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文治三年(1187年)
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西暦・天皇・上皇
和暦・月日・史料
吾妻鏡に記載してある内容の意訳、関連する情報、補足事項など
西暦1187年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治三年
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1月 1日 癸卯
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吾妻鏡
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例年の如く 頼朝鶴岡八幡宮に参拝した。御台所 政子および若公 (万寿、後の 頼家) も同行し読経の供養を催した。導師は八幡宮別当の法眼 圓暁である。
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   ※八幡宮寺別当: 初代は中納言法眼 圓暁 (父は第71代後三條天皇の皇子 輔仁親王の孫、生母は 源 為義
娘だから頼朝の従兄弟に当たる)。二代は尊暁 (圓暁の弟) → 三代定暁→ 四代は実朝を殺害する 公暁→ 五代慶幸と続き (ここまでは 園城寺 (三井寺) 系) 、東寺系の六代定豪→ 七代定雅→ 八代定親→ 次が再び園城寺系の九代隆弁となる。
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   ※年令: 平家一門は 能登流罪となった 平時忠と、壇ノ浦で救われた 建礼門院徳子 (死没した 安徳天皇
生母) を除き大部分が死没。平家一門と同行した 守貞親王 (安徳天皇の異母兄、 後鳥羽天皇の同母兄、本来は正当な皇位継承者) は救出された。
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源頼朝 39歳、 万寿 (後の頼家) 4歳、 源範頼 36歳、 阿野全成 33歳、 源義経 27歳、
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北條時政 48歳、 北條政子 29歳、 北條義時 23歳、 北條時房 12歳、
千葉常胤 68歳、 千葉胤正 45歳、 三浦義澄 59歳、 足利義純 10歳、 安達盛長 51歳、
大江広元 38歳、 畠山重忠 22歳、 梶原景時 46歳、 宇都宮朝綱 64歳、 土肥実平 61歳、
岡崎義実 74歳、 加藤景廉 30歳、 佐々木定綱 44歳、
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藤原秀衡 62歳、 藤原泰衡 31歳、 藤原基成 65歳、
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後白河法皇 59歳、 後鳥羽天皇 6歳、 九条兼実 37歳、 吉田経房 44歳、 土御門通親 36歳、
丹後局 35歳、 一条能保 39歳、 藤原定家24歳、
慈円 31歳、 法然 51歳、
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      (全て1/1時点の満年令、一部の年齢は推定)
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西暦1187年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治三年
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1月 8日 庚戌
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吾妻鏡
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御所で般若心経を唱える法会が開催された。導師は行慈法橋である。
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   ※行慈法橋: 文覚の弟子、大覚房行慈。文覚が神護寺再興のため京都に帰った後を継いで幕府の 行事に
再三登場し、建久十年 (1199) 3月2日には頼朝四十九日法要の導師を務めている。
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西暦1187年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治三年
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1月12日 甲寅
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吾妻鏡
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頼朝と若公 (幼名 万寿、後の 頼家) の御行始め (外出初め) で 南御門に近い 八田右衛門尉知家宅に入った。
千葉小太郎成胤 (常胤の嫡孫。常胤→ 胤正→ 成胤と続く) が御劔役 (太刀持ち) を務め、知家が馬と劔などを献上した。

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   ※南御門: 現在の「岐れ道」西側近くか。推定位置は 大倉幕府 四ヶ所の門と西大路 (別窓) で。
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西暦1187年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治三年
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1月15日 丁巳
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吾妻鏡
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(頼朝は) 清和源氏累代に縁の深い佐女牛の土地を六條若宮に寄進し、これを早急に差配せよと阿闍梨季厳 (大江広元の弟) に命じた。六條通の南、西洞院通の東の一町である。
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   ※佐女牛: 現在の佐女牛井は「さめがい」が通常の呼称だが、西本願寺の北側を東西に抜ける花屋町通は
昔は「佐女牛 (さめうし) 小路」と呼ばれた。
堀川の清流 (今は暗渠) が南北に流れ、源氏累代の六條堀川邸がこの銘水と井戸水を利用していた。現在は堀川通の拡巾で面影の一片も残っていない。石碑の東 300m、この辺 が頼朝が寄進したエリアの中心らしい。右下画像 (クリック→ 別窓で拡大表示) と 地図を参考に。
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   ※六條若宮: 第70代後冷泉天皇の勅願に従って 源頼義の六條堀川邸の坤 (南西) 隅に石清水八幡宮を勧請
したのが最初 (坤の隅では若宮の位置の整合性が乏しくなってしまうが) 。
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この若宮は源氏の氏神として長く崇敬を受け、頼朝は阿闍梨季厳を別当職に任命し土佐国吾川郡を寄進している (文治元年 (1185) 12月30日の条を参照されたし) 。
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天正十二年 (1584) に秀吉が若宮を東山に遷したため 旧社地は本願寺に包含され、同十六年には再び方広寺 (Wiki) の北 (詳細は不明) に移った。
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更に、秀吉没後の慶長二年 (1597) 6月に現在地
( 地図) に遷って 若宮八幡宮社 (Wiki) に改称したと伝わっている。
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堀川にあった古祠の跡には地元の有志が建てた社があるが、ここが「六條堀川邸の坤隅」か否かは判然とせず、位置から推定すると頼朝が新たに寄進した一角とも考えられる。
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 右上の地図画像に各スポットを推定して落とし込んだ。クリック→ 別窓で拡大表示。
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   ※耳納堂: 鎌倉初期編纂の 古事談 (Wiki) と伝承に拠れば、
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義家 と同様に父の 頼義も殺生を重ね、奥州十二年の合戦 (前九年の役+後三年の役) では俘囚の首一万八千を斬り落とし、片耳を切り集め干して革籠に入れて京に凱旋したという。
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本来なら地獄に堕ちる筈の頼義だったが、後に出家して仏門に入り 六條坊門の北 西洞院の西側に建てた堂の土壇に俘囚の耳を葬って殺生を深く悔いたため成仏できた。これが耳納堂 (みのわ堂) だが当時の正確な位置は既に不明。一方で息子の 義家は罪のない人を大勢殺しても悔いる事がなかったから無限地獄に堕ちた、と。

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 右上は概ね地図と同じエリアの鳥瞰画像。クリック→ 別窓で拡大表示。
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西暦1187年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治三年
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1月18日 庚申
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吾妻鏡
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新田四郎忠常が重病で苦しんでおり、死期を迎えている様子である。頼朝は忠常を見舞って屋敷を訪れた。
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   ※仁田忠常: 文治三年に満 20歳前後だから、頼朝挙兵に加わった治承四年 (1180) 8月には満 13歳。
挙兵の際に山木判官 平兼隆の首を挙げた 加藤景康と同じ年代である。伊豆の北條から土肥を目指して進む頼朝勢に記載がある仁田一族は彼一人である。
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本領の仁田郷 (地図) には現在も子孫の屋敷と忠常らの五輪塔が保存されている。
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仁田を新田、又は日田、肥田と表記する資料もあり、2km弱南西の狩野川東岸にある肥田郷を本拠とした肥田氏との縁戚関係を調べるのも面白い。
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ただし、今回頼朝が見舞った仁田邸が仁田郷なのか鎌倉の別邸 (多分ここ) なのかは判然としない。
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またこの時の忠常は死没せず、建仁三年 (1203) に勃発した 「比企の乱」に関する騒乱で、同年9月に 北條時政の命令を受けた同郷の 加藤景康に討たれている。建久十年 (4/27に改元して正治元年) 1月の頼朝死没に伴う権力者は北條時政となり、加藤も新田も既に北條氏の支配下に組み込まれていた。

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西暦1187年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治三年
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1月19日 辛酉
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吾妻鏡
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文治元年に 希義 (頼朝の同母弟) の墳墓供養に供するよう頼朝が命じた土佐国津崎の年貢が押領されているとの訴えが琳猷上人から京都守護の 一條能保に届いたため非法の停止を命じた。
琳猷上人は土佐国が関東からの遠隔地なので、頼朝の耳目として在京している能保に訴え出たものである。
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   ※琳猷上人: 元暦二年 (1185) 3月27日に希義の遺髪を鎌倉に届け、頼朝と歓談している。
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西暦1187年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治三年
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1月20日 壬戌
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吾妻鏡
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合鹿大夫光望が頼朝の使者として太神宮 (伊勢神宮) に奉幣するため伊勢国に出発した。寄進する神馬八匹 (内宮と外宮に各々二匹と 風宮、荒祭、伊雑、瀧原に各々一匹) 、砂金二十両、御劔二腰を奉納する役目を帯びている。これは 義経の反逆に対する祈祷のためである。
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   ※合鹿光望: 養和二年(1182)5月25日に相模国金剛寺住僧の訴えで「相鹿大夫先生が訴状を読み上げた」
との記載がある。それなりの教養がある文官で「合と相」は吾妻鏡に頻発する宛字だろう。
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西暦1187年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治三年
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1月21日 癸亥
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吾妻鏡
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鎌倉に留まっていた検非違使廷尉の 大江公朝が帰洛するため、院宣に記載の条項についての返状を託した。
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   ※大江公朝: 前年の 5月14日に院宣を携えて到着との記載がある。以後7ヶ月もの鎌倉滞在は長過ぎる
から、その間に京との往復があったのかも知れない。
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西暦1187年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治三年
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1月23日 乙丑
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吾妻鏡
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前廷尉の 平知康行家義顕 (義経) の謀反に協力した事が露見し何とか言い逃れるため鎌倉に参上した。
頼朝は廷臣を勝手に処分できず再三朝廷に問い合せたが勅裁が得られず、吉田経房に苦情を申し入れた。
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    前年の12月11日に概ね同じ内容の記載がある。重複に何かの意味があるのか。執念深い頼朝だ。
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西暦1187年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治三年
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2月 1日 癸酉
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吾妻鏡
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   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
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頼朝は平家の没官領から (頼朝の所有となった) 二ヶ所を割いて建礼門院に贈与する旨の命令を下した。
摂津国真井と島屋の両庄で、元は前内府 平知盛の知行地。彼女の隠遁生活を慰め励ます配慮である。
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    真井庄は現在の淀川河口左岸の野田駅付近、島屋庄は更に河口の此花区島屋か対岸の豊中市島江か。
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西暦1187年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治三年
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2月 9日 辛巳
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吾妻鏡
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大夫屬 草野定康は関東にとって功績を挙げた武士である。近江国に於ける定康の所領は源氏に味方したため平家に没収されていたが、今また守護の 佐々木定綱が兵糧米徴収を称して差し押さえてしまった。
困惑した定康が鎌倉に参上し窮状を訴えたため、非法を停止し元通りの管理に戻すよう命令を下した。
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去る平治元年 (1159) 12月の合戦で敗れた 義朝主従は美濃国まで何とか落ち延びた。道に迷った頼朝は寒風と雪に阻まれて行き悩んだ時に偶然定康に行き逢って平氏の追捕を逃れ、氏寺の大吉堂の屋根裏に隠れた。
その後に院主の阿願房が住僧に護衛させて定康宅に招き入れ翌春 (正月) まで隠し通した経緯がある。
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   ※草野定康: 平治物語 中巻の第十章に「12月28日の夜、青墓
に落ち延びる途中で 義朝一行に遅れ、雪の中を彷徨った頼朝は浅井の北まで迷い込んだ。
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頼朝を見つけた老尼が家に連れ帰り、老夫婦が世話をして正月の間を匿った」
と。
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その後は小平という場所を経て青波賀 (青墓) の大炊邸に辿り着くのだが、この老夫婦の部分が実際には草野定康に該当するらしい。
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   ※大吉堂: 長浜市野瀬町にある大吉寺 (外部サイト、地図) の
前身で、裏山に旧跡が見られるとか。
 参道入口 (右画像、クリック→ 別窓で拡大表示)から細道を 1kmほど登る (車両通行可) 。
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頼朝の異母兄 朝長を葬った青墓の 圓興廃寺 (別窓) の雰囲気に近い。
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西暦1187年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治三年
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2月10日 壬午
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吾妻鏡
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伊豫守義顕 (義経) は各地に隠れて追捕使から逃げ回り、遂に伊勢国や美濃国などを経て奥州に入った、との知らせが届いた。これは陸奥守 藤原秀衡入道の権勢を頼ったためで、妻子も同行している。それぞれ山伏や稚児姿だったらしい。

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   ※山伏や稚児: この挿話が 安宅の関 (別窓) の関守 冨樫と義経
の忠臣 弁慶が主役の「勧進帳」に発展する。
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実際には根拠の乏しい作り話に尾鰭を付けたヨタ話らしいが史跡は既に整っている (笑) 。
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義経の妻子は 河越重頼の娘 郷御前と、逃亡中の文治二年 (1186) に生まれた女の子で、共に平泉で命を絶つことになる。
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右画像は 伝 安宅の関に建つ武蔵坊弁慶の像でモデルは「勧進帳」で当り役 弁慶を演じた名優七代目の松本幸四郎 (Wiki) 。
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物語の詳細は画像をクリックして「安宅の関」本文 (別窓) で、どうぞ。
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西暦1187年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治三年
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2月16日 戊子
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吾妻鏡
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献上する馬 10匹を連れ、美濃権守 中原親能が使節として京に発った。来月上旬に 後白河法皇が熊野詣でに出発する、その準備のためである。
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   ※熊野詣準備: 貨幣経済ではないから、貢馬が熊野詣のコストを贖う物納なのか、荷駄か判らない。
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西暦1187年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治三年
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2月20日 壬辰
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吾妻鏡
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鎮西の 宇佐神宮 (公式サイト) の神官と御家人らの多くが頼朝の御恩に浴した。ある者は新領を給され、ある者は本領の安堵を受け、それぞれ管理に任じるべき旨を (九州惣追捕使の) 天野遠景に指示した。
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   ※宇佐神宮余談: 聖武天皇の発願で大仏鋳造が始まった天平十七年 (745) 、最初に全面協力を申し出た
のが宇佐神宮の神官だった。本来の仏教と神道は全く異質で相容れない関係なのだが宇佐の八幡神は「八百万の神を率いて鋳造に全面協力する」との託宣を下した。
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もちろん八幡神が 「異国の神」 を受け入れる筈はない。商売上手な、と言うより信念の欠片もない最低の神官なのだろう。権力に尾を振るエセ宗教者は跡を絶たない。
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西暦1187年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治三年
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2月23日 乙未
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吾妻鏡
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大姫の発願により相模国内の寺で祈願の誦経が行われた。籐判官代 藤原邦通と河匂七郎政頼らがこれを差配し、大姫は岩殿観音堂に参詣した。
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   ※誦経: 単純に読経の意味と、回向や病気治癒の願う読経の意味がある。今回は後者か。
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   ※岩殿観音堂: 大倉御所から約4km南東 (地図) の海雲山岩殿寺 (紹介サイト) 。近くには大切岸と 日蓮
法難で知られた 猿畠山法性寺 (別窓) があるが、創建は70年も先の話になる。
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西暦1187年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治三年
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2月25日 丁酉
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吾妻鏡
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頼朝は 三浦介義澄邸に渡御し酒宴の時を過ごした。ちょうど信濃国保科宿の遊女を束ねる長者が訴訟のため滞在しており、庭先に召し出して郢曲を演じさせた。
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   ※三浦邸: 鶴岡八幡宮の北東に隣接していた。大倉幕府の略図を参照。国立大付属奥側の校舎辺りか。
建保七年 (1219) 1月27日に実朝殺害直後に北側の塀を乗り越えて三浦邸に入ろうとした 公暁が討手の 長尾定景に討たれている。
