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寿永三年 (1184年) 、4/16 改元して 元暦元年
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前年・寿永二年(1183)の吾妻鏡     翌年・元暦二年(1185)の吾妻鏡
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西暦・天皇
和暦・月日
吾妻鏡に載った記事の意訳、および関連する記事と解説
西暦1184年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
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寿永三年
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1月 1日 辛卯
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吾妻鏡
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   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
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八幡宮で神楽の奉納があり 頼朝は欠席。昨年末の 上総広常 謀殺の件で御所が血で穢れているためである。
藤原邦道 が奉幣の使者として回廊に座し八幡宮別当法眼 圓曉 が相対して法華八講を行なった。
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   ※法華八講: 法華経八巻を朝夕二巻づつ講じ、4日で完了する法会。一日の実施は初日の意味か。
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   ※年令: 平時子 57歳、 平宗盛 36歳、 平知盛 31歳、 平維盛 3月に自殺? (享年23) 、 平重衡 24歳、
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源頼朝 36歳、 源行家 39歳、 源範頼 33歳、 阿野全成 30歳、 源義経 24歳、
木曽義仲 1月20日に討死 (享年28) 、
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北條時政 45歳、 北條政子 26歳、 北條義時 20歳、 上総広常 前年12月に誅殺 (享年不詳) 、
千葉胤正 42歳、 三浦義澄 56歳、 足利義純 7歳、 安達盛長 48歳、 大江広元 35歳、
畠山重忠 19歳、 梶原景時 43歳、 宇都宮朝綱 61歳、 土肥実平 58歳、 岡崎義実 71歳、
加藤景廉 27歳、 佐々木定綱 41歳、 伊東祐清 前年9月に討死 (享年29) 、
藤原秀衡 59歳、 藤原泰衡 28歳、 藤原基成 62歳、
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後白河法皇 56歳、 安徳天皇 5歳、 九条兼実 34歳、 吉田経房 41歳、 土御門通親 33歳、
丹後局 32歳、 一条能保 36歳、 藤原定家 21歳、 慈円 28歳、 法然 48歳、
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      (全て1/1時点の満年令、一部の年齢は推定)
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西暦1184年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
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寿永三年
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1月 3日 癸巳
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吾妻鏡
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頼朝は願成就のため所領を豊受太神宮 (伊勢神宮外宮) に寄進し、以前からの祈祷師である権禰宜光親神主に書状を送った。 曰く、武蔵国埼西郡と足立郡の大河土御厨は平家に横領された源氏相伝の領地なので今後は天下泰平の祈祷のため豊受太神宮に寄進する旨の書状を送る。但し地頭の変更はない事を書き添える、と。
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   ※大河土御厨: 現在の松伏町と越谷市にまたがる古利根川の流域で、北側を下河辺荘に接している。
源氏相伝の所領を平家が押領していたらしい。詳細は 八潮市立資料館のサイト で。
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西暦1184年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
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寿永三年
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1月 3日 癸巳
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玉 葉
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頼朝が出陣し上洛を目差すらしいとは只の風評か。平氏が来月 8日に入洛する との噂の方は信じがたい。
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西暦1184年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
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寿永三年
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1月 5日 乙未
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玉 葉
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前の中納言 (源師仲、Wiki) を招いて情報交換。彼は 「頼朝出陣の噂があり、平家が来る 8日に再び入洛するとの噂もある」 と。信用できるか否か。
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西暦1184年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
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寿永三年
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1月 6日 丙申
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玉 葉
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噂では関東の軍勢は墨俣を越えて美濃に入った、と。義仲はかなり恐れているらしい。
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   ※墨俣: 長良川を渡る東山道の要所 (地図) 。源平合戦および承久の乱 (1221年) の合戦場でもある。
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西暦1184年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
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寿永三年
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1月 8日 戊戌
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吾妻鏡
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上総一宮の神主が曰く、上総広常 が存命の時に願成就のため鎧一領を納めていた」 と。頼朝は何かの仔細があるかも知れないと考え、使者を送りこれを確認しようとした。籐判官代邦通一品房を派遣し、神慮の祟りを宥めるため新たに鎧を二領奉納。すでに神宝となっていたその一領との交換を依頼した。
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   ※上総一宮: 玉前神社 を差す。下総一宮は 香取神宮、常陸一宮は 鹿島神宮 (共に公式サイト) 。
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西暦1184年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
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寿永三年
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1月 9日 己亥
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玉 葉
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義仲と平家の和平が成立したとの噂あり。去年の秋から様々な情報が流れたが妥結したらしい。義仲は一尺の鏡を鋳て八幡大菩薩 (熊野大社とも) の象徴とし、裏に起請文を鋳付けて平家に贈った、これによって和睦が成立したと。
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   ※義仲と平家の和平: 義仲が和睦を申し出たのは事実らしいが成立との情報は間違い。
平家の戦力は既に義仲を凌いでいるから平家のメリットは乏しい筈だ。
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西暦1184年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
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寿永三年
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1月 10日 庚子
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吾妻鏡
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義仲が 伊予守の官職に加えて征夷大将軍に任命された。鎮守府将軍宣下は延暦十五年 (796年) の 坂上田村麻呂から安元二年 (1176年) 3月の藤原範季まで 70回あるが、征夷大将軍は坂上田村麻呂の延暦十六年 (797年) と藤原忠文の天慶三年 (940年) の僅かに二度である。22代の天皇が治めた 245年間も絶えてなかったのに、三例目が任命されるとは実に珍しい朝廷の配慮である。
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   ※藤原範季: 平将門追討のため鎮守府将軍に任命されたが、現地に着いた時は既に 藤原秀郷平貞盛
軍勢が討ち取っていた。ただし、翌年には瀬戸内海で 藤原純友 を討伐していた。
朝廷の判断基準は実に杜撰で、その時の情勢によって判断基準も一律ではない。
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西暦1184年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
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寿永三年
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1月10日 庚子
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玉 葉
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明日の夜に 義仲 後白河法皇ならびに多くの公卿と共に北陸へ向かう、と。単なる噂ではないらしい。
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西暦1184年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
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寿永三年
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1月11日 辛丑
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玉 葉
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今朝になって義仲の下向は中止、13日に平氏が入京するので法皇を引き渡し、義仲は近江へ下るらしい。
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西暦1184年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
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寿永三年
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1月12日 壬寅
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玉 葉
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聞いたところに拠ると、平氏はこの三日前に義仲に書状を送り「再三の依頼で和平の申し出は理解したが法皇を伴って北陸に向かう方針は変わらない」と答えた。これは既に謀反であるが、「今夜の (北陸) 下向は中止し 明朝までに楯親忠 (義仲四天王、Wiki) を派遣する」として院を警護する兵を撤退させた、とのこと。
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   ※京都の混乱: この後 20日の鎌倉軍入洛まで玉葉の情報も錯綜しており、京都は騒乱に陥っている。
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西暦1184年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
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寿永三年
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1月13日 癸卯
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玉 葉
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早朝から未刻 (14時時前後) までに東国下向の件は転々として遂に中止された。近江に派遣した郎従が飛脚を送り、「九郎義経の軍勢は千余騎で義仲との衝突は避けるだろう、下向は良くない」と報告、延期となった。
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平家軍の一部が入洛する件は三つの理由で有り得ないだろう。一つは義仲が後白河院を伴って北陸に向かう噂がある事、二つには丹波の衝突 (平家vs義仲) で平家の郎党 13人が梟首された事、三つは行家が渡野陪 (渡辺、淀川河口) で平家を攻める機会をうかがっている事、この原因で遅れていると推測される。
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西暦1184年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
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寿永三年
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1月14日 甲辰
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玉 葉
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ある人の言葉では「関東は飢饉のため上洛の時期は判らない」と。これは確認できない。
申刻 (16時前後) の情報では義仲は明後日に後白河法皇を伴って近江を目差す、と決めたらしい。
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西暦1184年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
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寿永三年
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1月15日 乙巳
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玉 葉
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正五位上 左大史の 小槻隆職 (Wiki) が来訪して「義仲を征東大将軍に任じるとの宣旨が下された」、と。
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西暦1184年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
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寿永三年
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1月16日 丙午
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玉 葉
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昨夜から京中が大騒ぎになった。義仲が近江に派遣した郎従が揃って帰洛し「敵兵は数万、とても対抗できない」、と。今日、義仲が法皇を伴って勢多に向かうとの噂があったが直ぐに変更、郎従を派遣するだけで院の警護は継続し、軍兵を割いて行家追討に派遣する、と。昨夜から今日の未刻 (14時前後) まで数十回も変更が繰り返された。夜になって少し落ち着き、義仲の手勢少々が勢多に派遣となった。
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西暦1184年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
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寿永三年
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1月 17日 丁未
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吾妻鏡
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邦通一品房ならびに神主の兼重が 上総広常奉納の甲冑を持ち鎌倉に戻ってきた。頼朝がその鎧 (小桜皮威) を見ると一通の封書が内側の紐に結ばれている。自らこれを開くと、内容は頼朝の運を祈る願書だった。
謀反の冤罪で殺したのを悔いても無駄なので、広常の弟 天羽直胤と相馬常清は罪を免じられた
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  願書に曰く、「頼朝殿の願いが叶うため、かつ東国の平和のために三年の間次のように立願する。
  一.神田 20町歩を寄進する。二.恒例の通り社殿の営繕を行う。三.一万回の流鏑馬を行う。」と。
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   ※謀反の冤罪: 頼朝による計画的な粛清なのに、吾妻鏡の編者は 「事件後に真実が明らかになった」
取り繕っている。広常所領の大部分は既に三浦氏と千葉氏に分け与え、嫡男の能常は自刃した。元久二年 (1205年) の畠山重忠追討の時も殺した後で濡れ衣が判明って...この辺が権力に従順な吾妻鏡の信用できない部分、まるで公明新聞だね。
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   ※所領没収: 天羽や相馬の他に広常縁戚の臼井氏らも所領を没収され、後に千葉氏の家臣となった。
冤罪が判明しても所領は返還しない。汚職で失職しても歳費は返還しない、自民党か。
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西暦1184年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
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寿永三年
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1月19日 己酉
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玉 葉
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世の中が更に騒がしくなっている。武士の多くが行家追討のため西に向かい、或いは田原を防ぐため宇治に派遣されている。指揮官は 志田 (源) 義広
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   ※行家追討: 義仲は離反した 行家を討つため四天王の一人 樋口兼光に 500騎を与えて行家が隠れた河内
国石川 (富田林町一帯) に派遣するが、その留守中に攻め寄せた鎌倉勢により義仲は粟津で戦死。それを知って引き返した兼光は京に戻る途中で義経勢の捕虜となってしまう。
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西暦1184年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
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寿永三年
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1月 20日 庚戌
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吾妻鏡
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頼朝が派遣した 蒲冠者範頼源九郎義経らが数万騎を率いて義仲追討のため京に入った。範頼は瀬田から、義経は宇治から進軍し、義仲志田義広今井兼平らが防戦したが、ことごとく敗北した。
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範頼と義経は 河越重頼、同重房、佐々木高綱畠山重忠渋谷重国、梶原景季らを従えて六条殿に馳せ参じ、法皇御所の警備に当った。一條忠頼らは義仲勢を追撃し、近江国粟津 (現在のJR近江線石山駅南側、地図) の近くで相模国の住人 石田為久が義仲を討ち取った。志田義広は逃亡して行方不明。
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   ※石田為久: 相模国石田郷 (現在の伊勢原市) の武士。三浦義明の弟が相模国蘆名 (三浦市芦名) を継いだ
葦名為清、その子が相模国大住郡石田郷を継いだ為景、その子が石田郷を継いだ 「為久」 で義仲を討った恩賞として得た近江国石田村 (長浜市石田町) を本領とした。
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ただし相模の石田と近江の石田の関連は判らない。子孫に豊臣秀吉に仕えた石田三成との関係も不明、元々石田に土着していた土豪の子孫が為久と考える説もある。
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愚管抄 (Wiki) は義経の郎党 伊勢義盛 が義仲を討ち取ったと書いている。
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西暦1184年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
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寿永三年
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1月20日 庚戌
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玉 葉
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情報あり。鎌倉軍は勢多に入ったが、まだ勢多川を渡ってはいない。人を送って確認したところ、 (東国の) 先遣隊が六条河原を走り回っていた、と。美濃守義広を指揮官とする義仲の軍兵は昨日から宇治に移動したが鎌倉方の攻撃で討ち敗れ、四方に逃亡した。
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鎌倉勢の主力は大和大路 (伏見方面) から入京、九條川原付近では乱暴狼藉が全く見られないの殊勝である。
義仲勢は勢多と田原に分散した他に行家追討にも割かれているため都には殆ど残っておらず、院から御輿で御幸を試みたが鎌倉勢が接近したため撤退、長坂から更に勢多に合流を試みて、粟津辺りで討ち取られた。
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東軍の一番手は九郎義経の兵 梶原平三、続いて多くの軍兵が院の御所周辺に集結した。義仲は京を焼き払って北陸道に逃げる計画だったが一軒も焼けず誰も被害を受けず、ただ梟首される結果となったのは天罰である。義仲が天下を執ってから僅かに60日。
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   ※粟津辺り: 義仲と巴 (実際は概ね虚像なのだが) と今井兼平はこの中にいたんだね。
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西暦1184年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
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寿永三年
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1月 20日 庚戌
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平家物語、他
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義仲軍と義経軍が戦った。義仲の兵力は1000騎余り、今井兼平が 500騎で瀬田を、根井行親楯親忠 が300騎で宇治を、義仲は100騎で院の御所(蓮華王院 (三十三間堂) 東側の法住寺一帯、地図) に布陣した。
範頼は 3万騎で瀬田を、義経は 2万5千騎で宇治を攻めた。
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この時に生月に跨る 佐々木高綱と磨墨に跨る 梶原景季が先陣を争って渡河している。
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義経軍は宇治川の防衛線を突破して院御所へ、義仲は 後白河法皇の帯同を断念して瀬田へ走り、今井兼平と合流して北陸へ逃げ延びようとするが、範頼の率いる甲斐源氏 一條忠頼の軍勢に行く手を阻まれた。
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   ※院の御所: 法住寺殿を差す。更に詳細は 法住寺殿の成立と展開 (京都市埋蔵文化財研究所 研究員 上村
和直氏著) で。地図は 44頁前後にある。
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西暦1184年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
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寿永三年
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1月20日 庚戌
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平家物語
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(従う家臣らは) 次々に討たれ主従五騎になったが、は討たれずに残っていた。義仲は「最後の合戦が女連れだったと言われたくないから落ち延びろ」と繰り返し命じた。ついに義仲を見送った巴が最後の合戦をしようと馬を止めていると、武蔵国でも大力の武者で知られた御田師重が 30騎程で迫って来た。
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巴は「良き敵なり」」と馬で駆け入り組み付いて引き落とし、鞍の前輪に首を押し付けて捻り切った。そして甲冑を脱ぎ捨てて東国の方向へ落ち延びて行った。
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残った 手塚光盛 は討死し、別当 (手塚光盛の父か叔父) は何処へともなく落ち延び、義仲は 今井兼平 と 2騎だけになった。
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義仲 が「普段は何とも感じないのに鎧が重い」と言うと、兼平は「体も馬も弱っていません、味方が討たれ気弱になっているだけです。私一人でも他の武者千騎がいるのと同じです」と励ました。
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そこへ新手の騎馬武者が 50騎ほど現れたので「防ぎ矢をしますからあそこに見える粟津の松原に入って自害を」と語りかけた。
義仲は「都で死なずにここまで落ちて来たのはお前と同じ場所で死ぬためだ。」と轡を並べようとした。
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右画上は宇治川合戦場から瀬田の唐橋を渡って北陸を目指した義仲主従のルート (古道を基準にした) 。
  一條忠頼の軍勢に阻まれ、粟津の松原で最期の時を迎える。(画像をクリック→ 別窓で拡大表示)
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兼平は飛び降りて義仲の馬をおさえ「どんなに軍功を挙げても最期次第で不名誉となります。既に味方はなく名もない武士に討たれたら悔やまれますから、あの松原へ」と語り、義仲はそれに従った。
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兼平は敵を引きつけ、突入して散々に戦った。義仲は粟津松原の泥田に馬を乗り入れて身動きできず、兼平を気遣って振り返った内兜を三浦の石田為久の矢に射抜かれ、郎党二人に首を獲られた。
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石田為久は義仲の首を太刀先に刺して「三浦の石田次郎為久が木曽殿を討ち取った」と名乗りを挙げた。
それを聞いた今井兼平は「もう守るべき人はいないぞ」と太刀先を咥えて馬から飛び降り、自害して果てた。
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   ※内兜を: 防具のない顔の部分を射抜かれること。
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西暦1184年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
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寿永三年
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1月 21日 辛亥
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吾妻鏡
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九郎義経義仲の首を獲った旨を朝廷に奏上。夜、義経の家臣が義仲腹心の家臣 樋口兼光を生け捕った。
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義仲の命令で河内の石川判官代を攻めたにも拘わらず逃げられたため帰還し、八幡大渡 (御所の南西10km、淀川と木津川の合流点、地図) で義仲の討死を知ったのだが強引に京に入り義経の郎党と戦って捕われた。
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   ※平家物語では: 兼光と縁があった武蔵国児玉党の武士が自分らの功績に替えて助命を嘆願すると約束
して投降させた。範頼や義経も助命を願い一度は許されたが、公卿や女官らが法住寺殿襲撃の際の放火や殺人を怨んで強く反対し、法皇もそれを無視できず「四天王の一人を許せば憂いを残す」として斬首と定めた。
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西暦1184年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
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寿永三年
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1月 22日 壬子
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吾妻鏡
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下総権守 藤原 (宅間) 為久頼朝 に呼ばれて京都から参向した。豊前守為遠の三男で絵の名手である。
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西暦1184年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
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寿永三年
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1月22日 壬子
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玉 葉
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風病 (風邪を含む同様の症状) が少し回復したので敢えて参内し、藤原定長を介して諮問に応えた。
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  一.平家討伐が必要だが三種の神器が彼らの手中にある。どうすべきか。
朝廷の使者を追討使に同行させるのはどうか。神器の安全が図れるなら追討は保留して別の使者を送って交渉を。また頼朝にもこれを伝えて置くのが必要である。
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  二.義仲の首を (鎌倉側に) 渡すべきか、否か。
深く関与する必要なし、渡すのが本来である。
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  三.頼朝の恩賞をどう考えるか。
まず望みの確認を。それが無いなら既に検討中であると言えばよろしい。官位などは私の関与する問題に非ず。
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  四.頼朝の上洛を求めるべきか。
早急の上洛を求めるべき。同意するか否かは考えず早急の申し入れを。
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  五.仙堂御所 (院の御所) はどうすべきか。
八條院御所の他に適した場所はない。早急に遷るべき。
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西暦1184年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
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寿永三年
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1月23日 癸丑
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平家物語
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義仲関係の除目が全廃され旧に復した。藤原師家は摂政の任を解かれ、その前の摂政 近衛基通 が復職した。
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西暦1184年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
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寿永三年
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1月 23日 癸丑
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吾妻鏡
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常陸国鹿島神宮神官の使者が参向して曰く
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「去る19日に住僧が夢を見た。鹿島神宮の祭神が義仲と平家を倒すため京に赴いたところ20日の夜に黒雲が社殿を覆って暗闇となり、無数の鹿 (春日大社の象徴) と鶏 (鹿島神宮の象徴) が集まった。やがて黒雲は西へ移動し、鶏が一羽雲の中に居る如くに見えた。これは聞いたこともない瑞兆である。」
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頼朝はすぐ庭に降りて神宮を遥拝し更に信仰を深めた。その時刻には京と鎌倉双方で雷鳴と地震があった。
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西暦1184年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
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寿永三年
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1月 26日 丙辰
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吾妻鏡
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今朝、検非違使が七條河原で 義仲、高梨忠直、今井兼平根井行親の首を受け取って獄門の前の樹に懸けた。
共に連行された 樋口兼光も検非違使に引き渡された。上卿 (行政官の長) は中納言藤原実家、職事 (実務) は権大納言藤原光頼の三男 葉室光雅朝臣である。
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西暦1184年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
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寿永三年
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1月26日 丙辰
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玉 葉
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昨夜から町中が平家の入洛の噂を喜んでいる、との噂は虚言である。平氏追討の中止云々は、静賢法印を使者とする 剣璽 (Wiki) 返還の協議であり、平氏に与する事ではない。神鏡と劔璽 (八咫鏡と草薙剣と八尺瓊勾玉) の安全を思うためである。
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西暦1184年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
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寿永三年
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1月 26日 丙辰
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史料各種
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後白河法皇頼朝に宣旨を発行し、平家の追討と持ち去られた三種の神器を奪還するよう命じた。同時に平家の所領だった 500余ヶ所が頼朝に与えられた。
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西暦1184年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
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寿永三年
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1月26日 丙辰
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平家物語
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伊予守義仲が首が市中引き廻しになり、法皇は御車を六條東洞院に停めて御覧になった。首は六條河原で義経から検非違使に引き渡され、検非違使は東洞院大路を経て左の獄門の前の椋の木に懸けた。
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梟首は四つ。伊予守義仲、郎等の高梨六郎忠直、根井小弥太幸親、今井四郎兼平。樋口次郎兼光は投降者である。
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   ※平家物語は: 日付を24日としている。兼光は懇願して首級を
引き廻す行列に非人の姿で付き従い、翌25日に同様に斬首された。
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  右上は家臣が葬ったと伝わる義仲の首塚。画像をクリック→ 別窓で拡大表示。
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首塚は 八坂の塔 (八坂通の坂から見た姿を別窓で拡大) の名で知られた東山区の 法観寺 (Wiki) にあるが、その首塚の真偽は判らない。私は本物だと思っているが...。
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   ※義仲の墓: 義仲の墓所として最も知られているのは彼が最期
を迎えた粟津に近い大津膳所の 義仲寺で、義仲の真っ直ぐな生きざまを愛した松尾芭蕉も遺言の通り境内の胴塚近くに葬られている。
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右は山門から見た義仲の宝篋印塔 (胴塚だろうか)
  クリック→ 別窓で義仲寺の訪問レポートへ

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供養墓は一族郎党の菩提寺 木曽の徳音寺にもある
  (木曽谷の史跡 の末尾に記載した)
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義仲の生涯は「鎌倉時代を歩く 弐」の拾章、「木曽義仲の興隆から滅亡まで」の参照を。
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また 大蔵合戦 班渓寺と鎌形八幡、更に 義仲の遺児 清水義高に関連した資料としては、義高最期の地大船 常楽寺などを通読されたし。
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西暦1184年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
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寿永三年
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1月 27日 丁巳
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吾妻鏡
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午後 安田義定範頼義経一條忠頼 の飛脚が参着し、去る20日に合戦して義仲主従を討伐した旨を報告。
三人の使者を中庭に呼んで仔細を尋ねているところへ更に 梶原景時の飛脚も到着し、討ち取った敵と捕虜の詳細を書いた書類を持参した。他の使者は記録を持たなかったため、景時の思慮深さに頼朝は感心した。
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西暦1184年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
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寿永三年
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1月27日 丁巳
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玉 葉
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藤原定能 が来訪して世間話、ついでに平氏の件を話し合った。
近習の卿相は「これ以上使者を派遣せず偏 (ひとえ) に征伐すべきである」と献議しているらしい。
藤原朝方親信平親宗である。「小人が主君に近付いて国を騒がす」 の言葉通りだ
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   ※九条兼実は: 平氏討伐に異議ありまでは判るが、彼の真意は単に劔璽の確保優先か、それとも源平の
合議かが判らない。この頃の兼実は政務とやや距離を置いており、数年が過ぎると全面的に頼朝と協調し始めるのだが。
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西暦1184年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
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寿永三年
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1月 28日 戊午
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吾妻鏡
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小山朝政土肥実平渋谷重国ら御家人の使者が鎌倉に参着、それぞれ無事に合戦が終わった祝賀を述べた。
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西暦1184年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
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寿永三年
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1月 29日 己未
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吾妻鏡
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蒲冠者範頼源九郎義経は平家討伐のため軍勢を率いて京を発ち西国へ向った。
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   ※源氏の軍勢: 2月5日の吾妻鏡では「源氏の総勢は 7万6千騎」。玉葉は「源氏はせいぜい 2千騎程度で
で平家は数万騎」と。公家の日記と軍記物語の虚実が入り乱れ混迷に油を注ぐ。
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西暦1184年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
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寿永三年
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1月29日 己未
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玉 葉
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再び西国の件、追討使の派遣は決定事項で、既に下向 (去る26日に出陣) した。その上で更に 静賢 (叡山の僧、Wiki) を使節に派遣せよとの仰せだが、彼は辞退した。その理由は「使節を送るのは相手の心を和らげ劔璽を無事に入洛させるためなのに軍勢を派遣して征討するのでは尋常な使節ではない。道理に合わず、役目も遂げ難い。」と。もっともな理屈である。最近の仕儀は掌を翻す様な状態だ。
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    なるほど、兼実は静賢と同じように考えていたのか、気骨のある坊さんなんだ!
