
. . 81代 安徳天皇 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . |
元暦元年 . 1月 1日 乙酉 . 吾妻鏡 . |
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吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ .. 卯の刻(早朝6時前後)に 頼朝が鶴岡八幡宮を参拝し黒鹿毛の神馬二頭を寄進、山上高光と小林重弘※らが これを曳いた。ついで導師別当法眼 圓暁による法華経の供養があり、右馬助以広が布施二包を贈った。 . ※小林重弘: 上野国緑野郡小林郷 (群馬県藤岡市小林、地図) を本領とする秩父平氏系で、秩父氏棟梁の 重綱(畠山重能の祖父)の三男重遠の三男 五郎重幸が小林一族の祖。重弘は当主重昭の弟。 .. 大蔵合戦で 悪源太義平に殺された 帯刀先生義賢 (義仲の父) が大蔵に進出する前に拠点とした 多古館が小林一族の拠点から 10km西に位置する。秩父氏の傍流である畠山重能は義平に協力して本家嫡流の 秩父重隆を殺した。 重能の嫡子 畠山重忠と小林重弘の間にも何らかの接点があった、と推測できる。 . 文治五年 (1189) 7月17日の条に「 (奥州合戦の) 北陸道大将軍は 比企能員と 宇佐美 (大見) 実政ら、 (越後から出羽を目指す) 下道を経て上野国の高山、小林、大胡、佐貫らの住人を引き連れて...」とある。 . 右馬助以広は同じく上野国多胡付近を本拠にした橘氏系の武士だと思うが詳細は不明。 ※ 吾妻鏡の第四巻は元暦元年と文治元年 (1184年1月〜12月) の事件として記載している。 例えば1185年は8月14日までが元暦元年で巻四、8月15日以後が文治元年で巻五となり 巻数の順序と年代は必ずしも一致しない。写本は巻の順序に従っているが 「吾妻鏡を読む」は該当する和暦年の月日の順序に従っている、という事。 .. ※年令: 平時子 4月に自殺 (享年59)、 平宗盛 37歳 4月に捕虜、 平知盛 4月に自殺 (享年32) 、 .
源頼朝 37歳、
源行家 40歳、
源範頼 34歳、
阿野全成 31歳、
源義経 25歳、 .木曽義仲 前年 1月20日に討死 (享年28) 、 . 北條時政 46歳、 北條政子 27歳、 北條義時 21歳、 上総広常 前々年12月に誅殺 (享年不詳)、 千葉胤正 43歳、 三浦義澄 57歳、 足利義純 8歳、 安達盛長 49歳、 大江広元 36歳、 畠山重忠 20歳、 梶原景時 44歳、 宇都宮朝綱 62歳、 土肥実平 59歳、 岡崎義実 72歳、 加藤景廉 28歳、 佐々木定綱 42歳、 藤原秀衡 60歳、 藤原泰衡 29歳、 藤原基成 63歳、 . 後白河法皇 57歳、 安徳天皇 4月に崩御 (享年6) 、 後鳥羽天皇 4歳、 九条兼実 35歳、 吉田経房 42歳、 土御門通親 34歳、 丹後局 33歳、 一条能保 37歳、 藤原定家22歳、 慈円 29歳、 法然 49歳、 (全て1/1時点の満年令、一部の年齢は推定) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
. . 81代 安徳天皇 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . |
元暦二年 . 1月 6日 庚寅 . 吾妻鏡 . |
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平家追討のため西海 (この場合は京都から西を差す) に派遣されている東国の兵は軍船も糧食の補給が絶えて戦意を失っているとの情報を受け、船を用意して兵糧米を送るよう関東の各国に命じた。 .そこへ西海の 範頼 (9月2日に京を出立) が昨年11月14日に派遣した飛脚が到着した。「食料が欠乏して軍兵が意欲を失ない、本国に逃げ帰ろうとする者も現れた」と。 その他 鎮西 (九州) の情勢についても報告があり、更に乗馬の手配の求めも書いてあった。 . 内容については懸念もあるが、取り敢えず雑色の宗光に書状を与え、在京中の定遠と信方を同伴して鎮西に赴けとの指示である。書状には鎮西での責務などが書いてあり、詳細は以下の通り。 11月14日の書状が1月6日に届いた。ちょうど飛脚を向けようとしたところで、内容は承知した。筑紫などで抵抗を受ける事もあろうが落ち着いて対応し、現地から憎しみなどを受けぬよう配慮せよ。馬の不足は承知しているが、上洛の機会を窺っている平家に奪われる恐れもあり、馬を送る手配はしない。
.. また八嶋 (屋島) に座す 安徳天皇や二位の尼 (生母平徳子) や女官の扱いには注意を払い、その旨を明らかにしておけば二位の尼が帝を伴って投降する可能性もある。 . 義仲は「やまの宮」 (比叡山の円恵法親王) や鳥羽の四宮 (恒恵法親王) を殺したため命運が尽きて滅亡し、平家もまた三條高倉の宮 (以仁王) を殺したため義仲と同様に滅亡する。同じ轍を踏んで軽々しく動く事のないように配慮せよ。 . 二位殿 (宗盛) は極めて臆病な人物だから自害などできる筈もない、生け捕りにして京に連行すれば噂が広まって良い結果になるだろうが、帝に関してはくれぐれも無事であるように将兵に徹底させねばならない。2月10日頃には (補給の) 船を送れると思う。 . 佐々木三郎盛綱は筑紫への途中で備前児島の敵を攻め落とした (藤戸の瀬の合戦) と報告が届いた。 重ねて、落ち着いた軍略を図る事や細かい指図をして疎まれる事のないよう、また兵糧不足について朝廷などに依頼しても確保はできないだろう。その他の細かいことは雑色に言い含めてある。また 千葉常胤は重要な人物だから宜しく配慮をするように。 . .
藤戸の瀬は、現在は水田地帯に変貌した。遠浅の海を騎馬で渡り、平家勢を拠点から追い落とした合戦場で計画が漏れないよう、浅瀬を教えた漁師を殺した伝承でも知られている。 .. 右は古戦場周辺の鳥観図 クリック→ 別窓で拡大表示 . 書状には内容の重複する追伸が念入りに書き込まれている。 頼朝の慎重さと見るか、一抹の不安と見るか。 . 小山一族や甲斐源氏の 石和信光や 加賀美長清も大切にせよ。 また鎮西の武士の降伏を受け入れ優遇すれば八嶋を攻める軍船を確保できるかも知れない。鎌倉の御家人として院宣に従い 範頼の指揮下で平家追討に加わり本領安堵を受けるよう説得せよ。鎌倉からは鎮西に範頼、四国に 義経を代官として派遣し※協力して平家を滅ぼそうとしている。鎮西の武士もその旨を弁えて勲功を挙げるように。 . ※義経戦線へ: 前年 8月6日に義経が左衛門尉 検非違使の任官を受け事後報告したため機嫌を損ねた頼朝 は義経の平家追討使任命を保留にしたが、九州の範頼は補給の不足などで苦戦しており義経を最前線に復帰させる必要に迫られている。 .. 一方で朝廷は平家が復活する恐れと治安の悪化に悩んで義経の在京を求めており、更に頼朝と義経の溝を鎌倉の内紛に繋げたい思惑もある。加えて範頼には追討使が二人体制に戻る事への不満もある。かなり複雑な状況だ。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
. . 81代 安徳天皇 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . |
元暦二年 . 1月と2月 . 吉記、玉葉 . |
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朝廷では義経が四国に向かう事について、京に留まったまま部下の派遣で済むだろう、などの議論があった。 .. また三日平氏の乱を生き延びた 藤原忠清が京に潜伏して機会を窺っているなどの噂もある。義経は 「九州の鎮圧が長引けば範頼軍の兵糧が不足して撤退し、占領地域の武士が再び平家に従って大混乱になる 」 と言っている。大将軍が下向せず郎従だけ派遣しても実績は期待できない...朝廷ではそんな議論を重ねていた。 . . 吉記 (Wiki)、吉田経房の日記) は、「義経軍は 1月10日に京を発ち四国を目指す」と。「玉葉」の 2月16日には次の記載がある。 聞くところに拠れば、藤原 (高階) 泰経卿 (後白河の近臣、当時 従三位) が使者として渡辺津※に向った。これは洛中警護に任じる武士の不在を危惧し義経出陣を制止する目的だったが、義経は申し入れを拒否した。 .泰経は既に公卿の立場であり、こんな小事でわざわざ義経の元に向うなど見苦しい限りである。 . ※渡辺津: 淀川河口の重要な港湾施設で渡辺党 (摂津源氏の郎党) がこの地域を本拠にしていた。 . | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
. . 81代 安徳天皇 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . |
元暦二年 . 1月12日 丙申 . 吾妻鏡 . |
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吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ .. 範頼軍が周防 (山口県東部) から赤間関 (下関) に入った。平家の拠点※を攻撃するため海を渡ろうとしたが兵糧も船もなく、数日間の不本意な逗留が続いた。兵の多くが故郷を恋しがり、和田義盛が隠れて鎌倉に帰ろうとした程だから全体の士気は惨憺たる状態だった。 . 豊後国 (大分県) の住人臼杵次郎惟隆※と弟の 緒方三郎惟栄は以前から源氏に心を寄せているとの噂があった。彼らに船を準備させて豊後国に渡り博多の津を攻める軍議が決し、範頼は一旦周防国に戻った。 . ※臼杵惟隆: 豊後で繁栄した大神氏庶流の惟基が臼杵に土着し、五代後の当主が臼杵庄 (臼杵市) の庄司 に任じた臼杵惟隆。弟の惟栄は宇佐神宮領の大野郡緒方荘の庄司となり、臼杵氏と佐伯氏らと協力して松浦党、菊池氏、阿蘇氏らを動員し 平家に反旗を翻した。
.. 寿永二年 (1183) に都落ちした平家は 8月中旬に九州に上陸し筑前の原田や山鹿らを味方にして勢力を回復、この頃に 重盛の家人だった惟栄を味方に付けるため説得に赴いたのが 平貞能だったが...既に 後白河は近臣の豊後国司 難波頼輔を下向させ、平家追討の院宣と国宣を緒方惟栄に渡しており、貞能の尽力が実を結ぶ事はなかった。 . 10月になると平家は太宰府を追われ、知盛の指揮で彦島 (地図) に拠点を移した。 大宰府に移るまで、安徳天皇を含む平家一門の主力は阿波国の田口成良に迎えられ讃岐国屋島に御所を置いていた。この田口成良が翌年の壇ノ浦で平家を裏切ることになる。 ※平家の拠点: 寿永二年 (1183) 7月25日 義仲に追われて都落ち 寿永二年 (1183) 8月27日 九州大宰府へ .寿永二年 (1183) 10月下旬 緒方惟栄に追われ、彦島を経て漂泊後に屋島へ 寿永三年 (1184) 1月下旬 勢力を取り戻して福原(一ノ谷、神戸)へ 寿永三年 (1184) 2月 7日 一ノ谷合戦に敗れて屋島へ 寿永四年 (1185) 2月19日 屋島合戦に敗れて彦島へ 寿永四年 (1185) 3月24日 壇ノ浦合戦で滅亡 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
. . 81代 安徳天皇 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . |
元暦二年 . 1月21日 乙巳 . 吾妻鏡 . |
. . . ※栗浜明神: 久里浜FTの近くにある 住吉神社 (地図) 。三浦一族草創の頃から水軍の守護神として崇敬を 受け、治承四年の衣笠落城の際には山頂の松に旗を立てて安房へ出航した、と伝わる。 .頼朝が参詣した背景には平家水軍との海戦を予想して加護を願った可能性もある。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
. . 81代 安徳天皇 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . |
元暦二年 . 1月22日 丙午 . 吾妻鏡 . |
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出雲国安東郷 (島根県安来町) を鴨社 (下鴨神社) の神領として寄進した。冬に開催する御神楽の費用を賄うための神領である。大江広元がこれを手配した。 . | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
. . 81代 安徳天皇 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . |
元暦二年 . 1月26日 庚戌 . 吾妻鏡 . |
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臼杵惟隆が 範頼の命令に従い 82艘の兵船を提供、更に周防国宇佐郡の住人 木上七遠隆が兵糧米を献上した。 .範頼軍は船を連ねて豊後国 (概ね大分県) に渡った※。同行の武士は次の通り。 . 北條義時、 足利義兼、 小山朝政と 五郎(長沼)宗政、 武田有義、 齋院次官中原親能、 千葉秀胤と 平次常秀、 下河辺行平と 四郎政能(政義)、浅沼広綱、 三浦義澄と 平六義村、 八田知家と 太郎知重、 葛西清重、 渋谷重国と 二郎高重、 比企朝宗と 四郎能員、 和田義盛と三郎宗実と四郎義胤、大多和義成・安西三郎景益と太郎明景、 大河戸広行と三郎、中條家長、 加藤次景廉、 工藤祐経と 宇佐美三郎祐茂、 天野遠景、 一品房昌寛、 土左房昌俊、小野寺道綱 . 老齢 (満67歳) の 千葉常胤は風波に耐えて進み、加藤景廉は病身を忘れて従った。下河辺行平は糧食も尽きたが甲冑を売って小舟を買い真っ先に船出した。「大将軍の船に便乗してでも甲冑を整えて戦場に向かうべき」と言う人に答えて「戦場では命を惜しまぬ、甲冑がなくても自由に進める舟で先駆けするのが本分だ。」と。 . 全ての将兵が艫綱を解いて船出した。範頼は「周防国の西は大宰府に接し東は京都に近い。状況については京都と鎌倉に連絡を取りながら作戦を行なえと 頼朝から命令を受けている。精兵の将兵を選んで周防国を守らせたいが、誰が良いか」 と。千葉常胤が「三浦義澄なら兵も多く士気も高いから適任だ」と答えた。 . その旨を義澄に命じると義澄は「先陣を務めるのが望みなのにここに留まってどんな功績を挙げられるのか」と拒絶した。勇敢な部隊を選んだのだと説得を続け、最後には義澄も納得して周防の海辺に陣地を構えた。 .
.※豊後の国へ: 知盛が率いる平家は前年10月に鎭西から追われ、 清盛が日宋貿易に利用していた彦島 (地図) を経て讃岐国屋島 (高松市) に拠点を移している。 .. 下関まで兵を進めた範頼軍は船がないため海峡を渡れなかったのだが「臼杵惟隆らが範頼の命令に従って 82艘の兵船を提供」したのだから懸案が解決した。では一気に彦島を攻めず豊後から博多 (大宰府) に移動した理由は何か。 . 範頼には太宰府に入って兵糧を確保し軍勢を再編して準備を整え、平家の退路を断つ明確な目的があった。宗盛、万事窮す! 画像をクリック→ 退路を遮断した範頼軍の動き (別窓) へ。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
. . 81代 安徳天皇 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . |
元暦二年 . 2月 1日 乙卯 . 吾妻鏡 . |
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吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ .. 範頼軍が 北條義時、下河辺行平、渋谷重国、品河清美 (大井実春の次弟) を先陣に豊後国 (大分県) に渡った。 今日、葦屋浦※で太宰少弐種直※と子息の賀摩兵衛尉らが兵を率いて戦いを挑んだ。行平と重国が走り回って矢を射掛け、敵も応戦したが重国に討ち取られた。行平は美気三郎敦種を討ち取った。 . ※葦屋浦の合戦: 現在の福岡県遠賀郡芦屋町 (地図) 、上陸地点と思われる豊後宇佐から約 60km。 九州北部で最大の勢力を持っていた平家与党が制圧され、周防の三浦軍と範頼軍に挟まれた知盛軍は彦島に孤立して動けない状態で、義経が屋島を制圧する。
.. 義経の華やかな動きに隠れているが、補給不足に耐えて鎮西を制圧し知盛を釘付けにした範頼の功績はそれなりに大きい。 ※太宰少弐種直: 清盛の郎党で妻は 重盛の養女、日宋貿易を監督した 原田種直を差す。この時点での 官職は太宰府第二等官。この合戦で弟の敦種が戦死している。 .. 種直は 2月の屋島合戦と 3月の壇ノ浦合戦に加わって捕虜となり、建久元年 (1190) に赦免され怡土庄 (糸島市、地図) に所領を得て御家人に任じている。この一帯は後年の元寇 (1274年と1281年) の際に激戦が展開され、元寇防塁跡 (Wiki) も残っている。 ※美気敦種: 第三代安寧天皇の末裔を名乗る中原氏の傍流か。三木、三池などを名乗る一族の武士で、 本領は三池郷 (大牟田市三池、地図) 、かつては炭鉱で栄えた地だ。 . | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
. . 81代 安徳天皇 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . |
元暦二年 . 2月 5日 己未 . 吾妻鏡 . |
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(実務官僚の) 典膳大夫中原久経と近藤七国平※が使節に再任されて上洛。平家追討の途中で各地の武士が兵糧の徴収と称して略奪を働くとの訴えが多発しているため、その停止を図るための派遣である。 .. まず中国近辺 11ヶ国 (長門、周防、出雲、伯耆、美作、安芸、備後、備中、備前、播磨、丹波) の騒動を鎮め次に九州と四国を鎮めよとの命令で、全ては院に奏上して指示を受け個人の判断を容れぬように、と。 . 現在は二人とも高い身分ではないが、久経は故 義朝の時代に功績を挙げ文筆に優れた能力を持ち、国平は勇猛で実直の定評があるためこの任務を与えた。命令に従い法に則った処理をする旨の起請文を提出した。 . ※近藤国平: 藤原秀郷から九代後の子孫で伊豆に土着していた武士。治承四年 (1180) の8月20日に伊豆 から土肥へ向かう頼朝主従の中に名前がある。この派遣には義経が屋島攻略で都を離れたため治安維持の目的もあったらしい。
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元暦二年 . 2月12日 丙寅 . 吾妻鏡 . |
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頼朝は伊豆国へ赴いた。これは新たに建立する寺※の材木を狩野山※で切り出す状態を確認するためである。
.. ※新たな寺: 南御堂 (大御堂、勝長寿院) を差す。前年11月26日に犯土 (地鎮祭) を済ませ、来る 2月19日 に着工式典を開催する。9月3日に義朝遺骨を埋葬し落慶供養は10月24日を予定している。大御堂ヶ谷鳥瞰 を参考に。 .※狩野山: この地名は既に失われた。狩野川上流域の 狩野城址周辺だと思う。狩野川に流れ込む支流の 各所には 「筏場」 など、川を堰き止めてから材木を一気に流し出した跡を示す地名も残る。 . | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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元暦二年 . 2月13日 丁卯 . 吾妻鏡 . |
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鶴岡八幡宮に鎌倉中の僧侶を集め、平家追討の祈祷のために大般若経の転読を行った。また朝廷でも 20人の僧による祈祷の秘法を行なった、と。
.. 今日、伊澤五郎の書状が頼朝の宿舎に届いた。「平家追討のため長門国 (門司周辺) に駐在しているが飢饉で糧食を確保できず、安芸国 (広島県) に撤退したい。九州を攻めたくても船がないので進めない。」と。頼朝は「食糧不足で退いたら成果は得られない。今は九州を攻めず四国の平家と合戦せよ」と返状を送った。 . ※伊澤五郎: 甲斐源氏棟梁 武田信義の四男 石和信光。密告と策略で兄らを蹴落として、やがて甲斐源氏 源氏の惣領権を掌握する。直系の子孫から「甲斐の虎」と称された武田信玄が現れる。 .. 伊豆守に任じた経緯から、北條時政によって伊豆修禅寺に幽閉した頼家の状態を監視の役目を担う事になる。光照寺と石和信光の項で伝承を紹介した。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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元暦二年 . 2月14日 戊辰 . 吾妻鏡 . |
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範頼が周防国に駐留していた時に頼朝が「土肥実平と 梶原景時に相談して九州の平家与党を調略せよ。彼らが協力するなら九州に入り、それが不調ならば好んで合戦をせず四国 (屋島) の平家を攻撃せよ」と命じた。 .. それなのに範頼は九州に渡ろうとして船がないから進めない、長門国に進むには食料が不足している、などと周防国に引き返した。将兵は命令に従わない状態だ、と。伊豆の頼朝に概略その内容を飛脚が伝えてきた。 . 頼朝は「この合戦を遂げずに帰洛して何の意味があるか、窮乏に耐えて補給を待て。故郷を追われている平家でさえ戦意を保っているのに、追討使が勇気を失ってはならぬ」と、範頼と御家人を叱咤する書状を送った。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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元暦二年 . 2月16日 庚午 . 吾妻鏡 . |
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吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
. 関東の軍勢が平家を追討するため讃岐国に向かう。義経が先陣として今日酉の刻 (18時前後) に出航した。 . その前日に大蔵卿 (高階) 泰経※が様子を確認すると称して義経の宿舎を訪れ、「私に兵法の心得はないが、大将軍たる者は先陣を競わず次将を派遣するのが常ではないのか」と諌めた。義経はそれに答えて「私は全ての合戦で命を捨てる覚悟をしている」と語って出発した。これこそが精強な軍人なのだろう。 . 対する平家は宗盛が讃岐国 (香川県) 屋島 (地図) に陣を構え、知盛は九州の味方と共に門司関 (彦島、地図) に陣を構えている。 . ※泰経の動き: 玉葉は朝廷側の動きを次のように書いている。 「大蔵卿泰経が使者として義経の出発を止めるため (出航地) 渡辺津に向かった。 .京の治安を守る武士を確保したい意図なのだが、説得はできなかった。泰経は既に公卿 (当時は従三位) であり、この程度の問題で義経のもとに出向くのは甚だ見苦しい。」 ※藍澤原: 足柄道が通じるJR御殿場駅近く。承久の乱 (1221年) 後に処刑された公卿 藤原宗らを祀る . ※比企朝宗: 比企尼の養子として比企氏を継いだ 能員の兄弟(弟か庶兄、娘が 義時正室 姫の前※)。 能員と共に頼朝御家人筆頭として仕えた。建仁三年 (1203) 9月の比企の乱に伴う死没者名簿には記載がなく、義時の舅として死を免れたのかも。その後の消息は不明。
.※姫の前: 元は頼朝が重用した御所の女官。義時が一年以上も口説き続け 頼朝の口添えにより建久三年 (1192) 9月に正妻に迎えた。義時が 「決して離縁しない」 と起請文を入れたほどの才色兼備と伝わる。義時の二男 朝時と三男 重時を産んだが、建仁三年 (1203) 9月の比企の乱の連座としてして離縁となり、上京して源具親 (三十六歌仙の一人) に再嫁。二男を産み承元元年 (1207) に死没する。
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元暦二年 . 2月18日 壬申 . 吾妻鏡 . |
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昨日 義経が渡部※から出航する際に突然暴風となり多くの船が損壊した。軍兵の船は全て出航を中止したが義経は「朝敵の追討使が任務を遅らせるのは恐れ多い、天候などに躊躇するな」と丑の刻 (午前2時前後) に 5艘の軍船で出航、同 6時頃に150余騎で阿波国椿浦に上陸※した (通常は三日の航程) 。 .. 呼び付けた阿波国の住人近藤七親家に道案内をさせて屋島を目指し、途中の桂浦で桜庭介良遠 (散位成良の弟) を攻めて城から追い落とした。一方の鎌倉では夜になって頼朝が伊豆から御所に還御した。 .
.※渡部: 淀川河口左岸の港として栄えた渡辺津 (Wiki) 、ここを 本拠にしたのが源融を祖とする嵯峨源氏末裔の渡辺党で平安末期には摂津源氏 頼政の郎党として活躍した。 .. 一族には 「髭切り」 で鬼の腕を斬り落した渡辺綱や宇治川で頼政の自刃を介錯した渡辺唱が知られている。 . 蛇足だが、真言宗の僧 文覚も出家前は渡辺党で遠藤盛遠を名乗っていた。源平盛衰記では彼が横恋慕の挙句に誤殺した袈裟御前の夫も渡辺党の渡 (わたる、盛遠の従兄弟) だけど...この話は鵜呑みにはできない。 ※椿浦に上陸: 屋島攻略の義経進軍は右図をクリックして 義経による屋島攻略ルート (別窓) へ。 屋島の合戦の詳細や伝承も同じページに記述してある。 . | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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元暦二年 . 2月19日 癸酉 . 吾妻鏡 . |
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頼朝が参席して南御堂の着工式が行われた。建立予定地の南側に仮屋を建て、御台所政子も式典を観るために訪れた。申の刻 (16時前後) に建築に任じる匠らに引出物として馬を与えた。 .. その後に熊野神社領の参河 (三河) 国竹谷荘と蒲形荘についての決裁があった。元々は開発領主の散位俊成が熊野神社に寄進した後に熊野別当湛快の所有となり、更に娘に譲渡された。 この娘は行快僧都に嫁し、その後に前 薩摩守 平忠度に再嫁した。忠度が一ノ谷で討死※したため没官領となり、頼朝が (後鳥羽院から) 拝領した経緯である。 . 領主である湛快の娘が前夫の行快に「関東に訴えて両荘園の所有権が承認され、将来は自分が産んだ行快の子に譲りたい」と頼み込んだ。こんな経緯で行快僧都が熊野から僧栄坊を使者として願い出たものである。 . 行範の子は源為義の外孫※なので源氏との縁も他とは異なる。その前提に加えて今回の訴えがあったため躊躇なくこれを承認した。一つには神を敬う頼朝の心の発露である。 . ※忠度の討死: 討ったのは猪俣党の 岡部忠澄だが、これは褒められるような戦いではなかった。 忠度の腕塚と胴塚が二ヶ所づつあるのも面白い。詳細は一ノ谷合戦のこちら (別窓) で。 .※為義の外孫: 為義の末娘 (義朝の妹) が十九代熊野別当の行範に嫁した 鳥居禅尼※。彼女が行範との 間に産んだ子が後に第二十二代別当となる行快、つまり為義の外孫である。 .※鳥居禅尼: 以仁王の宣旨を全国の源氏に届けた 行家 (義盛) は姉の嫁ぎ先 (当時は熊野新宮 速玉大社の 社僧 行範) で成長したため、当初は「新宮十郎」と名乗っていた。平治の乱の際は兄 義朝に従って敗れ、早めに逐電して姉の元に逃げ込み20年間を過ごしている。
.. 一方で鳥居禅尼は平家追討に関する協力など様々な貢献により鎌倉幕府に厚遇され、熊野三山の要職に就いた子や孫を統率して一族の繁栄に大きく寄与している。 . 義経率いる軍勢は夜を徹した進軍で阿波国から 中山 (大坂越え) を経て讃岐国に入り、辰の刻 (8時前後) に屋島内裏の対岸に着き牟礼と高松の民家を焼き払った。これによって 安徳天皇は内裏を出て 宗盛ら平家一族と共に船に乗り海上へ逃れた。 .義経は 田代信綱、金子家忠、同じく余一近則、伊勢能盛 (義盛) らを従えて渚に駆け付けた。 .
