ..
最初に糟屋荘を開拓した伊勢山田の人 曾右衛門は故郷の伊勢神宮を勧請して 伊勢原大神宮 (公式サイト) を創建、これが鎮守となり伊勢原の地名に転じた。※秀衡の縁戚: 佐藤兄弟の父は湯の庄司 佐藤基治、生母は 秀衡の 父 藤原基衡の末弟 和泉十郎清綱の娘で基治の後妻となった乙和子姫、従って秀衡と乙和子は従兄妹の関係になる (奥州藤原氏の系図を参照)。 .. 佐藤基治には先妻 (頼朝の御家人で上野国の武士 大窪太郎の娘) が産んだ後継の男子二人 (前信と治信) がいたため、継信と忠信を義経の家臣として与えたのは異母兄の家人として仕えるよりも義経の武将として生きる道を与える意味合いもあったらしい。 右上は佐藤氏の菩提寺 飯坂の 瑠璃光山医王寺の山門。一族の墓標や兄弟の遺品などを展示している。 画像クリック→ 医王寺の明細 (別窓) へ .. . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 9月25日 戊辰 . 吾妻鏡 . |
北條時定が院の召使 則国からの書状二通を受け取った。一通は職事※に渡し、他の一通が今日鎌倉に着いた。紀伊国職事に於ける七条紀太の横領行為の報告である。詳細は下記の通り。 .【 蓮花王院領の由良庄について、院の召使則国が報告した籘三次郎吉助丸の詐欺横領の件 】 . 則国が院宣を携えて使者 (検非違使北條時定の代官) と共に荘園に出向き事件の原因を調べた。 .この吉助は以前には 一條能保の使者籘内を称した者で、次のように申し述べた。 . 一條能保の使者を名乗ったのは嘘、本当は吉田中納言 阿闍梨の使者だ。院宣など気にも掛けない。 俺の兄弟は伊豫国で院の従者を二人も斬り殺した。召使など相手にもならぬ。 . と悪口を並べて使者を追い返そうとしたが、詳細を検非違使の代官に報告されて企みが露見したため、夜中に逃げ去った。この吉助は 平貞能法師の郎従 高太入道丸の舎弟で、奸計を以て蓮花王院領の横領を狙ったのだろう。また吉田中納言 阿闍梨は七条紀太から何等かの書類を入手し、賄賂を使って北條の関係者を詐称し詐欺を企んだ。 その阿闍梨と七条紀太を院の庁に召し捕り戒めを加えれば今後の悪行はなくなるだろう。 . 文治二年九月十一日 御使召使 藤井 . ※職事: 一般的には事務官を差すが、ここでは由良庄の現地管理人 籘三次郎吉助丸を差す。 . ※ 8月26日には「蓮花王院領の紀伊国由良庄で京都七條の銅細工師 紀太が違法行為、云々」の記載あり。 しかし下らない詐欺未遂事件を再三に記載している理由はなんだろう。 .. . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 9月29日 壬申 . 吾妻鏡 . |
兵衛尉 北條時定の飛脚が到着して報告。去る 22日に 糟屋籐太有季が堀弥太郎を捕獲し、佐藤兵衛尉忠信を討ち取った。景光の供述に拠れば、この頃の義経は奈良の聖弘得業※に匿われていた。景光は義経の指示で木工頭 (藤原) 範季※を訪ね、何度も打ち合わせをしていた、と。 .このため 一條能保の奏聞を経て 500騎の兵を 比企朝宗に与え、義経捜索のため奈良に派遣した。 . ※聖弘得業: 奈良 興福寺 (公式サイト) の僧。翌年 3月8日には鎌倉に召喚されて頼朝に尋問されるが、 「天下静謐のために義経と和解するべき」と説いて頼朝を感動させた。頼朝は感動しただけで和解はせず、勝長寿院の供僧に任じて関東の繁栄を祈祷せよ、と彼に命じている。
.※藤原範季: 範頼、義経、秀衡とも接点のある公家。詳細は 8月26日の条に記述した。 . . . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 9月30日 癸酉 . 吾妻鏡 . |
下野国寒河郡※内の水田十五町を日光山※の三昧田として寄進した。寒河郡は去年 野木宮神社に寄進したが、この十五町は国領から切り離して処理せよ、と。 .. ※寒河郡: 小山市の南西部、思川と巴波川 (うずまがわ) に挟まれた南北に長いエリア一帯 (地図) 。 . ※日光山: 二荒山神社、日光山輪王寺、山岳信仰など全体の総称。信仰の象徴である男体山は奈良時代 には補陀洛 (ほだら) 山と呼ばれ、後に近似音の二荒山となり、更に音読して総称の日光山となった。三昧田は寺領として税や雑役などの義務を免除される農地。 .. . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 10月 1日 甲戌 . 吾妻鏡 . |