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また宝治元年 (1247) 6月の三浦合戦の際に 安達泰盛が一族の軍士を率いて筋替橋の北辺に進み、鏑矢を射掛けた」のがこの三浦邸である。
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   ※保科宿: 北国西街道 (善光寺西街道、概ね現在の国道403号) の小さな宿場 (地図) 。
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   ※郢曲: 中国の春秋時代 (紀元前8〜紀元前5世紀) に楚の都の郢 (えい) で流行した卑俗な歌謡を差し、
転じて流行歌や俗曲の類を意味する。
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西暦1187年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治三年
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2月28日 庚子
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吾妻鏡
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右近将監 伊沢家景が昨日京都から参着した。北條時政が特に推挙した文筆に携わる人物で、在京していた時に地頭に関する事務を扱わせたところ、終始間違いなく処理していた、と。
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頼朝が採用を認めて御前に呼び出した。俸給などを政所に指示し、著名な貴族ではないが応分の配慮をするように命じた。九條入道大納言 藤原光頼 (Wiki) の家司が前職である。
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   ※家司: 親王家、内親王家、摂関家、大臣家、三位以上の家で家政の管理全般を司った職。
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西暦1187年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治三年
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3月 2日 甲辰
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吾妻鏡
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越中国 吉岡庄の地頭 成佐が違法行為を重ねたため、更迭を求める院宣が師中納言 吉田経房を経由して届き、頼朝は直ちに御請文を送った。
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去る 29日の御教書が今月2日に到着、頼朝が謹んで拝見した。越中国 吉岡庄の地頭 成佐については指示に従い早急に措置する。ただし吉岡庄は以前の状態に回復しておらず、成佐は年貢の徴収が不調と報告している。詳細を調査してから交代させるのでその旨を報告して頂きたい。  頼朝恐々謹言
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   ※吉岡庄: 現在の高岡市福岡町周辺 (地図)。摂関家長者 藤原頼長 (Wiki) 領だったが保元の乱 (1156) で
頼長が敗死した後は後白河院領となった。奥州に逃げる途中の義経一行が吉岡庄を通過した記録もあり、後白河法皇と摂関家と秀衡義経の接点があった可能性を想像させる。
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   ※成佐: 筑前守高階 (吉岡) 成佐。道長無双の臣と呼ばれた高階業遠 (正四位下、丹波守) の四男。
先祖は 源義家の庶子 (乳母弟とも) で高階惟章の養子になった義頼とも伝わるから貴族としてではなく、源氏の縁故によって地頭に任じたのだろう。
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   ※御請文: 上司または身分の高い者の命令に対して承諾した内容の文書を差す。
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西暦1187年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治三年
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3月 3日 乙巳
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吾妻鏡
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美濃国 守護人の相模守 大内惟義は美濃国の官道にある驛の間に新たな宿を設けたいとの申請をしている。今日その裁許があり、早急に認可せよとの指示があった。藤原俊兼がこれを差配した。
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   ※驛または驛家: 奈良時代から設けられた官道沿いの施設。当初は30里 (16km) 間隔で驛使が必要と
する規定の驛馬 (10〜5匹) と驛子の常備が義務付けされた。詳細は こちら (Wiki) 、官道の例として、白河関から上野国府までの 東山道ルートを参考に。
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   ※驛使: 驛馬の使用が許された公的な使者。急使は一日10驛 (160km) 以上、普通でも 8驛以上の通過が
求められ、各驛での食事と宿泊が保証されていた。
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西暦1187年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治三年
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3月 4日 丙午
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吾妻鏡
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東大寺造営の材木を運搬する人夫の拠出について指示をしたにも関わらず、周防国の地頭らが命令に従っていないのが明らかになった。頼朝は特に驚き、地頭らに指示に従って精勤せよと命じた。
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   ※東大寺の現状: 治承四年 (1180) 12月末の兵火で殆ど全焼した東大寺の再建は大勧進職の俊乗房重源ら
の尽力により 文治元年 (1185) 8月28日に大仏の開眼供養、建久元年 (1190) 10月に大仏殿を上棟しているから、建築資材の輸送作業はピークの時期を迎えている。
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西暦1187年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治三年
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3月 5日 丙午
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吾妻鏡
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義顕 (義経のこと) が陸奥国にいるのは 秀衡入道の策謀で、これには幾つかの情報が符合している。厳しく指摘し追求するよう京都に申し入れ、京都守護の 一條能保からその旨を予定しているとの連絡が届いた。
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   ※秀衡の思惑: 平泉の義経を受け入れは 2月10日で 追討の宣旨に背く。秀衡はこの 9ヶ月後の10月29日
に死没、翌年1月の 玉葉 (Wiki、九条兼実の日記) は次の様に書いている。
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「秀衡は長男 国衡と次男で嫡子の 泰衡と義経に起請文を書かせ、義経を主君として三人が結束し頼朝の攻撃に備えよ」 との遺言を残した」 。
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義経の指揮下で奥州の独立を守り平泉の滅亡を回避する、頼朝が奥州制覇を狙っている事を予期していた秀衡は、その僅かな可能性に賭けたのだろうが...。
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西暦1187年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治三年
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3月 8日 庚戌
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吾妻鏡
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南都興福寺の僧で義経にとって仏教の導師である周防得業 聖弘が鎌倉に召喚され小山七郎 (結城朝光) に預けられた。今日、人を介さずに頼朝と直接の問答を行なった。
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頼朝の曰く、「義経は我が国を乱そうとする悪臣であり 逃亡の以後は探し出して追討せよとの院宣が再三発せられた。尊卑を問わず世間の全てが義経を嫌っているのに彼のため祈祷し援助したのは何故か。」
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得業聖弘は、「義経が貴方の代官として平家を討伐する際に 合戦が無事 終わるよう祈祷を依頼された。
これは国に対する忠義ではなかったのか。関東の譴責を受けての逃亡中に導師の関係を頼って私を尋ね、私は取り敢えず危険を逃れ改めて鎌倉に謝罪するように諌めた。
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弟子の僧を添えて伊賀国に送り届けたが、その後の消息は知らない。謀反の祈祷などしないし、諌めたのは反発する心を和らげる為で、協力を疑われる理由はない。
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そもそも、関東の安泰は義経の武功に拠る所が大きいのに讒訴だけに耳を傾けて功績を無視し、恩賞として与えた土地まで没収されたら不満を抱くのは人として当然の結果である。
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速やかに怒りを鎮めて和解の術を探り、義経を召還し魚水の交わりを取り戻して国を治めるため協力するべきである。義経の弁護ではなく、天下を鎮めるために申し上げている」
と答えた。
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頼朝は得業聖弘の直情に感銘し、勝長寿院の供僧職に就いて関東繁栄の祈祷に任じるように申し入れた。
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   ※直情に感銘: 頼朝の性格だね、個別に感動しても考え方は改めない、意固地で粘着質で執念深い。
得業聖弘の言葉に従っていたら別な英雄として歴史に残ったと思うが...
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西暦1187年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治三年
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3月10日 壬子
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吾妻鏡
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   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
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土佐国の住人 夜須七郎行宗梶原平三景時が戦功について御前で議論し、頼朝がこれを裁決した。
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夜須行宗の主張...「壇ノ浦合戦の際に平家の家人 岩国兼秀と兼季を捕え連行した功績は恩賞に値する。」
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景時は発言を遮り、「あの合戦では夜須を名乗る武士はいなかった。岩国兼秀らは投降した輩であり、今頃になって行宗が詳細を言い出したのは計画的な誤魔化しである」 と主張した。
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これに対して行宗が「同じ船に乗って戦った春日部兵衛尉に確認すれば判る」と語ったため春日部を呼び出して確認すると「もちろん一緒だった」との証言だった。行宗には恩賞を与える旨の決裁が下され、景時には讒訴の罰として鎌倉中の道路補修が命じられた。藤原俊兼がこれを差配する。
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   ※夜須行宗: 元暦二年 (1185) 3月27日に頼朝の同母弟 希義の討死と行宗の関係について記載あり。
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   ※春日部氏: 斑鳩の北側、大和国 平群 (地図) に土着した渡来人 紀氏の実直が国衙の官人として武蔵国に
下り、実直の息子たちが武蔵国東部に所領を得て土着した。春日部兵衛尉はその中の一人で春日部氏の祖となった実高の嫡流は 宝治合戦 (1247年) で滅亡、他の兄弟はそれぞれ大井氏や品川氏などとして続いている。
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西暦1187年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治三年
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3月15日 丁巳
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吾妻鏡
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検非違使 大江公朝が使者を介して連絡、後白河法皇の両社参詣に伴って架橋の役目を命じられ、また華麗な行幸を望まれている。莫大な出費になるだろうから重ねて助力をお願いしたい、と。
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   ※両社: 賀茂御祖神社 (みおや、下鴨神社)と、賀茂別雷神社
(わけいかづち、上賀茂神社) の総称 (公式サイト)。
賀茂川の東岸沿いなら直線で約 3kmだが行幸の場合は西岸沿いを進むから少し距離が延びる。
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 右は下鴨神社と高野川と鴨川の鳥瞰
     画像をクリック→ 別窓で拡大表示

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平安時代から続く両社の例大祭 葵祭、賀茂祭 (京都市観光サイト) の巡行 (5月15日) は京都御所を基点に、北大路加茂街道から下鴨神社→ 御薗橋西詰→ 上賀茂神社へと進む時代絵巻だ。
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両方の神社を含む 全体地図 (別窓) を参考に。加茂街道は緑の多い比較的静かな散策路。並木道を歩くのも、鴨川の河原を辿るのも良し。喧騒を避けて古都の風情を楽しみたい。
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まぁオーバー・ツーリズムが下火になるまでは、京都に行きたいなんて思わないけど。
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西暦1187年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治三年
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3月18日 庚申
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吾妻鏡
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京都守護 一條能保の使者が到着。延暦寺衆徒の民部卿禅師が義顕 (義経) に協力していたため頼朝は彼を拘束し罪に問うよう座主僧正全玄に命じたが、民部卿禅師は逃亡して行方不明になった。
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怒った頼朝が朝廷に善処を申し入れたため、権右中弁定朝朝臣を経由して延暦寺に院宣が下された。この内容に座主の請文 (院宣への返状) を添えて届けたものである。請文の内容は次の通り。
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民部卿禅師を捜索して連行せよとの命令は承りました。既に逐電した経緯は去年報告しましたが、重ねて捜索するよう指示を下します。   三月八日  僧正全玄
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追伸 悪僧の件は指示に従って処理すべく緩怠なく努力し、その詳細は澄雲法印が報告します。 謹言。
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西暦1187年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治三年
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3月19日 辛酉
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吾妻鏡
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聖徳太子の聖蹟である法隆寺領の地頭 金子十郎による荘園業務の妨害は既に去年に停止命令を下しているが、現在も是正されないとの訴えを院宣を携えて寺僧が訴え出た。院宣には 「鵤庄は聖徳太子が特に気に掛けた場所」 と記されており、驚いた頼朝は雑色の里久を派遣して鵤庄の押領を停止せよと命じた。
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播磨国 鵤庄の住人に下す
金子十郎の違法行為を停止させ領家である法隆寺の指示命令に従うことは、去年の院宣に依って命令を下している。金子十郎が代官を派遣して猶も鵤庄を押領しているのは著しく不当で早急の停止を命じる。
従わない場合には代官を召喚して処罰に及ぶ。     文治三年 三月十五日
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   ※播磨国鵤庄: 兵庫県揖保郡太子町 (地図) にあった荘園。推古天皇六年 (598年) に法隆寺再建の財源と
して下賜、立荘は長暦三年 (1039) という古い歴史を持つ。読みは「いかるがのしょう」。
鵤庄の詳細と現在も残る斑鳩寺については 鵤庄 (Wiki) に詳細が載っている。
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   ※金子十郎: 名は家忠、弟が余一親範だから 佐奈田余一浅利義成らと同様に10人か11人の兄弟か。
(那須与一は存在に不確実な部分があるため除外した) 。
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治承四年 (1180) 8月26日の 畠山重忠勢の衣笠城攻略に平家方として加わったのが兄弟の初見で、頼朝の鎌倉入り (同、10月) 後に御家人に加わった。本領は現在の埼玉県入間市の西部、金子の地名 (地図) が残っている。個人的な思い出も一杯残っている場所だ。
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西暦1187年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治三年
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3月21日 癸亥
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吾妻鏡
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佐竹蔵人は頼朝の一門として処遇されていたが精神が不調で再三の奇行が続いたため頼朝の怒りを受けた。
比企朝宗が差配して駿河国に送られ、岡部権守泰綱に預かりとなった。
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   ※佐竹蔵人: 常陸金砂城の合戦で頼朝に滅ぼされた 佐竹隆義の弟 義季。隆義の嫡子 佐竹秀義は後日に
許されて御家人に列しており、義季も共に臣従していたのだろう。
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西暦1187年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治三年
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3月25日 丁卯
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吾妻鏡
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大江公朝への返状に添えて (後白河院の賀茂宮参詣用の) 龍蹄、砂金、絹糸などを送った。(3月15日の返事による対応である。

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   ※龍蹄: 駿馬の総称だが、本来は背高四尺 (約121cm) 以上の馬が龍蹄。四尺を越えると一寸、 二寸と
数える。九寸は約150cm、まれに五尺 (152cm) を越える大型馬もいたが普通は四尺台だった。
現代の乗馬クラブの馬は150〜170cm、147cm以下はポニー種の範囲となる。
ポニーに跨る甲冑武者なんて想像したくないけど。
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西暦1187年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治三年
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4月 1日 壬申
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吾妻鏡
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   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
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頼朝は以前から京都に屋敷を設けたいと考えて手配していたが適当な場所がなく、師中納言 吉田経房卿に闕所 (公収された土地) の支給を打診していた。山科に丁度良い土地があるとの事で、それを所望した。
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   ※山科: 去年の12月25日に山階寺関連で京都山科を紹介したばかりだった。
三条大橋から粟田口を経て大津へ抜ける東山道の要路。浅野家の祈願所や大石内蔵助が隠れ 棲んだ岩屋寺など、四十七士関連の史跡(京都観光サイト)が点在する。
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西暦1187年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治三年
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4月 2日 癸酉
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吾妻鏡
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大般若経を百ヶ所で転読 (前年5月8日の条を参照) する勤行が始まった。鶴岡八幡宮、勝長寿院、筥根山 (箱根権現) 、走湯山 (伊豆山権現) および相模国各寺の供僧らがこれを行なう。
後白河法皇の体調が良くないため、鎌倉と京都を連絡する使者の往復も数回に及んでいるが平癒の情報がないためこの勤行を行なう事となった。
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   ※大般若経: 正式には大般若波羅蜜多経、唐の 玄奘三蔵が天竺 (インド) から持ち帰った経典 大乗仏教
(共に Wiki) の基礎的な教えを編纂した全16部 600巻の経典群。
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西暦1187年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治三年
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4月 4日 乙亥
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吾妻鏡
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義経の所在は未だ判明しない。今では人力の及ぶ所ではない、神仏に祈るべきとの意見が多いため鶴岡八幡宮以下の社寺で祈祷を行うことになった。この時に八幡宮別当法眼の霊夢に「上野国金剛寺で義経が見つかるだろう」との託宣があり、金剛寺の住僧には更に祈祷を励むよう、安達籐九郎盛長を通じて下命した。
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   ※金剛寺: 盛長が元暦元年 (1184) に上野国奉行人 (守護職の原型?) に任じている関係から彼に指示した
と推測できる。たぶん 碓氷山金剛寺 (紹介サイト、地図) だと思うが、確証はない。
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そもそも3月5日の記事に 「義経が秀衡に庇護されて陸奥国にいる」 と載っているのに群馬県にいるなんて、文治二年の別当は尊暁か? 嘘吐き坊主め!