漕ぎ寄せた平家の軍船と浜辺の源氏は 矢戦を交わし、その間に 佐藤継信と 佐藤忠信と後藤実基と子息の基清らは内裏および周辺の宿舎を焼き払った。平家側の越中盛継と上総忠光らは船を降りて内裏の門前に布陣して戦い、義経の家人佐藤継信が射取られた※。
. 義経はひどく悲しみ、僧に貰った袈裟に遺骸包んで千株松の根元に埋葬した。法皇から拝領した名馬の大夫黒を僧に与えて菩提を弔うように頼んだのは郎党を大切にする美談である。 . 右は洲崎寺に残る佐藤継信の墓 (クリック→ 別窓で拡大表示) . ただし実際の墓は石塔の陰に隠れた小さな五輪塔である。 また教経は既に一ノ谷合戦で討死しており、継信が受けたのは別人が放った矢と思われる。 . 同じ日、住吉神社の神主が上洛して奏聞。去る 16日に恒例の神楽を催した際に子の刻 (深夜0時前後) に鏑矢が神殿から西を目指して飛び去った、平家追討の祈祷に伴う霊験だろうか、と※。 . ※戦況について: 吾妻鏡の記載が正しければ 義経の軍勢はわずか 150騎、後続する源氏本隊は 2日後の に到着だから、平家の指揮官が杜撰な 宗盛ではなく 沈着な 知盛だったら源氏の寡兵を見抜いて戦況が変わった可能性がある。歴史に可能性の話をしても意味はないが。 .. この合戦では両軍とも特筆するほどの?害は出さなかった。平家は兵を纏めて瀬戸内海を西へ逃れ、厳島を経て彦島の知盛勢と合流し滅亡へと歩みを進める。 ※継信戦死: やがて鎌倉に追われる身になった義経は忠信も失い、奥州平泉に落ちる途中で兄弟の父親 である 佐藤庄司基治に仔細を伝えるため飯坂の 瑠璃山医王寺を訪れる。 .. 佐藤基治夫妻の物語は兄弟の嫁に関わる悲話と石那坂の合戦と 阿津賀志山の合戦を経て平泉文化の滅亡、そして芭蕉が辿る「奥の細道」へと続く。 ※住吉の霊験:「玉葉」も同じ内容を書いている。平将門追討の際にも住吉大明神が力を貸す同様の霊験 があった、徳を軽んじる時代ではあるが神はまだこの国を見捨てないか、と。 . | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
. . 81代 安徳天皇 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . |
元暦二年 . 2月21日 乙亥 . 吾妻鏡 . |
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屋島を追われた平家軍 (の一部) は讃岐国志度寺に籠った※。義経は 80騎を率いて攻撃し、平家の家人田内左衛門尉が降伏した。また 河野通信が 30艘の軍船を揃えて義経の援軍に加わった。 . 義経は船で阿波国に移動した。都には熊野別当 湛増が源氏に味方するため船で四国に渡ったとの噂が広まった。 . ※志度合戦: 屋島合戦場の約 5km南東が志度寺。平家物語の記述を含め た詳細は 志度合戦の項で述べておいた。
.※義経阿波へ: 熊野水軍および河野水軍と打ち合わせるためか。義経は 既に平家を追尾して彦島を襲う戦略を立てている。 .右は熊野速玉大社々頭の 武蔵坊弁慶木像。クリック→ 別窓で拡大表示 .伝承では熊野別当 弁心 (実在せず) の子、21代熊野別当湛増の子、など とされているが、いずれもかなり捏造っぽい。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
. . 81代 安徳天皇 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . |
元暦二年 . 2月22日 丙子 . 吾妻鏡 . |
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梶原景時が率いる東国の武士が 140余艘で屋島の磯に漕ぎ寄せた※。
.. ※ 義経の阿波渡海から 4日後で既に合戦は終っている。笑われて当然だが笑われた景時は遺恨を抱く。 . | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
. . 81代 安徳天皇 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . |
元暦二年 . 2月27日 辛巳 . 吾妻鏡 . |
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夜、平家追討を祈願するため賀茂神社で宮人曲の舞※などの神楽が演じられた。 .. ※宮人曲の舞: 余談ですが。創建当初には現在の大石段の下だった鶴岡八幡宮は建久二年 (1191) 3月4日 に小町大路を火元とする大火で堂塔の全てが灰燼に帰し、町屋からの延焼を防ぐ目的もあって本殿は石段の上に造成した平場に再建され現在の姿になった。
.. 竣工して遷宮を催した11月21日には 「宮人の曲 」 を演じた記録が吾妻鏡に残っている。鶴岡八幡宮では毎年12月16日に 御鎮座記念祭 (公式サイト) が行われ宮人曲の舞が奉納される。(新暦に換算すると12月9日で少しズレてるけど、ね) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
. . 81代 安徳天皇 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . |
元暦二年 . 2月29日 癸未 . 吾妻鏡 . |
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加藤景員入道が御所に参上し書状一通を御前に置き涙を流した。息子の 景廉が 範頼に従って九州で転戦し、先月周防国から舟で豊後国に渡る際には病に耐えて従った、と伝えてきたのがこの書状である。
. 主君のため戦場で死の危険に耐え、今また病に侵されて危機にある。もう逢えないかと思うと老いた自分には生きる甲斐がない、と。 . 頼朝も涙を拭いながら書状に目を通し、「側近として私の近くに控えるよう厳命したのに天下の大事だからと従軍した。例え病気で命を落としても戦った末の討死として扱おう。」と語った。 . 右は修善寺駅に近い狩野川沿いに残る加藤一族の墓所。 画像をクリック→ 所領 牧の郷と加藤氏館跡の風景 (別窓) へ。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
. . 81代 安徳天皇 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . |
元暦二年 . 3月 1日 甲申 . 吾妻鏡 . |
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. . 81代 安徳天皇 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . |
元暦二年 . 3月 2日 乙酉 . 吾妻鏡 . |
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昨夜の飛脚は 渋谷重国からの使者だった。今年の正月 (1月26日) に 範頼が周防国 (山口県東部) から豊後国 (大分県) に渡った際に一番乗りを果たし、 (2月1日に) 原田種直を討った旨の報告である。
.. 今日、朝廷公領の山城国の荘園 (畑地) に関し、従来の管理者だった 悪七兵衛景清※の影響を排除して刑部丞信親が差配せよと直接指示を与えた。 . ※景清: 俗に悪七兵衛。藤原秀郷の末裔を名乗る平家の武士で剛勇の伝説が多い。壇ノ浦合戦後に捕虜 になり、八田知家に預けられて没したらしい。姓は藤原、平、伊藤とも。
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. . 81代 安徳天皇 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . |
元暦二年 . 3月 3日 丙戌 . 吾妻鏡 . |
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木曽義仲の妹※は 御台所政子の猶子 (一般的には相続権のない養子) となり美濃国の一村を与えられている。
.. その後に上洛し、身辺の悪党が 「政子の息女」 の権威を利用して捏造した書類で年貢の横取りや公領の横領などを企んだ、その悪事を止めさせて一党を捕縛しこれ以上の紛争を避けるため物狂い (狂気) を装って鎌倉に呼び寄せるよう、近藤国平と在京の御家人に (内々に) 指示を与えた。 .
※義仲の妹: 義仲と同じ様に父は 源義賢 (同母か異母か不明) の
宮菊姫を差すが、義賢が没した1155年は政子生誕 (1157年) の二年前なので、政子より年長の宮菊姫が猶子になるのは不自然、従って義仲の娘と考えるべきとする説もある。
.. 義仲の妹なら30歳程、娘なら12〜15歳か。政子は彼女の境遇※を特に憐れみ、義仲所縁の信濃の御家人に 「諸事、配慮せよ」 との指示を与えている。 . これが 大姫と 義高の悲劇に端を発した政子母娘の配慮だと考えれば、義高の姉妹説も頷けるか。 . 中山道馬籠宿に残る資料や伝承に拠れば、宮菊は政子の口添えで遠山荘の一部を与えられ馬籠の一角に法明寺 (既に廃寺) を建てて一族と義仲の菩提を弔いつつ生涯を送った、と伝わる。街道から少し離れた農地が法明寺の跡、斜面に並ぶ七基の五輪塔が彼女と従者の墓と伝わっている (地図) 。 右画像をクリック→ 別窓で拡大表示 . 馬籠には島崎藤村の実家の菩提寺 永昌寺もある。藤村は神奈川県の大磯で没して近隣の墓に葬られているが、分骨や遺髪は永昌寺に葬られているという。 ※境遇とは: 義仲の父 帯刀先生 源義賢は 頼朝の父 義朝の命令で悪源太義平 (頼朝の異母兄) に殺され、 殺され、義仲は頼朝が派遣した甲斐源氏の 一條 (武田) 忠頼義仲の嫡男 清水冠者 義高は頼朝が送った郎党に殺されている。義仲親子の三代が頼朝親子に殺されているなんて、政子じゃなくても異常な出来事だと考えるだろう。 . | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
. . 81代 安徳天皇 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . |
元暦二年 . 3月 4日 丁亥 . 吾妻鏡 . |
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畿内と近国での略奪などを鎮めるため、既に (2月5日に) 実務官僚の中原久経と近藤七国平を派遣したが、在京する武士の狼藉が続いている、と。鎌倉の意図的な行為と疑われないため子細を説明する書状を送った。 .武士が上洛しているのは朝敵追討のためで、朝敵がいなければ武士が上洛する必要もなく、上洛しなければ狼藉事件も起きないでしょう。海を隔てた地に逃れた平家の追討は今だに終っていません。 .. 転戦する武士たちによる再三の狼藉も判っており、追討が済んでから相当の措置を行なうつもりです。既に代官二名を派遣しておりますから不心得者がいれば院宣に従って処理をいたします。頼朝の権威を利用する武士の違法行為を止めるつもりでいる事をご了解ください。 籘中納言殿 頼朝 . ※籘中納言: 平治の乱以前から頼朝の知己で「廉直な貞臣」と評した藤原 (吉田) 経房。元暦元年 (1184) に 頼朝の推薦で権中納言に昇進し、鎌倉と朝廷の仲介役として活躍している。 .. 最終的には正二位 権大納言となり、仲介業務は正式な組織である「関東申次」に発展する。ここでの遣り取りが後白河院への言上を吉田経房が仲介した最初、という事になる。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
. . 81代 安徳天皇 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . |
元暦二年 . 3月 6日 己丑 . 吾妻鏡 . |
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加藤景廉の病気に関して頼朝は特に心配している。よく養生し回復したら早急に鎌倉に帰還させるよう範頼に指示し、景廉にも見舞いの書状を送った。御所の馬 (大庭景義の献上) 一頭を送りこの馬に乗って帰れ、と。 .大江広元がこれを差配した。 . ※加藤景廉: 挙兵以来の側近。山木合戦で 平兼隆の首を獲ったのが弱冠 15歳の初陣。寿永元年 (1182) 6月7日には由比ヶ浜の宴会で失神するなど病弱気味だったが、仁田忠常の追討や 安田義資の追討など荒っぽい仕事も再三処理している。 .. 父の景員から本領の狩野牧 (伊豆牧之郷) を相続した長兄の 光員は西面の武士※に任じていた関係もあり、承久の乱 (1221) で後鳥羽院に味方して失脚、牧之郷は美濃国遠山郷の所領と共に景康の領有となる。 . ※西面の武士: 院の警備などに任じる武士集団。鎌倉の出先機関 京都守護職と朝廷の間に小さな紛争が 散発した正治二年 (1200) に後鳥羽上皇が組織した私兵の強化が最初らしい。 . | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
. . 81代 安徳天皇 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . |
元暦二年 . 3月 7日 庚寅 . 吾妻鏡 . |
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東大寺の再建について、特に丁寧な工事を施すよう南都の衆徒に書状を送り、再建を指揮する重源上人に多くの寄進を行なった。米を一万石 (1,000トン以上) 、砂金を一千両 (約 20kg?) 、上絹 (精錬した絹) を1,000疋 (一疋は巾66cm×18m)である。御書の内容は次の通り。 .東大寺は平家の暴虐※によって焼失した。仏像も灰となり多くの僧侶が没したのは比類なき悪行で心から嘆くものである。今となっては昔と同様に国家鎮護を祈れるよう修復したいと思う。乱世ではあるが法皇も朝廷による統治と仏法による繁栄を共に望まれていると思う。朝敵を滅ぼすまで充分な協力はできないが、東大寺復興については出来るだけ尽力しようと考えている。 前右兵衛佐 源朝臣 ..
※東大寺炎上: 治承四年 (1180) 12月、平重衡率いる平家軍
が南都を攻め、その結果として東大寺堂宇の大部分と興福寺の多くが被害を受けた「南都焼き討ち」の復旧工事である。
.. 争乱により大仏殿も焼け大仏像も溶け落ちたばかりか、戦闘員だった衆徒 (僧兵) を含めて僧侶や民衆数千人が死んだ、と伝わる。 . 東大寺に限って詳細を挙げれば、西隅の転害門と東隅の二月堂と三月堂 (法華堂) を除く全ての堂塔が灰燼に帰した。 . 右上は東大寺全域の鳥瞰画像 クリック→ 別窓で拡大表示 . 大仏開眼供養は文治元年 (1185) 8月28日に (一部未完成) 、頼朝が参席した大仏殿落慶供養は建久六年 (1190) 3月だが、全て完成した総供養の開催は建仁三年 (1203) なる。 . 大仏の鍍金完成のために 藤原秀衡が五千両 (100kg以上) の金を寄進した事、鋳造を担当した宋人の陳和卿と頼朝のやり取りの事、東大寺内部の権力争いで陳和卿が追放され大勧進職 (総指揮) の重源も影響力を失なう事、大仏鋳造 30年後の建保四年 (1216) にその陳和卿が突然鎌倉に現れる事、様々な事件が東大寺再建からスタートしている。 ※興福寺衆徒: 畿内周辺で朝廷の保護を受けた七大寺は 興福寺 (法相宗) 、東大寺 (華厳宗) 、 西大寺 (真言律宗) 、薬師寺 (法相宗) 、元興寺 (真言律宗) 、 大安寺 (高野山真言宗) 、 .法隆寺 (聖徳宗) である (各、公式サイト) 。興福寺は 藤原鎌足 (Wiki) の病気平癒を祈った妻の鏡大王が京都山科の私邸に建てた山階寺が前身で、藤原一族の氏寺でもある。 . 当初の清盛は平和的な解決を模索し、妹尾兼康に軽装備の兵 500人を付けて南都に派遣したが、興福寺の大衆は60余人を殺して首を猿沢の池の岸に並べた。これが結果的に焼き討ちを含む騒乱に発展したらしい。宗教者が平和を愛しているとは限らない、という事。今も昔も、平和どころか 権力と財力を追い続ける輩も存在する。 . 権力と金に尻尾を振り、海外派兵を支持したのが「平和を守る」公明党と創価学会だ。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
. . 81代 安徳天皇 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . |
元暦二年 . 3月 8日 辛卯 . 吾妻鏡 . |
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義経の飛脚が西国から到着して報告。去る2月17日に僅か150騎を従えて暴風の中を渡部 (渡辺津) から出航し翌日卯の刻 (6時前後) に阿波国に上陸して平家に従う敵兵を撃ち破った。 .. 使者は屋島での戦況を確認せずに19日には (鎌倉に向けて) 屋島を出立したが播磨国 (兵庫県) で屋島の方角に立ち昇る黒煙※が見えたから合戦は既に終わって、内裏などが焼け落ちたのだろう、と。 . ※屋島の黒煙: 兵庫と屋島の距離は直線で約 90kmだから黒煙の目視は無理だと思う。ところで、阿波 から播磨国へ戻る飛脚は舟を利用したのかな、それとも淡路島を縦断したのだろうか。 . | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
. . 81代 安徳天皇 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . |
元暦二年 . 3月 9日 壬辰 . 吾妻鏡 . |
. . 平家の根拠地が近いため警戒を怠らずに豊後国 (大分県) に入った。住民が殆ど逃げ出しているために兵糧の確保ができず、和田義盛兄弟、大多和次郎、工藤祐経ら御家人が帰国を主張するのを強く慰留して海を渡った。改めて指示命令を徹底して頂きたい。 .. また熊野別当 湛増が 義経の説得に従って追討使に任じて讃岐国に渡り、更に九州へ進むとの情報がある。四国に関しては義経、九州に関しては私 範頼が命令を受けているのに湛増などが選ばれては私の面目が立たないだけでなく、他に将士がいないように思われて恥辱である。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
. . 81代 安徳天皇 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . |
元暦二年 . 3月11日 甲午 . 吾妻鏡 . |
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元暦二年 . 3月12日 乙未 . 吾妻鏡 . |
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平氏追討のため伊豆鯉名と妻良※に準備した軍船 32艘に兵糧米を積み込んだ。早急に出航せよと指示を下し筑後権守 藤原俊兼がこれを差配した。 ..
※鯉名と妻良: 共に南伊豆の良港。妻良は伊豆半島先端西側の
松崎寄り、鯉名 (小稲) は東側の下田寄り。 .. 現在の南伊豆町一帯には伊勢神宮領の蒲屋御厨があり、平家の郎党が管理している。 . 頼朝が挙兵直後に御厨庄司で伊豆目代の史大夫知親の権限を剥奪、10月に富士川の 平維盛軍に合流を試みた 伊東祐親を鯉名で拘束した。 . 遠征中の鎌倉軍に菱食の補給が必要なのは昨年末から解っている筈で、頼朝の対応は遅すぎると思う。また伊豆ではなく、既に制圧している駿河や遠江 (現在の静岡中部と西部) から送る手筈を整える方がリスクも少ない。 . 勝長寿院建設の材木手配や平重衡の応対などへの配慮ではなく、戦線への補給に費やす配慮があって然るべきだった。一将功成りて万骨枯る、ほどではないけれど。 . 下田一帯は伊豆沿岸から外海に出る海域で、冬の強い西風を避けて燃費を節約すべく西進のタイミングを図る「風待ち港」でもある。 多くの「風待ち船」が停泊する光景は現代も冬の下田の風物詩だ。 . 右画像は白浜沖に停泊中の風待ち船。画像をクリック→ 別窓で拡大表示。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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元暦二年 . 3月13日 丙申 . 吾妻鏡 . |
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対馬守親光※は頼朝の外戚である。対馬に赴任していた際に襲撃される危険があったため迎えて保護するよう書面を以て範頼の許に指示した。内容は以下の通り。 .西海山陽道諸国の御家人に下す。対馬前司(親光)が上京する道中に危険や支障のないように配慮せよ。
.. ※対馬前司親光: 国司の藤原 (宗) 親光を差す。血縁関係は確認できないが、頼朝の生母 由良御前が熱田 神宮の大宮司 藤原季範の娘だから、多分その系累だと思う。
.. 平家の都落ち後に親光は上京を図ったが平家の勢力が九州を制圧しており、対馬を出られなかった。更に 宗盛の招集を拒否して追討軍を派遣されたため高麗へ逃げ、この年の 6月に対馬に戻っている。 史料に従えば 3月時点での親光はまだ対馬に戻っていない事になる。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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元暦二年 . 3月14日 丁酉 . 吾妻鏡 . |
. . . ※鬼窪行親: 武蔵七党の一つで埼玉県白岡町を本拠とする野与党の武士。JR東北線の白岡駅南西にある 寿楽院の一帯 (地図) に鬼久保姓が多く残り、200m北の久伊豆神社が野与党の守護神社だったと伝わっている。
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元暦二年 . 3月18日 辛丑 . 吾妻鏡 . |
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建造中の南御堂の屋根から観能という名の大工が転落したが、不思議なことに特に怪我を負わなかった。 .頼朝は (寺の造営が) 神仏の心に叶うからと考え、更に信仰を深めた。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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元暦二年 . 3月21日 甲辰 . 吾妻鏡 . |
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義経は平家追討のため壇ノ浦に出発を計画したが雨天のため延期した。周防国庁の船所奉行を務める五郎正利が数十艘の船を献じたため (鎌倉殿の権限を代行して) 御家人にする旨の文書を与えた。 . | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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元暦二年 . 3月22日 乙巳 . 吾妻鏡 . |
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義経は数十艘の軍船を従え壇ノ浦に向けて出航した。昨日から乗り組む武士の配置などの手筈を整えており、これを聞いた 三浦義澄は大島 (周防大島町、地図) から合流した。義経は「あなたは既に現地で門司を見ている。案内し先陣を務めて欲しい」と語り、義澄はそれを受け壇ノ浦の奥津※ (平家の陣まで 30余町、約 3km) に進出した。 .. 平家軍は軍船に乗り込んで彦島を出発し、赤間関を過ぎて田の浦※に進んだ。この時の平家は彦島を出港して赤間関を過ぎ田ノ浦 (の沖) にあった。 . ※奥津: 千珠島と満珠島の古称 (地図) を差す。田ノ浦は千珠島から約 4km南々西、対岸北九州市の田野 で、一説に範頼軍の一部は田野浦海岸一帯に展開して平家の上陸と戦線離脱を防ぎ退路を断った、と伝わっている。
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. . 81代 安徳天皇 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . |
元暦二年 . 3月24日 丁未 . 吾妻鏡 . |
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吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ .. 長門国の赤間関 壇ノ浦で源平の軍勢が三町 (300m強) を隔てて向かい合い合戦した。平家軍は 500余艘を三手に分け、山峨兵籐次秀遠と松浦党らを指揮官として源氏の軍勢に挑んだ。 . 丑の刻※ (13〜15時) になって平家の敗北が明らかになり、二位の尼 (清盛の妻 時子) が宝剣 (天叢雲剣) を持ち按察局 (時子の侍女) が八歳の先帝 (安徳帝) を抱いて共に入水した。 . 同じく入水した建礼門院 (清盛の娘 徳子、安徳帝 生母) は渡辺党の源五馬允が熊手に掛けて引き上げ救った。按察局も同様に引き上げられたが、安徳帝と二位の尼は海底に没したままだった。 . 若宮 (土御門帝の異母兄) は存命している。前中納言 教盛は入水、前参議経盛は一旦上陸して出家した後に戻って入水、三位中将資盛と前少将有盛朝臣らも入水した。前内府の宗盛と右衛門督清宗 (宗盛の嫡子) は伊勢三郎能盛 (義盛) が海から引き上げて生け捕った。 . その後に兵が御座船に乱入し賢所 (八咫鏡) を見ようとして両眼が眩み心神喪失になった。大納言時忠が制止し兵はその場から退去した。賢所は天皇家の化身であり乱世の今こそ神威を顕す。ただ仰ぎ敬うべし。 .