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.. 陸奥国の 藤原秀衡入道から今年の貢金※ 450両が届けられた。これは頼朝を経由して納付するためである。 また賀茂別雷神社領の出雲国福田庄、石見国久永保、参河国小野庄などの社家 (現地を管理する世襲の神職) 宛に下文を発行した。この神社は頼朝の信仰が特に深い。 . また院領や高位の貴族領などについて、新たな地頭の赴任を行わないよう朝廷からその目録が下されたため、詳細を確認して下文を発行し京都に送った。内容は次の通り。
先日に下された御下文のうち朝廷関連の神社仏寺の領地については命令が完了している。その他、院や朝廷の関連および高位の領地や補任などについては 252枚の下文と2通の書状およびこの文書と目録を添付して逐一処理している。武士による不当行為に関しては善悪の指摘を頂ければ確認して善処する。 .. その他仔細が確認できないものは除いて、申し入れの通りに下文を発行した。この類の事に関しては今後は摂政の 九条 (藤原) 兼実殿に申し出て事務的に処理して頂きたく、その旨を奏上されたし。 十月一日 頼朝 師中納言殿 . 私信として追加。来年か再来年かの式年遷宮について、要求があれば承りますから指示願います。 また院に宛てる書状や通常の場合には御覧の通り花押を加えますが、これは私信なので加えていません。 . ※奥州貢金: 当時の斤量で換算すると約 63kg前後か (1両=1.4gで計算)。天平勝宝四年 (752) に最初の 大仏建立の際に鍍金 (金メッキ) に使った金は 4,187両 (58.5kg)だった。 .東京鍍金工業組合は 「大仏の鍍金に要する金の量は 50kg弱」 と推定試算しているから記録との数値差は許容範囲だろう。 「東大寺要録」 に拠れば (最初の建立の際に) 陸奥国が献上した金は 900両 (12.6kg) 。 . 治承の戦乱で焼け落ちた大仏を修復するため 後白河法皇は奥州に金 3万両の拠出を命じたが秀衡は 「金は殆ど掘り尽くし、これが精一杯です」 として最終的に 5千両 (約64kg) を納めている。 . . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 10月 3日 丙子 . 吾妻鏡 . |
朝廷に献上する馬 (五疋) および秀衡が献上する黄金※について、二階堂行政が添付書類を記した。馬の毛色は 鹿毛駮、葦毛駮、黒栗毛、栗毛・連銭葦毛である。 文治二年十月三日 .. ※秀衡の献上品: 頼朝は 「鎌倉を経由せよ」 と理不尽に要求、秀衡から 4月24日に了承の返事があった。 原文の 「貢馬并秀衡所進貢金」は「(鎌倉が) 献上する馬と、秀衡が献上する金」 と読んで良いのだろうか。それとも「馬も金も秀衡の献上品」か。
.. . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 10月10日 癸未 . 吾妻鏡 . |
先月末に 比企朝宗らが奈良興福寺に兵を進め聖弘得業 (9月29日の記事を参照) の僧房周辺を捜索したが、義行 (本名義経、先頃幕府が勝手に改名) は発見できず虚しく京に引き返した。この事件が南都の騒動となり、衆徒が蜂起して朝廷鎮護の護摩行法会が中止になるかも知れないとの噂が流れた。 .. . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 10月16日 己丑 . 吾妻鏡 . |
深夜に雑色の鶴次郎が御使として京都に向かった。これは木工頭の藤原範季が伊豫守義経に協力していた件※を朝廷に申し入れよと兵衛尉 北條時定に伝えるためで、三日のうちの到着を命じられた。 .. ※ 藤原範季の件は 8月29日の 堀景光の供述に基づく対応である。 . . . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 10月23日 丙申 . 吾妻鏡 . | . . ※長門景国: 2月26日の記事には 「長門江七景遠の海辺の家で出産」 とあり、9月7日にも関連した情報が ある。江太景国と江七景遠は兄弟と思われるが、出自などの詳細は判らない。 .. . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 10月24日 丁酉 . 吾妻鏡 . | . .