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西暦1184年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
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寿永三年
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2月 1日 庚申
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吾妻鏡
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   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
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蒲冠者範頼頼朝の機嫌を損ねた。義仲追討に向かった折に墨俣の渡しで先陣を争い御家人と闘乱したためである。朝敵を追討する前に私戦に及ぶのは尋常ではない、と。
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   ※闘乱: かなり広く使われる言葉らしい。吾妻鏡では死者や負傷者が出た事件も軽微な喧嘩も同じ表記
をしている例が多い。指揮権を考えれば大将軍と争った御家人に非があるのだが...
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頼朝が兄弟よりも御家人を優先したのは何故か。東国武士団に依拠する必要性、近親者への不信、疑り深い性格など様々だが、死没して間もなく血筋が絶えたのは頼朝の性格的な欠陥と中長期的な政権運営に対するビジョンの不足が大きい。家臣が子孫を殺すなんて最悪だ!
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西暦1184年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
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寿永三年
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2月 2日 戊午
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吾妻鏡
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樋口兼光が斬首され首を晒された。処刑を受け持った 渋谷重国の郎従が斬り損じ、替った重国の子高重 が首を落とした。先月20日の合戦で負傷したため高重は片手打ちだった。
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兼光は以前から武蔵国児玉党の武士らと親しくしており、彼らが勲功に替えての助命を願い義経もその旨を奏上したのだが院の御所での暴行など罪が軽くないため許されなかった。
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   ※樋口兼光: 義仲四天王の一人、義仲の乳母夫 中原兼遠の二男。樋口郷 (長野県辰野町) を領有して樋口
を名乗った。妹が とされるが真偽は不明、そもそも巴に関しては平家物語の記事 (およびそれを流用した記事) 以外の情報が皆無なので実在は疑われている。
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兼光の嫡子 兼重が同地に定住しており、米沢藩主 上杉兼勝の家老 直江兼続 (Wiki) は兼重の子孫と伝わる (異説あり) 。兼光の遺髪は本領に葬られ、上伊那郡辰野町樋口 570-1に没後800年を記念した石碑がある。
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西暦1184年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
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寿永三年
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2月 3日 壬戌
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玉 葉
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法印が来訪し、行家が 7〜80騎で入洛した、と。後白河院の招集だが頼朝との関係は悪化のままらしい。
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西暦1184年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
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寿永三年
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2月 4日 癸亥
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吾妻鏡
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平家は西海と山陰両道 (五機七道の九州と山陰) の軍卒数万騎を従えて摂津と播磨の境 一ノ谷に城郭を設けて集結した。また、今日は故 相国 (清盛) の一回忌 (満二年) に当るため平家一門が福原京で法要を催した。
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   ※福原京: 現在の兵庫区荒田町の一帯 (地図) が遷都を予定した
福原京の中心部とされている。清盛の邸宅 雪見御所は約 1.3km北の雪御所町3-12 (地図)、湊山小学校跡の複合施設 NATURE STUDIO (公式サイト) の北西隅に石碑が設けられている。
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右は雪見御所跡の碑。旧校舎の横から移設された。
    クリック→ 別窓で拡大表示。

この石碑が必ずしも邸宅跡ではなく、この辺りから広い庭園跡が出土した、ということらしい。
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西暦1184年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
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寿永三年
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2月 4日 癸亥
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平家物語
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清盛の一回忌 (満二年) に当るため福原では平家一門が法要を催した。供養として叙位除目が行われた。
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(源平の合戦については) 一ノ谷木戸口での矢合わせ (開戦の儀式) が7日の朝 6時に決まった。源氏勢は 4日に京を出陣、蒲冠者範頼の率いる大手軍 5万余騎は同日の夕刻に摂津国昆陽野 (一ノ谷の東 生田口) に布陣した。
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義経の率いる搦手軍 1万余騎は丹波篠山 (現在の国道372号ルート) を経由して進軍し、播磨国と丹波国境の三草山東麓 小野原に布陣していた資盛と有盛軍を夜襲して敗走させた。
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平家物語 巻九の八 三草合戦
   右は京と一ノ谷を結ぶ略図(クリック→ 別窓で拡大表示)
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平家の大将軍は小松新三位中将資盛。少将有盛と丹後侍従忠房と備中守師盛が副将、侍大将は伊賀平内兵衛清家、先鋒は海老次郎盛方が任じて総勢 3,000余騎で三草山西の山口 (右地図の A 地点) に布陣した。
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その夜の戌刻 (20時前後) 、丹波道の小野原 (右地図の @ ) に布陣した源氏の大将軍 九郎義経土肥実平 を呼び「平家の本陣は丹波道 三里西の山口。夜討ちが良いか、明日の合戦か」と尋ねた。田代冠者信綱 は「兵力では我が軍が有利、明日は平家軍の増強があるかも知れません、夜襲が得策です。」と述べた。
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土肥実平もこれに賛成した。夜半になって源氏軍は小野原の民家や野山に放火し山口に押し寄せた。合戦は明日だろうと判断して対応を怠った平家軍は混乱し、瞬く間に 500人以上が討たれた。平家の大将軍らは播磨国高砂 (兵庫県、一ノ谷〜三草山〜高砂を結ぶ地図) から小舟で讃岐の屋島や一ノ谷に逃げ戻った。
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京都から三草山合戦場までは丹波道で約 130km、両軍の宿営地は 3km弱ほど離れている。
   右は源氏と平家の宿営地 鳥観図。クリック→ 別窓で拡大表示
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義経の夜襲が矢合わせの時間に違反した行為なのか、それとも約束は西の塩屋口から東の生田口の間に限定していたのかは判らない。
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通常は軍使を交換して合戦の日時と場所を決める。開戦の前には代表者が進み出て味方の武勲や戦闘の正当性や誇るべき血筋を告知し、更には相手の不義非道を罵り合った合った末に鏑矢を射って鬨の声を挙げ、矢戦に入るのが本来のしきたりである。
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この美風 (?) は後三年の役 (永保三年 1083年〜寛治元年 1087年) では概ね守られていたのだが 100年後の源平合戦では特に曖昧になった。
「決め事を守らないのは武家の恥」なんて気風は薄れてしまった。
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江戸時代末期、戊辰戦争はルールも良識もなし。薩長のイモ侍なんかゲスの極み、創価学会以下だもんね。
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西暦1184年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
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寿永三年
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2月 5日 甲子
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吾妻鏡
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日暮れになって源氏の両将は摂津国 (大阪府西部+兵庫県東部) に入り 7日の夜明けを 箭合せの時と定めた。
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(鎌倉側の) 大手の大将軍は 蒲冠者範頼。従うのは 小山朝政武田有義板垣謙信下河辺行平長沼宗政
千葉常胤佐貫成綱(広綱)畠山重忠稲毛重成、同 重朝、同 行重、 梶原景時、 同 景季と 同 景高
相馬師常国分胤道東胤頼中條家長、海老名太郎、小野寺通綱、 曽我祐信、庄司忠家、同 広方、
塩谷惟広、庄家長、秩父武者行綱、安保実光、中村時経、河原高直、同 忠家、小代行平、
久下重光(直光の嫡子)ら。五万六千余騎を引き連れている。
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搦手の大将軍は 源九郎義経。 従うのは遠江守 安田義定大内惟義山名義範、 齋院次官 中原親能
田代信綱、大河戸広行、 土肥実平三浦義連糟屋有季、平山季重、平佐古為重、 熊谷直実、同 直家、
小河祐義、山田重澄、原清益、猪俣則綱ら。総勢二万余騎を引き連れている。
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三草山での平家は新三位中将資盛 (重盛の次男) 、小松少将有盛 (重盛の四男) 、備中守師盛 (重盛の五男) 、
平内兵衛尉清家、恵美盛方ら七千余騎が三草山の西に布陣、源氏側は三里離れた東に布陣した。
義経は信綱や実平と協議して夜襲し、平家軍は狼狽して敗走した。
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   ※三草山: 両軍が対峙した三草山は一ノ谷の北 50km、篠山と姫路を結ぶ現在の国道 372号沿い (地図)
で近くに平家の荘園があったらしい。三草山攻略で一ノ谷西側 塩屋口までのルートが確保された。義経は実平に命じて西に敗走する資盛軍を追わせ、福原を目指して南下した。
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   ※敗軍の将: 平家物語に拠れば、三草山陣の大将資盛と有盛と忠房は惨めな敗戦を恥じて一ノ谷には
戻らず、70kmも西の高砂から舟で屋島を目差した。師盛は侍大将の大内清家と海老盛方を引き連れ塩屋口を経て福原の本隊に合流した。
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   ※高砂:潮流に乗って瀬戸内海を航行する摂播五泊 (参考略図) の一つ魚住泊、姫路市的形町。現在の
高砂市に隣接しているため、特に場所を限定する必要もない。この図では摂津(大阪)と播磨(兵庫)だけだが、吉備(岡山)、備後(広島東部)、安芸(広島西部)、周防(山口東部)、長門(山口西部)、筑前(福岡) を経由するのだから、摂津(大阪) ⇔ 筑前(福岡) 間の行程は、奈良〜平安時代には 20〜30泊ほどだろうか。
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西暦1184年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
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寿永三年
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2月 6日 乙丑
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平家物語、他
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後白河法皇の使者が平家の本拠 福原に到着して和平を勧告し合戦しないように命じた。一説にはこれを信じた平家が防衛体制を緩め、結果的に源氏側が戦闘を有利に展開した、とされる。悲運か、策謀か、偶然か。
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西暦1184年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
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寿永三年
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2月 6〜7日
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複数史料
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一ノ谷の合戦は諸説が入り乱れている上に 鵯越 (ひよどりごえ) の逆 (さか) 落しなど軍記物語の捏造が多い。両軍の公称兵力には疑問を挟まず、単純に事実を追い掛けようと思う。
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   地形図は右の通り。 クリック→別窓で拡大表示
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そもそも、合戦場西端の一部に過ぎない地名「一ノ谷」を合戦の総称として捉えた事に問題がある。最初に使ったのは吾妻鏡か、平家物語か、玉葉か、なぜ「福原の合戦」と呼ばなかったのか。
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1.平家軍は現在の鉢伏山南麓の塩屋口から生田川西岸の生田口
(守将は 知盛重衡)まで 東西約 13kmを守備範囲としている。宗盛の本陣は大輪田泊 (現在の兵庫駅南) に置いて 安徳天皇や女官など非戦闘員を守り、軍船を待機させた。
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予備兵力は 宗盛 の本陣に最も近い雪見御所の西側に 通盛教経の 1万騎を置いて 夢野口 (鵯越 (ひよどりごえ) からの攻撃に備えた。 鵯越(標高310m) ⇔ 雪見御所(標高30m) のルート地図) も参考に。
そもそも、この「ひよどり越え」を「一ノ谷」を同じ場所と考えるから話が狂ってきちゃうんだよね。
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2.義経は軍を二つに分けて大半を夢野口に向け、少数の兵を率いて山道を南下し 7日早朝に一ノ谷を奇襲。
同じ頃に西の塩屋口を 熊谷直実が先駆けし、続いて 土肥実平らが突入して 平忠度勢力と激戦となった。
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3.範頼 率いる源氏の主力 (公称5万5千騎) は生田口で激戦を繰り広げ、梶原親子と 畠山重忠が生田川に構築
した壕と逆茂木の防衛線を突破して攻め込み、守備側と激戦になった。
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4.夢野口を攻めている 安田義定軍に義経が送った増援部隊 (公称 9千騎?) が加わって戦力の差が広がり、
通盛と教経は防衛線を支えるのが困難になった。
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5.夢野口が危ないと見た生田口の副将 重衡が応援に入った。これを好機と捉えた 範頼勢が総攻撃を開始、
手薄になった 知盛軍は支えきれず、ついに生田口の防衛線が突破された。
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6.続いて西の塩屋口と東の生田口と北の夢野口が突破され、平家軍は東・西・北の三方から挟撃を受けた。
ここで重衡が敵兵の捕虜になる (記録にはないが、夢野口か) 。混乱した平家軍は先を争って唯一敵のいない南の海に逃げ溺死者多数を出した。宗盛は残存兵力を集めて船で屋島に逃れた。後白河法皇 は屋島に入った宗盛に三種の神器と重衡の交換を提案し、拒絶された。
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一の谷合戦での、平家一門の著名な戦死者
忠度 (清盛の弟) 、清房 (清盛の八男) 、清貞 (清盛の養子) 、経正 (清盛の異母弟・経盛の子) 、
経俊 (経正の弟) 、敦盛 (経俊の弟) 、知章 (知盛の長男) 、通盛 (清盛の異母弟・教盛の嫡男) 、
教経 (通盛の弟、戦死には異説あり) 、業盛 (教経の弟)、盛俊 (清盛側近盛国の子) 、など。
その他に重衡 (清盛の五男) が捕虜となった。
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西暦1184年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
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寿永三年
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2月 7日 丙寅
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吾妻鏡
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   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
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次は、吾妻鏡の記録。
降雪あり。早朝寅の刻(午前4時前後)に 義経は特に勇敢な 70騎余を率いて一ノ谷背後の鵯越に着いた。
武蔵国の住人 熊谷直実 平山季重は一ノ谷の前に廻り込み海辺から (塩屋の木戸、柵) 突入して源氏一番乗りを名乗った。飛騨景綱、越中盛次、上総忠光、悪七兵衛 藤原景清 らが 23騎で木戸口を開き、戦闘となった。
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直実の子息 直家が負傷し、季重の郎従が討ち取られた。続いて範頼と足利、秩父、三浦、鎌倉の武者が加わって混戦となった。義経は三浦義連らを伴って鵯越 (猪、鹿、兎、狐の他は通れない険阻)から攻め込んだため平家軍は反撃ができず、或る者は馬に跨って館を放棄し、或る者は船で四国に敗走した。
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重衡は明石浦で梶原景時、家国らの捕虜となった。通盛は湊河で木村源三俊綱に殺された。他に忠度、経俊、知章、敦盛、業盛、盛俊らは範頼と義経の兵に討たれ、経正と教経と師盛は安田義定 の兵に討たれた。
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   ※一ノ谷と鵯越: 義経が攻め込んだとされる鵯越は夢野口の500m北に位置する。一の谷から鵯越に行く
には敵陣の北側を 15kmも迂回する必要が ある(直線で8km)。
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義経は一ノ谷西側の塩屋口を奇襲しているのだから夢野口の鵯越で逆落しを実行するのは無理だし、夢野口では既に 安田義定軍が攻撃しているのだから義経が応援に入っても奇襲にならない。源平盛衰記 (Wiki) には重忠が馬を担いで鵯越を下った」とあるが、重忠は 範頼に従って東の生田口で戦っている。塩野口にも鵯越にもいない。
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気のせいか、埼玉県川本の畠山記念公園にあった重忠の銅像、担がれた馬は迷惑そうな顔をしてた、ような様な気がする。 (右画像) 。
  クリック→ 畠山重忠 誕生の地へ (別窓)

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玉葉は「搦手の義経が三草山に続き一ノ谷を落とし、多田行綱 が夢野口を落とした」と書いている。義経率いる遊撃隊の増援はあったかも知れないが「鵯越の逆落し」は平家物語と吾妻鏡のフィクション、最初に出鱈目を書いたのは明らかに平家物語だ。
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   ※教経戦死: 平家物語に拠れば教経 は一ノ谷合戦で死なず、壇ノ浦合戦で義経を狙った後に源氏方の
安芸太郎と実光と弟の次郎を道連れに入水」している。
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吾妻鏡は「都大路を曳き廻した平氏の首十の中に教経が含まれていた」と書き、玉葉にも「平氏の首の数は十」とある。一の谷合戦で討死したと考えるのが妥当である。
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従って屋島の合戦で 義経を庇った 佐藤継信を強弓で射殺した話も、壇ノ浦での「義経八艘飛び」も平家物語による捏造、教経が生きてなければ成立しない話だ。
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西暦1184年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
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寿永三年
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2月 7日 丙寅
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平家物語
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平家物語 巻九 百三十七
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...秩父、足利、三浦、鎌倉、の兵は入れ替わりに名乗りを挙げて塩野口の柵に押し寄せたが矢傷や刀瘡で多くの負傷者が出た。正面の軍勢だけでは落とせないと考えた九郎義経は七日の明け方に一ノ谷背後の鵯越えに昇って様子を見ると驚いた鹿 三匹が平家の柵の方へ下って逃げ去った。
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九郎義経は「馬を下らせてみよう」として鞍置きの馬 数頭を追い落とした。脚を折って転がり落ちる馬もいたが、三頭の馬が (平家方の) 越中前司邸の前に降りて立ち上がった。 義経は「注意して下れば大丈夫だ、私を手本にせよ」と 30騎ほどを率いて走り下った。
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攻め下った三千余騎が挙げる鬨の声は山に響いて 十万余騎にも聞こえ、村上判官基国の兵が放った火が仮屋を焼き払い、多くの軍兵が逃げ惑って船に乗ろうと押し寄せて大船が三艘も兵と共に沈んだ。
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合戦では一度も負けた事のない能登守教経は騎馬で西に逃れ、明石浦から讃岐の八島 (屋島) に渡った。
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西暦1184年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
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寿永三年
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2月 8日 丁卯
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吾妻鏡
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関東の両将 (範頼義経) が飛脚を京都に送って報告。昨日一ノ谷で合戦し平家の大将九人の首級を挙げた。
その他にも千人以上の敵を討ち取った、と。
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   ※玉葉の記述: 範季朝臣(後白河 の近臣)の話を聞いた人の言葉では 梶原景時 の飛脚が「平家を悉く
討ち取った」旨を報告、と。更に深夜、権大納言藤原定能卿から合戦の仔細を聞いた。
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最初に義経が丹波城 (三草山) を落として次に一ノ谷を落とし、次に 蒲冠者範頼が大手の浜地 (生田口) から福原に押し寄せ、多田行綱 が山側から攻めた。
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(福原は)午前中の 2時間ほどで攻め落とされ、平家方には誰も残っていない。
40〜50隻の船に乗って逃げようとした者もいたが出航できずに火を放って焼死した。
これは宗盛らではないだろうか。討ち取った者の詳細はまだ報告がない。同じく劔璽と内侍所の安否も判らない、と。
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   ※神器: 劔璽は三種の神器の中の草薙剣 (くさなぎのつるぎ) と八尺瓊曲玉 (やさかにのまがたま) 。
帝位の意味もあるが、ここでは神器。内侍所は残る一つ、八咫の鏡 (やたのかがみ) を安置した場所を差し、転じて八咫の鏡そのものを言う。
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西暦1184年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
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寿永三年
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2月 8日 丁卯
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玉 葉
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式部権少輔範季 (後白河の近臣) からの情報。夜半に 梶原景時の飛脚が到着し平家の殆どが討ち取られた、と報告。昼前後に藤原定能 (北家の公卿で後白河の近臣) が来て合戦の詳細を語った。
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九郎義経 の報告では、搦手としてまず丹波城 (三草山) を落とし、次に一ノ谷を落とした。
次に加羽 (蒲) 冠者範頼の報告で、大手として海沿いに福原を攻撃した。朝 8時前後から10時前後までの二時間足らずで攻め落とした、と。
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多田行綱が山側から攻めて最初に防衛線を突破、防御側の平氏は殆ど壊滅した。当初から 40〜40艘の船に乗っていた平氏も逃げられず火を放って焼死し、これは宗盛らと思われる。討ち取った者の詳細はまだ報告がない。神器の安否も同じく不明である、と。
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   ※多田行綱: 平家に従った後に 義仲に与し、義仲の没落後は 頼朝側に属した。一ノ谷では多田源氏を
率いて義経の指揮下に入り、北側 (鵯越) の攻撃増援に派遣されたらしい。
義経の本隊は一ノ谷の塩屋口を攻撃したが後に行綱の功績が義経の戦果にすり替わった、と考える説もある。多田源氏は清和源氏の祖 源満仲 が摂津国多田庄 (地図) に本拠を置いたのが始まりで 三位頼政の血筋に近い。源氏の系図で 清和源氏→ 摂津源氏 の確認を。
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西暦1184年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
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寿永三年
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2月 9日 戊辰
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吾妻鏡
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義経が少数の武士のみを連れて京に入った。軍勢は追って入洛すると思われる。これは討ち取った平家の首を都大路に引き回す旨を報告するため、先行して戻ったものである。
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西暦1184年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
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寿永三年
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2月 9日 戊辰
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玉 葉
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今日、捕虜の 重衡卿が褐の直垂に小袴の姿で都に入った。頼朝の郎従筆頭 土肥実平が拘留している、と。
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西暦1184年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
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寿永三年
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2月11日 庚午
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吾妻鏡
玉 葉
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   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
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平家一族の首を都大路に引き廻したい旨が 範頼義経から申し出された。このため関白ら大臣三人と堀川大納言忠親が後白河法皇に呼ばれて意見を求められた。
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平家が朝廷に仕えて長い年月が経っているので恩情を掛けるべきか、また範頼や義経が私怨を晴らしたいと思うのも理解できる。決められないので良きに計らうように、と。意見は色々と述べられたが、範頼と義経が更に強く求めたため引き廻しを許すと定められた。勅使の定長は御所と源氏側を何度も往復させられた。