※ 合戦の詳細は「鎌倉時代を歩く 弐」の平家一門の滅亡 (別窓)
に地図と画像と説明を掲載してある。参照されたし。 .※合戦の時刻: 平家物語 巻十一 壇の浦合戦 の記述から。 . 三月二十四日卯刻 (早朝 5〜7時の間) 豊前国 .門司 赤間関で矢合わせ (開戦) と定めた。 . 一方で義経の報告を確認した 九條兼実は日記 玉葉の 4月4日に 次のように書いている。 . 去る3月24日に長門壇ノ浦で 午刻 (12時前後) から申刻 (16時前後) に合戦、多くを討ち取り あるいは生け捕りにした。 . 正確に書くと 義経の報告が 後白河院に届き、その報告を受け取った院の近臣が兼実に内容を伝えたもの。従ってフィクションの多い平家物語よりは信頼できる。 ※当日の潮流: コンピュータ解析に拠れば元暦二年 3月24日は小潮、合戦の推定12時〜16時は潮流が 最も遅い時間帯で流速は1〜2ノット (時速1.8〜3.7km) 、源平ともに 最も潮流が早い早鞆瀬戸を避け、更に潮流が遅い時間帯を選んで決戦に臨んだ、と考えられる。 .. 午後になって平家軍の敗色が濃厚になり、夕刻には東からの緩い潮流に乗って舞台は壇ノ浦へ、残兵の殺戮と名のある武者の捕獲に進んだ。手漕ぎの和船同士の混戦では潮流が勝敗に与える影響など些少、結局は戦力の寡多と戦闘意欲の強弱が結果を左右する。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
. . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . |
元暦二年 . 3月27日 庚戌 . 吾妻鏡 . |
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土佐国介良庄の僧 琳猷上人が関東に参上した。去る寿永元年に頼朝の同母弟 土佐冠者 源希義が蓮池権守家綱に討ち取られて死骸を放置された時、源氏に忠義を尽くそうとする者も平家による後難を恐れて葬式の手配もしなかった。しかしこの僧は師弟の縁を重んじて塩田郷に墓所を造り供養を怠らなかった。 .. 更に遺髪を納めた袋を首に掛けて鎌倉を訪れ、走湯権現 (伊豆山) の住僧良学を介して子細を申し出たため頼朝と対面した。上人の訪問が死んだ弟との再会に思えて歓待した、と。 . ※希義の死没: 頼朝の 5歳下で平治の乱では元服前の 9歳、知多の野間で 義朝が死没した後に藤原範忠※ が駿河国香貫 (現在の沼津市) ※から引き渡し、土佐流罪となっていた。 .. 治承四年の頼朝挙兵に伴って平家が発行した追討令を避け、源氏に味方する夜須荘 (高知県香南市) の 夜須行宗を頼る途中で平家の武士に討ち取られた。寿永元年 (1182) 9月25日の詳細を参照。実際の殺害は頼朝の挙兵直後と考える説もある。 . 香貫は大岡荘 (元々の本家は藤原師通で領家は 平頼盛、荘官が牧宗親) の一部で、大岡荘は大岡牧や大野牧と同一か、或いは含んでいたと思われる。 ※藤原範忠: 熱田大宮司 藤原季範 (三女の由良が頼朝と希義の生母) の長男。父季範と不仲で大宮司職は 五男の範雅が継承、範忠が大宮司を継いだ季範没後の久寿二年 (1156) だった。 .希義が香貫にいたのは頼朝助命と同様に大宮司家と大岡荘の領家平頼盛の関係らしい。 ※牧宗親: 北條時政の後妻 牧の方の兄または父、平頼盛の家臣として大岡牧荘官を務めた。 愚管抄に拠れば武士ではなく、下級貴族 (官職は大舎人允、七位下相当)) だったらしい。 .. 頼盛の母 宗子 (池禅尼) の弟 藤原宗親と同一人物と考える説があり、事実ならば時政の所領近くを頼朝の流刑地に定めて時政を監督者に任じた理由の裏付けになりそうだ。 ※大岡荘補足: 嘉保二年(1095) の宣旨により、藤原師通の命を受けた 義家の次弟 美濃守源義綱が美濃 の 延暦寺荘園を公収、一人の僧を殺したため延暦寺と 日吉社による強訴に発展した。 .延暦寺は朝廷を呪詛し、4年後に師通が 38歳で死没、延暦寺は神罰と喧伝した。 . 師通の母 (源師房の娘。師房は村上天皇の皇子 具平親王の子) は和解を願って日吉神社の分祀を請願して 日枝神社 (山王社) を建立し、大岡荘の八町八反を寄進した (各、外部サイト) 。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
. . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . |
元暦二年 . 3月29日 壬子 . 吾妻鏡 . |
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頼朝から平家追討の報告があり、追討軍の将兵を励ます院の御下文を豊後国の武士宛に発行した。 .しばらく前に起きた事だが、文面が今日になって関東に届いたものである (2月2日の日付で、平家の悪口と武士の働きを褒める文言が載っている) 。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
. . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . |
元暦二年 . 4月 4日 丁巳 . 吾妻鏡 . |
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昨夜、義経の使者が京都に駆け付け、平家一門を悉く討ち滅ぼした旨を仙洞 (院の御所)に報告した。今日になって再び源兵衛尉弘綱※を派遣し死傷者と捕虜の名簿を院に提出した。. ※源兵衛尉弘綱: 佐々木定綱の嫡子広綱ではなく 三位頼政の末子 で長兄仲綱の養子になった 源広綱、従って摂津源氏の家系になる。前年6月の一ノ谷合戦の軍功で従五位下駿河守に叙された。 .. 一説には、義経と広綱の軍功を混同したのが「義経の一ノ谷逆落とし」のヨタ話に発展したのだろう、と言われている。 . 右上は平家一門を祀った 七盛塚 。クリック→ 壇ノ浦合戦と赤間神宮 (別窓) へ。 ここは小泉八雲の怪談「耳なし芳一」の舞台となった場所でもある。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
. . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . |
元暦二年 . 4月 5日 戊午 . 吾妻鏡 . |
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大夫尉信盛が勅使として長門国に赴いた。平家討伐は大きな功績である、宝物※については無事に朝廷に戻すようにと、義経に申し伝えた。 .. ※宝物: 天子継承に必要な三種の神器を差す。先帝が退位せず神器もない状態で即位した 後鳥羽は正当 性を欠いているのだが、色葉字類抄 (治承年間以前に成立した古辞書) の「神器は神であり、正当な持ち主の元に戻る」との文言を一つの根拠とした。憲法解釈の変更、みたいな欺瞞だ。 .. 先に万世一系の理念があり、それを証明するために事実を捻じ曲げる...天皇家の系図のみならず、正義にテ感な権力の何と多いことか。興味深いのは後鳥羽の心の奥に「正当性を欠いた帝」というコンプレックスがあり、その精神的負担が権力の追求を煽って結果的に承久の乱を引き起こした、との説。想像するしかないけれど、この考え方には共感はできる。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
. . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . |
元暦二年 . 4月11日 甲子 . 吾妻鏡 . |
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. 未の刻 (14時前後) に 頼朝が参列して南御堂 (勝長寿院) の柱立(建前)が行われ、この時に西海から飛脚が到着して平氏討滅の旨を報告、 (中原信泰が書いて) 義経が送った記録を提出した。曰く、 . 先月の 24日、長門国赤間関の海に 840余艘の軍船を浮かべ、平氏の軍船 500余艘と向き合って合戦。 午の刻 (正午時前後) にこれを打ち破った。 . 1.先帝 (安徳帝) は海底に没した。 . 1.入水した人々 二位尼 門脇中納言教盛 新中納言知盛 平宰相経盛(出家の後) 新三位中将資盛 小松少将有盛 左馬頭行盛 . 1.若宮 (安徳天皇の異母弟で後鳥羽天皇の同母兄) と 建礼門院は無事に保護した。 . 1.生け捕りの人々 前内大臣宗盛 平大納言時忠 右衛門督清宗 (宗盛の嫡子) 前内蔵頭信基 (負傷) 左中将時実 (時忠の長子、負傷) 兵部少輔尹明 内府二男副将丸 (6歳) その他、美濃前司則清 民部大夫成良※ 源大夫判官季貞 摂津判官盛澄 飛騨左衛門尉経景 後藤内左衛門尉信康 右馬允家村 . 女房、師典侍 (先帝の乳母) 大納言典侍 (重衡の妻) 師局 (時忠の継室、藤原領子) 按察局(先帝を抱き入水、存命) . 僧、僧都全眞 律師忠快 法眼能圓 法眼行明 (熊野別当) . 主な者の名簿はこの通りで、その他の捕虜は追って報告する。また内侍所 (神鏡、八咫鏡) と神璽 (八尺瓊勾玉) は確保したが宝剣 (草薙の剣) は紛失したと思われ、手段を尽くして鋭意探している。 .. 籐判官代が御前に跪いてこれを読み上げ、大江広元と筑前三郎※が近くに列した。頼朝は書状を受け取り八幡宮の方角に向かって座し言葉を発しなかった。柱立てと棟上げが終わり工匠らに引き出物を与えた。頼朝は御所に戻り、使者を呼んで合戦の詳細を質問した。 . ※民部大夫成良: 平家譜代の郎党 田口(田内)重能を差す。平家物語は 「屋島合戦直後の志度寺合戦 で嫡子の教能が義経に投降して捕虜となったため (義経に調略され) 壇ノ浦合戦最中に軍船 300艘を率いて源氏に寝返った」と書いている (2月21日の吾妻鏡を参照) 。 .. 延慶本平家物語は「成良は主家を裏切ったため死罪」、鎌倉大日記 (南北朝末期に成立した歴史書) は「息子の教能は鎌倉に拘禁され建久八年 (1197) 10月に斬首」と書いている。吾妻鏡の建久八年は逸失しているので結末の真偽は確認できない。 ※筑前三郎: 政所に勤める能吏 惟宗孝尚。元は 一條忠頼に仕え、滅亡後に頼朝に近侍し三代執権 泰時 の頃まで文官として勤務している。 . | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
. . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . |
元暦二年 . 4月12日 乙丑 . 吾妻鏡 . |
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平家滅亡後の西海 (近畿以西の諸国) の統治行政の方針について会議を行った。 .. 範頼は暫く九州に駐在して没官領 (平家の所有または管理下から没収した土地) などについて管理を行ない、義経は捕虜などを連れて上洛せよと定めた。雑色の時澤と重長らが (指示を伝えるべく) 九州に向かった。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
. . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . |
元暦二年 . 4月13日 丙寅 . 吾妻鏡 . |
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武蔵国威光寺※の院主長栄は平家滅亡の祈祷を日夜続けて頼朝を喜ばせたが、小山有高※に寺領を押領された旨を、去年9月に得た頼朝下文を添えて訴え出た。下文に従って処理すべきと決定し、元通りに返却させるよう大江広元が命じ、二階堂行政、足立遠元、甲斐秋家 (元は 一條忠頼の家臣) 、判官代藤原邦通、筑前孝尚らが署名し (公文所の) 命令書を発行した。
.. ※威光寺: 治承四年 (1180) 8月に頼朝の挙兵を知った異母弟の隆超 (幼名を今若、後の 阿野全成) が醍醐 寺を抜け出し、相模国渋谷荘の佐々木秀義に匿われた後の10月1日に下総鷺沼 (習志野市) で頼朝の軍勢に合流。11月19日には頼朝から武蔵国の長尾寺 (威光寺) を与えられて住持した。 .. 長尾寺は既に廃寺だが川崎市多摩区のJR南武線宿河原駅に近い妙楽寺 (川崎市のサイト) 一帯に館があったと伝わっている (地図) 。阿野全成は既に駿河国の 阿野荘に所領を得ているため管理者が院主長栄に変わっていたのだろう。 ※小山有高: 横山党の武士で菅生有隆とも名乗る。当初は小山 (多摩境駅近く、地図) に居館を構え、 . | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
. . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . |
元暦二年 . 4月14日 丁卯 . 吾妻鏡 . |
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. . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . |
元暦二年 . 4月15日 戊辰 . 吾妻鏡 . |
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関東の御家人の多くが頼朝の推挙も受けず大した功績もなしに所司などの官職に任じた。これは実に不届きであるとの下文を彼らに発行した。その姓名を紙に書き出し欠点を付け加えた。内容は次の通り。
.東国の武士の中で任官※を受けた者に下す。本国への帰還を禁止する。それぞれ在京して任じられた官職に勤めよ。任官した者は故郷への想いを断ち朝廷の臣下に列して励むが良い。今更 (東国のような) 僻地に帰る必要はない。もし墨俣を越えて下向したら所領の没収や斬首に処されると心得よ。 .元暦二年四月十五日 . 兵衛尉義廉、兵衛尉 (佐藤) 忠信、兵衛尉重経、渋谷馬允、小河馬允、馬允 (波多野) 有経、刑部丞友景、兵衛尉景高、兵衛尉季綱、馬允能忠、豊田兵衛尉、兵衛尉政綱、兵衛尉忠綱※、馬允有長、 右衛門尉季重、左衛門尉景季、縫殿助宮内丞舒国、刑部丞経俊...(詳細の悪口雑言は省く) . その他の輩もそれぞれ任官したらしいが詳しくは載せない。京を出て故郷に戻れるとは思うな。 また右衛門尉友家 (八田知家) と兵衛尉小山朝政 、鎮西に向う途中の京で任官を受けるなど、駄馬が道草を喰うような所業だ。書き出した奴ら同様に帰国を禁じるからそう思え。 . ※無断任官: 頼朝が、「鼬 (いたち) にも劣る奴だ」だとか「フワフワした顔をして」とか「駄馬が道草」 とか罵っているが、相手によって微妙に加減しているのが面白い。 .. 加えて、兵衛尉政綱 (文治五年 (1189) 4月2日に出雲国目代として記載あり) 、馬允有長 (平子郷 (横浜市磯子区周辺) の武士)、左衛門尉景季 (景時の嫡子) 、縫殿助 (首藤経俊の長子重俊) の四人は官職と名前だけで「悪口」がない。これを適当な言葉が思い付かなかったと見るか頼朝の贔屓と見るか。景季は「寵臣 景時の嫡子」だし、八田知家と小山朝政は北関東統治のためには「他を犠牲にしても温存したい御家人」だし。 . 手元の資料では確認できないが、確か 梶原景時も任官していたはず。頼朝が一言も触れていないのは明らかにダブル・スタンダードだ。 . 頼朝の書状は義経が受け取ることになる。前年の 8月17日、義経から「左衛門少尉、検非違使任官の宣旨を 8月6日に受けた」との書状が届いている。頼朝は義経を平家追討使から外したのみで特に可否を伝えず、義経が「洛中の治安維持に専念せよ、との指示だな」と受け取った可能性はある。 . 義経の「政治的センスの欠如」は明らかだが、頼朝の「部下への配慮不足」も指摘できる。事前に無断任官禁止を徹底させればもめ事は起きず、鎌倉の権威も更に高まっただろうに。 ※兵衛尉忠綱: 頼朝が「兵衛尉忠綱には本領の一部を返してやったのに無駄だった、どうしようもない 奴だ」と罵っているのを文面通りに読むと 「没収した所領の一部を返還された忠綱」で、野木宮合戦 に敗れて逃走した藤姓の 足利忠綱に違いない、だろう。 .. 罪を許されて御家人に加わっていたんだね、良かった! 私は何となく藤姓足利氏のファンだから。平家、貞能、伊東、実盛、奥州藤原氏...時代の変化に対応できず滅亡する姿は悲しく、時として美しく心に残る。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
. . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . |
元暦二年 . 4月20日 癸酉 . 吾妻鏡 . |
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今日、伊豆国三島社 (三嶋大社) の祭礼である。頼朝は祈願を果たすため伊豆糠田郷を寄進、以前に寄進した土地と併せて四ヶ所になる。この河原谷と三園を 6月20日の例祭費用として神主の盛方 (東大夫) の扱いとし、糠田と長崎を 8月の放生会 (二宮八幡宮) の費用として神主盛成 (西大夫) の扱いとした。 .これらは 北條時政の差配となる。 . ※三嶋大社雑記: 河原谷は三島大社から約1km東の大場川東岸 (地図) 、糠田と長崎は韮山北部にある 伊豆箱根鉄道 原木駅近く (地図) 、三園は沼津市役所に近い御園橋周辺も該当するがここは大岡牧に含まれるから、御園 (肥田郷の近く、地図) だろう。 .. 三島社の神官は伊豆国造 (本姓は伊豆氏) の子孫が務めたが、平安時代中期の 33代久恒を後継する子がなく、弟の国盛が東末社五社を管理する東神主五郎大夫、末弟の貞盛が西末社五社を管理する西神主四郎大夫として継承した。 . 二宮八幡宮は元々この地にあった地元神で、他所から移住してきた三島神に騙されて (笑) 遷宮を余儀なくされた経緯がある。神々にも熾烈な生き残り競争があったのだ。若宮神社の詳細は 三嶋大社と国分寺 (別窓) で。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
. . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . |
元暦二年 . 4月21日 甲戌 . 吾妻鏡 . |
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吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ . 梶原景時の親戚が飛脚として鎮西から到着し書状を提出。合戦の詳細を報告し最後に義経の不都合を訴えた。 . 西海の合戦では多くの瑞兆があり、順調に合戦を遂げられたのは神仏の加護を示す。まず 3月20日に景時の郎従 海太成光の夢に浄衣の男が現れ文を捧げた。石清水八幡の神託と考えて開くと平家は未日 (3月24日) に滅びると (成光に) 語ったため未日の決戦に備え、全くその通りになった。
.. また屋島を攻め落とす際、味方は寡兵なのに平家には数万の軍勢が幻の如く現れた、と見えたらしい。 . 次に一昨年の長門国の合戦※では大きな亀が海上に浮かび陸に上がって来た。漁師がこれを不思議に思い、六人掛りで何とか範頼の前に運び甲羅を剥がす(解体して食料にする)相談をしたところ、範頼が夢のお告げを思い出し、亀に札を付けて放してやった事があった。 . この札を付けた亀が壇ノ浦合戦の前に源氏の軍船近くに現れ、更に二羽の白鳩が船の屋形に舞い降りてきた。平家の主だった人々が入水したのがこの時である。また周防国での合戦では一筋の白旗が空に現れて味方の将兵の前に靡き、やがて雲間に消え去った。 . 判官義経殿は鎌倉殿の代官として御家人らを伴い合戦を遂げた。偏に自分の功績と思っているが、実際には多くの将兵が協力した成果である。将兵は判官殿ではなく鎌倉殿を仰ぎ見て勲功を目指した。平家討伐後の判官殿の態度は傲慢で、将兵はみな薄氷を踏む思いであり心から従おうとする気持ちはない。 . 私は鎌倉殿の側近として命令の趣を理解しているから、判官殿の言動は鎌倉殿の意に沿わない※と諌めても却って刑罰を受ける結果を招く。合戦が終った今となっては判官殿に従っていても無意味なので早く許可を得て東国へ帰りたいと願っている。 . 和田義盛と梶原景時は侍所別当と所司として、舎弟の両将 (範頼と義経) を西海に派遣するときの奉行 (軍監) として副えられた。範頼は鎌倉殿の指示を守って大小を問わず 千葉常胤や 和田義盛と打ち合わせたが、廷尉 (義経) は自分の判断だけを頼って指示を守ろうとしない。我侭な言動によって反感を覚えるのは景時に限ったことではない、と。 . ※長門国の合戦: 景時は長門で戦っておらず、1183年には長門での合戦はない。壇ノ浦の直前か。 . ※鎌倉殿の意: 義経を誹謗するため 壇ノ浦での失敗 (安徳帝の入水と宝剣の喪失) を匂わせている。 景時は他人を貶めるのが実に上手い。私が景時だったら同じ事をした、かな(笑)。 . | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
. . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . |
元暦二年 . 4月24日 丁丑 . 吾妻鏡 . |
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賢所 (八咫鏡) と神璽 (八尺瓊勾玉) が今津 (西宮) に到着し、藤原中将通資が引き取りに出向いた。 .. 夜に入り、藤原中納言吉田経房、宰相中将泰通、権右中弁兼忠朝臣、左中将公時朝臣、右少将範能朝臣、蔵人左衛門権佐親雅らが身を清めた後に朱雀大路と六條を経て大宮大路から待賢門に入り、東門から太政官の朝所 (執務所) に入った。狩衣の看督長 (検非違使の下級職) が松明を掲げ、義経が鎧を着して東門で警護に任じた。 . 九州に駐在している 範頼は参河守の官職を辞し※、その辞表が鎌倉に届いた。中原親能が 頼朝に報告し、院に願い出よとの指示を受けた。 . ※官職を辞し: 生真面目な範頼は無断任官に対する頼朝の警告に急いで対応したのだろう。 サラリーマンは辛いよね。全ての上司が尊敬に値するってわけじゃないし。 . | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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元暦二年 . 4月26日 己卯 . 吾妻鏡 . |
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近年の兵乱が続いた間、兵が武威を振りかざして荘園で略奪事件を起こす事件が続いたため、去年の春にこれを停止させるよう綸旨が下された。これに伴って鎌倉から廉直で知られる土肥実平と梶原景時を西国の惣追捕使に定めたが、現地で実務担当を命じた目代が略奪に関与しているとの訴えが続いている。これを早急に是正させるべく命令書を作っている。担当は (右筆の) 藤原俊兼。 .. 下す。 院宣の内容に従って惣追捕使が管理する地の押領行為を停止せよ。畿内と近国の荘園または公領で根拠なく行う押領行為や年貢の掠め取りや官物の略奪は禁止する。院宣に従って是非を問わず、もし異議があれば領内から退去した後に仔細を申し出よ。 .4月26日の日付で、土肥実平と梶原景時が惣追捕使を務める地へ一通づつ。 今日、前の内府 (宗盛) ら 生け捕りになっていた平氏が京に連行された。後白河法皇は密かに牛車を六條坊城に停め、申の刻 (16時前後) に入洛する様子を眺めた。 . 宗盛と大納言 平時忠はそれぞれが八葉の車※で前後の御簾を上げ窓を開き、右衛門督清宗 (宗盛の嫡子) は浄衣 (白無地無紋の狩衣形) に 立烏帽子 (Wiki) で父の車の後に乗った。 . 黒糸縅の鎧を着した土肥実平は車の前に、肩白赤縅の鎧を着した 伊勢能盛 (義盛) が車の後を守り、その他の武士が周囲を囲んだ。美濃前司 (源) 則清ら 侍大将も同様に連行された。前内藏頭 (平) 信基と左中將平時実 (時忠の嫡男) らは負傷しているため裏道を通り、全員が六條室町の義経邸に入った。 . 同日、朝廷で罪状を定め、明法博士 (Wiki) の章貞が案文を上申。宗盛父子と家人らは死罪に処すべき、と。 . ※六條坊城: JR嵯峨野線丹波口駅の東、今は細い生活道路になった六條通と坊城通の交差点 (地図) 。 . ※八葉の車: 乗車部分の外装が八葉紋の牛車。紋の大きさにより大八葉紋は上位の公卿が、小八葉紋は 下級貴族その他が乗る習慣だったらしい。 . | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
. . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . |
元暦二年 . 4月28日 辛巳 . 吾妻鏡 . |
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建礼門院 (安徳帝の生母徳子) が吉田 (左京区吉田、地図) にある律師 実憲の房に入った。船津に着いた若宮 (安徳帝の異母弟で後鳥羽天皇の同母兄) は侍従の 坊門信清の迎えにより七條の屋敷に入った。
.. 今日、譜代の御家人で 80歳になる近江国の住人 前出羽守平重遠が弟の十郎と僧 蓮仁に助けられて参上、頼朝はその志に打たれて御前に招いた。重遠は次のように述べた。 . 平治の合戦後は平家の権威に従わず 20余年を過ごした。いま源氏が覇権を取り戻した時を迎えて愁眉を開くべきなのに、在京の東国武士が兵糧や番役 (兵役、労役) を称して非法を働くのは我慢できない。私のみならず諸人が迷惑を被っており、平家が支配していた時でさえこんな事はなかった。世の乱れは未だ鎮まっていないのだろうか。
.頼朝は「誠に道理である、無法を止めさせ安心させよう」と直ちに判断した。国中に同様の訴えがあれば処理するよう命令を下した。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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元暦二年 . 4月29日 壬午 . 吾妻鏡 . |
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雑色の吉枝が使者として 田代冠者信綱宛の書状を携えて西海に向った。頼朝の指示は次の通り。
.. 義経は鎌倉の代官として御家人を伴い西国へ派遣したのだが独善的な行動が多く、御家人を家臣の如く扱って不満が高まった。今後とも鎌倉に忠節を尽くす者は義経に従ってはならぬと内々に伝えよ。 .今日、備前国尾郷を崇徳院の法華堂所領として寄進した。没収した平家領として頼朝が拝領し、崇徳院※の菩提供養に資するため住僧の費用に宛てる、と。 . ※崇徳院の菩提: 保元の乱に敗れ讃岐に流されて憤死した 崇徳天皇が怨霊となり 長い戦乱を起こした、 そんな噂が広まっていた。その鎮魂を願うための寄進らしい。 . | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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元暦二年 . 5月 1日 癸未 . 吾妻鏡 . |
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吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ .. 故 伊豫守木曽義仲の妹 (名を菊と) が頼朝に招かれて京都から鎌倉に入り、過日に幾つかの所領を騙し取られ家名を傷付けたのは子細を知らなかった為であると陳謝した。 . 御台所 政子が同情しているのは、義仲は朝敵として滅亡したが何の責任もない女性まで責めるのは良くないと考えるからで、美濃国遠山荘の一村※を与えて彼女を慰めた。 . 頼朝は崇徳院法華堂※を守っている左兵衛佐局に書状を送って新領の妹尾郷※を手配した旨を通知した。 去年備前国福岡荘(岡山県瀬戸内市)を寄進したのだが戦乱で収益が見込めず、改めて寄進したものである。 . この尼は頼朝の遠戚で、京都時代の 崇徳上皇に仕えていた女性である。 今日、建礼門院が落飾した。 .