※甘縄神明: 開創は 行基で創建は 染谷時忠、鎌倉で最古の神社の
一つ (地図) 。詳細は 甘縄神社と安達邸跡で。 .. 鎌倉に行ったら極楽寺坂に続く 由比ガ浜古道ルートを歩いてみよう。染谷時忠館跡も近いし市内数ヶ所の 「塔の辻」 の一つと伝わる石塔残欠 (詳細は右画像をクリック) や星月の井、成就院も見ておこう。 ※参列した御家人: 気性の荒さで知られた五郎宗政は朝光の兄で 長沼一族の祖 (小山氏系図を参照) 、梶原朝景は景時の弟、景定は朝景の嫡子である。 .更に詳細は右フレームの坂東平氏系図で。 . . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 10月27日 庚子 . 吾妻鏡 . |
信濃国伴野庄※の年貢納付明細が到着し、頼朝は書状を添付して京都に送った。 .地頭の 加賀美二郎長清 (小笠原長清) の怠慢である。 . ※伴野庄: 信濃国には同名の荘園が二ヶ所あり、この記事は東御市から佐久市一帯の佐久郡伴野庄を示 している。周辺の大井荘や平賀郷と境界が入り組んでいるため正確なエリアは不明なのだが (地図)、鎌倉時代初期の領家は藤原 (九条) 基家で地頭は小笠原長清、後に六男の時長が継承して伴野氏の祖となっている。
.. 義仲の挙兵に協力した信濃の名族滋野氏、望月氏、根井氏、海野氏らの本領も近い。中山道が東西に通じている交通の要所でもある。 . もう一つの伊那郡伴野荘は下伊那郡豊丘村伴野 (地図) 。五世紀初頭に大伴氏の庶流が土着し伴野氏を名乗ったのが最初で、平安時代末期に 上西門院 領の伴野庄となっている。 . . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 11月 5日 戊申 . 吾妻鏡 . |
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.. 豫州 (義経) 搜索の件について、頼朝は重ねて師中納言 吉田経房に書状を送った。 . 未だに発見できない理由の一つは公卿を含む廷臣が鎌倉に悪意を抱き庶民と共に義経を助けている、特に藤原範季や仁和寺宮 (後白河法皇の第二皇子で藤原成子の産んだ守覚法親王) が協力しているのは容認できない。 義経の従者 藤田友実の家 (所有者は仁和寺) を北條時政が捜索した事件などで敵意があるのではないか、と。 . また 大江広元の意見として、義行の意味は 「良く行く」 あるいは 「良く隠れる」 だから捕まらない。改名※するなら意味を考えて同じ発音を避けるべきだ、と。頼朝は義経に戻すよう摂政の 九条 (藤原) 兼実に申し入れた。 . ※義経の改名: 義行の初出は10月10日、九条兼実二男で兄の早世により嫡子となった良経と発音が同じ 同じなので呼び名を変えたのが発端 (確か頼朝も同意したはず) 。 .続いて11月24日の玉葉には義行の改名について 「義顕が最適だと思う」 と藤原兼光 (当時は権中納言) が言っているとの記述がある。顕 (現れる) だって...馬鹿じゃないの? ※義経の処遇: 頼朝の側に立って考えれば、義経は許しがたい行動を再三行っている。 . 1.養和元年 (1181) 7月20日、八幡宮上棟式での馬の手綱を引く命令のトラブル。 .2.元暦二年 (1185) 4月15日に頼朝の内挙を得ず無断任官した。 3.同4月21日、軍監として同行した梶原景時から義経の独断専行を非難する書状が届いた。 4.御家人の勲功を認めず戦勝は全て自分の手柄であると主張し結束を乱した。 5.平氏が独占していた院御厩司 (院政の軍事的支柱) に補任され、平時忠の娘を娶った。 . 6.安徳帝の保護と神器の確保を厳命したにも関わらず性急な作戦で安徳帝と二位尼を死なせ 宝剣を失った。後白河との取引材料を失なった上に頼朝の宝剣捜索命令にも従わなかった。 . 7.義仲と平家を滅ぼした評価が高まり、後白河が平家の地位を義経に継承させるかのような 動きを見せた (後白河が意図して源氏の分裂を画策し、義経が乗せられた傾向あり) . 結果として義経は御家人の信任を得られず、頼朝と戦うために必要な恩賞も手当できなかった。 戦術 (実戦での個々の戦術) には優れ、長期的な戦略を構築する能力には欠けていたのだろう。 . ただし頼朝の過剰な猜疑心や多くの粛清と排斥など短絡的な政策を続けたこと、次の世代まで見据えたビジョンの確立を重視しなかった愚かさの方が指摘されるべきだ。腹心の時政と女房の政子に権力を奪われ、嫡子や摘孫まで殺されるなんて救いようのない愚物と評価すべきだろう。 . . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 11月 8日 辛亥 . 吾妻鏡 . |