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西暦1187年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治三年
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4月14日 乙酉
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吾妻鏡
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政所に霹靂 (=へきれき、落雷を意味する。晴天の霹靂) あり。大江広元の厩にも落雷があり屋根と柱の多くが焼けて馬三匹が死んだが、棟木に般若心経一巻を置いてあった部分には字の跡が鮮やかに残っていた。
広元は随喜してその経文を御所に持込み、「仏法は未だ地に落ちず」と語って感涙を流した。
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   ※大江広元邸: 十二所の滑川南、後に四代将軍 藤原頼経
が建立する現在の 明王院近くにあった。
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  右画像をクリック→ 別窓で拡大表示
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詳細は 大江広元の墓 (別窓) の後半部分に記述してある。周辺には 景時邸跡を示す 梶原井戸、三代将軍実朝が建立した大慈寺 (新御堂) 跡と墓地跡、一遍上人が開いた 光触寺 (公式サイト) などが点在する。
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滑川の支流に沿って更に歩けば 和田義盛の次男 朝比奈義秀が開削した伝承の残る朝比奈切通しを経て金沢八景 (六浦) に至る。
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西暦1187年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治三年
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4月17日 戊子
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吾妻鏡
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大般若経の百部転読は二七・14日を経て一昨日に結願し、転読した明細を後白河院に報告する。
今日、大和守 山田重弘が明細を携えて京に向かった。
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   ※山田重弘: 清和源氏満政 (源満仲の弟) 流の武士で重弘、重広、重定とも。一族は京都と鎌倉を結ぶ
要衝である尾張国山田郡山田荘 (地図) を本領とした。
承久の乱では京方に加わって墨俣を守り、「兵を集結させて尾張国府を落とし手薄になっている鎌倉に攻め込もう」と進言して容れられなかった。
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その後の杭瀬川合戦では手勢の 300騎で児玉党の 3000騎を迎撃、散々に戦って 100騎ほどを討ち取った後に京に退いた。鎌倉軍入京の際には最後の一戦を交えるために御所に駆けつけたが 後鳥羽上皇は門を閉ざして答えず、重弘は「臆病者に騙された」と口惜しがったと伝わる。詳細は 承久の乱 進軍ルート (別窓) で。
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重弘は文治元年 (1185) 10月21日の勝長寿院仏像搬入にも名前を連ねている。
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西暦1187年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治三年
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4月18日 己丑
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吾妻鏡
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御家人の平九郎瀧口 (平) 清綱は地頭に任じている美濃国に住み、武力を振り翳して国衙の指示に従わず、年貢の納入を拒み派遣した係官に雑言を吐いた。在庁官人からその旨の訴えがあり、早急に確認して措置せよとの院宣が下された。頼朝は厳しく叱責し、更に同様の事態を繰り返せば追放するとの下文を作成し、請文 (院宣への返答) を添えて師中納言 吉田経房宛に送った。この差配は 平盛時が取り扱う。
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西暦1187年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治三年
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4月19日 庚寅
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吾妻鏡
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伊豆流罪になっている前大蔵卿 高階泰経の罪を許して出仕できるよう勅許したいとの意向が、先月6日の院宣で伝えられた。 再三打診された上に頼朝の怒りも少し鎮まっていた事もあり、内々には帰京を許しても良いと考えたが 後白河法皇の近くに仕えさせる勅許は認めない、それが頼朝の判断である。
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   ※高階泰経: 罪状と処遇は文治元年 (1185) 12月6日、同29日、翌年1月7日関連記事あり。
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西暦1187年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治三年
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4月23日 甲午
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吾妻鏡
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周防国は去年の 4月15日に東大寺造営のために寄付された材木を伐採したが、武力で威圧する御家人のため作業が妨害された。東大寺勧進の指揮を執る重源が在庁官人の訴状を受けて朝廷に訴えたため関東に照会し、詳細の報告を求めてきた。 周防国は山口県の南東部 (山口市の北西部は長門国)   下の区分地図を参照
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重源から次の通り連絡がありました。
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東大寺造営の材木搬出は現地への指示が済んだと承知して周防国に入りましたが、以下の武士による狼藉が続いています。
筑前冠者家重、内藤九郎盛経、三奈木次郎守直、
久米六郎国眞、江所高信
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彼らがそれぞれ鎌倉から地頭に任じられており、現地に蓄えていた米186石を理由なく押領し、制止しても相手にされません。人夫の食料に持ち込んだ米がこの有様では全ての予定が遅れ、大切な造営事業にも支障が発生しております。
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そればかりか地元民を駆り集めて館を造らせ、材木を切り出している人夫を私用に召し使い、山野では狩りを行なうなど院宣を無視し続けています。作業が遅れるのは恐れ多いので取り急ぎ報告、詳細は在庁官人の報告書に述べてあります。 文治三年三月一日  重源恐々謹言
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周防国の在廰官人が言上する二ヶ條
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 一.得善と末武の地頭として筑前太郎家重は都濃郡を占拠し国衙の倉から米を押領しています。
また狩猟のため農民を勢子に使役し城郭を造らせ農事を妨げています。
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元々周防国は土地が狭い割に荘園が多く国衙に属する農地が少ない上に源平の戦乱で田畑が荒廃し、死没した農民や在庁官人も多い地域です。東大寺造営のため困難を排して尽力しても、新たな税を課したり暴力沙汰を起こしたりでは、仏との結縁や国への貢献など絵空ごとになってしまいます。
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ちなみに得善も末武もさしたる荘園ではなく、国衙の管理から除外されている事実もありません。鎌倉殿の下文だけの地頭職として両方の土地を押領し、国衙の倉を開いて材木を運ぶ人夫の食料として確保した米 40石余りを奪い取り、農業の最中に住民を駆り集めて城郭造りをさせ、鹿狩りや゜鷹狩りを楽しんで院宣を恐れず、国の物を奪って食料にし悪行を繰り返すのは天魔の所業です。こんな状態で寺の造営に励む事はできません。以上を斟酌され、現在の地頭を拘禁するか別の地頭を任命して頂くよう願うものです。
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 一.国衙の官人である高信は久賀、日前、由良などの地頭を称し官庫を開いて貯蔵の米を奪い、国衙の務
めをせず保司であるかのように勝手気侭に振舞っています。証文などを添えてこれを報告します。
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これらの各所は特に認められた荘園ではなく一般の権限が及ばない国の保・公領で、源平合戦で騒乱が続いてからは領主も地頭も不明確になり、世間が落ち着いてから改任や補任された土地です。それなのに地頭の権威を振り翳すため寺を造営する作業が妨げられています。
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国庫に納めていた僅かな米は年貢でも個人の所有でもなく、周防国や周辺を勧進して辛うじて集めたものです。それを様々な理屈をつけて押領しているのが現実の姿です。国庫への納入は正確に確認して記録し封印するのが全国共通の決まりなのに勝手に奪い取るのは未曾有の行為で、この状態から全体を推察して頂きたいと思います。今後の為に狼籍を止めさせ、かつ奪い取った国衙の米を返却させて下さい。
          以上の二ヶ条であります。  文治三年二月日
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 散位賀陽宿祢弘方 散位土師宿祢安利 散位土師宿祢弘安 散位管乃朝臣成房 散位土師宿祢助遠
 散位土師宿祢国房 散位賀陽宿祢重俊 散位土師宿祢弘正 散位大原宿祢清廣 散位中原朝臣 (在京)
 散位日置宿祢高元 権介大江朝臣 権介多々良宿祢 (在京)
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   ※保司: 私領である「庄」を管理するのが庄司、国衙領の一種「保」を管理するのが保司。
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西暦1187年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治三年
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4月29日 庚子
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吾妻鏡
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三月の伊勢神宮への勅使代参の際に驛家での雑事に関し、伊勢国の地頭と御家人らの多くが対応を拒んだ件の詳細を在庁官人が記録し、朝廷を経由して鎌倉に提出した。頼朝は内容を確認し、該当する輩を厳しく戒告し今後の怠慢を禁じる旨を通達した。報告書の内容は次の通り。
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文治三年三月三十日    公卿勅使、伊勢国驛家の雑事について、勤怠状況の報告
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 一.勤めを行った庄
勧学院飯鹿庄(松本判官代盛澄知行) 多々利庄(四方田五郎弘綱知行)
荻野庄(一方次官、一方中村蔵人) 常楽寺庄(山城介久兼)
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 一.勤めを怠った庄
晝生庄(預所次官親能、代官民部大夫範重) 富田庄(院御領、工藤左衛門尉助経知行)
豊田庄(地頭加藤太光員) 池田別府(同前) 中跡庄(同前) 栗真庄(因幡前司広元)
窪田庄(同前) 長田庄(光員) 遍法寺領(広元) 慈悲山領(同上) 曽祢庄(刑部丞経俊) 重安名田(高野冠者) 恵雲寺領(経俊) 東園(二品親能) 西園村(同) 黒田庄(二位経俊)
丹生山公田(四方田五郎) 穂積庄(預所式部大夫維度) 小倭田庄(預所広元) 長田庄(光員)
河口(兵衛尉基清) 家城庄(地頭常陸六郎) 英多庄(経俊) 天花寺(二位久気次郎)
新屋庄(二品近衛局) 木造寮田(歌官寮頭) 永平名(二品宇佐美三郎) 三箇山(常陸三郎)
松永名(四方田五郎) 弘清(佐野太郎忠家) 弘抜名(一河別当) 粥安富名(岡部六野太)
武久名(加藤太) 高垣名(親能) 安清名(渋谷五郎) 本得末名(長法寺五郎)
新得末名(曽井入道) 揚丸名(尾前七郎) 吉久名(筵間三郎) 糸末名(中村蔵人)
福武名(親能) 岩成庄(小次郎) 光吉名(経俊) 光吉得光渡吉清(同) 堀殖永恒(地平次)
高成名(次官) 近富安富(一河別当) 末光安富(一河五郎) 加納(光員) 永富名(広元)
得永名(同) 永藤名(伊豆目代頼澄) 光藤名(同) 久藤名(泉乃判官代) 加垣湊(光員)
新光吉名(同) 安富名(一品房) 山永垣名(伊豫守) 堀殖加納(同) 位田(光員)
辰吉(刑部丞) 近津延名(八田太郎) 豊富安富(次官) 曽祢庄返田(刑部丞)
吉行名(常陸太郎) 福延別名(因幡前司) 石丸名(同上) 末松名(渋谷四郎)
松高名(常陸太郎) 有光名(白山別当)
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その他、一志の驛家での食事準備を命じた 300人分は、後院領のうち(葉若村、井後村、平野村、
上野村、久吉村、河曲村、安楽村) は全て対応なし。
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              介大鹿俊光  散位大鹿兼重  惣大判官代散位大鹿国忠
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  ※雑事: 食事などの饗応、馬の準備、驛丁の拠出、など。
  ※後院: 天皇の予備の御所、または譲位後のために設定した御所(譲位後の呼称は仙洞御所)を差す。
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西暦1187年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治三年
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5月 5日 丙午
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吾妻鏡
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   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
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鶴岡八幡宮の神事があり、御台所 政子がこれに参詣した。
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   ※5月5日の神事: 現在も菖蒲祭として、他の神社と同様に行われている。吾妻鏡に登場するのは今回が
最初。中国から渡来し、奈良時代には菖蒲を髪飾りにして 武徳殿 (Wiki) に集まり、天皇から薬玉 (薬草を丸く固めた飾り) を賜る習慣として定着した。
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鎌倉時代には菖蒲が尚武に通じ、尚武の葉が太刀を連想させる事から男子の節句となったが、文治の頃に始まっていたか否かは確認できない。頼家が (数え年で) 五歳を迎えるのと関係あるのかも。
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西暦1187年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治三年
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5月 8日 己酉
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吾妻鏡
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土佐冠者 源希義供養のため墓所には仏堂を建て、介良 (けら) 庄の垣光名と津崎の農民の年貢を寄付して維持管理に充てている。今日 新たな命令により供養米として毎年 68石を与える事となった。
不足の場合は庄内の年貢を充当し琳猷上人に引き渡して衷心の供養を続けるよう、源内民部大夫行景 (介良庄の地頭兼預所) に命令を下した。
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   ※志に報いる: 琳猷上人は元暦二年 (1185) 3月27日に希義の遺髪を鎌倉に届け、頼朝の饗応を受けて後
の 5月2日に鎌倉から土佐に向かっている。介良庄の資料に拠れば、追善のため希義墳墓の地に寺を建立して 68石を与え、不足する時は年貢米を充当せよと地頭の源内民部太夫行景に命じている。
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この時に建てた西養寺 (希義の法名 西養寺殿 円照大禅定門を転ず) は既に廃寺、高知市介良乙 (地図) には希義の墓と伝わる無縫塔 (後世の供養塔) と希義神社が残っている。    こちらのサイトで詳細レポートを確認できる。
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西暦1187年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治三年
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5月13日 甲寅
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吾妻鏡
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一昨年の地震で被害を受けた里内裏を補修する命令が出た。
地震の際に倒壊した建物はその年の冬に修理する計画で、清涼殿 (Wiki) の東西六間 (柱間が6スパン) の工事を参河守 範頼が受け持ったにも拘わらず、放置して関東に帰ってしまった。
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その旨を頼朝に報告した者があり、朝廷の恩を受けながら国の役務を果たさないのは不都合だから罪に問われるぞとの仰せがあった。範頼は恐縮し、これからは造営に微力を尽くすと申し述べた。
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   ※里内裏: 皇居の内裏以外の場所に設けた帝の在所を差す。
焼失した際などに高位の貴族邸などが臨時の御所として使われ、院政期になると里内裏を皇居として使うのが一般化した。
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文治三年時点の京都御所も 元 権大納言藤原邦綱邸を利用した里内裏の 土御門東洞院殿 (Wiki) を利用していた。144年後、鎌倉時代末期の元弘元年 (1331) に当時の 後醍醐天皇と対立した幕府が光厳天皇 (北朝初代) を擁立してここを御所と定めた。以後、東京に遷都するまでの 27代 約540年間は此処 (現在の京都御所の敷地) が皇居となった。
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鎌倉期以前の内裏は京都御苑の約 1.7km西、千本通りの北端にあり、当サイトでの京都御所は(仙洞は別にして)ここを基準に考えるのが本来、なんだね。
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右上は京都駅北口の 10分の1縮尺の羅城門 (巾8×奥行2.1×高さ2.4m) 。平城京の羅城門 (別窓) は柱 6本で 5スパンだったが、平安京は柱8本で 7スパンに拡張された。
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   ※千本通り: 昔の朱雀大路の巾は約 85mもあった。
千本通りを南に延長した九条通北側に羅城門の跡 (地図) がある。ここから約 470m東に東寺の南大門があり、西の等距離に西寺 (既に廃寺、現在は汚い公園) の南大門があった。
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千本通りを北に進むと蓮台野 (船岡山の西麓から天神川上流の谷間) へ、途中に「千本の卒塔婆」が立ち並んでいた事から千本通りと呼ばれたらしい。蓮台野は西の化野 (地図) や東の鳥辺野 (地図) と並ぶ葬送の地だった。
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  右画像は羅城門の跡一帯の鳥瞰図。画像をクリック→ 別窓で拡大表示
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跡地の公園を挟む東西の一画が 40m弱だから、羅城門と朱雀大路の巾はこの一画の二倍以上だった計算になる。 
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西暦1187年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治三年
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5月15日 丙辰
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吾妻鏡
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大和守 山田重弘が京都から帰還した。上皇の病状は既に回復し、これによって先月の 3日に臨時の恩赦が
行われた。但し伊豫守義顕 (義経) と彼に連座している者は対象から除外される。
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   ※山田重弘: 4月17日に平癒を祈願した大般若経転読の明細を後白河院に届けている。
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西暦1187年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治三年
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5月20日 辛酉
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吾妻鏡
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二階堂 (藤原) 行政が使節として常陸の国に下向した。鹿島神宮 (公式サイト) の神領を管理する貞家が神宮に納める年貢を押領したと神官が訴え出たのが端緒で、大江広元の差配で決裁した結果を伝える派遣である。
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   ※藤原行政: 二階堂を名乗ったのは、奥州藤原氏を滅ぼした
頼朝が平泉の秀衡邸に近い 無量光院 (別窓) の壮大な姿に感動して大倉御所の北西に 永福寺(別称 二階大堂、外部サイト) を建立した 建久三年 (1192) 以後になる。
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それ以前の呼称は藤原か工藤を使うのが本来だが、このサイトでは区別に伴う煩雑さを避けるため新旧を問わず「二階堂」を使っている。