.※遠山荘: 加藤景廉が得た新領の一部を相続権のない形で菊姫に 与えた※。遠山荘の北東が木曽と接する事も理由の一つか。彼女の墓は木曽馬籠宿の至近にある。
.. 美濃国諸旧記 (Wiki) に拠れば、源平合戦の恩賞として遠山荘を景康が獲得し、その一部を割譲したらしい。 遠山荘は平安時代中期に立荘した旧摂関家か旧近衛家領で、平氏からの没収地である。 . 島崎藤村家の墓がある永昌寺から登り坂 約 300m、比丘尼寺跡と呼ばれる農地の斜面に並ぶ五輪塔の一つが菊姫の墓と伝わっている。彼女はここに法明寺 (遠い昔に廃寺) を建てて義仲の菩提を弔いつつ生涯を送った、と伝わっている。 . 馬籠を旅した時の古い写真 (右) が一枚、残っていた。観光ルートから離れた場所でかなり判りにくいので 永昌寺を含む鳥瞰図を添付した。 (この項は 3月3日の記事と重複記載した) ※妹尾郷: 備中国妹尾を差す。平家の家臣 妹尾太郎兼康が開発した所領で、兼康は須浜城 (地図) に本拠 を置き、義仲と戦って討ち取られた。時期と場所から考えると寿永二年 (1183) 閏10月の水島の合戦の前後だろうか。
.※崇徳院法華堂: 御陵は崩御した香川県坂出市の 白峯寺 (公式サイト) の白峯陵だが、元暦元年 (1184) に 後白河法皇が崇徳院の怨霊を鎮めるため御所 (白河北殿、保元の乱で焼失) の跡 (左京区東丸太町の京大熊野寮の角に石碑あり、地図) に社殿を建立した。法華堂はここを差すのだろう。 .. この後は何度か焼失と再建を繰り返しつつ移転しているから、追跡しても特に意味はない。また怨霊伝説のためか関連する堂宇も多いので調べるのも面倒くさいし。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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元暦二年 . 5月 2日 甲申 . 吾妻鏡 . |
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( .. ※志に報いる: 文治三年 (1187) 5月8日に、詳細の処遇が記載されている。 . | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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元暦二年 . 5月 3日 乙酉 . 吾妻鏡 . |
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義仲の妹 (宮菊) に領地を与えた件に関し、小諸太郎光兼ら信濃国の御家人が充分に配慮を尽すよう命令した。信濃は木曽義仲の領地に準じるため、武士の誰もが彼の恩顧を受けている故である。
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. 5月 3日 乙酉 . 玉 葉 |
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今日午の刻 (正午前後) に頭の弁 (事務官僚で蔵人の長を兼ねる者) . 一、時忠卿の言葉では、賊 (平家) に従って西海に赴いたのは遁明白な過怠であるが、神鏡の安全を守った のは私の勲功である。重い罪があってもこの功績により流刑を免じられ、剃髪して深山に隠居する形であっても京都に住むのを認めて欲しい。この件の奏上が然るべきかと。 .. → 私の返事としては、この件は全て法皇の決裁次第であり、是非を奏上する問題ではない。 一、前内大臣の官職を外す宣旨が発せられていない。大臣の配流は太宰権師に補任するのが定例であるが 今回は関東への配流との事、その根拠は有り得ないと考えるが。 .. → 私の返事としては、全ては新規の措置であり通例や根拠が通用する話ではない。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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元暦二年 . 5月 4日 丙戌 . 吾妻鏡 . |
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梶原景時の使者が鎌倉から鎮西 (九州) に帰るため出立した。
.. 頼朝は「 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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元暦二年 . 5月 5日 丁亥 . 吾妻鏡 . |
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雑色を飛脚とし、範頼に宝剣 (天叢雲剣) 捜索の命令を与えた。 .. 冬までは九州に駐留し戦後処理と治安の維持に努めよ。同時に 渋谷重国が豊後国の合戦 (2月1日に記載の筑前葦屋浦の合戦を差す) で加摩田兵衛尉を討ち取ったのは功績であると伝えよ。また 範頼の指揮下にある御家人の中に命令に背く者がいても勝手に処分せず鎌倉に連絡せよ、と。 .去年から二人の弟 (範頼と義経) は院宣を受け、範頼は九州を占領し管理する事と 義経は四国を占領し管理する事が決められた。今回義経が壇ノ浦合戦で勝利した後に (権限の及ばない) 九州まで管理下に置いているのは越権である。従軍している御家人についても、取るに足らぬ過ちも許さず鎌倉に報告もせず処罰しているとの報告が入っている。この罪過※は許しがたい、と。 今日、小山 (結城) 朝光が西海から帰還した。 . ※兄弟の離反: 時系列で見れば 頼朝の不満や疑念を 梶原景時が煽った背景もあるが、世襲政権の基礎を . | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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元暦二年 . 5月 6日 戊子 . 吾妻鏡 . |
. . . ※奉幣使: 朝廷は大きな災害などがあるたびに奉幣使を派遣する。特に平安時代中期以降は二社、十六 社、二十一社、二十二社奉幣などが多発したらしい。 .. まぁ平安文化なんて結局は生産性を持たない砂上の楼閣、祈るだけが唯一の防災対策なのだろう。原発に依存した首都圏の繁栄にも似ているって言われれば返事に困るが。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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. 5月 7日 己丑 . 吾妻鏡 |
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義経の使者 亀井六郎が京都から到着。大江広元を通じ頼朝に叛く如き考えはないとの起請文を提出した。 .. 一方で範頼は頻繁に飛脚を派遣して状況報告をしている。何か起きても勝手な判断をせず頼朝と意思の疎通を図っているが、義経はともすれば独断専行である。今頃になって頼朝の不機嫌を知り連絡するような態度は許しがたく、逆に怒りを受ける結果になってしまった。 . ※亀井六郎: 義経四天王の一人とされる亀井重清。義経記では平泉衣川の合戦で奮戦し自害している。 . | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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. 5月 7日 己丑 . 玉 葉 |
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. 5月 8日 庚寅 . 吾妻鏡 |
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大江広元、三善康信、藤原俊兼※、二階堂行政、惟宗孝尚 (4月11日を参照) らが集まり九州の今後について会議を行なった。早く実施するため俊兼が取り纏めて頼朝に報告した。 .. 一.宇佐神宮の大宮司公房※は以前から平家の祈祷を行った。頼朝の崇敬神だから元通りの業務を行う事。 一.宇佐神宮の神官は旧来の所領を許されるべきの事。 一.去年の合戦によって神殿が破損したとの由、丁寧に修復し神に許しを祈る事。 一.没収した平家領の他に 平貞能と盛国が領家の許可を得て管理した土地があるらしい。報告する事。 一.範頼に対して立場を越える発言をした美気大蔵大夫を鎌倉に出頭させる事。 一.鎮西に派遣した塩谷五郎ら多くの御家人が帰還した。使者を送り今後は勝手な帰還の禁止を命じる事。 一.新たに御家人となった西国武士の名簿を 和田義盛に命じて提出させる事。 . ※藤原俊兼: 去年10月には 三善康信を筆頭とする問註所が設置され俊兼や行政も構成員に加わっている から、この日は問註所の会議なのだろう。俊兼は頼朝右筆でもあり、去年11月には華美な服装を頼朝に注意され小袖の褄を切られている。
.※大宮司公房: 源平合戦を通じて平家に与し元暦元年 (1184) には緒方惟義※に神殿を焼き討ちされた。 平家が九州を追われたため、やむを得ず自費で被害を復興したと伝わる。 .※緒方惟義: 豊後国緒方荘の荘官で元々は平家の家人だったが治承五年 (1181) に源氏方に与して(焼き 討ちはこの頃か)、今年 1月には範頼に船を提供して豊後上陸に協力した (1月26日を参照) 。 平家の忠臣 平貞能が何とか説得しようと苦心してたんだけどね。 . | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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. 5月 9日 辛卯 . 吾妻鏡 |
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渋谷五郎重助が許可を得ず任官した事について、今後の任官推薦名簿から外すよう重ねて指示があった。 .父の渋谷重国が石橋山合戦で平家に与した※事を許して召し使ったにも関わらず、重助は平家に従って再三の招集にも応じなかった。平家が都落ちしてからは 義仲に従い、義仲が滅亡すると今度は 義経に従った。 . 重なる罪は、武勇に優れているから許されるものではない。また豊後国に渡る際の重国は先駆けの功績は挙げたが、範頼に先立って入洛したのも不愉快であると様々な例を挙げ、原田の所領※は(渋谷重国ではなく)功績を挙げた他の御家人に分け与えよと範頼に指示した。 . ※渋谷重国: 石橋山で平家に与した咎よりも佐々木秀義親子を助けて頼朝の挙兵を陰で支え、阿野全成 を保護した功績の方が大きい。重助の行動を恩のある父親まで拡大して罵倒するなんて、ケツの穴が小さ過ぎると思う。
.※原田の所領: 2月1日の豊後国葦屋浦の合戦で範頼軍が破った平家重臣 太宰少弐の原田種直を差す。 現在の福岡県芦屋町一帯に広大な所領を持っていた。 . | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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. 5月10日 壬辰 . 吾妻鏡 |
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. 5月11日 癸巳 . 吾妻鏡 |
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. 5月12日 甲午 . 吾妻鏡 |
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雑色の常通が使者として範頼への書状を携え鎮西に出発。御家人の所領を安堵する指示などを含んでいる。 . | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
. 82代 後鳥羽 |
. 5月14日 . 吉 記 |
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. 5月15日 丁酉 . 吾妻鏡 |
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廷尉 (九郎義経) の使者 工藤景光が鎌倉に到着。前内府の 平宗盛父子を連行し去る 7日に京を出発、今夜酒匂驛※に着き、明日鎌倉に入るとの報告を届けた。 .. 北條時政が宗盛らを受け取るため牧宗親、工藤行光※と共に酒匂に向かった。小山 (結城) 朝光を使者として派遣し「すぐ鎌倉に入らず暫く酒匂付近に留まって呼ばれるのを待て」 との指示を携えている。 . ※酒匂驛: 現在は小田原市の酒匂川東岸 (地図) だが相模川など多くの河川が河口の流路を東に移動して いるため正確な位置は判らない。これは 相模川橋供養でも記述してある。 .※景光と行光: 共に頼朝の御家人で、工藤氏の系図では「景光の子が行光」となっている。そのまま 受け取れば工藤景光は義経の配下としての使者ではなく単なる同行者だったらしい。 .. . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 5月16日 戊戌 . 吾妻鏡 . |
吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ .. 忠清法師(藤原忠清が六條河原で梟首 (斬首して晒す) された。 . 今日、前内府 平宗盛が鎌倉に到着、見物人が垣根の如く連なった。宗盛は輿に乗り金吾 (嫡子清宗) は乗馬、家人の則清 (季貞の甥) 、平盛国※ (清盛の側近で侍大将) 、飯富季貞、平盛澄 (侍大将 ) 、藤原景経藤原 (宗盛の乳母夫) 、信康(藤内左衛門尉)、家村 (不詳) らも同じく騎馬でこれに従った。若宮大路から横大路※に入って輿を停め、まず牧宗親が御所に入って招き入れ、西の離れを宗盛親子の居室とした。 . 夜に入って 大江広元が指示を受けて食事を供したが、宗盛はこれを食べず泣くばかりだった。鎌倉への下向も、親子と家人を死罪に処する件も、既に 吉田経房を通じて院の勅許を得ている。ただし、平時忠は 内侍所 (八咫鏡) を無事に戻した功績により死罪を免じる、と。 .
※平盛国: 74歳、歴戦の老武者。平清盛は治承五年 (1181) の閏
2月4日に九条河原口の盛国邸※で没している。 .. 盛国は平家滅亡 (元暦二年 (1185) 4月)の後に捕虜となり 岡崎義実に預けられた後は一言も発せず、法華経に向かったまま飲食を断ち 7月25日に餓死した、と。 ※盛国邸: 近年の研究により「八条河原説」が有力である。 八条通と須原通の交差点北の団地東側の緑地 (地図 ) に「平清盛終焉推定地」の標柱が建っている。側面に平安京左京八条四坊一三町とある。 .. 塩小路橋で鴨川を渡れば間もなく法住寺殿 (後白河院の仙洞御所) 、北側には六波羅があり、平氏宗家々令の住居として相応しい位置にある。 ※横大路: 八幡宮前を東西に通る主要道の一つ。東端は 宝戒寺の前で六浦道と小町大路に接続する。 . . . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 5月17日 己亥 . 吾妻鏡 . |
朝 6時前後、義経と同じく去る 7日に京を発った左典厩 一條能保が鎌倉に到着し直接御所に入った。昨日の暑さを避けて予定を遅らせ、涼しい時間を選んだ、と。 .. 昨日、能保の家臣 後藤新兵衛尉基清の従僕が義経の家臣 伊勢三郎能盛 (義盛) の従僕と揉め事を起こした。 能盛の替え馬が基清の従僕を踏んだのが発端で、基清が能盛と戦おうとした。 . 能保が基清を抑え、義経も能盛を鎮めたため大事には至らず、能保も頼朝に報告するのを避けたのだが、自然に耳に入ってしまった。頼朝は能盛の下郎風情が立場も弁えないとは奇怪である、と激怒した。 . ※5月17日: 西暦の 6月17日に該当する。それにしても些細なトラブルが大事件の発端になるのが世の 常で。吾妻鏡が下僕の喧嘩まで書いたのは義経を貶めるのが目的だろう。 .. . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 5月19日 辛丑 . 吾妻鏡 . |
畿内周辺で群盗が横行しているため鎮圧の方策に関する指示があった。平氏の家人や郎党が戦場から逃れて旧領に戻り、略奪を行うばかりか京の近辺まで横行し盗みを働いており、最近は遠江国の御家人が武威を背景にして院宣を求めたり、国司や領家 (本来の所有権者) の公文書を奪い年貢を押領する事件が起きている。 .. また伊豆守 源仲綱の息子 有綱※を称する者が義経の婿として年貢を掠め取っていると聞いた。これらは院に奏聞して許可を受け厳しく糾弾せよとの命令である。 . ※有綱について: 最近は 義経の妹または養女の婿と考える説が多い。有綱は義経の忠実な武将。同志と して都落ちから吉野山で分散するまで行動を共にしているからこの記述には義経とその周辺を貶める悪意が含まれている。
.. また前年には 一條忠頼謀殺など 甲斐源氏の粛清が本格化しており、当時の遠江国守護だった 安田義定周辺への圧力が「遠江の御家人が...」として現れた可能性もある。 頼朝って陰湿な側面を持つ、執念深い独裁者なんだよね。 . . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 5月20日 壬寅 . 玉 葉 . | . . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 5月21日 癸卯 . 吾妻鏡 . |
頼朝は一條能保を伴って南御堂の建設状態を視察し堂塔の配置などについて話し合った。また南都の仏師成朝※が頼朝の招きを受けて御堂の仏像を造立するため鎌倉に入った。 .. ※成朝: 頼朝がなぜ成朝を選んだのか、北條時政に代表される他の御家人の多くが慶派の仏師を選んだ 理由を仏師の系図を含めて纏めたい。出来上がり次第の掲載だが、完成は疑わしいな (笑) 。 .. . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 5月21日 癸卯 . 玉 葉 . |
昨日、流罪の決裁があった。僧俗併せて九人、上卿の 源 (土御門) 通親卿と、参議の 藤原兼光の協議に拠る。 . 平時忠卿 (能登へ) 平信基朝臣 (備後へ) 平時実朝臣 (周防へ) 伊明 (出雲へ) 良弘 (前の大僧都、阿波へ) 全眞 (前の僧都、安芸へ) 忠快 (前の律師、伊豆へ) 能圓 (法眼、備中へ) 行命 (熊野別当、周防へ) . . . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 5月23日 丁巳 . 吾妻鏡 . |
対馬守親光※を迎え受けるため、頼朝の命令を受けた範頼が船を対馬に派遣しようとしたが、親光は平家の攻撃を避けるため (今年の) 3月4日に高麗国に渡ってしまった。
.. このため更に高麗に (使者と船を) 派遣するよう在庁の官人に指示しており、 (船を送ると共に) 守護の河内五郎義長が書状を送った。平氏は悉く滅亡した、警戒する必要はないから早く帰国せよ、との内容である。 . ※対馬守親光: 頼朝の外戚とされる。3月13日にやや詳しい記述がある。 . . . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 5月24日 戊午 . 吾妻鏡 . |
義経は計画通りに朝敵を討伐し、前内府 平宗盛を鎌倉に連行した。この功績に疑問はないが、日頃から不愉快な言動が多く見られるため 頼朝の機嫌を損ね、鎌倉入りを許されず腰越の驛※に逗留している。 .. 憂いの余り大江広元に宛てて請願状を送り、広元はこれを頼朝の閲覧に委ねたが明確な返事はなく、いずれ決めようとの事だった。 書状の内容は次の通り。 左衛門少尉源義経、恐れながら申し上げます。意趣は、御代官の筆頭に選ばれ、勅宣の使者として朝敵を倒し積年の恥辱を雪ぎました。それにも関わらず思いがけぬ讒言によって勲功を無視され、犯してもいない罪に問われています。冤罪によってこのような処遇を受けるのは悲しみであります。
.. 良薬は口に苦く忠義の言葉は耳に痛いとの格言通り、讒言の真偽も確かめないまま鎌倉に入れないため心を開いて語る事もできず無駄な数日を過ごしております。長くお会いできない間に骨肉兄弟の情も失われたのでしょうか、私の運が尽きたのでしょうか、前世の因縁でしょうか、亡父の魂が現れなければ私の悲嘆が聞き届かれないのでしょうか。 . 産まれて間もなく父が他界して孤児となり、母の懐に抱かれて大和国宇陀郡龍門牧※に逃れてから一時の安堵の思いもなく、無駄な命なのかと思いつつ諸国を放浪して隠れ住み土民や百姓に使役され続けましたが、遂に運命が開けて平家追討に上洛したのを契機に 木曽義仲を滅ぼし、平氏を攻めるため命も惜しまず、或る時は岩山に馬を走らせ或る時は大海の風波を越え海底に沈み鯨の餌食になるのも顧みず、甲冑を枕にして弓矢の道を邁進しました。偏に亡き父の遺恨を慰めて宿願を晴らそうと考えた、それ以外にはありません。 . また五位の尉に補任したのは家の誇りとなる重職ですが、今となっては深い愁いであります。神仏の援けを借り、全く異心を持っていない事を誓った数通の起請文でも許しは得られませんでした。偏に鎌倉殿の大きな慈悲を願うものであります。 (広元の) 手助けでこの書状が届き無実が認められ許されれば、貴方の一族には長く積善の報恩を尽くそうと考えます。愁眉を開き安寧が得られる事を願っております。 . 元暦二年五月日 左衛門少尉 源義経 進上 因幡前司殿 .
※腰越状: 腰越の満福寺に待機した義経は「別命があるまで
その付近に留まれ」との指示を受け、弁慶ら側近を従えて 行基が開いたと伝わる腰越の古刹 満福寺 (公式サイト) を宿舎とした (後に 32km西の酒匂驛に移動) 。鎌倉の外である腰越から酒匂に移動したのも別命に従った:経緯に拠る。 .. 広元に送った 「腰越状」 は現存せず、 「腰越状」 なる文書が存在した記録もない。満福寺が収蔵する 「下書き」 と称する一巻が本当に 「下書き」 なのか、それとも 「源平盛衰記」 などを利用した捏造文書なのか。弁解と自己主張を織り交ぜた美文調の 「腰越状」 は解くことのできない多くの謎を秘めている。 右上は江ノ電踏切から見た満福寺。画像をクリック→ 別窓の訪問記へ。 ※宇陀郡龍門牧: 現在は町村合併に伴って吉野町佐々羅 (地図) となった。宇陀を離れて吉野に南下する 吉野街道 (国道 370号) に沿って点々と 「義経橋」 や 「常盤明神」 の名があったのを覚えている。宇陀を旅した頃は 「吾妻鏡の解説サイトを開く 」 なんて夢にも思わなかったのでロクに画像も保存していない。辛うじて 道の駅 宇陀路大宇陀 訪問記と、神武東征伝説の残る 宇賀神社 の記録が残っているのみ。
. 物置の古い段ボールから昔のフロッピーでも見つかるとラッキーなのだが。 . . . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 5月25日 丁未 . 吾妻鏡 . |
頼朝は雑色六人を中原久経と近藤七※の許に派遣した。これは所領などの訴訟決裁の円滑化のため両名に三人づつ補助員を宛てたものである。また書状を持たせ、久経には賄賂を得ないこと、国平には誤りや愚痴に注意せよと付け加えた。 .. ※中原久経と近藤七: 御家人や在地の武士による土地の横領などを防ぐため京に派遣した事務官。 本年 2月5日にも派遣の記載がある。 .. . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 5月27日 己酉 . 吾妻鏡 . |
源頼兼※が参上して報告。去る 18日に京の禁裏に盗人が入り、昼の御座所から御剣を盗み取った。担当の侍と女官らが探し回り、頼兼の家人と武者所久実が門の外まで追い掛けて犯人を捕えたが自殺を試みて既に半死半生の状態だった、と。頼朝は勇敢な行為には褒美を与えるべきと考え、剣を頼兼に託して久実に与えよと命じた。これにより頼兼も大いに面目を施した。
.. ※源頼兼: 頼政の二男。生年は判らないが治承四年 (1180) に宇治川で戦死した実兄の 仲綱は当時54歳 で、実弟の 広綱は一の谷合戦で軍功を挙げている。従って頼兼は間違いなく成人している筈だが、以仁王の挙兵にも加わらず政治とは一線を画して大内裏の警備に専念していた。 .寿永二年 (1183) には父の官職だった大内守護 (皇居の警護職) に任じ、在京御家人として京と鎌倉の間を何度も往復している。 . . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 5月29日 辛亥 . 吉 記 . |
前の大納言 平頼盛卿が東大寺で剃髪し出家を遂げた。
.. . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 6月 2日 癸丑 . 吾妻鏡 . |
吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ .. 先月の 20日、配流に関する官府 (太政官の布告) が下った。上級公卿の中納言 源 (土御門) 通親が主導し頭弁(事務官の長) 光雅が記録し、今日その姓名目録が鎌倉に届いた。 . 前大納言時忠は能登へ、前内蔵頭信基は備後へ、前左中将時実は周防へ、前兵部権少輔尹明は出雲へ、法印大僧都良弘は阿波へ、権少僧都全真は安芸へ、権律師忠快は伊豆へ、法眼能圓は備中へ、法眼行明は常陸へ。 . ※大納言時忠: 文治五年 (1189) 2月に流刑地 (珠洲市) で死没、子孫は平の姓を時国姓に改め 能登で繁栄 し、特に海運業などで財を成した。江戸時代には苗字帯刀を許されている。旧居の跡と伝わる珠洲市の山間に 平時忠一族の墓所 (別窓) が残っている。 .. . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 6月 5日 丙辰 . 吾妻鏡 . |
囚人の源 (飯富) 季貞の子 宗季 (後に 逸見光長 (清光の長子) の猶子となって宗長と改名) が父の生死を確認するため、京から密かに一族の所領 上総国飯富庄に下ってきた。弓馬の芸に優れ、また矢野橘内の薫陶を受けたほどの矢を作る名手である。彼の知人で同じ上総の住人 中禅寺奥次郎弘長がそれを頼朝に話し、頼朝の希望に従って宗季は一腰 24本の矢を作って献上、御意に叶って御家人に加えられた。 .. また 石清水八幡宮 (公式サイト) の新領として神事に使うため、阿波国三野田保※の管理権が与えられた。 . ※三野田: 吉野川の上流域、三好郡東みよし町足代 (地図) 一帯。名勝 美濃田の淵 (町役場のサイト) で 知られている。 . . . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 6月 7日 戊午 . 吾妻鏡 . |
前内府の 宗盛が近日中に京に戻るため面談すべきかを 大江広元に相談した。これは三位中将 重衡が鎌倉入りした際に対面した前例を考えたためである。広元はこの問いに答えた。
. 「前回と同じではありません。鎌倉殿 (頼朝) は朝敵を滅ぼし二位に昇った立場、宗盛は朝敵となって無位無冠となった囚人です。対面は軽率の謗りを受けかねません。」と答えた。 . 頼朝は面談をせず御簾の中から見るだけにとどめ、大勢が周りに集まった。宗盛は浄衣に立烏帽子の姿で廊下から部屋に入り、武蔵守 平賀義信、北條時政、駿河守 伏見広綱、足利義兼・大江広元、筑後権守 俊兼、足立馬允遠元らが横に列座した。 頼朝は (直接の会話を避け) 比企能員を介して「平家一門に格別の怨みはないが勅命を受けて追討軍を派遣し、この辺鄙な場所に招いたのは偏に武家としての面目を重んじる故である。」と述べた。 . 能員が宗盛の前に蹲踞しその旨を伝えると、宗盛は座を外して諂う (へつらう) 態度で話す内容もはっきりしない。ただ助命してくれれば出家して仏の道を歩みたい※、と。 . これが平正度から四代の平忠盛の嫡孫として誉れの高い武門に生まれ、清盛の二男として官位も禄も思うままにした人物か。武威も官位も屈するべきではないのに、まして死罪が決まっているのに、なぜ (陪臣に過ぎない) 能員に礼節をつくすのか。見ていた者は指を差して蔑んだ。 . . ※出家して: 平治物語に拠れば、平治の乱後に捕らえられた頼朝は明日にも斬られるとの噂を聞いて、 「保元の合戦で多くの叔父や親戚を失い、またこの度の合戦で父や兄弟を失なった。出家して父祖の菩提を弔いたいから命は惜しい」と述べた。もう忘れてるだろうけど。 .. 清盛には (多少の経緯はあったにしろ) 敵を助命する度量があったが頼朝は同族まで粛清する性格だから、宗盛の助命はどう転んでも有り得ない。 . . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 6月 9日 庚申 . 吾妻鏡 . |
酒匂に逗留※していた義経は前内府 宗盛を伴って京に向かった。頼朝は橘右馬允公長、浅羽庄司宗信、宇佐美実政らに護送役を命じた。鎌倉に入り平家追討の詳細を報告すれば功績が賞賛される...そんな思いと違って頼朝と面会もできず虚しく京に戻る結果となった義経の怨み※は昔の境遇の遺恨よりも深い、と。 .. (前年 4月8日に) 狩野宗茂が預かっていた 平重衡は源頼兼 (頼政の次男、5月27日に記事あり) に渡され、宗盛と同じように出発した。興福寺と東大寺衆徒の望む通り南都の僧に引き渡す※ためである。 . ※酒匂に逗留: 腰越から広元宛に書状を送ったのが 5月24日、広元からの返事を待ったのかも知れない が、結果として無意味な半月だった。 .※義経の怨み: 平家物語は「金洗沢 (腰越から1.5km東の七里ヶ浜駅近く、地図) に関を設け宗盛親子の 身柄を受け取り、義経を腰越に追い返した」と書いている (最初に宗盛の身柄を義経から受け取った時の話、として) 。
.. . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 6月13日 甲子 . 吾妻鏡 . |
義経に分け与えた平家の没官領 24ヶ所は全て没収、大江広元と筑後権守 藤原俊兼らがこれを差配した。 .. 義経の勲功は全て頼朝の代官として御家人を添えたから成し得たものである。一人の手柄と主張し、更に帰洛に当って「関東に怨みを持つ者は義経に従え」※などの言葉を吐くとは、離反するにしても一族の恥を晒すことになり許しがたいと激怒した結果である。 . ※捨て台詞: 鎌倉の近くでそこまで言えば常識的に追討軍派遣だろうに、何事もなく上洛しているから 軍記物の脚色だろう。いくら政治的センスに乏しくても馬鹿じゃあるまいし。 .. もちろん梶原景時か公長か宗長が義経の発言を捏造して頼朝にチクった可能性はあるし、勲功の 24ヶ所を没収した判断の正当性を吾妻鏡編纂者か誰かが忖度した可能性もある。 . 更に怒った義経が本音をぶちまけた可能性もあるね。京都に戻ってから挙兵の可能性を考えたほどだから。もちろん頼朝の人事管理も拙劣の非難を受けても当然だが。 . 九条兼実は玉葉で 「聞書 (叙位任官の明細を書写した文書) を見たら 頼盛は備前と播磨を得た、義経に恩賞がないのは多分深い理由があるのだろう」 と書いている。 . . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 6月14日 乙丑 . 吾妻鏡 . |
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.. 範頼と対馬守護の河内義長が 頼朝の命令を受けて使者を高麗国に送り、対馬守の宗 (藤原) 親光を対馬に迎え入れた (以下は親光による説明。前回の指示は今年の 3月13日に載っている) 。 一昨年に上洛を試みた親光は都から鎮西に落ち延びて来た平家に行く手を塞がれ仕方なく対馬に留まっていたが、平知盛が 原田種直を介して屋島への参陣を要求してきた。 .. 九州、壱岐、対馬、中国の在地武士は皆平家に従ったが、親光は志が源氏にあるから加わらなかった。そのため種直の家の子 高次郎大夫経直が二度、拒押使宗房(種益の郎党)が一度、追討使として島に 押し寄せて国務を妨げ、三回も合戦を挑んで来た。 . やむを得ず去る 3月4日に風波を越え妊婦を伴って高麗に渡り、野原に狩屋を構えて出産を済ませた。このとき襲ってきた虎を親光の郎党が射取り、これに感心した高麗の国主が三ヶ国を与えてくれた。 . 従って今では高麗の家臣なのだが今回の迎えを受けて我が国に戻ってきた。高麗の国主は名残を惜しみ、三雙の船に積み込んだ宝物を添えて対馬に送ってくれた、と。 . ※宗親光: 対馬国司を世襲していた一族だが、平家の都落ちは寿永二年 (1183) 7月。知盛が屋島参陣を 求めたのは一ノ谷で敗れて屋島に移った寿永三年 (1184) 2月以後になる。 .. 従って親光が高麗に逃げた 「3月4日」 は一昨年 (1183年) ではなく、寿永三年 (1184年) の筈。そもそも約 15ヶ月間の行動にしては話が出来過ぎている。親光って多分ホラ吹きだね。 話が「桃太郎の虎退治」みたいな展開だもの。 . . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 6月16日 丁卯 . 吾妻鏡 . |
(2月5日に派遣した典膳大夫中原久経と近藤七国平の業務について、その後の報告) .. 頼朝の使者 典膳大夫久経と近藤七らは院宣を持って畿内周辺の各国を巡検し百姓や荘園などからの訴えを処理しているが現段階では特に苦情を確認しておらず、頼朝は内心でこの状態に感心していた。 . ただし尾張国に凶悪で知られる玉井四郎助重※が横暴な行動をしている噂があり、最近は特に法に背いているらしい。久経と近藤七が送った召喚状にも応じず暴言を吐いているとの報告が届き、筑後権守 藤原俊兼を奉行として助重に通達した。綸旨に背き鎌倉を軽んじるならば御家人の資格を取り消し追放処分にする、と。 . ※玉井助重: 前年にも丹波の蓮華王院領で紛争を起こし院宣による苦情が鎌倉に届いた記録がある。 (9月20日の吾妻鏡を参照) 。合戦に熟達した見境なしの確信犯か。 .. . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 6月18日 己巳 . 吾妻鏡 . | . . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 6月20日 辛未 . 吾妻鏡 . |
夜半に大きな地震があり、約 2時間の間に数回の揺れが起きた。 .. 筑前国香椎宮※の前大宮司公友は領家 (本来の所有者) の命令に背いて納税を怠り恒例の遷宮もしないのみならず、前任者でありながら強引に神社の公務を執行している。早く罪に問うよう神官から訴えが届いた。 . 従って今日、当人は追放処分にして遷宮を実行せよとの指示を出した。もし従わなければ別の使者を派遣し法に従って処理する、と。俊兼がこの件を差配する。 . ※香椎宮: 香椎宮が正式名(公式サイト)で、「神」は付かない。14代仲哀天皇と神功皇后を祀る。 境内に香りの高い椎があったのが社名の由来と伝わる。 .. . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 6月21日 壬申 . 吾妻鏡 . |
卯の刻(朝 6時前後)、義経は近江国篠原宿※に着いて 橘公長に前内府宗盛の首を斬らせ、次いで野路口に入って 堀景光に嫡男 清宗の首を斬らせた。宗盛の知人である大原法成寺の本性上人が二人を教化し、怨念を捨て極楽浄土を願いつつ落命した。宗盛は天皇の外戚となり内大臣まで昇進したが朝敵となってしまった。 .. この後に宗盛の来歴が長々と入るが特に意味がないので省略、その一方でこの日、重衡卿が京に入った。 .