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   ※玉葉の記述: 九条兼実は「後白河法皇は首の都大路引き回しには反対だった」 、と嘆いている。
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義経範頼は「義仲の首は引き回したのに平家の首は何故駄目なのか」と言っているがそれぞれの罪は比較できず、ましてや帝の外戚である。近臣だった信頼 (平治の乱で斬首) でさえ同様の措置はなかった (中略) 、全く情けない世の中だ」、と。
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西暦1184年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
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寿永三年
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2月13日 壬申
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吾妻鏡
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平氏の首は義経の六條室町邸に集められた。 通盛忠度、 経正、教経、敦盛、師盛、知章、経俊、業盛、盛俊 らの首級である。集められた後に八條河原に運び、検非違使の仲頼らが受け取って長鉾刀に括り付けた。
また名前を書き記した赤札を付けて獄門に行き、樹に懸けた。多数の見物人が集まってこれを眺めた。
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   ※他の史料は: 玉葉なども概ね同じ描写だが平家物語は維盛
都に残した家族には 斎藤実盛の息子 五郎と六郎が仕えており、平氏の首が大路を引き回される様子を報告した」と書いている。
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この兄弟は実盛の遺髪を伊豆山権現の別院 密厳院 (現在の 般若院、別窓) に葬ったとされ、廃寺の跡 には「実盛の五輪塔」が残っている。
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右は伝 密厳寺 墓地跡、中央の五輪塔が実盛の墓
    クリック→ 明細ページへ (別窓表示)

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実盛の本拠 長井荘 (別窓) には彼が建立した聖天院 (長井荘の末尾に記載) があるのに、なぜ敵方の頼朝が崇敬した伊豆山を選んだのか、それとも単なる供養墓だろうか。
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   ※更に蛇足を: 承安三年 (1173) に 八重姫が産んだ頼朝の長子 千鶴丸 の殺害を命じられたのが 伊東祐親
の家臣だった斎藤五郎と六郎...と伊東弘誓寺の縁起には書かれている。
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反対に「五郎と六郎が千鶴丸を逃がし陸奥国和賀に送り届けた」との伝承もある。
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まぁこちらは良くある「誰々が実は生きていた」の類いだろうと思うが、様々な話が様々な場所に伝わっているのが面白い。祐親と同じ様に実盛も平家の恩を受けているから、子供が祐親に仕えていても不思議ではない。
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千鶴丸殺害に関する伝承 を併読されたし。
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令和三年(2021) 7月3日 にはTVで実況中継された通り「伊豆山の土石流」が般若院のすぐ横を襲い、その流路には「頼朝と政子が会ったと伝わる古い逢初橋」 (右画像) が架かっていた。茨城に転居した直後で確認はしていないが、多分 跡形もなく損壊したと思う。土石流をモロに受ける場所だからね。
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上から10行目「般若院」の末尾で形状を確認されたし。
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西暦1184年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
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寿永三年
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2月14日 壬申
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吾妻鏡
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右衛門権佐定長が法皇の勅命で 重衡 を聴取するため 土肥実平を伴って故 中納言家成卿の八條堀川の堂へ出向いた。縁側の庇下で質問し、述べた内容を全て記録した。
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本日、上総国の (広常の) 御家人らの多くが家屋敷を以前と同様に安堵する旨の下文が発せられた。去年の広常事件の同罪として没収されていたものである。
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   ※右衛門権佐定長: 後白河法皇近臣の 藤原定長 (Wiki) を差す。後に兄 吉田経房と供に幕府と朝廷の調整
役を務めた、二人とも優秀な実務官僚だ。
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西暦1184年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
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寿永三年
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2月14日 癸酉
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平家物語
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重衡が六条通りを東へ、土肥実平が 30騎ほどで警護し前後の簾を巻き上げた牛車で引き回された。「気の毒ではあるが、これは南都焼き討ちの仏罰だろう」と人々は話し合った。
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院の御所から定長が出向き、「(平家本陣の)屋島に帰りたければ一門に連絡して三種の神器を返却させよ」との法皇の意向を伝えた。重衡は「無駄でしょうが、院宣ですから一応は伝えます」と答えた。
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院宣は屋島に届けられ、二位尼清盛の後妻 時子、重衡の母)は受け入れを懇願したが、一門の総意により 宗盛が丁重な拒否の返書を送った。
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   ※南都焼き討ち: 治承四年12月、清盛の命令で 重衡
総大将に平家に逆らう東大寺と興福寺を攻めた事件。火攻め目的の放火が延焼し、東大寺大仏殿をはじめ多くの堂塔が灰燼に帰してしまった。
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意図的な放火説、重衡主犯説、清盛の命令説、失火説などがある。
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平家物語は「南都の大衆(僧兵)が事前に派遣した軽装備の使者60余人の首を斬り猿沢の池岸に並べて清盛を激怒させた、それが発端」とも書いている。
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  右は東大寺全体の鳥瞰図。西隅の転害門、東隅の二月堂と三月堂 (法華堂) を除く
  全てが焼失した。 画像をクリック→ 別窓で拡大表示
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   ※吾妻鏡の記述: 2月20日に宗盛の返書が届いた旨の記載あり。一ノ谷では法皇の停戦命令に従ったのに
奇襲を受けたことなど、やや弱気と恨み言が多いが結論は拒絶である。
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西暦1184年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
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寿永三年
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2月15日 甲戌
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吾妻鏡
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朝、範頼義経からの飛脚が摂津国から鎌倉に到着し合戦の記録を献じた。内容は以下の通り。
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去る 7日に一ノ谷合戦。平家の多くが落命、平宗盛は船で四国の方へ逃げ去り 三位中将 重衡を生け捕った。
また 通盛、忠度、経俊の三人は範頼の兵が討ち取り、経正、師盛、教経の三人は 安田義定 の兵が討ち取り、敦盛、知章、業盛、盛俊の四人は 義経の兵が討ち取った。
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その他 挙げた首級は一千余。武蔵、相模、下野の兵が大きな功績を挙げた。これらは追って報告する、と。
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西暦1184年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
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寿永三年
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2月16日 乙亥
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吾妻鏡
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今日、定長が再び 重衡を尋問した。一昨日と同じ内容である。
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   ※玉葉の記述: 「中納言雅頼卿(兼実の友人)の話に拠れば、頼朝 の四月上洛を求める院の使者として
中原親能 が東国に出立した。上洛ができないならば法皇自らが東国に向かうと言っているらしい。まさに物狂いの有様だ。」
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九條兼実 が嘆いているのは後白河の「軽薄さ」と 「軽蔑に値する上司に仕える辛さ 」 だ。
ちなみに、この頃の中原親能は幕臣と廷臣を兼ねているらしい。四月には平家追討の奉行として再び上洛している。
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西暦1184年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
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寿永三年
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2月18日 丁丑
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吾妻鏡
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頼朝 が京の治安について指示する使者を発した。
また播磨 (兵庫県南西部) 、美作 (岡山県東北部) 、備前 (岡山県東南部) 、備中 (岡山県西部) 、備後 (広島県東部) の五ヶ国は 梶原景時土肥実平の責任で使者を送り管理者として守護するよう併せて命じた。
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西暦1184年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
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寿永三年
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2月19日 戊寅
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吾妻鏡
玉 葉
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聞くところに拠れば、平氏は 3,000騎ほどで讃岐国屋島に戻った。都を引き廻した首の中にあった 教経は生きている、維盛は何艘かの船で南へ落ち延びた、資盛と 貞能らは豊後の武士に捕獲された、などの噂があり どこまでが真実か判らない。
また (捕虜となった) 重衡卿が尋問を受け、平家側は対応を協議しているらしい。
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西暦1184年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
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寿永三年
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2月20日 己卯
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吾妻鏡
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   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
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去る 15日に使者を四国 (屋島) に派遣し、勅定の意向 (安徳帝と三種の神器の返還要求) を宗盛に伝えた。
その返書が (院に) 届き、閲覧に及んだ。曰く、
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15日の書状は本日 (21日) に到着し蔵人右衛門佐の書状と共に内容を理解しました。安徳帝と国母 (建礼門院) の京還御の件も承りました。
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去年の 7月に西海に向った際に還御せよとの院宣を受け、備中国下津井から船出しましたが洛中不穏の噂があるため延期し、去年の10月に鎮西 (九州) を出御し還御に向ったところ、閏10月1日に院宣を称した 義仲 が千艘の軍船を率いて備中水島で安徳帝の還御を妨害しました。これは兵を以って打ち破り、讃岐国屋島に着御して現在に至っております。
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さて、先月26日に再び出航して摂津 (一ノ谷) に遷幸し、院宣に従って京都近くまで行幸しました。去る4日は亡父 清盛の三回忌でしたが法事のための上陸も出来ず、輪田の沿岸を巡っていると去る 6日に修理権大夫の書状が届き、「和平交渉の使者として 8日に京を出る。安徳帝の勅答を頂いて京に戻るまでは合戦をしないよう関東の武者には伝えてあるから、平家軍にもその旨を徹底させよ。」との事でした。
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この仰せを守り、元より戦う意思もないので院使者の到着を待っていると 7日になって関東の軍勢が御座船の停泊する一ノ谷に攻め込みました。我々が院宣を守って撤退したのに関東の軍勢は勝ちに乗って攻め掛かり、多くの将兵が殺されました。これは何事なのでしょうか。
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関東の軍には院宣を待てと言わなかったのか、あるいは関東の武士がそれを承諾しなかったのか、あるいは平家を油断させるため策略を巡らしたのでしょうか。
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京に向かうたびに関東の武士が妨害するのではとても還御は実現せず、それは平家の責任ではありません。和平は重要ですが双方に対して公平でなければ実現する筈もありません、この事態を報告するより先に院宣で還御と神器の返還を命じるのは理屈に合わない事であります。長い間忠義を尽くし御恩を得てきたのに、不忠の疑いや叛徒の扱いを受けるのは何事でしょうか。
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西国に向かったのは義仲入洛に驚いたからではなく、法皇が平家を捨てて比叡山に逃げ、結果として反逆者扱いされたからです。更に源氏は院宣を称して西国を侵し度々の合戦を仕掛けたため、我々は防衛に当っただけです。そもそも平家も源氏も互いに意趣はなく、平治の乱で信頼卿が叛いた時も、院宣により義朝を追討したのも自然の成り行きで、宣旨や院宣に従ったのは怨恨ではないため合戦する理由もありません。
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長期間の合戦で世情も荒れ飢饉も深刻になり、安徳帝の還御を源氏が妨げる状態が二年も続いています。
今は早く合戦を停止して善政を行い、和平と還御について公平な院宣を頂くよう願います。
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                                二月二十三日
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   ※宗盛の嘆き: 一ノ谷合戦に平家の隙を衝く傾向があったのは否めないらしいが、一応は甲冑を付けて
抗戦しているのだから、無防備な状態で殺戮を受けたと表現する程ではない。
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一方で後白河が戦闘自粛の命令を出したのも事実で、これは宗盛の嘆きに理屈がある。
鎌倉からタイムリーな指示を出せる距離ではないし、後白河の指示を義経と範頼が独断で無視するとも考えにくい。個人的には後白河の指示が曖昧だったか、或いは正確に伝わらなかったか、意図して正確に伝えなかったか。その一つだと思う。
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西暦1184年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
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寿永三年
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2月20日 甲戌
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玉 葉
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先月 21日に 頼朝宛に派遣した飛脚が帰還。「褒賞などは全てお考え通りに。過分の求めは致しません」と。
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西暦1184年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
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参考に転用
元暦二年
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3月10日 壬辰
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平家物語
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重衡は文治元年 (1185年) 6月に南都で首を斬られる。ちょっと話を先取りして...。
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重衡の身柄は義経の館に移され、頼朝の指示に従って 梶原景時が鎌倉に連行した。到着後は臆することのない立派な態度で 頼朝と面談した後に身柄を狩野宗茂に預けられ、頼朝から身辺の世話を命じられた女性 (千手の前) や宗茂らと音曲や宴を楽しんで過ごした。
後に重衡が南都へ送られ首を斬られたのを聞いた千手の前は剃髪して善光寺に入り後生を弔ったという。
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   ※千手の前: 遠江国中泉 (現在の磐田市) の旧 白拍子村には彼女が庵を結び死没したとの伝承がある。
詳細は「鎌倉時代を歩く 弐」の本文 (別窓) で。たぶん伝説だと思うけれど。
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西暦1184年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
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寿永三年
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2月21日 庚辰
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吾妻鏡
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義仲に従っていた尾籐太知宣なる者が関東に伺候。頼朝が直接仔細を問い質すと信濃国中野の御牧と紀伊国の田中庄と池田庄を知行する権利を訴えた。その根拠は、先祖の 藤原秀郷の時代から継承していたもので、平治の乱で義朝に味方したため没収された。去年8月に義仲に訴えて田中庄に関して与えられた安堵の御下文を見せたため、頼朝は知行権を認める旨を語った。
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   ※三ヶ所の知行: 中野御牧は現在の中野市中野、田中庄と池田庄は紀の川市中部 (地図) に隣接する。
田中庄は認められたが、中野御牧と池田庄の知行権については記載がない。
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西暦1184年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
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寿永三年
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2月22日 壬辰
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玉 葉
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左大弁 吉田経房卿 (平家に仕えていた文官で後に頼朝に重用される優秀な実務官僚) が来訪、兵糧米や他人の所領強奪は禁止する旨の宣旨が下された事を申し入れた。
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西暦1184年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
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寿永三年
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2月23日 壬午
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吾妻鏡
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前右馬助季高と散位宗輔らは義仲に与していたため召し捕って検非違使に拘留された。
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西暦1184年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
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寿永三年
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2月25日 甲寅
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吾妻鏡
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頼朝が朝廷の政務に関する所存の数條を記して大蔵卿泰経朝臣に送った。内容は次の通り。
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1.朝廷政務について。
前例を守って徳政を行い、国司なども早く定めて混乱を避けるべきです。東国と北陸の民は義仲討伐まで放置されましたが元に戻して帰農させれば来秋には国司も赴任し徴税業務も軌道に乗るでしょう。
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2.平家追討について。
畿内と周辺の武士は義経の命令に従って平家追討の軍勢に加わるよう下知を願います。船での出陣は難儀もありますが義経には追討を急ぐよう命じてあります。勲功は頼朝が追って手配します。
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3.諸社について。
古来からの神国であり従来の神領に変りはなく、新たな付け加えもあろうかと思います。先年は鹿島大明神が上洛するとの風聞があった後に賊徒 (平家) を追討したのは神威なので今後も社殿の修復などに尽力します。決まり事を守り勤行するように指示を願います。
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4.諸寺について。
全ての寺は昔の通りに恒例の勤めを怠るべきではありません。近年は僧侶が武勇を競い仏法を忘れ功徳を積もうとしないのは最も禁ずるべき事です。乱暴で信心の足りない僧に公費を供する必要はありません。今後は私の沙汰として、僧の武具を規定通りに没収し朝敵を討つ官兵に与える旨を裁許願います。
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                                寿永三年二月  源 頼朝
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   ※泰経朝臣: 近衛天皇、後白河天皇、後白河院に仕えた近臣 高階泰経を差す。朝廷の中枢で浮沈を繰り
返し、三度目の文治元年 (1185年) には義経謀反への関与を疑われ伊豆流罪になった。
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文治五年(1189)には政界に復帰、建久二年 (1191年) には正三位に叙された。頼朝が泰経に送った書状にある 「日本第一の大天狗は余人の事に非ず」 は後白河ではなく泰経を差している、との主張があるのも面白い。
専門家でも前後の流れに留意せず思い込みで結論を出す事がある。
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西暦1184年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
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寿永三年
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2月27日 丙辰
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吾妻鏡
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近江国の住人佐々木三郎成綱が参上し、成綱の嫡子 俊綱は一ノ谷の合戦で平通盛 (清盛の異母弟 教盛の嫡男で教経の兄) を討ち取った恩賞を受けるべきと申し出た。頼朝は 「勲功に関しては立派だが、今まで平氏に与して源氏を侮蔑していたのに、平氏が落ちてから初めて参上したのは真実の志ではない」 と言った。
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   ※佐々木成綱: 近江源氏 佐々木秀義 の縁戚。保元の乱では 義朝 に味方した秀義に所領を奪われたが、
平治の乱で義朝に味方した秀義が東国iに逃げたため取り戻していた。秀義は重なる功績で佐々木荘を安堵されたが、承久の乱では一族が分裂して争うことになる。
血縁同士が殺しあう源氏一族の宿命か。
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西暦1184年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
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寿永三年
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2月27日 丙辰
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吾妻鏡
玉 葉
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噂では 後白河院は 4月下旬の 頼朝上洛を求めている、折紙 (簡単なメモ、の意味) で政務を行なう軽率さだ。
もし頼朝が狡猾な人物であれば、益々天下の乱れを招くだろう。
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西暦1184年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
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寿永三年
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2月29日 戊子
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吾妻鏡
玉 葉
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九郎義経は平氏追討のため来月1日に西国に向かう予定だったが、理由不明で急遽延期になった。
噂では、捕虜になった 重衡宗盛に宛てて派遣した使者が帰参し、宗盛の意向を伝えたらしい。
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安徳帝の生母徳子は院の仰せに従って入洛させる。宗盛は入洛に加わらず、讃岐国の領有を安堵して欲しい。
供として嫡子の清宗を上洛させる、と。これは事実か、あるいはこの事で追討が延期されたのだろうか。
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西暦1184年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
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寿永三年
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2月30日 己丑
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吾妻鏡
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頼朝は信濃国東條庄にある狩田郷の領主職を式部大夫繁雅に分け与えた。平家の所領として没収したのだが、繁雅が自分の本領であると愁訴したためである。
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   ※狩田郷: 現在の小布施町東部に雁田の一帯 (地図) らしい。覚えがある地名だなと思ったら、北信濃の
道の駅 オアシスおぶせ」 でP泊した時に混んでて敬遠した穴観音の湯 (公式サイト) のすぐ近くだった。立ち寄ったことのある地名が出てくると、懐かしくて少し嬉しい。
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西暦1184年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
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寿永三年
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2月30日 己丑
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吾妻鏡
玉 葉
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後白河法皇の近臣 藤原定能卿が来訪し世情の話を交わした。平氏は和睦に応ずるべき、と。
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西暦1184年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
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寿永三年