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右は平泉無量光院の CPグラフィック。
春秋の彼岸に背後の金鶏山に沈む夕陽と二階大堂の阿弥陀如来を描いて、極楽浄土の姿を再現していた。クリック→ 別窓で拡大表示。
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ついでに書いておくと、当サイトでは頼朝の継室 (北條時政の女) を「御台所 政子」と表記しているが、彼女が政子を称した、或いは政子と呼ばれた史実は存在しない。
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ただし、建保六年 (1218) に従三位に叙す際に、朝廷が叙書に記入するため父 時政の一字を採って「平時政女 政子」とした。それが唯一の公式な例である。
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そもそも高位の貴族または皇族の女性 (例えば 建礼門院 徳子など) 以外は「公式の個人名」を持たなかった時代である。
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西暦1187年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治三年
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5月26日 丁卯
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吾妻鏡
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宇治蔵人 波多野三郎義定の代官が伊勢国にある 齋宮寮 (Wiki) の管理下にある櫛田郷で押領を行なったから糾明せよ、と院からの指示があった。義定に問い合わせると「長い間鎌倉に居るため伊勢国の詳細は判らないから、取り敢えず目代を召喚する、道理のある訴えであれば追って報告する」と答えた。
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武士の押領を糾明せよと勅命を受けて対応しなければ仙洞を軽んじることになると判断され、恩地 (勲功に応じて与えた新領) を没収した。
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   ※波多野義定: 頼朝挙兵の直前に参加を求めた使者 安達盛長に雑言を吐き、富士川合戦前に追討された
波多野義常の末弟 義元の嫡子。波多野義通の長男 (庶長子?) は許されて松田氏を名乗り三男の 忠綱と四男の義元が波多野姓を継いだらしい。
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   ※櫛田郷: 松阪市櫛田町の櫛田川両岸域 (地図) 。齋宮が執務した齋宮寮跡が史跡公園齋宮の森 (地図) と
して保存され、近くの 齋宮歴史博物館 (公式サイト) で詳細の歴史に触れることができる。
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西暦1187年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治三年
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6月 3日 癸酉
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吾妻鏡
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   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
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一昨年平氏一門を長門国で滅ぼした際、壇ノ浦合戦で宝劔を失なったまま見付からず、祈祷を続けている。
厳島神社 (公式サイト) の神主安芸介景弘に命じて漁民を搜索に加えるため 報酬の米を拠出するよう西国の地頭に指示せよとの院宣が下された。これに伴って本日 (作業を) 割り宛てる、と。
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   ※宝劔: 三種の神器の一つ 草薙剣 (天叢雲剣、Wiki) 。平家物語 安徳天皇入水の条に以下の記載あり。
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   二位尼は神爾を脇に挟み宝劔を腰に差して 安徳天皇を抱き海の底に沈んだ。
   八咫鏡は 片岡経春が拾い上げて八尺瓊勾玉 (まがたま) 共に内裏に戻ったが、草薙剣は
   失われた (4月25日 ) 。

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沈んだのは形代 (レプリカ) で皇位継承に支障なし、本物は 熱田神宮 (公式サイト) に鎮座する、別の神器を伊勢神宮の神庫から運び出した物だ、など紛失に関して様々な虚飾はあるが、後鳥羽天皇が神器なしに着位したと記録した事実、後白河法皇が屋島の 平宗盛に返還交渉を提案した事実、2年過ぎても搜索を続けている事実、それらを考え合わせれば 「紛失」 を否定できる材料は乏しい。公文書の隠蔽と同様に歴史の改竄である。
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木箱に収められ封印されていた鏡や勾玉と違って海底に沈んだ劔が見つかる筈はない。潮流は早いし、素潜りできる水深でもないし。最終的に天皇家は「実は宝剣は三振あって、熱田神宮と伊勢神宮と朝廷の三ヶ所に安置していた」と結論付けて話の辻褄を合わせている。
それなら必死になって捜索を続ける必要はないと思うけど、ね。
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「正統性に欠ける天皇」という認識が後鳥羽の人生を狂わせた。治世の実績を積み上げて負の遺産を補おうとした...そのコンプレックスが承久の乱を引き起こしたのだろう、と。
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西暦1187年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治三年
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6月 8日 戊寅
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吾妻鏡
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今日、御所の女官である上野局を幕府の染殿別当に任命した。
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   ※染殿: 糸や布地を染める建物や組織を差す。彼女は建久六年 (1195) 7月28日に武蔵国府の染殿別当に
転任しているから、優秀な専門職だったらしい。ちなみに当時の武蔵国府は現在の都下府中市の 大国魂神社 (公式サイト) にある一帯、当時の国司は 平賀義信である。
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大國魂神社は、伊豆伊東の 音無神社 (別窓) と同様に「乱交」の俗習を近世まで色濃く残していた
「くらやみ祭り」で知られていた。近世は「臭い物には蓋をする」ようではあるが。
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西暦1187年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治三年
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6月13日 癸未
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吾妻鏡
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故左典厩 (源義朝) の乳母が参上、御前に招いて思い出を語り合い涙を流した。彼女は平治合戦の後に京都から下り、相模国早河荘 (地図) で七町の田を耕し暮らしていたため、頼朝はその土地の所有権を与える措置を取った。 原文は「故左典厩乳母参上則召御前談往時令落涙給 云々」
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   ※義朝の乳母: 治承五年 (1181) 閏2月7日に以下の記載がある。
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 頼朝誕生の時に最初の乳を含ませた女 (摩々尼、相模早河庄に住む) を呼び出した。
 親愛の思いがあり、屋敷や所領の農地に間違いが起きぬよう総地頭に申し付けた。

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前後を考えると、吾妻鏡の編纂者が義朝と頼朝を取り違えたのだろう。頼朝の乳母 摩々尼と義朝の乳母寧々が母と娘だったと強弁するのもかなり無理だし。
しかし義朝の誕生は保安四年 (1123) 、乳母は幾ら若くても当時は20歳以上だろうから、生きていれば84歳ほどになる。
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   ※早河荘: 地図には JR東海道線早河駅を落とし込んだが、実際は現在の小田原市の南半分前後を占める
規模だったらしい。現在の小田原城から南の一帯だろうか。
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寛仁四年 (1020) に相模守に任じて下向した大江公資が開拓して早河牧の領家となり、藤原道長の六男長家 (正二位、権大納言)に寄進し、本家として立荘した。
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この荘官に任じたのが 中村宗平で、次男の 土肥実平または嫡子 遠平を経て嫡孫の維平が継承している。実平が戦功で得た安芸国沼田荘の地頭職は遠平が養子に迎えた景平 (平賀義信の末子) が継承し、後に戦国大名として歴史に残る小早川氏の祖となっている。
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   ※大江公資: 平安時代中期の寛仁四年 (1020) に相模守だった従四位下の中級貴族で儒者の家柄。和歌を
嗜んで 源頼光の養女を妻とした後に離縁、彼女 (呼び名は相模) は奔放な恋の歌を多く遺したことで知られる著名な女流歌人。小倉百人一首に次の歌が載っている。
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  恨みわび ほさぬ袖だに あるものを 恋に朽ちなむ 名こそ惜しけれ
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    恨んで恨んで、恨む気力も失なって、涙に濡れた袖さえ乾かない。
      この恋の噂で朽ちてしまう評判がなんと惜しいことだろうか。
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西暦1187年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治三年
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6月18日 戊子
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吾妻鏡
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頼朝から (京都堀川の) 六條若宮で放生会を催すよう指示があった。まず朝廷の意向を確認せよ、と。
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   ※六條若宮: 源氏伝来の六条堀川邸の守護神社。詳細と地図などは1月15日の項に掲載してある。
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   ※放生会: 鳥獣や魚を放して殺生を戒める宗教行事。散々人を殺して放生会なんて筋が通らないのに。
鶴岡八幡宮では 6月上旬の蛍放生祭、9月16日の鈴虫放生祭 (流鏑馬の神事も行なうため酷く混む) が行われる。頼朝の異母兄 源朝長の首 (胴?) を葬った袋井積雲寺に近い磐田に残る放生会の伝承は少し変わっていて面白い。
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頼朝上洛に随行した幕府文官の日誌に4日間の空白がある。この時に頼朝は積雲寺近くの池で朝長供養の放生会を挙行していたとのフィクション。黄金の札を付けた多くの鶴を放ち、以後この池は鶴ヶ池と呼ばれていた。
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そして 600年以上が過ぎた江戸幕末の頃、金の札を付けた一匹の鶴が捕獲された。鶴の寿命は千年、頼朝が放った鶴だろうと噂した...と。詳細は 高林山積雲院 (別窓) で。
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西暦1187年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治三年
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6月20日 庚寅
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吾妻鏡
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平家から没収した伊勢国の所領は 加藤太光員が提出した明細に従って地頭を任命したが、彼らが伊勢神宮の神領で違法行為を 行なっているとの訴えが頻発したため、地頭の罷免を決定した。明細は下記の通り。
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伊勢国 御領内の地頭らに下す  違法行為を止め、内宮外宮の神官の指示に従い執務すること。
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平家没官領については先例に従って地頭職を補任したが勝手な行動が多く、押領あるいは神官に対する妨害の報告があるため、神役を優先せよとの命令を再三発している。
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その報告通り、補任した地頭が各所を押領し神領を煩わせている行動は明らかに不当である。今後は神官の指示に従って執務し、地頭であっても迷惑を掛けたり神社への役務を怠らず、狼藉を停止を命じる。
更に違反する者があれば氏名を記録して報告せよ。         文治三年 六月二十日
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   ※違法行為: 基本的原因は強奪を習いとした東国武士の生き様なのだろうが、同様の事件を頻発させた
鎌倉の管理能力にも問題がある。ルールの周知不足か、或いは暴走の黙認か。
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守護地頭を配置する際に押領や非法を厳重に禁止する事を周知徹底して置けば、朝廷側の反発も防げた筈だ。頼朝の側に脇の甘さや勝者の驕りがあったのは間違いない。
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股肱の臣である加藤光員を派遣した伊勢国 (平氏の本領) では元暦元年 (1184) の夏には大規模な反乱 (三日平氏の乱) が起きた。派遣した御家人にはそれなりの権限を付与して治安維持を強化した、その反作用なんだろうね。
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西暦1187年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治三年
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6月21日 辛卯
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吾妻鏡
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因幡前司の 大江広元が使節として上洛し、破損した里内裏を修復する予定である。また師中納言 吉田経房が大納言への昇進を望んでおり、頼朝に推挙を依頼したい旨を内々に伝えてきている。親密な間柄だから協力したいが、同じ希望を持つ公卿も多いだろう。様子を窺いながら奏上せよ、と広元に指示した。
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この吉田経房に限らず廉直な廷臣であれば折に触れて援助したいと、頼朝は普段から考えている。これは朝廷のためであり国のためになる事だ、と。
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   ※里内裏: この場合は地震により破損した帝の別邸を差す (5月13日の項を参照) 。
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西暦1187年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治三年
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6月29日 己亥
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吾妻鏡
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雑色の正光が使者として指示書を携え伊勢国に向かった。伊勢国の沼田御厨畠山重忠が地頭に任じているが目代の別当真正が員部の大領家綱の従者宅で財物を没収した。
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家綱が神官 (外宮の?) を鎌倉に派遣して非法を訴えたため、その罪を糺すための派遣である。正光が使者の権威を利用して横暴な行為を行なえば譴責して仔細を報告せよと、山城介久兼 (伊勢国に駐在) に命じた。
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   ※員部の大領: 員部は三重県北部の現いなべ市、大領は郡司の筆頭者を差す。沼田御厨は外宮領として
名が見える旧飯野郡 (ほぼ松阪市) だが正確な位置は不明。
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   ※山城介久兼: 元暦二年 (1185) 7月23日に記された大江久兼を差す。頼朝が京から招いた楽人で事務官
のような業務も担当したか、或いは伊勢神宮にでも出張中だったか。
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西暦1187年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治三年
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7月 2日 辛丑
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吾妻鏡
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齋宮の儀式が始まり、今年の九月に伊勢に向かう郡行 (行列) の費用を鎌倉が負担し、以前から御家人に割り当てている。これは 三善康信が差配している。
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   ※斎宮: 天皇の名代として未婚の皇女が伊勢神宮に巫女として仕えた 「斎王 (Wiki) の御所 」 を差す。
行事として定着したのは六世紀中盤の天武天皇の頃、殆どの場合は着任してから時の天皇が退位または崩御するまで斎宮に在任した。斎宮については 5月25日の記事でも触れてある。
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文治三年 (1188) の斎王は第80代高倉天皇の第三皇女 潔子内親王 (8歳) 、9月18日に群行 (任地伊勢への下向) し建久九年 (1198) 1月の第82代 後鳥羽天皇の退位まで足掛け13年在任して同年8月に京に戻った。
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賀茂神社の斎王 (斎院) と名称は重複するが、賀茂祭 (現在の葵祭) の斎王は 弘仁元年 (810) に第52代嵯峨天皇の勅願により伊勢神宮に倣って第八皇女の有智子内親王を派遣したのが始まり。
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西暦1187年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治三年
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7月 3日 壬寅
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吾妻鏡
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山城守 橘維康が京都から到着。これは幕府に務めるためで、行列などの先駆に任じる業務に通じている人物の紹介を 平頼盛に依頼していた結果である。藤原俊兼が維康の宿舎を手配した。
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西暦1187年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治三年
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7月 4日 癸卯
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吾妻鏡
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雑色の里長が使者として上洛する。これは京都守護 一條能保の娘が乳母として内裏に入る祝賀と費用のため長絹百疋を贈るためである。御家人らがこれを拠出した。
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   ※一條能保の姫: 後鳥羽の乳母なら 花山院忠経 (Wiki) の室になった保子 (能保の娘) も名義だけの乳母 )
だったが後鳥羽は既に7歳だし保子の乳母役も過ぎた話だ。でも他には乳付けされるような適齢の幼児が見当たらない、誰の乳母だろう?
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西暦1187年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治三年
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7月18日 丁巳
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吾妻鏡
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新田 (仁田) 忠常の妻が伊豆三嶋大社に参詣した。洪水のため小舟で江尻の渡しを漕ぎ出したところ逆波で舟が転覆、同乗の男女は全て水中に投げ出され辛うじて救助されたが、彼女だけは水に没してしまった。
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幼い頃から今まで毎月の参拝を欠かさなかった信心深い女で、この正月に夫の忠常が重病で生死の境を彷徨った際にも社殿に願書を捧げ「私の命を縮めて忠常を救いたまえ」と祈っていた。
ひょっとしたら神仏が願いを聞き届けて夫婦の寿命を入れ替えたのか。貞女であるとの噂が流れた。
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   ※江尻の渡し: 一般的には比較的大きな川の河口を差すため狩野川の可能性を考えるが、仁田邸と三島
大社の間には流れていない。ただし現在も梅雨や台風には出水を繰り返す大場 (だいば) 川の氾濫が考えられる。流人時代の頼朝が立ち寄った 間眠神社も冠水の記録がある。
仁田邸 (B) から三島大社 (G) に行く (ルート地図) には大場川を渡るのが必須だった筈。
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三嶋大社の周辺には他にも 法華寺や祐泉寺など、古い歴史の跡が今に伝わっている。
頼朝の闇討ちを狙った 大庭景親が身代わりになった自分の妻を殺してしまった...