※斬首の地: 篠原宿は今の野洲市 大篠原が「平家最後の地」 と
とされる。つまり、ここで平家嫡流だった宗盛の血脈が途絶えた、ということになる。 .. 棟梁宗盛の血筋を継いだ数人の幼子は既に斬られ最後に斬られた宗盛と清宗がここに葬られた事実に依拠する胴塚である (地図) 。 . 右画像をクリック→ 別窓で拡大表示 . 清宗が斬られた野路口は 9kmほど西の栗東駅付近 (地図) 、現在の草津市東部、せめてもの配慮で二人の胴は同じ穴に葬られた、と伝わっている。 . 約1km東の 旧 鏡宿には、鞍馬山を脱出して奥州を目指した牛若丸が自らの手で元服した 鏡の里 がある。機会があれば 道の駅 竜王かがみの里 からの散策を薦めたい。 . . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 6月22日 癸酉 . 吾妻鏡 . |
平重衡卿が東大寺 (の衆徒) に引き渡された。衆徒の求めに応じた措置である。
.. . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 6月22日 癸酉 . 玉 葉 . | . . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 6月23日 甲戌 . 吾妻鏡 . |
宗盛と清宗の首は義経
の郎党らが運び 検非違使大夫尉知康、六位尉章貞、信盛、公朝、志明基、府生経広、兼康らが六條河原でこれを受け取って獄門の樹に懸けた。この件は立ち会った頭右大弁光雅朝臣が検非違使別当の家通に報告し、頭弁大夫史隆職を経て隆職廷尉知康に伝えた。 .. 今日、前三位中将 平重衡卿が南都で首を斬られた。焼き討ちの張本人として衆徒が強く要求した為である。 .
※重衡の身柄: 22日に東大寺の使者が受け取り 23日に木津川
の畔で斬殺、首は奈良坂の 般若寺、地図) の門前に晒された。直前には 法然と会って受戒 (仏の弟子となる儀式) し、遺骸は妻の輔子 (大納言藤原邦綱の次女) が引き取って葬った。 .. 頼朝は引渡し拒否も考えたが、体制が不安定な時期に南都との紛争を避けたのだろう。 . 新奈良街道と旧街道の合流する近く (地図) に遺骸を葬ったと伝わる塚が残っている。 . 画像をクリック→ 別窓で拡大表示 . . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 6月23日 甲戌 . 玉 葉 . |
伝聞に拠れば、重衡は木津の辺りで斬られて奈良坂に晒された。前内府宗盛父子の首は夜になって検非違使の使者に引き渡され、後白河法皇も見物された。
. . . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 6月25日 丙子 . 吾妻鏡 . |
佐々木三郎成綱※は平家が栄えていた頃は源氏に背き、平家都落ちの後は平家を捨て一の谷合戦では息子の俊綱が通盛を討ち取っている。これによって恩賞を望んだが敢えてそれを許さなかった。侍従の公佐を経由して嘆きを訴えたため、息子の功績に免じて元の所領は安堵しようと約束した。 .. ※佐々木成綱: 沙沙貴神社 (Wiki) の神官で、秀義とは全くの別系統。宇陀源氏の一部が近江に土着して 佐々木を名乗ったのは秀義の曽祖父 成頼が最初とされるが、元々の所領を秀義の系に奪われ平家に接近して取り返した、或いはその逆か。両方の可能性が考えられる。 .. . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 6月30日 辛巳 . 玉 葉 . |
聞書※を見る。頼盛入道が備前 (岡山県の東南部) と播磨 (兵庫県の南西部) を得たが九郎義経には恩賞なし。 .深い理由でもあるのだろうか。 . ※聞書: 叙位叙勲の発表を聞いて書き留めたもの。内容は正確だが公式文書ではない。 . . . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 7月 2日 丙子 . 吾妻鏡 . | . . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 7月 7日 戊子 . 吾妻鏡 . |
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.. 前の筑後守 平貞能は平家の一族で故 清盛入道腹心の家人だった。平家が滅びる前に離脱し行方不明になっていたが、突然 宇都宮朝綱のもとに現れた。 (朝綱の話では) 平氏の運が間もなく尽きるのを知って出家し、共に滅びるのを避けたものである。今は山に隠れて極楽往生を願っているが、山林と言えども鎌倉の許しがなければ暮らせない。囚人として預かって貰えないかと懇願している、と。 . 頼朝は「貞能は平家近親の家人だ。降伏と言っても信用はできない。」と不機嫌に応じて許さなかったが、朝綱はこれに答えて更に言葉を続けた。 . 私が平家に従って在京していた時に頼朝様の挙兵を知り参加しようと考えても宗盛が許しませんでした。貞能が私と 畠山重能と 小山田有重の解放を進言したから東国に帰参して怨敵を追討できたのです。 .. 単に私が恩に報いようと思うからではなく、源氏にとっても功績を挙げた者です。もし彼が反逆を企てたら私の一族全てを討ち果たしても構いません。」と願った。 これによって今日、許可する旨の決裁があり、朝綱預かりの囚人となった。 .
※貞能の生涯: 貞能終焉の地 鶏足山安善寺、宇都宮氏 累代の
廟所 大羽地蔵院、平重盛の焼骨を葬った白雲山小松寺などに詳細を記述してある。
.. 足利市にも藤姓の 足利忠綱 (又は父俊綱) が建てたらしい 平重盛の慰霊墓がある。この話は 足利鑁阿寺 の末尾、善徳寺の項に記載した。 長く懸案だった那須塩原の貞能庵跡に残る妙雲禅尼 (重盛の姉)の墓所、やっと訪問できた。
.. 貞能は義仲勢の入京直前に主人重盛の遺骨を掘り出して高野山に送り、更に周辺の土を鴨川に流した。主人の墓を源氏の郎党に踏み荒らさせない配慮である。そして重盛の姉 妙雲禅尼と重盛の妻 得律禅尼を伴って京都を脱出、放浪を続けた末に頼朝の許可と宇都宮朝綱の郎党塩原家忠の協力を得て那須塩原に住み着いた。 . ここで生涯を閉じた妙雲禅尼を葬った後に常陸国内陸部 (現在の城里町) に白雲山小松寺を建立して重盛の遺骨の残りを葬り、更に死没した得律禅尼を埋葬した後に益子の安善寺で波乱の生涯を閉じる。 . 右は妙雲寺本堂裏手の九層の石塔、妙雲禅尼の墓。 画像をクリック→ 甘露山妙雲寺の詳細 (別窓) へ . 82代 後鳥羽 . 7月 9日 . 愚管抄 . |
午の刻 (正午前後) に普通ではない大地震あり。古い寺社は倒壊し所々の築地壁も崩れ落ちた。比叡山の根本中堂をはじめ全ての堂宇に歪みが発生した。世間では「平相国 (清盛) が龍になって暴れたか」と噂している。 .法性寺の九重塔 (Wiki) は簡単には倒れないが、傾いた上に軒の出は重なって崩れ落ちている。 . 元暦二年 (1185) 京都地震の被害実態 (pdf 論文、別窓) も参考に。 . . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 7月12日 癸巳 . 吾妻鏡 . |
鎮西 (九州) の統治に関して、武士の勝手な行動を停止させ押領された荘園を元通りの国司や領家の管理下に戻すため院宣の発行を受け、各地の巡検を実施するよう中原久経と近藤国平に指示した。
.. また平家追討後には 義経は命令に従って京に戻り、範頼は鎮西に駐留しているにも関わらず武士の狼藉が続いているとの訴えが届いている。範頼宛に院宣が発行される筈だが、地頭を補佐する管理者を任命し安心して上洛できる手筈を整えるよう、範頼宛に指示書を送った。 . 82代 後鳥羽 . 7月12日 癸巳 . 吉 記 . |
群盗の頻発に関し、改めて対策の強化を大夫尉義経に指示があった。多くの築地塀が崩れたため不用心でもあり後白河法皇も深く嘆いておられる。
. . . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 7月15日 丙申 . 吾妻鏡 . |
神護寺の 文覚が鎌倉の後ろ盾を受けて 後白河法皇への上奏を許され、去る正月 25日に神護寺縁起状を提出、院の御手印 (サイン?) を得た。しかし神護寺領に加えるため近国の荘園と悶着を起こしたとの噂が届いた。 .驚いた頼朝は「仏の道を歩む者が狂気の沙汰か、早急に所業を止めさせよ」と命じた。俊兼の差配である。 . ※文覚房: 平家物語に拠れば、清盛が全盛だった承安三年 (1173) に文覚は荒廃していた 神護寺を再興 するため後白河法皇に寄進を願い出ている。これが「強請」と受け取られ、結果として伊豆流罪となった。ここで頼朝と接点を持つ事になる。
.. 復帰後の寿永元年 (1182) に法皇裁許により復興の財源となる荘園を得ているから、今回の要請も「強要」と受け取った者がいた可能性は、ある。頼朝との接点があったのは史実だし、彼の性格を知っている筈の 頼朝が「狂気の沙汰か」と表現したのは鎌倉の威光を利用したと受け取ったのか、或いは後白河との悶着を避けたいためか。 . 頼朝の生存中はギブ&テイクの関係を維持したが、死没後は一転して庇護者を失なって朝廷との関係も悪化し、佐渡や隠岐への流罪に処されている。 . . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 7月19日 庚子 . 吾妻鏡 . |
去る 9日の昼前後に京都に大地震があり 得長寿院、蓮花王院、最勝光院※が倒壊などの被害を受けた。また法住寺殿の御所も棟木が折れ厨房など少々の建物が倒れた。陰陽師は軽い事件ではない、と占っている。 .六條室町の義経邸は門も塀も全く被害を受けていない、まことに不思議な事件である、と。 . ※三棟の寺院: 得長寿院※は 清盛 の父忠盛が鳥羽上皇のために建てた祈願寺で、蓮華王院と同規模の 伽藍だったと伝わる。蓮華王院は同じ趣旨で建てた最初の三十三間堂(既に焼失)。 .. 現存する三十三間堂は清盛が 後白河法皇 のため法住寺殿の一画に建てた蓮華王院の一部で、建長元年 (1249) に全体が焼失し文永三年 (1266) に三十三間堂のみが再建された。最勝光院も同じ法住寺殿にあり、後白河院の后 建春門院 (清盛の義妹 滋子) の発願で建てた邸だったが、これも既に失われた。 .
平家物語の記述(年代の錯誤あり)は以下。忠盛が備前守だった頃に鳥羽上皇のため三十三間の御堂を建て一千一体の仏像を安置して寄進した。供養は天承元年 (1131) 3月11日、深く感激した鳥羽上皇は国司が不在だった但馬国を与えて内裏への昇殿を許した。この時の忠盛は 36歳。 .. 少々の蛇足を この措置を妬んだ殿上人が忠盛の闇討ちを計画し逆に忠盛の威嚇 (銀紙を貼った木刀) と一の郎党と称された家定 (平貞能の父) の示威行動に屈して断念する事件が起きている。 . ※得長寿院: 右画像は左京区岡崎徳成町の徳成橋南東詰、500m西で鴨川に入る琵琶湖疏水の岸辺に建つ 得長寿院の旧跡碑 (地図) 。 画像をクリック→ 別窓で拡大表示 .. . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 7月22日 壬寅 . 吾妻鏡 . |
日向国の住人富山二郎大夫義良など鎮西の武士たちが御家人に列するにあたり、他人の領地を犯すなどの違法を禁じる旨の下文数通を発行した。 .. . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 7月23日 甲辰 . 吾妻鏡 . |
山城介久兼が頼朝の招きを受け京都から参着した。著名な神社の祭礼などで活動する優れた楽人で、鎌倉でも必要になった専門職である。
.. . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 7月26日 丁未 . 吾妻鏡 . | . . ※仲快: 清盛の弟 教盛の息子で天台宗の僧。文治五年 (1189) に帰洛し、建久六年 (1195) には上洛した 頼朝と共に再び鎌倉に下向、後に三代将軍 実朝の信頼を受けて鎌倉を数回訪れている。 .朝廷と幕府の双方から崇敬された高僧である。 ※小河郷: 富士山の伏流水で有名な柿田川湧水地のある清水町一帯で、伊豆国田方郡十三郷の一つ。 郡家があったのは現在の小河泉水神社 地図 の南側付近だったらしい。三嶋大社も近いから、頼朝と同じ伊豆流罪でも蛭ヶ小島よりはマシなエリア、だったかも。
.. . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 7月29日 庚戌 . 吾妻鏡 . |
高階泰経卿の書状が到着。今月の上旬、佛厳上人 (九条兼実に近侍し祈祷などに任じた真言宗の僧) の夢に大勢の赤衣の者 (この比喩は五位の官位か、平家一門か) が現れ「無実の者が平家の縁坐として流罪に処された例が多く、今回の地震はそれが原因である。滅亡した人々の罪科を贖うため、去る5月27日に読経を続けた結果として、流罪中の僧らが許される事になったのは誠に喜ばしい」と。
.. ※高階泰経: 後白河院の近臣として外部との折衝に任じていた関係から平家、義仲、義経、行家らとの 接触を繰り返したため、政変のたびに解官と再任を繰り返した能吏。 .11月に義経失脚関連で伊豆流罪になり、文治五年 (1189) には政界に復帰した。 愚かな上司 後白河のケツを拭く役を担った忠臣、とも言える。 . . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 8月 4日 甲寅 . 吾妻鏡 . |
吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ .. 前 備前守行家は頼朝の叔父 (義朝の末弟) である。平氏との合戦に再三派遣したにも関わらず最後まで功績を挙げなかったため頼朝の評価は著しく低い。行家も進んで鎌倉に参向しようとせず、西国に留まったまま関東の威を以て人々を押さえ付けている。のみならず、謀反の気配さえも既に発覚したため、近国の御家人を招集して追討せよとの指示書を 佐々木定綱に宛てて発行した。 . . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 8月13日 癸亥 . 吾妻鏡 . |
京都に駐在している中原久経と近藤七国平の使者が到着。後白河の御下文を携えて鎮西に赴き任務を終え、使者がその御下文の書写を藤原俊兼に提出した。内容は以下の通り。
. 太宰府ならびに管理下にある諸国の在庁官人に下す。 .. 従二位 頼朝卿の使者である中原久経と藤原国平の命令に従い早急に武士の違法行為を停止させ土地の管理を国と荘園と国司と領家に任せる事。 . 謀叛の輩 (平家) が追討されて以後も武士による横領や勝手な決裁が横行している。管理の任にある官人は新しく出された規定を停止し従来の規則を守るよう、去る6月に院庁下文を発行した。頼朝卿の指示書を副えて久経と国平がこれを執行している。 早く違法行為を停止し、全ての所有権の執行を元通りに戻すよう命令する。 . 太宰府ならびに管理下にある諸国の在庁官人はこれを承知し、違反や漏れのないよう措置せよ。 . 元暦二年 7月28日 別当大納言藤原実房から末席の右馬頭高階朝臣まで、計13人の連名 . . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 8月14日 甲子 . 吾妻鏡 . |
元暦二年を改め 文治元年に。左大弁兼光がこの年号を選び奏上した。
. . 82代 後鳥羽 . 8月14日 甲子 . 吉 記 . |
今日、改元あり。公卿堀河大納言 (忠親) 、別当 (家通) 、大宮中納言 (実宗) 、左兵衛の督 (頼実) 、 藤中納言 (定能) 、籐宰相 (雅長) 、平宰相 (親宗) 、新宰相中将 (通実) らが協議して 文治を定めた。 . . . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 8月16日 丙寅 . 玉 葉 . |
今夜、除目が行われた。頼朝の意思に拠り受領六ヶ国は全て源氏である。その中で義経が伊予守に就いた。 大夫尉との兼任は未曾有にして未曽有である。 . . . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 8月20日 庚午 . 吾妻鏡 . |
頼朝に呼ばれた専光房が伊豆国から到着。故 義朝の遺骨が京都から届いた際に南御堂 (勝長寿院) に埋葬し仏事を催す準備のためである。 .. ※専光房: 頼朝の仏典の師だった走湯山 (伊豆山権現) の住僧 専光坊良暹を差す。 吾妻鏡の治承四年 (1180) 10月11日と12日に記載がある。 .. . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 8月21日 辛未 . 吾妻鏡 . |
鹿島社神主の中臣親広と 下河辺政義が御前に呼ばれ、鹿島社に寄進されていた常陸国 橘郷※の裁決のため対面した。常陸国南部の惣地頭職 下河辺政義が郡内であると主張して橘郷を押領し、神主の妻子を譴責して命令に従う旨の誓約書を書かせた、これが親広の訴えである。 .. 政義は弁解ができず、目代による失態であると述べた。頼朝は今後は違法を停止し先例の通り神事を行えるよう温情のある裁決を下した。神主が退出した後もその場に残っていた政義に「お前は戦場では抜群の武勇を発揮するのに親広には神妙になるのか」と笑った。政義は「鹿島は勇士を守護する神、逆らうのは恐れ多い。言いたい事はありますが弁解はできません。」と語った。 . ※常陸国橘郷: 嵐を鎮めるため入水した弟橘姫の笄 (こうがい) が流れ着いた伝説が残る霞ヶ浦北岸の . . . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 8月23日 癸酉 . 吾妻鏡 . |
絵師の宅間 (藤原) 為久が京都から再び参着。新たに建造した御堂 (勝長寿院) の仏画を描くためである。 .. . ※宅間為久: 頼朝に招かれ京から鎌倉に入り後に定住する絵師。吾妻鏡の前年1月22日に記載がある。 . . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 8月24日 甲戌 . 吾妻鏡 . |
吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ . 下河辺庄司行平が許可を得て昨夜鎌倉に参着した。範頼に副えて西国で転戦し軍功を挙げた武士である。多くの御家人が苦境に耐え切れず帰国したのに行平は今まで留まっていた事を賞賛され、平賀義信や 北條時政などが列座する中に呼ばれた。行平は土産として九州で一番と称される弓一張りを献上した。 . 頼朝は不審を感じて行平を問い詰めた。 . 軽々しくは受け取れぬ。鎮西に派遣した東国御家人の多くが兵糧不足を訴え大将軍を見捨てて勝手に帰国した。行平の所領とは何日もの距離を隔てているのに乗馬も売ることもなく参上し、更に酒や土産まで持参した。九州で賄賂でも得なければ貯えなど有り得ないだろう。
.行平はこれに答えて次のように語った。 . 周防国では食料を調達できず郎党を養うために彼らの甲冑も武器も売り払いました。豊後国に渡る際の御家人は範頼の軍船に同乗しましたが、私は忠義を尽くすため残しておいた自分の甲冑を小舟と交換し甲冑なしに上陸して美気三郎を討ち取りました。この功績は大将軍が確認した通りです。
. 帰参に際しては土産がないのを残念に思い、たまたま九州一の弓の持ち主が売りに出していたため小袖の一枚を脱いで交換しました。この経緯は出発の時に会った範頼殿の家臣が知っていますから確認してください。. 頼朝は感涙を浮かべて行平の心意気を喜び「行平は日本無双の武士である。良い弓を判断するのに行平以上の目利きはいない、逸品に違いない。」と広澤三郎に弦を張らせて自ら引き満足の意を表した。 . 次いで行平に酒盃を与え 「西国の殆どを手中に収めた。今回の勲功で一国の守護職に任じようと思うがどの国を望むか。」 と。行平は 「播磨国※は須摩や明石などがある景勝地で書写山 (姫路市の 圓教寺、公式サイト) の如き霊場もあり、最も望む場所です。」 と答え、早々に手配しようとの承諾を得た。 . ※播磨国守護: なぜか代々の守護に行平の名は記載がなく、1184〜1199年は梶原景時が任じている。 頼朝が約束を守らなかったのか、それとも気が変わったのか。 .. 平安時代末期の守護 (惣追捕使) 任命権は、平家の滅亡に伴って頼朝が停止を奏上している (百練抄 (練は金偏) の 6月19日に記載)。翌年に行家と義経の捜索を目的に国地頭が設置されたが、守護の正式な復活は建久二年 (1191) の3月となる。立ち消えか? . . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 8月27日 丁丑 . 吾妻鏡 . |
昼前後に御霊社※がまるで地震のように揺れた。以前から不審に感じていた 大庭景能が驚いて報告した。 .頼朝が現地を確認すると本殿の扉が左右とも破損していた。これを陳謝するために祈願書を献じて巫女らの関係者に藍摺り二反を贈り、神楽を奉納してから帰還した。 . ※御霊社: 鎌倉坂ノ下、鎌倉権五郎景政を祀った御霊神社 (別窓) を差す。 . . . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 8月28日 戊寅 . 吾妻鏡 . |
頼朝は書状を朝廷に送った。使者は勅使河原後三郎、葛上と神湯両荘園に付いて院の下文を求める件である。 .. . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 8月28日 戊寅 . 玉 葉 . |
東大寺 金銅廬舎那仏 (大仏) の開眼供養である。朝から雨の気配があり午後は大雨になった。法会の感動を妨げる天候は残念の限りだが、開眼の儀式が終わる時まで降雨ならばそれもまた効験であろう。 . . . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 8月29日 己卯 . 吾妻鏡 . |
去る 16日に小叙目※があり 聞き書きが (都から) 到着した。源氏の多くが朝廷の叙任を得た。山名義範が伊豆守、大内惟義が相模守、足利義兼が上総介、加賀美遠光が信濃守、安田義資※が越後守、義経が伊予守 など。 .. 義経の官職について前回は保留処分にしたものの、去る 4月の頃には内々で朝廷に根回しをしていたのだが、その後に義経の不義 (謀反) が露見したため取り消しできず朝廷の裁可に委ねた。 . その他の五ヶ国については、各々の希望と合戦の勲功と頼朝の威光に沿った決定であり、鎌倉に任命が委ねられたもの(関東御分国)である。国務に務め統治せよとの指示である。 . ※小叙目: 正式な叙目 (除書、除目とも) は春と秋の二回、その他臨時の小規模な叙目が小叙目。 除は前官を 「徐」 して新官を 「目録」 に記録する、の意味。私は単なる 「叙」 だと思っていた。 .※安田義資: 義定の嫡子。奥州合戦でも軍功を挙げたが建久四年 (1193) 11月の永福寺薬師堂落慶供養の 際に女官に艶書を渡した罪を問われ、頼朝の命令で 加藤景廉に梟首される。 .. 梶原景季の妾から景季→ 景時を通じて将軍の耳に入った。直後に義定は遠江守護を解任され 翌年9月に追討される。一條忠頼、武田信義に続く甲斐源氏排除計画の一環である。 北條義時なんか御所の女官 (姫の前、比企朝宗の娘) に一年間も艶書送り続けたのに、ね。 . . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 8月30日 庚辰 . 吾妻鏡 . |
頼朝の本意は孝行だが、まだ父 義朝の廟所を造れずにいた。平治の乱で義朝が没した後は毎日の法華経転読で菩提を弔っていた。覇権を得た今、新たな伽藍を建て父の廟を設けようと考え、密かに院に奏上していた。 .. 後白河法皇もまた頼朝の勲功を認め、去る 12日に判官に命じて義朝の首を探し出した。大江判官公朝が勅使として 鎌田政清 (次郎兵衛尉) の首と共に鎌倉に到着、頼朝は水干を素服 (無染の喪服) に着替え固瀬川 (片瀬、地図) で勅使を迎えた。文覚の弟子が首に懸けた義朝の遺骨は頼朝が自ら受け取り、御所に還御した。 . また特に義朝の帰依が深かった播磨国書写山 は性空上人の開創であり、法華経転読を続けている霊場である。昔と同様に復興させるよう大蔵卿 高階泰経に伝えていた。これを改めて奏上するよう内々に意向を伝えた。 . ※性空上人: 平安時代中期の天台宗の僧。24日の 下河辺庄司行平の項にも名前がある。詳細は Wikiで。 . 【 平家物語 巻十二 紺掻之沙汰 】 清和天皇水尾山陵も参考に。 . 文治元年 (1185) 8月22日、高雄の 文覚上人が頼朝卿の父 左馬頭 義朝の遺骨を首に懸け、鎌田兵衛の遺骨を弟子の首に懸けて鎌倉に入った。去る治承四年 (1180) の頃に見せた首は本物ではなく、挙兵を勧めるために古い頭骨を白布に包んで見せたものだった。 .. 義朝の首は獄門に架けられ弔う者もいなかったが、以前の従僕が検非違使に願い出て首を貰い受け、東山の 円覚寺 (紹介サイト) に納めていた。 . 文覚は義朝の遺骨を自分の首に掛け、鎌田正清の遺骨を弟子の首に掛けて鎌倉に戻ってきた。頼朝は庭にかしこまって首を受け取り、居並ぶ者たちは涙を流した。左大弁兼忠が勅使として義朝に内大臣正二位を贈位した。頼朝の武勇によって亡父が名誉を得たのは目出度いことである。 . . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 9月 1日 辛巳 . 吾妻鏡 . |
吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ .. 勅使 大江公朝が御所で頼朝に面会して盃酒を勧められ間もなく退出、砂金十両と鞍置きの馬一疋を贈られた。また籐判官代邦通を使者として長絹20疋(=40反)、紺絹30端(=30反、30着分)を彼の宿舎(東御門の比企能員邸)に届けさせた。 . ※東御門の比企邸: 比企ヶ谷 (現在の 妙本寺、公式サイト)が頼朝に与えられた屋敷だから御所に近い . . . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 9月 2日 壬午 . 吾妻鏡 . |
梶原景季と 義勝房成尋が使節として京に向かった。南御堂 (勝長寿院) 供養の僧への布施に関する件と、概ね京で手配した堂に飾る品々の輸送などを手配するのが目的である。
※時忠の娘 (蕨姫) : 時忠は 9月23日に配流地能登に出発するが娘が同行した形跡なし、11月3日からの
. また平家の縁に関わって流罪が決定したのに配所に出発せず京に留まっている者は (恩赦があれば別だが) 早急に処理するよう朝廷に申し入れよ、と。次に使者として 義経の宿舎に赴いて 行家の所在を問い質し、行家追討の命令を伝えて義経の反応を確かめよと景季に指示を与えた。 . 去る 5月20日に 前大納言 時忠卿らに配流の布告が出たのに京に留まっている。義経は時忠の婿としての好意から流刑を実施せず、更に行家を味方にして関東への謀反を企んでいる噂があるためだ、と。 . . 【平家物語 巻第十一 十四 文沙汰】 は次の様に書いている。 . 時忠は嫡子時実を呼び「外部に漏れたら大変な書状一通が義経の手元にある、どうすべきか」と言うと時実は「義経は勇猛ですが女房の言葉には耳を傾けるとか。娘を与えて親しくさせては如何かと。」
.. 時忠は「昔なら朝廷の女御や后にもなれたのに義経程度の者に」と嘆き、 (現在の妻が産んだ) 17歳の娘は可愛いので、22歳になる先妻の娘を嫁がせた。 . この娘は美しく心も優しかったため義経は喜び、正妻の郷御前 (河越重頼の娘) を他所に移して座敷に迎え入れた。やがて書状の件を娘に問わせると義経は封も切らず送り返し、時忠は直ちにこれを焼き捨てた。 . 義経逃避行に同行した記録もなく、配流地の能登には彼女の伝承が残っている。 .. . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 9月 3日 癸未 . 吾妻鏡 . |
深夜、故義朝の遺骨が (鎌田政清の首を添え) 恵眼房と専光房※の差配で南御堂に葬られた。武蔵守 平賀義信と 陸奥 (源、毛利) 義隆が輿を担ぎ、素服の頼朝が続いた。集まった多くの御家人は寺域の外に待機した。 .. 埋葬に参列を許されたのは平治の乱に際して義朝に従っていた平賀義信と、逃走中※に義朝の身代わりになって討たれた 陸奥 (源) 義隆の息子 頼隆と、義信の嫡男 大内惟義のみ。昔日の忠義を思っての事である。 . ※文覚の弟子: 恵眼房性我は同年 10月24日に完成供養を行なった勝長寿院の初代別当に任じ頼朝夫妻の の深い帰依を受けた。同行したもう一人の弟子大覚房行慈は文覚が神護寺再興のため京に帰った後を継いで幕府の行事に再三登場し、建久十年 (1199) 3月2日には頼朝四十九日法要の導師を務めている。専光房良暹は走湯山 (伊豆山) の住僧。 .※逃亡ルート: 平治の乱後の動きと毛利義隆が討死にした場所は 龍華越えの地図 (別窓) を参考に。 . . . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 9月 4日 甲申 . 吾妻鏡 . |
(8月30日に鎌倉に到着した) 院の勅使 大江判官公朝が京に向かった。風邪のため逗留が長引いたこともあって頼朝の接待は丁重だった。また去る 7月の大地震を鎮める祈祷が行われ、善政が天下に満ちる事と 崇徳院の御霊を崇め奉るべき事などを京に申し送った。天皇家の繁栄と追善を願う頼朝の心である。 .. . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 9月 5日 乙酉 . 吾妻鏡 . |
小山太郎有高※が威光寺領を押領した旨を寺僧が訴えたため、違法を停止し従来通り運営を寺に戻し「権利について異論があれば政所に申し出よ」とした。 .惟宗孝尚、橘判官代以広、籐判官代邦通がこの件を差配し、大江広元、二階堂行政、大中臣秋家※、足立遠元が決裁して署名し、新籐次俊長と 小中太 (中原) 光家らが使者として有高に通告した。 . ※威光寺領: このトラブルは 4月13日に決裁され寺に返還せよとの命令書が公文所から発行済みの筈。 小山有高 (下野の小山氏とは無関係の横山党の武士) が命令に従っていないという事か。 .※大中臣秋家: 前年 6月18日に載っている「舞曲に秀でた一條忠頼の遺臣 甲斐小四郎秋家」を差す。 頼朝に採用され公文所の寄人 (事務処理担当の職員) になった。 .. 建久四年 (1193) に土佐の宗我部郷と深淵郷 (共に高知県香南市役所周辺) の地頭に任じ、建仁の頃 (1202年頃) には忠頼の遺児 一條秋通を養子 (香宗我部氏 (後に長宗我部氏の一族) の祖) に迎えた、と伝わっている。 . . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 9月10日 庚寅 . 吾妻鏡 . |
南御堂落慶供養の導師は本覚院 (本学院) の僧正公顕※に打診していたところ受諾する旨の連絡が届いた。
.. 鎌倉下向に対応して宿泊などの手配を御家人に割り振る作業は 大江広元と齋院次官の 中原親能が差配、出発に当っての細かい手配は 佐々木定綱がこれを担当する。 .