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3月 1日 庚寅
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吾妻鏡
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   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
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頼朝は鎮西九ヶ国の武士に下文 (命令書) を送り平家追討の趣旨を伝えた。諸国の兵を派遣しているのだが鎮西の諸国が平家に与しているため討伐できないためである。〜文面は略〜
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西暦1184年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
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寿永三年
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3月 1日 庚寅
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吾妻鏡
玉 葉
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定長 (後白河法皇近臣の藤原定長で 吉田経房の弟) の話では 重衡が宗盛への派遣を指示した使者 左衛門尉重国が帰洛した。宗盛の返事は、概ね講和を認め 源平の双方を召し使うとの趣旨らしいが、これは 頼朝が拒絶だろうから実現は困難と思われる。ただし別の使者の派遣があれば改めて意向を述べる、と。
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西暦1184年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
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寿永三年
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3月 2日 辛卯
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吾妻鏡
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土肥実平が (範頼 の軍監として) 西海道 (瀬戸内、九州方面) に出陣するため重衡卿は 義経の元に移された。
今後は義経の軍監に 梶原景時が任じる。
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西暦1184年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
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寿永三年
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3月 5日 甲午
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吾妻鏡
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一ノ谷合戦で平家を討った日に武蔵国の住人藤田三郎行康は (生田口の) 先陣を務めて討死した。その勲功により知行などの遺産は子息の小三郎能国に相続を許す旨の下文が発行された。
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   ※藤田郷: 埼玉県本庄市北部の利根川沿い (地図) 。南は小山川
を挟み岡部忠澄の本領 岡部郷と接している。
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岡部忠澄 (猪俣党の武士) は同郷の藤田行康らと共に一ノ谷で戦い、平忠度を討ち取る勲功を挙げた。
..
右は忠度の遺髪を葬ったと伝わる清心寺の五輪塔。
更に詳細は画像をクリック→ 岡部忠澄の本領と平忠度の墓で。
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西暦1184年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
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寿永三年
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3月 6日 乙未
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吾妻鏡
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蒲冠者範頼に対する頼朝の怒りが許された。(今年の 2月1日に墨俣で御家人と先陣を争った件の謝罪を繰り返していたらしい)
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西暦1184年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
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寿永三年
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3月 9日 戊戌
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吾妻鏡
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先月18日発行の宣旨が鎌倉に到着。最近は平家追討のためと称する武士が各地の荘園で狼藉を働き人手や財物を奪う事件が多発している。しかも関東の威光を翳しているため簡単に処罰もできない旨を (非公式に) 申し入れてきた。頼朝には庶民を煩わす考えはないので、同様の事例は早急に是正させる旨を申し送った。
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西暦1184年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
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寿永三年
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3月10日 己亥
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吾妻鏡
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頼朝の求めに従って 平重衡卿が 梶原景時に護送されて鎌倉に向かった。
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また今日、頼朝は因幡国の住人長田兵衛尉実経 (後に広経と改名)を呼び指示書を与えた。この者には平家に与した罪はあるが、父の高庭介資経は郎党の籐七資家に命じて私を伊豆まで送らせた。この恩は子々孫々まで忘れ難いから本領 (鳥取市西部の高庭荘) を安堵する。伊豆流罪なった際に、多くの家人が死んだり変節して去ったりした中で実経が親族の資家を添えてくれた、その恩に報いるためである。
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西暦1184年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
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寿永三年
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3月13日 壬寅
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吾妻鏡
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尾張国の住人原大夫高春 (尾張二宮 大縣神社、公式サイト) 神官が召された。上総広常の外甥 (妹の子) で、薩摩守忠度は娘婿にあたる。平氏の恩顧を受けていたが広常との縁を重んじて 清盛に背き、治承四年 (1180) に関東に下って以来忠節を尽くしている。
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去年広常が (謀反の冤罪で) 誅されてから田舎に隠棲していたが、頼朝は無罪の広常を処刑したのを悔いて親族の多くを赦免した。功績のある高春にも旧領を安堵するから引き続いて忠勤を励むように、と。
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西暦1184年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
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寿永三年
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3月14日 癸卯
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吾妻鏡
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遠江国の伊勢神宮神領 都田御厨 (浜松市北区、地図) は従来通り神宮使に従い業務を管理するよう定めた。
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西暦1184年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
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寿永三年
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3月17日 丙午
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吾妻鏡
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   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
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昨夜 板垣兼信の飛脚が鎌倉に到着、判官代邦通が今日その内容を披露した。
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君命に従って去る 8日に京を発ち、平家追討のため山陽道に向かいました。源氏門葉に列して追討使に任じ目的を果たす覚悟ですが、土肥実平 は私の指揮下にありながら特命を受けていると称して協議をせず、補給や部隊の構成について独断で決裁しています。この状態が続けば戦意にも影響するでしょう。西国にいる間は兼信が指揮官であることを徹底指示して頂き、指揮系統の明確化をお願いします。
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頼朝 はそれに答えて次のように述べた。兼信の使者は虚しく帰らざるを得なかった。
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門葉だから、家人だからではなく、実平の忠義心は他の者とは比べられない。目代の立場を弁えて西国での差配は実平に任せ、兼信は戦場で命を捨てる覚悟を見せれば良い。申し出は僭越である。
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西暦1184年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
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寿永三年
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3月18日 丁未
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吾妻鏡
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頼朝は伊豆国に向けて出発した。これは野生の鹿を狩るためで 下河辺庄司行平四郎政義新田四郎忠常
愛甲三郎季隆、戸崎右馬允国延らが先頭の射手を務めるよう定められた。
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   ※伊豆の鹿: 天城山の近くでは舗装道路を走行中に鹿や猪と遭遇
するのは珍しくない。特に大室山から遠笠山へと向かう天城高原 (地図) 一帯は特に多い。
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ついでに紹介すると、私の家はJR 網代駅から 1kmの山裾にあったが、居住中は何度も猪に遭遇した。
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2匹の犬と散歩していた夕方に、1mをかなり越える成獣の猪と 5mの距離で向き合った経験がある。
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犬は (臆病な癖に) 見境なく吠えるし、猪は前脚で地面を掻いて威嚇するし、本当に怖かった!一瞬、「明日の新聞に、散歩中の男性が猪に襲われて...と載るのかな」って思ったよ。
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もう10年以上も前の思い出で、2020年には茨城県筑西市に転居した。売り払った我が家は「民泊」に改装すると言ってたが、まだ出来上がっていないらしい。Google Earth で覗いたら 2024年 5月現在「内装工事中」の感じだった (クリック→ 拡大) 、懐かしの我が家。
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西暦1184年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
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寿永三年
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3月20日 己酉
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吾妻鏡
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昨夜 頼朝が伊豆北條に到着。今日、大内冠者惟義を伊賀国の守護に任じるとの指示があった。
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   ※大内惟義: 新羅三郎義光--四男平賀盛義--嫡子義信--長男惟義と続く清和源氏。伊賀国大内荘の地頭に
任じて大内姓を名乗った。伊賀守護に任じたのは伊勢平氏の本領を抑える思惑である。
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元久二年 (1205) に 北條時政平賀朝雅 (異母弟) の失脚後は伊勢国守護を継承し、更には越前、美濃、丹波、摂津の守護に任じて繁栄したが、嫡男の惟信は承久の乱で 後鳥羽院に味方し、平賀氏を含む大内一族は滅亡する。
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西暦1184年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
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寿永三年
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3月22日 辛亥
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吾妻鏡
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大井兵衛次郎実春が伊勢国に出発しようとしている。これは平家家人の主だった者に不穏な動きがあるため討伐せよとの命令に拠る。
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   ※不穏な動き: 平安時代中期、関東に勢力を拡大した 頼義義家の二代に関東から排除された平氏は
西国に基盤を移し伊勢の国司などを歴任して勢力を広げたが、前九年と後三年の役などで勢力を失ない始めた源氏は摂関家と疎遠になり、正盛を棟梁とする伊勢平氏が院と朝廷に重用され始めて両者の勢力が逆転した。
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正盛は因幡、備前、伊勢の国守を、嫡子の忠盛は播磨、伊勢の国守を継いで財政基盤の強化に成功し、清盛の時代に最盛期を迎える。治承の兵乱で形勢は再び逆転したが、本貫の地 伊勢では一ノ谷合戦後も平家累代の家人が反乱の動きを強め始める。
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指導者は伊豆で頼朝に討たれた 平兼隆 の父 信兼 と、平氏一の郎党と称された 家貞の子で 貞能 の兄 家継ら。平氏の残党を糾合して伊勢と伊賀で大規模な反乱を起こした。
平家物語が 「三日平氏の乱」 と書いた蜂起だが、実際の鎮圧には約一ヶ月を要した。
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   ※源氏の凋落: 義家の武名が高まって朝廷の警戒心を招いた事、義家を継承する筈だった長男の対馬守
義親が任地での濫妨のため流刑となり、更に隠岐国で平正盛に討伐された事、更に骨肉の争いを繰り返したこと。
これらが凋落の大きな要因で、保元の乱の時点での勢力差は既に顕著だった。
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西暦1184年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
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寿永三年
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3月25日 甲寅
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吾妻鏡
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土肥実平が使者として備中 (岡山県西部) の国庁に入り、兵糧米徴収などの手配を行なった。平家に解任されていた在庁官人の藤原資親ら数人を本職に復帰させて政務を執らせた。
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西暦1184年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
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寿永三年
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3月27日 丙辰
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吾妻鏡
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重衡卿が伊豆国府に到着、梶原景時は北條邸にいた 頼朝に使いを送り指示を仰いだ。頼朝は早々にここへ同道せよと命じ、到着した重衡卿には明朝一番に面談しようと伝えさせた。
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   ※伊豆国府: 残念ながら正確な場所は確定していない。京から
鎌倉まで旅をした老女の紀行文「十六夜日記」には
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「伊豆国府という所に着いた。まだ夕陽が残っていたので三島の明神に参拝して歌を奉納した。翌 二十八日に伊豆国府を出て箱根路へ向かった。」
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との一文があり、夕暮れに老女が大社まで往復できる至近距離に国府があったのは間違いない。大社の南東、「成真寺から法華寺までの古い寺が密集した一画」が国府の跡だと想像している。
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右上は旧東海道に面した三嶋大社の鳥居。
  クリック→ 三嶋大社 訪問記 (別窓) へ。
   関連情報として 三嶋大社 (公式サイト) 、法華寺と祐泉寺間眠神社阿仏尼の墓箱根精進池の石仏群 (全て別窓) なども参照を。
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ちなみに、大社から 北條館までは約 9km、意外に近い。以前の私は「頼朝と重衡の面談は鎌倉」と思い込んでいた、これは実に不注意だった。
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西暦1184年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
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寿永三年
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3月28日 丁巳
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吾妻鏡
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   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
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重衡卿は藍色の直垂に立烏帽子の姿で廊下に招かれ面談した。頼朝は「法皇の怒りを鎮めるため、且つ父の恥辱を雪ぐため石橋山で合戦して以来、平氏の追討に至ったのは承知の通りである。いま (捕虜となった) あなたに面会し、いずれ 宗盛殿にも同じように面会することになりましょう。」と。
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重衡はそれに答えて「源平は共に天下を警備する役目でしたが当家だけが朝廷を守るようになっていました。官職に任じる者は80余人、20年余りの繁栄であります。いま運命によって囚人となったのは弓馬に関わる者として特に恥辱ではないから早々に斬;ればよろしい。」と、堂々とした態度で応じた。
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この対応を聞いていた者は全て大きな感銘を受けた。面談後の重衡は 狩野介宗茂に預けられた。
今日、院からの申し出は滞りなく決裁せよ、武家の道理に関わる件には改めて対応すると決められた。
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   ※立烏帽子: 中間で折らずに直立した形の烏帽子。義家の姿に倣って源氏は左折れとか、平家は右折れ
を使うとか、上皇だけが右折れでその他は左折れとか。源平盛衰記などには色々書いてあるけれど、特に厳しい決め事はなかったようだ。
牛若丸 (九郎義経) が元服した「かがみの里」での記述を参照されたし。
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西暦1184年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
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寿永三年
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3月29日 戊午
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玉 葉
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雨。ある人が言うには、「入道関白 (近衛基通) 並びに摂政の許より、各々使者を頼朝の許に送り、あるいは物品を贈り、あるいは陳状 (頼み事)をする。」 卑屈な官僚はただ仏神に頼むのみ、か。
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西暦1184年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
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寿永三年
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4月1日 己巳
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吾妻鏡
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頼朝が北條から鎌倉に帰着。夜、北の部屋安達盛長が無事に帰還した祝賀の酒盃を献じた。
下河辺行平四郎政義新田忠常愛甲季隆、戸崎国延 らに伊豆で射止めた鹿皮を与えた。
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   ※北の部屋: 古代中国の君主は南に向いて座り、臣下は北に面した。これが公邸の北に区分した君主の
私邸を北面と呼んだ語源らしい。従って北に面して待機し君主を守る役に任じたのが北面の武士。とすると 大倉幕府 での頼朝私邸は法華堂跡寄りにあったんだろうな。
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   ※戸崎国延: 埼玉県騎西町を本領とした御家人で、居館跡と伝わる一帯に戸崎の地名が残る (地図) 。
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西暦1184年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
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寿永三年
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4月3日 辛未
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吾妻鏡
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尾張国住人大屋忠三安資の本領を安堵し併せて領内の治安を守るよう命じた下文を発行、筑前三郎高久がこれを差配した。尾張の武士の殆どが平氏に従ったにも関わらず 和田義盛の婿として源氏に従った功績である。
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西暦1184年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
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寿永三年
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4月4日 壬申
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吾妻鏡
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御所の桜が満開になり、一條能保を招いて花見の宴を催した。平時家も同席して音曲を楽しんだ。
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西暦1184年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
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寿永三年
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4月 6日 甲戌
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吾妻鏡
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前の池大納言 平頼盛 (清盛 の異母弟) とその正室 (俊寛の娘 ) の所領は一度朝廷が没収した後に院から頼朝に与えられたが、故 池禅尼 (忠盛の後妻で頼盛の生母) の恩に報いるため、所領 34ヶ所を頼盛の知行とするよう手配した。その中の信濃国諏訪社は伊賀国六箇山と交換した。
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池大納言 の沙汰は以下の通り。
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走井庄 (河内)  長田庄 (伊賀)  野俣道庄 (伊勢)  木造庄 (伊勢)  石田庄 (播磨)  建田庄 (播磨)  
由良庄 (淡路)  弓削庄 (美作)  佐伯庄 (備前)  山口庄 (但馬)  矢野領 (伊予)  小島庄 (阿波)
大岡庄 (駿河)  香椎社 (筑前)  安富領 (筑前)  三原庄 (筑後)  球磨臼間野庄 (肥後)
以上 庄園17ヶ所は没収して院から与えられたが 元通り 池大納言の沙汰とする。 寿永三年四月五日
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池大納言家 の沙汰は以下の通り。
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布施庄 (播磨)  龍門庄 (近江)  安摩庄 (安芸)  稲木庄 (尾張)   以上は証拠など理由あり。
乃辺長原庄 (大和)  兵庫三ヶ庄 (摂津) 田庄 (尾張) 服織庄 (駿河) 国富庄 (日向)
以上は八條院御領
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麻生大和田領 (河内) 諏訪社 (信濃、伊賀六箇山と交換)   以上は女房御領
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以上庄園16ヶ所は没収して院から与えられたが元通り池大納言家の沙汰とする。  寿永三年四月六日
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   ※大岡庄: 北條時政の後妻 牧の方 の出身地で荘官は兄 (又は父親) の牧宗親。本来は関白 藤原師通
の所領だから、頼盛が名義を借りて手数料を稼いでいた可能性がある。
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嘉保二年(1095)に美濃守義綱( (義家 の弟) が美濃の延暦寺荘園の公収を巡って寺側の僧を殺したため 延暦寺 (及び守護する 日吉神社) とトラブルになり、処罰を求める延暦寺に対して師通は軍勢で鎮圧した。
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この際に矢が神輿や神官に当たり、神罰を受けた師通は三年後に37歳で早世した、とされる(一説に院政を推進したい白河上皇の呪詛、とも) 。
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話が長引いたが、彼の死を悲しんだ母親は日吉神社の神霊を大岡庄に勧請し、所領から八町八反を神領として寄進した。これが沼津市にある日吉神社 (地図) 草創の背景である。
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西暦1184年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
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寿永三年
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4月 8日 丙子
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吾妻鏡
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重衡卿が伊豆の国から鎌倉に入った。頼朝は御所内の一軒を提供し、狩野宗茂に命じて主従に 10人づつ交代で警護させた。
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西暦1184年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
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寿永三年
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4月10日 戊寅
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吾妻鏡
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九郎義経の使者が京都から到着して報告。先月 27日の叙目で 頼朝義仲追討の功績で正四位下に叙された。
天慶三年 (940) には 藤原秀郷将門追討の功績で六位から従四位下に昇った例に倣ったようだ、と。
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宇治民部卿 (将門追討の征東大将軍に任じた藤原忠文) の例に倣い征夷将軍を宣下する議論もあったが、太刀の授与など手続きが複雑で今回の叙目に載せるには無理がある。まず叙位を与えようとの経緯になった、と。