そんな (まるで信用できない) 挿話を伝える 妻塚観音堂 もある。
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   ※忠常の重病: 1月18日に重体の記載がある。頼朝が見舞ったのは伊豆ではなく鎌倉の宿所だと思う。
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西暦1187年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治三年
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7月19日 戊午
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吾妻鏡
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一條能保からの書状が院宣と共に届いた。前大蔵卿の 高階泰経義経に与したため伊豆流罪の処分を受けており、そろそろ帰洛を許したいとの御意向のためそれを許した。さらに (院の) 側近として仕えたいとの嘆きを再三述べるので御意見を伺いたい、と。
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   ※泰経の復帰: 頼朝が復帰を認めて出仕が許されたのは更に 2年後の文治五年 (1189) 8月になる。なんか
最近 (2025年9月末) のトランプ大統領みたいだ。あれほどバカじゃないだろうけど。
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西暦1187年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治三年
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7月23日 壬戌
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吾妻鏡
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頼朝は故 一條忠頼の家臣で歌舞を職業にしている甲斐中四郎秋家を従え海浜の散策に出御した。由比:ヶ浜で小笠懸見物の後に岡崎四郎義実宅に入り、酒宴と共に秋家の舞曲を楽しんだ。
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   ※甲斐秋家: 大倉御所で彼の主人である 一條忠頼を謀殺したのが元暦元年
(1184) の6月166日、翌々18日には秋家に御所の勤務を命じている。元々は京下りで芸能に長じた人物だった。
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   ※笠懸: 馬上から的を射る騎射三物 (流鏑馬、笠懸、犬追物) の一つ。
儀礼色の強い流鏑馬よりも実戦に近い。馬場 (109m) の71m地点の左側に11〜23m離して吊り下げた直径55cmの的を射る。
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更に簡易型に発展した小笠懸は同様に2.3m 離れた低い位置に設けた12〜24cm角の板を射る (数字は全て概寸) 。
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   ※犬追物: 当初は牛を使ったらしいが動きが遅く面白みに欠けたらしい。
犬射引目 (軽い鏑矢で先端を保護し怪我を防ぐ) で犬を射る騎射として流行した。愛犬家には許し難い蛮行である。
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明治14年 (1881) 麻布嶋津邸での開催が最後と伝わっている。
駐在する欧米の外交官から蛮行だ、と指摘を受けたのだろう。
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右は和歌山市立博物館収蔵の「犬追物絵図」の一部。 画像をクリック→ 別窓で拡大表示
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犬追物の詳細 (Wiki) も参考に。
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西暦1187年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治三年
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7月27日 丙寅
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吾妻鏡
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信濃国善光寺 (公式サイト) は去る治承三年 (1179) の火災で伽藍を焼失したため、再興について協力せよと諸人に命令を下した。その内容は次の通り。
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信濃国の荘園と公領の沙汰人らに下す。善光寺造営のため人夫を手配して仏と結縁せよ。
善光寺は霊験殊勝の伽藍である。草創以来長い年月を経て堂宇の破損が甚だしく、火災のため礎石だけが残る状態は実に嘆かわしい。国中の荘園公領を問わず力を合わせ、復興を勧進する上人に人夫を拠出するなどで功徳を尽くせ。参加を拒む者は所領や管理権などの没収もある事を告知する。 文治三年七月二十七日
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   ※信濃国善光寺: 特定の宗派に依らず万民の救済を目指す単立の寺。天台宗と浄土宗が交代で貫主を
務める珍しいシステムで運営している。創建以来 11回の火災に遭っているがその都度復興し、今回の勧進に大きな貢献を果たした頼朝を大旦那として祀っている。
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創建の詳細、頼朝との関係、甲斐善光寺と元善光寺などは 甲斐と信濃の善光寺 (別窓) を一読されたし。背景には仏教伝来から武田信玄まで続く壮大な物語がある。
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翌28日には信濃各地の国司目代宛に同様の命令書を発行している(掲載省略)。
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   ※単立の寺: 複数あるが、単立の是非と中身を含めて大阪の浄土真宗 西栄寺の法話 単立寺院という選択
(別窓) を紹介して置く。宗教を理解する枝の一つとして知る価値はある、と思う。
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西暦1187年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治三年
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8月 1日 己巳
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吾妻鏡
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今日から 15日までを放生会とする旨を、兼ねてから関東の荘園などに伝えてある。更に加えて鎌倉は勿論、近くの海や川でも守るよう雑色らに触れ回させた。 二階堂行政藤原俊兼の差配である。
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   ※放生会: 6月18日に記載のある放生会を拡大指示した、という事。住民には迷惑な強要、だ。
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西暦1187年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治三年
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8月 3日 辛未
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吾妻鏡
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筑前国 筥崎宮の宮司親重が褒賞として当国の那河西郷と糟屋西郷など拝領した。平家全盛の際に祈祷に従事したのは不愉快だが、神官の立場として配慮すべきだろうと考えたためである。
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   ※筥崎宮: 延喜年間 (西暦 300年頃) に神勅を得た第60代醍醐天皇が敵国降伏を祈り創建した と伝わる。
歴史修正主義者や国家主義者 (例えば安倍) が喜びそうな神社 (公式サイト) だ。
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   ※那河、糟屋: いづれも福岡市南東部から太宰府市北西部の一帯。
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西暦1187年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治三年
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8月 4日 壬申
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吾妻鏡
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鶴岡八幡宮 (公式サイト) に於ける初めての放生会を行なうため流鏑馬の射手と的立て役などを割り当てた。
その中で 熊谷次郎直実に上手 (かみて) の的立て役を命じたところ立腹して次のように抗弁した。
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「御家人は誰もが同格なのに射手は騎馬で的立てが徒歩とは優劣の差だ、そんな事は承服できない」と。
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頼朝は「優劣ではなく、立場に応じて命じている。そもそも的立ては劣る役目ではなく、例えば 新日吉社 (外部サイト) 祭に院が出御の際には本所の者を召して流鏑馬の的を立てている。その順序からすれば射手の役を越えるのだから早く従え」と命じたが直実は最後までこれに従わず、所領 (の一部) の没収を命じられた。
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   ※本所の者: 荘園を実効支配する者、転じて権力のある者。
滝口の武者などを示す場合もあるらしい。
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右は直実庵跡の浄土宗 蓮生山熊谷寺 (公式サイト)
の山門。 画像をクリック→ 別窓で拡大表示
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建久三年 (1192) 11月25日、久下直光との所領争い裁定の場で上手に主張できず、書類を投げ捨て髻 (もとどり) を切り逐電した。そもそも直実が自分の所領と思い込んでいた土地は姉の夫 久下直光の所有地で、両親を亡くして孤児同然だった直実を哀れんだ直光が管理を委ねただけだった、と。
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更に直光の代理として大番役で在京した際に同郷の武士から「代官」と愚弄され、半人前扱いを受けた遺恨もあった。思い込みの激しい猪突猛進男には論理的な説明など通用しない。
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この事件の翌年には家督を嫡子直家に譲って法然の弟子となり出家、蓮生を名乗って数ヶ所の寺院を建立し布教に尽力する。 実盛は最期の数年をここで過ごし 66歳で予告往生した、らしい。
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熊谷寺は 「念仏道場」 を称しているが、入り口は常に閉鎖され部外者の立ち入りを禁じている。その逆に無条件に全面開放している久下氏の 東竹院 (曹洞宗、ライバル 久下直光の菩提寺) の方が偉い!
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熊谷市の北部には 斎藤実盛が別当 (管理責任者) を務めた広大な 長井荘 (平家物語に拠れば 平宗盛の領有) があった。
後半生を浄土宗の布教に捧げた熊谷直実と 恩顧を受けた平家に殉じた斎藤実盛、二人の生き方に触れるのも趣き深い。
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右は斎藤実盛創建と伝わる長井荘の 聖天山歓喜院 (高野山真言宗) の実盛像。木曽義仲との合戦に備え、老武者の嗜みとして白髪を染める姿を描いている。画像をクリック→ 長井荘と歓喜院 (別窓) へ。
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西暦1187年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治三年
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8月 8日 丙子
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吾妻鏡
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梶原平三景時と原宗四郎行能が最勝寺と尊勝寺領の収穫を押領したと管理者が訴えた。その旨の照会が院から届いたため、両人に問い合わせて陳述書を提出させ、院の担当者に送付した。陳述書の内容は次の通り。
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  梶原景時...尊勝寺領の美作国林野英多保について、前回にも仔細を報告した通り年貢などは先例に従い
処理した。代官の改補については、不正や過怠が存在しないのだから訴えには根拠がない。
景時の管理を排除するための訴えに過ぎない話には陳述の必要もない。
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  惟宗行能...最勝寺領の若狭国今重保での押領嫌疑について、義経謀反に対応して東国から武士が上洛した
際には 北條時政の部下として従った。兵糧米の徴収地に代官を置いての差配を禁じた鎌倉殿の命令の通り代官を置かずに本国に帰還した。従って私が今重保の管理に当たるべき根拠がないし、鎌倉殿から支給を受けた土地でもない。
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ただし行能の代官を称する者が行能退去の証拠書類がないと主張しているため、院宣と鎌倉殿の命令に背いていると再三に亘って不当な譴責を受けている。行能の代官を詐称する者を捕らえて罪を問うべきで、行能が関与した件ではない。
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   ※最勝寺と尊勝寺: 六勝寺に含まれる。詳細は文治二年(去年)の6月29日にを記述してある。
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   ※林野英多保: (あいたのほ)は現在の岡山県美作市東部 (地図) 一帯。
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   ※若狭国今重保: 現在の福井県三方郡美浜町佐野 (地図) 一帯。
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西暦1187年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治三年
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8月 9日 丁丑
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吾妻鏡
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(8月16日の放生会に備えて)鶴岡八幡宮境内を念入りに清掃し、馬場を設けて埒 (馬場を仕切る垣根) を作った。
頼朝が臨監し八幡宮別当の円暁法眼も参席、千葉常胤小山朝政畠山重忠三浦義澄 ら著名な御家人も群参した。
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   ※境内馬場: 八幡宮の流鏑馬道は境内を東西に横切っている。
東鳥居から西鳥居までの距離は直線で 200m強だから馬場は 150m前後か。八幡宮の境内地図 (公式サイト) 東の鳥居からの画像 (右) を参考に。
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西暦1187年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治三年
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8月12日 庚辰
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吾妻鏡
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一條能保からの書状が到着。昨今の京都は強盗事件が頻発し、貴賎の誰もがこの状態に怯えている。
去年の12月3日に強盗が太皇太后 の屋敷に押し込み大夫進仲賢らの男女を 殺害して以来、概ね一晩おきに同様の事件が起きている。朝廷も頼りになる武士の派遣を強く望んでいる、と。
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   ※太皇太后: 先々代の帝王の正妻 (高倉天皇妃の 建礼門院徳子) か、当代の帝王の祖母 (後白河天皇妃の
藤原忻子) になる。従って藤原忻子が正解か? ただし、第76代近衛天皇妃の藤原多子 (1140〜1202) の崩御以後は太皇太后は存在しないらしい (太皇太后 (Wiki) の参照を。
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西暦1187年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治三年
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8月15日 癸未
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吾妻鏡
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鶴岡八幡宮の放生会に頼朝が参席。参河守源範頼、武蔵守平賀義信、信濃守加賀美遠光、遠江守安田義定
駿河守源広綱小山兵衛尉朝政千葉介常胤三浦介義澄八田右衛門尉知家足立右馬允遠元 が従った。流鏑馬が行われ、まず射手五騎が馬場に入って騎射を繰り返し、全てが的を射抜いた。
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その後に珍らしい事件が起きた。この場にいた諏方大夫 金刺盛澄藤原秀郷から伝わる武芸と流鏑馬に熟達した人物である。京に長く住んで 城南寺 (Wiki) の流鏑馬などにも参加していたが、関東への参向が遅れたため頼朝の怒りに触れ囚人として扱われていた。流鏑馬の流派が失われるのを危惧して断罪を引き伸ばしていた頼朝が盛澄を召して騎射を命じ、厩で一番の癖馬を彼に与えた。
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厩番が密かに「この馬は的の前では必ず右寄りに走る癖がある」と教え、技術に優れた盛澄は見事に馬を立て直して的を射抜いた。続いて小さな土器を五寸の串に挟んだ的を三つ、全て射落とした
更には残った三本の串を射よと命じられ、守護神の諏訪大明神に祈った後に五寸の串を全て射切った。見物人の全てが感嘆し、頼朝もまた特に喜んで盛澄の負っていた罪を許した。
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今日の流鏑馬 一番の射手は 長江太郎義景   的立は 野三刑部丞盛綱
二番の射手は 伊澤五郎信光   的立は 河匂七郎政頼
三番の射手は 下河辺庄司行平  的立は 勅使河原三郎有直
四番の射手は 小山千法師丸  的立は 浅羽小三郎行光
五番の射手は 三浦平六義村   的立は 横地太郎長重
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   ※駿河守広綱: 三位 頼政の三男で、頼政の嫡男 仲綱の養子になっている。子孫に太田道灌あり。
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   ※小山千法師丸: 小山朝政の嫡子小山朝長 (だと思う)。
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   ※諏方盛澄: 名乗りは金刺、または諏訪。諏訪大社 (公式サイト) の下宮神官を兼ねた武士で、弟の手塚
光盛 (篠原の合戦で 斎藤実盛を討った武士) と共に 木曽義仲の郎党として転戦した。諏訪大明神縁起に拠れば、この時に 梶原景時が共に捕縛されていた義仲の郎党らの赦免を願っている。
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   ※三つの的: 6月16日に記載した笠懸の一種、小笠懸に該当するゲームなのだろうか。
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西暦1187年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治三年
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8月19日 丁亥
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吾妻鏡
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洛中での非法行為停止について再三院宣が発行されている。詳細の調査と沈静化のため 千葉介常胤下河辺庄司行平に上洛を命じ、各人が了承を述べ て今日出発の儀を行った。馬を下賜され、詳細の指示命令を受けた。師中納言 吉田経房宛の書状は次の通り。
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群盗の出没と武士の狼藉については院から再三の指摘を受け驚き、嘆いている。北條時政が下向する際に多少の東国武士を駐留させ、その他にも兵糧米の徴収や大番役として在京している武士は少なくないが、治安維持に動かないばかりか狼藉に関わっていた可能性もある。噂になれば私の恥辱である。
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在京していた中原親能や大江広元は武士が本業ではなく、里内裏の修繕に関する仕事に任じているので彼らの責任ではない。そんな経緯なので、東国では武名の高い千葉介常胤と下河辺庄司行平を派遣する。
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他の事は兎も角、武士の狼藉については彼らの能力で鎮められるだろうから、良く指示を下されたい。
詳細は別紙にて、またこの内容を院に奏上されたし。   八月十九日  頼朝 進上 師中納言殿
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西暦1187年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治三年
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8月20日 戊子
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吾妻鏡
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土佐国から民部大夫行景の使者が到着し、弓百張と魚や鳥の干物などを一艘の船に積んで献上した。
また故土佐冠者希義の追善供養に任じている琳猷上人に配慮せよとの命令を守る旨の返状を提出した。
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弓 20張は 掘籘次親家に保管を命じて 80張は勤務している武士に分け与え、その内弓場や的などに勤める者には 3張づつを与えた。 下河辺庄司行平和田小太郎義盛佐野太郎基綱三浦十郎義連稲毛三郎重成榛谷四郎重朝畠山重忠の従兄弟)、藤澤次郎近清 らが該当する。
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西暦1187年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治三年
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8月25日 癸巳
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吾妻鏡
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大江広元の使者が京都から到着。去る十五日に六條若宮で放生会を行なったが見物していた身分の低い者の中で喧嘩が始まり、怪我人があった。
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   ※六條若宮で放生会: 6月18日に頼朝から指示が出ている (一條能保宛か?) 。詳細はその条で。
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西暦1187年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治三年
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8月26日 甲午