※本覚院公顕: 文治四年 (1188) 1月には尊勝寺を除いた京都の
六勝寺 (法勝寺、最勝寺、成勝寺、延勝寺、円勝寺) の別当に就任、建久三年 (1192) 12月には二階堂の永福寺落慶供養の導師も務め、文治六年 (1190) に第60世天台座主に就任する。 .. 尊勝寺が除外された理由は判らない。尊勝寺は天王寺町団地から南南東の京都会館までが寺域で 団地東側 (地図) に案内表示が建っている。 . 当然ながら、当時は団地も平安神宮も京都会館も疎水もなかったからね。平安神宮西側、昨今の京都では比較的静かな散策が楽しめるエリア、7月19日に記載した得長寿院跡からは徒歩で約 200mだ。 画像をクリック→ 別窓で拡大表示。 . . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 9月12日 壬辰 . 吾妻鏡 . | . . . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 9月18日 戊戌 . 吾妻鏡 . |
吉田経房卿は廉直な朝臣であるため、頼朝は密接に連絡を交わし情報交換している。 .先般、中納言の地位を望んでいる旨を内々に伝えてきたため頼朝がこれを推挙したものである。 . . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 9月18日 戊戌 . 玉 葉 . | . . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 9月21日 辛丑 . 吾妻鏡 . |
範頼の使者が到着。「既に九州を離れ、今月中入洛出来ると思う、8月中入洛の指示を受けていたが風波のため遅れたのは恐縮である」、と。使者を入洛前に派遣するのは命令を重んじる証である、と頼朝は感心した。 .. . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 9月23日 癸卯 . 吾妻鏡 . |
前大納言 平時忠卿が配流地の能登の国に向って出発した。
.. . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 9月29日 己酉 . 吾妻鏡 . | . . . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 10月 3日 壬子 . 吾妻鏡 . |
吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ .. 南御堂落慶供養に関する僧への布施と各所への贈与品などを頼朝が見回り、一條能保と相談などを交わした。 また自分および布施を扱う者の装束 20組を既に京都に注文してあり、義勝房成尋がこれを運んで昨夜到着、担当する者らに配付した。大江広元と 筑後権守俊兼がこれを差配した。 . . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 10月 6日 乙卯 . 吾妻鏡 . |
梶原景季が京都から参着。御前で報告して曰く、 . 義経邸に行って使者の趣きを申し述べたが体調不良を称して面会ができず、従って内密に伝える筈の件は話せないまま六條油小路の宿舎に帰った。 .. 一両日後に再度訪れたところ脇息に凭れて面会したが憔悴して灸の跡が数ヶ所に見られた。 試みに行家追討の件を話したところ、「病気を偽ってはいない。私の考えとしては、たとえ強盗のような犯人であっても取り調べるのが順序である。まして行家は他人ではなく同じ六孫王※の子孫として弓馬の道にある武士だから簡単ではない。家人だけを派遣しても降伏はしないだろう。従って体調が回復したら私が計略を立てよう。」と述べた、と。 これを聞いた頼朝が「行家と合意していながら病気と偽っているのは既に判っている事だ。」と。 梶原景時がこの言葉を受け止めて、 . 最初の日に面会せず一両日後に会ったのは一日食を断ち一晩眠らなければ憔悴して見えるからだ。灸の跡など直ぐできるし日数があれば更に簡単、一両日を隔てたのは計画的な行動で疑問の余地はない。 .. ※六孫王: 父は 清和天皇 第六皇子の貞純親王、生母は第五代文徳天皇の皇子で右大臣の源能有の娘。 皇籍にあった時には六孫王を名乗り、臣籍降下してから 源経基を名乗った。彼が清和源氏の祖、とされる。 .. . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 10月 9日 戊午 . 吾妻鏡 . |
義経追討に関して日頃から会議を重ね、土佐房昌俊を討手として派遣することを決した。頼朝は誰もがこの役目を辞退する気配の中で土佐房昌俊※が応じた事を喜んだ。出発に際して土佐房昌俊は御前に進み、下野国に残していく老母と幼子に配慮頂くよう願い、頼朝はそれを承諾して下野国中泉庄※を与えた。昌俊は弟の三上弥六家季、錦織三郎、門真太郎、藍沢二郎ら 83騎の軍勢を引き連れ、行程 9日の予定で出発した。 .. ※土佐房昌俊: 義経追討の場面のみに登場するので人名辞典には載せていないが多くの軍記物語は義朝 の近習で、主人の最期まで付き従っていた 金王丸と同一人物としている。更に金王丸は渋谷重国の一族 平三家重 (この人物は系図に記載なし、だが) の息子である、と。 .人名辞典の「金王丸」の項と、義朝が謀殺された 野間大坊の項を参照されたし。 . . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 10月11日 庚申 . 吾妻鏡 . |
南御堂の本尊背後を彩る壁画が完成、極楽浄土の様子と二十五菩薩の姿を描いている。頼朝が来臨して「浄土を描いた箇所にある三日月の欠けた部分は、丸い月の部分を暗くして描くべきなのに単なる三日月だけを描いている、本来の姿ではない」と指摘した。絵師の 宅間爲久 (8月23日参照) は修正できずに削り取った。 .. 今日、佐々木成綱 (本佐々木の一族) の所領を以前の通りに安堵すると定めた。ただし詳細は 佐々木定綱の指示に従え、と。同族ではなく、佐々木庄の惣管領は定綱で、成綱の所領がその中に含まれているためである。 . ※佐々木氏: 平安中期に 59代宇多天皇 (867〜931年) の玄孫 源成頼 (976〜1003年) が近江国の佐々木庄 に下向して佐々木を名乗り四代後の 秀義から嫡子 定綱に続いたのが宇多源氏 (近江源氏) で、第8代孝元天皇 (欠史8代 (天皇家の系図を参照) の一人) の皇子 大毘古神の子孫で安土に土着した古代豪族 沙沙貴山君の系統が本佐々木氏。 .秀義は 義朝に味方して近江を追われ、頼朝の勝利によって本領に復帰したことになる。 . . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 10月13日 壬戌 . 吾妻鏡 . |
去る11日および本日、義経が密かに院に参上し奏聞して曰く。前の備前守行家が鎌倉に背いて謀叛を企てたがその原因は頼朝が彼を殺せと (私に) 命じたためで、どんな理由で無罪の叔父を殺すのかと悩んだ結果である。私が制止しても聞こうとしない。 .. 私もまた悪行を重ねた平家を討伐して平和を実現した、これは大きな功績※の筈なのに頼朝はそれに報いようとせず再三の功績で得た 24ヶ所の所領も没収さしてしまった。 . 更には追討する計画もあるらしいので、それを避けるために行家と協力する。もし頼朝追討の勅許が得られなければ二人とも宮中で自殺するつもりである、と。後白河は取り敢えず怒りを鎮めよ、と答えた。 . ※大きな功績: 実務能力に欠ける上に 志田義憲→ 木曽義仲→ 義経へと変節した行家の評価が低いのは . . . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 10月13日 壬戌 . 玉 葉 . |
早朝に季長朝臣 (優れた家司の源季長) 来て話したのは次の通り。 . 義経と行家が協力して鎌倉に叛く計画が露見し、既に噂の域を越えている。頼朝の郎従や親族の中にも頼朝に怨みを抱く者がいて 義経や行家に心を寄せているし、頼朝が法皇の叡慮に叛くことに反感を持ち義経らに協力する動きがある。仔細は不明だが奥州の藤原秀衡も協力する、らしい、義経と行家の蜂起は既に明白である。 . . . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 10月14日 癸亥 . 吾妻鏡 . |
院宣が鎌倉に到着。遠江守である 安田 (武田) 義定は朝廷の命令に背いていると主張し、転任を求めている。 .頼朝は穏当な表現で義定に沙汰を出した。 遠江国小杉御厨※は伊勢神宮領であり、これは既に宣旨が下された通り明らかである。国司による業務妨害があるのは不都合なので年貢の徴収などを早急に旧に復すよう、院宣に基づいて通達する。 .9月24日 遠江守殿 右馬助※ . . ※小杉御厨: 現在の焼津市上小杉(地図)。現地の詳細は こちら (外部サイト) が詳しい。 . ※右馬助: 信濃村上氏 (家格は門葉に次ぐ) の御家人 村上経業を差す。尊卑分脈は 三位頼政の娘婿として いる。勝長寿院の落慶、永福寺薬師堂の落慶、頼朝の二度の上洛などに随行している。 .. . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 10月14日 癸亥 . 玉 葉 . |
夜になって藤原定能卿からの情報。 (世情案の様子を) 法皇に報告すると不快の感想より喜びの方が強い様子だった。昨今は世間の騒動が著しく、頼朝の時代は再び大乱になる可能性に気が付かないのだろうか。 過酷な政令はまるで秦の始皇帝を思わせ、誰もが怨みを抱いている様に見える。 . . . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 10月15日 甲子 . 吾妻鏡 . |
齋宮 (Wiki) の潔斎に関わる費用の手配依頼および伊勢神宮領の伊澤神戸、鈴母御厨、沼田御牧、員部神戸、田公御厨※などで武士による根拠のない押領が頻発している。確認して処理せよとの院宣が届いた。 .明細は別紙。 . ※伊勢神宮領: 御厨と荘園の所在地などは面倒なので知名度の高いもの以外は記載せず。 いずれ荘園目録でも見て一括調査したい。まぁいつになるか判らんが。 .. . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 10月16日 乙丑 . 吾妻鏡 . |
豊後国の住人臼杵二郎惟隆、緒方三郎惟栄※らは去年の合戦に際して宇佐宇佐神宮の宝物蔵を破り宝物を略奪した。流罪に処す官符が発行されたが、去る 4日に特例として赦免された。 .. ※臼杵と緒方: 緒方惟栄 (惟能、惟義とも言う) は治承五年 (1181) 2月29日に叛旗を翻して平家の家人と 戦った。更に今年の 1月26日には82艘の兵船を手配して範頼軍が周防国から豊後国に渡って九州を制圧する援助を行なっている。 .また 5月8日には神殿破却に関わる記事が載っている。平家追討の勢いを駆って、平家側の立場だった 宇佐八幡宮 (公式サイト) を攻撃し、戦功によって恩赦を受けたのだろう。 . . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 10月17日 丙寅 . 吾妻鏡 . |
吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
.. 土佐房昌俊は鎌倉の厳命に従い水尾谷十郎※以下 60余騎を率いて義経の六條室町亭を襲った。義経の家人は西河の辺※に出掛けており留守を守る者は少なかったが 佐藤忠信らが門から出て奮戦した。 . 急を聞き付けた行家も背後から加勢したため昌俊勢は退却し、義経の家人が追撃した。義経は直ちに院に駆けつけて事件の詳細と無事である旨を報告した。 .
※水尾谷十郎: 埼玉県比企郡川島町の広徳寺伝承では、頼朝の
郎党 三尾谷 (水尾谷) 広徳が屋敷地に創建したのが最初と伝わる (地図) 。 .敷地内の大御堂 (室町時代の再建、右画像) は北條政子の寄進だったと伝わっているが、寄進した経緯については残念ながら不明である。 . 画像をクリック→ 別窓で拡大表示 . 比企氏所領の南限に近い上に昌俊の本拠 佐野付近から距離がるため、土佐房の血縁ではなく頼朝の郎党が追討に参加したと考えるべきか。 ※西河の辺: 阪急西京極駅の南 (地図) で六條室町亭 (地図) から約 4km西、遊里でもあったか。 六條室町亭から後白河院の法住寺殿 (地図)までの距離は約 2km。 .. . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 10月17日 丙寅 . 玉 葉 . |
去る 11日に義経が奏聞して言上した。「行家は既に頼朝に叛きました。制止しても無駄でした」とのこと、更に制止を命じたが13日になって義経も謀反に加担すると言い出した。
. その理由は「身命を賭して大きな功績を挙げたのは再三であります。全ては頼朝の代官としての、褒められるべき勲功であります。しかし恩賞である伊予の国および支給を受けた没官領 20数ヶ所は全て取り上げて郎従らに供与し、更に郎従を派遣して誅殺しようとした有様です。 . この上は墨俣あたりで一戦を交え生死を決しようと考えております。」とのこと。静止しても聞かず、昨夜には「頼朝追討の宣旨が欲しい、もし勅許がなければ鎭西に向かう」と言い出した。その様子を見ると天皇と法皇と公卿を伴って下向する如き様子である。」 . . . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 10月18日 丁卯 . 吾妻鏡 . |
義経が求めた頼朝追討の宣旨を発行する可否について、院の御所で会議が行われた。当時の京に駐留する軍勢は義経のみ、勅許を得られず武力を使えば※誰も防御できない。取り敢えず院宣を下し、次に仔細を鎌倉に連絡すれば頼朝も怒らないだろうと判断し、蔵人頭左大弁兼皇后宮亮藤原光雅の名で頼朝追討の宣旨を与えた。 .. ※武力を使う: 後白河側近としては一昨年(寿永二年、1184年)11月19日の法住寺合戦で 義仲に蹂躙 された恐怖が残っていたのだろう。結果として義経は必要な軍勢を動員できず11月初旬に京都を退去したが、朝廷は「宣旨を発行した事について」頼朝の追求を受ける結果となる。安全保障にはリスクがつきものってことさ。 .. . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 10月18日 丁卯 . 玉 葉 . |
伝聞によると、頼朝追討の宣旨を下された、とのこと。 . . . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 10月19日 戊辰 . 吾妻鏡 . |
紛失していた後白河法皇の守護剣を検非違使の 大江広朝が探し出して献上した。この話が頼朝に伝わり文書で賞賛を受けた。これは 義朝 が (源氏の重宝である) 太刀を献上したもので、吠丸※と号し 鳩の蒔絵を施してある。亡き父が献じた宝刀が再び朝廷の守護剣に戻ったのは名誉であり感状に値する、と。
.. ※吠丸: 元の名は 膝丸 (Wiki) 。 「友切」 と名を改めた 「髭切」 と共に源氏の重宝とされた。 . . . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 10月19日 戊辰 . 玉 葉 . |
早朝に宣旨が発行された。 . 文治元年十月十八日 宣旨 . 従二位源頼朝卿は偏 (ひたすら) に武力を利用して朝廷の権威を侵害している。 前備前守 源朝臣行家と 左衛門少尉 源朝臣義経は彼の卿を追討せよ。 . 上卿左大臣 蔵人頭右大弁兼皇后宮亮 藤原光雅奉る . . . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 10月20日 己巳 . 吾妻鏡 . |
南御堂落慶供養の導師を務める本覚院坊 僧正公顕※が 20人の高僧を伴って鎌倉に到着。夜になって公顕に同行していた範頼が御所に入り、先月 27日に西国から京に入った事などの経過を報告した。
※僧正公顕: 9月19日に導師を引き受ける旨の連絡があった。詳細は当日の記事で。. また九州で院の重宝である御剣 鵜丸※を探し出し、今回入洛した際に献上した。これは平家が都落ちする際に清経が院の御所 法住寺殿から二振りの太刀(吠丸と鵜丸)を奪った中の一振りである、と。 .. また唐の錦十反、唐の綾絹羅など百十反、南廷 (銀の板) 三十、唐墨十個、茶碗二十、唐の花筵五十枚、米千石、牛十頭などを同じく院に献上したと報告。次に献上明細を 頼朝と御台所 政子に提出、唐錦、唐綾、唐絹、南廷 (五十)、甲冑、弓、八木 (米) 、大豆などである。 . . ※鵜丸: 保元物語 (上巻 第八章) は次の通り記述している。 . 白河上皇が神泉苑で鵜飼見物をした際に、特に優れた評判の鵜が二、三尺の物を引き上げては落とす動作を繰り返し、ついに長覆輪の太刀を咥え上げた。 .不思議に思った上皇は「これは霊剣で天下の珍宝だろう」と考えて鵜丸と名付け、鳥羽院 (74代鳥羽天皇) から新院 (崇徳院) を経て 為義 に授けられた。 ※献上品: 都落ちの際に持ち出し、彦島から壇ノ浦に出陣する際に平家が残した財物だろう。 . . . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 10月21日 庚午 . 吾妻鏡 . |
南御堂に本尊の丈六※阿弥陀像 (金箔、仏師は定朝※) を搬入して安置、三善康信、大和守 山田重弘と 二階堂行政がこれを差配した。 .今日、源頼兼が京都から参着。去る 5月に家人の久実が院の御座室から剣を盗んだ犯人を捕縛した功績で従五位上に叙された。久実もまた兵衛尉となったがこの叙位は息子の久長に譲ると申し出た。また御堂供養願文が京から届いた。原案は式部大夫光範、清書は右少弁定長、大江広元が御前で読み上げた。 . ※丈六: 一丈は 10尺だから丈六は 16尺、単純計算では約 485cmの仏像になる。仏の背丈は人の三倍と されるから、丈六が造像の基準サイズになった。実際には等倍だけではなく 2倍、5倍、10倍、半分なども造られている。坐像は立像の半分 (8尺、243cm) なのだが、呼称はそのまま
.「丈六の坐像」、つまり南御堂の本尊は実寸 8尺の坐像だった。
※仏師定朝: 定朝は慶尚に続く奈良仏師嫡流で、慶尚以前の仏像や神像
には銘を記録する習慣がなかった、と伝わる。 .. 左フレームの「仏師の系図」を参照されたし。 . 源氏嫡流の権威に拘る頼朝は院派や円派ではなく、力感溢れる作風で台頭した天才 運慶でもなく、現時点で最も権威の高い奈良仏師嫡流の成朝を指名した。 . 北條時政ら御家人たちは頼朝に憚って嫡流の成朝や弟弟子 の康慶を避け、頼朝のプライドを傷つけずに済む新興勢力の運慶や 実慶を抜擢、そんな経緯があったらしい。 . ちなみに、大仏師や小仏師の呼称には権威の格を示す意味もあるのだが例えば東大寺南大門の金剛力士像を手掛けるプロジェクト・リーダーが大仏師、その指揮下でチームを組むのが小仏師、そんなケースも混在した。 右上は「心頭滅却すれば」で有名な甲州市の 恵林寺の北側にある古刹 安田義定の菩提寺 放光寺(共に公式サイト) の山門を守る成朝作の金剛力士像 (阿形、像高 253cm) 。 .. 腹部両脇の筋肉などに稚拙な表現が見られるが、関東で見られる唯一の成朝作品らしい。 吽形を含む他の画像は当サイトの 甲斐放光寺 安田義定の廟所で。 . 蛇足として運慶の代表作 東大寺南大門の金剛力士像について。左の阿形像は 運慶と 快慶の作、右の吽形像は定覚と湛慶の作。運慶と定覚と快慶は兄弟弟子、湛慶は運慶の弟子、とされる。 . 頼朝が運慶の採用を避けた影響で、慶派の運慶と快慶と 実慶の作品は関東のかなり広い範囲に残されているのが実に嬉しい。 . . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 10月21日 庚午 . 玉 葉 . |
伝聞に拠れば、後白河法皇が鎮西に臨幸する件は許されず。従って義経と行家は計画変更を余儀なくされた。
. . . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 10月22日 辛未 . 吾妻鏡 . |
京都から 一條能保の家人が駆け付けて報告。去る 16日に行家の家臣宅を捜索※して下男らを捕え、行家が北小路東洞院※の屋敷に移ったのを確認した。 .また噂では去る 17日の土佐坊の襲撃は成功せず、行家と義経は頼朝追討の宣旨を得た。これを聞いた頼朝は特に動揺せず、南御堂落慶供養の事しか考えていない様子だった。 . ※家臣宅を捜索: 土佐坊が義経邸を襲撃する前日に行家の家臣宅の強制捜査は無意味だと思うが。 また、追討の宣旨発行は頼朝には痛くも痒くもない。院の武士も御家人も動く筈はないし、動いたら粛清できる。更に朝廷方が取引の材料を提供してくれたのだから。 .※北小路東洞院: 京都の住所は本当に面倒、大谷大学付近なら義経の堀川邸から約 6km北になる。 . . . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 10月22日 辛未 . 玉 葉 . |
伝聞に拠れば、宣下の後に義経らは御家人の参加を促したが多くは協力せず、と。 . . . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 10月23日 壬申 . 吾妻鏡 . |
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.. 山内瀧口経俊の従僕が伊勢国から駆け付けて報告。義経が宣旨を称して近国で軍兵を集めている。去る 19日には守護所を包囲されたから逃げられないだろう、と。頼朝は「事実ではなかろう、経俊は簡単に討たれるような者ではない」と語った。現在の経俊は伊勢守護※に任じている。 . 明日の南御堂落慶供養に列する護衛兵などの人選を行なった。その中で兼ねて参加する予定だった河越小太郎重房※は義経の縁者であるため除外された。 . ※伊勢守護: 前年 6月に三日平氏の乱が勃発、それまで守護だった 大内惟義が対応に失敗して山内経俊 に交替している。 (7月5日の項を参照)。 .※河越重房: 娘の郷姫を嫁がせて義経の舅となった 河越重頼の嫡男。重頼は 11月12日に所領を没収され 間もなく 16歳の重房も共に殺されている。頼朝は多少の配慮を見せて後家の河越尼 (頼朝の乳母 比企の尼の次女で 頼家の乳母を務める)に河越荘を安堵し、後に次男の重時が相続している。河越荘と重頼の墓所などレポートは 河越氏の本拠(川越) で。 .. . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 10月23日 壬申 . 玉 葉 . |
噂では、近江の武士らは義経に与せず距離を置いた、と。 . . . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 10月24日 癸酉 . 吾妻鏡 . |
南御堂 (勝長寿院を称す) の落慶供養である。寅の刻 (午前4時前後、西暦11月17日だからまだ真っ暗) に選抜した御家人が辻々を警護し宮内大輔重頼が会場全体を差配した。