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西暦1184年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
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寿永三年
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4月11日 己卯
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吾妻鏡
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27日の叙目で典厩 (左馬頭の唐名、義朝の官職だった) に任じた 一條能保が鶴岡八幡宮に謝礼の参拝、その後に御所で頼朝と面談した。
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西暦1184年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
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寿永三年
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4月14日 壬午
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吾妻鏡
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源民部大夫光行と中宮大夫属入道善信 (三善康信、後に法名を善信) らが京都から到着。光行は父の豊前前司光季が平家に与していたのを謝罪するためである。善信は母の姉が頼朝の乳母で、挙兵前から京都の情勢を知らせるなど様々に協力していた経緯があり、鎌倉への下向を誘われていた。
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西暦1184年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
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寿永三年
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4月15日 癸未
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吾妻鏡
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頼朝が鶴岡八幡宮に参拝、儀式の後に回廊で入道 (三善) 善信と対面した。頼朝は鎌倉に落ち着いて政務の補佐に任じるよう強く求め、善信も承諾した。その時に光行が席に現れたため、頼朝は面談を中止した。
その後に頼朝は「善信は穏やかな性格であるが、同道して来た光行は配慮に欠ける気配があるな」と囁いた。
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西暦1184年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
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寿永三年
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4月16日 甲申
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吾妻鏡
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改元あり。寿永三年を改めて元暦元年とする。
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西暦1184年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
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寿永三年
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4月16日 乙丑
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玉 葉
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この日、改元あり。去年も話題に上ったが即位の前なので実施できなかった。しかし天下は未だに鎮まらず即位もできないまま数ヶ月が過ぎたため即位の前に改元する事になった。俊経卿は大應、弘治、大喜、 兼光卿は元徳、文治、 光範朝臣は元暦、恒久、承寛、 業実朝臣は顕寛、應暦、 をそれぞれ提案した。
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西暦1184年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
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元暦元年
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4月18日 丙戌
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吾妻鏡
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頼朝は特別な願い事のため京都宅間流の絵師 下総権守為久に命じて正観音像の絵を描かせた。
為久は百日の精進潔斎を済ませてから束帯の正装で描き始め、頼朝も精進して観音経を読誦した。
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   ※宅間為久: 宅磨派絵師為遠の三男。宗家は兄が継ぎ 為久は頼朝
に招かれて鎌倉の浄明寺二丁目 (地図の通称を宅間ヶ谷) に定住し、鎌倉宅間派の祖となった。
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この谷にある 報国寺 (公式サイト、別名を竹寺) は幕府滅亡直後の元弘四年 (1334) の創建で開山は建長寺無学祖元の弟子 仏乗禅師。
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報国寺には為久の子孫 宅間法眼作の迦葉尊者 (釈迦十大弟子の一人) の像があり、一族が何かの形で関与していた可能性がある。
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大御堂橋から宅間ヶ谷まで通じる小道が田楽辻子 (右図、クリック→ 別窓で拡大表示)、南側の谷に三代執権 北條泰時が父 義時の菩提を弔って建立した釈迦堂があり、その一帯に田楽師が住んでいた事から田楽辻子と呼んでいた。その先が釈迦堂口の洞門に続く。
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   ※正観音像: 頼朝 は乳母の一人が清水寺に参籠して得た二寸 (約6cm) の銀製観音像を念持仏とした。
しとどの窟 や治承四年 (1180) 8月24日の吾妻鏡や 野間大坊にも観音像の記述がある。
寿福寺 の項に記載した「鉄 (くろがね) の井」も参考に。
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西暦1184年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
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元暦元年
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4月20日 戊子
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吾妻鏡
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重衡頼朝の許しを得て入浴し、夕刻には捕虜の身を慰めるため 籐判官代邦通( (初期の右筆藤原邦通) 、工藤祐経、女房 (千手前) が酒肴と共に遣わされた。重衡はとても喜んで時を過ごした
工藤祐経が鼓を打って今様を歌い、女房が琵琶を弾き、重衡が横笛で和した。〜言葉遊びの中間を略す〜
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夜半になり一同は御前に戻って仔細を報告した。頼朝は事の次第に感動し、周囲の噂になるのを憚って参加しなかったのが心残りだと嘆いた。夜具一枚を (女房の) 千手前に持たせて重衡の元に遣わし、祐経に「都から離れた土地の女も趣がある、逗留している間は召し置かれるように」と伝えさせた。
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祐経は 重盛に仕えていた若い頃に頃には重衡を見知っているため頻りに彼の身の上に同情していた。
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   ※重衡の拘留: 場所は 狩野宗茂邸、その跡が鎌倉大町の教恩寺 (地図) 。元は材木座の
光明寺 (公式サイト) の末寺だった善昌寺があり、その寺が廃寺になった跡に光明寺境内の教恩寺が移築された。
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重衡は頼朝から一族の菩提を弔うようにと 運慶作 (真偽不明) の阿弥陀如来像 (右画像、像高約 100cmの寄木造) を与えられた。それが教恩寺に伝わっている本尊である。
     (右画像。不鮮明だけどクリック→ 別窓で拡大表示)
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   ※右筆と祐筆: 共に同じ意味だが祐筆は中世以降に使われたらしい。私は右筆は誤字
だと思って、 ず〜っと「祐筆」を使った。勉強不足は口惜しい。
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   ※今様: 簡単に表現すると当時の国民歌謡、七+五を四回繰り返して一節。この歌詞
に曲を付けたのが最初で、越天楽や黒田節のパターンになる。
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朝長 が没した青墓宿には遊女が多く、彼女らが歌った今様の中心地だった。
後白河法皇は今様を集めて 梁塵秘抄 (Wiki) を編纂し、トップシンガーの「乙前」を青墓から呼び寄せた、と伝わる。
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   ※祐経と重盛: 伊東祐親は正当な相続権者だった若年の祐経を京の重盛に仕えさせて
不在中に伊東を押領し、久須見荘として重盛に寄進して支配権を確立してしまった。
これが後に 日本三大仇討ちとして名高い「曽我の仇討ち」を引き起こしていく。
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西暦1184年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
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元暦元年
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4月21日 己丑
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吾妻鏡
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昨夜、御所が大騒ぎになった。志水冠者 義高 は婿 (大姫の許嫁) ではあるが父の 義仲は勅勘を受けて討伐されており、いずれその息子も殺さねばならぬ。頼朝はそう考えていた。
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これを側近に話した内容が女房を通じて大姫に伝わり、義高は女房の姿で他の女房に紛れて鎌倉を脱出、離れた場所に馬を隠し蹄に布を巻いて音を消した、と。
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同じ年齢の側近 海野小太郎幸氏が義高の夜具で髪の毛だけ見せて眠り、夜明けからは義高と同じように双六で遊んでいた。誰も気付かなかったが夕暮れになってこれが露見、激怒した頼朝は幸氏を拘束し 堀籘次親家らの軍兵を各所に送って討ち取るように命じた。大姫は魂を消すような有様だった。
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   ※義高と大姫: 義高は承安三年 (伝) 生まれの満11歳、大姫は
長女を意味する普通名詞、治承二年生まれの満 6歳。幼ない二人は仲睦まじかったと伝わる。
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大姫は義高惨殺事件がトラウマになったのか、独身のまま 20歳で病没する。
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義高の墓は大船の 粟船山 常楽寺の裏手の高台の通称「木曽塚」だと思われていたが本物は既に行方不明である。
右は木曽塚と呼ばれている一角。詳細は画像をクリックして「常楽寺」の末尾部分で確認を。
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西暦1184年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
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元暦元年
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4月22日 庚寅
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吾妻鏡
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民部大夫光行と父親の豊前前司光季は平家に与していた罪の許しを願う手紙を義経宛に送った。
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   ※源民部大夫光行: 4月14日に 三善善信と共に京から鎌倉に入った人物。詳細は Wiki で。
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西暦1184年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
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元暦元年
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4月23日 辛卯
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吾妻鏡
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下河辺四郎政義 は合戦に於いては能く功績を顕し幕政に於いては労を厭わず働いたため頼朝の評価も高い。
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志田義広 謀叛の際には小栗十郎重成を除く常陸国の住人らが義広に与したり奥州に逃亡したりした中で最初から頼朝に従っていた、その褒賞として常陸国南郡を与えることとなった。
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この一両年は(合戦や遠征などのため)常陸の経済が停滞しているが互いに協力して改善を図るよう常陸国目代宛の文書として発行した (これは国司の藤原俊盛に鎌倉の威光を確認させる意味もある) 。筑後権守 藤原俊兼 (実務文官で頼朝の初期の右筆) が代筆している。
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西暦1184年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
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元暦元年
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4月24日 壬辰
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吾妻鏡
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賀茂神社 (公式サイト) の神領 41ヶ所について、後白河院からの下し文にある通り、頻発している武士の押領行為などを禁ずる旨の命令が発行された。
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西暦1184年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
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元暦元年
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4月26日 甲午
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吾妻鏡
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堀籐次親家の郎従籐内光澄が鎌倉に戻り、武蔵国入間河原で 志水冠者義高を討ち取った旨を報告した。
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これは内々にしたのだが 大姫がこれを漏れ聞き、愁歎の余り水さえも口にしなくなった。大姫の気持ちを察した 御台所政子の悲しみも大きく、御所の男女の多くもこの事件を嘆いた。
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   ※義高追討: 顛末は右画像をクリック→ 清水冠者終焉の地
(別窓) で。関連して 班渓寺と鎌形八幡 を。
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右画像は義高が討たれた場所と伝わる、旧奥州街道と旧鎌倉街道の交差点。義高は生母の山吹が待つ武蔵大蔵館を目差して逃げ、入間川で追い付かれた。一説に、大蔵の近在に住む 畠山重忠の庇護を願った、とも。
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西暦1184年
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81代 安徳天皇
82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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元暦元年
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4月27日 壬辰
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吉 記
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平氏が戦力を強化している、と。鎮西の松浦党傘下の武将が味方に付いた、との噂である。
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西暦1184年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
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元暦元年
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4月28日 丙申
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吾妻鏡
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平家一門が西海 (瀬戸内海) にいるとの風聞があるため軍勢を派遣することとなった。戦勝を祈って淡路国広田庄を広田社に寄進、下し文を前齋院次官 中原親能が上洛する際に神祇伯の仲資王に提出することになる。
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   ※広田庄と広田社: 広田庄は淡路島中央部 (地図) 、広田社は西宮の 広田神社 (公式サイト) を差す。
神祇伯は神社や祭祀を司る律令制の 神祇官 (Wiki) の長官で、仲資王は神祇伯に任じた公卿の名。
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西暦1184年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
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元暦元年
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4月28日 丙申
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玉 葉
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噂では、荒聖人聞覺 ( 文覚) と 大江公朝 (Wiki) が一昨日夕入洛した。今日、件の聖人参院すと。
この聖人様々な事を語らせるのは神仏の加護か、それとも不祥事を引き起すのか。
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西暦1184年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
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元暦元年
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4月29日 丁酉
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吾妻鏡
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中原親能 が使節として上洛し平家追討に関する補給や事務連絡などを差配する。土肥実平梶原景時も 同様に出発、軍船を整えて海が穏やかになる六月を目処にして合戦を遂げるよう命令を受けた。
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   ※実平と景時: 梶原景時は 重衡を連行して鎌倉に戻ったから親能と共に出発できるが土肥実平は3月2日
に西海に向け出陣したと吾妻鏡は記録している。その後に鎌倉に戻った記録は見落したか、あるいは山陽道の用事を済ませて鎌倉に戻ったのだろうか。
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西暦1184年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
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元暦元年
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4月29日 丁酉
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玉 葉
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坂東の荒聖人 聞覚 (文覚) 、今日院に参上し公式の場で数々の妄言を吐いた。
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西暦1184年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
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元暦元年
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5月 1日 戊子
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吾妻鏡
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   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
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志水冠者義高 に味方する者が甲斐と信濃に隠れ決起を計画しているとの噂があり、軍兵を派遣して討伐せよとの命令があった。足利義兼小笠原長清 は家人らを率いて甲斐国へ向かえ、 小山、宇都宮、比企・河越、豊島、足立、吾妻、小林らは信濃国へ入って反逆する者を捜索せよとの指令である。他に相模、伊豆、駿河、安房、上総の御家人らも同様に準備を整えて10日に出発せよと、和田義盛比企能員を介して下命した。
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   ※足利義兼: 足利氏初代の父 義康 が保元二年 (1157) に30歳で早世、更に
兄 3人が源平合戦などで戦死したため、四男の義兼が家督を相続した。足利氏は北條氏と深い縁戚関係を重ね、義兼は実質的な足利氏初代となった。
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若年の頃は祖父 新田義重の補佐を受けて所領維持に努め、頼朝が覇権を握るに従って新田氏棟梁の義重は排斥を受け、義兼が下野と上野の源氏門葉筆頭として重用される。
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義兼は奥州合戦が終った建久六年 (1195) に僅か 41歳で出家し隠居する。彼の軍事的才能を警戒した 頼朝から猜疑心を受けるのを避けて一族の温存を謀った、ともされる。
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頼朝と同様に、平泉で見た巨刹と浄土庭園に感動した義兼は足利郊外に社寺と浄土庭園を造り八幡宮を勧請して隠居所とした。 法界寺 (通称を樺崎寺) と樺崎八幡宮である。
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右は義兼が念持仏とした 運慶作の大日如来像。クリスティーズ競売で14億円の値が付いた法界寺本尊像の、携帯用縮小モデルである。 (光得寺所有、東京国立博物館 蔵)
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画像をクリック→ 「法界寺庭園と八幡宮と光得寺、運慶作の大日如来像」のページへ。
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西暦1184年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
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元暦元年
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5月 2日 己丑
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吾妻鏡
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志水冠者殺害 (と、与党討伐の命令) に伴って諸国の御家人多数が鎌倉に駆け参じてきた。
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西暦1184年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
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元暦元年
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5月 3日 庚寅
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吾妻鏡
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頼朝は二ヶ所の村を伊勢神宮に寄進した。永暦元年 (1160) に伊豆流罪となって京を出る際に霊夢を見て以来伊勢神宮への信仰は他の神社とは異なる。平家の残党が伊勢国にいるとの噂を聞いて軍兵を派遣するにあたり、例え敵が隠れていても神官に無断で神宮に乱入してはならないと再三指示していた。
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二ヶ所の村とは、内宮分として武蔵国飯倉の御厨を一の禰宜 荒木田成長神主に命じたものと、外宮分として安房国東條御厨を會賀次郎大夫生倫に命じたもので、一品坊昌寛の差配として寄進状を与えてある。
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東條御厨に関しては既に寄進状を発行したのだが去年の11月に禰宜らが返状を寄越し「今は反逆者の立場である源氏が平家討伐の願文を捧げるのは筋が通らない」として保留になっていた。
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今は情勢も変わり、更に会賀次郎大夫生倫が御所に参向していたため改めて寄進状を与えた。生倫は衣冠を正して御所に参内しこれを受け取った。
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   ※二ヶ村: 武蔵国飯倉は現在の港区飯倉、安房国東條は鴨川市のシーワールド一帯 (地図) 。
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   ※禰宜と生倫: 現代の禰宜は宮司を補佐する神官、生倫神主は御厨を担当する神官を差す。
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西暦1184年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
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元暦元年
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5月12日 己亥
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吾妻鏡
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雑色 (下働きの家臣) の時澤が 頼朝の使者として上洛。日頃から頼朝が祈祷を依頼していた 園城寺 (三井寺) の僧正 房覚が重病との知らせがあり、その見舞いである。
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西暦1184年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
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元暦元年
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5月15日 壬寅
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吾妻鏡
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夕刻、伊勢国から飛脚が到着。波多野三郎大井実春山内 (首藤) 三郎経俊大内惟義 (伊勢国守護)の家人らが羽取山志田義広勢と合戦、終日戦った末に義広の首を獲った。
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頼朝に反逆し鎌倉を攻めようとして野木宮合戦で 小山朝政に敗れ逐電して 義仲に与し、義仲滅亡後に再び逃亡していた者である。行方が判らないため頼朝の怒りは鎮まらなかったのだが、この報告に喜ばされた。
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   ※波多野三郎: 頼朝挙兵に協力しなかったため討伐された波多野氏当主が 義常 (義通の嫡子) 、義常の
所領を継承した 義景 (義常の庶兄説あり)の息子が三郎盛通。
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奥州合戦に出陣する直前の文治五年 (1189) 7月14日の吾妻鏡に「波多野五郎義景に供を命じた。義景は所領を幼い息子に譲り、生きて帰らぬ覚悟を決めた。頼朝はこれを聞いて感動した」との記載がある。この「幼息」が誰なのかは判らない。
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また文治四年 (1188) には所領を巡って 波多野義景 と争った記録もある。敗訴した義実は「孫 (義景にとっての外孫) に遺したかった」と弁明している。
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義実の孫で義景の外孫って誰だろう。義実の子は石橋山で死んだ (佐奈田) 余一義忠と土屋の養子に入った義清の二人、建暦三年 (1213) の和田合戦戦死者名簿にある「土屋の人々」即ち 大学助 (義清) 、同新兵衛、同次郎、同三郎、同四郎 の誰か、なのかも。
義景の外孫は不明。
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   ※大井実春: 武蔵国荏原郡大井郷の武士、今回の功績で伊勢に所領を得た。更に文治元年 (1185) の