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吾妻鏡
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遠江守 安田義定に稲荷社 (現在の 伏見稲荷大社、公式サイト)の修築を命じるようにとの院宣が 吉田経房を経て発せられた。引き続いて遠江守に再任するに当たっての奉仕である。
稲荷社と祇園社 (現在の 八坂神社、公式サイト) の破損修築を成し遂げるのが官職に伴う責務である、と。
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   ※安田義定: 建久三年 (1192) 頃までが人生のピーク、翌年には頼朝による甲斐源氏粛清の嵐となる。
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西暦1187年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治三年
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8月27日
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吾妻鏡
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下河辺庄司行平が使節として上洛。重ねて院に申し入れるのは下記の各条項である。
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一.群盗の事
地元の者か畿内または近国の武士かの確認が先決である。
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一.大江公朝の従者による狼藉の事
関東の御家人を称して非法を行なったとの噂がある。頼朝は全く関与していないので確認されたし。
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一.北面の武士を検非違使に任じる事
近年は多くの武士が望んでいる。安易に任命せず人物を確認して選んで欲しい。
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一.壱岐判官 平知康を鎌倉に下向させる事
義経と行家らに与した者だが、特に申し入れはしない。朝廷での判断を。
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一.朝廷に奉公した人の子孫の事
功を挙げた者の子孫が恵まれないのは朝廷の失策、政務に任じるべきである。
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一.西八条の土地の事
平家の没官領として受け取りましたが朝廷で利用したいとのこと、早く決定されたし。
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一.各地の地頭の事
既に細かい指示命令を下している。これに従わない者があれば、連絡があり次第に処罰する。
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   ※大江公朝: 5月14日に院宣を携えて鎌倉に入ったとの記載あり。
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   ※平知康: 前年の12月11日に処分についての記載がある。
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西暦1187年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治三年
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8月28日 丙申
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吾妻鏡
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帝の里内裏遷幸 (移転) に関し、楽士の幄覆 (天幕) と読経する僧の幄覆 (天幕) を 10月中に染色して院に納めるよう、中原親能が命じられた。
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   ※里内裏: 地震による破損の補修について、5月13日に記載がある。
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   ※幄覆 (天幕) :記録には数種類あるが緋と紺を組み合せたタイプが多い。その上下に黄を配したもの、
緑と黒を加えたカラフルなタイプもあった、らしい。
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西暦1187年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治三年
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8月30日 辛丑
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吾妻鏡
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千葉介常胤が京都への使節として出立。洛中での狼藉は関東の御家人らによる犯行との噂があるため、調査が目的である。27日に出発した下川辺行平と同道の予定だったが、体調が悪くて延期していた。
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   ※千葉常胤: 元永ニ年 (1118) 生まれだから概ね 70歳、体調に留意が必要な年齢の古参御家人だ。
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西暦1187年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治三年
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9月 4日 壬寅
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吾妻鏡
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藤原秀衡入道は前伊豫守 (義経) を庇護して謀反を企んでいると頼朝が訴えたため、先日に院から陸奥国に命令が下された。それと同時に鎌倉から派遣した雑色が今日帰着し、秀衡は特に異心を持っていないと述べているが既に何らかの準備があるようだ、と報告した。
頼朝は奥州の形勢を院に言上させるため、その雑色を京都に派遣した。
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    義経追討の院宣は文治元年 (1185) 11月11日に発行された。秀衡には義経を引き渡す意思がないため、
頼朝は要求の正当性を担保するため奥州追討の宣旨を求める下準備を始める事になる。
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西暦1187年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治三年
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9月 9日 丁未
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吾妻鏡
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他所の場所よりも早く、比企の尼邸の南庭に白菊が開いた。重陽節を迎えて頼朝と御台所 政子が渡御し、三浦義澄足立遠元らの宿老が同行した。酒宴は終日続き、土産まで献上された。
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   ※比企の尼邸: 頼朝が伊豆流罪に処された20年間、比企の尼 は一族を挙げて頼朝の流人生活を支えた。
鎌倉に入った頼朝はその恩に報いるため鎌倉に定住できる屋敷を与えた。これが現在の
日蓮宗妙本寺 (公式サイト) の前身である。
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   ※重陽節: 去年の同日には 藤原邦通が菊花を献じ、その前は世情の不安定のためか行事の記載はない。
陽数の九が重なるため、中国では九月九日を「重陽」とした。日本では「菊を飾り菊酒を嗜む行事」として宮中に定着した。
最古の記録は天武天皇十四年 (685) だが、天武帝の崩御が朱鳥元年9月9日 (686年10月1日) だったため国忌として廃止され、延暦十年 (791) から再開された。
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西暦1187年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治三年
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9月13日 辛亥
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吾妻鏡
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摂津国の国衙在庁官人と御室領 (仁和寺 (公式サイト) の雅称、朝廷領)の間で取り決めがあり、今日 北條時政を経て三條左衛門尉に申し入れるよう指示があった。内容は次の通り。
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摂津国は平家追討の以後は管理する領主が不在の状態である。
諸国の在庁官人も荘園の下司職も惣押領使の管理下に置くように宣旨が下っている。領主が高位の公卿であっても、在庁官人や荘園公領の下司 (管理者) は全て惣押領使に従うのが決まりである。
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全ての在庁官人らは速やかに惣押領使の命令に従い、内裏の守護や鎌倉が命じる役務に就くよう命じるが、在庁官人には書類整備や提出の業務以外は求められていない。
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また北條時定が河川の船舶関係者を御家人とする命令書を発行したとの件、事実なら論外なので即刻停止させる。また御室領の寺官から御家人として充当されたとの訴えがあった。決められた三人の寺官以外の者は業務に関与してはならないとの命令である。       以上、鎌倉の指示を伝える。    九月三日  北條時政
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      右画像は仁和寺の仁王門 (重文) 。高さ約 19m、建造は寛永十四年 (1637)。
            クリック→ 別窓で拡大表示)

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    時政の発言内容は筋が通らない。惣押領使の職務は警察権の行使のみ、他の行政権は持たない筈だ。
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西暦1187年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治三年
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9月20日 戊午
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吾妻鏡
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熊野三山の別当である 湛増の使者 永禅が関東に参着、法印に叙された報告をまだ済んでいない事を謝罪し、祈祷を済ませた記録提出と共に綾織の布 30反を献上したが、これは甚だしく頼朝の機嫌を損ねた。
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寺社に荘園を寄付するのは全て神仏に資するためであり、別当や神官への奉仕ではない。私の寄付は神意に資するためだが、この献上品 (綾織の布) は何に酬いるつもりなのか。受納の意思はない、と突き返した。
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   ※湛増: 壇ノ浦では熊野水軍を率いて源氏の勝利に貢献している。文治二年 (1186) 6月11日の吾妻鏡に
「以前からの所領である上総国畔蒜庄を安堵し地頭職を割譲したが 代官の 足利義兼和田義盛は熊野の指示に従わず年貢を怠っている、云々」として訴えた記事が載っている。
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綾織の献上など些細な行動を咎めているのは頼朝がこの事件が不愉快に思っていたか、熊野に圧力を加えておきたい思惑があったのかも。畔蒜庄の詳細も同日の吾妻鏡に記述してある。
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西暦1187年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治三年
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9月22日 庚申
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吾妻鏡
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所衆 (蔵人所に所属し国衙の雑事などに任じる者) の信房 (宇都宮所と称す) が使者として九州に出発した。
天野籐内遠景と共に貴海島 (現在の喜界島) を追討せよとの厳命に従ったものである。
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この島は昔から船の往来がなく、平家の時代に薩摩国の住人 阿多平権守忠景が勅勘を受けて逃げ込んでいた。筑後守家貞 (平貞能の兄) が追討の船を何度も仕立てたが風波が激しく、虚しく引き返した経緯もある。
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義経に与した者が隠れている疑いを確認する遠征である。去年には河辺平太通綱が渡海に成功したとの情報があって追討を思いついた。天野遠景は文治元年 (1184) 末から九州惣追捕使として駐在している。
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   ※貴海島: 奄美大島の東側にある現在の喜界島 (地図) 。鎮西八郎為朝が最期を迎えたとの伝説や僧 俊寛
(Wiki) が流刑を許されないまま死没した島と言われる (俊寛の場合は硫黄島説が主流か)。
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   ※阿多 (平) 忠景: 薩摩半島を支配していた平貞時を祖とする薩摩平氏の子孫。平安時代後期まで薩摩を
支配していたが、保元の乱 (1156) に伴うに追討軍を受けて貴海島に逃亡したらしい。
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その前後に惟宗広言が摂関家筆頭の近衛領島津荘の下司として土着、その子の 忠久 (生母は頼朝乳母の一人 丹後局、頼朝の愛人説あり) が頼朝から薩摩国の地頭に任じられ嶋津氏の祖となった。
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西暦1187年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治三年
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9月27日 乙丑
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吾妻鏡
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畠山次郎重忠が囚人として 千葉胤正に預けられた。代官真正の不正を伊勢神宮を管理する長の家綱が訴えた為である。重忠は代官の所行であり自分は関与せずと弁解したが、所領のうち四ヶ所を没収された。
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   ※代官の不正: 事件が発生した沼田御厨は三重県北部の亀山市関町付近か。事件の詳細は確認できず。
6月20日に出した伊勢国の押領頻発に関する通達がらみで訴えられた可能性がある。
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西暦1187年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治三年
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10月 1日 戊辰
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吾妻鏡
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   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
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法皇灌頂の際に下賜する品物に関しては兼ねてから仰せはあったが他の事に紛れて具体的な指示はなかった。灌頂の儀式は去る 8月22日に完了、整えておいた貢物を放置できないため京都へ運ぶよう命じた。雑色 6人が担当した明細は次の通り。  紺絹 百疋 上品絹 百疋 国絹 百疋 藍摺 百疋 色革 百枚
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法皇灌頂の費用については前年 8月21日に下記の記事がある。今回は僧などへの下賜品だろうか。
また法皇の 灌頂 (Wiki) に関わる費用は俊兼が差配し、駿河と上総の頼朝所領から玄米を千石、各地の所領から白布千反と絹百疋を拠出する、と。
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   ※灌頂の費用: 2月2日に頼朝から朝廷に数件の申し入れがあり、その返事が 28日に届いている。
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西暦1187年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治三年
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10月 2日 己巳
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吾妻鏡
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頼朝が由比ヶ浜に出御して牛追物を観覧した。射手は 榛谷重朝和田義盛三浦 (佐原) 義連葛西清重らが務めた。
帰路の途中で岡崎義実宅に立ち寄って献杯を受け 故 佐奈田余一義忠の息子と面会した。義忠は 石橋山合戦で討死、この勲功は他に秀でているため哀惜の念が特に強い。
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 右は義忠と共に討たれた文三を葬った墓の覆堂に登る参道の風景。
       クリック→ 石橋山合戦の詳細へ (別窓表示)
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   ※牛追物: 犬追物 (Wiki、愛犬家には実に許し難い蛮行) の前に
行われていた武士の騎射芸の一つ。
大きくて動きが遅い牛では面白みに欠けたか、徐々に犬追物が多くなった、らしい。
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西暦1187年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治三年
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10月 3日 庚午
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吾妻鏡
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下河辺行平千葉常胤の上洛の際に持たせた洛中の群盗などについて奏聞した件、その勅答が鎌倉に届いた。
熊野詣の費用負担の申し入れも記してあるため、直ちに了承の返状を送った。院宣の内容は下記の通り。
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去る 8月19日と27日の書状が今月15日に到着、それぞれの件について奏上し、院宣を得た。
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一.群盗についての事。
書状にあった通り洛中に詳しい者か畿内近辺の者の犯行と推測し東国武士の所業とは考えていない。
昨今は検非違使の力が低下し権威が軽んじられているから、在京している武士が治安維持に協力すれば鎮圧できるだろうと考えている。群盗は武士を名乗って威嚇するため検非違使も実力行使を躊躇う例もあり、それも考慮しなければならない。担当庁である検非違使の業務として処理せよと、摂政の 九条兼実にも申し付けている。東国武士としてもこれに協力されたし。
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大江公朝の従者による狼藉の件は聞いていないが事実確認をして、必要があれば処置する。
藤原信盛や大江公朝の検非違使任命については鎌倉の指摘通りである。ただし白川院や鳥羽院の時代にも源平の武士が共同で検非違使に任じていたし、朝廷に仕える武士は他に昇進する道がなかったのが事実だから、決して新しい例ではない。
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壱岐判官 平知康を鎌倉に下向させる事には関与しない。朝廷に仕えた者の子孫に配慮されている事を院は知っているし、喜ばれてもいる。
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一.西八条の事。
話のついでに出た事、本意ではあるが既に与えた土地で使う予定もないから続けて知行されよ。
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一.各地の地頭の事。
問題があれば改めて申し出るから、取り敢えずは鎌倉の意向に従って処理されたし。院の所領などに関わる案件だけではなく社寺の訴えがある場合は無視できずに細かく申し入れる場合がある。
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人の悩みや神仏の祟りが重なり続ければ世間は落ち着かず、悩みを解消できれば神仏もこれを擁護し徳政が実現できる。義経の搜索も神仏の加護があれば解決に至るだろう。私の判断だけに従わず公平の理念を持って添加を鎮めるため尽力されたし。
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一.圓勝寺領の駿河国益頭庄の事。
益頭庄は平家から没収した所領ではなく故 信業朝臣が昔から知行していた地である。以前 一條能保に与えたのだが固辞しているため、早く管理者を決め年貢などの納入に支障が起きないようにせよ。
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一.熊野詣の事。
後白河院は常々自分の寿命は今年か来年まで、年を跨いだ参籠も無理だろうとお考えである。今回の熊野詣は是非とも成し遂げたいから熊野の僧に供する米を千石、他に手当する手段もないため、以前のように調達を願いたい。また軽物(絹布など)も少し必要だが、これは敢えて求める程ではない。
灌頂の儀は無事に終わったので、こちらは何も必要としていない。
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一.阿武郡の事。
東大寺再建の木材は未だ多くを必要とする。今後の手配は無理なのか(4月23日に長門国で紛争)。
           院宣は以上の内容である。   九月二十日  太宰権師 吉田経房(奉)
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私的な追伸として。
朝覲行幸は11月上旬を予定。先日仰せられた幄覆は出来れば期日前に納めるようお願いしたい。重ねてまた群盗の件は 千葉常胤下川辺行平らを通じ書状で報告するべきだが、院宣の通達と併せて報告を済ませる。両人の上洛以後の洛中は予想以上に平穏で実に感心したとの仰せがあった。
以上、重ねて謹言。

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   ※益頭庄: 正確な位置は確定されていないが、益頭郡衙遺跡は藤枝市立花の蓮花寺公園東側 (地図) と
推定されている。この一帯には益津の地名があるため、現在の地名である焼津が益頭 (ましづ) →益津 (えきづ) →焼津 (やきづ) → に転訛したと考える説もある。
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   ※朝覲行幸: 天皇が自分の親である太上 (だいじょう、だじょう) 天皇、皇太后に拝謁するための行幸。
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   ※幄覆: 催事に使う幕。8月28日の記載を参照されたし。
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西暦1187年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治三年
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10月 4日 辛未
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吾妻鏡