. 堂の左右に仮屋を建てて左に頼朝の座席、右には御台所と一條能保室 (頼朝の同母妹の坊門姫) らの聴聞所 (読経などを聞く場所) を設けた。御堂の前に簀子を敷き布施を与える者 20人の座とした。山際には時政室 (牧の方) 及び然るべき御家人らの室の聴聞所がある。巳の刻 (10時前後) に頼朝が衣冠束帯姿で徒歩で出御した。 . 行列は、まず随兵 14人 . 畠山次郎重忠、千葉太郎胤正、三浦介義澄、佐貫四郎大夫広綱、葛西三郎清重、八田太郎朝重、 .榛谷四郎重朝、加藤次景廉、 籐九郎盛長、大井兵三次郎実春、山名小太郎重国 (山名義範の嫡子) 、 武田五郎信光、北條小四郎義時、小山兵衛尉朝政、 小山五郎宗政 (御剣を持つ) 、佐々木四郎左衛門尉高綱 (御鎧を着す) 、愛甲三郎季隆 (御調度を懸く) その後に五位六位 (布衣下括) 32人 . 源蔵人大夫頼兼、武蔵守義信、参河守範頼、遠江守安田義定、駿河守源廣綱、伊豆守山名義範、 .相模守大内惟義、越後守安田義資(御沓)、上総介足利義兼、前対馬守親光、前上野介範信、 皇后宮亮仲頼、大和守山田重弘、因幡守大江広元、宮内大輔重頼、村上右馬助経業、橘右馬助以広tion:none;">籐判官代邦通、新田蔵人義兼、奈胡蔵人義行、 所雑色基繁、千葉介常胤、同六郎大夫胤頼、宇都宮左衛門尉朝綱 (御沓手長) 、八田右衛門尉知家、 梶原刑部丞朝景、牧武者所宗親、後藤兵衛尉基清、足立右馬允遠元 (最後列) 次に随兵 16人 . 下河辺庄司行平、稲毛三郎重成、小山(結城) 七郎朝光、三浦十郎義連、長江太郎義景、天野籐内遠景、 .渋谷庄司重国、糟屋籐太有季、左衛門佐々木太郎定綱、小栗十郎重成、波多野小次郎忠綱、 広澤三郎実高、千葉平次常秀、梶原源太左衛門尉景季、村上左衛門尉頼時・加々美次郎長清 次に随兵 60人 (弓馬に優れた者を選抜。最後尾に列し頼朝が堂に入った後は門外の東西に控える) . 東方 足利七郎太郎、佐貫六郎、大河戸太郎、皆河四郎、千葉四郎、三浦平六、和田三郎、同五郎、 長江太郎、多々良四郎、沼田太郎、曽我小太郎、宇治蔵人三郎、江戸七郎、中山五郎、 山田太郎、天野平内、工藤小次郎、新田四郎、佐野又太郎・宇佐美平三、吉河二郎、 岡部小次郎、臼井六郎、中禅寺平太、常陸平四郎、所六郎、飯富源太 . 西方 豊嶋権守、丸太郎、堀籐太、武藤小次郎比企籐次、天羽次郎、都築平太、熊谷小次郎、 .那古谷橘次、多胡宗太、蓬七郎、中村馬允、金子十郎、春日三郎、小室太郎、河匂七郎、 阿保五郎、四方田三郎、苔田太郎、横山野三、西太郎、小河小次郎、戸崎右馬允、河原三郎、 仙波次郎、中村五郎、原次郎、猪俣平六、甘粕野次、勅使河原三郎 頼朝が門内に入り、和田義盛と梶原景時らが門外左右を整理し、頼朝が堂内へ。胤頼が脱いだ沓を持ち佐々木高綱が御鎧を着して前庭に控えた。〜 一部略 〜 . 次に直衣の一條能保が役人と護衛各一名を従えて着座、続いて前少将時家、侍従公佐、光盛、前上野介範信、前対馬守親光、宮内大輔重頼らが堂の前に、平賀義信らがその傍らに座した。 次いで導師公顕が僧 20人を率いて堂に入り、本尊の開眼供養の儀式を行った。 . 儀式後に布施を披露、比企籐内朝宗と右近将監家景らがこの役目である。前もって布施の品々を長櫃に入れて堂の軒先に置き、俊兼と二階堂行政らがこれを差配した。時家、公佐、光盛、頼兼、範信、親光、重頼、仲頼、広綱、義範、義資、重弘、広元、経業、以広、繁政、基繁、義兼、高重、邦通らが交代しながら布施を手渡した。 . 導師分として、錦被物五重、綾の被物五百重、綾二百端、長絹二百疋、染絹二百端、藍摺二百端、紺二百端、砂金二百両、銀二百両、法服一具 (錦の横被を副ゆ) 、上童装束十具馬三十疋 (牧宗親と北條時政が代官としてこれを差配) 、この内十疋に鞍を置き御家人らが手綱を引いた。残る二十匹は、御厩舎人らが引いた。 . 一の御馬は 千葉介常胤 と 足立右馬允遠元 . 二の御馬は 八田右衛門尉知家 と 比企籐四郎能員 . 三の御馬は 土肥次郎実平 と 工藤一臈祐経 . 四の御馬は 岡崎四郎義実 と 梶原平次景高 . 五の御馬は 浅沼四郎広綱 と 足立十郎太郎親成 . 六の御馬は 狩野介宗茂 と 中條籐次家長 . 七の御馬は 工藤庄司景光 と 宇佐美三郎祐茂 . 八の御馬は 安西三郎景益と曽我太郎祐信 . 九の御馬は 千葉二郎師常 と 印東四郎 . 十の御馬は 佐々木三郎盛綱 と 二宮小太郎 . 次に追加として 黄金造りの劔一腰、僧の装束と装束と銀造りの枝に付けた念珠、御衣一領を一條能保から手渡し、他に 米 500石を宿舎に届けさせた。 . 次に僧の分として各々に彩色被物三十重、絹五十疋、染絹五十端、白布百端、馬三疋(鞍を置いた馬一匹) である。全てが豪華で、これ程の積善は千載一遇と称えるべきだろう。 . . . ※ 面倒なのでコメントを省いて概ね直訳の記述にした。いずれ明細を確認して加筆する予定。 . . . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 10月25日 甲戌 . 吾妻鏡 . |
早朝、義経追討の命令を受けた軍士が京に向かった。 .まず尾張と美濃で在所の武士に足近※と洲俣(墨俣)一帯の渡を封鎖せよ、入洛したら躊躇せず真っ先に行家と義経を討て、京にいなければ頼朝上洛を待て、が指示である。 . ※足近: 羽島市足近町 (地図) 。東の木曽川と西の長良川に挟まれた要所で美濃路が東西に走る。 養和元年 (1181) 3月10日に義円が討死した 墨俣合戦場は約 4km北西の長良川西岸。 .. . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 10月25日 甲戌 . 玉 葉 . |
高階泰経が院宣を伝えた上で語った。「使者を頼朝の許に送って子細を伝えるべきである。ただし隠れて派遣したら、義経らに露見する恐れがある。従って院宣は彼らだけに伝えて取り敢えずの狼藉を抑止し、その上で頼朝に内情を報告するのは如何か。」と。私は「頼朝追討の宣旨は既に発行された。頼朝の怒りは当然予測されること、使者を送っても送らなくても結果は同じだろう。」と答えた。 . . . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 10月26日 乙亥 . 吾妻鏡 . |
土佐房昌俊と仲間の二人を鞍馬山の奥※で義経の家人らが捕えた。今日六條河原で斬首し、首を晒した。 .. ※鞍馬山の奥: 義経の堀川邸からは約 17km、京都からの逃亡は辺鄙な鞍馬口か大原口がベストか。 平治の乱に敗れた義朝主従の逃走も大原経由だった。京の七口 (Wiki) を参照。 .. . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 10月27日 丙子 . 吾妻鏡 . | . . . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 10月27日 丙子 . 玉 葉 . |
噂話が広まって鎮静する様子がない。義経は落ち着いているが郎従は院 (後白河) の同行を主張している、それがダメなら誰も同行させない方が良い、と。
. . . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 10月28日 丁丑 . 吾妻鏡 . | . . ※ 佐竹 (源頼義の四男 義光の子孫) と頼朝 (頼義の二男 義家 (長男義宗は早世) の子孫)は同族、片岡と 千葉も同じ平忠常の子孫。殆どの鎌倉武士が損得勘定に駆り立てられて代理戦争を戦っていた。 .. . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 10月29日 戊寅 . 吾妻鏡 . |
今日、義経と行家の謀反を討伐するため頼朝が京に向かった。東国の御家人は直ちに合流せよ、東山道と北陸道の御家人は近江と美濃に集結して待機せよとの命令書が発行された。
. また相模国の住人 原宗三郎宗房は特に勇敢な武士だが、石橋山合戦で 大庭景親に味方して頼朝を攻撃し、罪を恐れて逐電した。今は信濃国にいるらしいから共に洲俣 (墨俣) に参集せよと信濃国の御家人に指示した。 頼朝は巳の刻 (10時前後) に先陣を 土肥二郎実平に、後陣を 千葉介常胤として出陣※、今夜は相模国 中村荘に宿泊する。 . ※頼朝出陣: この時点の頼朝は義経に従う在京の御家人は殆どいないのを把握している。頼朝の行動は 後白河法皇と朝廷への軍事的圧力、義経に頼朝追討の宣旨を与えた事への恫喝である。 .. . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 10月29日 戊寅 . 玉 葉 . | . . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 10月30日 己卯 . 玉 葉 . |
義経らは明朝に京都を発つ計画らしい。噂では摂州の武士 太田太郎※が城郭を構えて九郎義経と十郎行家を射る態勢を整えた。船の手配を試みた九郎の郎従 紀伊権守兼資を討ち取ったため九郎義経は方針を変更して北陸を目差した、との噂もある。 . . ※太田太郎: 摂津島下郡 (現在の茨木市太田) の大和源氏 太田頼基を差す。平家物語は「義経の命令で 船の手配をした郎従を討ち、摂津河尻で合戦して敗れた、と書いている。 .. . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 11月 1日 庚辰 . 吾妻鏡 . |
吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ .. 頼朝は駿河国黄瀬河の驛※に到着。京都の詳しい情勢を確認するため暫くこの地に留まる。乗馬および糧食などの手配をせよ、と御家人らに命じた。 . ※黄瀬河の驛: 治承四年 (1180) 10月、頼朝は平家軍と戦うため松田から 足柄峠を越え富士川を目差して いた。この帰路に黄瀬川で奥州から駆け付けた 九郎義経が合流していたのに僅か四年で義経は純粋だった初心を忘れ、頼朝は独裁志向と共に猜疑心を強めた。
.. また同月 19日には伊豆鯉名 (小稲) で拘束された 伊東祐親が黄瀬河の陣に連行され、息子の 祐清は平家軍に加わるため京を目指した。 . 時が流れ人の心も変わったが、黄瀬川下流の風景は昔日の面影を残している。 . . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 11月 1日 庚辰 . 玉 葉 . |
今暁、九郎義経は出発を延期した。西海を目差す考えを改め北陸に向かうべきか、と。太田頼基らの妨害に拠るものか。今夜 藤原定能卿 (Wiki、従二位、権中納言) が来訪し「義経らが法皇を伴って動くのは有り得ないと再三申し上げた。疑いのない判断だが、起きないとは断定できぬ。」、と。 . . . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 11月 2日 辛巳 . 吾妻鏡 . |
義経は西国に赴こう※としている。船を確保するため大夫判官 (検非違使) の藤田友実を派遣したが、途中で庄四郎 (元は義経の家人で現在は離脱) に出会って問い質されて事情を話した。庄四郎が元通りに仕えたいと申し出たため共に義経の元に戻ったが、義経は庄四郎を殺した。 .. この友実は幼い頃は仁和寺宮に仕えていた越前国斎藤氏の一族 (実盛の同族?) でその後は平家に従い、次には義仲に従い、義仲の滅亡後は義経の家人になった。その結果がこれである。 . ※西国に赴く: 翌 3日の記事には「鎮西 (九州) を目指す」と書かれている。それにしても何が何だか 判らない記事だね。船は確保できたのか、なぜ庄四郎を殺したのか、主を転々とした友実の「結果がこれ」とは人心の移ろいを意味するのか。
.. . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 11月 3日 壬午 . 吾妻鏡 . |
行家 (桜威の甲冑) と義経 (赤地錦の直垂に萌葱威の甲冑) らは西海に向かった※。まず使者を院の御所に派遣し「鎌倉の追求を避けて鎮西 (九州) に落ち延びます。武装姿なので御挨拶を遠慮します。」と言上した。 .. 前中将 平時実、侍従良成 (義経の異父弟、一條大蔵卿長成の息子)、伊豆右衛門尉 源有綱、堀弥太郎景、佐藤四郎兵衛尉忠信、伊勢三郎能盛、片岡八郎弘綱 (常春) 、弁慶法師らが従い、総勢は 300騎である。 . ※義経西海へ: 判官のファンは 「義経は都での合戦を避けた」と評価しているらしいが、実際には合戦に 持ち込めるだけの兵力動員もできず、軽率さを後悔していたかも。優れた軍人は必ずしも優れた政治家たり得ないのは歴史が証明している。
.. . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 11月 3日 壬午 . 玉 葉 . |
昨夜から洛中の人々が (貴賤を問わず) 避難に追われている。今朝早くに九郎義経らが京を去るため、退去に伴う狼藉を恐れるためである。辰の刻 (朝 8時前後) に前備前守 源行家、伊豫守兼 左衛門尉 従五位下の義経 (殿上人) が各々退去を申告し、西海を目差して出発した。 . これは彼らの過怠ではなく頼朝による討伐を避けて下向するもので、頼朝討伐の宣旨は得たが近国の武士は叡慮から発した宣旨ではない事を知っているためそれに従わず、京都では関東の武士と合戦する力もない。その判断に基づく下向であり、義経らの判断は実に正当と評価すべきだろう。 . . . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 11月 4日 癸未 . 玉 葉 . |
今日、再び (近在の) 武士らが義経を追撃している。伝聞に拠れば、昨日河尻 (淀川河口一帯) で太田勢と合戦があり、義経勢が押し破って通り過ぎた、と。
. . . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 11月 5日 甲申 . 吾妻鏡 . |
鎌倉が派遣した御家人が入洛、まず左大臣藤原経宗に頼朝の怒りを申し入れた。 .. 今日、義経は河尻※に着き、摂津源氏の 多田行綱※と豊嶋冠者などが行く手を遮り矢を射掛けるなどしたが、義経勢に突破された。しかしながら義経勢は零落して勢いを失っており残兵も少なくなっている、と。 . ※河尻: 良く知られている淀川河口の釣り場 淀川尻 (地図) の辺りか、又は普通名詞か。出航地である . ※多田行綱: 出自など詳細はリンク先で。他の挿話として、軍記物語で義経の功績とされる「鵯越えの 逆落とし」は行綱の軍功が脚色されたと考える説が主流。義経は一ノ谷 (西側の塩屋口) を攻め、行綱が鵯越え攻略に任じていた。
詳しくは前年 (寿永二年 2月6日と7日)の一ノ谷の合戦で確認を。 . . . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 11月 5日 甲申 . 玉 葉 . |
九郎義経らは室 (不明) から出航した、と。 . . . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 11月 6日 乙酉 . 吾妻鏡 . |
行家と 義経は大物浦※から船出したが、突然の暴風による逆波で船が転覆し渡海は失敗した。同行者は分散し義経に従うのは 源有綱、堀景光、武蔵坊弁慶、妾女 (静) 、わずか四人である。この夜は天王寺付近に宿泊し、ここから行方不明になった。今日、彼らを探索する院宣が諸国に下された。 .. ※大物浦の転覆: 能や歌舞伎では暴風雨と共に現れた知盛の怨霊が義経主従を海に引き込もうとする。 やがて怨霊は弁慶の祈祷に敗れて消えるのだが、それと別に静の話題もあるのが面白い。詳しくは、「鎌倉時代を歩く 弐」の 能 「船弁慶」 の知盛怨霊で。 .. 大物町から天王寺 (現在の 四天王寺、公式サイト) までは 12kmほどの距離。 文治元年11月6日は西暦2025年の11月29日。遅い台風か、晩秋の悪天候か。 . . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 11月 7日 丙戌 . 吾妻鏡 . |
頼朝は軍勢を集めて進軍に備え、京都の情報を見定めるため黄瀬河驛に逗留している。去る三日に行家と義経が九州へ落ちたとの報告を受けたが、行家は四国の地頭で義経は九州の地頭に補任されており、更に「四国と九州の武士は両人の命令に従え」と命じた院の御下文を携えている。 .. 宣旨も院の御下文も、更に逆賊が求めるままに (頼朝追討の下文が) なぜ発行されるのか、なぜ私が挙げた勲功を正しく評価しないのか、それが頼朝の憤懣であり交渉の材料である。 と同時に、その宣旨が出される際に右大臣の 九条兼実が鎌倉の立場を弁護した件を知り喜んだ面もあった。 . 今日、義経が伊豫守と検非違使の官職を罷免された。 . . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 11月 7日 丙戌 . 玉 葉 . |
夜に入っての情報では、九郎義経と十郎行家らは豊後国 (大分県) の武士が討ち取った、と。また別の情報では逆風を受けて沈んだとも。共に確実ではないが取り敢えずは安心できる。事実ならば遺恨に絡んだ結果だが、天下の大慶なのは間違いない。 . . . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 11月 8日 丁亥 . 吾妻鏡 . | . . . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 11月 8日 丁亥 . 玉 葉 . |
伝聞では、義経と行家は去る 5日夜に出航し大物浦辺りに宿泊した。追い掛ける武士 (指揮官は手島冠者および 藤原範季 (Wiki、※) の息子 範資ら) は近くの民家に寄宿した。範資は儒者の家柄だが性格は勇士であり、蒲冠者範頼と親しい関係から在京する範頼の郎従を招集して合戦に備えた。 .. 合戦前の夜半になって強風が吹き荒れ、九郎らの船が悉く損壊、義経と行家らは小船一艘で和泉浦方面 (大阪府南部、和泉市) に逃げ去った。従う武者のある者は討たれある者は捕縛されて範頼の元に連行された。 . ※藤原範季: 当時は従四位下、後に従二位下に昇る公卿。後白河の近臣である共に、九条兼実の家司を 務めていた。頼朝挙兵前には陸奥守と鎮守府将軍を兼任して奥州に下向し 藤原秀衡や当時の義経とも交流を得た。その関係から河尻の合戦以後の11月には義経を匿ったことが露見し、頼朝の意向で解官されている。 .. 有能な行政官でありながら平家全盛時代に 義朝の遺児 範頼を養育し、九条兼実の家司でありながら兼実と円満ではない 後白河の院司を務め、頼朝に追われた 義経を匿い、奥州藤原氏滅亡後には 泰衡の弟 高衡を匿うなど権力に背を向けた行動が多く興味深い人物である。 没後五年が過ぎた承元四年 (1210) に左大臣 従一位を遺贈されている。 . . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 11月10日 己丑 . 吾妻鏡 . |
頼朝は鎌倉に還御。左典厩の一条能保※の話では、
. 都人の噂では義経反逆について頼朝追討宣旨の可否を左大臣経宗、右大臣九条兼実※、内大臣吉田経房が議論した際、右大臣は一貫して理に適う主張をした。 .. 内大臣は曖昧な意見で左大臣は早い宣旨発行を求める意見だったが、経房は一貫して否定的な意見に終始した。また刑部卿 難波頼経 と右馬権頭 (平) 業忠と廷尉 平知康は志が義経側にあり (宣旨発行に) 賛成した。」 との内容である。 . ※ 一条能保と九条兼実は共に後白河の近臣で、この当時は円満な関係だったが、建久二年 (1191) 前後 から露骨な対立を見せ始める。能保の妻 (坊門姫) は頼朝には唯一の同母姉妹、負ける筈はない。
. . . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 11月11日 庚寅 . 吾妻鏡 . |
反逆した義経らに取り敢えず宣旨を与え、追って関東の了解を得ようとしたのが院の叡慮だが、頼朝の怒りが激しく計画の通りには進まなかった。 .反逆を企んだ行家と義経は九州を目指し、6日に大物浦で難破したとの情報はあるが、生死は判然としない。早く武士を派遣して捕縛せよとの院宣を畿内周辺の国司らに宛てて発行させた。 . . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 11月12日 辛卯 . 吾妻鏡 . |
頼朝は駿河国以西の御家人に書状を送り次の様に命令した。 .. 九郎義経が既に京から落ち延びたため上洛は暫く見合わせる。ただし御家人はそれぞれ過怠なく、改めての命令に沿えるよう準備を整えよ。
.. また駿河国岡部権守泰綱は病気のため南御堂供養と黄瀬河出陣に参加しなかった。衰弱の身ではあるが鎌倉に参上して供に加わろうとしているのを聞き、上洛の予定はないから参向しないで良い、肥満の体を乗せられる馬もないだろうから準備を整えて指示に従え、と。 今日、河越重頼の所領を没収した。これは義経の縁者である事が理由である。伊勢国香取の五郷は大井兵三次郎実春に、その他は重頼の老母の預かりとした。下川辺四郎政義も重頼の婿なので所領召し上げとなった。 . 今回の事件は関東にとって重大であり、処置については頼朝も頭を悩ましている。大江広元の意見は以下。 . 世の中の変り目には無法が蔓延し天下を乱す者も絶えない。鎌倉の勢力範囲である東海道は落ち着いているが、遠隔地を鎮めるため毎回御家人を派遣するのも無駄である。この機会を利用して諸国の国衙と荘園を守護するために地頭※を配置すれば煩わされる事もない。早急に朝廷に願い出てはどうか、と。
.我が意を得た頼朝はこの件を進める決定をした。この忠言によって対応の安定が得られるようになった。 . ※地頭: 中・高校の日本史授業で散々習ったのを思い出す。取り敢えず詳細はwikiで確認されたし。 国司や領家からのピンハネ権を認めさせて幕府の支配を体系化したのだが、新しい権力は新しい腐敗を招く。平安時代から現代まで権力構造に本質的な進歩はないのかも。
.. 今では教育や科学の世界まで利権構造の網が張り巡らされている。「補助金目当ての御用学者」と「業界の支持票と政治献金のために働く政治屋」がタイアップする、嫌な世の中だ。 . . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 11月12日 辛卯 . 玉 葉 . |
義経と行家らを召捕縛せよとの院宣が諸国に下された。 (11月11日の条に同じ) 。
この二人には「頼朝を討て」との院宣が下され、今日にはこの宣旨である。まさに政務の軽薄と粗忽の結果である。 . . . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 11月13日 壬辰 . 玉 葉 . |
関東の武士が多数入洛している。参河守範頼が大将軍として上洛するだろう、あるいは奥州の動きに対応するため関東に留まるだろう、など風説が飛び交っている。
. . . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 11月14日 癸巳 . 玉 葉 . |
頼朝上洛の噂が流れている。既に足柄の関を越えたと郎従に通告している、と。 今朝 藤原範季 (Wiki、11/8も参照) が来訪した話では「入洛した (関東の武士の) 様子からは天下が乱れる気配がある、法皇の近辺は極めて危険、 (頼朝の) 代官 梶原が (院の分国である) 播磨の国 (兵庫県南東部) に入って目代を追い出し倉を封鎖したらしい。」とのこと。 . . . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 11月15日 甲午 . 吾妻鏡 . |
吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ .. 大蔵卿泰経朝臣 (高階泰経) の使者が鎌倉に到着、処罰を恐れて直ぐに御所には入らず、左典厩 大江広元の屋敷を訪れて書状を鎌倉殿に献じたいと告げ、別に一通を広元に提出した。 . 義経らの事 (頼朝追討の宣旨を発した件) は全く私の考えではなく武威を恐れて伝達したに過ぎない、世間の噂を簡単に信用しないよう宥めて欲しい、と。 . 広元は使者を伴って仔細を報告し高階泰経の書状を提出、藤原俊兼が読み上げた。その趣は次の通り。 . 行家と義経の謀叛は偏に天魔の所業である。宣下がなければ宮中で自殺するとまで言うため、取り敢えずの難を避けるため勅許を与えた。決して叡慮に基づく措置ではない。 .頼朝は予定した返状を投げ捨てて詰め寄った。 . 行家と義経の謀反は天魔の所業と言うのは理屈に合わぬ。天魔とは仏法を妨げ人倫に禍をなすもの、私は多くの朝敵を倒し朝廷の治世に貢献したのに反逆の扱いをされる謂れはない。 .なぜ叡慮でもない院宣が下されるのか。行家と義経を捕らえるまでは諸国を荒らし人々を苦しめることになる。日本国第一の大天狗※は、そもそも誰なのか。 ? ※第一の大天狗: もちろん「天下を乱す根本原因」で、大天狗は高階泰経か後白河法皇かの両説ある。 泰経の私信に対する頼朝の返状の形なので「大天狗=泰経」と考える学者も多いが、その場合は「頼朝は後白河を追い詰めないために泰経を標的にした」のだと思う。 .前後の流れと泰経の職責などから考えれば「大天狗=後白河」が順当だろう。 . . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 11月16日 乙未 . 玉 葉 . |
頼朝追討の宣旨発行の経緯などが関東に達した影響が評判になっている。 噂に拠れば、白川辺り (高瀬川東岸) で倒壊した堂舎が往還する輩の薪に使われている、と。仏像を壊し、金色だろうが彩色だろうが打ち壊して薪にする、武士の郎従の仕業だろうか。またある人は「頼朝の上洛が決定した」とも言っているらしい。 . . . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 11月17日 丙申 . 吾妻鏡 . |
義経が大和国吉野山※に隠れているとの噂があり、管理を担当する執行僧らを動員して山林を捜索させたが成果はなかった、亥の刻 (22時前後) に義経の妾 静が吉野の藤尾坂※から蔵王堂に下ってきたのを見付けた衆徒が管理僧の房に連行して事情を聴取した。静は次の様に語った。 .