藤澤余一盛景※は諏訪大社大祝 (世襲神職家) の訴えにより頼朝の勘気を受けていたが、今日罪を許された。 .これは盛景が神領の黒河内※と藤澤で神事の狩りおよび拝殿の修理を妨害し、その訴えを受けた頼朝が処分を下した結果である。大祝としては同僚を厳しく訓戒するため懲罰を申請したが業務が滞っては神慮を違えるから、大祝の指示に従って規律を守り、急いで神事を行なうように命じる事となった。 . ※藤澤盛景: 諏訪の南、杖突街道沿いの伊那市高遠町藤澤御堂垣外 (地図) に本拠を置いた諏訪氏 (諏訪上社 (公式サイト) 大祝の一族) 。要するに神主一族の内紛か。 .※黒河内: 藤澤の南10km、桜で有名な高遠城址から更に南の伊那市長谷黒河内 (地図) 。現在は天竜川 水系の三峰川を堰き止めた美和ダム湖畔に旅情豊かな道の駅 南アルプスむら長谷 がある。 .. ここから南は フォッサマグナ構造線に沿った更に山深いエリアになる。鬼面山南東の地蔵峠で国道152号は途切れ、2kmほどの区間は舗装された林道を走ることになる。 . . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 11月12日 乙卯 . 吾妻鏡 . |
若公 (万寿、満 4歳2ヶ月、後の頼家) が輿に乗って鶴岡八幡宮を参詣。小山五郎 (長沼宗政) 、同七郎 (結城朝光) 、千葉平次常秀、三浦平六義村、梶原三郎景茂、同兵衛尉景定ら※が従った。帰路に馬場入口※の仮屋で 大庭平太景義が駄餉 (外出先での食事、弁当) を献じた。 .. ※供の御家人: 千葉常秀は 胤正の二男、他の武士は重複している 10月24日の記事を参照されたし。 . ※馬場の入口: 八幡宮の流鏑馬道東端を差す。流鏑馬の神事は現在もここから西にスタートする。 . . . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 11月17日 庚申 . 吾妻鏡 . |
雑色の鶴次郎および貢馬の使者生澤と御厩舎人の宗重らが京から戻り、北條時定の書状を持ち帰った。貢馬は去る二日に朝覧を済ませた。同日に木工頭兼皇后宮亮の藤原範季が現職を解任された旨が述べられている。 .. ※使者の帰還: 10月16日に鶴次郎派遣の記事があり義経と範季の関係を糾弾した効果が表れた。 . . . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 11月24日 丁卯 . 吾妻鏡 . |
先月 8日と 9日の院宣が先頃鎌倉に届き、その返状を今日発行する。三善康信、藤原俊兼らが頼朝の意向を聞いて書き加えた。これは旧平家領に補任した地頭が、特に謀反の証拠もないのに年貢や賦役を課して役人を煩わせていると国司や領家が朝廷に訴え、それが院宣の内容に反映されたためである。 .. 平家領と確認できる場所以外は地頭による越権行為を停止せよ、との命令である。 院宣二通(@とA)と返状(B)の内容は以下の通り。
@ 諸国宛の太政官符 早く国衙庄園の地頭による非法を停止させる事 内大臣実定が勅を宣す。
平氏を討伐した跡に補任した地頭らが勲功を称し明確な平家領と確認できない場所にまで納税義務を課し、在庁官人や郡司以下の役人を煩わせていると国司や領家が訴えている。従って支配下の武士に命令して明確な謀反人領の場合以外は地頭の関与を禁止させよ。院宣に依って命令する。到着次第に差配せよ。 .文治二年十月八日 正六位上行左少史大江朝臣 従四位上左中弁兼中宮権大進藤原 (光長) 朝臣 A 諸国の荘園と国衙領で、平氏を討伐した跡に補任した地頭らが勲功を称し明確な平家領 と確認できない場所にまで納税義務を課し、在庁官人や郡司以下の役人を煩わせていると国司や領家が訴えている。従って支配下の武士に命令して明確な謀反人領の場合以外は地頭の関与を禁止させよとの院宣である。