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千葉新介胤正が参上して報告。畠山重忠を拘留して既に七日、寝食を断ち既に言葉も発しなくなった。
今朝は私が言葉を尽くして食事を勧めても受け入れないばかりか顔色も変り、既にこの世への思いも捨て去ったかと思える。早く許すべきだと思う、と。
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頼朝は驚愕して直ちに赦免し、胤正は走って屋敷に戻り重忠と共に参上、重忠は 里見義成の上座に着き「恩に浴して所領を得た際には最初に目代の器量を確認せよ。それに値する人物が得られなければその地を受け取るべきではない。私は人よりも厳しく清廉を心掛け、それを誇りに思っていたが目代の真正が不義を働いたために恥辱を受けた。」と語った後に座を立って武蔵国の本領に帰った。
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   ※千葉新介: 父の 常胤が名乗った千葉介は正規の職位ではなく一族の棟梁が地名と権介を組み合わせて
使った称号をが代々継承されたらしい。常胤から胤正への家督相続が済んでいたかは確認していないが、常胤が既に満70歳を越えていた事を考えると「新介=介を継承した胤正」を意味すると考えるのが妥当か。
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   ※重忠本領: 畠山一族の本拠は秩父氏から分家した 畠山重能の本拠で重忠誕生の地 川本の畠山郷 (別窓)
だが今年の11月15日の記事には「重忠が菅谷館に引き籠った、云々」の記述があり、更に元久ニ年 (1205) の二俣川合戦での重忠は 菅谷館 (別窓) から鎌倉を目差している。
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平家の郎党だった重能が隠居する形で家督を重忠に譲ったのが治承四年 (1180) 秋、その後に当時の幹線道路 (後の鎌倉街道) に近い菅谷に移ったと思われるが、鎌倉初期 特に頼朝時代の遺構は全く残っていない。
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ちなみに、鎌倉に於ける 重忠邸は八幡宮流鏑馬道東端の鳥居前 (地図) 、大倉御所の西御門まで 300m弱の一等地で、嫡子 重保宅も一の鳥居西側 (地図) だった。更に加えると千葉常胤邸は鎌倉駅北西の山沿い (推定地図) 。それとは別に、時政邸と共に弁ヶ谷にあった、との説も根強い。
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西暦1187年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治三年
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10月 5日 壬申
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吾妻鏡
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河越太郎重頼は義経に連座 (娘が義経に嫁した、つまり義経の舅)して討たれたが頼朝は残った一族を哀れに思い、重頼の本領である武蔵国河越荘は後家の尼に与えた。しかし名主や百姓が指示命令に従っていないと聞き、今後は荘園業務や他の役務などについては全て彼女の命令に従うよう命令を下した。
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   ※河越重頼: 所領の没収は文治元年 (1185) 11月12日、誅殺の記録は見当たらないが同年末だろう。
河越荘の詳細や重頼墓所 (別窓) を参照されたし。
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西暦1187年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治三年
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10月 6日 癸酉
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吾妻鏡
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後白河法皇の熊野詣と越年参籠について、八木 (八と木で米) 千石と軽物 (絹織物など) 少々の手配を命じた。軽物は御家人に、米千石は武蔵と上総両国に負担を命じた。
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   ※熊野詣: 熊野速玉大社の 熊野御幸記録碑 (別窓) には後白河の熊野詣は33回、建久二年 (1191) が最終
となっているのだが、史書での確認が取れない。少し気に掛かる。
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西暦1187年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治三年
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10月 7日 甲戌
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吾妻鏡
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   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
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京都守護 一條能保の飛脚が到着。先月の19日に齋宮群行があり、勢多橋が破損しているため近江守護職の 佐々木定綱が差配した船で琵琶湖を渡った。この際に見物人に混じっていた 延暦寺の役僧が狼藉を働いたため定綱の郎従がこれを咎め、予期せぬ騒乱となって殺害してしまった。
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延暦寺の衆徒(僧兵、悪僧)が集結して朝廷に強訴しようとしたため国司の藤原雅長と定綱らが制止した。定綱の処分などについては関東の判断を確認する必要があると天台座主の全玄僧正に申し入れたが、衆徒たちは猶も鎮まらなかった。
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   ※齋宮群行: 斎王が天皇の名代として伊勢神宮に仕えるため
伊勢に向かう行列。7月2日に記載がある。
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   ※勢多橋破損: 寿永二年 (1184) に 木曽義仲追討軍が派遣され
勢多橋を挟んで東から攻める範頼軍と橋桁を撤去して守りを固めた 今井兼平軍が戦った。それから既に三年近くが過ぎた。
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この後は勢多での合戦記録はなく、本格的な修復はされなかったのかも知れない。京都に入る要衝の一つであり 承久三年 (1221) 6月の承久の乱に際しても 勢多橋を巡る合戦 (別窓) があった。
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  右は広重の「近江八景、勢多の夕照」が描いた風景。
   画像をクリック→ 広重の絵の拡大と共に現代の唐橋を別窓で表示する。。
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   ※延暦寺役僧: 偶然居合わせたのか遺恨かは不明だが、佐々木一族と延暦寺の衆徒はその後にも騒乱を
重ねており、義経を匿って処分を受けた反発があった可能性もある。
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   ※天台座主: 全玄は天台宗総本山延暦寺 (天台法華宗) の住職 (座主) で民部卿 藤原実明 (Wiki) の子。
勢多橋に近い 三井寺 (園城寺) も天台宗の総本山だがこちらは宗派の異なる天台寺門宗。
両方とも根本経典は妙法蓮華経なのだが、何かにつけて紛争を起こしている。
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西暦1187年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治三年
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10月 8日 乙亥
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吾妻鏡
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下河辺庄司行平千葉介常胤が京都より帰参した。院宣などは既に雑色によって届けられている。頼朝は二人を御前に呼び、後白河法皇から京都市中の治安が鎮まった旨のお褒めを受け面目を施したとの言葉を与えた。
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行平は9月11日に入洛し、その夜のうちに以前から情報を得ていた群盗の拠点を郎従に偵察させ、尊勝寺近くで遭遇した不審者 8人を捕縛した。尋問して犯行が明らかになったため常胤の到着を待たず、また検非違使にも連絡せず、北條時政が行なった前例に従って首を刎ねた。常胤は 14日に入洛し共に日数を過ごしたが、それ以後は狼藉に関する報告はなく平穏だった。これは東国武士の威勢であろう。
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次に在京している武士の件、鎌倉から送られた雑色と私共の郎従が協力して直ちに全員を呼び集め、京都での狼藉の有無について問いただした。彼らの陳述は其々が述べた理由を含めて 53通の供述書にし、吉田経房卿への提出も考えたが、特に関東武士による犯罪の痕跡も認められないため提出は見送り鎌倉に持参した、と。
頼朝はこの措置の妥当性を認め、両人の実績を賞賛した。
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   ※尊勝寺: 愛宕郡 (京都市左京区) に建てた 六勝寺 (Wiki、勝の
字を含む六山の祈願寺) の一つ。尊勝寺は堀河天皇の祈願寺で康和四年 (1102) の創建である。
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現在の左京区岡崎成勝寺町の京都会館南側 (地図) にあり、南北朝時代に焼失した。
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他の五寺 (法勝寺、最勝寺、円勝寺、成勝寺、延勝寺) も院政の衰退と災害や戦乱で 応仁の乱 (Wiki) 以後つまり1477年以後)に失われてしまった。
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右は六勝寺の配置図。クリック→ 別窓で拡大表示。
 堂塔の跡を辿る散策 (外部サイト) もまた面白い。
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   ※時政の前例: 昨年の2月1日に当時の京都守護に任じていた時政が「群党18人を六条河原で斬首した。
「このような輩は検非違使に渡さず直ぐに処刑すべき、云々」の記事がある。
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西暦1187年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治三年
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10月 9日 丙子
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吾妻鏡
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南都の寺から書状と大般若経を転読した巻数の詳細記録が届き、心を籠めた祈祷を行なったと伝えてきた。頼朝は信仰心に従って返状を送った。内容は次の通り。
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8月27日の書状が10月9日に届き、内容は承知した。朝廷に反逆した平家によって大仏廟壇 (大仏殿) が焼かれたため征伐の意欲が高まり、遂に朝敵であり寺院の敵でもある凶賊を追討する事ができた。
仏の徳を思う度に私の信仰心が深まるのは御存知だろうと思う。大般若経転読の巻数を知らせなくても誠意は充分に届いているので、敢えて報告する必要は感じない。
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   ※転読: 大般若経と薬師経の違いはあるが、イメージは変わらない。「何これ!ズルじゃないのか!」
などと言わず YouTube の動画を参考に。どの宗派でも同じような催しがあるらしいから。
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供僧(供奉僧の略)は明治新政府の太政官布告に基づく神仏判然令 (神仏分離令) まで神社に共存し、別当僧は神官の上位にあった。八幡宮の北側にあった僧房群 北谷 (御谷) が有名。
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西暦1187年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治三年
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10月13日 庚辰
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吾妻鏡
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伊勢神宮神官の訴えによって 畠山次郎重忠の所領である伊勢国沼田御厨を没収し、吉見次郎頼綱に与えた。
拘禁していた重忠は事情を知らなかった旨を述べ強く陳謝していたため既に赦免してある。この御厨の管理が重忠から頼綱に移った件は神宮に告知してあり、郡司家綱の所領や財物は全て返却させる。今後共その付近で武士による狼藉を防ぐよう、山城介久兼に命令した。
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   ※畠山重忠: 事件の発生は9月27日、関連記事は10月4日にも記述してある。
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   ※吉見頼綱: 安達盛長の妻は 比企の尼の長女で、その娘が 範頼に嫁している。範頼は建久四年 (1193) の
8月に頼朝の怒りを受けて失脚し追討され、二人の息子 (範圓と源昭) は比企の尼の嘆願で助命、子孫が比企の尼所領の一部を譲られて吉見氏 (吉見と比企は概ね共通) を称した事になっている。
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重忠から没収した沼田御厨を吉見頼綱が得たのなら、範頼が死没する 6年前に (範頼の子孫が吉見氏を名乗るより前に) 吉見氏が存在した事になる。
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吉見氏と範頼の子孫が縁戚となった可能性もあるが、範頼の生存伝説と吉見系図は複雑に絡み合って簡単には解読できない。左側目次の「比企と安達 関連系図」を参照されたし。
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西暦1187年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治三年
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10月25日 壬辰
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吾妻鏡
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閑院修造の工事が漸く完成し、来月上旬に遷幸 (帝の転居) との事。褒賞の仰せについては因幡前司 大江広元からの連絡があり、そのような話は辞退せよと盛時に命じて広元に書状を送らせた。内容は次の通り。
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閑院の造営による褒賞など、もしそのような話が出れば辞退せよ。何度も勲功の仰せはあったが、京から遠く離れた僻地に住み上洛の機会もないため、再三辞退している、と言上せよ。閑院の工事や初の斎宮群行への協力に対する褒賞との仰せがあれば、現在知行している相模、武蔵、駿河、伊豆、信濃、越後の六ヶ国の国司継続を申請せよ、と。これが頼朝の指示である。 十月二十五日  盛時(奉) 因幡前司殿
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   ※閑院: 大内裏の外 (里) に設けた仮の内裏 (里内裏) を差す。5月13日の記述を参照されたし。
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西暦1187年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治三年
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10月26日 癸巳
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吾妻鏡
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筑前国の鞍手領、土佐国の吾河郡、摂津国の山田庄、尾張国の日置領を左女牛若宮 (六条若宮) に寄進した。若宮別当の季厳阿闍梨が差配せよとの命令である。
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   ※左女牛若宮: 頼義以来の源氏館があった場所。詳細は1月15日に記述してある。
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   ※寄進した地: 鞍手領は福岡県鞍手郡鞍手町 地図) 、山田庄は大阪府吹田市山田の一帯 (地図) 、
日置領は愛知県愛西市日置町 (地図) 。
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西暦1187年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治三年
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10月28日 乙未
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吾妻鏡
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里内裏からの遷幸に際して楽士が使う幄覆と幔幕18帖は各々染め上げて去る 8日に仙洞 (院の御所) に納入したと 中原親能から連絡があった。
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   ※幄覆と幔幕: 天幕と周囲を囲う幕。8月28日に中原親能が「10月中に納めよ」との指示を受けている。
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西暦1187年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治三年
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10月29日 丙申
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吾妻鏡
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頼朝は常陸国 鹿島神宮 (公式サイト) には他と異なる信仰心を持っており、毎月の御膳料 (食事に充当する名目の寄進) は同国の奥郡が納入に任じる旨の下知を出した。詳細は次の通り。
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政所より常陸国 奥郡に下す 毎月の御膳料として鹿島に納める籾米 150石の事
多賀郡 12石5斗 佐都東 14石 佐都西 9石8斗 久慈東 36石1斗 久慈西 14石3斗
那珂東 13石9斗 那珂西 19石4斗   右、毎年懈怠なく実施せよ。
     文治三年10月29日 中原親能藤原邦道、大中臣秋家二階堂行政大江広元
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今日、秀衡入道が陸奥国平泉の館で没した。日頃からの重病で寿命が残り少ないと悟り、前伊豫守義顕 (義経) を大将軍として国務を行なうよう、嫡子の 泰衡らに遺言した、と。
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      鎮守府将軍兼陸奥守 従五位上 藤原朝臣秀衡法師 出羽押領使 基衡の嫡子
      嘉応二年5月25日 鎮守府将軍、従五位下。養和元年8月25日、陸奥守 同日従五位上。
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   ※大中臣秋家: 元暦元年 (1184) 6月18日に甲斐小四郎として記載のある京下りの人物で舞曲の名手。
最初に仕えた甲斐源氏 一條忠頼が同月16日に大倉御所で粛清&謀殺された直後から頼朝に仕えた。今年の7月23日にも小笠懸け後の宴会で舞曲を演じている。
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   ※常陸国奥郡: 現在の茨城県北部が当時の奥七郡で、概ね水戸市を含まない福島県寄りを差す。
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   ※義経と国務: 原文は「伊予守義顕為大将軍可令国務之由」、秀衡の没後は泰衡が国務を執ったから、
大将軍は国務の最高責任者を意味しない。秀衡の意図は義経の指揮下で鎌倉の侵略と戦え」だろう。ただし、伝聞の誤りか吾妻鏡の誤解かは判らないし、義経が指揮権を委ねられた形跡もない。鎌倉の圧力に屈した愚かな泰衡はどんな夢を描いたか。
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西暦1187年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治三年
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11月 5日 壬寅
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吾妻鏡
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鎮西守護に任じている 天野籐内遠景からの報告。御家人として所領安堵を受けた九州地区の武士について、去る 8月18日に頼朝下文の周知徹底を行なった。
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   ※頼朝下文: 2月20日に宇佐神宮関連を含め、鎮西在地の武士に所領管理に努めよと指示があった。
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西暦1187年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治二年
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11月10日 丁未
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吾妻鏡
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佐々木四郎左衛門尉高綱より報告。去年に東大寺大仏殿再建の棟材を探し求め遂に見付からなかったが、去る9月頃に周防国の森から長さ13丈 (1丈=10尺、13丈≒39.4m) の材を切り出す事ができた。偏に重源上人の信仰心による成果である。
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   ※重源上人: 東大寺再建の総指揮を執った 真言宗の僧 (Wiki) 。巨木を切り出した場所は佐波川上流の
徳地地区 (地図) 、現在は 重源の郷として静かな山村の観光拠点になっている。
材木の直径は 160cm!と伝わっており、海岸まで約 40km弱を流し下ったらしい。
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西暦1187年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治三年
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11月11日 戊申
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吾妻鏡
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献馬三疋が出発、使者の佐々木次郎経高が馬を伴って上洛する。他の騎乗者は下河辺政義と千葉四郎胤通
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一疋は黒 千葉介常胤、 一疋は葦毛 小山兵衛尉朝政、 一疋は鹿毛駮 宇都宮左衛門尉朝綱 の献上である。
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   ※千葉四郎胤通: 四郎胤信だろう。寿永二年 (1183) 12月に 上総広常が謀反の冤罪で誅殺された際には
広常の曽祖父 常家の弟 大須賀常継一族も連座して所領を没収、所領の一部である大須賀保(現在の佐原市南西に接する大須賀川流域、地図) が胤通に与えられ、大須賀胤通を名乗ったのが最初。詳細は「坂東平氏の系図」の右側部分を参照されたし。