河越重頼追討により彼の所領 (伊勢の五ヶ郷) を得て繁栄した。剛力で知られた武士。
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   ※山内経俊: 頼朝の乳母の一人だった山内尼の息子。石橋山では平家方として頼朝に矢を放ち、降伏後
に許されて御家人に加わった。元久元年 (1204) に伊勢と伊賀で勃発した反乱の対応に失敗し両国の守護を罷免されている。
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   ※大内惟義: 新羅義光の曾孫で 平賀義信の長男、源氏門葉の一人でこの年の伊賀国守護。志田義広討伐
後の 6月に伊勢平氏の乱が勃発し、鎌倉からの援軍が着く前に鎮圧したが初期対応の失敗を問われて恩賞は得られなかった。
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   ※羽取山: 三重県鈴鹿市郡山町の中ノ川右岸の丘陵地帯 (古墳群) を差す、地図) 。
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西暦1184年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
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元暦元年
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5月19日 丙午
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吾妻鏡
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頼朝頼盛卿と 一條能保らと共に海へ、由比ヶ浜から船で杜戸 (葉山の森戸海岸、地図) に渡った。御家人らもそれぞれ仕立てた船を飾り先を争って漕いだのは趣があった。
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杜戸の松林では射芸を競う小笠懸けを行ない、頼朝はこれは見物し甲斐があると勧め、客も充分に楽しんだ。
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   ※小笠懸け: 流鏑馬から儀礼的な部分を省き 実戦、余興、勝負の要素を強めた騎射。詳細は Wiki で。
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西暦1184年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
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元暦元年
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5月21日 戊申
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吾妻鏡
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頼朝高階泰經に書状を送り、頼盛卿と息子を元の官職に還任させる事と、源氏一族の 蒲冠者範頼頼政の五男 広綱平賀 (大内) 義信 らを一国の国司に任じるように奏聞せよとの内容である。
三善善信がこれを書き、雑色の鶴太郎に託した。
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   ※頼盛還任: 京に戻り 6月 5日に権大納言に、六男の光盛は侍従に、五男の保業は河内守に還任した。
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西暦1184年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
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元暦元年
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5月24日 辛亥
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吾妻鏡
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藤原 (宇都宮) 朝綱が伊賀国壬生野郷 (伊賀市) の地頭職を拝領した。平家に仕えていた者だが志は関東にあり、密かに都から逃れて関東に合流した。その功績で宇都宮の本領を安堵し更に新恩を与えたものである。
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   ※朝綱東国へ: 治承四年(1180)8月に頼朝が挙兵、10月には
それまでは平家に従っていた東国武士団の 千葉、上総、宇都宮、河越、江戸、畠山、小山田などが次々と 頼朝の陣営に加わってしまった。
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大番役として在京した平家郎党の 宇都宮朝綱畠山重能小山田有重らは拘束され、都落ちの際に斬られる筈だったが、平貞能 (生母が宇都宮氏の娘) が彼らを東国に帰すよう尽力した。
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帰郷を裁許したのは平家物語では 知盛、源平盛衰記では棟梁の 宗盛だった、と書いている。
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一方で平貞能は平家都落ちと共に一門から離脱し、主人の故 重盛 の遺骨を掘り出して高野山へ送って周辺の土を鴨川に流し、重盛の妹 妙雲禅尼と側室だった得律禅尼を伴って姿を消した。そして壇ノ浦で平家が滅亡した翌年の 7月、突然に宇都宮朝綱の屋敷に現れて庇護を求める。
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続きは右画像(小松寺の重盛供養墓)をクリック、「重盛夫妻の墓所と伝 平貞能の墓」でどうぞ。 那須塩原の妙雲寺益子の安善寺 も同様に。(それぞれ 別窓)
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西暦1184年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
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元暦元年
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6月 1日 戊午
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吾妻鏡
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   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
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頼朝は近日中に京に戻る予定の 平頼盛 (前の池中納言) を招いて別れの宴を催した。一條能保平時家も加わって酒を酌み交わし、互いに世情の様子などを語り合った
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小山朝政三浦義澄結城朝光下河邊行平畠山重忠橘右馬允公長足立遠元八田知家後藤基清 らが呼ばれて庭に控えた。いずれも京に駐在した経験のある者たちである。次に引出物として黄金造りの剣一振りを時家が献じ、砂金一袋を 大江広元 が献じ、次に鞍を付けた馬 10匹を引き出して献じた。
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更に頼盛の従者たちにも引出物を与えるため、まず平家の一族である弥平左衛門尉宗Cを呼んだ。病気で (鎌倉入りが) 遅れるとの申し出があり、もう到着したと考えての事だが、頼盛から「未だ参着せず」との返答があり、頼朝は落胆した。宗清は 池禅尼に仕えた武士で、平治の乱の際に捕虜となった頼朝の便宜を図ってくれた恩に報いるため鎌倉下向に同伴するよう求めていた経緯がある。
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頼盛は京を発つ時にそれを宗清に伝えたのだが、「戦場に向かうなら喜んで先陣を務めますが主家が零落した時に昔の恩に報いるための招きを受けるのは恥です。」と称して屋島の 宗盛軍に加わってしまった、と。
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   ※三人の立場: 平家政権中枢に在りながら軋轢の末に見捨てられた形の頼盛 (清盛の異母弟) 、継母 (父
時忠の後妻) による讒言が発端で上総流罪となった時家、義仲から逃れて妻 (頼朝の姉妹 坊門姫) の縁に頼った能保、三様の生き様と苦悩が見られて興味深い。
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鎌倉に定住した時家 (時忠の二男) は政治顧問として優遇されて穏やかな晩年を過ごし、京に帰って 後白河に重用された能保は宮廷の政争に身を投じ、頼朝の庇護を受けた頼盛は宮廷で安定した地位は保ったが、在るべき居所を失くした異分子として満ち足りない生涯を送ったらしい。
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西暦1184年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
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元暦元年
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6月 4日 戊午
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吾妻鏡
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石河義資が御所に勤務するべく朝夕官仕の立場で鎌倉に入った。去る養和元年 (1181) に平家の捕虜となった石河義時 (義家の四男) の遺児で、河内源氏の生き残りである。義仲にも追われたため 頼朝が朝廷に執り成し、3月2日に元々の職位である右兵衛尉に任じる宣下が下されていた。
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   ※朝夕官仕: 所領を持たず御所に住んで1日換算で玄米五升の俸給を受ける勤務体系。
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西暦1184年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
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元暦元年
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6月 5日 壬戌
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吾妻鏡
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頼盛卿 が帰洛した。頼朝は荘園を亜相(=大納言=頼盛)に譲り、更に鎌倉逗留中は連日のように酒肴を勧めて宴を重ね金銀錦繍を贈った。
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西暦1184年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
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元暦元年
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6月16日 癸酉
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吾妻鏡
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一條次郎忠頼には武威を振りかざし世を乱すく気配あると頼朝は受け取り、今日御所で討ち取ると決めた。夜になって西の侍所に出御して招かれた忠頼と対座し、古参御家人数名が列座した。献杯の儀があり、討手に任じた 工藤祐経が銚子を持って御前に進んだが名だたる武将との対決という大事に躊躇し顔色が変わった。
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この様を見た 小山田有重が席を立ち 「酌をするのは老人の役目」 と称して祐経の銚子を取り、更に子息の 稲毛重成と弟の 榛谷重朝が杯と肴を捧げて忠頼の前に進んだ。有重は「酒席の故実は袴の裾紐を上結びにする」と息子に教えて銚子を置き、紐を結び直した。
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その瞬間に別の指示を受けていた 天野遠景が太刀を抜いて左から忠頼を刺し殺し、頼朝は背後の障子を開いて奥に入った。
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忠頼に従っていた新平太と甥の武藤與一、山村小太郎が主人の惨劇を見て庭から部屋に駆け上がり、詰めかけた武士の多くを傷つけ寝殿近くに迫った。重成、重朝、結城朝光らが戦って新平太と與一を討ち取り、遠景を狙った山村は一間離れた所から大俎板を打ち付けられて縁下に昏倒し、遠景の郎従が首を獲った。
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        右上画像は一條忠頼の墓所と伝わる妙楽寺の跡(クリック→ (別窓の) 忠頼の旧蹟へ)、
        地番は富士川町舂米2128だが、道が細くて判りにくい (地図)。

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   ※一條忠頼: 甲斐源氏棟梁 武田信義の嫡男。殺害は頼朝による甲斐源氏
の排斥と粛清だが、背後には兄たちを排除して一族の惣領権を狙った信義の四男 石和信光の策謀と協力があった。
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後白河法皇は源氏の分裂と弱体化を策しており、この直前に「忠頼を武蔵守に任じる」との意思を示した (忠頼が武蔵守を望んだ とも) 事などが殺害の直接の動機になった。
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ともあれ同族が団結できないのは河内源氏も甲斐源氏も同じ宿業を抱えている。平家は同族を重用して滅び、源氏は同族を殺し合って滅びた、と。
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忠頼余聞。建久四年 (1193) に発生した「曽我兄弟の仇討」で 頼朝の宿舎に討ち入った弟の 五郎時致を組み伏せた女装の若者 御所五郎丸が 昔は小舎人童 (下働きの少年) として一條忠頼に仕えていた職歴もあった (真偽は不明) 。
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広重は曽我物語図絵で「女を装った小舎人五郎丸が時致を組み取った」と描いている。
  詳細は右画像をクリックして 御所五郎丸の墓 (別窓) で。

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「曽我兄弟の仇討」は華々しい勧善懲悪物語だが、原典の「曽我物語」は伊東一族の悲劇を
描いている。「鎌倉時代を歩く 壱」のその七「もう一度伊東へ」以下を読んで頂きたい。
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西暦1184年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
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元暦元年
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6月17日 甲戌
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吾妻鏡
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頼朝は鮫嶋四郎を呼び右手の指を切らせた。昨日の (忠頼殺害) 騒動の際に味方を討った罪への処分である。
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西暦1184年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
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元暦元年
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6月18日 乙亥
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吾妻鏡
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一條忠頼の家人である甲斐小四郎秋家 (京下りの人物) を呼び出した。舞曲に長けた者なので情けを掛け御所に勤めるよう指示を与えた。
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西暦1184年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
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元暦元年
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6月20日 丁丑
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吾妻鏡
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去る五日、朝廷による小除目が行われ、その書類が到着した。頼朝が申請した通りの内容である。権大納言に 平頼盛、侍従に嫡子の光盛、河内守に五男の保業、讃岐守に 一條能保、参河守に 源範頼、駿河守に源広綱 (頼政の末子) 、武蔵守に 平賀義信である。
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   ※小除目: 春と秋に行なう恒例の除目の他に実施する小規模な臨時の人事異動。
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西暦1184年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
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元暦元年
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6月21日 戊寅
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吾妻鏡
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頼朝は範頼、義信、広綱らを呼び盃を与えて除目の内容を伝え、それぞれは大いに喜んだ。義経は再三推挙を望んでいたが頼朝は敢えてそれをせず範頼を優先したため特に感謝された。
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西暦1184年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
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元暦元年
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6月23日 庚辰
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吾妻鏡
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頼朝 は特に目を掛けている信濃国の片切太郎為安を呼び出した。父の小八郎大夫は平治の乱で故義朝に従ったため本領の片切郷を平氏に没収され既に 20余年、今日から元通りに所領を統治するよう指示を与えた。
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   ※片切郷: 現在の駒ヶ根市の南側、上伊那郡中川村 (地図) 。片切 (片桐) 氏は 経基王の五男満仲の弟で、
満快を祖とする清和源氏の傍流。一族の為重は保元の乱で 為義に与して戦死、弟 景重は 義朝 に与して勝利したが、平治の乱に敗れて所領を没収されていた。
名前から考えると為安は為重の子孫、かも知れない。
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西暦1184年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
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元暦元年
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6月27日 甲申
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吾妻鏡
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御台所政子の怒りが原因で 堀籐次親家の郎従 (籘内光家) が斬首された。去る 4月に討手として 志水冠者義高を殺した為である。その事件後に 大姫は悲しみの余り病床に伏して日増しに憔悴を深めている。
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全てはこの男 (籘内光家) の不始末が原因であり例え命令であっても前もって姫君の方に何故知らせないのか、それが御台所の怒りである。頼朝は弁解ができず、斬罪という結果になった。
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   ※不始末: 4月21日の事件の処分が二ヶ月も後の6月27日の斬罪とは少し気になる。
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また 「姫君の方に知らせるべき」 ならば責任の重さは@発令した頼朝、A頼朝に従った堀親家 、B親家に従った光家 の順序であり「光家の不始末」ではない。
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堀親家の本領は修善寺から伊東市に抜ける古い間道の途中にある。館跡を示す石碑 (右画像) には「北條氏を憚って長く供養もできなかった」と刻んである。
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建仁三年 (1203) 9月の比企の乱に関わる行き違いから 北條時政の手勢に討たれた親家の不運を語っている。
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  右画像をクリック→ 堀親家の本領紹介 (別窓)へ。
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西暦1184年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
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元暦元年
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7月 2日 戊子
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吾妻鏡
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   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
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昨夜、高野山成就院僧正房からの使者が到着し、寂楽寺の僧兵が高野山領の紀伊国の阿弖河庄に乱入して非法狼藉を行なった旨を報告した。当山結界の絵図 (領有の図面) と弘法大師の手形を押した書類の写しなどを提示し、筑後権守俊兼が頼朝に内容を説明した。我が国の仏法は全て弘法大師 (空海) の業績である。
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信仰心の深い頼朝は日を置かずに内容を確認し、狼藉を停止し旧に復すよう 7月2日付の書類を発行した。
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   ※寂楽寺: 京都北白川にあった桓武平氏高棟流の従二位 中納言 平惟仲 (Wiki) が建立した氏寺で、
前身は白川喜多院。既に廃寺となり、痕跡すら明らかでない。
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   ※阿弖河庄: (あてがわ)、紀伊国在田郡 (現在の有田川町清水) 有田川の上流域 (有田川と湯川の合流部
(地図) から更に上流) の山林が中心の荘園で本家は 園城寺 (三井寺) の円満院門跡、領家は京都寂楽寺 (白川寺喜多院) 、地頭は紀伊国の豪族で鎌倉御家人の湯浅党 (藤原秀郷流?) 。
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高野山金剛峰寺の荘園と境界を接している上に預所の寂楽寺と地頭に任じた湯浅氏が管理権を争って再三の紛争を起こしている。
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   ※預所: 領家の代理人として荘園の管理と収納を受け持つ。職責の多くが地頭と重複するから、調整が
不足すれば紛争が起きる。領家は土地を開発した領主から寄進を受けた荘園領主。
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西暦1184年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
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元暦元年
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7月 3日 己丑
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吾妻鏡
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頼朝は前 内府 (大納言宗盛) ら平氏を追討するため 義経 が率いる軍勢を西海に送ると 後白河法皇に報告した。
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西暦1184年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
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元暦元年
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7月 5日 辛卯
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吾妻鏡
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伊賀国守護職に任じる 大内惟義 からの飛脚が到着。去る7日に伊賀国で平家一族 (清盛の系統、伊勢平氏) が蜂起し多くの家臣が殺された、と報告した。武士の多くが集まるなど鎌倉が大騒ぎになった。
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   ※大内惟義: 新羅義光 → 四男平賀盛義 → 嫡子義信惟義と続く源氏門葉で、本拠は伊賀国大内荘。
時政の娘婿だった惟義の異母弟 平賀朝雅は元久二年 (1205) の時政失脚と共に滅亡するが 惟義は連座せず朝雅領の伊勢と伊賀守護を引き継ぎ、更には相模守から駿河守を転任して北條義時に次ぐ地位を保つことになる。
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没年は不明だが建保七年 (1219) または翌年らしい。承久の乱 (1221) では嫡子の惟信以下が 後鳥羽上皇軍 に加わって滅亡している。
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西暦1184年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
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元暦元年
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7月 8日 甲午
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玉 葉
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噂に拠れば、伊賀と伊勢の国人が叛乱を起こした。伊賀国守護の大内惟義が知行し郎従を各地に派遣して統治していたが、昨朝に平家継が指揮する軍勢が大内の郎従を悉く討ち取った、と。
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また伊勢国では平信兼 (頼朝の緒戦で討たれた 山木判官兼隆の実父) らが鈴鹿の関を閉鎖して叛乱を起こした。この事件により院の御所は喩えようもないほどの大騒ぎになった。
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   ※平家継: 清盛の侍大将で平家一の郎党と称された 平家貞の長男で故重盛 の郎党だった平貞能の兄。
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   ※平家の叛乱: なんでそう呼ぶのか判らないけど 世に言う「三日平氏の乱」で、鎮圧までに約一ヶ月を
要した。京都に近い場所で起きた大規模な兵乱で、平氏から源氏に乗り換えた廷臣らは
「平氏の残党が都に戻ってきたら...」と考えて酷く怯えたらしい。
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8月6日には義経が頼朝に無断で検非違使左衛門少尉に任じられ、これを怒った 頼朝義経を平家追討の指揮官から外し、範頼 に変更したと考えられていたが、現在では朝廷の警備強化要請を受けた頼朝が義経に在京を命じた、と考える説が有力らしい。
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翌年2月13日の吾妻鏡には屋島への出陣直前に大蔵卿 (現代なら財務大臣か) の 高階泰経が義経の陣営を訪れて出兵の延期を提案し、九條 (藤原) 兼実は日記 玉葉で「泰経は既に公卿 (当時は従三位) であり、この程度の問題で義経のもとに出向くのは甚だ見苦しい。」と書いているが、朝廷内部では平氏が反転して入京したら、の恐怖が深刻だった。
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なにはともあれ、一族の首を市中引き廻しに処した怨みと責任は消し難い。
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西暦1184年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
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元暦元年
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7月10日 丙申
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吾妻鏡
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今日、駿河国蒲原の驛で井上光盛が討ち取られた。武田 (一條) 忠頼 に与しているとの噂があり、兼ねて命令を受けていた吉香と船越 (共に現在の静岡市清水区) の武士が京からの下向を待ち受けて討ち取った、と。
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   ※井上光盛: 養和元年 (1181) 6月13日の 横田河原の合戦で保科党 (高井郡保科荘武士団) を率いて城長茂
陣営を奇襲した北信濃須坂の武士。木曽義仲に協力する仲間として参戦していたらしい。
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吾妻鏡の記述通りに解釈すれば 義仲から忠頼に乗り換えた事になるが、詳細は判らない。保科荘は現在の長野市若穂保科(地図)。
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西暦1184年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
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元暦元年
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7月10日頃
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義経記
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義経記に拠れば、この頃に長く日照りが続いたため 後白河法皇が神泉苑(静と義経の出会いの項を参照、朝廷専用の庭園) に百人の僧を集めて雨乞いの祈祷をさせたが効果がなく、更に百人の美しい白拍子を集めて舞わせても 99人まで何も起きなかった。最後に磯禅師の娘 が舞うと突然 黒雲が湧き、三日三晩も雨が続いた。後白河法皇は「かの者は神の子か?」と深く感嘆し褒美に蛙蟆龍 (あまりょう) の御衣を与えた。