文治二年十月九日 左少弁定長 進上 源二位殿 .B 院宣を承り、諸国の荘園と国衙領で、平氏を討伐した跡に補任した地頭らが勲功を称し明確な平家領 と確認できない場所にまで納税義務を課し、在庁官人や郡司以下の役人を煩わせていると国司や領家が訴えている件については、それぞれ国司領家に従うように命じた。さらに非法を行う輩があれば氏名を連絡して頂ければ処罰する。 文治二年十一月二十四日 左少弁定長 進上 源頼朝(請文) .. ※請文: 上位者からの命令や諮問に対して返答や報告を記して差し出す文書。新たに守護地頭の制度を 動かすためには事前の周知を徹底させるべきだったが、頼朝は一片の通知だけで安易に制度をスタートさせてしまった。信任の御家人らは制度の趣旨とルールを十分に理解しないまま本来の目的と異なる徴収などを行なったのが失敗の根本的な原因である。 . . . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 11月29日 壬申 . 吾妻鏡 . |
義行 (改め、義顕) を捜索する件について、去る 18日に院で公卿の会議が催された。先般の例と同じく捕縛の宣旨を畿内周辺と北陸道※に下すべきである。洛中は検非違使に命じ地域を区分して捜索させ、諸社寺には祈祷を命じる旨が衆議一決した。以上が (京都守護職の)一條能保から頼朝に伝えられた。 .. ※北陸道: 若狭 (福井県の西部) 、越前 (福井県の中、北部) 、加賀 (石川県の南部) 、能登 (石川県) の 北部、越中 (富山県) 、越後 (新潟県) 、佐渡 (佐渡島) を含むエリア。 .. . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 12月 1日 甲戌 . 吾妻鏡 . |
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.. 千葉介常胤が下総国から鎌倉に参上して今日献盃の儀、頼朝は西の侍所に出御した。常胤に加えて 小山朝政、三善康信、岡崎義実、足立遠元、安達盛長ら古参の御家人も多く列席した。献杯が繰り返されて皆酩酊し、常胤が座を起って舞った。善信 (三善康信) が俗曲を歌い、また催馬楽 (民謡を雅楽風に編曲したもの、大辞林による) を歌った。 . ※常胤の本領: 父 常重または祖父常兼が拓いた所領を鳥羽院に寄進して千葉荘とし、常重は荘園内に 亥鼻城 (現在の千葉大学一帯) を築いて歴代の本拠とした。千葉氏を名乗ったのは常胤が最初である。系譜は「坂東平氏の系図」を参照されたし。
.. . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 12月 6日 己卯 . 吾妻鏡 . |
御台所 政子が鶴岡八幡宮※に参拝した。神楽が奉納され、巫女や楽師らには報奨が与えられた。 .. ※鶴岡八幡宮: 治承四年 (1180) 10月12日に着工し、翌年 (1181) 7月20日に上棟した鶴岡八幡宮は現在の 本殿の位置ではなく 大石段の下、現在の舞殿一帯にあった。建久二年 (1191) 3月4日の大火 (火元は小町大路) で全焼し、直ちに再建工事が始まって類焼の危険が少ない中腹の現在地に本殿を上棟したのは同年8月27日になる。 .. . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 12月10日 癸未 . 吾妻鏡 . |
肥前国の 鏡神社 (Wiki) の大宮司職を草野次郎大夫永平※に継承させた。先祖からの世襲であり、同時に忠義への報奨の意味も含めている。また、今日藤原遠景(天野遠景)を鎮西九ヶ国の奉行人 (九州惣追捕使) に任命し、同時に各地の地頭職を与えた。 .. ※草野永平: 肥前松浦党の武士で治承年間から継続して頼朝に従った。大宮司職の他に筑後在国司※と 共に押領使に任じた。本領は山本郡草野 (久留米市東部) 。 .