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西暦1187年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治三年
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11月15日 壬子
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吾妻鏡
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昨夜 梶原平三景時が内々に言上した。
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重罪を犯してもいないのに拘禁されたのは功績を破棄されたと同様だと称して、畠山重忠が武蔵国菅谷館に引き籠もり謀反を企んでいるとの噂がある。一族が全て武蔵国に帰っているのも噂を裏付けている。
これは警戒するべきだと思う。
と。
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このため、今朝は 小山朝政下川辺行平結城朝光三浦義澄和田義盛を招集し、使者を派遣して仔細を問うべきか、または直ちに討手を送るべきか、を質問した。朝光がそれに答えて、
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重忠は昔から廉直で道理を弁え謀計など考えぬ武士である。今回の蟄居も代官の罪を伊勢神宮に詫びる意味での謹慎であり遺恨など抱いていない、謀反など論外、従って使者を送り考えを聞けば良い。と。
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同席の御家人らはこの考えに賛意を示した。頼朝は下川辺行平に、「菅谷へ出向いて重忠の考えを尋ね、異心なくば同道して参上せよ」と命じた。行平に辞退する理由はない、明朝出発すると答えた。
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   ※景時の讒言: 吾妻鏡は景時を 「悪代官」 の存在に描き続けて
いるから、彼の評価は別問題として、
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股肱の臣にさえ疑念を抱く頼朝を見ていると源氏の血脈が三代で絶えたのも理解できる。
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更に加えて、同席した小山朝政、結城朝光、三浦義澄の嫡男 義村、和田義盛、下河辺行平ら全員は元久二年 (1205) 6月に重忠を騙し討ちにした 二俣川合戦の軍勢に加わっている。
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鎌倉武士の思考回路を (言葉の上であっても) 真面目に考えるのが馬鹿々々しく思える。
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右画像は菅谷館跡に建つ重忠像。画像をクリック→ 菅谷館跡の詳細 (別窓) へ。
  大部分の遺構が南北朝時代以後のもので、鎌倉時代の匂いもないのが残念だが。

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西暦1187年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治三年
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11月21日 戊午
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吾妻鏡
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下川辺行平が重忠を伴って武蔵国から鎌倉に戻った。重忠は 梶原景時に向かって謀反の心を持っていない旨を述べ、景時はその意思がないのなら起請文 (誓紙) を差し出すべきである、と求めた。重忠は答えて、
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私のような勇者が武威に頼り他人の財物を奪って暮らすなどの噂が立てば最大の恥辱である。謀反を企てた噂の方がマシだが、源家を武門の主と仰ぐ他に二心はないにも関わらずこんな災厄に逢うのは運命とでも言うべきか。
私は心と言葉が異なる者ではないから起請文は出さぬ、言葉を疑って起請文を求めるのは奸物に対する際の措置である。私が偽りを語らないのは既に御存知のはず、この趣旨を言上せよ。
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景時は重忠の言葉を頼朝に伝えた。頼朝は是非を語らず、重忠と行平を御前に召して世間話に切り替えた。
暫くして奥に入り 掘籘次親家を介して行平に劔を与え、重忠を連れて来たのは大きな功績であると褒めたが、行平が 17日の菅谷館で仔細を語った際の重忠は激怒していた。
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どんな理由があって長年の勲功を放棄し反逆を企てるか、そんな疑いを受ける謂れはない。ただ讒言を信じて召喚し誅殺するために行平が派遣されたのだろう、この扱いは武門の恥だ。
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として腰刀を取り自刃しようとした。行平はその手を抑えて、
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貴殿は正直を旨として生き、私もまた誠を旨とする事は同様である。貴殿を殺す意図があれば、恐れず偽らずに相対する。貴殿は将軍 (平良文) の後裔で、は四代将軍 (藤原秀郷) の子孫である。
正面から戦いを挑むのもまた面白いが、貴殿の友人を選んで派遣したのは支障なく鎌倉に同道させたい思惑なのだと思う。
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この言葉を聞いた重忠は笑って酒を勧め、喜び合いながら酌み交わした。
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   ※秀郷と良文: 行平の父 太田行政は藤原秀郷の直系で、小山氏の祖。行政の嫡子が 小山 (太田) 政光
二男が行義、その嫡子が行平。政光の先妻 (出自は不明) が産んだ 朝政が小山氏を継ぎ、後妻 (八田宗綱の娘、頼朝の乳母の一人 寒河尼) が産んだ 朝光が結城氏の祖となった。
更に詳細は 「宇都宮、小山氏系図」を参照されたし。
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畠山重忠は坂東平氏の代表格 秩父平氏の傍流となる (こちらは秩父平氏の系図で) 。
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西暦1187年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治三年
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11月25日 壬戌
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吾妻鏡
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但馬国 (兵庫県北部) の住人山口太郎家任は弓馬の術に長け、木曽義仲に従った中でも勇猛さでは随一の武士である。義仲が滅びた後は義経に従い、義経が逐電してからは同じように各地を逃げ回っていたが、北條時政が捕縛して鎌倉に連行した。義仲と義経に仕えていた経緯を尋ねると、次のように答えた。
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私は源氏譜代の御家人である。父の家脩は六條廷尉禅室 (源為義) に忠義を尽くし数ヶ所の所領を得た。
平家が天下を支配していた時代は全てを奪われていたが、義仲が入京した寿永二年 (1183) 8月には旧領の安堵を得た。その恩に報いるため義仲に臣従しただけで、頼朝に異心を抱いてはいない。また義経に従った件は事実ではなく、虚偽の訴えである。
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頼朝は六條殿 (為義) の下文を所持しているかと尋ね、手を洗い清めて提出された保元三年 (1158) 2月の下文を判官代 藤原邦通に読ませた。内舎人 (内務省の文官) の筆跡である。頼朝は 「この下文以外の証拠を糾明する必要はない、本来の職を安堵する」 旨を直接申し渡した。昔日の事実を優先させる考えである。
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   ※為義の下文: 六條判官為義は 保元の乱 (別窓) 後の7月30日に
洛北の船岡山で斬首 (兵範記の記事、保元物語の刑場は七条朱雀) 、朝敵の扱いを受けた。その18ヶ月後、保元三年の下文発行は不合理になる。これは日付の誤認か。
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   ※七条朱雀: 為義の墓石 (、クリック→ 別窓で拡大表示) は
下京区朱雀裏畑町の権現寺 (地図) にあるが、元々は千本七条 (権現寺の東 300m付近) で、明治45年 (1912) の京都駅拡張工事の際に権現寺と共に移転したもの。
保元物語は「為義は七条朱雀で斬られ北白河の圓覚寺 (廃寺) に葬った」と書いているから、保元物語の記述に従って斬首された地に建てた慰霊墓と考えるのが妥当か。
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西暦1187年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治三年
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11月28日 乙丑
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吾妻鏡
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閑院 (里内裏) 修造に関わる褒賞は固辞せよとの 頼朝からの指示は、兼ねて 大江広元に届いている。
広元はその趣旨に従い (前もって) 、頼朝が辞退する旨の申し出をしたため特に措置はなかったが、去る13日の遷幸の際に 「継続して相模国と武蔵国の国司は重任したい」 との意向は奏上した。その件について、喜ぶ旨の院宣が今夕鎌倉に届いた。内容は次の通り。
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閑院修造の件、短期間に立派な建物を完成させたにも関わらず褒賞辞退の意向を聞いたため猶予する。
          十一月十六日     太宰権師 藤原 (吉田) 経房(奉)   謹上 源二位殿
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   ※二ヶ国の国司: 平家滅亡後に「関東御分国」(鎌倉に分け与えた、の意味) を将軍家が知行国主として
支配し国司を任命する権利を得た。従って頼朝は国衙領 (公領) から膨大な収入を得ていた事になる。
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文治三年 (1188) の 「関東御分国」 は三河、駿河、武蔵、伊豆、相模、上総、信濃、越後、伊予、豊後、下総の11ヶ国。相模国司は 大内惟義、武蔵国司は 平賀義信
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西暦1187年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治三年
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12月 1日 戊辰
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吾妻鏡
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降雪あり。雪景色に心惹かれた頼朝は山裾を散策しようと考えたが、突然の雷鳴に驚いて中止した。
今日、小山 (結城) 朝光の母 寒河尼 (下野大掾 (守、介に次ぐ国司の三等官で「目」の上位) だった故 小山政光の継室) が下野国寒河郡および綱戸郷を拝領した。女性ではあるが大きな功績があったためである。
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   ※寒河郡: 現在の小山市西部 (地図) 、思川 (おもいがわ) と巴波川 (うずまがわ) の間。東西 3km×南北
10km以上の 概略ルート地図(Aが綱戸郷)の肥沃な土地 (北の生駒から南の生井 (渡良瀬川) まで) 、綱戸郷は概ね寒河郡に含む。生井の思川東岸が 野木宮合戦場 (別窓) 。 巴波川の西は籘姓足利氏および庶流 佐野基綱の勢力圏、更に西は源姓足利氏の所領に含まれていた。
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   ※生駒郷: ここから約 10km北には下野国庁跡、更に思川の東には国分寺跡と国分尼寺跡が整備され、
更に 天平の丘公園 (公式サイト) が広がっている。下野国の、昔日の中枢エリアだ。
私の訪問記 下野国庁跡と国分寺跡と薬師寺跡 (別窓) も参考に。
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   ※政光の後家: 寒河尼 (八田宗綱の娘) は頼朝の乳母の一人で政光の後妻、結城氏の祖 朝光の生母。
政光の嫡男 朝政は先妻 (出自不明) の子で小山氏の家督を相続した。下野国で宇都宮氏や足利氏に次ぐ強力な武士団だった小山一族を頼朝の勢力下に結束させた実績が彼女の大きな勲功であり、寒河郡を得てから後は寒河尼と呼ばれた。
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西暦1187年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治三年
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12月 2日 己巳
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吾妻鏡
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行程七日と定めて飛脚を京都に派遣した。来る11日の法皇熊野参詣の費用として砂金を献上するためである。更に院の分国 ( 院の知行国、国司任命権を持つ国) である 美作 (岡山県北部) 、播磨 (兵庫県南西部) 、備前 (岡山県南東部) の諸国で武士が年貢押領を起こしたとの仰せがあり、文書の発行があれば命令を下す旨を言上させる目的がある。
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西暦1187年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治三年
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12月 7日 甲戌
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吾妻鏡
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梶原景時が霊鴨を献上。背と腹が雪のように白く、景時が守護に任じる美作国 (岡山県北部) から届いた。
頼朝はこれを吉兆であると考えて特に珍重した。三善康信が次のように語った。
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天武天皇が野上宮に遷座した時、鎮西が7三本足の赤い雀を献上され朱雀元年 (686) とした。翌年3月には備後国が白雉を献上、朱雀二年を白雉元年に改め、同15年には大和国が赤雉を献上して朱鳥元年になった。この時代には大友皇子の謀反を平定して (西暦672年の壬申の乱 (Wiki) 天下の乱れが鎮まった。これらが示すように、多くの瑞兆は西国から献上される例が多い。
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   ※霊鴨: 羽毛が白い鴨だから 「霊鴨」 か、特定の種類の鳥で羽毛が白いのかが判らない。いずれにしろ
単なるアルビノ種だとは思うけど。景時の任国が飛騨だったら「あ、冬毛の雷鳥か!」と思うところだね。
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   ※野上宮に遷座: 西暦673年に天武天皇が尾張大隅氏 (三重県桑名市から岐阜県美濃エリアを支配) の
不破私邸(不破郡関ヶ原町野上 (地図) と推定)に入った事を差す。
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西暦1187年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治三年
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12月10日 丁丑
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吾妻鏡
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橘次為茂が罪を許されて拘留を解かれ、北條時政の申し出によって富士郡の田所職に任じた。父の遠茂は治承四年には平家に味方し頼朝に敵対したため囚人として (北條時政に) 預けられていた。
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   ※富士郡: 現在の静岡県富士市と富士宮市の全域。田所職は国衙領の農地の管理などが担当の下級職員
で「下司職」に近い存在。年貢の収蔵にも関与するらしい。
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   ※橘遠茂: 富士川合戦直前の治承四年 (1180) 10月14日の 鉢田合戦 で甲斐源氏 武田信義 安田義定
軍勢に敗れて捕虜になった駿河目代 (その後斬首か) 。この合戦では 知多半島の野間義朝を謀殺した 長田忠致親子も討たれている(異説あり)。
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西暦1187年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治三年
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12月16日 癸未
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吾妻鏡
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上総介 足利義兼の正室 (政子の妹 時子)が重病になり、御台所政子が (鎌倉の) 義兼宅を見舞った。これを知って多くの人が集まってきた。夜になってやや回復、特に悪い病気ではないらしい。
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   ※北條時子: 古都 足利の伝承に拠れば 義兼の留守中に時子の
の腹が膨らみ、不義を疑われたため遺書を残して自殺したことになっている。
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右画像は時子の墓石と伝わる古い五輪塔。話の続きは右画像をクリックして古刹 浄土宗法玄寺 のページ (別窓) へ。
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この伝承には 鎌倉時代初期の堂塔を多数残している足利の 鑁阿寺 (別窓) の古井戸も登場するから併せて訪問を。
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鎌倉幕府滅亡までの約150年間を北條一族の支配下に置かれ続ける足利氏や新田氏の鬱屈した怨恨も見え隠れする。
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西暦1187年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治三年
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12月18日 乙酉
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吾妻鏡
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検非違使の 大江公朝が京都から到着した。自ら訴えたい事があって下向したという。関東の決裁を受けたいと 吉田経房を経て上奏し、5日に院宣が下されたのが経緯である。院宣の内容は次の通り。
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今年献上を受けた馬は劣悪だったため、来年は充分の注意を払うように求める。また献上の砂金には届いていない不足分があり、現在まで未着の状態は問題である、と。
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   大江公朝は翌年2月8日に多くの餞別を得て鎌倉を出発していた。特に問題は起きていないし馬の劣悪
と砂金の不足に関する吾妻鏡の記事は見られない。
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西暦1187年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治三年
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12月24日 辛卯
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吾妻鏡
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頼朝と若公 (後の 頼家、今年の9月で満5歳)が鶴岡八幡宮に参詣した。
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   吾妻鏡には嫡男 頼家の元服記事さえ載っていない。以後の記載には十分な検証が必要だ。
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西暦1187年
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82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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文治三年
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12月27日 甲午
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吾妻鏡
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   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示
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来年正月には二所詣の計画である。今日供奉人 (従う者) を選び出し、それぞれ潔斎せよとの命令を下した。
筑後権守 藤原俊兼平盛時の差配である。
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   ※二所詣: 鎌倉から相模路を通って 伊豆山権現へ、さらに 日金山を経由して 三島明神から 箱根権現
奉幣する恒例行事。いずれも頼朝に崇敬され庇護と寄進を受けていた神社で、頼朝は四回、 政子政子は二回、実朝は八回実施している。
ニ所は筥根権現と伊豆山権現を差すが、実際の巡拝は三嶋大社を含む三ヶ所である。
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吾妻鏡に拠れば、頼朝の最初の二所詣は文治四年
(1188)1月。二回目の建久元年 (1190) 1月20日には「初日、伊豆山権現に向かう途中で 石橋山合戦場 に立ち寄り、佐奈田与一と郎従豊三の討死を思い出した頼朝が涙を流した、不吉なので次回から順路を逆にした」との記録がある。
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箱根→ 三島→ 伊豆山のルートになった後年の二所詣の帰路で、三代将軍実朝が和歌を一首、詠んだ。
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   箱根路を わが越えくれば 伊豆の海や
          沖の小島に 波のよるみゆ

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建暦三年 (1213) 12月編纂の金槐和歌集 (実朝個人の歌集) が成立、その中にも入っている。
金は 「鎌」 倉の偏、槐は大納言&大臣の唐名、併せて 「鎌倉将軍の歌集」 になるのだが...
実朝が 「槐」 の官位を得たのは建保六年 (1218) だから、少々の違和感は残る。
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三嶋大社から伊豆山権現への峠道で 「伊豆の海の小島 (熱海沖の初島)」 が見えるのは十国峠から 日金山東光寺に下る峠道の下り際 (地図) で、まさにそのポイントに歌碑が建っている。
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一般的には 実朝が自分の立場を沖の小島に準 (なぞら) え、打ち寄せる波を「北條一族の権力」に見立てた嘆き、と読むらしいが...私には単純な風物詩に思えてしまう。
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