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一説には後白河が与えた御衣で舞った、とも言われる。もちろん平家物語や義経記の記述なんて鵜呑みにはできないけれど その後の彼女の生き様の記録を見ると「ひょっとすると本当に...」なんて思えてくるから面白い。龍神と心を通わせる能力を生まれながらに持っていた娘なのかも知れない、なんてね。
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   ※蛙蟆龍の御衣: これが何と、静の遺品として現存するから更に面白い。
静の墓や 没した土地の伝承は多数あるが、私が 「栗橋周辺説」 を信じている大きな根拠がこの御衣の存在だ。
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詳細は 静の慰霊墓と光了寺の遺品で、できれば「鎌倉時代を歩く 弐」 の14 「九郎義経と白拍子 静の物語」 から二人の逃避行をじっくりと読んでおくれ。
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ちなみに 蛙蟆龍は古代中国の伝承で雨を司る龍の一種、または幼い世代の龍を差すらしい。
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右は光了寺が収蔵する蛙蟆龍の御衣。ポスターから転写したため不鮮明だが、クリック→ 別窓で拡大表示。
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熱海に住んでいた頃に遠路はるばる拝観に行ったのだが「法事があるから」と断られてしまった。撮影は不許可らしいからそれ程の未練はないけれど。
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   ※静と龍神: 一ノ谷合戦で敗れ軍船に乗ろうとした 知盛は児玉党の武者と組み打ちになった。その武者
を討ち取って知盛を救った嫡男 知章は源氏勢に囲まれ壮絶な最期を遂げる。平家物語には知盛は子を討たれ自分が助かった事を深く悲しんで泣いた、と書かれている。
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後に壇ノ浦で二領の鎧を着け、碇を抱いて入水した知盛は龍神の世界に入って海を彷徨う怨霊となり、鎌倉勢に追われて大物浦から九州を目差した 義経の乗る船を襲った。
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かつて神泉苑で美しく舞い龍神と心を通わせた静が乗船しているのだから自然の脅威も 怨霊の力も及ばない筈なのだが、能の「船弁慶」では静は船に乗っていない筋立てである。
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義経主従を海底に引き込もうとした知盛の怨霊は五大明王に祈った 弁慶 の法力に負けて波間に遠ざかって行く。龍神を脇役に、前段の静と後段の怨霊知盛の心が対峙する、幽遠な展開である。
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ここで思い出すのは、静が寿永三年 (1184) の夏に神泉苑で舞い雲を呼んで雨を降らせた奇跡だ。
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「あの者は神の子か?」と驚嘆した後白河法皇が「蛙蟆龍の御衣」を下賜した事件である。
白拍子 静には 舞を介して天候を支配する龍神と心を通わせる、その能力があったと。
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その静が船に乗らなかったために暴風雨を防げず、海上に知盛の怨霊が現れた...背後にはそんな経緯が秘められている。 実際には静も船に乗っていたし、義経と静を含めた僅かな人数は難破船から陸地に辿り着いていたのだけど、ね。
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右上は明治期の四条派画家 野村文挙の描いた「船弁慶」。クリック→ 別窓で拡大表示
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西暦1184年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
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元暦元年
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7月16日 壬寅
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吾妻鏡
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渋谷高重の父祖に恥じない勇敢さは再三頼朝を感嘆させたもので、今回は所領の中の上野国黒河郷の税に関し通常の国衙の入部 (収穫量調査結果に依拠する税額決定) を停止し、一定額の納税に改めさせた。
その旨を文書にし、上野国の奉行である 籐九郎盛長を経由して国衙に指示した。
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   ※渋谷高重: 秩父平氏の系。佐々木秀義親子を庇護した渋谷重国の二男。横山党棟梁である時広の娘を
妻に迎えた関係から、建暦三年 (1213年) の 和田合戦 (別窓) では 横山党と血縁関係の深い 和田義盛に味方し、横山党と共に滅亡してしまう。
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西暦1184年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
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元暦元年
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7月18日 甲辰
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吾妻鏡
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伊賀国の合戦について、平家残党を討伐せよとの命令が 大内惟義加藤景員親子と瀧口経俊らに下された。
雑色の友行と宗重が命令書を持って出発した。
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西暦1184年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
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元暦元年
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7月20日 丙午
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吾妻鏡
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鶴岡若宮 (八幡宮) に祭壇を新設して今日熱田大明神を勧請、頼朝が参拝した。平賀義信源広綱 (頼政の末子) ら源氏一門が装いを整えて従った。
結城朝光 が劔を持ち、河匂三郎実政 (武蔵猪俣党の武士 ) が弓箭を携えて従った。
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実政は昨冬の 義仲討伐に際して渡河の際に 一條忠頼と先陣を争って勘気を受けた過去はあるが、武勇の誉れが高いため間もなく許された人物である。
遷宮の儀式後に年貢料として相模国の一ヶ村を寄進し、筑後権守 藤原俊兼 が寄進状を書いた。
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   ※藤原俊兼: 初期の頼朝右筆。この年の11月21日には彼の華美な衣装を見た頼朝に強く叱責を受けて
小袖の 褄 (つま) (Wiki 画像) を切られる事件が起きている。京下りの実務官僚らしい。
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西暦1184年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
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元暦元年
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7月20日 丙午
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玉 葉
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伝聞情報、昨日伊勢で謀叛した輩は近江の国で官兵と合戦。官軍は賊徒を撃退し首謀者を討ち取ったと。
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西暦1184年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
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元暦元年
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7月21日 丁未
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玉 葉
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噂に拠れば、反乱軍の大将平田入道 (平家継) 及び他の大将三人も討ち取られ、藤原忠清と家資らは山に逃げた、と。また官軍の佐々木冠者 (姓名の記載はなし、佐々木秀義が該当) を含めて数百人が戦死したらしい。
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   ※藤原忠清: 平家の侍大将で歴戦の武者。富士川合戦では形勢不利と判断して 惟盛に撤退を進言、清盛
に激しく叱責されている。寿永四年 (1185) 3月に志摩国で捕えられ斬首される。
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西暦1184年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
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元暦元年
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7月25日 辛亥
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吾妻鏡
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(7月10日に討たれた) 井上光盛の部下である保科太郎と小河原雲籐三郎が降伏して出頭し御家人に加わった。藤内 (比企) 朝宗がこれを差配した。
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   ※藤内: 藤原氏が任命した内舎人うどねり 。内舎人は中務省に属する武装兵で宮中の宿直や警備などに任じた。
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西暦1184年
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81代 安徳天皇
82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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元暦元年
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7月28日 甲寅
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複数史料
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第82代 後鳥羽天皇 (満 3歳、安徳天皇の異母弟) が即位した。先帝 (安徳天皇) が在位していること、即位礼に必要な神器が揃っていない事実などから皇位継承の正当性に疑義も呈された。
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   ※玉葉: 今日、即位あり。治暦四年の例 (第71代後三条天皇 (Wiki) を差すか) に依拠して太政官政庁で
即位の礼を催した。劔璽 (神器) が戻るのを待つべきかを諮問したが結論が出せないままの挙行となった。
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   ※治暦四年の例: 親王時代 (1607年) に 東宮が伝領すべき 壺切御剣 (Wiki) を摂関家に妨害され、即位する
まで献上されなかった。その例を差しているらしい。
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西暦1184年
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81代 安徳天皇
82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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元暦元年
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8月 1日 丁巳
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玉 葉
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伝聞では、鎮西方面では平氏に与する土豪が多く、官軍と六ヶ度合戦を戦い平家が勝利を得ている。
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   ※六ヶ度合戦: 瀬戸内海周辺での一連の合戦を差す。平家の指揮官は 平教経、概略は ウィキ辞書で。
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西暦1184年
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81代 安徳天皇
82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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元暦元年
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8月 2日 戊午
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吾妻鏡
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大内惟義の飛脚が再び到着して曰く、「去る19日酉の刻(18時前後)に伊勢平氏の叛乱勢と合戦して勝利をおさめた。90余人を討ち取り、その内の首謀者は 4人(富田家助、同じく家能と家清、平田家継)、平信兼の子息と忠清らは山に逃げ込んだ。佐々木五郎義清と共に戦った佐々木秀能(秀義を差す)は討ち死にした。
私 (惟義) は敗北の恥を雪いだので恩賞を考えて欲しい。」
と。内容は 7月21日の「玉葉」情報と同じ。
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   ※五郎義清: 佐々木四兄弟の異母弟 (生母は 渋谷重国の娘)。ちなみに長男定綱と三男盛綱と四男高綱の
生母は 源為義の娘、二男経高の生母は宇都宮氏の娘。
義清は出雲と隠岐守護職に任じ、子孫は出雲源氏として土着した。
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西暦1184年
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81代 安徳天皇
82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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元暦元年
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8月 3日 己未
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吾妻鏡
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大内惟義 の使者を呼び詳細を記した書状を与えた。内容は次のとおり。
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謀反の輩を滅ぼしたのは感心だが恩賞を求めるのは筋違いである。一国の守護に任じた者は治安の維持に務めるのが当然で、謀反した輩に家人らを殺されたのは謂わば怠慢である。賞罰に触れるべき事柄ではない、と。
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また 安達新三郎を使者として京都守護職の義経宛に派遣し、今回の伊賀国の兵乱は平信兼子息の企みなのに包囲を逃れて行方不明らしい。京都に潜伏しているのだろうから早く見付け出して殺せ、と命じた。
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   ※安達新三郎: 姓は足立または安達、名は清恒、清経、常清とも。安達盛長 や甥の足立遠元との血縁は
ないが婚姻または養子関係があった可能性はある。御家人より身分の低い雑色から引き立てられて頼朝の近習を務めた、実務の面で有能な人材だったと思われる。
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文治二年 (1186) には鎌倉に入った 義経の愛妾 を自宅に預かり、閏7月29日には頼朝の命令を受け、静が産んだ男子を由比ヶ浜に沈めて殺すことになる。
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安達新三郎と言えば小林恭二著の「宇田川心中」。鎌倉時代から現代の渋谷道玄坂まで輪廻を繰り返す男女の愛の物語で、個人的にはとても面白かった。
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西暦1184年
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81代 安徳天皇
82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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元暦元年
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8月 6日 壬戌
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吾妻鏡
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頼朝は 参河守範頼足利蔵人義兼、武田兵衛尉 (逸見 (武田) 有義) と 千葉常胤ら主な御家人を呼び集めた。
これは平家追討のため西国に赴く壮行の宴で、終日行われた。終了の際に其々 馬一頭を、特に範頼には甲冑に添えて秘蔵の駿馬を与えた。
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西暦1184年
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81代 安徳天皇
82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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元暦元年
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8月 6日
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平家物語
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一ノ谷合戦、三日平氏の乱などの功績により、義経が左衛門尉 検非違使 (判官) に任ぜられた。
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   ※義経の任官: 義経が強く望んだ、後白河が頼朝と義経の離反を策した、頼朝が後白河を牽制するため
黙認した...などの諸説がある。義経と共に任官した御家人を頼朝が罵倒したのは翌年の壇ノ浦合戦後の事件で、頼朝も平家が滅亡するまでは対立を避けたらしい。
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義経の人間像と共に、いずれ一項を設けたい。
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西暦1184年
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81代 安徳天皇
82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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元暦元年
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8月 8日 甲子
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吾妻鏡
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午の刻 (昼前後)に 範頼が平家追討使として1,000余騎を従えて西海に出陣した。頼朝は稲瀬川に桟敷を構えてこれを見送った。主な武将は以下の通り。
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北條義時足利義兼武田有義千葉常胤境常秀三浦義澄、同 義村八田朝家、同 朝重葛西清重
長沼宗政結城朝光比企朝宗、同 能員、阿曽沼広綱、和田義盛、同 宗実、同 義胤、大多和義成、
安西景益、同 明景、大河戸広行、同 三郎、中條家長工藤祐経宇佐美祐茂天野遠景、小野寺道綱、
一品房昌寛、土左房昌俊、
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西暦1184年
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81代 安徳天皇
82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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元暦元年
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8月13日 己巳
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吾妻鏡
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鹿島神宮に寄進した土地などについて、常陸国奥郡 (茨城北部) で決め事に従わない輩がいるため業務が停滞している、と。今日、神領である事を重ねて指示命令を発布した。
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西暦1184年
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81代 安徳天皇
82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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元暦元年
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8月17日 癸酉
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吾妻鏡
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義経からの使者が到着して報告。去る 6日、左衛門少尉に任じ併せて検非違使とする宣旨を受け取った。
私の希望ではないが「再三の勲功を黙視しない自然の成り行き」との仰せなので固辞できなかった、と。
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これは 頼朝の機嫌を著しく損ねた。範頼平賀義信の任官は頼朝の意思から実現したもので、義経については疑義を呈する者があり、保留としたにも拘わらず勝手に申請したのではないか、との疑念を持った。指示命令に背くのは今回だけではないため、平家追討使への着任は保留とした。
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   ※追討使着任保留: 三日平氏の乱が鎮圧された直後であり、後白河は義経が京都守護職として駐留する
のを強く望んでいた。頼朝の意図 (ペナルティ) が義経に正しく伝わらず、朝廷も鎌倉も「京都の治安維持に専念せよ」との意志だと理解していた可能性はある。
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西暦1184年
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81代 安徳天皇
82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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元暦元年
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8月18日 甲戌
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吾妻鏡
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武蔵国住人である 天糟野次広忠は特に有力な武士ではないが西海での平家追討に加わりたいと申し出た。
頼朝はこれに感動し、広忠の所領については年貢以外の労務などを免除する旨の指示を与えた。
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   ※天糟広忠: 児玉郡美里町甘粕 (地図) が本拠の猪俣党の武士 (一ノ谷で平忠度を討ち取った岡部忠澄
同族) で本領も隣接している。
猪俣党は前九年と後三年の役が起きた1050年当時から源氏の郎党として従軍していた。
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西暦1184年
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81代 安徳天皇
82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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元暦元年
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8月19日 乙亥
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吾妻鏡
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絵師の下総権守為久 (頼朝が正観音絵像を描かせた絵師。4月18日の記事を参照) が京に向かった。頼朝は鞍を置いた馬などの餞別を与えた。
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西暦1184年
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81代 安徳天皇
82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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元暦元年
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8月20日 丙子
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吾妻鏡
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大江広元の安芸国司職および 木曽義仲の祈祷師だった掃部頭 安倍季弘朝臣(陰陽師安倍晴明の子孫で 安倍泰親 (Wiki) の息子)の官職を停止する二件を京都朝廷に申し入れた。
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西暦1184年
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81代 安徳天皇
82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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寿永三年
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8月 21日 丁丑
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玉 葉
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伝聞では、頼朝は鎌倉を出発して木瀬川 (伊豆と駿河の境、黄瀬川) に入り暫く逗留するらしい。飛脚を送り、「急いでの上洛を避け、参河守範頼 (蒲冠者) に大軍を与えて上洛させ、楽内に逗留せず直ちに四国に向かえとの命令を与えた。」と。
また荒聖人 文覚を介して摂政の 近衛基通が平氏一族の妻 (清盛の六女) の都落ちを強要せず京に留まるなどの行為を繰り返している。実に不遜だが獄にある 義朝の首を鎌倉に運ぶよう命令された経緯は無視し難い。
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西暦1184年
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81代 安徳天皇
82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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元暦元年
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8月 23日 己卯
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玉 葉
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伝聞、 (摂政の) 近衛基通が頼朝を聟に迎えるとか。これは法皇の発案で五條亭を修理して住居にする、と。
頼朝上洛した際に新妻を迎える計画らしい。
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西暦1184年
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81代 安徳天皇
82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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元暦元年
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8月24日 庚辰
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吾妻鏡
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(公文書の管理などを担当する)公文所を新たに設置した。
今日上棟式を行ない、三善康信 (法名善信) と 藤原 (二階堂) 行政がこれを差配した。
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西暦1184年
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81代 安徳天皇
82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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元暦元年
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8月26日 壬午
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吾妻鏡
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義経の飛脚が到着して報告。去る10日に平信兼の子息 左衛門尉兼衡、次郎信衡、三郎兼時を宿館に呼んで殺した。同11日に信兼の官職を解く宣旨があった、と。
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   ※義経の宿館: 代々の源氏が使っていた六条堀川館か、六条室町
亭だろうか。翌年の10月には頼朝の命令を受けた土佐坊昌俊が義経夜討ちを狙った場所だ。
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しかし三日平氏の乱の時点で自分らの危機も予測できた筈なのに殺されるために出頭したのか?