私は義経の妾女で、大物浜から義経と共に吉野に入り 5日間隠れていた。衆徒が集まって捜索を始めたのを知った義経は山伏の姿で逃げ去り、多くの金品を私に与えて雑色の男に京へ送るよう指示したが、雑色は金品を奪って雪の山中に私を置き去りにし、こうして迷い出てきた。 .. ※大和国吉野山: 堂塔群と信仰の詳細は右地図をクリックして 大峯奥駈道と吉野山系の山岳信仰(別窓)を参照されたし。 .※藤尾坂: 女性の入山を禁じる結界 「浮上坂」 の転訛で吉水神社 の入口近くからの鳥居付近まで下る緩やかな傾斜を差す。 .※静の捕獲: 前後の詳細経緯は 蔵王堂の遠望 以下に別窓で紹介した。多少重複するが、参考として。 . . . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 11月18日 癸巳 . 玉 葉 . | . . . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 11月19日 戊戌 . 吾妻鏡 . |
土肥実平が一族郎党を従えて関東から京に向かった。 平家滅亡に伴って実平が差配する国々が増えた、御家人の中では最も優れ信頼できる人材である。 .
. ※実平差配の国々: 前年2月18日に次の通りの記載がある。 . 播磨 (兵庫県南西部) 、美作 (岡山県東北部) 備前 (岡山県東南部) 、備中 (岡山県西部) 、
備後 (広島県東部) の五ヶ国は 梶原景時と .土肥実平の責任で使者を送り管理者として守護するように、併せて命じた。 . . . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 11月20日 己亥 . 吾妻鏡 . |
義経と行家は京都を出て去る 6日に大物浜を出航、暴風で難破したとの情報がある。八島冠者時清※がその二日後に京都に戻り 「二人とも死んでいない 」 と報告した。 .. 次に 平時忠の嫡男 平時実※について、流罪の沙汰が出たにも拘らず在京して義経と一緒に行動し、難破して離散した後に京に戻って村上右馬助経業の弟禅師経伊に捕獲された。この二点が 後白河院に報告された。 . ※八島時清: 義朝の側近 源重成の子で美濃国八島郷 (JR大垣駅周辺) を累代の所領とした。この情報が 義経と同行していた事に拠るのか、それとも追跡側だったのかが判然としない。 .※平時実: 父 時忠は能登に流されて生涯を終えた。嫡子時実は文治二年 (1186) 1月に上総に流され、 同 五年 (1189) に赦免されて政界に復帰した。建暦元年 (1221) には従三位に昇っている。 .. . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 11月22日 辛丑 . 吾妻鏡 . |
義経は吉野山の雪を越えて多武峰の 談山神社 (公式サイト) を目差した。祭神の藤原釜足像に祈願するためである。着いたのは南院内藤室、従僧の十字坊は喜んで義経を迎え入れた。 .. ※談山神社: 明日香の石舞台古墳から西 5kmの山腹にある。明日香村に三日間滞在した後に車で移動し たが、途中で面倒になってUターンした(後悔)。興味があれば 明日香村探訪記 も暇つぶしにどうぞ。それにしても談山神社は吉野山の北10km、雪中の逃避行は辛かっただろう。 .. . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 11月23日 壬寅 . 玉 葉 . |
伝聞に拠れば、頼朝は義経と行家が逃走したとの報告を受けて帰国した。
今日 小槻隆職※ (Wiki) が来訪。追討宣下の件は頼朝が強く怒っていると上洛した東国武士が話している、と。同じく伝聞だが、頼朝の妻の父である 北條四郎時政が今日入洛した、近国で頻発している武士の (違法行為) 抑止になると、巷では好評である . ※小槻隆職: 能力の高い実務官僚だが頼朝追討の宣旨作成に関与したため 高階泰経らと共に解任の憂き 目に会う。解任中は所領周辺の開発に尽力し相応の成果を挙げたらしい。摂関時代の九条兼実は彼の能力を高く評価して政権運営に参画させ、更には家司にも任じている。 . . 82代 後鳥羽 . 11月24日 癸卯 . 吾妻鏡 . |
頼朝は国土泰平のため祈願書を各地の神社に奉納した。伊勢神宮分は生倫神主に預け他は近国の一宮である。相模国では15ヶ所の寺と11ヶ所の神社の全てである。
.. 82代 後鳥羽 . 11月25日 甲辰 . 吾妻鏡 . |
今日、北條時政 が入洛。行家と義経の反逆について頼朝の怒りが激しい事を帥中納言※吉田経房経由で奏上、これに伴って朝廷では会議が開かれ、行家と義経の発見に総力を尽くせとの宣下がなされた。 .蔵人頭右大弁兼皇后宮亮藤原光雅がこれを差配した。 . ※帥 (中納言) : 太宰府の長官で唐名は都督、親王以外の臣下が任じる場合の官位は従三位相当。 特に現地赴任を義務付けられていない官職なのが面白い。 .. . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 11月26日 乙巳 . 吾妻鏡 . |
大蔵卿 高階泰経が蟄居謹慎の処分を受けた。泰経が奏上した結果が頼朝の怒りを招いたと後白河法皇が判断した。「泰経が行家と義経の謀反に同意した」と書いた紙が竹枝に付けて泰経邸の庭に立てられた、泰経は驚いてこれを後白河に見せたのが経緯である。 .. ※蟄居謹慎: 帝または法皇の失策つまり 「叡慮」 は臣下の罪、それが古来から朝廷の常識らしい。 平家滅亡前後の 後白河、承久の乱の 後鳥羽、南北朝初期の 後醍醐...昔も今も、最高権力者の責任回避は悲しいことだ。馬鹿な帝や院や政治家に仕えたら一生の悲劇だね。 .それは兎も角、落書の出処は朝廷の権力争いが生んだ内部告発の可能性が高そうだ。 . . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 11月26日 乙巳 . 玉 葉 . |
昨日、或る武士から聞いた話では、頼朝追討の宣旨の発行に関わった奉行の人は滅びるべきだ、と。これは暴論である。意見を陳べるのが重罪なのか、まして奉行や書記を罰する事にどんな意味があるか。昨夜、泰経卿に宛てた書状には、院の御所で調べたら誰もが「その時は伺候していなかった」と答えた、と。泰経卿は激怒して文箱を (院の御所の) 中門廊下に投げ捨てて逐電してしまった。 . . . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 11月28日 丁未 . 吾妻鏡 . |
今夜、北條時政が中納言 吉田経房卿に面会し、諸国の全てに守護地頭を置き、領家の地位や荘園の種類に関係なく軍事用の糧食として一反当り五升の提出を義務付けると伝えた。 .. ※一反当り五升: 年貢から差し引いて徴収、の意味。換算すると領主には実質 5%程度の減収になる。 . . . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 11月28日 丁未 . 玉 葉 . |
伝聞に拠れば、頼朝代官の北條 (時政) が今夜 吉田経房に面会する。重要な事案だろうか。また彼の郎従の話では五畿、山陰、山陽、南海、西海の諸国は領家 (所有者) に関係なく兵粮米 (段当たり五枡)を徴収する。それを前提に田地を管理せよ、と。話にならない申し出である。 . . . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 11月29日 戊申 . 吾妻鏡 . |
北條時政が申し入れた諸国に守護地頭を置く事と兵糧米の件について、後白河院は申請通りに認可※せよ、と決定し経房を通じて時政に伝えた。
.. また多武峯の十字坊が 義経に「寺は狭く住僧も少ないので長くは隠しきれないから遠津河 (十津川) 方面※に案内しよう。人馬の通行も少ない僻地である。」と進言した。義経は喜んで承諾したため僧兵八人 (道徳、行徳、拾悟、拾禅、楽達、楽圓、文妙、文実) を付き添わせて送り届けた。 . 今日、頼朝は驛と馬について定めた。重要な要件で上洛する雑色らが伊豆と駿河を過ぎて西の近江国に入った際には、高位者の所領や荘園であっても乗馬の調達と乗り捨てた馬の世話をする義務を課す、と。 . ※十津川方面: 最初に隠れた吉野を通り過ぎて更に南、距離は多武峯から40kmほど、まさに僻地だ。 . ※認可について: 玉葉などに拠れば、地頭の取り分容認の決裁は簡単ではなかったらしい。貴族や寺社 にとって直接の減収になるため安易な認可はできない。北條時政は千騎の軍勢を率いて11月23日に入京しており (玉葉の記録) 、義経に宣旨を発行した弱みに加えて武力を背景にした頼朝の恫喝である。 .. . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 12月 1日 庚戌 . 吾妻鏡 . |
吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
.. 平氏一族の中で死罪にも流罪にも問われなかった者の多くが京に残っている。前中将 平時実は夏に宣下した配流の名簿に含まれているのに流刑地に向かわず、今回は義経と共に九州を目指したとの噂もある。 従って早く捕らえて在京の御家人に引き渡すよう、去る 25日に入洛した 北條時政に命じた。 . . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 12月 4日 癸丑 . 吾妻鏡 . | . . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 12月 4日 癸丑 . 玉 葉 . | . . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 12月 6日 乙卯 . 吾妻鏡 . |
行家と義経に与した廷臣と北面の武士について、詳細の報告が鎌倉に届いた。従って各人の罪科を執行すべく正式の名簿を師中納言 吉田経房)に送った。特に責任の重い六人は重く扱うよう 北條時政に伝えさせた。 . この対象は侍従能成 (一條能成、義経の異父弟)、少内記信康(義経の右筆)、右馬権頭業忠、兵庫頭章綱、大夫判官知康、信盛、右衛門尉信実と時成らである。また右府 (九条兼実) には鎌倉に再三の配慮を見せてくれたのを謝して書状を送った。 . 大江広元、三善善心 (康信) 、藤原俊兼、藤原邦通らがこれを差配した。奏上の内容は以下の通り。 . 一.議事の奏上に任じる公卿 右大臣(添削の権限を持つ代表格)、内大臣、権大納言実房卿、宗家卿、忠親卿、権中納言実家卿、 .通親卿、経房卿、参議雅長卿、兼光卿 以上の卿相は神仏に従って政道を議論し、その奏上に基づく政治を行うこと。 一.摂録 (摂政の交代人事 ) に関して。 奏上する前に右大臣の確認を得ること。本来の決め事である藤原氏長者(惣領)を変えないこと。
.一.職事に関して。(※蔵人頭を差す。宣旨などの命令実務を担当する者) 九条光長卿と壬生兼忠の二人を任命されたし。藤原光雅卿は頼朝追討の宣旨を下したため、 .新政の草創には不吉である。早急の罷免あるべし。 一.院の御厩別当に関して。(※馬や牛車の管理、身辺警護、身辺の雑務を担う要職) 葉室朝方卿が本来の職責者である。この任に復帰されたし。 .一.大蔵卿に関して。(※朝廷および国家の所領を管理する大蔵省) 葉室宗頼卿を任命されたし。 .一.弁官に関して。(※太政官と下位の実務官僚を結ぶ管理職) 藤原親経卿を任命されたし。 .一.右馬頭に関して。(※天皇の側近として公務の補佐に任じる) 侍従公佐を任命されたし。 .一.左大史に関して。(※太政官の書記) 日向守広房を任命されたし。現職の小槻隆職は頼朝追討の宣旨を書いた。新政の草創には不適である。
.一.国々の事に関して。 伊豫国司は右大臣九条兼実卿に任命権を、越前国司は内大臣吉田経房卿に任命権を、 .石見国司は宗家卿を、越中国司は光隆卿を、美作国司は実家卿を、因幡国司は通親卿を、 近江国司は雅長卿を、和泉国司は光長卿を、陸奥国司は兼忠卿を、豊後国司は頼朝を任命して頂きたい。国司も在庁の官人も行家と義経の謀反に協力したため、全ての仲間を処分してから各国の行政を正常に 戻したいと考える。 一.闕官(解任)の事に関して。 参議親宗 大蔵卿泰経 右大弁光雅 刑部卿頼経 右馬頭経仲 左馬権頭業忠 左大史隆職 .左衛門尉知康、信盛、信実、時成、兵庫頭章綱 は行家と義経に同意して天下を乱した悪臣である。 早く解任して朝廷から追放するべし。この他にも多少なり接点のあった者や僧・陰陽師も含めて嫌疑の ある者は追放するべし。 右大臣 九条兼実宛の書状 文治元年 12月6日 . 私は法皇に反逆した平家を滅ぼし、国政を取り戻した。更に関西で発生した武士の不法行為を鎮め、院宣を得て諸国の安定に寄与した。しかし没収した平家領への鎌倉御家人配置を遅らせ、更に義経を九州の惣追捕使、行家を四国の惣追捕使に任命するのは、平家歿官領は頼朝に与えるとした言葉と食い違う。
.. 惣追捕使として九州へ逃げようとした二人は神仏の罰を受けて海に没し行方をくらました。捜索を続けている間にも荘園や民家や寺社で騒動を起こすだろう。在地の武士を巻き込んで悪事を企む可能性もある。 . これらに対応するためには荘園か公領かを問わず、地頭を配置して捜索活動や騒動の鎮圧に対応する必要がある。もちろん従来の習慣や朝廷への年貢などの決め事は遵守し、これらの内容に理解を受けてから文書にして提出する。一通は師中納言卿を通じて奏上を願いたい。 . 新しい天下草創の機会に、右大臣 九条兼実卿にお願いするのはこの内容である。 . ※ 義経に頼朝追討の宣旨を与えた代償は大きい。朝廷は地頭設置を容認した上に人事権にまで介入され たが「日本一の大天狗」後白河は粘り強く交渉を続け、翌年 7月には要求の大部分を撤回させた。
.. 平家一門が歯車の大部分を占めていた統治システムが崩壊し、各地の武士による土地押領や年貢未納などが続いて荘園公領制が機能不全に陥る可能性があり、自分自身が荘園領主で知行国主となった頼朝としても旧体制を維持し武士の行動をコントロールできる体制の確立を優先させる必要があった。 . 地頭の全国配置は延期され、文治二年 (1186) 10月には「地頭は平家の没管領のみ」に後退する。 . . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 12月 7日 丙辰 . 吾妻鏡 . |
雑色の浜四郎が使者として、院に奏上する文書と右大臣 九条兼実への書状を携えて上洛、左典厩 (一條能保) の召使 黒法師丸が京での案内役として同行した。義経に同調した朝臣について書き出した中で、民部卿成範(藤原成範)は兼実の縁戚なので名簿から削除した。
.. これらの詳細は概ね左典厩 一條能保と侍従の藤原公佐 (正二位大納言 藤原成親 (Wiki) の子、阿野家へ養子) と打ち合わせて決定した。藤原公佐は頼朝の外戚である 北條時政の外孫 (時政の娘が 阿野全成の妻 阿波の局で、産まれた娘の婿が公佐) であり、心穏やかな好ましい人物である。このたび右馬権頭に推挙している。 . . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 12月 8日 丁巳 . 吾妻鏡 . |
吉野の管理に任じる僧が時政の駐在する屋敷に静女を送り届け、彼女の報告に基づき軍兵を吉野に派遣した。
.. . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 12月11日 庚申 . 吾妻鏡 . |
頼朝の若君 (幼名 万寿、後の 頼家、1182年8月12日誕生の満 3歳4ヶ月) が突然の発病、大勢が集まって御所が騒ぎになり、八幡宮の別当法眼が加持祈祷のため参上した。 .. . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 12月15日 甲子 . 吾妻鏡 . |
北條時政の飛脚が京都から参着し情勢を報告した。謀反人の屋敷を確認して捜索し共謀した者は逃亡しないように手配を済ませ、その旨を師中納言 吉田経房に申し入れた。また出頭した義経の妾を尋問した。 .彼女の言葉によれば、 . 都を出てから義経と共に共に大物浜から九州を目指して船出したが遭難し、家人らは散り散りになった。その夜は天王寺に宿泊し、以後の義経の行方は判らない。その時の約束では「一両日のうちに迎えを寄越す、それが過ぎたら急いで逃亡せよ」と言われた。そして迎えの馬に乗り、三日後に吉野山で落ち合って五日間過ごした後に別離し、その後のことは何も知らない。私は積雪の中を彷徨った末に地蔵堂に辿り付いて執行僧に捕らえられた。 .との供述である。今後の措置を指示願いたい、と。 (一方の鎌倉では) 若公の病気が平癒した。 . . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 12月16日 乙丑 . 吾妻鏡 . |
去る 7日に京に派遣した雑色浜四郎に副えた黒法師丸が途中から駆け戻って報告。 .浜四郎が駿河国岡部宿※で急病になり、二日が過ぎても起居が自由にならず、とても遠くまで行ける状態ではない、と。このため即刻 雑色鶴次郎と生沢五郎を派遣、黒法師丸と同行させた。ついでに時政への返事として「静を鎌倉に送れ」と伝えさせた。 . ※駿河国岡部宿: 静岡市と岡部町の間に東海道 宇津ノ谷峠の古道が残っている。天翔十八年 (1590) に 小田原北条氏を倒した秀吉が整備した軍道の名残だが更に古い「蔦の細道」と併せて静かな散策が楽しめる。 詳細レポートは 宇津ノ谷峠を歩くで。 .. . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 12月17日 丙寅 . 吾妻鏡 . |
吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ .. 小松内府 平重盛の息子 忠房は囚人として 後藤基清※が預かっている。また時政が頼朝の指示に従い 宗盛の遺児二人と三位 通盛卿 (清盛の弟教盛の嫡子、一ノ谷で戦死) の息子一人を捜し出した。 . また遍照寺※奥の 大覚寺 (公式サイト) 北の菖蒲沢※で三位中将 惟盛卿の嫡男 (名を六代※) を捕えた。輿に載せて野地 (草津 野路宿) に向かったところ、神護寺の 文覚上人が「六代とは師弟の縁があり、鎌倉に助命を頼むから、その結果が出るまで待ってくれ」と時政に申し出た。 . 重盛の息子 前土佐守宗実 (左大臣吉田経宗の猶子 (相続権のない養子) だから、これも同様に助命を願うと。 結果としてこの二人は助かったが、宗盛の幼息 (10歳未満の三人) は斬首となった。 . ※後藤基清: 藤原秀郷の後裔で父は西行法師の兄弟。頼朝御家人として転戦、元暦二年 (1185) 4月15日 . ※遍照寺: 現在は広沢池の南にある 遍照寺 (Wiki) は 当時は広沢池北側の朝原山 (遍照寺山) の西の麓、 . ※北菖蒲沢: 現在の菖蒲谷公園(地図)から南側の広沢池に流れ込んでいた沢か。執拗な残党狩りだ。 主人の惟盛に家族の守護を託された斎藤実盛の息子 斎藤五と六の子孫の定住地だろうか。 .※六代: 伝承は 惟盛の墓と六代松 (別窓) の末尾に一部を記載した。いずれ平家物語からの転載を。 . . . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 12月21日 庚午 . 吾妻鏡 . |
諸国の荘園の土地については関東がこれを掌握することになった。従来の地頭の殆どは平家の家人で、これは朝廷の任命ではなく権勢に任せて平家が割り当てた者が勝手に着任していた。
.. 平家が滅亡してそれらの土地は没収され、元々の領家などは財源を失なってしまった。諸国には等しく地頭が補任されたので損害は諦めるしかない。 . . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 12月23日 壬申 . 吾妻鏡 . |
師中納言 吉田経房が使者として鎌倉に派遣される、既に後白河も認可したとの噂が鎌倉に届いた。 行家と義経に関しての申し入れに対する勅答かと考えた頼朝は恐縮の姿勢を見せ、言上が必要な事は使者と書状で済ませた。高位の公卿が長旅などせずに書状で済ませれば良い、そう考えた結果である。
.. また前対馬守 ※宗親光は朝廷と源氏一門のため大きな功績を挙げたが、意に反して任国が変更となった。元の対馬守に戻りたいと愁いを訴えるため、頼朝はこの希望を伝達した。 . ※対馬守: 通説では宗氏の初代は重尚 (父は 平知盛の末子 知宗 (誕生は1184年) 説あり) 、重尚の跡を 継いだ弟の助国は対馬国の守護代 (守護は少弐景資) を務め、文永の役 (1274) では一族全滅の憂き目を見ることになる。
.. ともあれ、国司の宗 (藤原) 親光と宗氏の関係が判らないし、親光のその後についても資料が見つからない。特に深入りしたくはないが気になる部分だ。 . . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 12月24日 癸酉 . 吾妻鏡 . |
文覚上人の弟子が飛脚として参上、仏法の門弟である故 維盛卿の嫡男六代が斬首されそうだ、と訴えた。 .. 「平家一門は悉く追討されており、こんな子供を許しても何事があろうか。祖父の 重盛は頼朝助命に尽力している。彼の恩に免じるとともに文覚との縁を考慮して私に預けて貰えないだろうか」、と。
.頼朝は「平家の正統である六代が成人後に何を考えるかは判らないし、文覚上人の申し出も無視できないし」と判断に迷ったが、使者の僧の懇願もあり、暫くは文覚に預けようと決めて北條時政にその旨を書き送った。 . ※六代: 建久五年 (1194) 4月21日に文覚の使者として鎌倉に入り広元を介して「恩を受けて助命され 異心など全く抱いていない。ましてや出家遁世の身」と述べている。 .. 文覚は建久十年 (1199) 1月の頼朝死没によって庇護者を失ない、朝廷の内紛に関与した嫌疑で佐渡に流罪、連座した六代も元久二年 (1205年、異説あり) に斬首された。 . . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 12月26日 乙亥 . 吾妻鏡 . |
前中将 平時実は義経に同意して九州に向かう途中で捕獲され、牧宗親が連行して鎌倉に入った。同時に左大臣 藤原経宗の書状が届き、故 小松内府 平重盛の末子 前土佐守宗実は幼い頃から私の猶子なのだが、平家一門として斬首されると聞いた。何とか罪を減じて引き渡しを願いたい、と。 .. この件は承知したとの書状を送った。 . ※宗実のその後: 平家物語は鎌倉に連行途中で断食死した、或いは高野山で出家してから鎌倉に向かう 途中で断食死した、と書いている。 .. . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 12月28日 丁丑 . 吾妻鏡 . |
甘縄付近に住む所司次郎という男が昨夜敷居の上に立ったまま急死し、大勢が見物に集まった。家人の話では、夜中に戸を叩いて男の名を呼ぶ声があり、それに応えて直ぐに戸を開けたまま声が聞こえなくなった。暫くして明かりを点け覗いたら既に死んでいた、と。 .. また先日には八幡宮別当の弟子の僧が夜に外出した道で急死し、少し経ってから息を吹き返した。その僧が言うには、高位の僧 (死人のように思えた) 二人に抱き抱えられたように感じた、と。 . また御台所に仕える女房の下野局の夢に景政と名乗る老人が現れ、頼朝に向かって「崇徳院が天下に祟りをなしているが私には止められない、と八幡宮別当に伝えてくれ」と言ったところで目が覚めた。 . 翌朝になって頼朝にこの内容を語り、頼朝は天魔の所業だろうから天下の無事を祈る祈祷をするよう八幡宮別当法眼坊に命じた。小袖や長絹などを担当する僧らに与え、邦通がこれを差配した。 . . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 12月29日 戊寅 . 吾妻鏡 . |
北條時政からの使者が到着。去る 17日に解官の宣旨が発行され、大外記師尚を経て時政から鎌倉に届いた。 .. 大蔵卿兼備後権守 高階朝臣泰経 右馬頭 高階朝臣経仲 侍従藤原朝臣能成(長成の嫡男) .越前守高階朝臣隆経 少内記中原信康(信泰、義経右筆) . 左大臣(藤原経宗)が院の勅を受け、現職を解く。 文治元年 12月17日 担当 大外記中原師尚 . ※ 頼朝が 12月5日に申し入れた内容と多少異なるので詳細を再確認する予定。 . . 82代 後鳥羽天皇 後白河法皇 . . 12月30日 己卯 . 吾妻鏡 . |
諸国の地頭職任命を許された中から、土佐国吾河郡 (高知県吾川郡伊野、地図) を六條若宮※に寄進する。
※六條若宮: 天喜元年 (1053) に後冷泉天皇の勅命で建立。
.故 源頼義の六條邸跡に石清水八幡宮を勧請し 大江広元の弟 秀厳阿闍梨が別当職に任じる社である。 .
. 右は六条通左側歩道に建つ「佐女牛井跡」の標柱。 画像をクリック→ 拡大画像のページ (別窓) へ。 . 六条若宮周辺の広域鳥瞰図 も参考に。 . |