※在国司: 遥任 (現地に赴任しない国司) に対して赴任する国司を
差す。平安末期から鎌倉中期まで、主として西国の有力在庁官人が国司の不在を利用して実権を掌握した例を差す場合もあった。
.※天野遠景: これ以後の建久十年 (1194) 頃まで大宰府に駐屯した 結果として統治に失敗し解任されて鎌倉に戻った。挙兵当時からの古参御家人の不遇な晩年である。 .右は中伊豆に残る天野遠景一族の墓所、詳細は画像をクリック 、殺し屋 天野遠景の本領と墓所 (別窓) で。 .. . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 12月11日 甲申 . 吾妻鏡 . |
去年 行家と義顕 (呼び名は義経→ 義行→ 義顕と変遷している) に協力した廷臣は頼朝の怒りによって解任されたり流罪の官符を受けたりした。その中でも特に前廷尉 (検非違使) の 平知康には強い憤りがあり、知康は取り敢えず弁明のため鎌倉に行くと申し出た。頼朝は「処分は朝廷の結論に従う、と伝えよ」と結論した。 .. ※平知康: 日付は不明だが鎌倉に入り陳述したらしい。頼朝は翌1月23日に師中納言 吉田経房に書状を 送って 「院に決裁を委ねたのに未だに勅裁がない」と苦情を伝えている。下っ端相手に執念深い最高権力者だ。 .. 知康はそのまま鎌倉に留まり、頼家の蹴鞠の相手として側近を務め、建仁三年 (1203) の頼家失脚の際に帰洛している。このまま吾妻鏡を読み進めると、どこかで再登場するかも。 . . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 12月15日 戊子 . 吾妻鏡 . |
吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ .. 比企籐内朝宗以下の御家人は郎従らを南都の山階寺※に派遣して聖弘得業の僧坊を見張らせている。これは義顕 (義経) を見つけ出すためだが、興福寺別当の 信円は上洛して「この状態は寺の存亡に関わる。早く見つけ出して退去せよ」と申し入れた。京都守護 一條能保の報告である。 .
※山階寺: 興福寺 (公式サイト) の旧い呼称。夫 藤原鎌足 (Wiki) の
病気平癒を祈った夫人の 鏡王女 (Wiki) が天智天皇八年 (669) に山背国山階 (現 京都薬科大キャンパス南東の 「五条別れ」 、地図)に創建した寺が起源である。 .. 右は石材店々頭に置かれた山階寺跡の碑。 画像をクリック→ 別窓で拡大表示。 . 画像左の小道を北に進むと 200m弱先の旧東海道のT字路に 「五条別れ」の道標 (別窓表示) がある。 かつてはこの地点で清水寺や本願寺方面に向かう五条通りへの近道が続いていた、その観光ルートの名残を示す道標である。 . 山階寺は672年に藤原京に移って厩坂寺 (推定地は橿原神宮前駅の東口、地図) となり、更に和銅三年 (710) の平城遷都の際に現在地に移って興福寺と改称した。泣く子も黙る藤原氏の氏寺である。 |