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右は六条堀河館にあった左女牛井 (さめがい) の跡 (地図) 。
    画像をクリック→ 別窓で拡大表示

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近くには 頼義石清水八幡宮 を勧請した若宮八幡宮 (伝、八幡太郎義家 誕生の地、地図) や、少し北には頼義が前九年の役で殺した敵から切り取った片耳を乾かして持ち帰り埋葬した「耳能堂」(現在の簑和堂か、地図) などが点在している。
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西暦1184年
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81代 安徳天皇
82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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元暦元年
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8月28日 甲申
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吾妻鏡
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新設の公文所に門が建てられた。大江広元三善康信足立遠元、筑前孝尚らが立ち会い、大庭景義の手配により酒が勧められた。
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   ※筑前孝尚: 宗掃部允孝尚の呼称で、建暦元年 (1211) に「隠し田を所有した嫌疑」を受け、無実だった
が確認と報告の命令を怠ったとして訓告を受けている。
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掃部允は掃除や調度などを担当する宮内省の実務職員で官位は従七位下、素性は判らないが武士ではないらしい。頼朝の乳母の一人 比企の尼の夫も比企郡司で掃部允だった。
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西暦1184年
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81代 安徳天皇
82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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元暦元年
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9月 2日 戊子
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吾妻鏡
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   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
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範頼の軍勢に加わるよう命令を受けた 小山朝政が西海に向け出発した。 彼の官職については兵衛尉(左右のどちらでも)を望んでいる、と。
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   ※兵衛尉: 律令制による兵衛府の四等官 (督、佐、尉、志) の第三位。兵衛府 (唐名は武衛) は六衛府
(兵衛府、近衛府、衛門府で、各 左右がある) の一つ、本来は天皇および皇族の護衛などを担当する部署だが平安末期には私兵など曖昧な使われ方が増えている。
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平治の乱直前の頼朝は右兵衛権佐で、「佐どの、武衛」の呼称はここから発生している。
兵衛尉は七位相当の官職で平安末期には左右に各25名、名誉ある肩書と考える武士も多かったらしい。旧日本軍や自衛隊の佐官や尉官などはここから転用してるんだね。
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西暦1184年
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81代 安徳天皇
82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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元暦元年
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9月 9日 乙未
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吾妻鏡
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(伊勢で討った)平信兼ら平氏の所有だった京都の家屋敷は義経が管理せよ、と頼朝が指示書を発行した。
その内容は、「没収した平家の所領のうち京都の家屋敷は措置が未決なので武士の側が一ヶ所でも処理してはならず、院の裁定に拠る。信兼の家屋敷については義経が管理せよ」、と。
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西暦1184年
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81代 安徳天皇
82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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元暦元年
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9月12日 戊戌
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吾妻鏡
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範頼が今月一日に派遣した使者が本日到着し書状を提出。27日に入洛し、29日に平家追討使の公文書を受け取った。本日 (10月1日) 西海に向けて出陣する、と。
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西暦1184年
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81代 安徳天皇
82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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元暦元年
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9月14日 庚子
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吾妻鏡
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河越重頼の娘が京へ出発、上洛して 義経に嫁すためで、頼朝の指示により兼ねて約束したものである。
重頼の家人 (血縁者) 2人と郎従 30余人がこれに従った。
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   ※河越重頼: 久寿二年 (1155) 8月の 大蔵合戦木曽義仲の父親
帯刀先生義賢と共に 悪源太義平が殺した秩父氏の棟梁 秩父重隆 (武蔵国留守所 総検校職) の嫡孫で、妻は 比企の尼の二女。
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大蔵を追われた重隆の嫡子 能隆が 武蔵国 河越に土着し開発した所領を 後白河法皇に寄進して河越荘を立荘、息子の重頼が武蔵国留守所総検校職 (国司を代行する名誉職) を継承した。
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文治元年 (1185) に頼朝と義経の対立が深刻化するに伴って舅の重頼も排斥され、同年12月5日には嫡男重房と共に誅殺された。この時には重頼の娘婿の 下川辺政義も連座して所領没収の憂き目に会っている (後に復権) 。武蔵国留守所総検校職は 畠山重忠 が継承した。
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義経に嫁した重頼の娘 (郷御前、京姫) は 4歳の娘と共に、平泉で義経に殉じている。
義経の滅亡については 平泉高館と金鶏山 を参照されたし。まだ5年も先の話だけどね。
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右画像は川越市の養寿院に残る重頼の墓所。クリック→ 河越荘の紹介 (別窓) へ。
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西暦1184年
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81代 安徳天皇
82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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元暦元年
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9月17日 癸卯
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吾妻鏡
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相模国大山寺が所有する免税 (収穫に課す税以外) の水田五町と畑八町は先例通りとする決裁があった。
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   ※大山寺: 明治初期の神仏判然令から 大山阿夫利神社大山寺 (共に公式サイト) に分かれている。
中腹の下社駐車場から市営第二駐車場までは約1km、ケーブル駅までは更に徒歩500m→ 大山寺まではケーブルひと駅、阿夫利神社まではケーブル駅から徒歩500m、 地図 を参考に。
見晴台までは更に徒歩60分が必要になる。
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西暦1184年
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81代 安徳天皇
82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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元暦元年
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9月19日 乙巳
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吾妻鏡
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一ノ谷合戦に敗れた平氏は西海に逃れ、その国々を占領し略奪している。これを攻撃するため 橘次公業 を一方の先陣として讃岐国の武士を集め、従う者の名簿を取り纏めて提出するよう指示が下った。橘次公業の指揮下に入り軍功を挙げよ、と。屋島の平氏を見限って上洛し源氏に従う武士の姓名は次の通り。
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籐大夫資光、子息 新大夫資重、同 新大夫能資、籐次郎大夫重次、舎弟六郎長資、籐新大夫光高、三野郎大夫高包、橘大夫盛資、三野首領盛資、仲行事貞房、三野九郎有忠、三野首領太郎、同次郎、大麻籐太の家人、
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西暦1184年
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81代 安徳天皇
82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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元暦元年
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9月20日 丙午
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吾妻鏡
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玉井四郎資重の乱行に関する院宣 (下記) が鎌倉に届いた。頼朝は恐縮し直ちに中止させる指示を出した。
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丹波国一宮出雲社は飯盛法師が預かり管理している蓮華王院の所領で、地頭を称する者など居る筈がない。にも関わらず鎌倉の下文ありと称して玉井四郎資重が押領を行っているのは理屈が通らない。この乱行を早急に停止せよとの内容が院の意向である。  八月三十日   右衛門権佐    兵衛権佐殿
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   ※玉井資重: 熊谷市西部 (斎藤実盛が庄司を務めた長井荘の南西部) の玉井郷 (地図) を本領とした武士。
平家物語 小宰相の段は「近江国住人佐々木三郎成綱と武蔵国住人玉井四郎助景 (資重?) が平通盛を討った」と書いている。
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   ※蓮華王院: 今はその一部が残っている三十三間堂。所領の出雲社 (亀岡市の丹波国分寺跡近く、地図)
後白河法皇の私領とされている。
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西暦1184年
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81代 安徳天皇
82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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元暦元年
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9月28日 甲寅
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吾妻鏡
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去る五日に (陰陽師の安倍) 季弘朝臣を解官したとの通知が院から届いた、と義経が書状で報告。
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   ※安倍季弘の解任: 義仲の祈祷師を務めた人物のため、8月20日に鎌倉が解任を求めていた。
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西暦1184年
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81代 安徳天皇
82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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元暦元年
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10月 6日 辛酉
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吾妻鏡
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未の刻 (14時前後) に新造の公文所で吉書始めが行われ、大江広元が別当 (長官) として着座した。
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次官に 中原親能、他に 藤原 (二階堂) 行政足立遠元、甲斐四郎秋家籘判官代 (藤原) 邦通らが実務担当として集まり、邦通がまず吉書をしたためて頼朝に披露した。次に相模国の寺社の所領や所有物などを確認し、頼朝が加わって宴となった。千葉常胤が祝賀として頼朝に神馬一頭、他の者には野劔一振を献じた。
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   ※吉書始め: 公館の開設や新年の仕事始めに縁起の良い文章を書いてスタートとする。
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   ※甲斐秋家: 武田 (一條) 忠頼の遺臣で舞の名手、6月18日に記載あり。
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   ※野劔: 実戦用の野太刀は刃長が三尺 (90cm) 以上で刃が厚く頑丈に造られたものだが これは平安後期
には現れていない。野劔は儀仗に対する兵仗 (実戦) を表す筈だが、私の知識はそこまで。
所詮は専門知識の不足で判らない (笑) 。まぁ大した問題じゃないけどさ。
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西暦1184年
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81代 安徳天皇
82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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元暦元年
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10月12日 丁卯
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吾妻鏡
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範頼頼朝の指示を受け、安芸国 (広島県西部) で勲功を挙げた者に恩賞を与えた。当国の住人 山方介為綱の働きが顕著だったため特に賞した。
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   ※山方介為綱: 寿永二年 (1182) に壬生荘に下向し 津久羅山 (北広島町、地図) に居館を設けて安芸山県氏
の祖になったと伝わるが、出自の詳細などは判らない。
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西暦1184年
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81代 安徳天皇
82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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元暦元年
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10月15日 庚午
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吾妻鏡
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辰の刻 (20時前後) に地震あり。頼朝は山の紅葉を愛でて散策、八幡宮別当の 圓暁が同道していた。
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   ※別当圓暁: 初代別当で、次は尊暁 (圓暁の弟) → 定暁公暁実朝を斬殺)→ 慶幸と続き (ここまでが
園城寺 (三井寺) 系) 、六代目から東寺系の 定豪→ 定雅→ 定親、次の九代目が 再び園城寺系の 隆弁となる。隆弁は公暁による実朝殺害により幕府の後援を失なって苦境に陥った園城寺の復興を生涯の夢と考えていた。
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西暦1184年
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81代 安徳天皇
82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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元暦元年
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10月20日 乙亥
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吾妻鏡
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訴訟の裁決に関して、藤原俊兼平盛時を立ち合わせて双方の言い分を聴き、記録を残して決裁すべき旨を 三善康信 に指示した。御所東側の二間を利用して問注所と名付けて額を掲示した。
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   ※問注所: 初代執事は京下りの実務官僚三善康信が任命され、
室町時代まで三善一族が世襲している。
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当初は御所内にあった問注所は訴訟と論争の騒々しさに辟易した 頼朝が建久三年 (1192) に起きる 熊谷直実 vs 久下直光所領の継承権論争を契機にして康信邸に仮移転させていた。
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更に頼朝死没直後の建久十年 (1199) 4月には鎌倉駅西の今小路沿いに新庁舎を設置しており、現在は信号の横 (地図) 問注所跡の碑 が建っている。
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    右画像をクリック→ 別窓で拡大表示
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門注所の南には刑場に向かう罪人が渡った佐助川に架かる 裁許橋、更に刑場の跡と伝わる飢渇畠 (けかちはたけ、この辺らしい)があった。
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刑場が腰越や龍ノ口、南北朝時代には葛原岡などに移転した後も、刑死者の怨念で作物が実らないとか誰も耕作しないとかの話が残っていたという。
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後に「飢渇畠碑」と 死罪になった罪人の後生を弔った 六地蔵 (右画像、クリック→ 別窓で拡大) は 今小路の拡巾整備工事のため (飢渇畠の碑と共に) 由比ヶ浜大通りの交差点 (現在地、地図) に移設された。
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水戸光圀が編纂した新編鎌倉志の記述。
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昔より刑罰の所にて 罪人をさらし斬戮する地なり。
故に耕作せず飢渇畠と名づく。
   ここまで来たら少し足を伸ばして 和田塚も見学しよう。
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西暦1184年
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81代 安徳天皇
82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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元暦元年
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10月24日 己卯
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吾妻鏡
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(9月18日に因幡守に任じた) 大江広元が報告。同じ 18日に義経が叙留し、今月11日に院内 (院と内裏) 昇殿を許された。八葉の車 (参考画像) に乗り衛府三人と騎馬の共侍20人を従えて昇殿の儀式に臨んだ、と。
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   ※叙留: 官職は変わらず官位のみ昇ること。義経は検非違使尉のまま正六位上から従五位下に昇った。
五位から昇殿許可の対象になるため、特に東国武士には栄光のシンボルだったらしい。
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西暦1184年
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81代 安徳天皇
82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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元暦元年
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10月27日 壬午
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吾妻鏡
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淡路国の広田庄は去る4月26日に広田神社に寄進した場所だが、梶原景時が平家追討のために駐留しており、郎従が押し入って業務を妨げている旨の抗議が神祇伯の仲資王を経由して届いた。寄進の件に変更はないため景時に指示すると共にその内容を仲資王に書き送った。(場所などの詳細は4月26日の記事を参照)
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西暦1184年
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81代 安徳天皇
82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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元暦元年
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10月28日 癸未
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吾妻鏡
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石清水八幡宮 (公式サイト) の成清別当に依頼された二件を右筆 藤原俊兼に命じて大蔵卿 (院近臣の 高階泰経) に申し入れた。八幡宮内の弥勒寺荘園と 別院の宝塔院荘園の件、従来通りの好意的な処遇を願う内容である。
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西暦1184年
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81代 安徳天皇
82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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元暦元年
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11月 6日 辛卯
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吾妻鏡
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頼朝も出席して鶴岡八幡宮で神楽があり、終了後に別当 圓暁の房に招かれた。圓暁は京から呼び寄せた稚児 (惣持王と称す) に酌をさせて酒を楽しみ、惣持王の横笛に併せて 梶原景時の二男 平次景高が歌い、また 畠山重忠 が今様を歌った。頼朝は存分に楽しみ、夜になってから御所に帰った。
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西暦1184年
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81代 安徳天皇
82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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元暦元年
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11月12日 丁酉
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吾妻鏡
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常陸国の住人らを御家人とし、その立場を弁えよとの指示を与えた。
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   ※常陸国の住人: 直近の事件では8月13日に常陸国奥郡の武士が鹿島神宮と紛争を起した件がある。
在地武士の本宅を安堵して御家人と認め、規律に従うよう求めたのだろう。
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   ※本宅安堵: 頼朝が早期に支配権を確立した東国 (相模、武蔵、下野、上野、伊豆、下総、上総、安房
など) の武士は大部分が合戦などで協力し、頼朝の 本領安堵 を受けて御家人となった。
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それ以外の地域での 「本領安堵」 は荘園領主や国司の権限だったため 「本宅安堵」 によって領主や国司の権限を侵害せずに在地武士への支配権を確保したらしい。
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西暦1184年
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81代 安徳天皇
82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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元暦元年
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11月14日 己亥
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吾妻鏡
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宇都宮朝綱小野成綱など、西国に新たな所領を得た武士は多い。その詳細を把握して処遇せよとの指示書を 義経の元に送った。
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   ※小野成綱: 吉野川中流、現在の吉野川市川島町一帯 (地図) の麻殖保を得た武士。まだ平家の支配下に
あるため、合戦を通じて実力で奪い取れ、という事だろう。
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西暦1184年
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81代 安徳天皇
82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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元暦元年
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11月21日 丙午
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吾妻鏡
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頼朝はある思いから筑後権守俊兼を呼び出した。元より華美を好む人物で、装いを凝らして重ねた小袖十余枚が袖口を鮮やかに彩っていた。頼朝は俊兼の刀を取り、小袖の袖口を切り裂いて俊兼を問い詰めた。
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お前は才能のある男なのに倹約を弁えていない。千葉常胤土肥実平 は清濁を知らぬ (美しさを見分けられぬ) 武士だが多くの所領にも関わらず衣服も質素で華美を好まぬ故に裕福、多くの家臣を養い勲功を重ねようと考えている。財を費やす術を知らぬお前は分に過ぎている、今後は華美を慎むか。
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俊兼は平伏し二度と同じ過ちをしない旨を答えた。同席しただけの 大江広元 と判官代 藤原邦通も震え上がるような状態だった。
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西暦1184年
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81代 安徳天皇
82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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元暦元年
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11月23日 戊申
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吾妻鏡
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園城寺の専当法師が到着し、衆徒からの申し入れ書を提出。頼朝は直ちに専当法師を御前に招き、大江広元 に書状を読ませた。 (内容概略は以下)
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平家から没収した所領を園城寺に寄進し、寺と仏法の隆盛に寄与して欲しい。
以仁王頼政を助けて祈祷をしたなどが原因で 清盛の暴虐を受けて多くの堂宇を焼失し、死者や離散者は千人を越える。園城寺は窮乏状態にあり、末寺の荘園なども武士の略奪に苦しんでいる。
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園城寺は源氏の援助によって繁栄し、源氏の平穏は園城寺の祈りによって報われる。仏法を犯せば洛中が乱れ、仏法に帰依すれば天下に平和が訪れる。云々...
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          寺主法師、大法師、権僧正和尚、阿闍梨大法師 などの署名と捺印
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西暦1184年
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81代 安徳天皇
82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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元暦元年
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11月26日 辛亥
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吾妻鏡
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頼朝は鎌倉に新たな寺を建立するため適した土地を求め、御所の東南に霊地を見出して堂宇造営を計画した。父 義朝 の菩提を弔うのが願いである。京での大嘗祭が済んでから地鎮祭を始めようと決めていたところ、先月の25日に 義経が出席して儀式が終ったとの知らせがあり、今日 犯土 (地鎮祭) を催した。
大江広元 と筑後権守藤原俊兼が差配し、頼朝も臨席した。
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   ※新たな寺: 既に廃寺となって久しく、今では痕跡も見えない 勝長寿院 (南御堂) を差す。
鎌倉入りして最初に建てた鶴岡八幡宮、奥州平泉の二階大堂 (中尊寺毛越寺無量光院などを参照) を模して建立した永福寺 (発掘調査サイト、外部リンク) と並んで頼朝が手掛けた三つの巨大な寺社の一つである。
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   ※大嘗祭: 天皇が即位の礼の後に初めて催す新嘗祭 (収穫を謝する祭紀) 。
今回は前年の8月20日に即位した 後鳥羽天皇 として最初の新嘗祭になる。
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西暦1184年
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81代 安徳天皇
82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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元暦元年
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12月 1日 丙辰
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吾妻鏡
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頼朝は園城寺の使者を招き、書状二通を前兵衛佐の署名を入れて託した。
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1.平家旧領で院から預っている若狭国玉置の一部を仏法隆盛のため寄進し、下司職は鎌倉が手配する。
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2.寺の荒廃は兼ねて心に留めていた事なので特に問題のない旧寺領の二ヶ所(近江国横山、若狭国玉置領)
に関し、書類を添えて寄進する。世間が落ち着けば重ねて手配するつもりでいる事も承知願いたい。
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   ※書状二通: 内容は概ね同一、文面で判断すると前者は事務的
な連絡で後者は私信に近いようだ。
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   ※若狭玉置荘: 下賀茂神社の所有と読んだ記憶あり (地図)。
「その一部」という事か。
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   ※近江国横山: 名神蒲生インターに近い現在の横山町 (地図) 。
20年も前に訪問した 石塔寺 (観光サイト) 近くにある。あの時は一面の雪で、絶妙の風景を撮影した画像が全て行方不明になってしまった。雪の石塔寺なんて滅多に会えないのにねぇ...今でも夢に見る程、本当に痛恨のミスだった。 右画像をクリック→ 別窓で拡大表示
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西暦1184年
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81代 安徳天皇
82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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元暦元年
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12月 2日 丁巳
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吾妻鏡
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頼朝は葦毛の馬一頭を 佐々木盛綱 (秀義 の三男) に与えた。平家追討のため西海で転戦しているのだが乗馬がない旨を言上してきたため雑色に命じて送ったものである。
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   ※西海で転戦: 盛綱は12月7日に備前国児島で 藤戸の合戦 に加わっている。2日の手配では7日の合戦に
間に合わないから、盛綱は既に乗馬を確保したのだろう。指揮官クラスの武将が徒歩で戦う筈ないし。
この頃の頼朝は挙兵以来の武士を再三気遣っている。好き嫌いもかなり多いけど。
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西暦1184年
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81代 安徳天皇
82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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元暦元年
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12月 3日 戊午
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吾妻鏡
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園城寺の専当法師が京への帰途についた。かねて園城寺に帰依している 北條時政は慇懃な書状を書き寺に関する措置に配慮するよう (京都守護の) 義経 に伝えた。
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   ※園城寺に帰依: 園城寺 (三井寺) はもちろん天台宗(正確には天台寺門宗)の大本山。元暦元年に
時政が帰依していたのなら文治ニ年 (1186) に造仏を始めた韮山の 願成就院も創建当初は天台宗だった筈だが、現在は高野山真言宗、改宗した時代は判らない。
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お寺さんて (節操の有無は別にして) 宗派を変える例が結構多い。改宗なんてそれまでの自分が愚かだったと言ってるのと同じだろうに。
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西暦1184年
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81代 安徳天皇
82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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元暦元年
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12月 7日 壬戌
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吾妻鏡
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平行盛 (清盛の二男基盛の嫡子) は 500余騎の軍兵を率いて備前児島に布陣、佐々木三郎盛綱は頼朝の代理として行盛を攻め落とそうとしたが入江に遮られて舟を確保できず、浜の干潟に馬を留めた。行盛が頻りに挑発するため思い切って乗馬のまま瀬戸の入江三町余り ( 300m以上) を渡りきった。従うのは郎従 6騎 (志賀九郎、熊谷四郎、高山三郎、與野太郎、橘三、橘五) 、上陸して行盛を追い落した。 (詳細は12月2日のリンク先で)
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   ※備前児島: 鎌倉末期から南北朝時代にかけて活躍した児島高徳の本領とも言われているが、伝説上の
人物説もあって判然としない。新田義貞の弟 脇屋義助関連で 児島高徳の墓所 高徳寺 (別窓) を載せて置いた。ガセネタの可能性はあるが、興味があれば御覧あれ。
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   吾妻鏡の原本には「藤戸の合戦」として元暦二年 (1185年) に記載されている。
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西暦1184年
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81代 安徳天皇
82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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元暦元年
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12月16日 辛未
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吾妻鏡
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   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
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吉備津宮 (公式サイト) の神官が鎌倉に参着、供僧 行実が書状を提出した。神社所有の田畑のうち祈祷などの費用として税を免じられた部分まで合戦により奪われている。関東の命令で本来の状態に戻して欲しい、と。頼朝は詳細を確認し処理するよう、備前国で転戦中の 土肥実平宛に受け取った書状を添えて発送した。
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   ※供僧: 簡単に表現すると、神仏習合時代は神宮寺 (別当寺) が神社の上位にあり、寺の別当や検校が
神社を統括し神官を支配する立場にあった。同行して来た僧の職位は不明だが代表格だろう。
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西暦1184年
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81代 安徳天皇
82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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元暦元年
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12月20日 乙亥
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吾妻鏡
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今日、義経の返状が京都から到着。西国に所領を与えられた御家人については指示に従って処理する、と。
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西暦1184年
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81代 安徳天皇
82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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元暦元年
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12月24日 己卯
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吾妻鏡
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公文所大江広元 の指示により雑仕女 (雑用などを処理する下級女官) 三人を採用した。
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   ※公文所: 幕府の一般政務と財政を担当。建久元年 (1190) に
頼朝が従二位に叙されて以後は朝廷の慣例に従って政所と改称した。
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2010年頃に源氏池横の路地を隔てた空き地に保育園を開設する計画があり発掘調査により政所跡と確認された。
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結局近隣住民の反対で保育園計画は白紙になり、鎌倉街道に面した「あおば薬局」の出窓の左下に「鎌倉幕府 政所跡」の小さなプレートが設置されて騒ぎは一段落した。
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実際の政所は広い範囲を占めていた、と推定されている。
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  右画像をクリック→別窓で拡大表示。
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西暦1184年
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81代 安徳天皇
82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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元暦元年
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12月25日 庚辰
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吾妻鏡
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鹿島社の神主中臣親広と親盛が招きによって御所に参上し金銀の贈与を受けた。同時に、寄進した領地は地頭の関与を受けず全てを神主が管理せよとの指示も与えられた。
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日頃の祈祷などで今春から神慮が明らかになり 義仲が滅亡、宗盛もまた一ノ谷で敗れて四国に逃げた。
このため頼朝の信仰心が益々募ってこの結果になったものである。
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西暦1184年
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81代 安徳天皇
82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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元暦元年
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12月26日 辛巳
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吾妻鏡
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佐々木盛綱が騎馬で備前国兒島に渡り平行盛を撃ち破った件、今日感状を以て褒める言葉を送った。昔から馬で渡河した話は多いが馬で海を渡る話は聞かぬ、類まれな吉兆である、と。
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西暦1184年
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81代 安徳天皇
82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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元暦元年
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12月29日 甲申
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吾妻鏡
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常陸国鹿島社の神官良景の所領について、通例に従って万難事 (収穫に課す正規の年貢以外の労働提供など) を停止せよとの指示があった。
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西暦1184年
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81代 安徳天皇
82代 後鳥羽天皇
後白河法皇
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元暦元年
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 月 日
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吾妻鏡
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